カテゴリー「直木賞と親のこと」の16件の記事

2023年9月24日 (日)

瓜生卓爾・トキ(鉄道官僚と妻)。社会的地位の高い父と、教育熱心な母にはさまれたダメ息子。

 ここ最近、受賞者のハナシが続きました。直木賞を受賞者のことだけで見ていると、どうも偏りが過ぎて、気分が悪くなってきます。

 なので、ここら辺で気分転換、直木賞をとれなかった候補者の話題を挟みます。これでスカッと爽快、気持ちよく秋のシーズンを迎えましょう。

 さて、直木賞の候補者はうじゃうじゃいますが、親とのことでワタクシがずっと気になっているのが瓜生卓造さんです。第33回(昭和30年/1955年・上半期)と第38回(昭和32年/1957年・下半期)に二度、候補になりました。これまでも、うちのブログで何度か取り上げています。

 派手な作家じゃありません。どっちかといえばシブい部類に入る作風で、直木賞の候補になった二つ「北極海流」も『単独登攀』も、もっとエンタメチックにしようと思えば、かなり面白くなっただろうというぐらいの極地モノ。しかし、瓜生さんの実証気質というか、コツコツと記録をつけるのが好きな性格だったためか、ストーリーに盛り上がりが欠けて、当時の選考委員の人たちも首をかしげちゃったというシロモノです。

 それで瓜生さんの何が気になるのか、というと、育った環境です。

 とにかく実家は都内の大屋敷。瓜生さん自身、学校を出てから定職につかず、ふらふらしていても食うに困らずに、同人雑誌で小説を書いていました。この圧倒的なニート感。いまでも同じような境遇の人はたくさんいると漏れ聞きます。いったい家族に対してどんな思いで、売れない小説を書きつづけたのか。瓜生さんの生きざまは、やはり気になります。

 瓜生さんの父親は、小説の世界とは関係のない人でした。瓜生卓爾。明治14年/1881年2月22日、八王子市生まれ、昭和38年/1963年2月10日没。

 早稲田大学の政治経済科で学んだあと、明治38年/1905年に卒業して日本鉄道に入社。これが国有化されて鉄道院、鉄道局、鉄道省と国の組織の変化に応じて、そのなかで有能な官吏として鉄道経理のど真ん中を歩き、神戸、東京、札幌など、任地も転々と変わります。

 そのあいだに結婚した妻のトキさんとのあいだに、長女ふみさんが生まれたのが大正5年/1916年11月のこと。卓爾さんが札幌で働いていたときのことです。つづいて大正9年/1920年1月、第二子として長男の卓造が生まれます。こちらは卓爾さんの職場が関西だったときのことでした。

 ……といったハナシは、4年前にうちのブログに挙げた「瓜生卓造、南極・北極・アルプス・ヒマラヤと、極地を描いてニート脱出。」で、だいたい書いちゃいました。卓造さんにとって家族といえば、父母と、一人の姉。とくにこの姉のふみさんが、昭和18年/1943年夏に20代後半の若さで亡くなってしまったことが、卓造さんの人生に大きな屈折を生んだ、ということのようです。

 そういう意味では、瓜生さんが直木賞の候補に挙がるまでの過程では、親というより姉の存在と早世が重要だったわけで、「直木賞と親のこと」というテーマにあまり結びつきません。だけどここでは無理やり結びつけちゃいます。偉大すぎて社会的地位では超えられない父親と、教育熱心でいつも小うるさい母親。この両親がいたことで、瓜生さんの鬱屈がさらに高まり、それが「おれには文学しかない!」という袋小路に追い込んだんだろう、と。

 瓜生さんの初期作品集『大雪原』(昭和31年/1956年4月・三笠書房刊)には、『文学者』の親玉・丹羽文雄さんが「序」を寄せ、『文学者』の若頭・石川利光さんが「解説」を書いています。

 当然、瓜生さんのことについてはワタクシなんかよりも全然くわしい人たちです。せっかくなので参考にさせてもらいますと、石川さんはこう指摘しています。

「瓜生卓造の従来の作品は(引用者中略)私の知るかぎりでは、その殆んどが一貫して私小説的な傾向の作品ばかりである。私小説的、というのは、自己を全面的に素材にするというやり方ではなく、瓜生卓造の内面から発するものを芯にして虚構を展開するといつた方法を指して云うのである。

(引用者中略)

瓜生卓造の内面的な問題は何か、といえば、放蕩無頼な一人息子と母親との重苦しい愛憎のつながりであるようだ。彼が「母親に対しては、こんなに憎しみ合う母子があるだろうか、と不思議に思うほど憎悪を死ぬまで抱きつづけた」とする牧野信一に深く心を傾けていつたのも故なしとしない。(『大雪原』所収 石川利光「解説」より)

 なるほど、石川さん、ナイスな紹介です。

 職にもつかずに放蕩を繰り返すどうしようもない男。その息子にとって愛憎を抱く対象は父親ではなく母親だった、と聞くと、瓜生さんの両親に対する感覚がなにがしか作品に反映されているのだろうな、と思います。

 直木賞の候補になったのは、瓜生さんの冒険好きが高じて生み出された作品ですので、直接的に親のことは出てきません。ただ、そこに至るまで瓜生さんには10年足らずの文学修業があり、うまく生きてきた両親と、うまく生きられない一人息子の自分という家庭環境がつらくて、それを文学にぶつけようとした、というのは明らかです。

 そうやって瓜生さんの小説を改めて読んでみると、むかし読んだときとはまた別の興趣が沸いてくるんだろうなあ。とは思うんですけど、果たしていまさら瓜生文学を学び直す時間がとれるかどうか。直木賞の候補者とか調べていると、時間がいくらあっても足りません。

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2023年9月17日 (日)

王孝廉(大学教授)。息子が受賞して喜びをかみしめながら、ぴしりと諫める言葉をかける。

 自分の劣化ぶりはマジでやばいな、と最近はいつも思います。第153回(平成27年/2015年・上半期)のことですら、もはや記憶はカスれぎみです。まだ8年しか経っていないのにです。

 8年まえの直木賞といえば、例によって例のごとく、しつこく直木賞と同じ日に選考会をやっている某賞で、某作家が受賞したためにマスコミもネットも大騒ぎ。うるせえ、おれは直木賞のことが知りたいんだ、といくら絶叫しても、某賞・某作家のハナシばかりが飛び交って辟易した……という、そんな記憶しか残っていません。

 まあ、ボケはじめた我が身を嘆いても仕方ないので、そそくさと最近の話題に移ります。去年、令和4年/2022年、東山彰良さんの父親が亡くなり、その数か月後に『Turn! Turn! Turn! ターンターンターン』(令和4年/2022年10月・書肆侃侃房刊)という東山さんのエッセイが出ました。

 ほぼ1年まえのことです。全然、最近の話題じゃないですね。すみません。

 ともかくこの本には、東山さんの父のことが何度か出てきます。なにしろ東山さんが直木賞をとった『流』(平成27年/2015年5月・講談社刊)は、語り手・葉秋生のモデルの一人が作者の父、という触れ込みです。どんな父親だったんだろう、とやっぱり興味がわいてきます。

 王孝廉。1942年10月10日生まれ、2022年8月17日没。出身は中国山東省昌邑県ですが、まもなく台湾に移って、台湾の東海大学を卒業します。1968年、昭和でいうと43年に、長男の震緒が誕生。のちの東山さんです。

 まもなく父の孝廉さんは、東山さんと下の女の子、二人の子供を台湾に残して、妻と二人で日本の広島大学に留学します。昭和49年/1974年には子供たちを広島に呼び寄せ、いったんそこで生活を送りますが、最終的に東山さんがガッツリ日本で過ごすことになるのは、昭和52年/1977年の9歳から。孝廉さんが福岡にある西南学院大学に働き口を見つけたからです。

 その前後、孝廉さんは「王璇」なるペンネームで作家・詩人としての活動もしていたと言います。その詩の一端が、流れ流れて東山さんの『流』のなかで引用されることになるんですけど、それはずいぶんあとのハナシです。

 若い頃、生意気ざかりの東山さんは、あまり父親とはうまくいかなかったそうですが、父と息子の関係にはよくあることでしょう。孝廉さんだって、異国の地に来て、自分の専門テーマを深掘りしながら、学生にはきちんと向き合わなきゃいけない。子供のことなんか構ってられるか、という時があったっておかしくありません。

 それはともかく、息子が大人になっても孝廉さんは、急にデレデレ甘くなったりすることもなく、毅然と親の役目を果たしていたようです。

 『Turn! Turn! Turn!』には、東山さんが直木賞をとって大騒動に巻き込まれた時期に、孝廉さんが言ったという言葉が紹介されています。

「私が直木賞を獲ったときは、控えめに言っても台湾が沸いた。一介の作家風情が台湾総統にまで会わせてもらった。

「作家なんて何者でもない」と自分自身も作家である父は私を諫めた。「いいか、政治には近づくな」

(引用者中略)

私の人生は私のもので、父のものではない。それでも、私は心から作家など如何ほどのこともないと思っている。政治と宗教には近寄らず、家族を守り、おおらかに子供を育てあげることのほうが遥かに大事だ。」(『Turn! Turn! Turn!』所収「政治と宗教には近寄るな 父の助言は固く守っている。」より)

 いいっすね、孝廉さん。まわりがキャーキャー言っているときに、ぴしゃりと当然のことを言えるのは素晴らしいです。東山さんが当時からいまに至るまで、まったく浮かれているように見えないのは、この父親を見て育ったことも、多少は影響しているんでしょう、おそらく。

 他にも『Turn! Turn! Turn!』にはチラチラと、印象的な孝廉さんの姿が描かれていますが、なかでも思わずぐっと来るのはこの本の献辞です。東山さんは書いています。「最期まで自由自在だった父へ。」

 この献辞を見て、ぱっと思い出しました。

 昔、直木賞受賞本にはどんな献辞が付いているのか、歴代のものを調べてみたことがあります。数からすると、献辞も何もない本のほうが多いんですが、東山さんの『流』にはこんな献辞が付けられていました。「父と母」「あの世の祖父へ」。

 そうか、東山さんは(東山さんも)その直木賞との関わりには、親の存在が色濃く出ている受賞者だったんですね。

 ただ、言われてみれば、受賞当時、そんな記事がどっと出ていた気もするなあ。いまさら、うちのブログでおさらいするまでもないかもしれません。

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2023年9月10日 (日)

中島昭和(大学教授)。娘が直木賞の候補になったと聞いても、何のことやら、よくわからない。

 最近は昔のことをどんどん忘れます。細部についてはもちろんですが、ざっくりした記憶も消えていくいっぽうです。もはや正真正銘のジジイです。

 そうは言っても、ワタクシの脳みそに詰まっていたのは、昔の直木賞がどうだったとか、くだらないハナシばかり。別に忘れちゃってもいいものばかりです。今日も、どうでもいい直木賞のエピソードを書いて、どんどん忘れていきたいと思います。

 ワタクシは平成12年/2000年に「直木賞のすべて」というホームページを始めました。そもそも、面白い小説を読むのが好きで始めたようなサイトなので、開設してからも続々と出てくる新人作家の小説で、気になるものがあれば直木賞とは関係なく読んでいたんですが、そんななか出会ったのが中島京子さんの『FUTON』(平成15年/2003年5月・講談社刊)なる小説です。妙な角度から、妙なお話を書く人が出てきたなあ。と、自分の脳内にある人名事典にその名が焼きついた記憶があります。

 それからも中島さんは着実に作品を発表して、吉川英治文学新人賞の候補に3年連続で挙がります。さすがに全作を追って読んでいたわけじゃありませんが、いつか直木賞の候補になるかもしれない、とワタクシの「気になる作家メーター」がぐんぐんと上がっていきました。

 そしてデビュー7年目の平成22年/2010年上半期に、中島さんはようやく直木賞の候補になります。どうしてそれまで候補にならなかったんだろう。と本気で不思議に思ったので、毎回候補が発表されるとつくっている「直木賞のすべて」の詳細ページで、「全然、初候補っぽくないんだよなあ。もはや、脂のりまくり、獲って当然の域に達しているもんなあ。」と、思ったことを正直に書きました。

 それで『小さいおうち』が初候補でいきなり受賞まで行っちゃったものですから、驚きというより、そりゃそうだろうな、とシラけ切った感情がわいてきた覚えもありますが、それももう昔のハナシです。直木賞をとって以降、中島さんの歩みはあまりに順調すぎて、直木賞の当時のあれこれが、すべて霞んで見えてきます。いや、直木賞は、とったあとに作家に活躍してもらうためにやっている賞なので、だいたいの受賞は霞むのが宿命なんですけど。

 直木賞から今年で13年。その間、中島さんの順調な歩みのなかにあったのが『長いお別れ』(平成27年/2015年5月・文藝春秋刊)の発表です。その2年前に亡くなった中島さんの父親の、晩年の認知症と、それを自宅介護した母親、両親のことをつぶさに見てきた体験が活かされたというふれこみの小説でした。

 ということで、中島さんの父親のことです。中島昭和(なかじま・あきかず)。昭和2年/1927年10月18日生まれ、平成25年/2013年没。大学は東京大学に学んで昭和26年/1951年に文学部仏文科を卒業すると、茨城大学文理学部に所属しました。専門はフランス文学です。

 二人の娘を授かったうち、次女に当たるのが昭和39年/1964年生まれの京子さんです。長女のさおりさんも有名な人ですがここでは割愛しまして、ハナシは一気に昭和さんが大学を退職する頃まで飛びます。

 国立の茨城大学から昭和42年/1967年に私立の中央大学に移り、助教授、教授を務めたのちに、平成10年/1998年、70歳で退職。平成15年/2003年に京子さんが初の小説を出したときにはまだ元気もりもり(?)のオヤジだったんですが、それからまもなく記憶がおぼろげになり、言動に不審なところが現われます。認知症です。

 ……と、ここまで書いてきて、ん? とフワフワした記憶がよみがえってきました。

 調べてみたら10年以上前、うちのブログで中島京子さんとお父さんの直木賞にまつわるエピソード、もう書いちゃっているじゃん! やべ、気づかずにまったく同じこと書こうと思っていたわ。

 そのエントリーで触れなかったことだけ、最後に挙げておきます。中島さんが中学生だった頃のことです。

 生まれて初めて小説らしきものを、国語ノートに書いていたのを昭和さんに見つかって、激烈に怒られます。娘が小説を書いて何がそんなに気に食わなかったのか。よくわかりませんが、そのときのことを、直木賞受賞エッセイで京子さんが紹介しています。

「これは私の傑作であり三文小説とは言わせないと豪語する変な娘に向かって、父は「三文小説とは売れて三文になるものを言うのであり、おまえの書いているものなんか、一文にもならんどころか紙の無駄だ。だいいちそのノートは誰が買ってやっていると思っているんだ」と正論を吐き、「執筆停止」を言い渡したため、以後、執筆活動は地下に潜行することになる。」(『オール讀物』平成22年/2010年9月号 中島京子「いつでもどこでも書いていた」より)

 口の達者な学究肌の父親というのは、まったく困ったものです。

 平成22年/2010年、中島さんが直木賞の候補になったり受賞したりする頃には、すでに認知症のせいで、昭和さんは直木賞が何なのかもわからなくなっていたそうです。またそこで、何だらかんだらと理屈をつけられて父親に怒られなくて、中島さんよかったですね。

 しかしまあ、直木賞なんてものは忘れちゃっても別に問題はないのだ、と昭和さんに教えられた気がして、ワタクシも安心しました。これからもどんどん直木賞のことを忘れていきたいと思います。

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2023年9月 3日 (日)

小菅繁蔵(農業)。堅実に働いて、死んでも何も書き残さなかった無名の人。

 先週、山形県に行ってきました。一泊二日の観光旅行です。

 山形といえば何でしょう。これまで直木賞選考委員は53人いますが、そのうち2人を生んだという、直木賞とも縁が深い土地です。そりゃあ行くしかありません。

 といっても時間は限られています。そんなに多くは回れないので、道中半日だけ鶴岡観光に当てました。東京も暑いけど山形も酷暑のさなか。へろへろになりながら鶴岡公園までたどりついて、藤沢周平記念館に入ったところで倒れ込んだんですが、そこに置いてあったのが次回企画展の案内チラシです。

 それによれば、あと数日待ってから来ていれば「直木賞受賞50年記念企画展〈藤沢周平と直木賞〉」なる展示を見ることができたと知って、よけいに力が抜けました。げっ、来るのが早すぎだか。だいたい、ワタクシの人生、うまく行きません。

 とまあそれはそれとして、せっかく鶴岡に行ってきたことですし、今日の主役はやっぱりこの人、藤沢周平さんで行きたいと思います。

 藤沢さんの両親は無名中の無名人です。父は小菅繁蔵。明治22年/1889年前後に生まれて、昭和25年/1950年1月没。母は〈石川多郎右衛門〉という屋号の家に生まれたたきゑで、生まれは明治27年/1894年前後、没は昭和49年/1974年8月。

 第四子にあたる留治さん、のちの藤沢周平さんが生まれたのが昭和2年/1927年の暮れのことです。当時、小菅家は山形県東田川郡黄金村の高坂で農業を営んでいました。

 藤沢さんに言わせると、父の繁蔵さんは口数が少ない働き者で、コツコツまじめにやるタイプ。母のたきゑさんは話上手な人で、土地の昔バナシだの何だのを幼い藤沢さんによく語っていたと言います。子供たちに本も買い与え、藤沢さんの二人の姉は読書のとりこになり、その影響もあってか藤沢さんも幼少時代からよく本を読みました。

 父の家系は、庄内で堅実に生活する家柄だったが、母の家系は、百姓でありながらも教師をしたり、外の世界に興味をもってふらふらする人が多かった、それを考えると自分が小説家になったのはきっと母方の血のせいだっただろう、とのちに藤沢さんは書いています。

 父方の遺伝か、それとも母方か。こういうハナシは単純に血脈だけで語れるものではなく、はっきりと断定ができません。よくわからないので、さっさと素通りしたいと思いますが、少なくとも藤沢さんが、そう考えたがっていたのはたしかでしょう。

 おそらく藤沢さんは農家出身なことを気にしていたのではないか、とまで言っているのが福沢一郎さんです。

「藤沢本人は自身の出自について気にしていたと思う。藤沢は文壇とはあまり交わろうとしなかった小説家として知られている。本人のシャイな性格によるものだろうが、それだけではない。他に農家の出の小説家がいなかったというのもあったのではないか。

(引用者中略)

プロの小説家になった人たちには、父親が医者だったり、教員だったり、いわゆるインテリ層の家庭に育った者が多い。藤沢は、このことを気にしていたということだ。」(平成16年/2004年12月・清流出版刊、福沢一郎・著『知られざる藤沢周平の真実――待つことは楽しかった』より)

 気にしていた、という表現にはいろいろな含みがあります。マイナスな意味だけじゃなく、プラスの面も含めて、親のことを見ていたのに違いありません。

 というのも、父の繁蔵さんは、藤沢さんが作家になるよりずっと前の昭和25年/1950年に亡くなりましたが、懸命に働きつづけて死ぬときに別に何ひとつ書き残さなかった、と言ったあと、「男の生き方としては、その方がいさぎよいのではないかと思うことがある」(『周平独言』「あとがき」)と書いているからです。

 ものを書くから偉いんじゃない、書かずに人生を全うする農業の営みこそ、ほんとうは偉いのかもしれない。藤沢さんはそう考えていた節があります。

 直木賞をとって、地元の人からもキャーキャー言われ、自分の碑を立てる計画なんてものも持ち上がり、はてまた死んだら立派な記念館まで建ってしまう。それを栄光と見るかどうかは、たしかに微妙なところです。それを見にわざわざ鶴岡くんだりまで行っちゃう人間が言うことじゃないですけど。

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2023年8月27日 (日)

永井智子(声楽家)。「この人を一生母とは呼ぶまい」と娘に決心させるほどのお転婆ぶり。

 永井路子さんが直木賞を受賞したのは第52回(昭和39年/1964年・下半期)です。ということは、いまから60年近くも前のハナシです。

 そのとき永井さんは39歳。以来けっこうな年齢まで現役で物を書きつづけたおかげで、鎌倉市の名誉市民になります。すると、先生、うちの文学館で企画展をやらせてくださいとお願いされることになった結果、平成11年/1999年5月~6月、鎌倉文学館で永井路子展が開かれました。永井さんが74歳の年のことです。

 ああ、もう70を過ぎたか。私の人生もあともう少し。だったらせっかくの機会だし、これまで黙っていたことを明かしちゃおう。……と、このとき初めて、自分には戸籍上の父母とは別に、実の父母がいた、と公にします。

 直木賞をとって35年。その間ずっと隠し通せていたわけです。直木賞を受賞するとたいてい現れる「おれたちが個人情報を暴いてやるぜ」と鼻息あらくするメディアの力も、大したものじゃないんだなと思いますが、今回はそういうハナシは措いておきます。話題は永井さんの親のことです。

 そのとき明かされた永井さんの実父は、来島清徳(きじま・きよのり)さんと言います。

 山口県出身、第一高等学校から東京帝国大学に学んだ秀才で、学生時代、近くに住む女学生に英語を教えたことが縁で、その娘さんの母親〈ため〉さんに大層気に入られたそうです。うん、あんたならうちの娘の婿にちょうどいい、結婚しなさいよ、と強引に事を進めたのが、その〈ため〉さんです。娘の名は智子さん。こちらはのちに多少有名になりました。

 永井智子。生年月日は諸説ありますが、とりあえず『音楽年鑑 昭和四十年度版』(昭和39年/1964年11月・音楽之友社刊)その他、もっとも採用されている記述を参考にすると、明治40年/1907年1月20日生まれ。平成4年/1992年11月2日没。

 結婚の話が出たのはまだ二十歳前です。智子さん本人はあまり気乗りしなかったとも言いますが、母の言うことを聞いて来島さんとくっついたところ、大正14年/1925年3月に、一人の女児を生み落とします。本名・擴子、のちの永井路子さんです。

 永井の本家は茨城県古河にあって、〈ため〉さんの弟の八郎治さんと、その妻まつさんが守っていました。しかし、いかんせん夫妻には子供がいません。跡取りをどうするか。ずっと悩んでいて、姪にあたる智子さんに継いでもらおうと考えていたようです。

 そんなときに来島さんという結婚相手が現われた。いやあ、よかったな、と思ったのも束の間、来島さんのほうは永井家に婿に入る気がなく、話はうまくいきません。そこで子供が生まれたものですから、じゃあ擴子に本家に入ってもらおうと、戸籍上、擴子さんの父は八郎治、母はまつ、となりました。

 来島さんはまもなく若くして死んでしまったため、擴子さんに実父の記憶はありません。母の智子さんは昭和5年、画家の田中弘二さんと結婚。それを機に擴子=路子さんは、古河の永井家に移り住み、それ以後大人になるまで同地で育ちます。

 実父と違って、実母のほうは長生きしたので、その後も路子さんは智子さんと縁がつながっていたようです。私の名前が永井荷風の『断腸亭日乗』に出てくるのよ、と路子さんが自慢げに(?)語っているのも、母の智子さんが荷風さんに、いっときものすごく可愛がられていたからですが、路子さんに言わせると、智子さんという人はいいトコ育ちのわがまま娘、言いたいことをすぐに口に出す無鉄砲な人だった、と言っています。

「彼女は単純で何の考えもなくぱっーと言ってしまう人間なんですよ。しかも子どもの頃から甘やかされて育っていますから。(引用者中略)ともかく天真爛漫で、単純すぎるのです。一緒に住める人ではありません。私も若い頃は愛憎の屈折があり、衝突もし、この人を一生母とは呼ぶまいと決心し、結局それを押し通しました。」(『東京人』平成12年/2000年4月号「インタビュー 永井路子 母、永井智子と荷風 オペラ「葛飾情話」に寄せて。」より ―聞き手:川本三郎)

 そういう智子さんの性格が、結果、荷風さんから嫌われることになった大きな原因なのではないか、と路子さんは回想しています。そうだったのかもしれません。

 上記のインタビューで、路子さんは続けます。智子と一緒にいたら、作家になった今の自分はないだろう、と。

 「私が母と呼べるのは私を愛してくれた戸籍上の母まつ」「もの書きになれたのは三郎叔父(引用者注:八郎治の弟)の影響をうけたから」なんだそうです。それで、直木賞の受賞者がひとり生まれたのですから、娘といっしょに暮らさなかった智子さんの奔放さも、ある意味、直木賞の歴史の一端をつくったと言えるでしょう。

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2023年8月20日 (日)

赤瀬川廣長(倉庫会社社員)。息子二人の受賞を、その目では見られなかった父親。

 第169回(令和5年/2023年・上半期)までで直木賞の受賞者は202人います。受賞した時の年齢は、ざざっと平均すると44歳ぐらいです。

 当然、受賞までの道のりは一人ひとり違います。若くして受賞してもすでにふた親のいなかったケースもあれば、年をとって受賞した人でも、親が健在だった場合だってあるでしょう。年齢を平均して何の意味があるんでしょうか。まあ、だいたい「平均」なんてものは、ほぼ無意味です。

 それはそれとして、今回取り上げる赤瀬川隼さんは第113回(平成7年/1995年・上半期)受賞したときに、すでに63歳。父も母も10年以上まえに亡くしていて、受賞を直接知らせることはできませんでした。

 ただ、父が亡くなって赤瀬川さんが受賞するまでの20年のあいだに、すでに父は一度、脚光(?)を浴びたことがあります。赤瀬川さんの弟の尾辻克彦さんが、自伝的な要素を含んだ「父が消えた」で第84回(昭和55年/1980年・下半期)芥川賞をとっちまったからです。

 「父が消えた」は小説でもあり、家族の人名は出てきません。ですけど、うちのブログは小説を論評したいわけじゃないので、実名を挙げておきます。

 赤瀬川廣長。明治28年/1895年2月13日生まれ、昭和50年/1975年5月27日没。享年80。鹿児島で、かつては島津藩の槍術師範をしていたという家に生まれたのち、東京に出てきて三井グループの倉庫会社に勤めます。働くうちに、ぜひうちの娘と結婚してほしい、と一人の男に強く請われて東京・四谷生まれの幸(みゆき)という名の女性と結婚。そのとき幸さんは勧業銀行に勤めていて、職場内に結婚を約束した相手がいたと言います。結婚は親が決める時代、幸さんは仕方なく赤瀬川家に嫁いだんだとか。

 昭和2年/1927年、長女の昭子さんを生んだのを皮切りに、昭和17年/1942年までで3男3女、6人の子をなします。その間、廣長さんの仕事の関係で、全国各地に転々。四日市、名古屋、横浜、芦屋、門司、大分と移ったところで、戦争が激しくなり、廣長さんの転勤も止まります。

 九州の旧士族の生まれとはいえ、廣長さんは厳しいところのない優しい人だった、とのちに物書きになった長男、次男は言っています。家では穏やかで無口な父親だったそうです。趣味で俳句を嗜み、『現代俳家人名辞書』(昭和5年/1930年12月・素人社書店刊)では「骨茶」として紹介されています。

 子供たちはすくすく育ち、幸さんが教育熱心だったことも手伝って、このまま行けば、みんなつつながく上の学校まで行ったかもしれませんが、戦争のせいでそれもすべてひっくり返ります。昭和25年/1950年、長男の隼彦さん、つまり赤瀬川隼さんが高校を終えるときには、父の廣長さんは失職中。大学に通えるようなおカネはなく、東京に出ていくのは、就職先を探すためでした。

 さて、父親の廣長さんです。敗戦のとき50歳。しかし、その後は仕事がうまくいかず貧乏な生活がつづきます。次男の克彦さん、つまり赤瀬川原平さんいわく、

「父の性格としては慎重で、怒らなくて、手先などは器用な方だった。母の方は何でもぽんぽんやってしまう方で、怒るときは怒る。とにかくくよくよはしない方だった。」(平成8年/1996年12月・大和書房刊、赤瀬川原平・著『常識論』所収「東京を出て東京に戻る」より)

 よおし、日本が負けたんならそれでいい、新しい生活を俺が切り開いてやる! といった積極的な人ではなかったようです。そのまま年をとり、仕事を離れ、名古屋で晩年まで過ごします。

 何をどう考えながら暮らしていたのか。もはやわかりません。名古屋の団地で老夫婦二人で過ごしていたある日、突然、コタツのなかで倒れます。脳軟化症と診断を受け、もはや回復は見込めない。どうしようかと子供たち相談のうえ、横浜に住む長男の団地に引っ越し、その家で引き取った……というのは尾辻さんの「父が消えた」にも書いてあることですし、他のエッセイなどでも描かれています。

 ちなみに横浜に住む長男というのは、赤瀬川隼さんのことです。

 「父が消えた」受賞のとき、まだ物書きの遠くにいた隼さんは、それから15年、ぞくぞくとエッセイを書き、小説にも進出して直木賞をとるわけですが、もちろん隼さんも父親のことはそこかしこに書き残しています。

 戦後落魄した父を、どう見ていたのか。はっきり書かれているのがエッセイがあります。

 廣長さんが横浜の事務所に勤めていた頃。まだ小学校に上がるかどうか、そのくらいの年だったときに、隼さんは父親に連れられて、仕事場を訪れました。

「今思うと、僕はその日初めて、働く父の姿に接したのだった。家族以外の人たちの中で、すなわち社会で、ある役割りを果たしている父の姿に初めて接したのである。そのとき僕は、父に対して家庭の中でとは別種の尊敬の念を抱いていたような気がする。

(引用者中略)

亡父の晩年は不遇で無気力だった。しかし、父に対する僕の尊敬の念は、あの幼少時の一日によって不変である。」(平成13年/2001年5月・主婦の友社刊、赤瀬川隼・著『人は道草を食って生きる』所収「がっしりした木の机」より ―初出『勤労よこはま』平成6年/1994年10月号)

 息子たちの芥川賞も、直木賞も、廣長さんは見ることはできませんでしたけど、小説の題材にしてもらい、また尊敬されつづけたその生涯は、ある面では幸せだった、と言っておきたいと思います。

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2023年8月13日 (日)

藤原彦・りゑ(信用組合長と妻)。小説が大好きな父と、小説を書くのを反対していた母。

 直木賞をとった人たちのなかで、子供も有名になった、っていう例はいろいろあります。

 第一回受賞の川口松太郎さんからしてそうです。檀一雄さん、藤原審爾さん、水上勉さんなどなど、「直木賞とそれにまつわる子供」をテーマにしても、一年ぐらいはネタが続きそうです。

 その「子供が有名列伝」に入ってくるのが新田次郎さん。ご自身が亡くなった昭和55年/1980年のときには、まだ『若き数学者のアメリカ』(昭和52年/1977年11月・新潮社刊)一冊の著作しかなかった藤原正彦さんが、あれよあれよとエッセイを量産し、小説も書き、ベストセラーも連発して、いまでは多くの読者を持つ書き手になりました。人生どこでどうなるかわかりません。

 まあ、子供のことは措いておきます。ブログのテーマは親のことです。正彦さんの父が新田次郎さん。では新田さんの両親はどんな人だったのか。当然気になります。

 藤原彦(ふじわら・ひこ)。明治20年/1887年3月生まれ、昭和39年/1964年6月2日没。享年77。新田さんといえば故郷への思いの強い人で、自分の故郷(諏訪町の)角間新田をペンネームにつけているぐらいですが、江戸の昔から同地で暮らしていると言われていますす。むろん父の彦さんも、諏訪の角間新田で生まれました。

 彦さんの父親、光蔵さんは農業で身を立てようとしながらも途中で官吏の道に進み、角間新田の土地を他の人に貸したままで、長野県内、各地を転勤で回ったそうです。彦さんには姉が二人、それから3つ上に咲平さんという兄がいましたが、頭のキレる優秀なアニキで、勉強のために東京に出て、そのまま中央気象台に勤務。

 じゃあ実家はどうするか。ということになって、光蔵さんから「おまえが継げ」と命じられたのが彦さんです。上の学校には進まず、角間新田の藤原家を背負って立つことになります。

 その後、りゑさんと結婚。9人の子をなしますが、明治45年/1912年、二番目に生まれたのが寛人、のちの新田次郎さんです。

 新田さんの年譜には、父・彦さんの職業は「上諏訪町信用組合長」と書いてあります。りゑさんは農業を営んでいたそうです。藤原家はもともと高島藩の下級武士で、付近の開発を手がけていたという説もあり、地元ではちょっとした名家ではあったんでしょう。のちに彦さんは農業協同組合長も務めています。

 そして彦さんの特徴といえば、大の読書好きだったことです。

 藤原家にはずっと前から本がたくさんあったらしく、そういう蔵書を幼い頃から新田さんも好き好んで読みあさっていたようです。父の彦さんも、家庭の事情で勉学の道には進みませんでしたが、記憶力は抜群。また、文才もなかなかのものがあった、というのが新田さんの語るところです。

 とくに彦さんは小説を読むのも大好きで、新田さんは自分の初めての小説集『強力伝』(昭和30年/1955年9月・朋文堂/旅窓新書)ができたとき、いち早く知らせねばと思って、わざわざ速達で彦さんに送ったといいます。彦さんも、息子が役所勤めをしながらも小説を書き始めたことを、そりゃあ嬉しがったことでしょう。

 新田さんが直木賞をとるのはその直後、昭和31年/1956年1月です。父・彦さんも、母・りゑさんもまだ存命でした。

 息子の直木賞受賞に母がどんな反応をしたのか。新田さんの『小説に書けなかった自伝』に紹介されています。

(引用者注:昭和32年/1957年9月終わりに母が亡くなり)母の葬儀に故郷へ帰った。村の人が、私が直木賞を受賞したという新聞記事を読んで、私の母におめでとうを云ったら、

〈小説なんか書いていて、役所のほうがおろそかにならねばいいが〉

と心配していたという話を聞いて、母は、私が小説を書くのは反対だったなと思った。」(『小説に書けなかった自伝』「方向づけに苦しむ」より)

 いまなら、おそらく受賞式の席に両親を呼んだでしょう。ただ、当時は日本文学振興会が外部の人を招いて受賞パーティーを盛大に開く、ということは、まだやっていない時代です。

 もしも新田さんの頃に、そういう機会が始まっていたら、りゑさんも「小説なんか書いて……」みたいなネガティブな感情をもうちょっと修正してくれたかもしれません。

 それから彦さんのほうは7年長生きしました。新田さんも作家としての活躍の一端を見せられたので、よかったんじゃないかと思いますが、それでも「なにひとつとして親孝行らしいことをしてやれなかったのが残念」(前掲『小説に書けなかった自伝』)と言っちゃうあたり、さすが謙虚でおなじみ新田次郎ブシです。

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2023年8月 6日 (日)

祢寝正也・みどり(民芸品店主と妻)。受賞式の会場で喜ぶ母と、自宅で喜ぶ父。

 昨日(令和5年/2023年8月5日)も東京は猛暑でした。

 その「クソ」がつくほど暑いなか、高円寺に用事があったので、うーうーうだりながら西部古書会館の古書展をのぞき、直木賞に関係した本をみつくろって買ったんですけど、直木賞直木賞、といつもそれしか言っていなくて、われながら恥かしいことです。

 と、そんなことはどうでもいいんですが、久しぶりに高円寺に行って思い出しました。ねじめ正一さんのことです。いや、ねじめさんと両親と直木賞のことです。

 ねじめさんは物書きのなかでも、自分の生活や家族のことを大っぴらに書いちゃうタイプの人です。第101回(平成1年/1989年・上半期)直木賞を受賞したのも、自分の子供のころの生活をモデルにした『高円寺純情商店街』ですからね。言わずもがなです。

 同作にも乾物屋をやっている夫婦として、両親のことがたくさん出てきます。その後も、小説、エッセイ、インタビュー、さまざまなところでねじめさんは親について語ってきました。それをもとにして以下略歴をまとめておきます。

 祢寝正也。大正半ばに生まれ、日本学園中学を中退して日本郵船で船乗りになります。太平洋戦争を挟んで、海での生活に見切りをつけて、戦後、親戚が経営する乾物卸会社に入社。自分のあるがままに生きるその性格から、上司に歯向かうは、遅刻しまくるは、職場では白い目で見られますが、この会社に経理事務で働いていた6~7歳ほど年下の女性、みどりにちょっかいを出して、そのまま結婚。会社をやめて、高円寺で乾物屋を始めます。

 開店してまもなく昭和23年/1948年に長男正一が誕生。正也さん自身は、あまり商売に身が入らず、おれの生きがいは俳句だけだと言い張って、商売はほとんど妻のみどりさんに任せっきり。もともと骨董や美術に興味があったものですから、昭和39年/1964年に乾物屋をやめて、画廊の経営に手を出します。

 ところが、これもまた商運がなく、一年ほどで立ち行かなくなって、次に挑戦したのが民芸品屋です。するとこちらは、正也さん自身、興味のあるものを扱える業種でもあり、本気で身を入れます。昭和47年/1972年、高円寺駅北口の区画整理のため、店は隣駅の阿佐ヶ谷に移転、そこでみどりさん、正一さんの手を借りながら、商売を大きくしていこうとしていた矢先、昭和51年/1976年2月、脳溢血で倒れます。57歳のときでした。

 その後、平成10年/1998年2月2日、79歳で亡くなるまでのことは、正一さんの『二十三年介護』(平成12年/2000年7月・新潮社刊)にくわしく書かれています。リハビリのおかげで多少容態はよくなりますが、かつてのように元気よく動き回ることができません。みどりさんがほとんど一人で自宅で面倒を看て23年を過ごしたということです。

 父は自宅療養、母はその世話をしながらときどき店番に立つ、といった日々を送るなか、アイツがいきなりやってきます。直木賞です。

 うちの息子が直木賞をとった。しかも、自分たちが一生懸命生活していた高円寺の乾物屋時代のことを書いて受賞した。そりゃあ正也さんもみどりさんも喜ばないはずがありません。平成1年/1989年8月の、正一さんの受賞式には、さすがに正也さんは出かけられませんでしたが、みどりさんは息子の晴れ舞台を見に、東京會舘に足を運びます。

「当日はお迎えの車に来て頂き正一夫婦と一緒に参ります。普段はお喋りな私がじっと無口になってしまい、正一が「お母さん静かだね。どうしたの」と声をかけてきましたが、私はふふふと笑いました。(引用者中略)受賞の言葉、祝辞など夢中で聞き、二次会へ廻る正一夫婦と別れて会場を後にいたしました。(引用者中略)

その翌日正一が我が家に参りまして、受賞記念の時計を主人にくれました。主人はその時計をとても嬉しそうに何度も何度も手にとっておりました。」(『二十三年介護』「四 再発――平成二年五月」より)

 心あたたまる場面です。何が心あたたまるって、受賞風景を見守る両親の目もそうなんですが、その貴重なハナシを母親が自分の言葉で書き、受賞者である息子が活字として残している、そのことに直木賞ファンとしては感動してしまいます。正直、全受賞者とその家族にやっておいてほしいぐらいです。

 じっさいは、直木賞受賞を両親が喜ぶ姿をめぐって、正一さんの弟がムッとして、兄弟一触即発の状況になっちゃうんですが、それはここではスルーしておきましょう。

 息子の受賞から8年半後、正也さんは亡くなります。さらに残されたみどりさんは、パーキンソン症候群を発症、さらには認知症が進んで施設に入所することになって、そこでもあれやこれやの騒ぎを起こしながら、平成29年/2017年9月19日、92歳で他界しました。

 しかし、ただ老いて、ただ死んだだけではありません。正一さんの手で『母と息子の老いじたく』(平成23年/2011年4月・中央公論新社刊)とか『認知の母にキッスされ』(平成26年/2014年11月・中央公論新社刊)とか、さまざまな作品が書かれることで、息子の仕事を「自分が題材になる」という点で助けました。

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2023年7月30日 (日)

山手樹一郎(大衆小説作家)。自分と同じく直木賞候補になった息子の成長を(おそらく)喜ぶ。

 ワタクシは「直木賞のすべて」のほか、いくつかサイトをつくっています。残念ながらけっこう間違いだらけで、ときどきミスを見つけては、そのたびに赤面して直したりしているんですが、むちゃくちゃなミス、ということではウィキペディアも相当なもんです。

 今日のエントリーを書く参考にと思って、ウィキペディアの「井口朝生」のページを見たところ、直木賞候補になった作品の題名が書いてありました。『青雲乱雲』なのだそうです。おいおいマジかよ。

 ……ここで直木賞候補に関する知識合戦を挑んでも、むなしいだけなのでやめておきますが、しかし、さすがに候補作が『青雲乱雲』ってことはありません。

 第45回(昭和36年/1961年上半期)の井口さんの候補は、昭和36年/1961年5月25日に東方社から刊行された『狼火と旗と』です。その前編にあたる『青雲乱雲』が東方社から出たのは昭和35年/1960年7月20日ですので、少なくとも第45回の候補のわけがありませんし、該当する回に『青雲乱雲』が候補になったという記録もありません。ウィキペディアンの凡ミスか、参照した資料の間違いです。

 人のふり見て我がふり直せ、とはよく言ったもんです。一度なにかを調べてサイトに反映させても、それが絶対の事実であるという保証はどこにもありません。常に情報が正しいか気にかける。自分の間違いに気づいたら、ああ、おれの調査能力なんて大したもんじゃないんだな、と反省して、サイトの記載を修正する。自分はそういうサイト運営者でありたい、と肝に銘じます。

 とまあ、ウィキペディアに突っ込んだところで何も生まれませんよね。さっさと忘れて、今日のエントリーです。

 井口朝生さんの父親は、これはウィキペディアを見るまでもなく、よく知られています。作家の山手樹一郎さんです。

 山手樹一郎。本名、井口長次。明治32年/1899年2月11日生まれ、昭和53年/1978年3月16日没。両親は父・浄次、母・よし(旧姓・山手)。大正6年/1917年に明治中学を卒業、中西屋出版部(のちに小学新報社)で子供雑誌の編集に携わり、昭和2年/1927年からは博文館に移ります。

 大正後期に結婚したひでさんとのあいだには、確認できるかぎり6人の子供がいて、その一番さいしょの子供が朝生さんです。大正14年/1925年の生まれですから、長次さんが26歳のときにできた息子です。

 その頃はまだ長次さんは単なる編集者にすぎず、ものを書いてメシを食おうなんて思ってもいません。それがふつふつと(ないしは、安月給に堪えられず)小説を書いてみようという気になって、昭和8年/1933年に『サンデー毎日』の大衆文芸懸賞で選外佳作。山本周五郎さんとか山岡荘八さんとか、そこら辺りの、何十何百のクセをもったような仲間たちと切磋琢磨で読み物小説を書いてはカネに変え、昭和14年/1939年秋に博文館を退社すると、大衆小説作家として筆一本で家族を養います。

 要は、長次さんが「山手樹一郎」となって小説を書き、それを職業にしていく過程に応じて、すくすくと育ったのが朝生さんだったというわけです。朝生さんが編者となった山手さんの『あのことこのこと』(平成2年/1990年12月・光風社出版刊)などを読むと、子供の頃から朝生さんは、山手さんの書いた原稿を雑誌社に届けて小遣いをもらっていたと言います。

 朝生さんが作家になろうと決意したのは、出兵から帰ってきた昭和24年/1949年以後のことだそうです。ふつう作家になろうとする奴は純文学から志向するものだ、と誰かが熱く語っているのを聞いたこともありますが、朝生さんが目指したのは大衆文芸でした。しかも、定期的に勉強会に足を運んで、仲間と語らい、先輩に教えを請う、という小説修業のやり方は、父親山手樹一郎さんの影響をもろに受けています。

 書いているものは軽いけど、小説に向かう姿勢はまじめで真摯。そんな山手さんのことを尊敬していたところから、朝生さんもおのずと大衆文芸に人生を賭ける気になったものと思います。純文学ばかりが文学じゃありません。

 それで苦節ン年、朝生さんは昭和36年/1961年で直木賞の候補に挙げられます。選考委員の何人かは、新鷹会とか山手さんつながりで、すでに顔なじみの知り合いばかりです。けっきょくそういう先輩たちからは、まだまだ修業が足りんな、と一蹴されて、朝生さんと直木賞との接触は一度きりで終わりましたが、直木賞候補になったこととひっかけて、山手さんと朝生さんはいっしょに読み物誌のグラビアに登場させられます。

「まさか忰が小説書きになろうなどとは夢にも思っていなかっただけに、(引用者注:父・山手は)はじめは驚ろかれたらしいが、直木賞候補にあげられるまで成長した朝生さんの姿に、父親らしい慈愛の鞭撻の眼を向けられるこの頃だ。」(『小説倶楽部』昭和37年/1962年春の増刊[3月] 「グラビヤ 親子同業」より)

 ここで直木賞候補になったことを一つの成長ととらえているのがミソです。なぜかといえば、父・山手さんだって直木賞はとることができずに、候補止まり。それでも書きつづけて、作家として一家をなした背景があるからです。

 直木賞はもう90年近くやっています。受賞者も候補者もたくさん生まれてきましたが、親子そろって直木賞の候補に上がり、親子そろって受賞できないままで終わったのは、山手さんと朝生さん、この一組しかありません。

 朝生さんが受賞して、少なくとも直木賞のうえでは親父を超えた……というふうな展開になっていたら、もっと面白かったと思います。しかし、なかなかうまくはいかないものですね。実作のうえでも、朝生さんが親父さんを超えるまでにはとうてい行きませんでしたけど、「落選親子」を完成させただけでも立派なものです。井口朝生、よくやりました。

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2023年7月23日 (日)

門井政喜(料理会社社長)。夢ばっかり追いかけている無職の息子を心配しながら息を引き取る。

 第169回(令和5年/2023年・上半期)の直木賞が決まりました。

 ……と、こんな極小ブログに書いたところで、インターネットは大海原。一時的な直木賞の盛り上がりに乗じる人はたくさんいるはずですが、うちのブログを観にくる人が、別に増えるわけじゃありません。いつもどおり、どうでもいいような「親に関する」直木賞バナシを、だらだら書いていきたいと思います。

 今回は受賞作のタイトルのことから始めます。過去の直木賞で、題名に「母」と入った受賞作はひとつもありません。しかし「父」という単語を含む受賞作なら、一つだけあります。さて何でしょうか。

 いや、知ったかをカマしている場合じゃありませんね。今週のエントリーのタイトルからもバレバレなとおり、門井慶喜さんが書いた『銀河鉄道の父』です。第158回(平成29年/2017年・下半期)の直木賞を受賞したのが、いまから5年以上も前のこと。もはや、ちょっとした昔です。

 作品は、宮沢賢治という実在の著名人と、その父親との関係などを描いたもので、さほど刺激的でも先進的でもなかったんですが、直木賞がイイのは、受賞をきっかけに作者の人間的な背景を、さまざまなメディアがよってたかって掘り起こそうとしてくれるところです。「イイ」というか、ときによってはウザかったり、キショかったり、アクドかったりするんですけど、マスコミ批判はこのさい措いておきます。

 「父」のことを小説に書いた門井さん。ということは、門井さん自身の父親に対する感情も、そこにはきっと込められているんだろう。受賞後のインタビューや取材記事でも、そういう方向性のものがたくさん出ました。門井さんもサービス精神の豊かな人です。相手の求める意図を汲み取り、ええ、そうなんですよ、今回の作品には僕の父への感情がなかったといえばウソになります、とかなり詳しくくっちゃべります。すでに亡くなった父親が、いかに自分の作家人生にとって重要な存在だったか。直木賞を誘い水に、父親のありがたさを世間に向けて語ってくれたわけです。

 門井政喜(かどい・まさき)。昭和18年/1943年頃の生まれで、平成14年/2002年11月27日没。享年は59。けっこう若いです。

 昭和46年/1971年、群馬県桐生市に住んでいるときに、妻フミとのあいだに初めての子供が生まれます。男の子です。政喜さんは自分の名前から「喜」を一字とって、また徳川十五代将軍の名前にあやかって「慶喜」と名づけます。読者好き、歴史も大好きな人だった……というのが、のちに息子が語った政喜さんの姿です。

 それから約5年後に、栃木県宇都宮市に転居。料理人として働いていた政喜さんは、なにをどう思ったか一念発起、自分で会社を興します。職種はやはり「食を提供する」事業で、レストラン、料亭、ケータリングなどを展開する企業です。

 一からの会社経営となれば、相当な激務だったことでしょう。それでも自身の読書習慣は欠かさず続けて、家のなかは本だらけ。そういった環境のなかで慶喜さんは育ち、とにかく作家になることを夢みます。

 政喜さんは、自分の事業を息子に継いでほしい、と思っていたらしいですが、慶喜さんの抵抗は強く、とにかく作家になる人生だけをめがけて、別の仕事に就きます。7年ほど、帝京大学理工学部に勤め、それでもなかなか結果が出なかったので、思い切って小説応募に専念するために退職。すでに家庭をもち、無職の身で、ほんとになれるかどうかわからない作家への夢を追いかけている30歳の息子。政喜さん、そりゃあ心配したでしょう。

 そうこうするあいだに、政喜さんは病に罹り、平成14年/2002年に病没します。いっぽう慶喜さんはあきらめずに小説の応募を続けて、オール讀物推理小説新人賞をとったのが翌年、平成15年/2003年秋のことでした。ああ、間に合わなかったか。

 同賞を受賞したときの、門井さんの記事には父のハナシが出てきます。

「いま何より残念に思うのは、昨年(引用者注:平成14年/2002年)十一月に父を亡くし、受賞を報告できなかったことだという。」(『下野新聞』平成15年/2003年10月8日「この人」より ―署名:学芸部 星雅樹)

 オール讀物の推理小説新人賞なんかとっても、その後、プロとしてやっていけず消えちゃうほどは山ほどいます。そこから13~14年。今度は、直木賞の場でふたたび自分の父のことを語る機会を引き寄せた慶喜さんは、もはや人生が劇的といいますか、やっぱりモッている作家です。

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