カテゴリー「選考とは関係のない選評」の27件の記事

2025年11月30日 (日)

「「選考会は年一回、賞金は倍額(百万円)」を提案する。」…山口瞳、第91回直木賞の選評より

 先週、第89回(昭和58年/1983年・上半期)で城山三郎さんが放った選考委員退陣の弁を紹介しました。

 このとき、選考会のなかでは「直木賞は年一回でいい」と言っている委員がいたと、城山さんが暴露しました。当時の委員というと、城山さんを除いて7人います。池波正太郎さん、五木寛之さん、井上ひさしさん、源氏鶏太さん、水上勉さん、村上元三さん、山口瞳さんです。

 じゃあ、いったい、そんなことを主張したのは誰なのか。直木賞ファンのあいだでは、あいつじゃないか、こいつじゃないかと、噂バナシが激しく飛び交った、のだと思います。そんな犯人探しに終止符と打つため、いや、別にそんな気はなかったかもしれませんけど、それから1年後の第91回(昭和59年/1984年・上半期)の選評で、城山委員が最後に匂わせておいたナゾの人物、「年一回に減らせ」派の委員とは、じつはオレのことなんだと、思い切って手を挙げた人がいました。

 ……と、直木賞が一年間に何回あろうが、はっきり言ってどうでもいい話題です。世の中には、他にもっと大事なニュースがたくさんあります。だけど、こういう些細なハナシに、ついつい身を乗り出してしまうのが、直木賞愛好者の病的なところなんでしょう。すいません。

 自首した犯人の発言を取り上げるまえに、まずは第91回直木賞の候補者と選考状況をおさらいしておきます。候補は8人いて、最終的に連城三紀彦さんの『恋文』と難波利三さんの『てんのじ村』の二作受賞と決まりましたが、連城さんは5度め、難波さんは6度めと、相当候補回数を重ねて、委員たちのあいだにもその作風は知れ渡っていました。過去作との比較もまじえて、かなりの成長が見られるから、あげてもいいんじゃないか、といった雰囲気が両者の高評価につながった模様です。

 しかし、一般的なジャーナリズムの話題を盛り上げたのは、何といっても「直木賞候補三人娘」みたいにくくられた、3人の女性候補者でしょう。

 性別や属性が騒がれるというのは、いかにも「昭和」の匂いがぷんぷんしますが(いや、いまでもあるか)、コピーライターとして出てきた林真理子さん30歳、ラジオDJから出てきた落合恵子さん39歳、そして銀座でクラブのママをしながら作詞家として顔も売れていた山口洋子さん47歳。そりゃあ盛り上がるよな、といった感じです。

 もちろん決定した選評のほうでも、三者三様、さまざまに評価されたり、厳しい感想を受けたりと、そちらはそちらで華やか(?)ではあったんですが、ともかくうちのブログでは、なるべく選考とは関係のない部分をピックアップしなければなりません。

 ということで最初に戻りまして「直木賞は年一回に減らせ」と叫んだ人の意見を拝聴したいと思います。山口瞳さんです。

「直木賞受賞作はその作者にとっての記念碑的作品であってもらいたいと強く希望する。同時に、世間に文学的衝撃を与えるものであってほしいとも思う。その意味では低調が続いている。打開の方法として、「選考会は年一回、賞金は倍額(百万円)」を提案する。」

(『オール讀物』昭和59年/1984年10月号、山口瞳「林真理子さん」より)

 直木賞に何を期待するかは、人それぞれ、どんなことを言おうがフリーダムです。なるほど、山口瞳さんは直木賞にやたらと高い山脈を見ていたのだな、と思えてそれは別に文句はないんですが、直木賞なんて低調でいいじゃん、文学的衝撃とやらは直木賞みたいなせせこましい場所じゃなくて、もっと別のところで起こしてくれ……というのがワタクシの感想です。

 この当時、主催の日本文学振興会は、いったい山口さんの提案をどのように受け止めたのでしょう。まがりなりにも最終選考をお願いしている一人の委員が、自分の責任で公に訴えた貴重な意見を、まさか黙殺、無視したとは思えません。

 まあ、まあ、先生、そうはおっしゃっても直木賞は年二回やったほうが多くの作家にチャンスをつくれますし、みたいな回答をナイナイに、ウチウチに提示して、けっきょく山口さんの提案は取り下げられたんでしょうか。あるいは、日本文学振興会というのは、とにかく自分たちは口をつぐんで嵐が過ぎ去るのを待つ、というのがお得意な組織のようにも見えるので、マジでそのままダンマリ、山口さんにはとくにフォローしなかった可能性も十分にあり得ます。

 うやむやにしておけば、たいがいの人は当初の熱も薄れます。そのうち、なかったことになっても、いちいち振り返ることはなかったんじゃないかと思います。何といっても直木賞ですからね。どうでもいいといえば、どうでもいいことですから、山口さんだって、ずっと気にしているわけにもいかなったでしょう。

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2025年11月23日 (日)

「これ以上続ける自信と気力を失くした」…城山三郎、第89回直木賞の選評より

 人間の思考を4種類に分けると、おそらく以下のとおりになると思います。

  • 直木賞が年二回なのは多いから、年一回でいい。
  • 直木賞はこのままでいい。
  • 直木賞なんてやめちまえ。
  • 直木賞がどうなろうが知ったこっちゃない。

 可能性だけでいえば「年二回は少なすぎるから、年三回とか、年四回とか、もっと回数を増やすべきだ」という流派の人がいたっていいはずです。それを入れれば「5種類」ということになりますが、しかし、最後のような意見は、ほとんど聞いたことがありません。口にした瞬間に、気が触れたと思われて精神病院に入れられちゃうからかもしれません。

 ともかくも、直木賞に関してよく聞くのが、一番目に挙げた「年二回は多すぎる、年一回でよいのでは?」という意見です。

 ワタクシが直木賞に興味を持ち出したン十年前にもひんぱんに言われていましたし、昔の選評を読むと、そうか「年一回に減らせ」派の人というのは、ずいぶん以前からいたんだな、ということがよくわかります。

 たとえば、第89回(昭和58年/1983年・上半期)のときの城山三郎さんの選評にも、そのことが出てきます。

「直木賞は年一回でよいという声が、委員の中からも出ている。年に二度だと、候補作の点数をそろえるために無理に候補にされる作品が出てくる。

候補作家はその度に一喜一憂しなければならぬし、また候補回数の多いひとをどう遇するか、という問題が起る。」(『オール讀物』昭和58年/1983年10月号、城山三郎「選評」より)

 このときの委員のいったい誰が「年一回」を主張したのか、くわしいことはわかりませんけど、やっぱ一年に二回は多いよね、という感覚はいまに始まったことではなかったようです。「年一回」派の方たちはぜひ自信をもって、減らせ減らせ、と叫びつづけていただければと思います。いつかその声が届くこともあるでしょう。

 で、上記に引用した一節も、選考とは関係ないっちゃ関係ありませんが、何といってもこの第89回は、直木賞の歴史に残る騒動が勃発した回です。新聞の社会面にもそのことが大きく取り上げられ、文壇の内外でけっこう話題になった……と洩れ聞いています。城山さんがこの回をもって強硬に辞任を申し出て、さっさと直木賞の選考から身を引いたのが、胡桃沢耕史の受賞が決まった第89回選考会の直後でした。

 あまりに大きな出来事として記録されているハナシなので、うちのブログでも過去に何らか取り上げたような記憶があります。ここのブログは、書いたそばからどんどん忘れていってしまうダメブログなので、詳細はよく覚えていません。ただ、候補に上がるたびにおれは直木賞が欲しいんだ、欲しくてたまらないんだ、とメディアを通じて言い続けてきた胡桃沢さんが、それまでの作風とは少々外れる「私小説」の骨法を用いて戦争直後の抑留体験を小説に仕立て、まあまあ彼も4度めの候補だし、そろそろあげてもいいんじゃないか、みたいなことを言い出す選考委員の票も加味されたうえで受賞が決まったことに、あくまで直木賞にそういう私的な事情を持ち込むものじゃない、と反発した城山さんが、奮然と辞表を叩きつけた、……というようなストーリーがゴシップ好きなマスコミの心を揺り動かして大きな話題となった、ということがあったらしいです。

 選評の載った『オール讀物』はそれから間もなく発売されました。世間を騒がせた城山さんがいったいどんなことを語るのか。ゴシップ好きなワタクシのような一部の直木賞マニアは、きっと期待に胸をおどらせて『オール讀物』を買ったんだろうと想像します。

 そこで城山さんは、上記のような文章を入れながら、自分が辞任を決めた理由を選評に残しました。

「蛇足だが、わたしは今回限りで選考委員を退きたいと思う。

(引用者中略)

わたしは、自分の受賞した経緯からも、また選考委員としての短い経験からも、賞の選考は、さまざまな角度から、おおむね公平、かつ率直に行われてきたと信じている。

ただ、わたしがこれ以上続ける自信と気力を失くした、というだけのことである。」(同上)

 マスコミで取り上げられたような、城山三郎激怒、みたいなトーンはここでは見られません。候補に挙がった作家たちを傷つけず、同じく選考に当たった他の委員たちにも文句を言わず、ただただ自分の心の問題だ、ということに落着させました。

 このあたりが、人間力の長けた城山三郎、面目躍如、といったことで評価もバク上がり。直木賞を踏み台にして大きくジャンプアップした選考委員として一目置かれるようになった……のかどうかはわかりません。ただ、別に選評で自分の進退について説明する義務などなかったのに、どうして自分は辞めるのかを律儀に書き残しておこうとするところが、城山さんの真面目を物語っているのはたしかです。

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2025年11月16日 (日)

「「みんな実にうまい小説を書くものですなあ。」」…五木寛之、第80回直木賞の選評より

 文学賞の審査というのは、候補者が審査される。しかし、決してそれだけのものではない。何をどのように評価して受賞させるか、という意味では実は審査員のほうが審査されているのだ……という、いかにも使い古された考え方があります。

 あまりに使い古されすぎていて、いまさらドヤ顔で言ったところで仕方ないんですが、本屋大賞のランキングが発表されるたびに、作品そのものより、それを選んだ書店員たちの批評眼ってどうなんだよ、とそちらに文句を言うヤカラが後を断たない状況がいまだに続いています。そういう盛り上がりを見ても、文学賞というのは「選ばれるほう」よりも「選ぶほう」に注目したほうが、面白く感じられるんだろうな、と思います。

 いまからだいたい半世紀弱まえの第80回(昭和53年/1978年・下半期)でも、欠席した司馬遼太郎さんを除いて選考委員9人、みんなが選評を提出しました。そのなかで、「選ぶほう」こそ試されている、みたいなことを書いた人がいます。五木寛之さんです。

 五木さんの選評も、なにしろ『僕が出会った作家と作品 五木寛之選評集』(平成22年/2010年9月・東京書籍刊)なんちゅう本が出ているくらいなので、なかなか独特な風味があります。個別の候補作についての批評よりも、全体像を俯瞰したような、エッセイといおうか随想といおうか、そんな文章をたくさん書いてきました。「選考とは関係がない選評」をテーマとして取り上げるには、ぴったりの委員です。

「受賞した二作については、あらためて私が感想を述べるまでもあるまい。読者から問われるのは、今度は選考者の側なのである。」(『オール讀物』昭和54年/1979年4月号、五木寛之「問われるのは……」より)

 というのが、第80回のときの五木選評の締めのことばです。このとき五木さんは46歳。選考委員のなかでは最年少で、他にいたのは、偉そうに該当作なしばかりを連発させてきた「老害」を絵にえがいたようなおじいちゃんたちでした。バッサバッサと候補作を切り刻む、これまでのような攻撃的な選評に反抗してやろうと、五木さんのほうでもおそらく考えていたんじゃないかと思います。

 受賞の二作というのは、宮尾登美子さんの『一絃の琴』と、有明夏夫さんの『大浪花諸人往来 耳なし源蔵召捕記事』です。この回の他の人たちの選評を読んでも、選ばれなかった候補作もすべてが個性にあふれていて、充実した選考だった、ということです。

 そのなかで五木さんは、候補中自分が好きな作家、作風という理由で、虫明亜呂無さんの「シャガールの馬」と、小林信彦さんの「みずすましの街」の2作のみをチョイスし、それぞれに対して自分の感想を語っています。そこの部分はいかにも選評らしいところなんですが、ほかのところは、五木さんの「候補作については語らない」強い意志が全面に出た文章です。

 たとえば、こんな感じです。

「選考の終ったあと、隣席の新田次郎さんが、感に耐えぬおももちで、

「みんな実にうまい小説を書くものですなあ。私などよりはるかに上手な人たちばかりだ」

と、首を振っておられた(引用者中略)篤実な新田さんの、立ち上り際にふともらされた言葉だけに、きわめて実感があった。」

(同上)

 みんなうまい小説を書く。……これも、言いようによっては作品に対する評価の一つかもしれません。

 ただ、これを五木さんは、自分の実感ではなく隣席にいた新田次郎さんの発言として紹介しています。自分の選考態度をつまびらかに明かすことを控えて、あえて別の委員の言葉を持ってきて、選評の一部とする。

 卑怯なようにも思えますが、選評なんてものは、何をどのように書こうが基本的には自由です。五木さんのような趣向もまた、全然ありでしょう。

 個別の評を避けようが、誰に文句を言われる筋合いもありません。ワタクシも別に文句はありません。

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2025年11月 9日 (日)

「現実に私は委員中の最高年齢に達してしまった。」…川口松太郎、第77回直木賞の選評より

 ワタクシは生粋の直木賞ファンです。世のなかにもきっと、たくさんの直木賞ファンがいることと思います。

 それぞれに「好きな直木賞の時代」というものがあるはずですが、ワタクシの場合、しいて挙げるとするならば、昭和50年代前半、1970年代ごろの直木賞が一、二位を争うほど大好きです。なぜか。受賞作が全然出なかったからです。

 直木賞が好きなくせして、受賞作が出なかった時代が好きとは、よっぽどコイツはおかしな奴だと思います。だけど、好き嫌いに理屈なんかないので仕方ありません。

 第70回(昭和48年/1973年・下半期)なし。第71回、第72回は運よく受賞者が選ばれましたが、第73回なし。第74回で受賞があったあと、第75回なし。第76回では受賞者を出しながら、第77回、第78回(昭和52年/1977年・下半期)と連続なし。……これがいまのところ、最後の「直木賞二期連続該当作なし」の記録となって残っています。

 来年1月、第174回(令和7年/2025年・下半期)でもしも該当作が選べなければ連続の「なし」となるので、ようやくその歴史が上書きされるんですが、さて、どうなることやら。がんばれ、直木賞。

 と、それはそれとして選評のハナシです。

 該当作なしばっかりだったこの時代、やはり面白いものを残してくれたということでいえば、授賞することができなかったときの選評がたくさん書かれたことです。今日出海さんはどこに芯があるのかわからないノラリクラリを繰り返す。司馬遼太郎さんは、基本的にグチばっか。石坂洋次郎さんはマイペースに、自分の郷里に対する愛情を隠すことなくぶっぱなす。

 直木賞が受賞作を出せなくたって、出版世界に目を映せば、小説が書かれなくなるわけじゃなく、新しくて面白い小説はどんどん生まれていきます。そのなかで粛々と、該当作なしの選評だけが積み上がっていく。無意味なようでいて、意味がありそうなこの展開を、まるで無責任な立場で外から眺めてみる。面白くないはずがありません。

 第77回(昭和52年/1977年・上半期)は前述のように該当作なしの回でした。とりあえず推した委員がいた、ということで、色川武大さんの『怪しい来客薄』から「空襲のあと」「墓」、井口恵之さんの「つゆ」が『オール讀物』昭和52年/1977年10月号に再録されたうえで、選考委員9人の選評が載っています。

 今回取り上げるのは直木賞選考会では圧倒的な欠席率を誇る書面回答キングこと、川口松太郎さんの選評です。

 ちなみに川口さんは旅行中だったため、この回も書面で回答しましたが、選考会で最後まで議論された『怪しい来客簿』も「つゆ」も、全然高い点をつけていなかったそうです。そしてこんな老人のつぶやきを残します。

「作品の非難は控えるが、現実に私は委員中の最高年齢に達してしまった。年の哀れはもうどうしようもない。若い人たちに追い着こうと思う気もなく、自分は自分なりにやって行くより方法はない。とすると、今や文壇最高の登龍門ともいえる直木賞の委員に長くとどまるべきではない、という気がして来たのだ。

(引用者中略)

鬢髪を染めた実盛の故事を学ぶまでもない。老兵は消えるのみ、とマッカーサー将軍はいった。私も同じ心持でいる。」(『オール讀物』昭和52年/1977年10月号、川口松太郎「選評」より)

 このとき川口さんは77歳。同じ日に選考会をやっている芥ナンチャラ賞のほうでは、瀧井孝作さんが83歳にしてまだ選考委員をやっていましたので、居座ろうと思えば川口さんも続けられたでしょう。

 だけど、たしかに外野から「老害」と言われてもおかしくはありません。それをはっきり自覚して書き残すところが、川口さんらしいです。

 で、この回をもって退任するのか。と思ったら、けっきょくそれから約2年、第80回(昭和53年/1978年・下半期)まで在留してしまったのは何なのか。文春の人に引き止められたのかもしれませんし、川口さん自身、なかなか辞める決断ができなかったのかもしれません。老害は老害で、そう簡単に消えることもできず、大変なんだろうなと思います。

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2025年11月 2日 (日)

「「津軽世去れ節」がよく売れたら、季節を待っておいしい林檎を五、六箱、文藝春秋の直木賞係りの皆さんに贈るよう」…石坂洋次郎、第69回直木賞の選評より

 直木賞は毎回のように注目されます。何が候補になるのか、だれが受賞するのか。社会や経済がどんな状態であろうともお構いなし、戦後から平成、令和と、おおよそ直木賞は毎回毎回、懲りずに注目されてきた、と言ってしまいたいと思います。

 で、注目されているから何なのか。オレはおめえみてえなゴシップ厨じゃねえんだ、そんなチャラチャラした世界に興味はないよ。と背中を向けるのも全然アリでしょう。「多くの人が注目している」というその一点の印象だけで目をそむけてしまうなんて、それ以外のところで直木賞の歴史が積み重ねてきた面白さに出会うことができないじゃないか、もったいないことをする人だなあ、とは思いますけど、何を好きになるかは人それぞれです。無理に引き止める気は起きません。

 それはそれとして、直木賞です。

 今年の7月に選考会のあった第173回(令和7年/2025年上半期)は該当作なしとなって、さあその次はどう出るのか、「なし」のあとにやってくる特有の注目性は高まるばかりですが、いまから50数年まえの第69回(昭和48年/1973年・上半期)のときもやはり、一つ前の回が該当作なしでした。今度もまた受賞作なしになるのか。それとも……という雰囲気が、選考会の前からまわりには漂っていたものと思います。たぶん。

 源氏鶏太さんの選評によれば、第69回の選考会は初めから、前回は該当作を出せなかったから今回こそは何としてでも授賞を出したい、という空気に包まれていた、ということです。

 それでも、みんなが一斉に票を入れる絶対的な作品が候補のなかにあればよかったんですが、そうはならないのが直木賞の常らしく、今回も低調だなと嘆く委員あり、おれはこれがいい、いや、これは駄目だ、と評価が割れる作品もあり、どこに正解があるのかわからない議論が、数時間交わされたと言います。

 それでけっきょく、長部日出雄さんの「津軽世去れ節」「津軽じょんから節」と藤沢周平さんの「暗殺の年輪」、二人に授賞することが決まりました。当初の雰囲気どおり、二期連続での該当作なしを避けることに成功したというわけですが、こうなると「選考とは関係のない選評」を書かせたら右に出る者なし、と言われた王者・石坂洋次郎さんの腕が鳴るのも自然だったことでしょう。

 何てったって、受賞者の一人が津軽の人ですからね。だれが何といおうと選評には郷土愛を炸裂させることを第一の目的としていた(……?)石坂さんが、ここで津軽の話題を書かないはずがありません。

 ちなみにこの回の石坂さんの選評は、1行14字詰で全53行、そのうち落選した候補作についてはまったく触れず、受賞の一人藤沢さんの作品のことはたった4行で、それ以外はほぼ、長部さんの津軽ものと郷土のことばっかり書きました。マジでやりすぎです。

「私自身は候補作品七篇を読んで、長部君の津軽物二篇に一番牽かれた。しかし私はそういう自分を警(ルビ:いまし)めもした。何故なら私は二篇の舞台になっている津軽の出身であり、お目にかかったことはないが作者の長部君も同郷人だというし、もう一つ「津軽世去れ節」を出版した津軽書房の高橋君とは顔なじみであり、それやこれやで「世去れ節」的な理屈抜きの親近感を抱くおそれが大いにあったからである。

(引用者中略)

私は「津軽じょんから節」を読んでいて、チビで酒好きで狂人染みて芸熱心である「桃」という人間は、津軽が生んだ破滅型の作家・葛西善蔵にそっくりなタイプだと思った。農民相手の芸能人であるから、同じ破滅型とは言っても、大地主の家に生れ、知的要素も多い太宰治とは表向き大分ちがってはいるが……。」(『オール讀物』昭和48年/1973年10月号、石坂洋次郎「よかった、よかった」より)

 葛西善蔵とか太宰治とかに対する石坂さんによる人物評が、この回の直木賞の選考と関係ないことは言うまでもありません。この能天気な姿勢が、まさしく石坂さんの持ち味です。

 そして、何をおいても白眉はこの選評の終わり方です。おそらく以前にも何かの機会にうちのブログでは紹介した覚えもあるんですが、「選考に関係ない選評」史上、関係なさでいったらたぶんトップクラスに位置づけられるに違いない、直木賞選考委員・石坂さんを代表する一節だと思うので、あらためて引いておきます。

「最後に津軽書房の高橋君よ、直木賞通過で「津軽世去れ節」がよく売れたら、季節を待っておいしい林檎を五、六箱、文藝春秋の直木賞係りの皆さんに贈るよう、郷土の先輩として勧告する。とび上るほど嬉しかったろうから……。」(同上)

 津軽書房の高橋彰一さんといえば、戦後日本の出版史のなかでもかなりの有名人です。なので、この石坂さんの勧告を受けて、果たして高橋さんが文春にリンゴを贈ったかどうしたか、回想なり資料なりも残っているかもしれません。

 こんなことを選評の場で堂々と言われて、さすがに高橋さんも無視はしなかったと思うんですが、どうしたんでしょうか。気になります。ご存じの方がいればお教えください。

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2025年10月26日 (日)

「次元の低さを大衆的と考えるのでは、むしろ大衆への侮蔑であり、軽視である。」…今日出海、第65回直木賞の選評より

 昭和46年/1971年・上半期、第65回の直木賞も、該当作なしで終わったたくさんある回のうちの一つです。いまから約54年まえの昔のハナシです。

 候補のなかには、押しも押されもしない人気作家、笹沢左保さんの股旅モノが入っていました。これを推す人もいましたが、断固として否定する人の声も大きく、こんなの西部劇か「ひとり狼」そのまんまじゃないか、と結構ボロクソ言う選考委員もいたらしいです。笹沢さんへの受賞の芽はもろくもついえてしまいます。

 あとは、テレビに盛んに出ていた藤本義一さんも注目どころの一人でした。しかし「この人には作家としての定着性がない、という意見がつよく、」「テレビタレントであるということが損をしている」(『オール讀物』昭和46年/1971年10月号、水上勉の選評より)などと、いまならまず炎上するに違いないようなことを選評で言われて、こちらもけっきょくしりぞけられます。

 それで、この回に書かれた「選考とは関係ない選評」といえば、やはり前週も登場いただいた司馬遼太郎さんの文章は見逃せません。奇をてらってか、いきなり冒頭から直木賞とは全然関係ないことを書いています。

「いつだったか、陳舜臣氏と神戸で食事をしていて、はなしが中国の詩のことになったとき、氏がなにか出典を示して、男子の詩は志をのべるもので女子の詩は怨みをのべるものだ、という意味のことをいったような記憶がある。

なるほど中国人というのは詩文で何千年苦労してきただけに、おもしろい詩論があるものだとおもった。むろんこんにち、女子が志をのべてもよく、男子が怨みをのべてもいいが、いずれにせよ、薪をたたき割ったような粗論だけに、小説にもそれが大きい場所であてはまるような気がする。

ところで、怨みものべず志ものべず、どういう衝動に駆られてか、営々として小説を書くというのは、なにかをやたらに空費するという意味で一種の壮観であるにせよ、一面なんだかつまらないような感じがしないでもない。」(『オール讀物』昭和46年/1971年10月号、司馬遼太郎「怨みと志」より)

 うんぬん、といった感じで、今回の直木賞の候補作やその選考、自分の評価のことには触れないままで、だらだらと随想めいたことを続けています。

 なるべく個々の作品については語らずに、総論的なハナシでお茶を濁すというのは、該当作がなかったときに、委員の誰かが繰り出すお約束のようなフォーマットではありますが、なにしろ直木賞の選考にそこまでやる気を見せようとしなかった、と伝わる司馬さんのことです。こういうかたちの選評が多くなってしまうのも仕方ありません。

 で、二週連続で司馬さんのボヤきを紹介して終わりにしよう……かとも思ったんですけど、該当作がなかったときの選評は、みな委員それぞれ苦労するらしく、他にも「それって選評なのか」というような文章を連ねた人がいます。今日出海さんです。

 今さんのことも、何週か前に取り上げました。個々の作品について語るより、もうちょっと引いて、よく言えば俯瞰的に、ぶっちゃけて言えば当たり障りのない総論を書きたがる選考委員でしたが、第65回の直木賞でもその性格をいかんなく発揮します。

 御説、拝聴しましょう。

「川口松太郎氏は常に大衆小説の血脈を新人作家の作品に求めている。純文芸とか大衆文学というのは単なるジャーナリスト評論家が便宜上つけた分類的名称で、ジャンルとして劃然と区別されている本質的な問題とは思えない。文学への情熱に変りはないのだから、作家はやはりそのような人為的な区別を取立てて意識する必要はあるまい。それよりも中途半端な観念的抽象的な小説が横行して、文学の危機を招いている時、直木賞作家の本質的な健康さをむしろ要望したいのである。ただ次元の低さを大衆的と考えるのでは、むしろ大衆への侮蔑であり、軽視である。」(同号、今日出海「直木賞について」より)

 いったい今さんが何を言いたがっているのか。難渋というか、未整理というか、なかなかつかみづらく、正直ワタクシの頭にはスッと入ってきませんでした。

 そもそも、純文芸とか大衆文芸とか分けることに反対しているのか。何か曖昧です。「次元の低さを大衆的と考えるのでは」うんぬんという文章なんかも、いったい何に掛かった意見なんでしょう。選考会の現場では、何かそういう議論でも交わされたのかもしれません。よくわかりません。

 やや混乱した選評を書かせてしまうほど、該当作なしのときというのは、何をどういうか委員の人たちは苦労する、ということなんでしょう。たぶん。

 あるいは今さんが、人を煙に巻く文章を書く力に長けていた、という可能性も当然あり得ます。それか、単にワタクシに人の文章を読む力がないだけか。ううむ、直線的でない選評って、やっぱ難しいっす。

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2025年10月19日 (日)

「わるい時期に顔を出したと思っている。」…司馬遼太郎、第62回直木賞の選評より

 世の中には「司馬遼太郎信者」みたいな人がいます。いや、いまとなっては「いました」と過去形で表現したほうがいいかもしれません。

 別にワタクシも司馬さんのことが嫌いなわけじゃないんですが、生きているときは、国民作家だと持てはやされ、司馬史観なる単語まで登場し、ひとたび誰かが司馬さんの小説を否定しようものなら、うるせえ、シバリョウほどの学識もないくせに、てめえは黙っとけ、とさんざんに叩かれ、ボロクソに言われるような時代があった……などと洩れ聞いています。

 司馬さん自身はそこまで尊大な人ではなかったでしょう。ただ、司馬作品に惚れ込んでいる人たちが、なぜか自分たちの知識をひけからすことに快感を覚えて、やたらとエラそうにしていた、というのも、個人的になかなかその界隈に近寄りたくはないなと思う理由の一つです。

 いやまあ、それはともかく、司馬さんといえば司馬さんですよ。第42回(昭和34年/1959年・下半期)で受賞し、その10年後に選考委員を拝命して、第62回(昭和44年/1969年・下半期)~第82回(昭和54年/1979年・上半期)の約10年、忙しいさなかに委員として選考会に関わりつづけた直木賞にとっての優等生です。激務を縫って、選考会が終わるたびに選評も書いてくれています。取り上げないわけにはいきません。

 今週は、そのいちばん始めの始め、司馬さんが直木賞の選考会に加わった第62回のときの選評です。年齢でいうと46歳のとき。いまでいえば、40代で委員になった三浦しをんさんとか、辻村深月さんとか、米澤穂信さんとか、そのくらいの感じ……と思ってみると想像がつきやすいと思います。いわば、選考委員会のなかでもペーペーです。

 この回は、候補作が8つありました。が、多くの委員は、どうもいいのが見当たらないなと、相変わらずの不平不満を腹のうちに抱え、そのなかでも授賞するならと、田中穣さんの『藤田嗣治』に高評価をくだした人が何人かいたんですが、ノンフィクション作品に直木賞を与えるべきかどうか、おそらくは選考会のなかで大激論があったらしく、けっきょくは「授賞なし」に落ち着いたという、直木賞の歴史のなかでも他の回と同様に、注目されるべき回だったと言っていいでしょう。

 その中で、初めて選考会に参加した司馬さんは、やはり他の委員と似たような感想をもったらしく、8つの候補のなかで直木賞に値するのはなかった、と選評で言っています。で、そう考えた理由を語りはじめる選評の冒頭のところで、なかなか意味深いことを書きました。

「直木賞的な分野にあたらしい小説がおこることは、ここしばらくないかもしれないと悲観的な、というより絶望的な予想をもっていたやさき、皮肉にも審査員の末席につらなることになった。

わるい時期に顔を出したと思っている。」(『オール讀物』昭和45年/1970年4月号、司馬遼太郎「わるい時期」より)

 と、これを「意味深い」と受け取ってしまったのは、ワタクシも司馬さんの魔術にハマっただけかもしれません。すみません。別にそんなに深い意味などないようにも読めてきました。

 だいたい「時期がどうのこうの」と言いたがるのは、一つひとつの状況を無理やりにでも歴史の流れに置いて考えたがる歴史小説家の悪いくせです。そんなこと言い出したら、1960年代後半から1970年代、直木賞的な分野(って、これも具体的に何を指しているのか曖昧ですが)に新しい小説はどんどん生まれていたじゃないか、と思います。

 じっさい、司馬さんの言ったとおり、その後の直木賞は該当作なしがたくさん発生し、いかにも「わるい時期」を示すかのような暗黒時代を迎えました。ううむ、さすがは司馬史観、直木賞の近未来をも予見していたのか! ……となかば感動してしまうなりゆきではあったんですが、いやいや、よく考えれば「該当作なし」がそこまで多くなった戦犯のひとりが、委員をしていた司馬さん自身なのはたしかです。

 「わるい時期」に委員になったとボヤきながら、みずから「わるい時期」のお先棒を担ぐことになった司馬遼太郎さん。もしも司馬さんが委員に入っていなかったら、もうちょっと直木賞の受賞作が増えたんじゃないか、とも思います。これを「予見」と呼んでいいんでしょうか。……自らが最初に言ったことを、自らの手でつくり上げていった「有言実行」の男、と言っておきたいと思います。

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2025年10月12日 (日)

「故佐藤紅緑は、私の郷里・津軽出身の先輩作家」…石坂洋次郎、第61回直木賞の選評より

 いまの直木賞の特徴といえば何でしょう。

 さかしらげに「コレだ!」と断言できるようことは、ワタクシには思いつきませんけど、何となく感じるのは、やたらと全国各地、地域性に密着した盛り上がりがたくさん出てきたな、ということです。

 受賞者の会見などが顕著ですけど、その作家がどこで生まれたのか、どこで育ったのか、どこの学校に通った、どこで働いていた、どこに住んでいる、あるいは受賞作の舞台がどこなのか……ということを含めて、異様なほどに地域色が注目されます。けっきょくのところ同じ日本国内で活動している作家ですし、もっと言えばどいつこいつも同じ地球上の人間です。こんなところで狭い地域の関係性をほじくり返して、いったい何になるんでしょうか。正直よくわかりません。

 まあ、そんなことはどうでもいいです。

 何が言いたいかといえば、これまで170ン回の直木賞の歴史のなかで、選評に書かれたハナシのうち、印象に残る地域といえばいったいどこか、それは青森だ。と言いたかっただけのことです。

 直木賞の選評にはなぜか、チョコチョコと青森のことが言及されています。いや、言及されていました。いっとき直木賞の委員をしていた石坂洋次郎さんが、それって選考とどんな関係があるんだ、というツッコミを待っているんじゃないかと思うほどに、青森がどうだこうだと、選評のあちこちに書き残しています。先週のうちのブログでも取り上げたとおりです。

 先週は、第57回(昭和42年/1967年・上半期)で候補に挙がった平井信作さんのことを同郷人だと言っている石坂さんの文章に触れました。それから2年後の第61回(昭和44年/1969年・上半期)、ふたたび石坂さんの青森愛がマグマの底から沸いてきて、神聖な(?)直木賞選評の場に、自分の郷土の話題をぶちまけます。

 この回、直木賞の候補は7人いました。受賞した佐藤愛子さん(大阪府生まれ)をはじめとして、阿部牧郎さん(京都府)、藤本義一さん(大阪府)、勝目梓さん(東京)、利根川裕さん(生まれは千葉県ながら出身は新潟県)、黒部亨さん(鳥取県)、渡辺淳一さん(北海道)……と、だれひとり、青森出身の人など見当たりません。いや、しかしここで青森、というか石坂さん自身の出身、津軽のことをネジ込んでくるところが、石坂さんの石坂さんたるゆえんです。

 佐藤愛子さんの候補作は、単行本の『戦いすんで日が暮れて』ですが、石坂さんのもとに来ていた情報では、同書に収録された「戦いすんで日が暮れて」「佐倉夫人の憂愁」の2作だったようです。こんなふうに言っています。

「佐藤さんの二作が、今回の直木賞作品に選ばれたが、それについて私は〈よかった〉という私的な親近感を覚えた。というのは、佐藤愛子さんの父君・故佐藤紅緑は、私の郷里・津軽出身の先輩作家であり、太宰治が陰性な破滅型の人物であったとすれば、紅緑は陽性な破滅型――あるいは豪傑型の人物であり、その血が娘である愛子さんにも一脈伝わっているような気がして、同じ郷土気質をいくらか背負っている私をさびしく喜ばせたのである。」(『オール讀物』昭和44年/1969年10月号、石坂洋次郎「津軽の血」より)

 あまりに「私的な」感想すぎて、見ているこちらは茫然とするしかありません。

 佐藤紅緑さんが生まれたのは明治7年/1984年、石坂さんは明治33年/1900年と、26歳離れていますが、同じ青森県弘前市で生まれ、中学は現在弘前高校となっている前身の学校に通っていたという先輩後輩のあいだがらです。その後に歩んだ道は違えども、石坂さんとしても親近感を持っていたんだろうと思います。

 それはそれでいいんですが(って、よくはないか)、佐藤愛子さんの作品を評するはずの場所で、父親がどうだの、血がどうだのと、思わず筆を滑らせてしまうというのは、何なのか。他の候補作家にとっては、貴重な選評の場をそんなことで埋めてしまう耄碌ジジイがいるというのは、いい迷惑だったかもしれませんが、石坂さんが愉快な人だったのは、直木賞の選評からもよく伝わります。

 ぜひ青森の人たちには、直木賞の選評で型破りの郷土愛を書き残した伝説の委員、石坂洋次郎さんを(そういった観点から)もっともっとフィーチャーしてほしいものだと、切に願います。

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2025年10月 5日 (日)

「同郷人の平井君が今度の選に洩れたのは残念。」…石坂洋次郎、第57回直木賞の選評より

 選考とは直接的な関係がない選評を書きがちな直木賞委員、というのはいつの時代にも見当たります。

 久米正雄さんとか小島政二郎さんとか今日出海さんとか、そのあたりが一般によく知られている……のかどうなのか、ワタクシも全然知らないんですけど、そんな直木賞の歴史のなかでも燦然と輝く「どーでもいいことを選評に書く」トップ・オブ・トップというと、いったい誰でしょうか。これはもう、石坂洋次郎さんをおいて他にはいません。

 直木賞ももうひとつの文学賞もとっていないけど超絶な流行作家街道を驀進し、67歳の高齢になってから、なぜか直木賞の選考委員のお声がかかって11年。ボケ老人として直木賞の選考会をかきまわした人、として、うちのブログでもさんざんイジくり回してきました。石坂さんこそ、「選考とは関係ない選評」のテーマにはぴったりの人です。

 はじめて選考に参加したのが第57回(昭和42年/1967年・上半期)のときです。候補者は9人。そのうち、中田浩作さんの「ホタルの里」、平井信作さんの「生柿吾三郎の税金闘争」、生島治郎さんの『追いつめる』の三作を高く評価した、と自身で選評に書いています。

 ただ、けっきょく票が集まって受賞することになった『追いつめる』を、なぜ石坂さんが評価したのか。選評を読んでも、よくわかりません。

 Aという作品のどこかがよかった、Bという作品はどこが駄目だった、とそんなことを選評で示すのは常人のやることで、石坂さんくらいになると、もはや自分がなぜ票を入れたかなんてことは、わざわざ書くまでもない、ということなのかもしれません。

「結局、手慣れた書き方で、暴力団を追及する元刑事を描いた生島治郎「追いつめる」が第五十七回の直木賞に選ばれた。おめでとう。」(『オール讀物』昭和42年/1967年10月号、石坂洋次郎「はじめて審査に参加して」より)

 という部分が、おおよそ石坂さんが『追いつめる』に関して、何がしかの判断を示している(?)と思われます。ともかくは気に入った作品だったようです。

 他の二作については、もうちょっと突っ込んで作品に対する感想を述べています。

 たとえば、中田さんの「ホタルの里」は僻地に赴任した若い青年教師が主人公です。このあたりが石坂さんのカワユイところだと思うんですけど、石坂さんは、自分がそうだったという理由で、そういう地方の学校教師を描いた作品が直木賞の候補になると、妙に甘い点をつけちゃったりします。ただ、直木賞と僻地の教師、といってまずパッと頭に思い浮かぶ三好京三さんの『子育てごっこ』が、のちの第76回(昭和51年/1976年・下半期)で候補に挙がってきたときには、石坂さんは痛烈な批判を繰り出して、その受賞に反対しました。教師を描いた小説だからって、何でもかんでも評価したわけではなかったようです(……って、まあ、そりゃそうか)。

 もう一つ、第57回で石坂さんが高い点をつけたのが、平井さんの「生柿吾三郎~」ですが、それについて書かれた選評こそ、まさに石坂ブシ炸裂、と言っていいでしょう。

「平井信作「生柿吾三郎の税金闘争」は細かい文学的センスなどにこだわらず、体当りで題材にとり組んでいるのがいい。同郷人の平井君が今度の選に洩れたのは残念。」(同)

 石坂さんは青森県弘前市の出身で、平井さんは青森県津軽郡浪岡村の出身。青森のなかでもいわゆる「津軽地方」と呼ばれる同郷人です。

 そんな候補者が受賞することができなかったことは残念だ、という。正直な心のうちを明かした一文には違いありませんが、選考委員が語る選評として、これほどどーでもいいハナシは、そうそう見当たりません。

 燦然と輝く「直木賞の選考とは関係ない選評」の歴史に新たな息吹を与えた選考委員、石坂洋次郎さんの、どーでもよさは実にここから始まりました。今後も、何かしら紹介する機会が出てくるかと思います。燦然と輝いています。

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2025年9月28日 (日)

「きらびやかな才能は、人を眩惑させるが、底浅いはかなさに魅力のあるうちが花である。」…中山義秀、第56回直木賞の選評より

 今日は令和7年/2025年9月28日です。

 ということは何でしょうか。さあ、それでは声を合わせてご一緒に。せーの、「第31回中山義秀文学賞が決まった日です!」。

 ……一年に一回、日本の秋の風物詩といえば、これにまさるイベントはありません。義秀賞の公開選考会が、今年もつつがなく福島県白河市の新白信ビルイベントホールで、にぎやかに、いや、ひそやかに公衆の面前で決定・発表されました。

 基本的に人さまの名前を冠した文学賞は、その人物とはほとんど関係がない、というのが常識です。直木賞もそうですし、アクタ何とか賞も、まあ賞名についた作家とは関係なく運営されています。

 中山義秀文学賞も、義秀さんと関係がない、と言ってしまえばそれまでです。ただ、いちおう運営している人たちは、故郷の生んだシブくて地味な義秀さんの精神を誇りに思い、文学賞のほうもシブくて地味な路線を喜んで貫いていきたい、という思いでやっているっぽいです。

 ということで今週の直木賞の選評は、どうあっても中山義秀さんの言葉を取り上げたいな、と思って探してみました。

 ただ、義秀さんというのは無駄なことはなるべく省いて、必要なことだけをまっすぐ伝えることに長けた人です。選評のほうでも、遊びが少なく、候補作のこと、それを自分がどう読んだのか、ということを愚直に書き連ねているものがほとんどで、「選考とは関係ない」選評がほとんど見当たりません。

 そこで今回は苦しまぎれに、おそらく義秀さんとしてはその回の選考について脳みそに宿った考えを書いたんだろう、と思いながらも、いかにも義秀さんらしい表現をしている箇所に光を当ててみることにしました。

 ときは第56回(昭和41年/1966年・下半期)。いまから60年近くも前の直木賞です。

 受賞者は、いわずと知れた直木賞が生んだトップスター、といいますか、この人が受賞したから直木賞はいっそうキラびやかな存在として世間の人から見られるようになった、と言っちゃってもいい歴史的な受賞を果たした作家。五木寛之さんです。

 選評を読んでもとにかくみんな褒めています。選考会が始まってまず選考委員たちが自分の意中の候補者を示したとき、だれもかれもが五木さんの名前を挙げていきなりの満票。話し合うこともほとんどなく、そうだよね、そりゃ今回はこの人だよね、と委員たち全員が納得して、およそ1時間程度、という直木賞選考会では極端に短い時間で決まってしまったと言います。

 だいたいいつも、他の人とは全然違う方向で順番をつける中山義秀さんですが、それでもやっぱりこの回は、五木さんを褒めています。いや、たぶん褒めているんだと思います。

「当選作者による三つの作品、「GIブルース」、「蒼ざめた馬を見よ」、「艶歌」はみな面白かった。五彩の花火を観るようで、消えた後残るものはない。きらびやかな才能は、人を眩惑させるが、底浅いはかなさに魅力のあるうちが花である。」(『オール讀物』昭和42年/1967年4月号、中山義秀「妄評」より)

 いちおう公式には全会一致、すべての選考委員が最初から満票で五木さんを推賞した、ということになっています。なので、義秀さんも五木さんに票を入れたんだ、と考えれば、たぶん受賞者のことを褒めているんでしょう。義秀さんなりに。

 しかし、さすがと言いますか、何と言いますか。消えた後残るものはない、と言い切ってしまう義秀さんの感覚は、特定の候補者や候補作について語っているようでいて、その後に続く「きらびやかな才能は~」のところは、もう完全にあまねくこの世のことを義秀さんの視線でとらえた、人生訓、ないしアフォリズムと言っていいと思います。

 はてさて、五木さんの小説が、これから先も残っていくのかどうか。作家の大半は、死んじゃったらそれでおしまい、というのが普通ですけど、直木賞の星・五木寛之さんといえども、その運命に抗うことはできないかもしれません。いや、できるかもしれません。まったくわかりません。

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