カテゴリー「直木賞と別の名前」の4件の記事

2024年6月16日 (日)

前田とみ子…離婚と再婚を経るうちに、異なる名前で再出発。

 一人の同じ作家であっても、名前が一つしかないとはかぎりません。直木賞の歴史は無駄に長いですから、一人の人物がちがう名前で候補になった、という例もいくつか挙げることができます。これから一年のあいだに、そういう人のハナシもポツポツと差し挟んでいこうと思います。

 まずは何といってもこの人。前田とみ子さんです。

 昭和37年/1962年、中央公論社『婦人公論』がやっていた公募の新人賞、女流新人賞を「連(れん)」でとり、それがそのまま直木賞候補になりました。

 このブログでは何度も言っていることではあるんですけど、ここで注目したいのは『婦人公論』に載った小説をあっさり候補に挙げてしまった直木賞の鷹揚さです。同じ第48回(昭和37年/1962年・下半期)では山口瞳さんの読み物風の小説も候補になりましたが、そちらは『婦人画報』に載ったものでした。

 婦人雑誌に出た小説を、文学賞の候補に選んでしまう。「直木賞は大衆文芸の賞だ」と言い張って、中間小説誌とかエンタメの単行本とか、そういうところにばかり目を向けるような、凝り固まった事業ではなかったところが、ワタクシが直木賞のことを大好きな、最も大きい理由です。

 あとから振り返ってみれば、前田さんの作品が直木賞の候補になってもとくに違和感はありません。だけど、どうなるかわからない昭和38年/1963年の段階で、よくも当時の文藝春秋新社の人たちは、直木賞の予選を通過させたよなあ、と感心します。悔しかったら、おまえも婦人雑誌の小説を候補にあげてみろよ、芥川賞! ……と、直木賞ファンとして優越感にひたれる数少ない機会をつくってくれた人。それが前田とみ子さんです。

 前田さんは、後年むちゃくちゃ売れる作家になって、全集まで出てしまい、近年になっても評伝的な作品がいくつか出ています。ですので経歴的なことはバッサリ省きますが、高知に住む36歳の一人の女性が、女流新人賞をとったことは地元ではかなりの話題になったことだけは言っておかなきゃなりません。

 大島信三さんの『宮尾登美子 遅咲きの人生』(平成28年/2016年10月・芙蓉書房出版刊)には、「一夜で環境が一変した。」と書いてあります。高知にあったありとあらゆるメディアがいっせいに前田さんのところに取材に訪れ、外出すれば、あのひと、新聞に出ていた女流作家よね、と顔をさされる日々。地元の有力者が語らって祝賀会がひらかれ、他にも受賞を祝う集まりがいくつも開催された、と大島さんは紹介しています。

 林真理子さんの『綴る女 評伝・宮尾登美子』(令和2年/2020年2月・中央公論新社刊)にも、当然、女流新人賞をとったあとの大騒ぎのことが出てきます。「女流新人賞受賞時の地元の熱狂ぶり」と表現されていて、とにかく当時の中央公論社や『婦人公論』というのは権威があった、しかも高知の人たちにとって東京から出ている雑誌の新人賞をとったことは、とてつもなく大きく、新人賞をとって数年のペエペエの新人作家に『高知新聞』が連載小説を依頼して「湿地帯」が載ったのも、その大きさの表われのひとつだった、ということです。

 こういうのを読むと、徳島の中川静子さんのことを思い出してしまいます。中川さんもまた、オール讀物新人賞を受賞して、東京の出版社から期待されて上京、どうにか職業作家の道を歩もうと努力しますが、けっきょくうまく行かずに帰郷しました。他にも、昭和30年代、40年代、こういった例はたくさんあったものと思います。ひまな人は誰か調べてみてください。

 それはそれとして、前田さんの直木賞候補についてです。「連(れん)」が『婦人公論』に掲載されたのが昭和37年/1962年11月号。翌年1月、直木賞の選考にかけられ、ほとんどあっさりと落選しました。それから14年たった2度めの候補のときのことや、さらに2年後の直木賞受賞のときのハナシは、以前うちのブログでも書いた気がします。『全集』に収められた日記、そのほかのエッセイなどもあって取り上げやすいんですけど、では初めて候補になって、高知の家で連絡を待っていた1回目の候補のときは、どんなふうだったのか。……よくわかりません。

 かつて引用したかもしれませんけど、いちおうご本人が「連(れん)」の直木賞候補のことを書いている、公開された日記の一部を引いておきます。

「考えてみれば、直木賞の候補はこれで三度目。一回目は『連』のとき。二回目は『陽暉楼』。『一絃の琴』でやっと当選。なんだか割り切れぬ気持ちがあり、浮かれてばかりもいられないというのが実感。そして、私は受賞第一作は書かないことにする。」(平成6年/1994年1月・朝日新聞社刊『宮尾登美子全集 第十五巻』「昭和五十四年一月二十一日」の項より)

 3度も候補になってようやく受賞したことが気持ちとして割り切れない、というふうにも読めます。そりゃあ落選です、落ちました、と何度も聞かされるより、一度目できれいにとってしまえれば、前田さんもよかったかもしれません。

 ……よかったかどうかは、誰にもわかりません。前田さんがのちに作家として成功したのは、昭和38年/1963年に前田薫さんと離婚が成立して、翌昭和39年/1964年に宮尾雅夫さんと再婚、徐々に「前田とみ子」のペンネームが削げ落ちていくあいだに、書いても書いても読み捨てられるライター稼業に従事して、やがて新たな筆名(というか本名)で再登場するという雌伏の期間があったからだ、と言い張る人もいるでしょう。

 人の人生なんてものは、あとから見ればだいたい結果論です。そこに何の法則も規則もありません。ただ、他人の人生をはたから見ているだけの直木賞ファンにとっては、前田さんが離婚・再婚によるペンネームの変更といういきさつで異なる名前で候補・受賞の両方を経験した、直木賞史上ただひとりの作家となった偶然を、不思議なこともあるもんだなあと面白がるばかりです。

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2024年6月 9日 (日)

稲垣史生…50歳を迎えて思うところがあり、また別の名前を(一瞬)使い出す。

 なぜ人は小説を書くんでしょうか。

 ……そんなもの、理由や動機は人によってまちまちです。「これだ」と確実に言えることなど、一つもありません。愚問というか、無意味というか、そんなことを考えるより、じっさいに書かれた小説を鼻くそほじくりながら読みあさるほうが、なんぼかマシでしょう。

 それで今週取り上げる稲垣史生さんですが、時代考証の世界に燦然と輝く伝説的な偉人、こまかい地味な仕事を何十年にもわたって続けたという、ある種の狂人でもあります。昔の日本の暮らしや制度、文化や芸術をあさって調べて、コツコツとそれを文章などに書き残し、歴史ドラマや小説などでおかしな点を見つければ、それは違う、事実はこうだ、と重箱の隅をつつきながら収入を得ていた人です。そんな人がどうして自分でも小説を書こうと思ったのか。……よくわかりません。

 ものの本によりますと、稲垣さんは明治45年/1912年5月の生まれ。付けられた名前は稲垣秀忠と、奇しくも(あるいは意識的にか)徳川二代将軍と同じ名前でした。出身地は富山県東礪波郡出町、いまでいう砺波市の中心部で、実家は街で古くから「唐津屋」という陶器店をやっていたお家柄。旧制砺波中学から早稲田の高等学院に進み、そのまま大学も早稲田に進んで昭和11年/1936年、早大文学部国文科を卒業します。

 その年、都新聞社に入社すると社会部に配属され、怒濤の新聞記者生活が始まりますが、どうやらすでに歴史への関心、あるいは文学への興味をどっさり抱えていたらしく、ものを書くにも蘊蓄の一つや二つを挟まなければ済まない、なかなかの自信家ぶりを発揮。昭和15年/1940年には、日本がよそさまの国に我がもの顔で侵略するのに合わせて、稲垣さんも海を渡り、満洲、北支、蒙彊を旅したのちに、その成果を小説のかたちでいくつか書いたりします。およそ齢は20代から30代。小説を書いていきたかった人のにおいがぷんぷんです。

 そこで付けた筆名が「稲垣史生」という名前です。どうやらこの名にこだわりがあったようで、その後、終生使いつづけました。

 しばらくのあいだ小説も「史生」名で書いていたんですけど、戦後になって新聞・出版の裏方をしながら時代小説、時代読み物を書くうちに、いっちょまじめな歴史物を書いてやろうじゃないか、と思い立ったのかどうなのか。また別の筆名を持ち出してきて小説を執筆すると、第19回(昭和36年/1961年度下期)のオール讀物新人賞で「雪の匂い」が佳作にとられ、翌第20回では「花の御所」が見事、受賞に輝きます。

 おそらくこの当時の、稲垣さんの創作熱の高まりは、「花の御所」を収めた単行本『花の御所』(昭和38年/1963年2月・光風社刊)の「あとがき」に表われているものと思います。御説、拝聴いたしましょう。

「七年の新聞記者生活や海軍報道班員としての活動、それから戦後のめまぐるしい変転を経験し、やっとものを考える時間的な余裕を得て、そして書いたのがこの四篇(引用者注:「人質槍」「折焚く柴の記」「金閣寺伝奇」「花の御所」)です。何か訴えるものがあるとすれば、過去の経験の中で、いちばん痛切に感じたものの流露かも知れません。

四篇とも三十七年ちゅうの執筆です。(引用者中略)この年の五月、私はまた「戦国武家事典」を出したのですが、その資料を四篇の作品ちゅうに大いに使いました。したがって、テーマに資料に、今まで私の蓄積し来ったものを、ここに作品化したとも云えるでしょうか。」(『花の御所』「あとがき」より)

 稲垣さん、年はちょうど50歳を迎える頃合いです。人が過去を振り返り、ついつい先のことを考えて、いまのうちに何かしておかなくちゃな、と切実に思い悩む年代……といえば年代です。

 オール讀物新人賞を受けた「花の御所」は、『オール讀物』編集部の熱い推薦(ないしはコネ)で、そのまま第48回(昭和37年/1962年・下半期)直木賞の候補にまで選ばれます。しかしこの回は山口瞳さんの「江分利満氏の優雅な生活」はまだしも、杉本苑子さんの『孤愁の岸』という、ド級に熱のこもった長篇歴史小説が対抗馬にいたものですから、稲垣さんの作品など出る幕もなく、お歴々の選考委員から難クセのような手厳しい選評を受けて、あっさり落選。なかでも大佛次郎さんが「辞典や調査の煩わしい仕事をすこしお休みなさい。」(『オール讀物』昭和38年/1963年4月号)と書いているのが、やさしさなのか、無茶ぶりなのか、わかりませんけど、もっと小説に本腰を入れたらどうですか、という親切なアドバイスだったのは間違いありません。

 しかし稲垣さんがそれをどこまで受け入れたか、というと、どうもあまり聞き入れた感じがありません。一瞬使った「稲垣一城」の名前は、知らないあいだに見なくなり、時代考証家・稲垣史生のほうが前面に打ち出され、そのまま暴走老人、突っ走りました。

 50歳にもなれば、人はあまり他人の言うことを素直に聞かなくなりますからね。小説だけが人生じゃなし、自分の信じた道を進んで、それはそれでよかったんだと思います。

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2024年6月 2日 (日)

一色次郎…長年使ってきた本名が気に入らずに、筆名をつけたら文学賞を受賞。

 一般的に「別の名前」というと何でしょうか。物書きの世界では、本名とペンネーム、という組み合わせが真っ先に思い浮かびます。

 本名で本職に従事している人が、会社にバレないように、あるいは別の人格になりたくて、あるいは、他人には想像のつかないその人だけの事情があって、ペンネームで小説を書き始める……。よくあるハナシです。

 直木賞の歴史のなかでも、そういう人はたくさん登場してきました。いちいち取り上げていたら、それだけで一年間が経ってしまいそうです。ただ、その例を除いてしまうと、とうていネタが持ちそうにないので、少しずつ取り上げていくことにします。

 まずはこの人。「一色次郎」さんです。

 ケースとしては稀かもしれません。もとは本名で活動していて、その名前で直木賞の候補にも挙がりましたが、一般に知られる作家にはなれなかったところ、筆名を「一色次郎」として心機一転。すると昭和42年/1967年に第3回太宰治賞をとってしまい、一気に運がひらきはじめて、そちらの筆名のほうで文筆業をまっとうしました。筆名を変えて(新しく付けて)成功した例、と言っていいでしょう。

 鹿児島県沖永良部島生まれ。3歳のとき父が八合事件で検挙されて獄中で死んでしまったのを機に、一家で鹿児島市内に移住。しばらくそこで生活します。父方の叔母が熊本に嫁いでいた関係で、昭和9年/1934年から昭和10年/1935年、同地で暮らし、そのあいだに雑誌や新聞に文章を発表、私家版で創作集も一冊出しますが、それで何がどうなるわけでもなし。からだを壊して鹿児島に帰郷、しかしどうしても小説家になりたいという夢があきらめ切れず、昭和12年/1937年、21歳で東京に出てきます。しかしそこからがさらなる地獄の始まりです。そう簡単に陽の目を見る機会は訪れず、職を転々とし、先の見えない窮乏と苦難の人生が幕を開けます。……といったことは、うちのブログで何かのときに書いた気がします。

 昭和24年/1949年、『三田文学』に短篇「冬の旅」が掲載されます。本人によれば、それが自分の文学作品がはじめて活字になったものだということです。ずいぶんと周囲でも評判がよく、おそらく誰かに推薦されて第22回(昭和24年/1949年・下半期)直木賞の候補にまで残ります。しかし受賞はできません。

 この頃、一色さんは33歳で家族持ち。何の賞も受けなかったけれど、やっぱりおれは筆一本でやっていきたいんだ、と(おそらく)雄叫びを上げて文筆の生活に入ります。基本は売り込みと注文原稿をこなす、いわゆる売文の日々です。とくに子供向けの伝記・読み物の類いに需要が多く、一色さんも日本児童文芸家協会の会員として数多くの児童書を手がけました。

 一色さんが2度目の直木賞候補になったのは第45回(昭和36年/1961年・上半期)のことです。最初の候補から10数年。今度は『西日本スポーツ』に連載した「孤雁」という時代小説で、まあ一色さんが目指した文学的な作品とは大きく距離を隔てた、剣豪ものの小説です。面白いことは面白いが、うーん、これでは文学賞はあげられないな、と選考会でも厳しい意見が議場を飛び交い、やっぱりここでも一色さんは浮上できません。

 ここまでやってきて、そろそろ50の声を聞く年代です。どうも、おれの本名がよくないんじゃないのか、と自分の名前にせいにしてしまったのは、一色さんとしてもワラをもすがる苦し紛れの発想だったかと思います。考えてみれば、昔からおれは自分の名前が好きじゃなかったんだ、といよいよそこまで思いつめ、名前を変えることを決心します。

「父が得意になってつけたのであろう典一の内、典の字が特に気にくわない。ある気まぐれに辞典を引いてみたら「典の字には、質草あるいは質へ行くという意味がある」と書いてある。トンデモナイ話だ。これでは、いつまでたっても、うだつが上がるわけがない。大屋の字にしてもそうだ。小屋みたいなところに住んでいて、大屋でもあるまい。」(昭和43年/1968年6月・大和書房刊『わが人生の遍歴 古里日記』所収「筆名」より)

 こじつけといえば、こじつけです。姓名判断なんてものは、多かれ少なかれ、眉つばモノのこじつけだ、と言ってしまえばそれまでです。

 いったい名前が悪かったのか。それとも、文学の主流・王道とは別のところを走っている直木賞なんてものの候補に挙げられたのが、いけなかったのか。どっちにしても結果論ですけど、一色さんは新しい筆名を考えました。「一色」は、少年時代に少しだけ住んでいた兵庫県一色村にちなんだもの。「次郎」は、人生うまくいかずに事業に失敗して死んでいった祖父の名前をそのまま拝借した、ということです。

 昭和42年/1967年、50歳をすぎて太宰賞を受賞できたのは、付けた筆名がよかったからだ。……というのは、さすがに無理があります。ただ、そのおかげで「直木賞候補者」として語られることがほぼなくなり、「太宰賞受賞者」の肩書きがつきました。直木賞より太宰賞。一色さんにとっても本望だったことでしょう。

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2024年5月26日 (日)

関伊之助…「大衆文芸」のレッテルを壊したくて、あえて自分の名前を隠す。

 「直木賞と別の名前」。いちばん最初は誰にしようかと考えたんですが、やっぱりこの人しかいませんよね。

 うちのブログでも、何度も取り上げてきた人です。今回の件もあまりに知られすぎていて、何ひとつ新鮮さはありません。でもまあ、奇をてらうことに価値があるわけじゃなし、ベタなハナシでも馬鹿にしたりせず、書いておいてもいいんじゃないかと思います。

 「関 伊之助」。この名前を使って小説が発表されたのは昭和22年/1947年5月のこと……いや、5月刊行と奥付に入っているということは、世に出たのはその年の春ぐらい。舞台は、もともと新潮社に務めていた和田芳恵さんが大地書房に入社して創刊した『日本小説』という新雑誌です。

 目次には、高見順、丹羽文雄、林房雄、太宰治、林芙美子などなど、すでに当時よく知られた作家たちに並んで、まるで誰も知らない書き手がポツリとまじっていました。「関 伊之助」です。小説「裸婦」というのを発表しています。あらすじを語ると、こんな感じです。

 「東京芸能社」という看板を掲げて仕事をしている「わたし」は、京都に来たときにはいつも「浜むら」という席貸旅館に泊まっています。戦時中、席貸旅館なんてぜいたくだというので、商売が禁止されたため、「浜むら」も泣く泣く店を閉める羽目になりますが、女将のお梅から相談を受けて、「わたし」は一つの案を授けます。この建物は自分の事務所ということにして、女将や女中たちには自分が給料を払うようにする。それでこれまで通りに、自分が京都に来たときは世話してくれないか、というものです。お梅は、それはよろしおまんなあ、と快諾。「わたし」はこの家の主人格になります。

 「浜むら」には長く務めている女中のよし子がいました。年は31歳。これまで何度もあった縁談はすべてうまく行きませんでしたが、昭和18年/1943年、突如、縁談がまとまります。相手は太田と名乗る海軍の少尉で、よし子は「わたし」のもとを去りました。

 しかし結婚して4か月で、旦那に出征命令が下り、甘い新婚生活はすぐに終わりを告げてしまいます。どうやら今度の縁談は、そもそも召集されることが前提に進められたもので、戦場に引っ張られるまえに嫁を迎えて子供をつくらせることが目的だった、とのこと。ところがよし子とのあいだに子供はできず、それから1年たって相手の少尉は戦死してしまいます。

 よし子は軍人の未亡人となったわけですが、ここで軍部から思いがけないハナシを聞いてうろたえます。いわく、調査したところ、おたくと主人のあいだには正式な婚姻届が出ていない。籍が入っていないとなると、軍のほうでも未亡人への対応が大きく変わってくる。いったい、どういう事情で届けを出さなかったのか、と。

 ……よし子にとっては寝耳に水です。あわてて舅に問いただしてみると、もしも籍を入れて息子が死ねば財産の権利はすべて妻に行く、息子がどうなるかわからない段階で急いで届けを出すこともないだろう、とたしかに婚姻届は役所に出されていなかったことが判明しました。ナニッ、それでは死んだ少尉―英霊の生前の意思とは反するではないか、けしからん、と軍部のほうではかんかんに怒って、警察沙汰になり、舅はまさかの豚箱行きです。

 自分は別に財産目的で嫁に来たわけでもない。戦争未亡人として国から手厚く保護されたくて結婚したわけでもない。よし子は、そのなりゆきを悲しみ、軍と嫁ぎ先のあいだで居たたまれなくなって、ついには疎水に身を投げてしまいます。

 しかしよし子は死にきれませんでした。濡れネズミの状態でやってきた彼女を、「わたし」は必死で介抱することになりますが、服をすべて脱がせて全裸のよし子を、そのときはっきり見た……というのが題名にある「裸婦」の意味です。

 その後よし子は回復し、戦争も終わって「浜むら」も営業を再開。元のような生活に戻ります。末尾の一文は、こうです。

「戦争がわたしに与へたたゞ一つの幸福は、深夜にさぐり得た美しい肉体の満喫であつたかも知れない。」(「裸婦」より)

 おおむね戦時中に不幸に襲われた一人の女性のハナシではあるんですが、題名もそうですし、作中に女性の裸が出てくるということではちょっぴりエロチックでもある。戦後の一時期やたらと書かれた、微妙にエロの香りがする現代小説の一つ、と言っていいでしょう。

 これがけっこう評判がよく、いったい「関 伊之助」とは何者なんだ、と一部では話題になったと言われています。作者自身は、その後もこの名前で書いていこうという意欲があったみたいですが、挿絵を担当した宮田重雄さんがポロッと正体の名前を言っちゃったため、なーんだ、と世間にバレしてしまったそうです。なんてことしてくれたんだ、宮田重雄。

 まあ、宮田さんを責めても仕方ありません。ともかく作者と、それを担当した和田芳恵さんが、なぜ別の名前を使ったのか。その理由に直木賞とも無縁とは言えない、深くて哀しい当時の状況が横たわっていることが重要です。

 作者はバリバリの大衆文芸作家と見られている中堅作家。しかし、「大衆文芸」と言うだけで、それって純文学じゃないんだね、と馬鹿にされ、真剣に取り上げてもらえない、という感覚が世間にはびこっている。これをどうにか壊したい。作品そのもので勝負するためには、自分の名前を隠すしかない。というわけです。

 直木賞も、ただただ「大衆文芸」の賞、ということだけで、ああ大衆向けの小説ね、とレッテルを張られ、純文芸と呼ばれる作品や作家たちと同じ土俵で語られない、という時代が長くつづきました。いまでも、その状況は少し残っているかもしれません。そういう一般的な認識を壊したい。直木賞(のなかの一部の選考委員)が歴史的にやってきたのは、大衆文芸からの脱却の挑戦だったんですけど、その現実を見たとき、「関 伊之助」の名前を使った第1回直木賞の受賞者=川口松太郎さんも、ある意味、直木賞と似たことをやろうとしたのではないか。そう思います。

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