カテゴリー「講演会と直木賞」の3件の記事

2026年6月14日 (日)

第1回直木賞贈呈式が文藝春秋愛読者大会(昭和10年/1935年10月28日、於・日比谷公会堂)の中で挙行される。

 ついこないだ、令和8年/2026年6月11日に第175回(令和8年/2026年・上半期)直木賞の候補作が発表されました。

 半年に1回、定期的にやってくるお決まりのニュースなので、わざわざブログで言及するほどのことでもありません。……とは思ったんですけど、今回は最近ではあまり珍しいとは言えなくなった「芸能界で活躍中の方が候補入り」という意味で、朝のワイドショーからスポーツ新聞からネットのSNS界隈まで、直木賞だ直木賞だと騒がしくなっています。こういう光景を見るのが、人生最上の幸せと感じるタチなので、今週はうちのブログも、芸能人と直木賞のことに目を向けたいなと思います。

 とは言いましても、今年のブログのテーマは「講演会と直木賞」です。芸能人に触れるにしても、やはりその路線に沿って書いてみよう、と先週の自分のブログを見返したところ、ちょうど直木賞が始まる直前に、文藝春秋社が盛んに文藝講演会をひらくようになった、というハナシに注目したところでした。

 その流れで言うと、重要になってくるのが第1回(昭和10年/1935年・上半期)直木賞の授賞式です。

 いまとなっては、直木賞の授賞式というと、招待者・関係者しか入れない閉鎖的な行事になっています。しかし第1回当時は事情が違って、このときは『文藝春秋』の読者たちに向けた「東京愛読者大会」のプログラムの一つとして、多くの一般観衆の面前で直木賞の贈呈式が行われました。

 実際この頃の文春は、とにかく外に出ていって、じかの読者に対して事業を展開し、少しでも雑誌の宣伝になって実売部数を増やしたい、というモードに突入していた時期に当たります。昭和9年/1934年に東北、九州、近畿中国とまわったのにつづいて、昭和10年/1935年になると、他の各地でも文藝講演会をぞくぞくと開催しています。こんな感じです。

日程 場所 講師
昭和10年/1935年
3月6日
静岡(葵文庫) 小島政二郎、吉川英治、大佛次郎、横光利一、佐佐木茂索、菊池寛
3月7日 名古屋(公会堂)
3月8日 岐阜(公会堂)
9月13日 松本(公会堂) 大佛次郎、久米正雄、吉川英治、菊池寛、佐佐木茂索(+文藝講談:山野一郎)
9月14日 長野(図書館講堂)
9月15日 新潟(白山小学校)
9月16日 富山(県会議事堂)
9月17日 金沢(公会堂)
9月26日 青森(公会堂) 片岡鉄兵、岸田国士、阿部眞之助、小林秀雄、三上於莵吉、佐佐木茂索(+文藝講談:山野一郎)
9月27日 札幌(公会堂)
9月28日 小樽(議事堂)
9月29日 函館(松風小学校)
9月30日 秋田(記念会館)
10月1日 山形(第一小学校)
11月24日 和歌山(公会堂) 佐佐木茂索、大佛次郎、小林秀雄、小島政二郎、菊池寛

 この途中の10月28日に日比谷公会堂で東京愛読者大会を、11月25日に中ノ島公会堂で大阪愛読者大会を、12月26日に日比谷公会堂で第二次東京愛読者大会をそれぞれ開き、8月に決まった直木賞についても10月28日に贈呈式を挙行した、というわけです。

 では愛読者大会というのは何をしたのか。内容を見ると、やはりお得意の講演会があって、講師は穂積重遠さん、兼常清佐さんのほか、文芸畑からは久米正雄さんと小島政二郎さんが出ています。それから直木賞ともう一つの賞の贈呈式、および「余興」と称する出し物も行われ、二三吉さん、松原操さん、大辻司郎さん、古川緑波さん、徳川夢声さんが出演しました。

 この贈呈式で、第1回を受賞した川口松太郎さんはどんなことをしゃべったのか。ご本人による回想が残っています。

「授賞式は日比谷公会堂で、芥川賞の石川(引用者注:達三)と並んで受け、そのあとでこんなあいさつをした。

「直木は私に、小説家にはなれそうもないから思切れといった。その私が第一回の直木賞を受けてしまった。彼の先見の明を裏切ったような気がするので、多磨墓地の墓へ行ってあやまって来ます」

来会者は笑って拍手してくれた。いっしょに目を細めて、わが子の成功を見るように喜んでくれた菊池寛の顔は今でも目の前にある。」(昭和48年/1973年10月・講談社刊『人生悔いばかり』所収「「鶴八鶴次郎」」より)

 川口さん、このとき35歳。ちゃんと観衆から笑いが起こるような挨拶をするところが、さすが若くして立派なエンターテイナーです。

 それはそれでいいとして、ここで注目したいのは余興者の一人に徳川夢声さんがいることです。

 徳川さんといえば、先週のブログに書いた昭和9年/1934年文春講演旅行のなかにも名前が出ていました。活動弁士から出発して、俳優として舞台に上がりながら、ひとりで漫談もやってのけてしまうという、当時でもけっこう知る人の多かった芸能人です。そして『新青年』で多くのエッセイ、回顧録を書いているうちに、ユーモア小説も手がけるようになって、その文才は一般読者のみならず作家や編集者をもうならせていました。

 菊池寛さんや文藝春秋の人たちにも、相当かわいがられます。徳川さんが大辻司郎さんや古川緑波さんたちと喜劇団(おそらく「笑の王国」)をつくるときには、おれもできるだけ協力するよ、と菊池さんから温かい声援を受けたんだとか何だとか。ともかく、舞台の上に立って観衆を楽しませることにかけては筋金入り、それでしかも面白い小説が書ける、ということになれば、菊池さんが主導した文藝講演会の講師にもうってつけの存在だったわけです。

 昭和10年/1935年10月の、第1回直木賞贈呈式のときは、余興の出演者だったので講演会をしたわけではありません。ただ、講演もできる、余興で芝居や漫談もお手のもの、というのは、ふつうの作家にはできない芸当です。才人ムセイ、すでに直木賞ができたときから、文春のために大活躍していました。

 そばで見ていた、講師のひとり小島政二郎さんは、こんなふうに言っています。

「「文芸春秋」は毎年のやうに方々の劇場を借りて読者大会を催した。楽屋へ、いろいろの人が出入りをする。さう云ふ人達が、勢ひ菊池寛のまはりに集まつた。

ところが、見ると、もう一人自分のまはりに大勢の人を集めてゐる人物があつた。

それが徳川夢声だつた。云つて見れば、さながら菊池寛に対して一敵国を形づくつてゐる感じだつた。」(昭和27年/1952年8月・オリオン社出版部刊『夢諦軒句日誌二十年』所収 小島政二郎「初対面の頃」より)

 芸能の世界のスゴい人。その徳川さんの小説界に対する貢献を、どうにか形として示せないものかと、戦前の選考会ではたびたび議論に挙がったそうですし、戦後、第21回(昭和24年/1949年・上半期)のときには親友・獅子文六さんが猛烈に推して、芸能人・徳川夢声さんに直木賞が贈られる可能性は、そこまで低くなったんですけど、しかし結局、あげそこねてしまいました。

 直木賞の歴史に残る汚点の一つ、とも言われています(……いや、ワタクシが勝手に言っているだけです)。

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2026年6月 7日 (日)

文藝春秋の近畿中国地方講演会(昭和9年/1934年12月21日~26日、於・岡山・広島・呉・大阪・神戸・大阪)で川口松太郎が演台に立つ。

 講演会と直木賞。この2つには共通点があります。

 共通点と言おうか、そもそもが似た者同士と言おうか、それぞれが人間だったら、きっと隣人、親戚、あるいは親友ぐらいにはなっていたかもしれません。

 直木賞といえば、菊池寛さんが熱い友情と熱いカネ勘定を膨らませた結果、この世に生まれた事象です。いっぽう講演会のほうも、菊池さんがしょっちゅう企画しては一つの大きな事業として自分の会社の売りにしていました。また、どちらも菊池さんらが、若手、中堅どころの作家に収入の道を増やしてあげようとして必死に育てた、という点でも似ています。

 菊池寛。……有名人です。生前でも没後でも、いま現在でも、多くの人が興味をもって、語ったり批評したり、さまざまに研究されています。

 そのなかでもここで注目したいのは、菊池さんが大の講演好き、と言われていたことです。小島政二郎さんが言っています。

「菊池寛は講演が好きで、殆んど日本全国を回ったが、それほどではないまでも直木(引用者注:三十五)も好きで、菊池、芥川(引用者注:龍之介)、久米(引用者注:正雄)などと知り合った最初は、大阪で講演会を開いた時のことだった。」(「直木三十五」より ―『小島政二郎全集第三巻』昭和42年/1967年10月・鶴書房刊)

 そもそも「講演会」というものがなければ、直木さんと菊池さんが出会うこともなかった。というのは前週触れたとおりですが、いや、そこからハナシを延ばして、菊池さんが講演会に出ること、企画することが好きじゃなかったら、その後の『文藝春秋』の事業も違ったものになっていたでしょうし、文学賞をつくろう、なんて発想にも至らなかったのではないか。そう思われます。

 菊池さんの感覚のなかでは、講演会も文学賞も、文芸にまつわる事業として近いところにあったのはたしかです。芥川さんが自殺したとき、『文藝春秋』として昭和2年/1927年9月号を「芥川龍之介追悼号」としたのにとどまらず、その年の10月には、「芥川龍之介全集刊行会」同人との共催というかたちで、「芥川龍之介追悼講演会」を順次開催。東京の報知講堂、朝日講堂から、大阪、京都など全国各地をまわって、直接、生の作家が聴衆にハナシをする、というものをやりました。

 その講師は、菊池さんのほか、久米正雄さん、佐藤春夫さん、佐佐木茂索さん、谷崎潤一郎さん、小島政二郎さん、室生犀星さん、宇野浩二さん、久保田万太郎さん、小穴隆一さん、萩原朔太郎さん……と名前を並べてみれば、それから7年後につくられる芥川賞の、ほとんど選考委員のメンバーじゃん。というところからも、当時の菊池さんの交友関係、ないしは事業を始めるにあたっての仲間意識がうかがい知れます。

 以降、文藝春秋にとって、作家を招いての講演会は大きな柱の一つとなりました。昭和9年/1934年暮れに、直木賞と芥川賞、二つの文学賞をつくることになったその頃にも、文芸ってものはな、書かれた文章だけで大きなウェーブを起こすことはできないんだぞ、と言わんばかりに、リアルな読者や観衆を集めてのイベントに、文春の人たちは力を入れます。

 何より、直木賞にしろ講演会にしろ、自分の雑誌(文藝春秋)の宣伝のためにやるのだ、とはっきり菊池さんが書いているところが同じです。両者は、いわば親戚どころか「兄弟」事業と言ってもあながち間違いではありません。

 ということで『文藝春秋』は直木賞の創設が発表される前後、昭和9年/1934年9月~12月に、全国で「文藝講演会」を開きます。

日程 場所 講師
昭和9年/1934年
9月21日
盛岡(公会堂) 吉川英治、子母沢寛、小島政二郎、横光利一、菊池寛、佐佐木茂索
9月22日 仙台(東二番町小学校)
9月23日 福島(公会堂)
10月6日 小倉(九電集会所) 久米正雄、大佛次郎、小島政二郎、徳川夢声、菊池寛、佐佐木茂索
10月7日 八幡(大蔵集会所)
10月8日 福岡(公会堂)
10月9日 熊本(公会堂)
10月10日 長崎(公会堂)
10月11日 佐世保(佐世保会館)
12月21日 岡山(公会堂) 小島政二郎、小林秀雄、川口松太郎、菊池寛、佐佐木茂索
12月22日 広島(袋町小学校)
12月23日 呉(呉会館)
12月24日 大阪(中ノ島公会堂)
12月25日 神戸(青年会館)
12月26日 京都(日之出会館)

 終盤の12月は、すでに各新聞などで直木賞が創設されると発表されたあとでしたし、創設宣言が載った『文藝春秋』昭和10年/1935年1月号も発売されたあとでした。きっと、これらの賞のことも、講演会のどこかで誰かがしゃべって、観衆を沸かせたのではないか、と推察しますが、現状その確証はありません。

 この期間中には、さらに文春は「愛読者大会」という催しを東京で2回、大阪と京都で1回ずつやっています。そこで菊池さんらの講演と同時に、例の伝説となった(?)文士劇が始まったと伝えられていて、そういう意味では文士劇もまた、直木賞とは「兄弟」事業と言っていいのかもしれません。わかりません。

 それはともかく、やはりひときわ目を引くのが、近畿中国地方講演会の講師のひとりに川口松太郎さんが入っていることでしょう。まだ第1回の直木賞が決まるまえの川口さんです。

 そうなんだ、このとき川口さんが文春の講演会に登壇したから、文春が運営する直木賞をもらうことができたのだ……といった回想ないし回顧録は、ワタクシも読んだことはありませんけど、少なくとも初回から無名の新人にあげることができなかった直木賞の、直木賞らしい姿は、これらの講演会からも激しく理解できるところです。

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2026年5月31日 (日)

主潮社主催の藝術講演会(大正9年/1920年11月18日・19日、於・大阪中之島中央公会堂)が直木賞を生む。

 直木賞はなぜできたんでしょうか。

 設問としては単純です。だけど、けっこうな難問です。

 なぜできたか、と言われたところで、そもそも理由を一つに絞って語ることなどできるはずがありません。森羅万象、世のなかの多くの出来事と同じように、直木賞にだってさまざまな背景があります。ひとまずその背景と思われる細い糸を、さかのぼって追ってみます。

 背景の細い糸。つまりはざっくり言うと、直木三十五さんという人が文藝春秋社と深い関係があった、あるいは菊池寛さんと強い友情を結んでいた、ということです。

 直木賞を見る上では絶対に欠かせない最重要な要素なんですが、そのハナシをたどっていくと、かならずぶち当たるものがあります。それが「講演会」です。

 有名なエピソードらしいので、いまさら繰り返しても仕方ないんですが、のちに『文藝春秋』を創刊することになる菊池寛さんと、直木賞の名前のもとになった直木三十五さん(本名・植村宗一)がどこでどうやって知り合ったのか。大正9年/1920年11月18日と19日、大阪中之島にある中央公会堂で藝術講演会というのが開かれました。二人の結びつきは、すべてそこから始まります。

 菊池さんはちょうどそのとき『大阪毎日新聞』『東京日日新聞』で「真珠夫人」を連載していた頃にあたり、いわば「いまキテる」脂の乗った若手どころの作家です。年はだいたい31歳のころ。

 いっぽう直木さんは、まだ「直木三十五」という名前などこの世に影もかたちもなく、本名の植村宗一として活動していた頃です。早稲田大学を中退して、大日本薬剤師会に書記として務めたものの半年でやめると、美術研究会、あるいは新興美術社という組織に勤めを見つけて、美術雑誌の編集者となります。美術関係の名もなき記者、といったところで泥水をすすって生きながら、『トルストイ全集』の刊行を企てたところ、これがちょっと売れておカネになり、そこから神田豊穂さんと春秋社を、鷲尾浩さんと冬夏社を、と出版社の経営に乗り出しますが、借金ばっかり膨れ上がらせる疫病神の異名を拝命。それでもやたらと事業欲が旺盛で、画家の矢野橋村さんが結成した美術集団「主潮社」に参加して、雑誌『主潮』を刊行します。年は菊池さんの1年ちょっと下ですので、おおよそ30歳ぐらい。はっきり言って、文学関係者でその名を知る人はほとんどいませんでした。

 矢野さん率いる「主潮社」では、福岡青嵐さん、名越国三郎さん、福田恵一さんといったお仲間たちの作品を一般に見てもらう美術展覧会を催します。第1回は大正8年/1919年、大阪と東京それぞれで開催したらしいんですが、翌大正9年/1920年秋、その第2回目の展覧会をすることになったとき、どうやら直木=植村さんが一つのアイデアを出したのだと言われています。

 展覧会の前に、お客さんを呼べるような藝術、文芸に関する講演会をやったらどうだろう、と。

 基本的にこのときの企画は、植村さんが主導してやったらしいです。だれに講演をお願いするか。その人選や、じっさいの依頼、交通・宿泊の手配なども、植村さんが準備したのだ、ということです。

 このとき植村さんが声をかけた演者のうち、面識があったのは、早稲田の同窓で作家としてちょっと名前が売れていた田中純さんだけでした。他に植村さん自ら直接お願いしに回ったという久米正雄さんも、宇野浩二さんも、芥川龍之介さんも、そして菊池寛さんも、それまでまるで赤の他人です。こんなドコのドイツかわからない無愛想で気味のわるい男の依頼を、みんなよくぞ受けたものだ、と思います。

 実際どんな感じの講演会になったのか。当時の新聞記事を引くと、こうです。

「主潮社主催藝術講演会は既報の通り(引用者注:大正9年/1920年11月)十八日夕より中之島公会堂にて開催された聴衆は定刻前より詰めかけて政党演説会にも劣らぬ盛況で、入江(引用者注:入江來布)氏の開会の辞の後植村宗一氏は文藝講座開放に関して会衆に訴ふる所あり次いで田中純氏は「藝術は実感の貯蔵なり」と題して聴衆を激励し次に真珠夫人の作者として最近全市の人気を湧き立てゝ居る本社員菊池寛氏は大拍手の裡に登壇、時々警妙な皮肉と警句を交へながら「藝術の利益と必要」の題下に満場を唸らせ京大助教授澤村専太郎氏は「現代日本画に於ける写真問題」と題してその選考する東洋美術史の立場から蘊蓄を披露し盛況裡に閉会した」(『大阪毎日新聞』大正9年/1920年11月19日「藝術の炎を捲き揚げた 主潮社の講演会」より)

 何といっても目玉は、「真珠夫人」の作者菊池さんの生のハナシが聴ける、というところにあったのでしょう。のちの菊池さんの文章(「講演」)によれば、聴衆2000人以上は詰めかけたんだとか。その点、植村さんの試みは成功しました。

 しかし、そうはいっても疑問に思います。アートの展覧会の客寄せのために、どうして新進作家たちを招いての講演会を思いついたのか。そこのところが、植村さんの回想を読んでもよくわかりません。

 わからないので、ここは専門家のお知恵を拝借しましょう。昭和48年/1973年に刊行された『近世大阪藝文叢談』(昭和48年/1973年3月・大阪藝文會刊)に、親和女子大学図書館の田熊渭津子さんが「直木三十五と主潮社文芸講座」という文章を発表しています。

 それによると、植村さんが文藝に関する講演会をやったのは、菊池さんと出会ったその一回きりではなく、後年にいたるまで約2年にわたって続いた、けっこう気合いを入れた事業だった、ということです。

 大正10年/1911年1月から、大阪時事新報社の後援を受けて「主潮社自由大学文芸講座」が開講します。その予告ビラを田熊さんが紹介していて、おそらくこれは植村の手による文章ではないか、と推察されているんですが、ワタクシもそれにのっかって、植村さんがこのとき、どうして大阪で文藝講演会を企画しようとしたかの理由が、ここにうかがい知れると見ます。

「嘗て近松を有し、西鶴を有したる地は、今日、只一個物質上の富のみを以て、満足し得べきに非ず、他都市に優る多くの外観的文化設備を有し乍ら、其内面に於ける貧弱さを思ふ時、我輩は先づ何よりも第一に此運動の必要なるを感じる。」(「主潮社自由大学文芸講座」予告ビラ ―引用原文は『近世大阪藝文叢談』所収、田熊渭津子「直木三十五と主潮社文芸講座」より)

 大阪という都市は、むかしは文化的な風土があったのに、現在(大正中期当時)それが衰退してしまっている、だから私は文芸についての講座を開くんだ、という宣言です。

 最初の想定では、開催は月一回の夜間、会員制度をとって約500名を上限とし、会費は一回につき金一円、と決定します。その後、大正11年/1912年11月の第15回まで開かれたという記録があるそうで、事業欲の旺盛な植村さんらしく、そして始めるのはいいけどすぐにポシャらせてしまう経営センスのない植村さんらしく、この連続講演会によって何がどう実現したのか、振り返られることなく、きっぱりと終わってしまいました。

 植村さん、のちの直木さんがどんな考えで、どういう生き方をしたのかは、文学賞としての直木賞とは何の関係もありません。それはそのとおりです。

 だけど、植村さんが書物の上だけでコショコショ文章を書くことのみが大切だ、なんて考えをしていたら、まず熱心に文芸講演会など開かなかったでしょうし、菊池寛さんと会うこともなく、ひいては直木賞が設立される未来も訪れなかった……というのはたしかでしょう。

 直木賞というものができるためには、文章表現のよしあしだけではなく、人間がしゃべってそれを人間が聴くリアルな空間、リアルな時間が、最初から欠かせないものとして存在していたのだ。と考えれば、たとえば現在、直木賞の受賞作や候補作を読んで、その小説に対する批評だけが直木賞だ、と見るのは、やはり不自然です。

 受賞者が記者会見でしゃべったり、その後に、彼らがテレビやラジオでしゃべったりするのもまた、直木賞の一部と見ていいのではないか。いいですよね? とそういうものも好きなワタクシは、勇気を得た気分です。

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