カテゴリー「直木賞と親のこと」の49件の記事

2024年5月19日 (日)

村上さだ(逓信技師の妻)。おれ作家になる、と言った息子のことを喜んで支援する。

 人サマの親がどんな人だったのか。調べていてもキリがありません。ちょうど「直木賞と親のこと」も今週で50回目です。ここらで打ち止めにしたいと思います。

 ということで最後に取り上げる直木賞の候補者なんですが、またまた大昔の作家ですみません。第12回直木賞(昭和15年/1940年下半期)を「上総風土記」その他で受賞した村上元三さんです。

 受賞しただけではなく、第32回(昭和29年/1954年・下半期)から第102回(平成1年/1989年・下半期)まで、長きにわたって選考委員を務めました。重鎮中の重鎮ですから、何だかんだと、うちのブログでも触れてきたような気がします。けっきょくまた以前取り上げたことを蒸し返すだけになるかもしれません。

 それはともかく村上さんも、直木賞を受賞するまでの人生には、親のことが色濃く漂っています。いまさら、こんな人物の生涯を振り返って何になるんだ。その意味はまったくわかりませんけど、最後のエントリーもまた、何ひとつ結論めいたことのない直木賞受賞者の親のハナシです。

 父は村上慶治。生まれた年は不明で、くわしい生い立ちもわかりませんが、慶治さんの父親はもともと盛岡藩の武士だったそうで、幕末から明治維新を経験し、九州で起きた西南の役にも参加した人です。息子の慶治さんはそれとは違って技術畑の道に進み、逓信技師となって国からお給金をもらう公務員になります。

 手に技術のある人は、たいてい引く手あまたで大忙しです。慶治さんも日本全国いろいろと異動させられ、せわしない日々を送りますが、ちょうど北海道の函館に赴任していた頃、現地でずきゅんと恋に落ちちゃいます。お相手は、函館の網元の娘として生まれた豪傑お嬢、〈さだ〉さんです。

 〈さだ〉さんもまた詳しい履歴はわかりません。元三さんの書くところによれば、〈さだ〉さんの実家は函館の網元「福島屋」で、跡取りとなる息子がいなかったために会津藩の武士で函館に渡った佐久間千代美さんが、そこに婿に入るかたちで家を継ぎ、家付き女房〈やお〉さんとのあいだに6人の子をなします。それがすべて女の子だったらしく、上から2番目が〈さだ〉さんだった、とのことです。

 ともかく慶治さんと〈さだ〉さんはめでたく恋愛を成就させて、一つの家庭をつくります。変わらず慶治さんは転勤が多く、〈さだ〉さんといっしょに引っ越しの繰り返し。そのあいだに和子さん、英雄さん、と子供が生まれますが、逓信官吏として海を渡り、明治43年/1910年3月、日本の支配が強まる朝鮮半島の元山府に移ったところで生を受けた男の子が元三さんです。元山で生まれた三男だから「元三」と名づけられたのだ、と伝わっています。

 家族とともに幼い元三さんも、いくつもの土地で、少し住んではまた転居する、という生活を送ります。京城、大阪、樺太・豊原……。元三さんが中学に進む頃には東京にやってきて、渋谷の宮益坂に住むことになり、元三さんは青山学院中学部に入学しました。

 ところが慶治さんが何を血迷ったか、役所を辞めて自分で事業を興すことを決意します。その辺り、事情はよくわかりませんけど、おそらくは慶治さんも50歳前後、思うところがあったに違いありません。元三さんが中学部を卒業した昭和3年/1928年に、家族をひきつれて静岡県の清水市に引っ越し、そこで製材製函業を始めます。

 しかし、そう簡単に商売がうまくいったら、日本じゅう億万長者だらけになっちゃいます。慶治さんの事業は苦難の連続で、次第に経営も傾き出し、村上家ジリ貧に陥ります。そうだ、おれには海の向こうに手づるがある、ちょっと行って資金を調達してくるわ、と慶治さんは言い残し、勝手に一人で朝鮮に行ってしまいます。元三さんの兄や姉は、結婚したり独立したりしてすでに家にはおらず、残されたのは〈さだ〉さんと、元三さん、その妹・美代子さんの3人きり。もはや慶治さんを頼ることはできません。

 元三さんだいたい20歳ごろから数年にわたるこの時代が、経済的にも精神的にも最も苦しい頃だった、といまからみれば推察されます。どうにかなるのか、おれの人生。一家3人で浅草のアパートに一室を借り、自分でも働けるところはないかと仕事を探す日々を送ります。

 そんなときに見かけたのが『サンデー毎日』に載っている大衆文芸懸賞の募集記事です。入選すれば賞金300円。当時としては魅力的な額です。ここで元三さんは腕試しのつもりで小説を書き、昭和9年/1934年、書き上がった「利根の川霧」を編集部宛てに送ります。残念ながら入選はしませんでしたが、選外佳作15編のうちの一つに残り、恒例の増刊号「新作大衆文芸」に掲載されると、それが映画会社の目にとまったおかげで、映画の原作料というかたちで100円を手にすることができました。おっ、おれやれるかも。むくむくとやる気がみなぎる元三青年。

 つづいて半年後に応募した「近江くづれ」も、大衆文芸懸賞で選外佳作に入り、いよいよ元三さんは作家になることで身を立てようと考えます。大衆文芸の選者だった千葉亀雄さんを新聞社に訪ねて相談したところ、お母さんに相談してみて、了解が得られるのなら、ぜひとも挑戦してみるといい、と背中を押されたので、家に帰って〈さだ〉さんに自分は小説でやっていこうと思う、と告白。すると〈さだ〉さんは笑顔をみせて、「わたしも貧乏してもいいから、しっかりおやり」と手放しで賛成し、なけなしのお金をはたいてその晩の食卓に、鯛ならぬ尾頭つきの青魚を出して門出を祝してくれたのだ、ということです。いいハナシです。

 ちなみにその後〈さだ〉さんは、息子の直木賞受賞を知ることなく、昭和13年/1938年3月5日、病であの世に旅立ちます。朝鮮に行って行方知れずだった父の慶治さんは、昭和19年/1944年になって帰国、子供たちとも再会しますが、健康状態は最悪で、病院に行ったところ肺の病気との診断です。鎌倉の療養所に入所して様子を見ますが病状が悪化し、その年の11月に亡くなりました。

 ということで、両親のうち、元三さんが作家になるまでの歩みで重要なのは、やはり母の〈さだ〉さんの存在だったかと思います。直木賞とは直接の関係はありません。しかし、〈さだ〉さんは小説を読むのも大好きな人だったようで、元三さんが直木賞を受賞して出版した単行本『上総風土記』(昭和16年/1941年5月・新小説社刊)にも、しっかりとその痕跡を残しています。

 「あとがき」にこうあります。

「直木賞審査の総評の中に、僕を才気のある作家だといふのと、鈍根の作家だといふのと、二通りあつた。どう自惚れて見ても、僕には才気はない。鈍根の方が當つてゐる。

僕にとつて良き批評家であつた母が、いつも云つてゐた。

「お前の書くものは、がさがさしてゐて、ふんわりした處が無いし、ちつとも色氣が書けてゐない」

その母が亡くなつてから、丸三年経つのに、僕はまだ母の註文したやうなものが書けないでゐる。この本を佛壇に供へる時、僕は面目なくて、今にうまくなるから、と母に詫びるよりほか仕方がない。」(『上総風土記』「あとがき」より)

 この忌憚のない批評が、肉親の愛ですよね。直木賞の選評で、村上さんに才気があるとのたまった某氏(……吉川英治さんです)より、母親〈さだ〉さんの言葉のほうに、ここでは軍配を上げておきたいと思います(って別に勝ち負けじゃないか)。

          ○

 「直木賞と親のこと」、もっと取り上げなきゃいけない作家や親のエピソードは残っていそうな気がしますが、これでやめておきます。来週からはテーマを変えて……といっても、別に新鮮なことは何ひとつ書けやしないんですが、ひきつづき直木賞に関するようなことを書いていくつもりです。

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2024年5月12日 (日)

岡田次郎蔵(町人学者)。息子が新聞記者の入社試験を受けたことを、ことのほか喜ぶ。

 エッセイも小説も、だいたいが紙一重です。自分の身の回りのことを語っていて、ほとんどエッセイ=随筆のように見えるのに、あえて「小説」と銘打っているものもあります。境目があるようでないような、よくわからない世界ですけど、正直、読者にとってはどっちでもいいです。

 直木賞史上、奇跡の復活を果たしたナニワの硬骨新聞記者、岡田誠三さんは、昭和50年/1975年3月に出した『定年後』(中央公論社刊)がその復帰作です。これも中身はほとんど実際にあったハナシを自分の視点で描いているエッセイではあるんですけど、ときに「自伝小説」「私小説」と呼ばれ、ときに「ノンフィクション」とも呼ばれる、相当分類の難しい一作でした。さすが「報道小説」なる意味不明な角書きを付された作品で直木賞をとった人だけのことはあります。フィクションもノンフィクションも、すべてはいっしょくたです。

 それで岡田さんといえば、やはり親への関心が強烈に全身に宿っていた物書きと言っていいでしょう。

 『定年後』のなかにも、たびたび「大阪の奇人」と呼ばれた父親が出てきます。この作品が話題となって売れたあと、次の作品の『自分人間』(昭和52年/1977年1月・中央公論社刊)その父親を題材に選んでいるところからも、誠三さんがいかに父親と向き合いたがっていたのかがわかります。と言いますか、『定年後』の献辞には「この一書を故上野精一翁と亡き父母の記憶に捧げる」とありました。よくよく親のことが書きたかった人なのは間違いありません。

 父は岡田次郎蔵。号は播陽。明治6年/1873年11月6日(10月15日とする文献もあり)生まれ、昭和21年/1946年4月22日没。出身は兵庫県印南郡大塩村で、実家は田舎の村にありながら書画や俳諧を趣味とする村夫子の構えをなしていたらしく、次郎蔵さんもそういう空気を吸いながら育ちます。

 しかし、絵とか文とかにかまけていたって、おなかは膨れません。本を買ったり絵にお金をつぎ込むうちに家運も傾きかけ、これじゃ駄目だと危機感を抱いたのが、次郎蔵さんの父親、良太郎さんです。おまえらは小学校を出たら商売の勉強をしろ、と子供たちに言い聞かせ、次郎蔵さんもまた高等小学校を終えると、よそに奉公に出されます。

 数え十一のときに次郎蔵さんが奉公先に選んだのが、兵庫にあった北風荘右衛門のお店です。なぜそこなのか、といえば、北風家はかつて大塩事件に関係したことがあったからで、当時すでにこの事件に興味を持っていた次郎蔵さんが、平八郎のことを知る書類が店のどこかに眠っているのではないかと期待して、わざわざ奉公先をそこにしたのだ、と言います。結果、めぼしい資料は残っておらず、翌年、次郎蔵さんは大阪に移って「えり富」という古着屋に勤めることになりました。

 少年から青年へ。10代から20代を「えり富」の店員として過ごします。その間も学問や芸術にはずっと関心を持っていたはずですが、趣味ばかりにうつつを抜かしている余裕はなく、ともかく働かなければ生きてはいけないのは、いつの時代も同じです。古着屋の丁稚として次郎蔵さんも人並みに労働に従事します。

 次郎蔵=播陽さんのことは、誠三さんの息子、岡田清治さんがホームページ「人生道場 独人房」のなかで紹介されています。清治さんには昔、『消えた受賞作』をつくるときに大変お世話になりましたが、その後お元気でしょうか。とそれはともかく、ここで『大塩公民館たより』を引用するかたちで掲載された経歴によれば、朝鮮・支那に遊学したり、十合呉服店に入ったりと、独立するまでにいろいろと経験を積んだ模様です。若いうちは何でもやっておいたほうが、そりゃあいいと思います。

 そこに紹介されている年代と、誠三さんが『自分人間』で書いている内容には、多少の食い違いもあるんですが、『大塩公民館たより』のほうを活かして書いておきますと、心斎橋筋に自前で「播磨屋呉服店」を開店したのが明治29年/1896年のこと。許嫁となる相手はすでに決まっていて、良太郎さんの弟にあたる人が京都で三代清風与平となった清水焼の陶磁家で、そこに生まれた娘と大きくなったら結婚させる、と両家で話し合われていたそうです。二つ年下のその娘さん、玉さんと次郞蔵さんは結婚します。明治31年/1898年のことでした。

 二人のあいだには長く子供ができませんでしたが、長男の良一さんが生まれたのが明治41年/1908年。次郎蔵さんが数え36歳のときのことです。その後、明治44年/1911年に修二(早世)、大正2年/1913年に誠三、大正3年/1914年に實(早世)、大正5年/1916年に照子と設けますが、とくに次郎蔵さんは長男にむちゃくちゃ高い期待をかけたようです。うちの子供だ、頭がいい、そうに決まっている、と根拠がありそうでなさそうな親バカぶりを発揮。遊びほうけて成績が悪けりゃ頭ごなしに叱り飛ばしたりして、そうこうするうちに良一さんはグレて家にも寄り付かなくなります。まあそりゃそうだよね、といった感じです。

 家業の呉服店はしばらくは順調に経営がまわっていましたが、景気は上がったり下がったり、安定したものでもありません。大正末期から昭和初期の社会的な不況に次郎蔵さんとこも堪えることができず、昭和3年/1928年に店を畳むことになります。そのとき次郎蔵さん、数え56。もう好きなことだけで生きていくぜ、と大塩平八郎の系統をひく陽明学を中心にいろいろと調べては、物を書いて発表する町人学者として生きていきます。

 直木賞ができたのが昭和9年/1934年12月。いちおう世間ではあまり話題にならなかった、と信じたがる人もいるみたいですけど、そうは言っても、知っている人は知っている、多少の知名度はある文学賞としてコツコツと運営されていました。大阪に住み、終戦まぎわの昭和20年/1945年にふるさとに転居した次郎蔵さんが直木賞のことを知っていたのか。知っていた可能性は十分にあります。

 ただ、そんな回想は息子・誠三さんの書いたものにはまったく出てきません。誠三さん自身、自分が直木賞を受賞したと知ったのは、昭和19年/1944年8月、従軍先のマニラで新聞に出ていたのを見たときだったそうです。戦時中に、多少でも受賞記事が新聞に載っちゃうのが、直木賞のなかなか油断できないところですけど、だとすれば次郎蔵さんが日本で新聞を見ていたときに、おお、うちの息子が直木賞だ、と見かける機会がなかったとも言い切れません。

 見ていれば、そりゃあ嬉しがったでしょう。『自分人間』にこんな記述があるぐらいです。

「父は、私がある新聞社(引用者注:朝日新聞)の入社試験を受けたことを心から喜んだ。播陽の談話や、その延長のような著書の中での発想が多分にジャーナリスティックなところから推しても、彼自身が新聞記者になりたかったかも知れない。」(『自分人間』より)

 いや、直木賞を受賞したことより、報道の成果としての作品が世に認められたことを、新聞記者になりたがったかもしれない次郎蔵さんは喜んだんじゃないか、と想像します。しかし、もし息子の直木賞を知っていたら、そのことを誠三さんが何かに書き残していないわけがなく、けっきょく知らないまま死んでいったのかもしれません。

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2024年5月 5日 (日)

宮城谷さだ子(みやげ物屋)。姓名判断、見合い話などをお膳立てして、息子の運を切りひらく。

 長生きすると、それだけいいことがあります。

 というのは、もちろん一面的な見方でしかなく、いいことがあれば悪いこともある、長生きしようが若死にしようが、それが人の人生です。何ゴトも一概には言えません。

 ただ、長く生きていると、思わぬ場面に出くわすチャンスが増えるのは明らかでしょう。自分の息子がまさか直木賞なんてものをとる日を目のあたりにできるのは、その父親だか母親だかが長生きしたおかげです。

 今日取り上げようと思う宮城谷昌光さんの母親も、宮城谷さんが直木賞を受賞した平成3年/1991年ごろにはたしかに存命中でした。息子の昌光さんはそのとき46歳のいいオジさんで、数年前まで文壇ではほとんど知られていない無名の人でしたが、それが一気に高い評価を受けて、新田次郎文学賞をとるは、直木賞をとるは、急激に歴史小説の雄として持ち上げられてしまったんですから、宮城谷さん本人はもとより、詳細はわかりませんが、お母さんのほうもおそらく驚いたのではないかと思います。

 詳細はわからない、と書きました。ワタクシもさすがに宮城谷さんの母親のことは、そこまで細かくは知りません。いつものように宮城谷さんが少しずつ書き伝えてくれている、自身の来歴などからつなぎ合わせてみようと思います。

 宮城谷さだ子。生まれはおそらく大正4年/1915年頃。愛知県豊川市に本家がある宮城谷一族の分家のひとつに生まれたらしく、姉が二人いました。大正から昭和のはじめ、どのようにさだ子さんが過ごしたのか。息子の昌光さんもほとんど聞いたことがなく、もはや真相は藪の中です。

 太平洋戦争が起こった昭和16年/1941年当時、さだ子さんは東京にいて、兜町の証券会社で働いていたと言います。沙羅双樹さんの小説に出てくるような世界ですね。しかし戦火が激しくなってきたのを逃れるためにか東京を離れて、姉が旅館をしていた愛知県宝飯郡三谷町に引っ越します。じきに30歳になろうという頃合いです。

 いったいそこで何の縁があったのか。地元の蒲郡で綿織物をつくったり卸したりしていた広中喜市さんという男性と通じ合い、一つの命を身に宿します。広中さんは明治30年/1897年ですからさだ子さんとは20歳近くも離れていて、すでに妻もあり子もある身の上です。果たして二人に何があったのか。これもまたすべては藪の中です。

 いまだ戦争の続く昭和20年/1945年、さだ子さんは一人の男児を出産しました。名前は誠一。のちに姓名判断で「昌光」と筆名をつけることになる、アノ宮城谷さんです。

 母ひとり子ひとり。のちにさだ子さんは、もう一人子供をなしたそうですけど、いわゆるシングルマザーというやつです。戦後の食糧難にもめげず、三谷町で「若竹」という旅館を切り盛りし、かわいい我が子の成長を見守りますが、昭和28年/1953年、旅館が倒産。悪い人にだまされたか、そそのかされたか、例のごとく事情はわかりませんけど、泣く泣くさだ子さんは我が子を連れて、同じ三谷町内で転居します。

 ところが、そのさだ子さんに、またまた商売を始める話が舞い込みます。いや舞い込んだんじゃなくて、さだ子さん自身が企画したのかもしれません。昭和30年/1955年、三谷町にあった三谷温泉に新たな温泉が湧き、街じゅう大賑わいのお祭り騒ぎ。さだ子さんも、その温泉地でみやげ物屋の売店を始めることになったのです。それがだいたい40歳すぎ。新たなチャレンジです。がんばれ、さだ子。

 その後、きちんと子供を学校に行かせ、商売をつづけたさだ子さんは、もちろん無名な人なんですけど、やはり直木賞(の周辺)に現れた偉人のひとり、と言っていいんでしょう。東京の大学を出て、雑誌編集とかやくざな仕事に就いた息子のために、知り合いから持ち込まれたお見合いのハナシをどうにか受けさせ、宮城谷さんに聖枝さんという伴侶を見つけさせるきっかけをつくったのも、さだ子さんです。

 「きっかけ」といえば、誠一という名で成長し、『新評』編集部で働いていた宮城谷さんが「昌光」と名乗りはじめるそもそもの場面にも、やはりさだ子さんがいたそうです。

「現在のペンネームを使い始めたのもこの年(引用者注:昭和47年/1972年)からです。蒲郡市にいる母親が、蒲郡ホテル(現・蒲郡クラシックホテル)に宿泊した有名な姓名判断の先生に自分の名を見てもらう機会があり、見料を先払いして私の名も東京で見てもらえるよう頼んでおいたんです。

六本木あたりにその先生を訪ねてゆき、「できるだけ使いなさい」と見せられたのが「昌光」でした。」(『読売新聞』平成26年/2014年12月11日「時代の証言者 遅咲き歴史文学 宮城谷昌光(14) 「出直し」決意し円満退社」より ―署名:文化部 佐藤憲一)

 結婚したあと、昌光さん夫婦は、昭和48年/1973年からさだ子さんの売店を手伝い、年をとる一方の母親を支えます。しかし、昭和55年/1980年ごろになって、ついに店の経営が傾き出し、それを機に昌光さんたちは店を離れて、蒲郡市の中心部に学習塾をひらきます。残されたさだ子さんは、どうやって身すぎ世すぎを送っていたのか。宮城谷さんの作家デビュー、それから直木賞受賞など、いくつかのイベントを体験してからあの世に旅立ったはずなんですが、そのとき彼女がどう考え、どう反応したのか。まったくわかりません。

 まあ、わからないことだらけですけど、たいてい無名の人というのは、わからないなかでドエラいことをやっちゃうもんです。宮城谷昌光という作家を生んださだ子さんも、おそらくはそういう一人だったんじゃないか、と思います。

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2024年4月28日 (日)

木村荘平・稲垣アキ(牛鍋屋経営者と妾)。女好きと、向こう気の強さを受け継いだ息子が、直木賞をとる。

 一年間、「直木賞と親のこと」のテーマでやってきましたが、それももうじき終わります。

 親だ親だ、と言いながら、何とか無理やり候補作家の親のことを直木賞に結びつけようとしてきました。しかし、当たり前ですけど、直木賞の受賞者・候補者にはいろんな人がいます。親との縁が太かった人ばかりではありません。

 今週は、ほとんど直木賞と親につながりはないんですけど、その存在が確実に家族郎党と切り離せない昔の作家を取り上げてみたいと思います。木村荘十さんです。

 木村荘十とは何者か。この人の小説をいまでも読んでいる、というツワモノに、ワタクシはお目にかかったことがありません。作家としては完全に忘れ去られ、文学史で扱われることもまずあり得ない。いま語られるとすれば、直木賞を受賞したこと、そして木村曙、木村荘太、木村荘八、木村荘十二といった方たちと血を分けた、腹ちがいのきょうだいだった、ということだけです。

 要は木村さんのご家族は、有名な一族と言ってもよく、いまさら取り上げても仕方がないんですが、やはり荘十さんがこの一族に生まれたことを生涯にわたって意識していたことは間違いがありません。一週分のエントリーを割いておきます。

 父親は木村荘平。天保12年/1841年7月、京の都にほど近い山城国伏見生まれ。

 長じて商人として成功し、さまざまなブツを扱いますが、そのなかでも知られているのが、明治11年/1878年、当時はナウでモダンな食材だった牛肉を、鍋でぐつぐつ煮込んで食わせるという牛鍋屋「いろは」を東京市内にぞくぞく出店して、一躍人気を集めたことです。同じ屋号で別々の土地に店舗を出しては、それが当たったということで、日本の外食チェーンのはしり、などとも言われたりします。

 成功者にはよくある資質かもしれませんが、荘平さんもまた精力絶倫、女性を抱いて抱いて抱きまくりました。「いろは」をもう一つ有名にしたのは、自分の妾をそれぞれの店舗に配して店のやりくりをまかせたことです。一店舗や二店舗ならそんなことやる人もたくさんいるでしょうが、荘平さんの場合は20を数えるお店の多く(全部ではなかったそうですが)に妾を置いた、と言われています。常人には真似できません。

 「いろは」を任せた妾たちと、がしがし子作りに励んだ結果、男の子13人、女の子17人、計30人の子供が荘平さんの遺伝子を受け継ぎます。そのうち深川区東森下町にあった「いろは」第七支店の妾とのあいだにできた10番目の男子が、我らが荘十さんです。明治30年/1897年1月、荘平さんが55歳のときにできた子供でした。

 父はかように著名人ですけど、では荘十さんの母は誰なのか。『嗤う自画像』(昭和34年/1959年12月・雪華社刊)という自伝的な読み物を書き残しておいてくれたおかげで、その実像の一部が後世にも伝わっています。

 名前は稲垣アキ。出生も育ちも、荘十さんは「私は素性も知らない。」と書いていて、詳細は不明です。

 ただ、妾とは言っても旦那にかしずいて一生を終わる人でなかったのはたしかなようで、荘平さんとは別に男をつくり、そのことが荘平さんにバレて、髪を刈られて坊主にさせられますが、そのまま男といっしょに出奔。荘十さんは4歳にして、母を知らない境遇に身を置かれます。

 母ゆずりの反発心、父ゆずりの女好き……とまとめてしまうと、おそらく荘十さん自身には不服かもしれません。しかし、一か所にとどまって何かをなすことは、荘十さんにはとうていできない相談でした。何やらかにやら手を出しては女に惚れて、あるいは惚れられて、果ては政治家の妾と手に手を取り合って、満洲に逃避行。その地で、行き別れた母親・アキさんと20年ぶりに再会を果たします。

 ところが、アキさんのほうはどこをどう人生を放浪してきたものやら、落魄の姿はげしくて、荘十さんは悲しみとともに母親と接したようです。その後、時を経ずしてアキさんのそのときの夫が丹毒にかかったものですから、アキさんは看病に明け暮れ、ついには自分も肺炎になって、営口満鉄病院で亡くなったとのことです。

 「母が、家を出てからの、二十年の風雪については、遂に問いも語りもしなかつた」と荘十さんは書いています。この辺りに、親との縁が薄かった荘十さんの、孤独な感情が表れているようです。

 なので、荘平さんとアキさん、両親が荘十さんの直木賞受賞と直接的に関わっているわけではありません。晩年、荘十さんが構想していたという、「いろは」一族を題材にした小説が実現していれば、それはそれで「直木賞受賞者がのちに両親のことを小説に書いた」と言えたかもしれませんが、残念ながら構想だけで終わってしまいます。

 ということで、今週は両親とほとんど接することなく成長して直木賞の舞台にあがった人、って感じで締めざるを得ません。さびしいですね、直木賞の周辺に親が出てこないのは。

 仕方ないので、荘平さんの小伝を書いた小沢信男さんの木村荘十評を引いて、何とか体裁を整えさせてもらうことにします。

「『嗤う自画像』(引用者中略)は性懲りもない女出入りを描いて題名通りの作品だが、木村家の兄弟たちを見わたして「俺の兄貴たちは皆んな屑だ……家名を挽回するのは俺より外にない」と力むくだりもある。また別の女性とともに帰国後は、創作に専念し、昭和七年「血縁」でサンデー毎日大衆文芸賞、昭和十六年「雲南守備兵」で直木賞を受賞した。兄弟中で荘十が、もっとも壮士風な面があったかもしれない。」(平成16年/2004年8月・筑摩書房刊、小沢信男・著『悲願千人斬の女』所収「いろは大王 木村荘平」より)

 たしかに荘十さんの文章には、冷静さ・クールさのなかに、内なる血の気を多さを感じます。そこが小沢さん言うところの「壮士風」なのかもしれませんし、戦前・戦中の大衆文壇で活躍できた何がしかの要因があるかもしれない、と思います。

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2024年4月21日 (日)

山本唯一(国文学者)。反抗していた息子が、自分の蔵書を参考にして歴史小説を書く。

 今日は令和6年/2024年4月21日日曜日。東京・鬼子母神で一箱古本市の「みちくさ市」がありました。

 とくに行く必要もないんですけど、春日部の奇人・盛厚三さんが元気に出店していると聞いていたので、久栖博季さんが三島由紀夫賞の候補になったことを伝えなきゃと思って、からだに鞭打ち、行ってきました。釧路関係のことなら何でも喜ぶ奇人中の奇人、盛さんですから、まだ受賞もしていない候補に選ばれたという段階のニュースでも、大喜びしていました。

 と、それはうちのブログとは関係ありません。みちくさ市で、盛さんとも顔なじみの〈とみきち屋〉さんに『直木賞受賞エッセイ集成』(平成26年/2014年4月・文藝春秋刊)が出ていたので、思わず買ってしまった……と、それが言いたかったんです。

 平成期の直木賞受賞者たちが、『オール讀物』に寄せた受賞エッセイをまとめた本ですけど、このエッセイは基本的には受賞者がそれまでどのように歩んできたか、というのがテーマになっています。当然、直木賞にまつわる親のハナシの宝庫でもあります。

 今週は、そこに収録された作家のことにしたいと思い、この人を取り上げます。第140回(平成20年/2008年・下半期)受賞、いまはもう新作が読むことはかなわない山本兼一さんです。

 山本さんの受賞エッセイは「本のある家」というタイトルです(初出『オール讀物』平成21年/2009年3月号)。自身の来歴のハナシでありながら、親のことを語っていて、内容からしても代表的な「親にまつわる直木賞受賞エッセイ」の一つ、と言っていいでしょう。書かれているのは、山本さんの父親のおハナシです。

 山本唯一(ゆいいつ)。大正10年/1921年2月7日、新潟県中頸城郡新井町生まれ。実家は同地のお寺だったのではないかと思われますが、くわしくは今後の山本唯一研究(?)の成果を待ちたいと思います。

 大学は、仏教にまつわるあれこれに特化した大谷大学に進み、昭和18年/1943年に文学部を卒業します。しかし時代が時代、日本じゅうが戦争だ聖戦だと言い募っていた時期に当たり、唯一さんも「卒業」とは言いながら学徒出陣で陸軍に行かされて、そこで貴重な青春時代の2年間を送った模様です。

 唯一さんの興味があったのは、昔の俳諧についてあれこれと調べることで、とくに俳諧と仏教との関わりには並々ならぬ関心を抱いていました。戦争が終わって、あらためて学究の道に舞い戻ると、昭和25年/1950年に京都大学文学部国文学科を修了。そこから母校の大谷大学に助手として帰ってきます。

 昭和27年/1952年に助教授になる頃には、終生連れ添う嘉子(よしこ)さんと結婚したらしく、その後に女児をひとり、男児をひとり儲けます。その男の子のほうが、のちに小説家になる兼一さんです。生まれは昭和31年/1956年7月、父の唯一さんが気鋭の国文学者として世に出ようとしていた頃にあたります。

 それで、兼一さんの受賞エッセイなんですけど、タイトルにあるとおり、とにかく実家にはたくさんの本が並んでいたそうです。唯一さんは自分の研究分野である和書や古書籍を大量に買い込むし、嘉子さんは高校で国語の先生をしていたそうで、こちらも大の読書好き。文学全集やら新刊の書籍やらを本棚に並べては、ガッシガッシと読書に励みます。

 本に囲まれた環境で育つうちに、いつかは自分も文学で生きていきたい……と思うようになる兼一さんの心の動きは、あるいは自然だったかもしれません。しかし、ここで出てくるのが当エッセイの眼目に違いない心のしこり。父親、唯一さんに対する反抗心ないしは憎悪の感情です。

 子供の頃は鉄拳制裁で、兼一さんもけっこう唯一さんに殴られていたと言います。外ではまじめで温厚な学者先生が、裏では平気で暴力をふるっていた、というのですから穏やかではありません。息子にはよくある感情でしょうけど、兼一さんは父親のことがイヤでイヤで仕方なくて、まともに口を利くことすらできなくなります。

 そして、唯一さんが望んでいたような道には行かず、大学卒業を控えてバックパッカーとなるとインドからヨーロッパをめざして一人旅。帰国後は、新聞の求人広告からさがして、家具関係の業界誌をつくっている会社に就職します。その後は文章を書くことが仕事になる職場を転々としたあと、30歳でフリーのライターになりました。

 その頃、父の唯一さんは、大谷大学で教授、図書館長、文学部長などを勤め上げて、昭和61年/1986年に退職します。芭蕉研究といえばこの人だ、といったようなガチガチの国文学者として研究を続けますが、平成3年/1991年6月2日、妻の嘉子さんに先立たれてしまいます。一人になった老学者。

 やっぱり親のことは放っておけないと、東京に住んでいた兼一さんは、京都の唯一さんのところに戻ってきて、同居することを選びます。昔からの経緯もあるので、そう簡単に父親と打ち解けることはできませんが、ともかく父のもとには大量の本がある。小説家になりたい、と思って、さまざまな新人賞に応募しては落選を繰り返していた兼一さんは、やがて家にある歴史研究の基本的な文献に親しむようになって、そうか、歴史小説を書いてみようと思い立った、というわけです。

 唯一さんが亡くなったのは平成12年/2000年10月2日です。兼一さんが「弾正の鷹」で小説NON創刊150号記念短編時代小説賞の佳作になったのは平成11年/1999年ですから、その頃には唯一さんも生きていたはずですが、そんなものをもらったところで、小説家として続けていけるかはまるでわかりません。けっきょく、父親とは胸をひらいて語り合うこともなく、作家になった自分の姿を見せることもないままに、別離を迎えてしまいました。

 それから約8年が経過して、兼一さんは直木賞を受賞します。そして改めて父のことを思います。

「憎しみしか感じていなかった父親だが、いま、こうして蔵書の恩恵にあずかってみると、複雑な思いがゆらぐ。

直木賞という大きな賞をいただき、この原稿を書くことで、わたしはようやく父親との関係を、客観的に見つめ直すことができるかもしれない。

この歳になって――、と恥ずかしく思うが、人間という生き物は、どうしたって幼児体験を重く引きずるしかなかろう。

いま、仕事場で本に囲まれながら、本が語りかけてくる声を聴いている。」(山本兼一「本のある家」より)

 直木賞というものがあったおかげで、父との関係性を見つめ直せるかもしれない。そんなふうに兼一さんは言ってくれました。そうであれば、直木賞のほうも、少しはやっている意味があった、というものです。

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2024年4月14日 (日)

有吉秋津(銀行員の妻)。夫のかつての友人が、娘の直木賞候補作を選考する。

 直木賞、直木賞と、うちのブログではそればっかり言っています。ほんとは、直木賞に関わる作家のなかでも、有名じゃない部類の人をたくさん取り上げたいんです。だけど有名じゃない人は、つまり有名じゃないので、くわしく調べたくてもなかなか調べきれません。ということで、すみません、今週は超絶に有名な作家の、親のハナシを書くことにします。

 有吉佐和子さんです。作家デビューが昭和30年/1955年(月号表記は昭和31年/1956年1月号)の『文學界』に掲載された「地唄」で、直木賞の候補になったのはそれから1年半後の第37回(昭和32年/1957年・上半期)。対象となったのは『キング』に載った「白い扇」でした。

 選考委員のあいだでは、何とうまい作家だ、と一部で好評を集めます。しかし、すでに力量は十分知られている人だから受賞の対象にはならない、とか何とか言って反対した人がいたそうです。知られている、っていったって、まだ文壇に出て1年そこらのペエペエの人に、それはあんまりじゃなかったかと思います。けっきょく直木賞の候補になったのはこれ一回っきり。まあ直木賞も惜しいことをしました。

 そのとき26歳のうら若き乙女だった有吉さんは、高度経済成長の出版界お祭り景気の波にも乗って、おそろしいほどに大活躍。昭和59年/1984年8月に亡くなるまでの、30年に満たない作家人生を図太く駆け抜けました。もっと長生きしていれば、直木賞の選考委員とかにお声がかかって、委員としても伝説を残してくれたかもしれません。残念です。

 ところが、娘の玉青さんも物を書くようになったおかげで、佐和子さんとの思い出はもちろんのこと、その母親のことも世に知れ渡ることになります。玉青さんのような立場の人が『ソボちゃん いちばん好きな人のこと』(平成26年/2014年5月・平凡社刊)を書かなければ、絶対に本としてかたちに残ることもなかったはずの、有吉さんのお母さん。まったくありがたいことです。

 有吉秋津。旧姓は木本。明治37年/1904年10月10日、和歌山県海草郡木ノ本村生まれ。実家は、もともと農業をなりわいとする大地主でしたが、秋津さんの祖父にあたる太兵衛さんが酒造業を始めてますます発展。太兵衛さんの長男、つまり秋津さんの父親となる主一郎さんは若い頃から地元コミュニティの中心にいて、木ノ本村の村長、県会議員、県会議長などを務めたあと、衆議院議員にも当選します。

 そういう環境のなかで秋津さんも、なかなかの英才教育を受けたようで、進学したのが京都女専です。以下は玉青さんによる昭和も後期の回想ですが、秋津さんは新聞や雑誌に丹念に目を通し、本を読んでは知性を磨き、政治について何よりの関心を抱いていた、とのことです。若い頃から、おそらく勉学に励む人だったことだろうと思われます。

 大正半ばから後期ごろ、何の縁があったのか、横浜正金銀行本店に勤める有吉眞次さんと結婚します。眞次さんは秋津さんより7歳年上の、帝大出のインテリゲンチャ。その後、何度か海外に赴任しますが、そのたびに漱石全集と有島武郎全集を持っていくのを忘れなかった、というほどに、かなりの文学好きでした。

 それはともかく、眞次さんと秋津さんは4人の子供を授かります。まずこの世に誕生したのが、大正14年/1925年7月生れの長男の善さんです。まもなく眞次さんの転勤で上海に移り、そこで昭和3年/1928年に次男が生まれますが、まもなく病死。昭和5年/1930年に次なる生命をみごもったとき、秋津さんは海外で産むより実家で産みたいという気持ちに傾いて、ニューヨーク勤務が決まった眞次さんには付いていかず、和歌山に帰郷すると、昭和6年/1931年1月、そこで無事に女の子を生み落とします。佐和子と名づけられました。

 銀行員としておそらく優秀だったんでしょう。眞次さんのほうはさらに海外赴任が続きます。昭和10年/1935年、いったんニューヨークから戻って、秋津さんや佐和子さんともども、東京・大森に住まいを定めますが、昭和12年/1937年、ジャワのバタビヤ(現在のインドネシア・ジャカルタ)にまたまた異動の辞令がくだり、長男の善さんだけを和歌山に預けて、一家で海外へ。昭和14年/1939年に秋津さんは出産のために再び実家に戻って、眞咲さんという男の子を生みますが、昭和16年/1941年に眞次さんの勤務先が東京に変わるまで、一家はジャワで過ごします。

 次々と新しい子供に恵まれ、夫の仕事は順風満帆。この頃の経験が、秋津さんの人生のなかでもとくに楽しい思い出として残りました。だいたい年齢は30代。それはそれは輝く毎日だったことでしょう。戦争を除けば。

 まもなく日本は、国を挙げての決死の戦いにひた走った結果、あっさりと欧米諸国に小手先をひねられて、すみません、許してください、もうしません、と泣きを入れて敗北します。飛ぶ鳥を落とす勢いで人生を送っていた眞次さんは、頼る大樹がなくなって、急速にやる気を失ううちに、昭和25年/1950年に脳溢血で突然死。53歳でした。

 秋津さんもガックリきただろうとは思います。しかし、いつまでもうなだれていないのが、女・有吉秋津のたくましさです。

 子供たちのうち、どうにか立派に育て上げた佐和子さんが、たまさか作家として認められ、才女だ何だと多くのメディアに引っ張りダコの大忙し。わがままで気分屋さんの娘に離れず寄り添い、あなたの今度の作品はあそこが駄目だった、などと厳しく感想を言うのも忘れずに、佐和子さんの仕事の窓口として秘書役をこなしながら、昭和38年/1963年に佐和子さんが生んだお孫さん(玉青さんですね)の育児やお世話を一手に引き受けて、これもまた立派に育て上げます。

 「実は佐和子さんの作品、いくつかはお母さんが書いていたんじゃないの」と、冗談口を叩かれるほどに、佐和子さんの仕事には絶対に欠かせない存在として人生を送った、ということです。昭和63年/1988年5月10日没。享年83。佐和子さんが亡くなった4年ほどのちのことでした。

 ……というところで、今週もまったく直木賞のハナシが出てきませんでした。あまりに悲しすぎるので、無理やり直木賞に結びつけておきたいと思います。

 先に触れたように、秋津さんの夫・眞次さんは文学をこよなく愛する人でした。学生時代には有島武郎を囲む読書会に籍を置き、野尻清彦さんとはその当時からお仲間だったんだそうです。

 丸川賀世子さんの『有吉佐和子とわたし』(平成5年/1993年7月・文藝春秋刊)に、その野尻さん――後年、大佛次郎と名乗った作家と、佐和子さんとの話題が出てきます。

(引用者注:野尻清彦=大佛は)佐和子とのおつき合いはありませんでした。有吉真次の娘と知って驚かれたようでしたけど、何故か冷たかったそうです。お子さんがなかったせいでしょうかね。あとになって、佐和子に何かを書いてくれと伝言があったようですけど、佐和子は断わっていました。」(丸川賀世子・著『有吉佐和子とわたし』所収「お母さんから伺った話」より)

 ちなみに佐和子さんが直木賞の候補になったとき、委員の一人に大佛さんもいましたが、選評では一行も触れていません。かつての友人の娘だからといって、何をしてやる義理もないでしょうし、別に直木賞とは関係ないとは思います。ただ、少なくとも秋津・佐和子側から見たときに、大佛次郎は冷たかった、という思い出が残っているのは気にかかるところです。

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2024年4月 7日 (日)

井上郁子(作家の妻)。娘が直木賞を受賞した作品を「あの程度の小説」と言ってのける。

 今週の「直木賞と親のこと」は「親が作家だった」シリーズです。

 シリーズです、というか、勝手にこちらが名づけているだけですけど、直木賞の舞台に挙がった候補者のなかで、この人は絶対に取り上げなきゃいけない、と思う人がいます。井上荒野さんです。

 初めて直木賞の候補になったのが第138回(平成19年/2007年・下半期)で、デビューしてから17~18年。その候補作の『ベーコン』は、選考会の場でも、まあこのぐらいの作品集は世間にゴロゴロあるよね、程度の軽いあしらいしか受けませんでしたが、その次の第139回(平成20年/2008年・上半期)では評価一転。『切羽へ』の、こまやかな心理描写が高い評価を受けて、あっさりと直木賞受賞者になりました。他に強い候補作がなかった、というのも多少は影響したかもしれません。もう16年もまえのことです。

 荒野さんの父親は、文学の世界に興味がある人ならまず名前を知っているような有名作家だったので、当時その辺りの切り口でいろいろと記事が出たのは、何となく覚えています。うちのブログでも、荒野さんと父のことは、以前に書いたような気がします。まあ、誰でも荒野さんと聞けばその父親を語りたくなるのは当然でしょう。

 ただ、直木賞との関係でいえば、やっぱり荒野さんの親といえば母親のほうではないか。……とワタクシが思うようになったのは、荒野さんが直木賞をとってから元気に作家活動をつづけ、『あちらにいる鬼』(平成31年/2019年2月・朝日新聞出版刊)を書いて、さまざまなメディアでインタビューを受けたりエッセイを寄せたりしてくれたからです。へえ、そうだったんだ、と知らなかったことが、荒野さんの口からどんどん公表されるにつれ、ワタクシも俄然、そのお母さんのことに興味を抱くようになりました。

 井上郁子。旧姓は池田。昭和5年/1930年、長崎県佐世保市生まれ。実家は市内の四ヶ町商店街の和菓子店「松月堂」で、二代目にあたる池田徹さんと妻・喜美子さんのあいだに長女として生まれました。

 かわいいお菓子屋さんのお嬢さん。とくべつ生活に苦労することもなく育ちますが、学校を出て高校の国語教師になるうちに、どこでどう火がついたものか、共産党や左翼の活動に関心をもちはじめます。戦後の昭和20年代、女も男も若者には、いまのままじゃ日本はだめだ、われらが社会を変えていかなくちゃだめなんだ、と何かに衝き動かされるものがあった、ということかもしれません。郁子さんも、そういう若者の一人だったようです。

 と、そこに現われたのが同じ佐世保で、かなり精力的に左翼運動に関わっていた共産党員の男。井上光晴さんです。

 声がでかくて、ずかずかと相手の懐に入ってくる、がさつな男、光晴さんは、出会ったころから郁子さんに好意をもったらしく、やがて二人は惹かれ合うようになります。

 出会いからだいたい2~3年たつうちに、いっしょに所帯を持つことになり、東京に出てくる光晴さんに従って、郁子さんも佐世保を離れて上京します。昭和31年/1956年、郁子さん26歳の年でした。

 『あちらにいる鬼』には、そのときはまだ婚姻届は出さず、正式に結婚したのは昭和36年/1961年になってからだ、と書かれています。そうなのかもしれません。夫の光晴さんは『新日本文学』を軸にしながら『現代批評』の創刊に加わったり、『書かれざる一章』『虚構のクレーン』などの小説を刊行したり、にわかに文壇に躍り出ます。昭和36年/1961年に長女・荒野さんが生まれたのはちょうどその頃のことです。

 ところが、光晴さんは多くの女性と関係しては、相手からも惚れられる人だったそうで、日本全国、行くさきざきで、わたしこそ光晴さんに愛されている、と胸を熱くする女性シンパができていった、と漏れ伝えられています。瀬戸内晴美さんとの仲は、そのなかでも別格だったのかどうなのか、もはや余人にはうかがい知れない世界ですけど、それもこれも、家に帰ればいつもなごやかな郁子さんがいる。長女の荒野さん、昭和41年/1966年に生まれた次女の切羽さんを、立派な大人に育て上げ、外でだんなが好き勝手やっているのもほとんど口出しせずに黙認した郁子さんが偉かった、ということになります。お母さんは偉大です。

 郁子さんも、自分で文章を書けばかなりのものが書ける才能の持ち主でした。生前、光晴さんの名前で発表されたいくつかの作品は、おそらく郁子さんが光晴さんからアイディアを聞いて自分で書いたものだろう、と後年、荒野さんは証言しています。本もたくさん読み、自分の考えを深めていった郁子さん。やがて娘が平成1年/1989年にフェミナ賞でデビューしたあとも、娘の小説を熟読しては、鋭い感想を述べていた、というのですから、若いころからの文学的な素養もバカにしたものではありません。

 夫の光晴さんは、平成4年/1992年に66歳で亡くなります。このとき、郁子さんは62歳。気丈に喪主を務め、いくつかの媒体に夫を偲ぶ文章を残すと、その後はとにかく自分の関心を本を読むことに向けることになりました。

 亡くなったのが平成26年/2014年9月5日ですので、享年84。夫のいない世界を22年も生きたご褒美として、平成20年/2008年7月には、荒野さんが直木賞を受賞するという晴れ舞台を自分の目で見ることもできました。荒野さんは、自分は父というより、母に似ているだろう、とさまざまなインタビューで答えていますが、それを郁子さんはどう聞いたのか。ともかく、郁子さんがいけなければ、荒野さんの直木賞受賞もなかったのは事実です。

 しかし、その授賞式の席上、郁子さんが語った言葉というのが、ふるっています。荒野さんの回想です。

「私の父は小説家だったが、私の母もまた、小説を書いていた。そのことを母は、父の死後10年ほどが経ったときに私に明かした。

(引用者中略)

先日、長い付き合いである、ある新聞社のベテラン文芸記者のK氏と、久しぶりにお酒を飲んだときのこと。「そういえばあなたが直木賞を受賞したときにさ」とK氏が教えてくれた。授賞式のとき、彼は私の母と同じテーブルにいたそうだ。父の担当だった編集者が集まっていて、ちょっとした同窓会のようになっていたその場所で、「お母さんが、ぼそっと呟いたんだよ。あの程度の小説で、直木賞ってとれるのねえ、って……」」(『文藝春秋』令和1年/2019年10月号 井上荒野「母の呟き」より)

 うんうん、すばらしいですね、郁子さん。『切羽へ』を「あの程度の小説」と表現するとは、ワタクシも激しく同意します。

 いや、直木賞の受賞作のほとんどは、あの程度・この程度の作品が大半を占めている、という感想に、ワタクシは激しく同意します。直木賞をとるものはどれも名作、なんちゅうのは、一部の人たちの勘違いでしかありません。それをぼそりと言える、まっとうな感性。その血が荒野さんにも濃密に流れているのだとしたら、これからの荒野さんも、活躍を続けることは間違いないでしょう。

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2024年3月31日 (日)

小池清泰(会社員)。娘が初めて出したエッセイ集を読んで、ショックを受ける。

 直木賞は昔もいまも、いつだって通過点でしかありません。

 ある作家が候補になったり受賞したりするまでに、どんなことをしてきたか。それも重要です。ただ、直木賞と交わったあとで何を書き、どんな人生を送るのか。そちらのほうがもっと大切です。

 ……などと、昔のゴシップばっかりあさって毎日を過ごしているクソ・ブロガーが言ったところで、何の説得力もないですね。とりあえず説得力がないことだけ確認して、さっさと先に進みます。

 直木賞の候補に挙がったときではなく、その後にいろいろと活躍するなかで、親のことが話題になった候補者(あるいは受賞者)はたくさんいるんですが、今日はそのなかから小池真理子さんを取り上げてみたいと思います。受賞したのが第114回(平成7年/1995年・下半期)ですので、もう28年も前に直木賞と関係性ができた人です。

 小池さんが受賞したのは43歳のときでした。働きざかりのド真ん中です。それから28年、あんな小説、こんなエッセイ、たくさん書いてきましたが、その間に、夫の藤田宜永さんや、父と母、二人の親を見送って、そのときどきに相手の様子や自分の感情などを文章に残しています。ネットでも読めるものが多くて、まあ、いつもながらうちのブログが取り上げる意味もないんですけど、中でも平成24年/2012年に刊行された『沈黙のひと』(文藝春秋刊、初出『オール讀物』平成23年/2011年4月号~9月号、11月号~平成24年/2012年6月号)は、父親のことをモデルにして評判になったりしました。

 小説は小説、モデルはモデルです。そこに描かれたのが小池さんの父親そのままじゃないんでしょうけど、こういうかたちで娘に自分の人生の一端を世に書き残されて、きっと父親も本望だったに違いないと思います。

 小池清泰。大正12年/1923年、満洲国大連生まれ。父親は満鉄の職員として日本から満洲に渡った人で、清泰さんは小学校時代を吉林で送り、中学時代を新京で過ごします。しかし父親とはその頃に生き別れ、昭和14年/1939年に日本に引き揚げてくると旧制新潟中学に編入。いっしょに日本に来た母親は、引き揚げ直後に病で亡くなり、清泰さんの先行きに暗雲がたちこめます。

 学徒出陣を経験する頃には、フランス文学やロシア文学が大好きな、骨の髄まで文学青年になっていたそうで、あるいは文学や芸術に傾ける情熱が、清泰さんの心を救ったのかもしれません。終戦後、友人らと文化運動を始めたのも、おそらくその情熱のなせるわざでしたし、運動の一環で函館に出向いたとき、そこの活動でいっしょになった同い年の函館ムスメ、増子さんと出会って急激に恋に落ちて、昭和22年/1947年結婚する運びになったのも、清泰さんが芸術をとことん好きだったからでしょう。清泰さん24歳。自ら明るい人生を切り開いていきます。

 そのとき、まだ東北帝国大学法文学部の学生だった清泰さんは、昭和25年/1950年にめでたく卒業。昭和石油に入社します。それから2年後には小池家に玉のような女の子が授かって、のちに作家となる小池真理子さんがこの世に誕生。8年後には2人目の女の子にも恵まれますが、ぐんぐん成長する石油会社で、しっかりと出世街道に乗った芸術好きの男、となれば、女性からラブラブの視線がそそがれたりもして、外に女性をつくり、あろうことか子供を孕ませ、それを知った増子さんが、うちには家庭がある、お腹の子を堕ろしてください、と相手の女性に言いに行ったりする修羅場があったんだとか。

 ともかく、幸せな家庭なようで、夫婦のあいだにはオモテ立っては言えない感情のギザギザがあった、というのは、どこの家庭でもそうだろうといえばそうでしょう。清泰さんの仕事のほうは、高度経済成長の波に乗って順調に推移し、東京から西宮、はてまた仙台と転勤をするうちに役職も徐々に上がっていったということです。

 その間も、清泰さんは文学にはなみなみならぬ関心を抱き、というか当時のサラリーマンの多くがそうだっただけかもしれませんが、家にはジッド、ヘッセ、トルストイ、その他さまざまな本が並んでいて、娘の真理子さんも父親の書斎に忍び込んではいろいろと手にとりながら育ちます。後年、清泰さんは盛んに短歌を詠み、「朝日歌壇」にも定期的に応募していくつか採用されたりしているのも、文学好きの情熱が年をとってもからだに残っていたせいでしょう。

 娘の真理子さんは大学を経て、出版社に入社、しかし1年半ほどで会社を辞め、フリー編集者になって、うんぬん、という『知的悪女のすすめ』(昭和53年/1978年6月・山手書房刊)での物書きデビューにいたるまでのハナシは、もう有名すぎるのでバッサリはしょります。このとき、父の清泰さんは55歳。可愛い娘がいよいよ念願の作家になるチャンスをつかんだ、と言って喜んでいたそうです。ただ、実際、小池さんのエッセイを読んだら、現代女性の生態や考えが赤裸々に描かれていて、まさか自分の娘が、とショックでふさぎ込んでしまった……と真理子さんは「父の遺品――『沈黙のひと』が生まれるまで」(『文藝春秋』平成25年/2013年5月号)で回想しています。

 とまあ、そんなエッセイも含めて、いまじゃネットで読めます。なのでここでは、真理子さんが直木賞を受賞したときに『オール讀物』に寄せた「自伝エッセイ」から、父のエピソードを一つだけ挙げるにとどめます。

「小学校六年になった年、父の書棚からたまたまヘッセの『デミアン』を持ち出して読んでいたら、父に見つかって叱られた。まだ早い、と言う。

何が早いのか、どうして叱られねばならないのか、理解できなかった。しばらく忘れていたのだが、中学三年のころだったか、再読してみた。『デミアン』にはホモセクシュアル的なニュアンスがこめられ、思春期の少年の淡い性衝動が描かれていた。なるほどね、と思った。」(『オール讀物』平成8年/1996年3月号 小池真理子「ひとりよがりの長い旅」より)

 いつなら早くないと思うのか、清泰さんの感覚はわかりませんけど、いつまでも自分の娘は何も知らない可愛い子供であってほしい、という父親ゴコロが炸裂しています。だからこそ、25歳の娘が『知的悪女のすすめ』で、男のことをバッシバッシと切り捨てる様子を見て、ショックを受けたんでしょう。

 それから18年後。真理子さんは『恋』で直木賞を受賞しました。文学があれほど好きだった清泰さんがどんな反応を示したのか。セックスの話題がこれでもかと出てくる耽美的な香りのする作品で、さすがに清泰さんもショックを受けたりはしなかった、とは思うんですけど、それからまもなくパーキンソン病に冒され、娘の受賞以後の活躍はわずかしか見ることができませんでした。10年近く闘病生活を送り、平成21年/2009年3月4日に亡くなりました。

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2024年3月24日 (日)

久世ナヲ(軍人の妻、高校教諭)。早くに亡くなった夫の分まで、息子の小説家としての活躍を見届ける。

 図書館に行くと、だいたいエッセイ・コーナーに立ち寄ります。小説だけじゃなくエッセイの類も、いろんな人たちがたくさん本を出していて、背表紙を見ているだけで一生が終わっちまいそうですが、こないだも近くの図書館に行って、つらつら眺めていたところ、あっ、この人をあまりブログで取り上げてこなかったな、と思い当たる名前に出会いました。久世光彦さんです。

 何をいまさら、という感じがあります。直木賞の候補になる前から、ある種の有名人、よく知られたドラマの演出家で、いまだって「久世光彦」のテーマで夜通し語り明かせる爺さん婆さん(もしくは、おっちゃんおばちゃん)は数多くいるでしょう。何をいまさら、です。

 その生涯についても(おそらく)調べ尽くされています。うちのブログが手を伸ばすのもおこがましい気がする著名な書き手のひとりです。でも、残念ながら……いや、残念ってことはないか、久世さんも第111回(平成6年/1994年上半期)と第120回(平成10年/1998年下半期)、二度ほど直木賞の候補になった人ですから、うちのブログで触れたところで、誰に文句を言われる筋合いもありません。今週は、久世さんと親のハナシで行くことにします。

 久世さんには父親と母親がいます。どちらも久世さんのエッセイには、ちょくちょく登場する人たちです。といってもワタクシだって、そんなに久世さんのエッセイを読み尽くしたわけじゃないので、まあ、いわゆる知ったかぶりです。ただ、どちらかといえば、直木賞との関係性でいえば母親のほうが取り上げやすそうな気がするので、今日のエントリーは久世ママのほうを中心にしようと思います。

 久世ナヲ。旧姓は置塩。明治33年/1900年4月、富山県生まれ。実家は魚津市御影だったので、たぶんそこで生まれ育ったんでしょう。もともとは裕福な家で、上のきょうだいたちはイイ学校に行かせてもらいますが、まもなく実家の事業が傾いたために、ナヲさんだけ師範学校に入り、教師の道を進むことになります。

 ところが、このときナヲさんがあまりに優秀な成績だったおかげで、よし、うちがお金を出してやるから東京で学べ、と言ってくれた篤志家がいたそうです。名前はわかりません。その人の期待を一心に背負い、ナヲさんは猛勉強して富山の女子師範から、無事に東京女子高等師範学校へと入学が許可されます。大正9年/1920年春のことでした。

 そこの家事科で学んだのち、富山に戻って富山県女子師範兼富山高女教諭になります。大正14年/1925年には、どんな縁があったものかこちらも富山県出身の陸軍歩兵、久世弥三吉(くぜ・やそきち)さんとめでたく結婚が成就。大正15年/1926年に福島県の会津高女で働いたものの、昭和3年/1928年に退職し、夫に付いて家を守る、いわゆる主婦の座に落ち着きます。

 子供は、大正15年/1926年に生まれた瓔子(えいこ)さんを皮切りに、公尭(きみたか)、伊尭(よしたか)、玲子(れいこ)とこの世に生み出しますが、そのうち伊尭さんは3歳で急性陽炎で死亡、玲子さんは生後40日で乳児脚気で死亡と、たてつづけに幼い命をうしなって、ナヲさんも悄然。そのため昭和10年/1935年、第五子として生まれた光彦(てるひこ)さんのことは、過保護なぐらいに大事に大事に育てた、ということです。

 当時、久世家は東京の杉並区阿佐ヶ谷に家を持ち、一家五人、安らかに(?)過ごしていましたが、昭和10年代を経験した日本の家族では当然のごとく、戦争によって運命が大きく変わります。昭和18年/1943年か昭和19年/1944年、弥三吉さんの転勤の都合で東京を離れて札幌へ、そして昭和20年/1945年ふたたび弥三吉さんが長崎の五島列島に行かされることになったのを機に、ナヲさん、瓔子さん、光彦さんは富山県に疎開というかたちで引っ越します。

 昭和20年/1945年、日本はガッツリ敗北を喫しました。軍人だった弥三吉さんはその日から、もう何をなすこともできない無職の徒です。落魄した、と子供の光彦さんの目から見ても明らかな様子で富山に引き揚げてくると、完全に無気力になってしまった弥三吉さんはそのまま立ち直ることもできず、昭和24年/1949年7月12日、胆嚢炎でこの世を去りました。53歳でした。

 となるともう、生活の面倒一切はナヲさんが見なければなりません。かつて教職にあったその技能を活かして再び高校教諭として職場に舞い戻ると、稼いだ給料を子供たちとの生活に宛てはじめます。細腕一本、おかあちゃん頑張ります。

 ナヲさんの喜びは、もちろん子供たちの成長です。ところが末っ子で甘やかしに甘やかした光彦さんは、勉強もそっちのけで遊びほうけ、高校時代には夜の街で酒をかっくらったとか何とか、その非行の様子が新聞にも取り上げられて、ナヲさんも冷や汗を流します。光彦さんの志望は天下の赤門、東京大学ということで、昭和29年/1954年、高校三年生で受験しますが、あえなく不合格。

 よし、と光彦さんは奮起したのかどうのか、気持ちを切り替えるために富山から東京に居を移し、予備校に通って二年目も東大に挑みますが、これもまた駄目。それでも東大ならそのくらいの浪人はいくらでもいるさ、と開き直ったか、さらに翌年もう一度光彦さんは東大を受けて、三度目でようやく入学を果たします。

 このときナヲさんは、どうしていたかというと、光彦さんが東京での予備校生活に入るのに合わせていっしょに上京し、東京で高校の先生を続けたそうです。甘やかしといえば甘やかしですけど、あるいは息子がきちんと勉強をするか、監視する意味もあったのかもしれません。

 当時のことを光彦さんが振り返っています。

「僕が東大受験を失敗したのをきっかけに予備校へ行くために母と上京。母は東京でも教師を続けた。

母はふた言目には「一番になれ」「一番を取るのが当たり前」と教えた。

(引用者中略)

ナーニ、不良をやっていても東大くらい一発で入ってみせる。腹の中では豪語していたが、どっこい世の中そうは問屋が卸さなかった。二度落ちて三度目に合格。

母がどんなに喜んでくれたか。あのときの笑顔を忘れられない。」(平成22年/2010年11月・青蛙房刊、木村隆・編『この母ありて』所収「東大合格の笑顔忘れられない」より ―初出『スポーツニッポン』平成17年/2005年3月23日)

 息子が語る母親の笑顔。いいハナシです。

 ……と、相変わらず全然直木賞のところまで行きませんね。すみません。

 もともと光彦さんは文学を志望していましたが、同世代で面識もあった大江健三郎さんが在学中に芥川賞なんかとっちゃったもんですから、ああ、おれには勝てん、とあきらめて演劇の道に。TBSに入ってドラマ制作で力を発揮して、芸能の世界でも、久世のドラマはいいぞ、と評判を呼ぶようになるんですけど、その間、ナヲさんのほうは埼玉県に住まいを移して、教師の仕事を続けました。

 そして教員を退職してからも、ナヲさんは元気バリバリ、口も達者に生き続け、息子の光彦さんが小説のほうでも評判となった1990年代にはまだ存命だった、というのですから、あの洟たれの甘えん坊が立派になった姿を、その目に焼き付けたことでしょう。少なくとも、平成6年/1994年に光彦さんが『一九三四年冬―乱歩』で山本周五郎賞を受賞した場面は目撃できたわけです。

 その光彦さんが、同作で直木賞を落選し、二度目の『逃げ水半次無用帖』もやっぱり駄目だった平成11年/1999年はじめ。ナヲさん、その落選のことも理解できていたんでしょうか。選考会があって半月後の2月2日、肺炎のため亡くなりました。

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2024年3月17日 (日)

三浦義武(コーヒー愛好家)。この親のことを書けば直木賞がとれるかも、と言われながら息子は断固拒否。

 こないだの第170回(令和5年/2023年・下半期)、村木嵐さんが候補になりました。

 村木さんといえば、福田みどりさんの個人秘書。司馬遼太郎さんの家の最後のお手伝いさん。ということから連想しまして、村木さんとは全然関係ないんですけど、今週はひっそりこの方のエピソードを差し挟みたいと思います。司馬・福田夫妻と同じ職場で働いていた三浦浩さんです。

 三浦さんについては、おそらくうちのブログでも何度か取り上げました。第76回(昭和51年/1976年・下半期)から第98回(昭和62年/1987年・下半期)までの4度の直木賞候補。前半2回の候補のときは、個人的にもよく知る産経新聞の先輩、司馬さんが選考委員を務めて激推しし、しかしそれでもやっぱりとれず、同郷島根の文春編集者、高橋一清さんが、これを書けばきっと直木賞をとれますよ、ととっておきのテーマを提案したのに断固拒否したという、気になる逸話が満載の候補者です。

 それで、高橋さんが差し出したテーマとは何だったのか。三浦さんのお父さんの生涯についてのことでした。なので、せっかく「直木賞と親のこと」でブログを書いているいまのうちに、改めて三浦さんとその父親のことに触れておこうと思ったわけです。

 三浦義武。明治32年/1899年7月18日、島根県那賀郡井野村生まれ。

 実家は伝えられるところによると、もともと桓武平氏を先祖に持ち、戦国時代には尼子氏に仕え、井野室谷に屋敷を構えたいわゆる旧家です。五代元兼のときに津和野藩の大庄屋になって500石をもらい、その辺りの土地では三浦さんちといえば知らぬ者はいないぐらいに大きな影響力をもったと言います。義武さんの父親、十六代政八郎さんも県会議員として石見地方の開発に尽力した人なんだとか。しかし義武さんが子供のときに、母と父が相次いで亡くなり、義武さんは叔父の慶太郎さんのところで育てられます。

 旧制浜田中学から東京の早稲田大学法科に進んだのが大正9年/1920年のこと。しかし東京に来てからは勉学に励むというより、お茶の道に興味を抱いて、徐々にそちらの研究に熱意を持ち出します。

 お茶にはどんな成分があり、人体にどんな影響を及ぼしているのか。いろいろと知るうちに、その流れでコーヒーという飲み物を知った義武さん。まだまだ日本ではコーヒーの研究が盛んとは言えない状況でしたが、凝り出すと他が見えなくなる性分だったようで、コーヒーにはどんな成分が含まれているか、うまく飲むためにはどうしたらいいか、とコーヒーの世界に傾倒していきます。昭和のはじめ、だいたい義武さん20代の頃です。

 ちょうどその頃、昭和5年/1930年に息子・浩さんが生まれています。なので浩さんのルーツは島根ですが、生まれは東京で、しばらくはこの大都会で育ちました。

 ちなみに義武さんのことなんですけど、神英雄さんがまとめた『三浦義武 缶コーヒー誕生物語』(平成29年/2017年10月・松籟社刊)という一冊があります。その生涯を追った「缶コーヒー誕生」の章だけじゃなく、義武さんが発表したコーヒーに関する原稿とか、年譜とか、もう参考になることしか書いてありません。ほんとありがたいです。

 で、同書によると、昭和10年/1935年、白木屋の食品部長となった義武さんは、白木屋デパート食堂で「三浦義武のコーヒーを楽しむ会」を昭和12年/1937年まで開催。片岡鉄兵さんとか小島政二郎さんとか、文壇の作家とも親しく交流があったと言われます。おお、ごぞんじのとおり、片岡さんも小島さんも往年の直木賞選考委員です。すでに浩さんは父親の代から直木賞とは縁の深いつながりがあったんですね。うれしいです。

 いや、うれしがっている場合じゃありません。日本の戦局は次第に広がっていくいっぽうで、義武さんも商売の核ともいえるコーヒー豆が満足に入手できなくなってしまい、昭和17年/1942年に島根の井野に帰郷。そこで日本の敗戦を迎えます。

 昭和20年/1945年に義武さんは井野村長になっていましたが、翌年、衆議院選挙で落選。この頃は相当すさんだ(?)生活に陥ったらしく、からだも壊して井野の屋敷で逼塞の時を送ります。その様子の一端は、浩さんがのちのち書いた『記憶の中の青春 小説・京大作家集団』(平成5年/1993年11月・朝日新聞社刊)にもちらっと出てくるんですが、胃潰瘍を患って大量に喀血、選挙に落選したあとにお金に苦労し、選挙違反容疑までかけられて警察の取り調べを受け、後援者の一人がそのことを苦にして自殺してしまう不幸に見舞われます。……大変だったらしいです。

 しかし、そんな苦しいなかでも、おれにはコーヒーだ、コーヒーしかないんだ、とその情熱はとどまるところを知らず、昭和26年/1951年、浜田市に「喫茶ヨシタケ」をオープンします。コーヒー牛乳を考案したり、大型焙煎機を導入してウキウキしたり、缶コーヒーの製品化に向けて研究を重ねて昭和40年/1965年、「ミラ・コーヒー」と名づけた缶コーヒーを発売したりと、コーヒー・ラバーの人生を邁進しました。

 いっぽう息子の浩さんですが、どこまで父親の狂信的なコーヒー愛を支持していたのか。よくわかりません。神さんの本によれば、産経新聞の社内留学制度でオックスフォード大学に留学していた昭和41年/1966年、父親がいろんな人たちの協力を得てミラ・コーヒー販売の会社を立ち上げて、そこに三浦さんの先輩である司馬さんも出資しますが、この会社は資金繰りが苦しくて経営難が続きます。留学から帰ってきてそのことを知った浩さんは、司馬さんにまで迷惑が及びそうだと怒り心頭。事業をやめるように父に強く迫った、とのことです。……いろいろと息子も大変です。

 後年、高橋一清さんが、お父さんのことを小説にしなさいよ、そしたら直木賞とれるかもしれませんよ、と勧めたとき、浩さんは、おれは私小説なんか絶対書かないと強固に断ったと言われます。それは私小説を書くのがイヤだった、ということもあるんでしょうが、父親のやってきたことにそこまでイイ感情を抱いていなかったのではないか。そう勘ぐりたくもなります。結局、『記憶の中の青春』みたいな私小説、書いてますし。浩さんの胸中はわかりません。

 それはそれとして直木賞です。義武さんが亡くなったのは昭和55年/1980年2月8日。ということは、義武さんは息子の浩さんが商業出版で小説を出し、直木賞の候補に一度、二度と挙がった頃はご存命でした。

 息子が直木賞候補になったこと。その選考を、息子を介して親しくなった司馬遼太郎さんが務めること。義武さんはどのように思い、どんなことを語っていたのか。興味がありますが、世のなかは不明なことだらけなので、その辺りのことは一切が闇の中です。

 三浦さんのつくるコーヒーが大好きだった小島政二郎さんは、三浦さんを評してこう書きました。

「最近島根県の浜田市から、三浦コーヒーの三浦義武君が上京して、私のところへ遊びに来た。

三浦君はコーヒーの話しかしない。コーヒーメニヤだ。だから、三浦君の入れたコーヒーは日本一うまい。」(昭和41年/1966年9月・鶴書房刊、小島政二郎著『明治の人間』所収「鼻の話」より ―初出『高砂香料時報』27号[昭和40年/1965年9月])

 コーヒーの話しかしない人だった、とあります。案外、最愛の息子・浩さんが直木賞候補になっても、とくに何も言わなかったかもしれません。

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