カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の18件の記事

2024年5月26日 (日)

第18期のテーマは「別の名前」。直木賞にかかわる作家たちが、別の名義でどんな活動をしていたのかを見てみます。

 月日が経つのは早いものです。いや。全然早くなんかない気もします。

 それはどっちでもいいんですが、うちのブログを始めて今年で18年目。直木賞につながっているようで、まったく関係ないエントリーを差し挟みながら、1年に1つずつテーマを決めて書いてきました。

 2024年~2025年、今年はどんなことを調べていこうか。と考えてみたんですけど、何をテーマにしたところで、けっきょくスゴい結論が出るわけでもなく、いっつも同じようなことばかり言っていて堂々めぐりです。別にテーマなんか何でもいいですね。要は毎週、直木賞(とそれに関わってきた人たち)のことを継続的に頭に置いていたい、というだけのことです。

 なので今年もまた、テキトーに思いついた深みのないテーマで行ってみようと思います。

 直木賞の受賞者、候補者、選考委員たちはたくさんいます。彼ら彼女らが、一般的によく知られている名前とはまた違う、別の名前を使うこともよくあります。そんなハナシを1週に1回ずつ取り上げていくことにしました。

 そもそも直木賞と芥川賞の、最大の違いとは何でしょうか。それは、名前を冠された人物が、本名なのか、それとも別につけた名前(いわゆる筆名、ペンネーム)なのか、ということです。

 ……いやまあ、それが最大の違いかどうかは措いておきましょう。本名で書いていた人が何かのきっかけに筆名を名乗り出す。いくつもの別名を使い分ける。活動ジャンルによって変えてみる。「作家の名前」というのは、それだけでもうさまざまな要素を含む面白いコンテンツです。

 それと直木賞とに何の関係があるんでしょうか。ワタクシもよくわかりません。ただ、直木賞のことを調べていると、いろんな候補者が別の名で活動しているケースにぶつかります。今年は、それらの事例を取り上げながら、相も変わらず強引に直木賞と結びつけて書いていけたらいいなと思います。

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2023年6月 4日 (日)

第17期のテーマは「親」。彼らがいたから直木賞の受賞者や候補者がいる。とても大事な人たちです。

 直木賞のことしか書かない、と心に決めて始めたブログも、どうにか17年目に入りました。

 調べたいことはまだまだたくさんあります。だけど時間がとれずに、最近は以前と同じような文献やエピソードを繰り返し書いているだけだったりします。

 消化不良を感じたまま、けっきょくワタクシも年をとって死んでいくんでしょう。死んじゃったら、こんなブログはきれいさっぱり消滅しますから、まあ続くかぎり、だらだらやっていきたいと思います。

 それで17年目のテーマですが、これならネタに困ることはなさそうだ、というものを選んでみました。直木賞の受賞者・候補者と、その親のハナシです。

 人間にはかならず親がいます。父と母の2人。というのが基本ですけど、養父や養母、義父や義母を含めれば、ひとり当たり何人かいる場合もあります。どんな親だったのか、いくら調べてもわからない作家はたくさんいますが、直木賞の場合は「受賞しちゃうと、ケツの穴まで個人情報をほじくろうとする人たちが沸いてくる」、そんな違法行為ギリギリのところでやっている賞です。受賞者・候補者のことを調べていると、その親のエピソードも自然と公開されていることが、けっこうあります。

 とはいえ、単に親のハナシを調べるだけでは面白くありません。やっぱりここは直木賞に関係したことを入れたい。子供が受賞したとき、あるいは落選したときに、親がどう反応したのか。受賞作・候補作に親の存在が大きく関わっていた。……そういう直木賞にからめたことを中心に、できるだけ取り上げていきたいと思っています。

 親が有名人ということもあります。子供につられて有名になった、というケースもあります。そうであれば調べやすいので、たぶん有名な親を取り上げることが多くなりそうですが、チャンスがあれば、あまり知られていないけど強烈に直木賞に縁がある、というような親の逸話を探し出せたら最高です。

 ただ、最初にこうしたいと思っても、1年つづけてみると理想どおり行かないことばっかりです。ひょっとしたら直木賞と関係ないエピソードでお茶を濁す週が出てくるかもしれません。ボチボチやっていきます。

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2022年6月 5日 (日)

第16期のテーマは「お金(カネ)」。おカネによって成り立つ直木賞の背景を、今一度確認していきます。

 毎週1本ずつブログを書いて、現在だいたい800本以上。それでも直木賞については、まだまだ個人的に知らないことだらけです。16年目の「直木賞のすべて 余聞と余分」も、直木賞に関することをいろいろ調べていきます。

 毎年、ストレートな切り口から、ひねくったものまで、自分の興味の向くままにテーマを選んできました。それでも、なかなか手を出しかねていた分野があります。「そんなの、誰でも書いているっしょ」というような、ありふれた基本テーマ。あまりに基本すぎるものは、どうにもやる気が起きないからです。

 たとえば、受賞者(や候補者)の出身地とか。たとえば、受賞者(や候補者)の職業・職歴とか。……こういうものは、直木賞のまわりを撫でていけば、簡単にエピソードも拾えますし、王道の「直木賞バナシ」と言っていいでしょう。ワタクシなんかが調べなくても、誰にだってすぐに書けますし、事実、ライターさんがお金をもらって書いた定番の記事が、印刷物にも、ネットにも、たくさん残っています。

 まあそんなの、直木賞のなかでもいちばん薄いエピソードじゃん。と、馬鹿にしているわけではないんですけど(いや、多少は馬鹿にしていますけど)、あえてそこには手を出さず、誰も目を向けなさそうなところに足を運んでは、ひとりで悦に入る。「知ったかぶり」の性格が抜けないワタクシの悪いくせです。

 ということで、これから1年は心を入れ替えて、定番中のド定番をブログのテーマに据えることにしました。おカネについてです。

 直木賞はいまも昔も、まわりでおカネが動く事業です。受賞した人には賞金が出る。いつの頃からか、選考委員にも選考費が払われる。主催する人たちも、毎月給料をもらいながら賞を運営する。われわれ外野の人間たちは、おカネを払って受賞作や候補作を買って読む。すべておカネの上に成り立っています。

 当たり前っちゃあ当たり前です。ただ、当たり前のことをおろそかにしちゃいかんぞ、と16年目でようやく気づきました。直木賞にまつわるおカネのこと。何となくわかっているつもりになったことを、いま一度検証してみる。これから1年は、そんなふうにブログを更新していきたいと思います。正直、新鮮な切り口を調べる時間が、なかなかとれそうにない、という事情もあります。

 いつもどおり、エントリーを挙げていく順番はテキトーです。思いついた順、書きやすい順に週1回ずつ挙げていきます。まず今週は、「直木賞のおカネ」といったらやっぱりこれだろ、という賞金に関するおハナシから。記念すべき第1回受賞のことなので、これまで(きっと)よく語られてきた賞金とその使い道について、少し紹介してみます。

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2021年6月 6日 (日)

第15期のテーマは「文芸記者」。直木賞の延命を外から支えてきた新聞社の記者たちに光を当てます。

 何でもいいから、週に一度は直木賞のハナシに触れていたい! ……という、他人に共感されない興味で始めたこのブログも、今週から15年目に入ります。

 直木賞に関して取り上げたいテーマは、まるで尽きません。困ったことです。才のある人なら、ススッとやって数年で結論を出せるんでしょうけど、ワタクシみたいなもんは、どれだけやっても深いところに手が届かず、表面的なゴシップを撫でるだけ。これで一生が暮れていくのだろうな。とは思います。仕方ありません。直木賞の面白さは、底なしです。

 というところで、15年目のブログテーマですが、「文芸記者」のことを調べていきたいと思います。

 直木賞のいちばんの特徴は何か……。と言われて、おおむね多くの人が答えるのは「有名」であることです。

 日本に文学賞は数多く群立しています。そのなかで「選考委員の批評眼が素晴らしい」でもなく、「上質な作品が選ばれる」でもない。とにかく直木賞の圧倒的な特異性は「世に知られている」ことなのだ。と断言してもいいでしょう。

 うちのブログでは、直木賞の受賞者のこと、落選した候補者のこと、選考委員のことなど、手当たり次第に取り上げてきました。しかし、直木賞が直木賞であるいちばんの功績者は、何といっても「世に知らせる」役目を、この賞が始まった当初からえんえんと、律儀にン十年もつづけてきた人たち。各社代々の文芸担当記者たちです。

 その割に、直木賞の歴史のなかで語られる機会はほとんどなく、陰に隠れてこそこそと活動しています。新聞報道というかたちで直木賞を広報する片棒を担いできた人たちは、いったいこれまで何百人、何千人いたのでしょうか。いちいち数えたこともありませんが、しかし彼らがいなければ、いまの直木賞が成立していないのは明らかです。

 そもそもですよ。こんな偏った一社の事業に対して疑念や反発も持たず、毎年夏と冬になれば「直木賞だ、直木賞だ」と、いずれの新聞社も足並みそろえて、バカ正直に紙面を割いて報道する団結ぶりには、いつも感心させられます。多様性が叫ばれてもう何十年経つのか。一社や二社ぐらい、うちは直木賞のことなんか扱わないよ、何なんだあのお祭り騒ぎは、馬鹿バカしい、と気づく新聞が出たっておかしくないのに、いまのところそんな気配はとくにありません。

 そういう意味では、出版産業のなかの商業小説はマーケットが縮小。オールドメディアとしての新聞社も経営は青色吐息。沈みゆく旧弊な文化の担い手として、直木賞と文芸記者、「時代おくれ」のレッテルを張られたまま、一蓮托生でともに未来を歩んでいく……ということなのかもしれません。

 未来のことは、よくわからないので、まあそれは措いておきましょう。とりあえず、だいたい1年の予定で、一週ひとりずつ、直木賞史のなかに現れる文芸記者を取り上げていきます。「無駄に歴史が長い」でおなじみの直木賞ですから、創設からもうじき90年。著名な記者や、文芸記者から作家になった人などなど、無理くり探していけば、1年ぐらいは乗り切れるんじゃないか、と甘い展望を持っています。

 思いついた人から書いていきますので、順不同です。まず第1週目は、この賞と文芸記者とがズブズブの関係を築いてきたことをよく示す、直木賞が始まった昭和9年/1934年当時の、ひとりの記者から始めることにします。

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2020年6月 7日 (日)

第14期のテーマは「小説教室」。文学史のなかでは傍流中の傍流、つまり直木賞のお仲間といってもいい事業についてです。

 ブログ形式で書きはじめて14年になります。どんなにくだらないことでも、14年もやっていると、いろいろな考えが頭をよぎるものです。

 たまさか直木賞という文学賞のたたずまいに興味を持ってしまい、その受賞作、候補作、周辺の本を読んだりしながら、受賞者、候補者、選考委員、裏で支える人たち、まわりでワーワー言っているだけの野次馬のことなどを、手当たり次第に調べてきました。まだ手始めも手始めで、ぜんぜん物足りません。

 何ひとつ終わりが見えず、なにかを学んだ気にすらなりません。まあ、俗にいう「人生の浪費」というヤツなんですけど、それでもまったく飽きることなく、「直木賞のすべて」というサイトとブログを続けていられるのは、やはり直木賞にまつわる事柄が多種多彩だからでしょう。

 それで直木賞のことを調べていると、気にかかる周辺テーマも増えるいっぽうなんですが、そのひとつに、小説教室というものがあります。

 小説を書きたい。プロの作家になりたい。あるいは、何となく興味を惹かれたとか友人に誘われたとか、動機はいろいろあるんでしょう。世のなかには小説の創作をお金を払って学びに行く人たちがいます。それを教える人たちがいます。小説講座とか、創作教室とか、文芸創作科とか、名称はさまざまありますが、単に文学を学問として学ぶという以上に、小説ライティングに特化したスクールが、現代の日本ではいたるところに存在します。

 ワタクシ自身そういうところに行ったこともなければ、行く気もないので、文学賞について調べるまではよく知りませんでした。いま現在、小説教室の存在意義を真っ向から否定する意見はあまり見かけませんし、当然のように、そこにあります。しかし歴史的に見ると、近代の日本文学が芽生えた明治の頃から自然に社会に根づいていた、というわけではなさそうです。徐々にその文化が広がっていくなかで「小説の書き方なんて、人に教えられるものかよ、ぷぷっ」とか「そんなことじゃ大作家は生まれないぜ」とか「世も末だ」とか、旧来の文学者や文学愛好家から馬鹿にされ、おちょくられ、なんだか怪しいものだと白眼視されていた、という暗黒の歴史を抱えていることは、直木賞を調べながら何となく横目に入ってきていました。

 そういうことでいえば、直木賞も似たようなものです。いまでも文学賞を、単なる出版社の宣伝だ、話題づくりに堕したショーにすぎない、などと馬鹿にする人は数多くいますが、これは現在に始まったことではなく、昭和の初期、直木賞が生まれた時代から一定の批判が消えたことがありません。しかしいっぽうで、直木賞を受賞したおかげで職業作家になる基盤となった、という例は腐るほどにありますし、なにより文学と関係ない方面が寄せる「直木賞」ブランドへの評価、尊敬は尋常ではありません。賞の事業をやたら低く見る人と、やたら高く見る人。そのギャップが混然と存在していることが、直木賞の面白さを生んでいるのだ、と言っても過言ではないでしょう。

 とまあ、現段階では、これから1年間どういうブログを書いていこうか、全然まとまっていないんですけど、文学賞と小説教室は、まともな文学史をひもといても、まず中心的なテーマになりづらいもの同士です。いったい小説教室とはどういうかたちで発生し、どんな貢献をし、どんな弊害を生み出して文化現象として発達してきたのか。なるべく直木賞のことにも触れながら見ていこう、というのが今年のテーマの主旨になります。

 ふと目をあげれば、何かを調べたくても十全には進みそうにない社会状況がありますが、一週ずつの読み切りにこだわらず、ゆっくり少しずつ進んでいければと思います。ということで第1週目は、歴史をさかのぼって直木賞の発生した昭和初期、ちょうど直木三十五さんとも関わりの深い環境で登場した創作講座のことです。

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2019年6月 9日 (日)

第13期のテーマは「海外」。直木賞には似合わない(かもしれない)、国際的な一面に光を当てます。

 沈みゆく巨艦、と直木賞が言われはじめて、もう何年たつのでしょうか。もしかして言われていないかもしれませんが、出版市場の規模縮小は止まりません。そんななかで「昔ながらの古くさい仕組みでよくやっているよ」と今後も言われつづけることがほぼ決定している、歴史的な遺物、直木三十五賞。この賞があまりに面白いせいで、ブログを書くのがやめられず、この5月で13年目を迎えました。

 13年間、毎週直木賞のことを考えていると、次はどういう切り口でブログを書こうかと、いろいろ頭に浮かんできます。いっぽうで、直木賞に関わった受賞者や候補者、その人たちの作品のことをもっと数多く取り上げていきたい、という思いもあります。なるべくこれまで触れたことのある作家は避け、しかも1年間50週ぐらいは続くようなテーマ。何かないだろうか。……こんな何ひとつ社会の役に立たない無益なことを考える時間が、だいたいいちばん楽しいです。

 というところで、令和1年/2019年6月から始める13年目のテーマは、「直木賞、海を越える」というものに決めました。

 直木賞は日本で刊行された、日本語で書かれた小説のために運営されている日本の文学賞です。しかし80年以上もやっていれば、日本以外の国籍の人が候補になったり、海外に縁の深い人が注目されたり、海を越えた土地が舞台となった小説が議論されたり、日本という国のなかの話にとどまらないエピソードが山のように積み重なっていきます。

 しかし、どう見積もってもこの賞を「国際的な賞」とは言いがたいです。日本人が登場しない候補作に対して、それを理由に批判的な論評をくだす選考委員がいる。というような直木賞を構成する微々たる性質だけをことさら大仰に取り出して、何だかんだと直木賞を批判する人がいるくらいです。そういう様子を眺めていると、よほど直木賞が気に食わない人が、この世には一定数いるんだな、ということがわかりますが、それと同時に、直木賞のなかにだって海外のことや国際事情、日本以外の土地や人びとを尊ぶ伝統が流れているはずなんだけど……と調べたくなる衝動を抑えることができません。

 相変らず物好きにもほどがあるようなテーマ設定ですけど、来年は2020年、多少はわれわれの日常生活にも海外の風が吹くのではないか、と推測される頃合いです。直木賞を通して海外を感じるのも悪くないかもしれません。悪いかもしれません。よくわかりませんが、これでやろうと決めてしまったからには愚図愚図いわず、直木賞と海外との関連性をあれこれ考えて、ひきつづき楽しんでいきたいと思います。

 まず第1週目は、自身の海外留学の経験をきっかけに小説を職業として書く意識が芽生え、いまなお海を越えた作品をぞくぞくと生み出している、直木賞受賞者の話から始めます。

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2018年6月10日 (日)

第12期のテーマは「犯罪」。法をめぐる雑多なエピソードから直木賞の歴史をたどってみます。

 直木賞とは何でしょう。文学賞の一種です。当たり前ですね。すみません。

 ところで、文学賞とは何なのでしょう。言うまでもなく「賞」のひとつなんですが、これまで人類が何千年、何万年と歩みながら、おのずと築いてきた社会組織という枠組みのなかで、時代や環境に応じてさまざまにルールをつくり、または破壊したりと、紆余曲折、試行錯誤するところに「賞」という様式が発生、そこから分かれ分かれて発展した枝葉のうちの、ささやかな一形態だと言うことができます。

 と、そんな大昔のハナシは置いておきましょう。20世紀から21世紀にかけての文学賞が、人が人を褒める、という単純な構図から大きく飛躍し、一定の集団・文化圏・社会のなかで別種の性格を担うものに変容してきたことは、多くの人が実感していると思います。「直木賞」といえば、小説や出版とは関係のない分野でも、「小説界における代表的な輝かしい功績」として、当然のように扱われているのが現実です。いったい直木賞とは、そんなにスゴくてエラいものなのか。……いや、スゴくてエラいのかもしれません。ただじっさいは、社会的にそう位置づけているだけで、一人の構成員である自分は、その前提を無意識に受け入れているだけ、という面も否定できません。

 まあ、いろいろ考えたところで、こんなものに結論はなく、だからこそ直木賞に接するのはいつだって面白いのだ、とも言えるんですが、そういう面白さに寄りかかり、身をゆだねつづけて、このブログも12年目。今年は、そんな直木賞と、もうひとつ別の社会現象を組み合わせることで、多種多様な姿をもつ直木賞の一面を、つらつら見てみようと思います。別の社会現象……いわゆる「犯罪」と呼ばれるものです。

 日本語に「賞罰」という単語があります。賞と罰とは、どうやらワンセット、対義の存在と見て差し支えなさそうです。「罰」がイコール「犯罪」とは限りませんけど、しかし見渡してみれば、文学賞のなかでもとくに直木賞(ともうひとつの兄弟賞)のこれまでの扱われぶりは、案外と犯罪報道とか犯罪記事を連想させるものがあります。個々の事例や、ひとりひとりの受け取り方は幅広く、だからこそ批判や賞賛や野次やクソリプが大量に飛び交っているのに、一般的な通念ということでまとまると、どちらも無条件のままに善(もしくは悪)だと認識されてしまっているからです。少なくとも、そのように見えます。

 あるいは、直木賞も犯罪も、だれかが決めた規範や基準がもとになっている、そこにニュース価値があると認める人たちがいて大っぴらにさらされる、という類似性は、たしかにあるでしょう。そんなこんなを踏まえたうえで、これから一年間は、直木賞に何らかつながりのあった犯罪事件を取り上げていくことに決めました。いうまでもなく、直木賞だからといって一様に褒め称える気はありませんし、犯罪と言われたものをひとまとめに糾弾するつもりもなく、現象を現象として並べていくことを、まずは重要視したいと思っています。

 だけども一年は約50週。一週に一エピソードとして、そんなにたくさん事例があるんだろうか。正直、不安ばかりが募りますが、一度決めたことをやめるのも面倒です。直木賞そのものにつながりはなくても、この賞の受賞者、候補者、選考委員などの個人のことに対象を広げて、微罪、冤罪、そのほかもろもろ含めて、昭和9年/1934年から始まった直木賞80余年の歴史を、犯罪というものを軸にたどってみます。例年どおり、なかなか時系列どおりには書けないと思いますが、とりあえず最初は、直木賞と直結した、この賞の兄弟的な事象だと断言してもいいくらいの、たしかに犯罪だと当時の人たちが考えたことがわかっている、一つの事件からスタートです。

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2017年6月11日 (日)

第11期のテーマは「同人誌」。どうして直木賞がこの世界に足を踏み入れたんでしょうか。不思議です。

 たいがい、うちのサイトは定見がありません。いつも無計画です。その点、直木賞の定見のなさには、まるでかなわないんですが、もう少しまじめに、将来像を描いてサイトづくりしなきゃいけないなあ、と反省しながら、楽しい直木賞エピソードを勝手放題、食い散らかすばかりで、何の達成もなく、いまに至っています。

 11年目のブログは、そうするうちに、ときどき目にしておきながら、面倒くさそうなので避けてきた、しかし明らかに直木賞の中核をなすものを調べていこう。と考えて、「同人誌と直木賞」をテーマにすることにしました。

 直木賞は、芥川賞ほどではないですけど、とっくのとうに歴史的役割を終えた、とか言われて早ン年(ン十年かも)。役目を終えたのかどうなのか、語れるほど歴史を知らないので、こちらはポカーンと口をあけて、ただ見ているだけですが、これまでの直木賞の歴史のなかに、確実に、隆盛や衰亡の時期を刻んでいるのが、同人誌の存在です。

 基本的には、原稿料なし。ほとんどの場合、作者本人がちょっとした大枚をはたいたりすることで、雑誌の体裁に整え、書店で売られることもありますが、全国的な流通網には乗らず、趣味のようでいて、これに一生を捧げてしまう人もいた(いる)という、いまでは文学以外の方面にその仕組みと名称の中心がシフトしてしまった、かつての一大メディア(?)、同人誌の世界。

 リアルタイムな現在の直木賞は、もはや商業出版社および、発売済みの単行本のために行われていますから、べつに過去の同人誌との関わりなど、いまさら知ったところで役に立ちません。知らなくたって、何ひとつ困りません。

 困りませんが、「文学の殿堂」芥川賞ならともかく、なんで直木賞みたいな賞まで、同人誌と関係があったんだ。と不思議ではあります。

 直木賞の候補作リストを見てみると、同人誌っぽい雑誌がけっこう出てくるんですが、だいたいその数50誌余り。よく見てみれば、明らかな商業誌もまた、50誌余り。……ということは、やはり同人誌がいっときの直木賞の中核をつくってきた、と言い張ってもだいじょうぶそうだぞ。と確認したところで、フリーダムなインターネットのブログで、フリーダムな同人誌と直木賞との関わりを、一年間、取り上げていきたいと思います。まあ、いわゆる、モノ好きってやつです。

 とはいえ、なにぶん同人誌の専門家じゃないもので、最初は、やっぱり取っつきやすいところから触ってみます。創刊からまもなく芥川賞受賞者を生みだし、やがて全国的な組織にまで拡大して、掲載作が直木賞にも選ばれたりした、一般にもよく知られた(?)アレです。

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2016年6月 5日 (日)

第10期のテーマは「発行・売上部数」。直木賞って、とるとどのくらい売れるのか、または売れてきたんでしょうか。

 このブログは、データベースサイト「直木賞のすべて」の補助的なものです。運営しているワタクシ自身が、直木賞ってどんな行事・事業なのか、データベースづくりだけだとよくわからないことについても調べていきたいな、と思って、やっています。

 だいたいがワタクシは無知ですから、「すでに知っていることを書く」というより、毎週毎週、知りたいことを調べて、忘れないうちに書いておく、といった程度の、はっきり言って誰の得にもならず、ためにもならない営みです。Amazonのレビューで誰かが書いてくださっていましたが、超ド素人が、垂れ流しのように下手っぴな文章で書いているだけのものです。直木賞のことをもっといろいろと知りたい! 楽しみたい! という向きは、おのおのがご自身の興味に添って、調べたりして、書き残していけばいいと思います。というか、ぜひ、そういうのがどんどん増えていってほしいです。「直木賞のことが書かれた文章」を読むのが、ワタクシは無上の幸せなもんですから。

 で、うちのブログも10年目に突入し、また新しいテーマを設定して、直木賞のことを調べていきたいんですけど、ワタクシの見るところ、とくに現在、一般的に直木賞には二大論点(というか切り口)があります。ひとつは、「受賞者の人となり」。もうひとつが、「受賞作の売れ行き」です(……二大、というほど、際立っちゃいないか)。

 直木賞を受賞した作品、いや、受賞しなかったとしても、直木賞の候補に挙がった数々の作品が、じっさいはどの程度の売上げだったのか。というのは、ワタクシもずっと興味があり、しかし、他のことを調べるのに多くの時間を使ってしまって、なかなか集中的にそこに突っ込んだことがありませんでした。

 発行部数。プラス、できれば売り上げた部数。本が売れようが売れまいが、出版界全般のことには、たいして興味は湧きませんけど、直木賞に関することなら別です。出版の業界は、騙し・騙され合いの世界、公表されている数字が正確とはかぎらないよ、と仄聞しますが、調べないでテキトーなことを言うより、調べながらテキトーなことを言うほうを、ワタクシは採りたい。基本、これまでみたいに、すでに誰かがどこかで書き残しておいてくれた文献を第一の頼りにして、直木賞の部数の世界に、分け入っていけたらいいなと思います。

 ほんとうは、直木賞のことだけで、このブログは貫きたいんですが、今回もそうはいかなそうです。直木賞のことを知りたいなら毒も喰らわなければいけない、というのが自然の摂理ですから、眉をしかめながら、毒=芥川賞のほうも、ついでに取り上げることになると思います。何つったって、直木賞など足元にも及ばないほどに、芥川賞は「部数」に関するハナシの宝庫です。そちらの方面を調べていけば、ついでに直木賞の話題が出てくる文献もあるにちがいない、と踏んでいます。

 今回のテーマも、これまで以上に、毎週歩きながら書き進んでいく、って感じになるでしょう。同じような文献を何週にもわたって参照したり、ハナシがズレまくったり、まとまらないエントリーを挙げちゃうことになると思うので、ご容赦ください。……と言い訳したところで、まず出発点は、直木賞(と芥川賞)そのものの出発点のところから、入りたいと思います。

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2015年6月 7日 (日)

第9期のテーマは「芸能人」。80年の直木賞の歴史を語るうえでは欠かすことのできない、芸能界の面々にご登場ねがいます。

 直木賞ってやつは、どうして掘っても掘っても知らないハナシが沸いて出てくるんだ! と涙ながらに掘りつづけ、うちのブログも9年目に突入しております。

 1年ごとにテーマを変えながら、毎週毎週、懲りずに直木賞のことを書いてきました。さて、9年目はどうしようか。と考えまして、わたし、小説のあれこれを調べています、みたいな真面目な人が直木賞について書こうとするときに、きっと躊躇する(はずの)テーマでいこうと決めました。「芸能人と直木賞」です。

 もちろん、いま現在巻き起こっている又吉フィーバーにあやかって、っていう思いはあります。直木賞(やもうひとつの賞)の周辺が芸能人のおかげで賑わったことは、これまで何十回(?)もありましたが、その当時に生きていた文学賞ファンたちが感じたであろう興奮(やら冷笑)を、思い起こしたり、想像したりするには、ちょうどいいタイミングにちがいないですから。

 しかし、何といいますか、「芸能人と直木賞」なんてテーマ、いい大人がやるようなもんじゃない、っていうフシはあります(たぶん)。直木賞といえば、何かかしこまった小説(もしくは文芸)に関することでしょ。たしかに、ときどき芸能人のからんだニュースや話題は出るけど、何つってもゴシップ臭が強すぎる。文芸の行事である直木賞全体からすれば、とるに足らないイロモノ的なおハナシだし。なんで「小説」のことを語るために、芸能のネタが出てくるの。関係ないじゃないか。……と思う気持ち、よくわかります。

 ただ、直木賞は「文芸の話題」でおさまる存在ではない。というのが、いまのところのワタクシの感想です。だって、現実を見たらそう思わなきゃウソでしょう。そして現実を無視して、ほとんど自分の思い込みだけで直木賞をとらえるような人間は、正直恥ずかしいです。ゴシップなことは嫌いだからと唾棄しながら、それでも直木賞のことが気になるものだからカッコつけて、「直木賞は純粋に小説のことだけで語れ」などと偏った見方をしてしまう、何たる恥ずかしさ。

 「芸能人」という存在は、「みんなにその名が知れ渡っている」直木賞の、けっこう重要な相棒じゃないですか。ないがしろにするわけにはいきません。

 そうは言っても、ワタクシ自身は、べつに芸能界にくわしいわけでもないので、果たしてこれからの1年間を乗り切れるのか。かなり不安です。あと、直木賞に関する話題だけで、50週(+アルファ)分の芸能人がほんとにいるのか、早々にネタ切れするのではないか、っていう心配もあります。まあ、世間一般的には、直木賞も芥川賞も同じようなもの、という常識によりかかって、多少、「芸能人と芥川賞」なエントリーも書いちゃうかもしれません。稀少な直木賞ファンの方々、ごめんなさい。

 このテーマで取り上げるとなれば、現在に近い時代の人ばかりが、自然と多くなってしまいます。一週目からそれだと面白くないので、とりあえずは物故人、そうとうに早い段階で直木賞にまつわる書き手と目された俳優のハナシから始めようと思います。

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