カテゴリー「関連の書籍」の52件の記事

2008年4月27日 (日)

直木賞事典 国文学 解釈と鑑賞 昭和52年/1977年6月臨時増刊号

 まる1年間ひたすら歩いてまいりました。これで52冊目です。ぐるり回りまわって結局、キホンに帰ってきました。直木賞の基礎資料として、いまだにナンバー1の不動の座を維持しているのが、文藝春秋の本じゃなくて、至文堂の本だっつうのも、何だか妙なハナシですが。

080427w170『直木賞事典 国文学 解釈と鑑賞 昭和52年/1977年6月臨時増刊号』(昭和52年/1977年6月・至文堂刊)

 そうです、端から端まで直木賞のことだらけ、しかもエラくまじめに、直木賞を斬ろうとして、時にうまくいき、時に失敗している内容はともかく、ええい、こんな本がそれまであっただろうか。と、当時の直木賞研究家たちが涙を流し、こぞって新宿の至文堂を訪れ、玄関の前で感謝の声をあげる光景が数か月間は見られた、という伝説が残っているほどです。おお、空前。しかしながら、かなしいかな絶後。

 文学研究の世界では、そりゃあ、純文学と大衆文学のこととか、文学賞やジャーナリズムのこととか、そんな切り口は、コツコツと積み上げられていました。しかし、“芥川賞”のハナシを抜きにして、直木賞だけを語る文学研究なんて、ふつうのアカデミック人は、やりません。見向きもしません。

 だから、『国文学 解釈と鑑賞』が昭和52年/1977年に「芥川賞事典」を出したこと、この行動はおおむね理解できます。しかしねえ、いくら兄弟賞だからって、「直木賞事典」まで出しますか、ふつう。

 そんな偉業、はたまた暴挙をやってのけた、制作担当の金内清次さん、編集代表の長谷川泉さんには、大いに賞讃の拍手を送りたいと思います。ありがとうありがとう。……ところで、ハセガワ・イズミって、どなた?

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2008年4月20日 (日)

本屋でぼくの本を見た 作家デビュー物語

 だれか特定の一人の作家を、一生涯追いかける、そんな情熱を自分が持てたらよかったのになあ、と思うことありませんか。ワタクシはあります。“直木賞”みたいな、ヌエそのものの、とらえどころのない研究対象を必死に追いかけている合間なんかに、ふと。

080420w170『本屋でぼくの本を見た 作家デビュー物語』新刊ニュース編集部・編(平成8年/1996年10月・メディアパル刊)

 62人の作家たちが、自分のデビュー作のこと、その生まれた背景やら、発表までのいきさつやらを、それぞれ3~4ページ程度の短いエッセイに書いています。収められているのは、エンタメ作家だけでなく、石坂啓さんとか、鎌田慧さん、高井有一さん、矢口高雄さん、その他幅広く顔を並べていまして、この本を通読していったいどんな感想を持てばいいのやら、迷うばかりです。

 もし一人の作家だけを執念深く追っているのだとしたら。本書のような本に、その作家が登場するだけで幸せな気分になり、たとえそれが短い文章でも、かじりつくように読めるのでしょう。しかし、こちとら、そうも参りません。

 とはいえ、作家のデビューだけに着目してみれば、また違った世界が開けてくるかも。たとえば、明治・大正・昭和・平成と時系列で分析してみたら、“昔は同人誌、今は懸賞当選”みたいな、大ざっぱすぎて、にわかに信じがたい傾向分析以上のものが、かならずや見えてくると思います。けど、今のワタクシは手をつけません。

 まあ、ここは手堅く、直木賞を軸に見ていきますか。

 本書に登場する直木賞受賞作家、候補作家は全部で21人。デビュー作(ってこの定義も、受け取る人によってマチマチですけど)が、直木賞の場で取り上げられるのって、多くはないけど、必ずしも少なくはありません。直木賞は“新人賞”と言われることもあるけど、大して“新人賞性”なんてないんだぜ、とけっこう言われます。しかしまあ、よく見てみりゃ、案外べっとりと蓋の裏のほうに、残っているもんです。

 ほら、たとえば、札幌の広告会社に勤めていた当時39歳のOL、熊谷政江さんの場合。

「中編二作をおさめた「マドンナのごとく」が発刊されたのは、一九八八年の五月十五日だった。発売元の講談社から私用にと二十冊ほどいただいた。

(引用者中略)

「これ、私の一生に一度の記念よ。トシを取ったら、この本を持って老人ホームに入居してね、で、うんとイバって自慢するの。若い頃にこうして本も出版したことがあるんだって。」」

 おそらく、熊谷さん、筆名・藤堂志津子さんの人生を変えたのは、直木賞です。

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2008年4月13日 (日)

展 第三号 特集「大池唯雄・濱田隼雄 郷土に生きる」

 東北楽天ゴールデンイーグルス、祝・本拠地8連勝。まあ仮に、本拠地を西においていたとして、この球団の性格が今とちがったものになっていたかは、ちょっと疑問ですが。でも、たとえば仙台にあるというそれだけのことで強烈に支持したくなる気持ちがわいてくるのも事実です。郷土性ってやつは不思議なもんです。

080413w170 『展 第三号 特集「大池唯雄・濱田隼雄 郷土に生きる」』(昭和57年/1982年10月・明窓社刊)

 世の中にはきっと、伊坂幸太郎と仙台、ってテーマだけで俺は三日三晩語れるぞ、と豪語するツワモノがおられることでしょう。熊谷達也と仙台、ってテーマでも、何人かはいそうです。さらに歴史をたどりたどって、昭和10年代にはじめて東北人で直木賞をとったのも仙台の人、でもワタクシは大池唯雄と仙台、ってテーマで何時間も語れるほどのネタは持っていません。

 そこで、仙台市で出ていた同人誌『展』のお力を借りまして、今日は、生粋の仙台人・大池唯雄さんのおハナシと行きましょう。

「大池唯雄には地方に住んでいる作家という特色があった。彼の力量を評価した大佛次郎山本周五郎は再三、中央へ出るようすすめたが、土着の作家で終った。それだけに中央と地方の問題が念頭にあり、もし彼に劣等感のようなものがあったとすれば、純文学と大衆文学、中央と地方といった問題で、それが均等の相対関係でなく、その二つの落差の中に存在していたことだろう。」(工藤幸一「大池唯雄と歴史小説」より)

 まさに。そして、逆からの視点、要は戦前の“東京文壇の大衆小説陣営”から見てみれば、大池さんの書くような、ずっぽり地方色で染まったガチガチの歴史小説を、果たして直木賞として引っ張り上げるべきかどうか、っていうなかなか難しい問題が浮き上がってくるわけです。

 このヤヤこしい話を考えていくときに、おっと、ぼくらの身近に、比較するのにふさわしい対照的な作家とその現象があるじゃないですか。“伊坂幸太郎”という、恰好のネタが。

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2008年4月 6日 (日)

小説家

 生活のために、あるときから大衆向け小説へ大きく舵を切った人……とはいえ中村武羅夫とか加藤武雄みたいに、“芸術性文学”への未練タラタラみたいなものが、まったくないところが、サッパリしていて気持ちいいなあ。

080406w170 『小説家』勝目梓(平成18年/2006年10月・講談社刊)

 “自伝的小説”なんだそうで、どこまで事実を写したものかは不明です。でも、芥川賞も直木賞も出てきます。スルーするわけにはいきますまい。

 勝目梓さんは、昭和50年代後半から始まった怒濤のバイオレンスの洪水とは、ほとんど関係のない昭和40年代前半に、第58回(昭和42年/1967年・下半期)芥川賞、第61回(昭和44年/1969年・上半期)直木賞で、こっそりと候補になっています。このころを本書では、こんなふうに総括しています。

「彼の三十二歳から四十代後半あたりまでの、およそ十五年間の人生の軌跡は、迷妄の波に翻弄されて漂流する難破船さながらの有様を示している。年代でいえば昭和三十九年(一九六四年)から、昭和五十四年(一九七九年)までの時期である。

 三十二歳ではじめられた彼の文学修業は、その後の五年間のうちに芥川賞や直木賞の候補にあがるなどして、一応は順調に成果を見せてはいた。しかし彼の内心には、自分の文学活動の前途に対する不安がすでに芽生えていた。それは、書くに価するだけの文学的な意味のあるテーマが、自分の中にはないのではないか、といった疑問が根ざした不安だった。」

 直木賞候補になった「花を掲げて」は、純文芸誌『文學界』に載ったものです。これはやはり、その1年半前に『文藝首都』掲載の「マイ・カアニヴァル」が、ひょっこり芥川賞候補に挙げられたことの延長線上、つけたしみたいな出来事と見てよさそうです。きっと当時のご本人は、自分が芥川賞よりも直木賞向きであるとは、自覚されていなかったでしょう。しかしそのときすでに、文春の中には、この人は大衆向けの作家になり得る、ととらえた編集者がいたわけで、今思うと、ふうむ、なかなか鋭い候補選出だったんですね。

 昭和40年代~50年代の(株)文藝春秋編集陣の批評眼が、キラリと光っているなあと思わされるのは、こういう候補に出くわしたときだったりします。

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2008年3月30日 (日)

思い出の時代作家たち

 この本は、タイトルでかなり損をしています。いや、少なくともワタクシは損をした気分になりました。だって、この題名なら、枯れ果てた“過去の人”が、関わりのあった時代作家のことを淡々と回想する本、だと誰でも思うじゃないですか。違います。第1回第32回ごろの直木賞のことと、受賞作家・候補作家・選考委員のことについて語られる、堂々たる直木賞裏面史です。ああ、もっと早く読めばよかった。

080330w170 『思い出の時代作家たち』村上元三(平成7年/1995年3月・文藝春秋刊)

 初出は『オール讀物』連載。ってことで直木賞のことを悪しざまに描いているような記述はありません。でも、発表当時すでに80歳を過ぎていた重鎮の村上元三さん、いさめる人もなく、語り口に遠慮がありません。え、そんなこと書いちゃってだいじょうぶ? といった記述に出くわすことしばしば。真っ裸になった正直なお年寄りってのは、いやあ、怖い。そして面白く、頼もしい。

 たとえば、直木賞じゃなくて、芥川賞の関連作家を追っている人なんかも、もしかしてワクワクして読めるんじゃないでしょうか。こんな記述なんか、とくに。

(引用者注:戦時中、海軍報道班員だった)わたしといっしょに南方へ行っていた作家は、帰還してから、わたしのところへ金を借りにきた。生易しい金額ではないし、その作家はいわゆる純文学の畑の農民作家だが、戦地で生死を共にした仲だけに、返してくれとは言わずに金を渡した。それきりどちらも無沙汰で過ぎたが、ある日、新聞を見て、びっくりした。その作家が、北朝鮮の板門店から韓国についての所感を書いている。(引用者中略)つい数ヶ月前までわたしといっしょに日本の海軍の世話になり、いろいろ海軍のことを賞めていたのに、北朝鮮へ渡って向うのことを賞めるとは、変り身の早いこと、驚き入った。こういう例は、ほかにもあるかも知らないが、文学をやっている人の例では知らない。

 評論家の中島健蔵にその話をしたら、呆れ返ったように言った。

「知らなかったのか、あの男は文壇での嫌われ者でね、好きな奴はだれもいなかったろうな。そういう作家を嘱託にするとは、わが国の海軍もずぼらだったんだね。」」(「安保騒動」より)

 “好きな奴はだれもいなかったろう”などと大胆に切り捨てられたその作家、実名を隠して書いているのは、武士の情けですか。と思いきや村上さん、それより前の「海軍爆撃機」の項では、報道班員の同行作家の一人を、こんなふうに紹介しています。

「羽田から新顔が一人、加わってきた。

 農民文学をやっている間宮茂輔という作家で、わたしたちとは初対面だが、ひどく無表情な人で、」

 章を超えて、実名と匿名とを使い分ける名誉毀損スレスレの術。これって村上さんの計算ですか、はたまた天然ですか。

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2008年3月23日 (日)

花にあらしのたとえもあるぞ 辻平一の八十年

 だいたい大衆小説をここまで発展させた真の功労者はいったい誰だい。直木賞なんぞが生まれるもっと前から、丁寧に新人を発掘して、しかもそんな作家を育て上げようと努力してた大阪毎日、『サンデー毎日』、千葉亀雄じゃないかね、ね、そうでしょ。

080323w170 『花にあらしのたとえもあるぞ 辻平一の八十年』辻一郎編(昭和57年/1982年8月・辻一郎刊)

 でさあ、千葉さんの跡を継いで、『サンデー毎日』の懸賞小説の選者をやったのは木村毅だけども、実務方として働いたのは大毎(大阪毎日)社員の辻平一さんですよ。辻さんのことを、ここのブログで取り上げるのに何の不自然さがあるものですか。

 『サンデー毎日』が果たした勃興期の大衆小説界への貢献は、そりゃ計り知れないものがあります。誌面を大幅に提供するにとどまらず、定期的に懸賞小説を募集して、全国の埋もれた作家の卵たちに、そうか、“大衆文芸”を書いてみようか、とその気にさせた志がエラい。

 直木三十五がいなけりゃ直木賞もなかっただろう、というのと同じくらいの温度で、『サンデー毎日』がなけりゃ直木賞はつくられなかったんじゃないか、となかば真剣にワタクシは思っているわけです。

 早熟の異才・角田喜久雄をはじめとして、『サンデー毎日』主催の大衆文芸系の公募に入選した若き獅子たちを挙げてみますよ。木村哲二海音寺潮五郎、花田清輝、木村荘十井上靖、村雨退二郎、北町一郎大池唯雄宇井無愁、山岡荘八、沙羅双樹大庭さち子関川周長崎謙二郎九谷桑樹稲垣一城伊藤桂一杉本苑子小田武雄新田次郎寺内大吉滝口康彦黒岩重吾南條範夫永井路子木戸織男……、もうおなかいっぱい。さらに選外佳作をもらって、のち大成した作家も挙げてたら、ベルトの穴を二個三個ぐらいゆるめなきゃなりません。

 この『サンデー毎日』の長きにわたる壮挙、大衆小説に情熱を燃やす無名の面々に、どうぞどうぞと門戸をひろげ続けた試みが、辻平一さんの力によるもの大きいことは、ほら、木村毅さんも言っているじゃないですか。

「さて、サンデー出身の諸君が千葉亀雄氏、つづいては誤って僕などの功績を説くばかりで、辻君の縁の下の力もち的功績に認識がないのは、甚だ遺憾である。

 もし辻君と云う支柱が無かったら、サンデー出身作家のまとまりも無かったろうし、あの募集も中絶されていたろう。

(引用者中略)

 とに角、辻君は熱心だ。山陰の支局長に赴任の話のあった時も、この大衆文芸募集への愛着から、それをことわって居残ったのである。」

 そこまでして、新しい大衆小説の誕生に精魂込めた辻さんは、芥川賞に比べてどうにもパッとしない船出になってしまった直木賞のことも、いろいろと記録に残しておいてくれました。

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2008年3月16日 (日)

ウエザ・リポート

 作家の書いたエッセイ集とか、お好きですか? ええと、ワタクシは日ごろ好んでエッセイを読むこと少なく、あの人の“読書日記”や、あの人の“しおり”にもまだ手を出しかねていて、『再婚生活』や『超魔球スッポぬけ!』の前すら素通りしてしまうありさまですが、お、この方のエッセイならとついつい買ってしまいました。うーん、いやはや。

080316w170 『ウエザ・リポート』宇江佐真理(平成19年/2007年12月・PHP研究所刊)

 平成9年/1997年・上半期の第117回以来、第119回第121回第123回第127回第129回の平成15年/2003年・上半期まで、6年にわたって計6度、コンスタントに直木賞候補にあがり、そのたび何のかんのと難癖つけられ、結局、東郷隆さんと並んで“平成の万年候補”の座についてしまった宇江佐真理さんの、はじめてのエッセイ集です。

 おっとっと。“ついてしまった”なんて軽々に断言してはいけないのだ諸君。彼女と同じ頃に候補で競った馳星周さんも黒川博行さんも、まだまだ直木賞の対象に入っていることが、ついこのあいだ証明されたじゃないですか。宇江佐さん驚天動地の7度目の候補だって、そりゃあり得るわな。

 収められたエッセイのうち、いちばん古いのは平成9年/1997年。というから、「幻の声」でのデビュー直後です。そうかあ、このデビュー作のタイトルと、それに続く「暁の雲」「赤い闇」って、ウィリアム・アイリッシュ=コーネル・ウールリッチの名作群の題名に由来してたのね、とかいろいろと発見をもたらしてくれる楽しい本です。函館に住み、二人の息子を育て、40歳を過ぎて雑誌の新人賞を得て、台所の片隅にワープロを据えて原稿を書き、スッピン・普段着で街のスーパーにお買い物に行く日常が、飾らず真っ正直に書いてあって、なんだか自分のお母さんがそこにいるみたい。もう親近感が沸くの沸かないのって。

 で、直木賞に対するご本人の弁をご紹介する前に、やけにリアルだなあと思わされたのが、息子さんの一言。

「彼にとっては母親が小説なんて書かなくても一向に構わないのだ。直木賞の候補になって、その発表の日の騒ぎは、彼の言葉で言えば「マジでやめてもらいたい」ということになるのだ。」(「ダーツの旅」より)

 直木賞は、おそらく大多数の人にとって心底迷惑でしかないシロモノなんだな。

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2008年3月 9日 (日)

危うし!?文藝春秋 「文春ジャーナリズム」全批判

 お行儀のいい直木賞サイトなら、きっと見て見ぬふりして通りすぎる本でも、なにしろ雑食、ゲテモノ喰い、落ちているお菓子を拾って食べては、よく叱られた人間の目から見りゃ、これも立派な“直木賞関連書籍”です。

080309w170 『危うし!?文藝春秋 「文春ジャーナリズム」全批判』斎藤道一・高崎隆治・柳田邦夫(昭和57年/1982年2月・第三文明社刊)

 月刊誌『文藝春秋』を中心として、それを発行している文藝春秋(ややこしいので、以下“文藝春秋社”と呼びます)の姿勢について、これでもかこれでもかと追及し尽くす本なんですが、要は、権力(主に国家権力)におもねり、大衆を見下し、お山の大将を気取ってエラそうなこと言っては日本人をミスリードしてきた文春よ許さじ、とかなり詳細に研究しています。

 ええと、直木賞の論述に行く前にですね、結構興味深かったのは、柳田邦夫さんが書いている「まえがき風に――」。ここに、昭和57年/1982年、というから20年以上も前の、若者が抱いていた『文藝春秋』観が紹介されています。

 柳田さんが、身近にいる若者に『文藝春秋』を読んでいるか、と聞くと、

「「いや、『文春』は、“オジン雑誌”だからさ。ボクたちとは、あんまりカンケイない感じですよ。」

 という答えが返ってくる。今のところは、これが最大公約数的な答えだと思っていい。

(引用者中略)

「でも、六〇万部も出てるっていうよ」

「だからサ、学校のセンセイとかさ、重役とか部課長とか。――要するにエリート・オジンの雑誌でしょ」」

 20年たった今、中年一歩手前のワタクシは、やっぱり疑問に思ってしまうのです。ほんと、あの活字ぎっしりで分厚い雑誌を、毎月毎月、いったい誰が必死になって読んでいるんだろうと。20年前のオジンが、初老となってそのまま部数を支えているだけなのか、それとも“オジン雑誌でしょ”とそっぽを向いていた連中が、年齢を重ねて心境に変化をきたし、ついつい読むようになったのか。創刊80年を経て今なお命脈を保っているとは、『文藝春秋』もよくよく不思議な雑誌だよなあ。

 さあさ、いまだかつて『文藝春秋』のどの号も一冊まるごと読破できたことのないワタクシなんぞは、早々と退散して、直木賞についての箇所に行きましょ。早く早く。

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2008年3月 2日 (日)

大鼎談(Dai-Tei-Dan) W大学文芸科創作教室番外篇

 「芸術は短く貧乏は長し」は先週の小ネタです。と思っていたら次の週に、おっと、この受賞作家にお出まし願うとは、偶然といいますか、確信犯的暴挙といいますか。

080302w170 『大鼎談(Dai-Tei-Dan) W大学文芸科創作教室番外篇』三田誠広・笹倉明・岳真也(平成10年/1998年5月・朝日ソノラマ刊)

 大学生の頃より30年以上、長らく友人でありつづける作家お三方が、日ごろの生活から文学についてまでを語り合う鼎談本。白眉は第一章とも言うべき「番外その1」の章、「作家生活! その悲哀と根性のすべて」(平成6年/1994年9月 吉祥寺にて収録)である、とは直木賞マニアたちの間でささやかれるもっぱらの評価です(おそらく)。

 この章のしょっぱなの小見出しが「直木賞ではメシが食えない!?」なのですから、内容は推して知るべし。

 とりあえず、第101回(平成1年/1989年・上半期)受賞の笹倉明さんの体験からいきましょう。

「卑近な例だけれど、直木賞や芥川賞をもらったというと、お金もざくざく入って左うちわだろうと世間は見る。(笑)これは本当だよ。傑作な体験談があれこれある……最近では「笹倉さん、ちょっと二千万円くらい用立ててくれないか」と言われてガク然とした。直木賞作家というと、もうざっくざっくお金が入ってくるものと世間は思ってる。最近はこっちの懐ぐあいも知らないで、やれマンション投資だ、先物取引だとうるさい電話に傷ついてます。(笑)」

 なんで、直木賞作家はイコール高額所得者の仲間入りだ、と思う人たちが、そんなにいるんでしょうね。直木賞決定の段階でのマスコミの取り上げ方が、やたら実態とのバランスを欠くぐらい異常な熱の入れようであることも、関係しているのだろうな。直木賞はエンタメ作家の世間へのお披露目イベントのひとつ、その後の活動を温かく見守ってあげようぜ、のテイストは失ってほしくないものです。

 じゃあ、まずは隗より始めよ、お前のあのサイトを閉じてみりゃいいじゃんか。だなんてキツいことをおっしゃいますか。……うーん、変人のやってる狂気の沙汰だと思って、どうか見逃してくださいまし。

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2008年2月24日 (日)

新文学史跡 富岡の家 直木三十五宅趾記念号

 逆に問いたい。今日、この方のことを取り上げずして、他にどれほど適切な選択肢があると言うのですか。

080224w170 『新文学史跡 富岡の家 直木三十五宅趾記念号』(昭和35年/1960年10月・横浜ペンクラブ刊、有隣堂発売 横浜文庫第1集)

 もちろん今日は、彼の名前のおかげで儲けさせてもらっている某出版社とか、彼の名のついた賞を授与されて仕事の幅を広げさせてもらった種々の作家たちが、彼の偉業をしのんで、盛大なイベントを開いたりしているはずです。ですのでワタクシも、インターネットの隅っこから、直木三十五さんよ、ありがとう、の意をもって本書を取り上げさせてもらいます。

 昭和9年/1934年に三十五さんが亡くなって26年目の昭和35年/1960年に、友人であり当時直木賞選考委員でもあった大佛次郎の呼びかけのもと、三十五が晩年建てた横浜市富岡の家と、彼の墓を遺跡として整備しようという計画がありました。神奈川県、横浜市、横浜商工会議所の支援をとりつけ、「直木三十五遺跡記念事業」として、次の5つを行うことにしたそうです。

 ①「直木の家」記念碑建設 ②直木三十五氏記念碑落成会 ③直木三十五氏記念講演会 ④横浜文学散歩のコースとする ⑤直木三十五氏のヨコハマ生活の資料調査

 昭和35年/1960年といえば、50年近くも昔。直木賞だって、たったの(?)43回程度しか歴史がなくて、はてさて、その頃の直木賞は関係者たちにどんなふうに見られていたのか、本書を読むとチラチラッとわかります。

「芸術は短く貧乏は長し」かれの碑銘は、あの世で直木の自嘲を呼んでいるであろう。

 それにつれても、直木賞の受賞作家は、全くこれと反対に「芸術は長く貧乏は短し」の境地をかち取っている。全く羨やましい仕儀である。」(牧野イサオ「直木と横浜スタヂオ」より)

 ふうむ。第40回を過ぎた頃で、すでに“直木賞作家は人気作家になる”といった感覚があったんだな。決してそうでない受賞作家も、何人も輩出していたのに。文壇と関わりのない人に、こう感じさせてしまうとは、よっぽど受賞作家の何人かの売れっぷりに、インパクトがあったんでしょうか。

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