カテゴリー「直木賞と親のこと」の45件の記事

2024年4月21日 (日)

山本唯一(国文学者)。反抗していた息子が、自分の蔵書を参考にして歴史小説を書く。

 今日は令和6年/2024年4月21日日曜日。東京・鬼子母神で一箱古本市の「みちくさ市」がありました。

 とくに行く必要もないんですけど、春日部の奇人・盛厚三さんが元気に出店していると聞いていたので、久栖博季さんが三島由紀夫賞の候補になったことを伝えなきゃと思って、からだに鞭打ち、行ってきました。釧路関係のことなら何でも喜ぶ奇人中の奇人、盛さんですから、まだ受賞もしていない候補に選ばれたという段階のニュースでも、大喜びしていました。

 と、それはうちのブログとは関係ありません。みちくさ市で、盛さんとも顔なじみの〈とみきち屋〉さんに『直木賞受賞エッセイ集成』(平成26年/2014年4月・文藝春秋刊)が出ていたので、思わず買ってしまった……と、それが言いたかったんです。

 平成期の直木賞受賞者たちが、『オール讀物』に寄せた受賞エッセイをまとめた本ですけど、このエッセイは基本的には受賞者がそれまでどのように歩んできたか、というのがテーマになっています。当然、直木賞にまつわる親のハナシの宝庫でもあります。

 今週は、そこに収録された作家のことにしたいと思い、この人を取り上げます。第140回(平成20年/2008年・下半期)受賞、いまはもう新作が読むことはかなわない山本兼一さんです。

 山本さんの受賞エッセイは「本のある家」というタイトルです(初出『オール讀物』平成21年/2009年3月号)。自身の来歴のハナシでありながら、親のことを語っていて、内容からしても代表的な「親にまつわる直木賞受賞エッセイ」の一つ、と言っていいでしょう。書かれているのは、山本さんの父親のおハナシです。

 山本唯一(ゆいいつ)。大正10年/1921年2月7日、新潟県中頸城郡新井町生まれ。実家は同地のお寺だったのではないかと思われますが、くわしくは今後の山本唯一研究(?)の成果を待ちたいと思います。

 大学は、仏教にまつわるあれこれに特化した大谷大学に進み、昭和18年/1943年に文学部を卒業します。しかし時代が時代、日本じゅうが戦争だ聖戦だと言い募っていた時期に当たり、唯一さんも「卒業」とは言いながら学徒出陣で陸軍に行かされて、そこで貴重な青春時代の2年間を送った模様です。

 唯一さんの興味があったのは、昔の俳諧についてあれこれと調べることで、とくに俳諧と仏教との関わりには並々ならぬ関心を抱いていました。戦争が終わって、あらためて学究の道に舞い戻ると、昭和25年/1950年に京都大学文学部国文学科を修了。そこから母校の大谷大学に助手として帰ってきます。

 昭和27年/1952年に助教授になる頃には、終生連れ添う嘉子(よしこ)さんと結婚したらしく、その後に女児をひとり、男児をひとり儲けます。その男の子のほうが、のちに小説家になる兼一さんです。生まれは昭和31年/1956年7月、父の唯一さんが気鋭の国文学者として世に出ようとしていた頃にあたります。

 それで、兼一さんの受賞エッセイなんですけど、タイトルにあるとおり、とにかく実家にはたくさんの本が並んでいたそうです。唯一さんは自分の研究分野である和書や古書籍を大量に買い込むし、嘉子さんは高校で国語の先生をしていたそうで、こちらも大の読書好き。文学全集やら新刊の書籍やらを本棚に並べては、ガッシガッシと読書に励みます。

 本に囲まれた環境で育つうちに、いつかは自分も文学で生きていきたい……と思うようになる兼一さんの心の動きは、あるいは自然だったかもしれません。しかし、ここで出てくるのが当エッセイの眼目に違いない心のしこり。父親、唯一さんに対する反抗心ないしは憎悪の感情です。

 子供の頃は鉄拳制裁で、兼一さんもけっこう唯一さんに殴られていたと言います。外ではまじめで温厚な学者先生が、裏では平気で暴力をふるっていた、というのですから穏やかではありません。息子にはよくある感情でしょうけど、兼一さんは父親のことがイヤでイヤで仕方なくて、まともに口を利くことすらできなくなります。

 そして、唯一さんが望んでいたような道には行かず、大学卒業を控えてバックパッカーとなるとインドからヨーロッパをめざして一人旅。帰国後は、新聞の求人広告からさがして、家具関係の業界誌をつくっている会社に就職します。その後は文章を書くことが仕事になる職場を転々としたあと、30歳でフリーのライターになりました。

 その頃、父の唯一さんは、大谷大学で教授、図書館長、文学部長などを勤め上げて、昭和61年/1986年に退職します。芭蕉研究といえばこの人だ、といったようなガチガチの国文学者として研究を続けますが、平成3年/1991年6月2日、妻の嘉子さんに先立たれてしまいます。一人になった老学者。

 やっぱり親のことは放っておけないと、東京に住んでいた兼一さんは、京都の唯一さんのところに戻ってきて、同居することを選びます。昔からの経緯もあるので、そう簡単に父親と打ち解けることはできませんが、ともかく父のもとには大量の本がある。小説家になりたい、と思って、さまざまな新人賞に応募しては落選を繰り返していた兼一さんは、やがて家にある歴史研究の基本的な文献に親しむようになって、そうか、歴史小説を書いてみようと思い立った、というわけです。

 唯一さんが亡くなったのは平成12年/2000年10月2日です。兼一さんが「弾正の鷹」で小説NON創刊150号記念短編時代小説賞の佳作になったのは平成11年/1999年ですから、その頃には唯一さんも生きていたはずですが、そんなものをもらったところで、小説家として続けていけるかはまるでわかりません。けっきょく、父親とは胸をひらいて語り合うこともなく、作家になった自分の姿を見せることもないままに、別離を迎えてしまいました。

 それから約8年が経過して、兼一さんは直木賞を受賞します。そして改めて父のことを思います。

「憎しみしか感じていなかった父親だが、いま、こうして蔵書の恩恵にあずかってみると、複雑な思いがゆらぐ。

直木賞という大きな賞をいただき、この原稿を書くことで、わたしはようやく父親との関係を、客観的に見つめ直すことができるかもしれない。

この歳になって――、と恥ずかしく思うが、人間という生き物は、どうしたって幼児体験を重く引きずるしかなかろう。

いま、仕事場で本に囲まれながら、本が語りかけてくる声を聴いている。」(山本兼一「本のある家」より)

 直木賞というものがあったおかげで、父との関係性を見つめ直せるかもしれない。そんなふうに兼一さんは言ってくれました。そうであれば、直木賞のほうも、少しはやっている意味があった、というものです。

| | コメント (0)

2024年4月14日 (日)

有吉秋津(銀行員の妻)。夫のかつての友人が、娘の直木賞候補作を選考する。

 直木賞、直木賞と、うちのブログではそればっかり言っています。ほんとは、直木賞に関わる作家のなかでも、有名じゃない部類の人をたくさん取り上げたいんです。だけど有名じゃない人は、つまり有名じゃないので、くわしく調べたくてもなかなか調べきれません。ということで、すみません、今週は超絶に有名な作家の、親のハナシを書くことにします。

 有吉佐和子さんです。作家デビューが昭和30年/1955年(月号表記は昭和31年/1956年1月号)の『文學界』に掲載された「地唄」で、直木賞の候補になったのはそれから1年半後の第37回(昭和32年/1957年・上半期)。対象となったのは『キング』に載った「白い扇」でした。

 選考委員のあいだでは、何とうまい作家だ、と一部で好評を集めます。しかし、すでに力量は十分知られている人だから受賞の対象にはならない、とか何とか言って反対した人がいたそうです。知られている、っていったって、まだ文壇に出て1年そこらのペエペエの人に、それはあんまりじゃなかったかと思います。けっきょく直木賞の候補になったのはこれ一回っきり。まあ直木賞も惜しいことをしました。

 そのとき26歳のうら若き乙女だった有吉さんは、高度経済成長の出版界お祭り景気の波にも乗って、おそろしいほどに大活躍。昭和59年/1984年8月に亡くなるまでの、30年に満たない作家人生を図太く駆け抜けました。もっと長生きしていれば、直木賞の選考委員とかにお声がかかって、委員としても伝説を残してくれたかもしれません。残念です。

 ところが、娘の玉青さんも物を書くようになったおかげで、佐和子さんとの思い出はもちろんのこと、その母親のことも世に知れ渡ることになります。玉青さんのような立場の人が『ソボちゃん いちばん好きな人のこと』(平成26年/2014年5月・平凡社刊)を書かなければ、絶対に本としてかたちに残ることもなかったはずの、有吉さんのお母さん。まったくありがたいことです。

 有吉秋津。旧姓は木本。明治37年/1904年10月10日、和歌山県海草郡木ノ本村生まれ。実家は、もともと農業をなりわいとする大地主でしたが、秋津さんの祖父にあたる太兵衛さんが酒造業を始めてますます発展。太兵衛さんの長男、つまり秋津さんの父親となる主一郎さんは若い頃から地元コミュニティの中心にいて、木ノ本村の村長、県会議員、県会議長などを務めたあと、衆議院議員にも当選します。

 そういう環境のなかで秋津さんも、なかなかの英才教育を受けたようで、進学したのが京都女専です。以下は玉青さんによる昭和も後期の回想ですが、秋津さんは新聞や雑誌に丹念に目を通し、本を読んでは知性を磨き、政治について何よりの関心を抱いていた、とのことです。若い頃から、おそらく勉学に励む人だったことだろうと思われます。

 大正半ばから後期ごろ、何の縁があったのか、横浜正金銀行本店に勤める有吉眞次さんと結婚します。眞次さんは秋津さんより7歳年上の、帝大出のインテリゲンチャ。その後、何度か海外に赴任しますが、そのたびに漱石全集と有島武郎全集を持っていくのを忘れなかった、というほどに、かなりの文学好きでした。

 それはともかく、眞次さんと秋津さんは4人の子供を授かります。まずこの世に誕生したのが、大正14年/1925年7月生れの長男の善さんです。まもなく眞次さんの転勤で上海に移り、そこで昭和3年/1928年に次男が生まれますが、まもなく病死。昭和5年/1930年に次なる生命をみごもったとき、秋津さんは海外で産むより実家で産みたいという気持ちに傾いて、ニューヨーク勤務が決まった眞次さんには付いていかず、和歌山に帰郷すると、昭和6年/1931年1月、そこで無事に女の子を生み落とします。佐和子と名づけられました。

 銀行員としておそらく優秀だったんでしょう。眞次さんのほうはさらに海外赴任が続きます。昭和10年/1935年、いったんニューヨークから戻って、秋津さんや佐和子さんともども、東京・大森に住まいを定めますが、昭和12年/1937年、ジャワのバタビヤ(現在のインドネシア・ジャカルタ)にまたまた異動の辞令がくだり、長男の善さんだけを和歌山に預けて、一家で海外へ。昭和14年/1939年に秋津さんは出産のために再び実家に戻って、眞咲さんという男の子を生みますが、昭和16年/1941年に眞次さんの勤務先が東京に変わるまで、一家はジャワで過ごします。

 次々と新しい子供に恵まれ、夫の仕事は順風満帆。この頃の経験が、秋津さんの人生のなかでもとくに楽しい思い出として残りました。だいたい年齢は30代。それはそれは輝く毎日だったことでしょう。戦争を除けば。

 まもなく日本は、国を挙げての決死の戦いにひた走った結果、あっさりと欧米諸国に小手先をひねられて、すみません、許してください、もうしません、と泣きを入れて敗北します。飛ぶ鳥を落とす勢いで人生を送っていた眞次さんは、頼る大樹がなくなって、急速にやる気を失ううちに、昭和25年/1950年に脳溢血で突然死。53歳でした。

 秋津さんもガックリきただろうとは思います。しかし、いつまでもうなだれていないのが、女・有吉秋津のたくましさです。

 子供たちのうち、どうにか立派に育て上げた佐和子さんが、たまさか作家として認められ、才女だ何だと多くのメディアに引っ張りダコの大忙し。わがままで気分屋さんの娘に離れず寄り添い、あなたの今度の作品はあそこが駄目だった、などと厳しく感想を言うのも忘れずに、佐和子さんの仕事の窓口として秘書役をこなしながら、昭和38年/1963年に佐和子さんが生んだお孫さん(玉青さんですね)の育児やお世話を一手に引き受けて、これもまた立派に育て上げます。

 「実は佐和子さんの作品、いくつかはお母さんが書いていたんじゃないの」と、冗談口を叩かれるほどに、佐和子さんの仕事には絶対に欠かせない存在として人生を送った、ということです。昭和63年/1988年5月10日没。享年83。佐和子さんが亡くなった4年ほどのちのことでした。

 ……というところで、今週もまったく直木賞のハナシが出てきませんでした。あまりに悲しすぎるので、無理やり直木賞に結びつけておきたいと思います。

 先に触れたように、秋津さんの夫・眞次さんは文学をこよなく愛する人でした。学生時代には有島武郎を囲む読書会に籍を置き、野尻清彦さんとはその当時からお仲間だったんだそうです。

 丸川賀世子さんの『有吉佐和子とわたし』(平成5年/1993年7月・文藝春秋刊)に、その野尻さん――後年、大佛次郎と名乗った作家と、佐和子さんとの話題が出てきます。

(引用者注:野尻清彦=大佛は)佐和子とのおつき合いはありませんでした。有吉真次の娘と知って驚かれたようでしたけど、何故か冷たかったそうです。お子さんがなかったせいでしょうかね。あとになって、佐和子に何かを書いてくれと伝言があったようですけど、佐和子は断わっていました。」(丸川賀世子・著『有吉佐和子とわたし』所収「お母さんから伺った話」より)

 ちなみに佐和子さんが直木賞の候補になったとき、委員の一人に大佛さんもいましたが、選評では一行も触れていません。かつての友人の娘だからといって、何をしてやる義理もないでしょうし、別に直木賞とは関係ないとは思います。ただ、少なくとも秋津・佐和子側から見たときに、大佛次郎は冷たかった、という思い出が残っているのは気にかかるところです。

| | コメント (0)

2024年4月 7日 (日)

井上郁子(作家の妻)。娘が直木賞を受賞した作品を「あの程度の小説」と言ってのける。

 今週の「直木賞と親のこと」は「親が作家だった」シリーズです。

 シリーズです、というか、勝手にこちらが名づけているだけですけど、直木賞の舞台に挙がった候補者のなかで、この人は絶対に取り上げなきゃいけない、と思う人がいます。井上荒野さんです。

 初めて直木賞の候補になったのが第138回(平成19年/2007年・下半期)で、デビューしてから17~18年。その候補作の『ベーコン』は、選考会の場でも、まあこのぐらいの作品集は世間にゴロゴロあるよね、程度の軽いあしらいしか受けませんでしたが、その次の第139回(平成20年/2008年・上半期)では評価一転。『切羽へ』の、こまやかな心理描写が高い評価を受けて、あっさりと直木賞受賞者になりました。他に強い候補作がなかった、というのも多少は影響したかもしれません。もう16年もまえのことです。

 荒野さんの父親は、文学の世界に興味がある人ならまず名前を知っているような有名作家だったので、当時その辺りの切り口でいろいろと記事が出たのは、何となく覚えています。うちのブログでも、荒野さんと父のことは、以前に書いたような気がします。まあ、誰でも荒野さんと聞けばその父親を語りたくなるのは当然でしょう。

 ただ、直木賞との関係でいえば、やっぱり荒野さんの親といえば母親のほうではないか。……とワタクシが思うようになったのは、荒野さんが直木賞をとってから元気に作家活動をつづけ、『あちらにいる鬼』(平成31年/2019年2月・朝日新聞出版刊)を書いて、さまざまなメディアでインタビューを受けたりエッセイを寄せたりしてくれたからです。へえ、そうだったんだ、と知らなかったことが、荒野さんの口からどんどん公表されるにつれ、ワタクシも俄然、そのお母さんのことに興味を抱くようになりました。

 井上郁子。旧姓は池田。昭和5年/1930年、長崎県佐世保市生まれ。実家は市内の四ヶ町商店街の和菓子店「松月堂」で、二代目にあたる池田徹さんと妻・喜美子さんのあいだに長女として生まれました。

 かわいいお菓子屋さんのお嬢さん。とくべつ生活に苦労することもなく育ちますが、学校を出て高校の国語教師になるうちに、どこでどう火がついたものか、共産党や左翼の活動に関心をもちはじめます。戦後の昭和20年代、女も男も若者には、いまのままじゃ日本はだめだ、われらが社会を変えていかなくちゃだめなんだ、と何かに衝き動かされるものがあった、ということかもしれません。郁子さんも、そういう若者の一人だったようです。

 と、そこに現われたのが同じ佐世保で、かなり精力的に左翼運動に関わっていた共産党員の男。井上光晴さんです。

 声がでかくて、ずかずかと相手の懐に入ってくる、がさつな男、光晴さんは、出会ったころから郁子さんに好意をもったらしく、やがて二人は惹かれ合うようになります。

 出会いからだいたい2~3年たつうちに、いっしょに所帯を持つことになり、東京に出てくる光晴さんに従って、郁子さんも佐世保を離れて上京します。昭和31年/1956年、郁子さん26歳の年でした。

 『あちらにいる鬼』には、そのときはまだ婚姻届は出さず、正式に結婚したのは昭和36年/1961年になってからだ、と書かれています。そうなのかもしれません。夫の光晴さんは『新日本文学』を軸にしながら『現代批評』の創刊に加わったり、『書かれざる一章』『虚構のクレーン』などの小説を刊行したり、にわかに文壇に躍り出ます。昭和36年/1961年に長女・荒野さんが生まれたのはちょうどその頃のことです。

 ところが、光晴さんは多くの女性と関係しては、相手からも惚れられる人だったそうで、日本全国、行くさきざきで、わたしこそ光晴さんに愛されている、と胸を熱くする女性シンパができていった、と漏れ伝えられています。瀬戸内晴美さんとの仲は、そのなかでも別格だったのかどうなのか、もはや余人にはうかがい知れない世界ですけど、それもこれも、家に帰ればいつもなごやかな郁子さんがいる。長女の荒野さん、昭和41年/1966年に生まれた次女の切羽さんを、立派な大人に育て上げ、外でだんなが好き勝手やっているのもほとんど口出しせずに黙認した郁子さんが偉かった、ということになります。お母さんは偉大です。

 郁子さんも、自分で文章を書けばかなりのものが書ける才能の持ち主でした。生前、光晴さんの名前で発表されたいくつかの作品は、おそらく郁子さんが光晴さんからアイディアを聞いて自分で書いたものだろう、と後年、荒野さんは証言しています。本もたくさん読み、自分の考えを深めていった郁子さん。やがて娘が平成1年/1989年にフェミナ賞でデビューしたあとも、娘の小説を熟読しては、鋭い感想を述べていた、というのですから、若いころからの文学的な素養もバカにしたものではありません。

 夫の光晴さんは、平成4年/1992年に66歳で亡くなります。このとき、郁子さんは62歳。気丈に喪主を務め、いくつかの媒体に夫を偲ぶ文章を残すと、その後はとにかく自分の関心を本を読むことに向けることになりました。

 亡くなったのが平成26年/2014年9月5日ですので、享年84。夫のいない世界を22年も生きたご褒美として、平成20年/2008年7月には、荒野さんが直木賞を受賞するという晴れ舞台を自分の目で見ることもできました。荒野さんは、自分は父というより、母に似ているだろう、とさまざまなインタビューで答えていますが、それを郁子さんはどう聞いたのか。ともかく、郁子さんがいけなければ、荒野さんの直木賞受賞もなかったのは事実です。

 しかし、その授賞式の席上、郁子さんが語った言葉というのが、ふるっています。荒野さんの回想です。

「私の父は小説家だったが、私の母もまた、小説を書いていた。そのことを母は、父の死後10年ほどが経ったときに私に明かした。

(引用者中略)

先日、長い付き合いである、ある新聞社のベテラン文芸記者のK氏と、久しぶりにお酒を飲んだときのこと。「そういえばあなたが直木賞を受賞したときにさ」とK氏が教えてくれた。授賞式のとき、彼は私の母と同じテーブルにいたそうだ。父の担当だった編集者が集まっていて、ちょっとした同窓会のようになっていたその場所で、「お母さんが、ぼそっと呟いたんだよ。あの程度の小説で、直木賞ってとれるのねえ、って……」」(『文藝春秋』令和1年/2019年10月号 井上荒野「母の呟き」より)

 うんうん、すばらしいですね、郁子さん。『切羽へ』を「あの程度の小説」と表現するとは、ワタクシも激しく同意します。

 いや、直木賞の受賞作のほとんどは、あの程度・この程度の作品が大半を占めている、という感想に、ワタクシは激しく同意します。直木賞をとるものはどれも名作、なんちゅうのは、一部の人たちの勘違いでしかありません。それをぼそりと言える、まっとうな感性。その血が荒野さんにも濃密に流れているのだとしたら、これからの荒野さんも、活躍を続けることは間違いないでしょう。

| | コメント (0)

2024年3月31日 (日)

小池清泰(会社員)。娘が初めて出したエッセイ集を読んで、ショックを受ける。

 直木賞は昔もいまも、いつだって通過点でしかありません。

 ある作家が候補になったり受賞したりするまでに、どんなことをしてきたか。それも重要です。ただ、直木賞と交わったあとで何を書き、どんな人生を送るのか。そちらのほうがもっと大切です。

 ……などと、昔のゴシップばっかりあさって毎日を過ごしているクソ・ブロガーが言ったところで、何の説得力もないですね。とりあえず説得力がないことだけ確認して、さっさと先に進みます。

 直木賞の候補に挙がったときではなく、その後にいろいろと活躍するなかで、親のことが話題になった候補者(あるいは受賞者)はたくさんいるんですが、今日はそのなかから小池真理子さんを取り上げてみたいと思います。受賞したのが第114回(平成7年/1995年・下半期)ですので、もう28年も前に直木賞と関係性ができた人です。

 小池さんが受賞したのは43歳のときでした。働きざかりのド真ん中です。それから28年、あんな小説、こんなエッセイ、たくさん書いてきましたが、その間に、夫の藤田宜永さんや、父と母、二人の親を見送って、そのときどきに相手の様子や自分の感情などを文章に残しています。ネットでも読めるものが多くて、まあ、いつもながらうちのブログが取り上げる意味もないんですけど、中でも平成24年/2012年に刊行された『沈黙のひと』(文藝春秋刊、初出『オール讀物』平成23年/2011年4月号~9月号、11月号~平成24年/2012年6月号)は、父親のことをモデルにして評判になったりしました。

 小説は小説、モデルはモデルです。そこに描かれたのが小池さんの父親そのままじゃないんでしょうけど、こういうかたちで娘に自分の人生の一端を世に書き残されて、きっと父親も本望だったに違いないと思います。

 小池清泰。大正12年/1923年、満洲国大連生まれ。父親は満鉄の職員として日本から満洲に渡った人で、清泰さんは小学校時代を吉林で送り、中学時代を新京で過ごします。しかし父親とはその頃に生き別れ、昭和14年/1939年に日本に引き揚げてくると旧制新潟中学に編入。いっしょに日本に来た母親は、引き揚げ直後に病で亡くなり、清泰さんの先行きに暗雲がたちこめます。

 学徒出陣を経験する頃には、フランス文学やロシア文学が大好きな、骨の髄まで文学青年になっていたそうで、あるいは文学や芸術に傾ける情熱が、清泰さんの心を救ったのかもしれません。終戦後、友人らと文化運動を始めたのも、おそらくその情熱のなせるわざでしたし、運動の一環で函館に出向いたとき、そこの活動でいっしょになった同い年の函館ムスメ、増子さんと出会って急激に恋に落ちて、昭和22年/1947年結婚する運びになったのも、清泰さんが芸術をとことん好きだったからでしょう。清泰さん24歳。自ら明るい人生を切り開いていきます。

 そのとき、まだ東北帝国大学法文学部の学生だった清泰さんは、昭和25年/1950年にめでたく卒業。昭和石油に入社します。それから2年後には小池家に玉のような女の子が授かって、のちに作家となる小池真理子さんがこの世に誕生。8年後には2人目の女の子にも恵まれますが、ぐんぐん成長する石油会社で、しっかりと出世街道に乗った芸術好きの男、となれば、女性からラブラブの視線がそそがれたりもして、外に女性をつくり、あろうことか子供を孕ませ、それを知った増子さんが、うちには家庭がある、お腹の子を堕ろしてください、と相手の女性に言いに行ったりする修羅場があったんだとか。

 ともかく、幸せな家庭なようで、夫婦のあいだにはオモテ立っては言えない感情のギザギザがあった、というのは、どこの家庭でもそうだろうといえばそうでしょう。清泰さんの仕事のほうは、高度経済成長の波に乗って順調に推移し、東京から西宮、はてまた仙台と転勤をするうちに役職も徐々に上がっていったということです。

 その間も、清泰さんは文学にはなみなみならぬ関心を抱き、というか当時のサラリーマンの多くがそうだっただけかもしれませんが、家にはジッド、ヘッセ、トルストイ、その他さまざまな本が並んでいて、娘の真理子さんも父親の書斎に忍び込んではいろいろと手にとりながら育ちます。後年、清泰さんは盛んに短歌を詠み、「朝日歌壇」にも定期的に応募していくつか採用されたりしているのも、文学好きの情熱が年をとってもからだに残っていたせいでしょう。

 娘の真理子さんは大学を経て、出版社に入社、しかし1年半ほどで会社を辞め、フリー編集者になって、うんぬん、という『知的悪女のすすめ』(昭和53年/1978年6月・山手書房刊)での物書きデビューにいたるまでのハナシは、もう有名すぎるのでバッサリはしょります。このとき、父の清泰さんは55歳。可愛い娘がいよいよ念願の作家になるチャンスをつかんだ、と言って喜んでいたそうです。ただ、実際、小池さんのエッセイを読んだら、現代女性の生態や考えが赤裸々に描かれていて、まさか自分の娘が、とショックでふさぎ込んでしまった……と真理子さんは「父の遺品――『沈黙のひと』が生まれるまで」(『文藝春秋』平成25年/2013年5月号)で回想しています。

 とまあ、そんなエッセイも含めて、いまじゃネットで読めます。なのでここでは、真理子さんが直木賞を受賞したときに『オール讀物』に寄せた「自伝エッセイ」から、父のエピソードを一つだけ挙げるにとどめます。

「小学校六年になった年、父の書棚からたまたまヘッセの『デミアン』を持ち出して読んでいたら、父に見つかって叱られた。まだ早い、と言う。

何が早いのか、どうして叱られねばならないのか、理解できなかった。しばらく忘れていたのだが、中学三年のころだったか、再読してみた。『デミアン』にはホモセクシュアル的なニュアンスがこめられ、思春期の少年の淡い性衝動が描かれていた。なるほどね、と思った。」(『オール讀物』平成8年/1996年3月号 小池真理子「ひとりよがりの長い旅」より)

 いつなら早くないと思うのか、清泰さんの感覚はわかりませんけど、いつまでも自分の娘は何も知らない可愛い子供であってほしい、という父親ゴコロが炸裂しています。だからこそ、25歳の娘が『知的悪女のすすめ』で、男のことをバッシバッシと切り捨てる様子を見て、ショックを受けたんでしょう。

 それから18年後。真理子さんは『恋』で直木賞を受賞しました。文学があれほど好きだった清泰さんがどんな反応を示したのか。セックスの話題がこれでもかと出てくる耽美的な香りのする作品で、さすがに清泰さんもショックを受けたりはしなかった、とは思うんですけど、それからまもなくパーキンソン病に冒され、娘の受賞以後の活躍はわずかしか見ることができませんでした。10年近く闘病生活を送り、平成21年/2009年3月4日に亡くなりました。

| | コメント (0)

2024年3月24日 (日)

久世ナヲ(軍人の妻、高校教諭)。早くに亡くなった夫の分まで、息子の小説家としての活躍を見届ける。

 図書館に行くと、だいたいエッセイ・コーナーに立ち寄ります。小説だけじゃなくエッセイの類も、いろんな人たちがたくさん本を出していて、背表紙を見ているだけで一生が終わっちまいそうですが、こないだも近くの図書館に行って、つらつら眺めていたところ、あっ、この人をあまりブログで取り上げてこなかったな、と思い当たる名前に出会いました。久世光彦さんです。

 何をいまさら、という感じがあります。直木賞の候補になる前から、ある種の有名人、よく知られたドラマの演出家で、いまだって「久世光彦」のテーマで夜通し語り明かせる爺さん婆さん(もしくは、おっちゃんおばちゃん)は数多くいるでしょう。何をいまさら、です。

 その生涯についても(おそらく)調べ尽くされています。うちのブログが手を伸ばすのもおこがましい気がする著名な書き手のひとりです。でも、残念ながら……いや、残念ってことはないか、久世さんも第111回(平成6年/1994年上半期)と第120回(平成10年/1998年下半期)、二度ほど直木賞の候補になった人ですから、うちのブログで触れたところで、誰に文句を言われる筋合いもありません。今週は、久世さんと親のハナシで行くことにします。

 久世さんには父親と母親がいます。どちらも久世さんのエッセイには、ちょくちょく登場する人たちです。といってもワタクシだって、そんなに久世さんのエッセイを読み尽くしたわけじゃないので、まあ、いわゆる知ったかぶりです。ただ、どちらかといえば、直木賞との関係性でいえば母親のほうが取り上げやすそうな気がするので、今日のエントリーは久世ママのほうを中心にしようと思います。

 久世ナヲ。旧姓は置塩。明治33年/1900年4月、富山県生まれ。実家は魚津市御影だったので、たぶんそこで生まれ育ったんでしょう。もともとは裕福な家で、上のきょうだいたちはイイ学校に行かせてもらいますが、まもなく実家の事業が傾いたために、ナヲさんだけ師範学校に入り、教師の道を進むことになります。

 ところが、このときナヲさんがあまりに優秀な成績だったおかげで、よし、うちがお金を出してやるから東京で学べ、と言ってくれた篤志家がいたそうです。名前はわかりません。その人の期待を一心に背負い、ナヲさんは猛勉強して富山の女子師範から、無事に東京女子高等師範学校へと入学が許可されます。大正9年/1920年春のことでした。

 そこの家事科で学んだのち、富山に戻って富山県女子師範兼富山高女教諭になります。大正14年/1925年には、どんな縁があったものかこちらも富山県出身の陸軍歩兵、久世弥三吉(くぜ・やそきち)さんとめでたく結婚が成就。大正15年/1926年に福島県の会津高女で働いたものの、昭和3年/1928年に退職し、夫に付いて家を守る、いわゆる主婦の座に落ち着きます。

 子供は、大正15年/1926年に生まれた瓔子(えいこ)さんを皮切りに、公尭(きみたか)、伊尭(よしたか)、玲子(れいこ)とこの世に生み出しますが、そのうち伊尭さんは3歳で急性陽炎で死亡、玲子さんは生後40日で乳児脚気で死亡と、たてつづけに幼い命をうしなって、ナヲさんも悄然。そのため昭和10年/1935年、第五子として生まれた光彦(てるひこ)さんのことは、過保護なぐらいに大事に大事に育てた、ということです。

 当時、久世家は東京の杉並区阿佐ヶ谷に家を持ち、一家五人、安らかに(?)過ごしていましたが、昭和10年代を経験した日本の家族では当然のごとく、戦争によって運命が大きく変わります。昭和18年/1943年か昭和19年/1944年、弥三吉さんの転勤の都合で東京を離れて札幌へ、そして昭和20年/1945年ふたたび弥三吉さんが長崎の五島列島に行かされることになったのを機に、ナヲさん、瓔子さん、光彦さんは富山県に疎開というかたちで引っ越します。

 昭和20年/1945年、日本はガッツリ敗北を喫しました。軍人だった弥三吉さんはその日から、もう何をなすこともできない無職の徒です。落魄した、と子供の光彦さんの目から見ても明らかな様子で富山に引き揚げてくると、完全に無気力になってしまった弥三吉さんはそのまま立ち直ることもできず、昭和24年/1949年7月12日、胆嚢炎でこの世を去りました。53歳でした。

 となるともう、生活の面倒一切はナヲさんが見なければなりません。かつて教職にあったその技能を活かして再び高校教諭として職場に舞い戻ると、稼いだ給料を子供たちとの生活に宛てはじめます。細腕一本、おかあちゃん頑張ります。

 ナヲさんの喜びは、もちろん子供たちの成長です。ところが末っ子で甘やかしに甘やかした光彦さんは、勉強もそっちのけで遊びほうけ、高校時代には夜の街で酒をかっくらったとか何とか、その非行の様子が新聞にも取り上げられて、ナヲさんも冷や汗を流します。光彦さんの志望は天下の赤門、東京大学ということで、昭和29年/1954年、高校三年生で受験しますが、あえなく不合格。

 よし、と光彦さんは奮起したのかどうのか、気持ちを切り替えるために富山から東京に居を移し、予備校に通って二年目も東大に挑みますが、これもまた駄目。それでも東大ならそのくらいの浪人はいくらでもいるさ、と開き直ったか、さらに翌年もう一度光彦さんは東大を受けて、三度目でようやく入学を果たします。

 このときナヲさんは、どうしていたかというと、光彦さんが東京での予備校生活に入るのに合わせていっしょに上京し、東京で高校の先生を続けたそうです。甘やかしといえば甘やかしですけど、あるいは息子がきちんと勉強をするか、監視する意味もあったのかもしれません。

 当時のことを光彦さんが振り返っています。

「僕が東大受験を失敗したのをきっかけに予備校へ行くために母と上京。母は東京でも教師を続けた。

母はふた言目には「一番になれ」「一番を取るのが当たり前」と教えた。

(引用者中略)

ナーニ、不良をやっていても東大くらい一発で入ってみせる。腹の中では豪語していたが、どっこい世の中そうは問屋が卸さなかった。二度落ちて三度目に合格。

母がどんなに喜んでくれたか。あのときの笑顔を忘れられない。」(平成22年/2010年11月・青蛙房刊、木村隆・編『この母ありて』所収「東大合格の笑顔忘れられない」より ―初出『スポーツニッポン』平成17年/2005年3月23日)

 息子が語る母親の笑顔。いいハナシです。

 ……と、相変わらず全然直木賞のところまで行きませんね。すみません。

 もともと光彦さんは文学を志望していましたが、同世代で面識もあった大江健三郎さんが在学中に芥川賞なんかとっちゃったもんですから、ああ、おれには勝てん、とあきらめて演劇の道に。TBSに入ってドラマ制作で力を発揮して、芸能の世界でも、久世のドラマはいいぞ、と評判を呼ぶようになるんですけど、その間、ナヲさんのほうは埼玉県に住まいを移して、教師の仕事を続けました。

 そして教員を退職してからも、ナヲさんは元気バリバリ、口も達者に生き続け、息子の光彦さんが小説のほうでも評判となった1990年代にはまだ存命だった、というのですから、あの洟たれの甘えん坊が立派になった姿を、その目に焼き付けたことでしょう。少なくとも、平成6年/1994年に光彦さんが『一九三四年冬―乱歩』で山本周五郎賞を受賞した場面は目撃できたわけです。

 その光彦さんが、同作で直木賞を落選し、二度目の『逃げ水半次無用帖』もやっぱり駄目だった平成11年/1999年はじめ。ナヲさん、その落選のことも理解できていたんでしょうか。選考会があって半月後の2月2日、肺炎のため亡くなりました。

| | コメント (0)

2024年3月17日 (日)

三浦義武(コーヒー愛好家)。この親のことを書けば直木賞がとれるかも、と言われながら息子は断固拒否。

 こないだの第170回(令和5年/2023年・下半期)、村木嵐さんが候補になりました。

 村木さんといえば、福田みどりさんの個人秘書。司馬遼太郎さんの家の最後のお手伝いさん。ということから連想しまして、村木さんとは全然関係ないんですけど、今週はひっそりこの方のエピソードを差し挟みたいと思います。司馬・福田夫妻と同じ職場で働いていた三浦浩さんです。

 三浦さんについては、おそらくうちのブログでも何度か取り上げました。第76回(昭和51年/1976年・下半期)から第98回(昭和62年/1987年・下半期)までの4度の直木賞候補。前半2回の候補のときは、個人的にもよく知る産経新聞の先輩、司馬さんが選考委員を務めて激推しし、しかしそれでもやっぱりとれず、同郷島根の文春編集者、高橋一清さんが、これを書けばきっと直木賞をとれますよ、ととっておきのテーマを提案したのに断固拒否したという、気になる逸話が満載の候補者です。

 それで、高橋さんが差し出したテーマとは何だったのか。三浦さんのお父さんの生涯についてのことでした。なので、せっかく「直木賞と親のこと」でブログを書いているいまのうちに、改めて三浦さんとその父親のことに触れておこうと思ったわけです。

 三浦義武。明治32年/1899年7月18日、島根県那賀郡井野村生まれ。

 実家は伝えられるところによると、もともと桓武平氏を先祖に持ち、戦国時代には尼子氏に仕え、井野室谷に屋敷を構えたいわゆる旧家です。五代元兼のときに津和野藩の大庄屋になって500石をもらい、その辺りの土地では三浦さんちといえば知らぬ者はいないぐらいに大きな影響力をもったと言います。義武さんの父親、十六代政八郎さんも県会議員として石見地方の開発に尽力した人なんだとか。しかし義武さんが子供のときに、母と父が相次いで亡くなり、義武さんは叔父の慶太郎さんのところで育てられます。

 旧制浜田中学から東京の早稲田大学法科に進んだのが大正9年/1920年のこと。しかし東京に来てからは勉学に励むというより、お茶の道に興味を抱いて、徐々にそちらの研究に熱意を持ち出します。

 お茶にはどんな成分があり、人体にどんな影響を及ぼしているのか。いろいろと知るうちに、その流れでコーヒーという飲み物を知った義武さん。まだまだ日本ではコーヒーの研究が盛んとは言えない状況でしたが、凝り出すと他が見えなくなる性分だったようで、コーヒーにはどんな成分が含まれているか、うまく飲むためにはどうしたらいいか、とコーヒーの世界に傾倒していきます。昭和のはじめ、だいたい義武さん20代の頃です。

 ちょうどその頃、昭和5年/1930年に息子・浩さんが生まれています。なので浩さんのルーツは島根ですが、生まれは東京で、しばらくはこの大都会で育ちました。

 ちなみに義武さんのことなんですけど、神英雄さんがまとめた『三浦義武 缶コーヒー誕生物語』(平成29年/2017年10月・松籟社刊)という一冊があります。その生涯を追った「缶コーヒー誕生」の章だけじゃなく、義武さんが発表したコーヒーに関する原稿とか、年譜とか、もう参考になることしか書いてありません。ほんとありがたいです。

 で、同書によると、昭和10年/1935年、白木屋の食品部長となった義武さんは、白木屋デパート食堂で「三浦義武のコーヒーを楽しむ会」を昭和12年/1937年まで開催。片岡鉄兵さんとか小島政二郎さんとか、文壇の作家とも親しく交流があったと言われます。おお、ごぞんじのとおり、片岡さんも小島さんも往年の直木賞選考委員です。すでに浩さんは父親の代から直木賞とは縁の深いつながりがあったんですね。うれしいです。

 いや、うれしがっている場合じゃありません。日本の戦局は次第に広がっていくいっぽうで、義武さんも商売の核ともいえるコーヒー豆が満足に入手できなくなってしまい、昭和17年/1942年に島根の井野に帰郷。そこで日本の敗戦を迎えます。

 昭和20年/1945年に義武さんは井野村長になっていましたが、翌年、衆議院選挙で落選。この頃は相当すさんだ(?)生活に陥ったらしく、からだも壊して井野の屋敷で逼塞の時を送ります。その様子の一端は、浩さんがのちのち書いた『記憶の中の青春 小説・京大作家集団』(平成5年/1993年11月・朝日新聞社刊)にもちらっと出てくるんですが、胃潰瘍を患って大量に喀血、選挙に落選したあとにお金に苦労し、選挙違反容疑までかけられて警察の取り調べを受け、後援者の一人がそのことを苦にして自殺してしまう不幸に見舞われます。……大変だったらしいです。

 しかし、そんな苦しいなかでも、おれにはコーヒーだ、コーヒーしかないんだ、とその情熱はとどまるところを知らず、昭和26年/1951年、浜田市に「喫茶ヨシタケ」をオープンします。コーヒー牛乳を考案したり、大型焙煎機を導入してウキウキしたり、缶コーヒーの製品化に向けて研究を重ねて昭和40年/1965年、「ミラ・コーヒー」と名づけた缶コーヒーを発売したりと、コーヒー・ラバーの人生を邁進しました。

 いっぽう息子の浩さんですが、どこまで父親の狂信的なコーヒー愛を支持していたのか。よくわかりません。神さんの本によれば、産経新聞の社内留学制度でオックスフォード大学に留学していた昭和41年/1966年、父親がいろんな人たちの協力を得てミラ・コーヒー販売の会社を立ち上げて、そこに三浦さんの先輩である司馬さんも出資しますが、この会社は資金繰りが苦しくて経営難が続きます。留学から帰ってきてそのことを知った浩さんは、司馬さんにまで迷惑が及びそうだと怒り心頭。事業をやめるように父に強く迫った、とのことです。……いろいろと息子も大変です。

 後年、高橋一清さんが、お父さんのことを小説にしなさいよ、そしたら直木賞とれるかもしれませんよ、と勧めたとき、浩さんは、おれは私小説なんか絶対書かないと強固に断ったと言われます。それは私小説を書くのがイヤだった、ということもあるんでしょうが、父親のやってきたことにそこまでイイ感情を抱いていなかったのではないか。そう勘ぐりたくもなります。結局、『記憶の中の青春』みたいな私小説、書いてますし。浩さんの胸中はわかりません。

 それはそれとして直木賞です。義武さんが亡くなったのは昭和55年/1980年2月8日。ということは、義武さんは息子の浩さんが商業出版で小説を出し、直木賞の候補に一度、二度と挙がった頃はご存命でした。

 息子が直木賞候補になったこと。その選考を、息子を介して親しくなった司馬遼太郎さんが務めること。義武さんはどのように思い、どんなことを語っていたのか。興味がありますが、世のなかは不明なことだらけなので、その辺りのことは一切が闇の中です。

 三浦さんのつくるコーヒーが大好きだった小島政二郎さんは、三浦さんを評してこう書きました。

「最近島根県の浜田市から、三浦コーヒーの三浦義武君が上京して、私のところへ遊びに来た。

三浦君はコーヒーの話しかしない。コーヒーメニヤだ。だから、三浦君の入れたコーヒーは日本一うまい。」(昭和41年/1966年9月・鶴書房刊、小島政二郎著『明治の人間』所収「鼻の話」より ―初出『高砂香料時報』27号[昭和40年/1965年9月])

 コーヒーの話しかしない人だった、とあります。案外、最愛の息子・浩さんが直木賞候補になっても、とくに何も言わなかったかもしれません。

| | コメント (0)

2024年3月10日 (日)

白石小一郎(税理士)。まともに定職につけなかった息子が、筆一本で立つころには寿命が尽きる。

 直木賞史上、最も有名な親子、というと誰でしょうか。

 まあ、誰を有名と思うかは人それぞれです。最も有名なのかどうか、ワタクシもまったく自信はないんですが、やっぱり親子そろって直木賞を受賞したペアであれば、かなりの上位に挙がると思います。白石一郎さんと一文さんです。

 一文さんから見た「親と子のハナシ」は、一文さんが受賞した第142回(平成21年/2009年・下半期)の頃に、たくさんメディアに流れました。それらをまとめてここで取り上げるのでも、全然いいんですけど、多く知られたことをなぞるだけじゃ面白くありません。なので今週は、それとは違う白石親子のことを調べることにしました。

 一郎さんにとっての父親のことです。

 いや、これも知られたハナシかもしれません。ただ、一文さんの父親エピソードほどは一般的ではないだろうと信じまして、直木賞受賞者の父親のそのまた父親でもある、白石家のおじいちゃんのことを書いておくことにします。

 白石小一郎。詳しい生年も経歴もよくわかりません。とりあえずざっくりしたことだけまとめると、生まれたのは、だいたい明治25年/1892年ごろ。出身は、九州北部の玄界灘にある壱岐島で、父親は同島の箱崎村の初代村長を務めた白石保衛さん、だったと推測されます。

 そんな地元の名士の家で小一郎さんはすくすくと成長し、大正2年/1913年に朝鮮に渡って釜山郵便局の事務員になります。これは兄の槌夫さんが、長崎師範甲種講習を出たあとに朝鮮で学校の先生になっていて、それを頼ったためとも言われています。日本が韓国の領土をおれのもんだぜと吸収したのが明治43年/1910年の韓国併合からなので、槌夫さんや小一郎さんが朝鮮で生活しはじめたのも、その背景があったからだと言えるでしょう。

 小一郎さんはその後、大正8年/1919年に澤山商会という会社に転職を果たします。この会社は商品を船で運ぶいわゆる海運業者として大きな勢力を誇っていて、なかなかの大企業だったらしいですが、これといった学歴のない小一郎さんは自ら勉学に励み、経理事務の担当として懸命に働いて評価を得ます。人間、まじめに働くことは大事です。

 それからどういった縁で知り合ったものか、広島県尾道の商家で生まれ育った艶子さんと結ばれることになり、女の子を二人もうけたあと、昭和6年/1931年には待望の男の子が生まれて、小一郎さん大喜び。さあ何と名づけようかと悩んだあげく、漢文の教師でもあった兄の槌夫さんに相談したところ、うん、「一郎」がいいんじゃないかと言われて、将来白石家をしょって立つかわいい坊やに立派な(?)名前がつきました。

 ということで一郎さんは、姉二人にも可愛がられ、両親にも甘やかされて、朝鮮釜山の地で多感な少年時代を送ります。しかし、旧制中学二年のときに日本が戦争にボロ負け。父の小一郎さんは「馬鹿な! こんなことあるか」と半狂乱で叫んだと言います(平成12年/2000年2月『文藝春秋臨時増刊号 私たちが生きた20世紀』白石一郎「「内地」と「外地」」)。

 澤山汽船からの給料で羽振りのいい生活をしていた白石家でしたが、戦争に負けたあとは、がらりと状況が変わります。小一郎さんだけ釜山に残り、残りの家族はいったん福岡県の柳川に引き揚げて、翌年、どうにか目途をつけて小一郎さんが本土に戻ってくると、長崎県佐世保に落ち着きます。そこで小一郎さんは、経理事務という自分の専門を活かして、仕事先を開拓。家族を食わせることに懸命になりますが、つらいことは続くもので、昭和22年/1947年、妻の艶子さんを亡くします。悲嘆に暮れる白石小一郎。ああ、この世には神も仏もいないのか。

 望みは、ただ一人の男の子、一郎さんが自分の跡を継ぐなり、立派になってくれることでしたが、まあこの一郎さんが、数字を見てもちんぷんかんぷんの役立たず。大学は、思い切って東京の早稲田に行かせたものの、ろくに経済の勉強もせずに遊び呆ける日々で、ようやく就職したと思ったら、会社では遅刻ばかりして戦力外。税理士の資格をとらせるために、佐世保に帰ってこさせると、自分の税理士事務所で働かせてはみますが、仕事や勉強に身を入れる様子もなく、原稿用紙に文字を埋めては、おれは作家になるんだとか何だとか言っているニート状態です。

 この頃を回想して、一郎さんはこう書いています。

「小説を書いては懸賞に応募し、これも落選をつづけながら、ふしぎに気落ちせず、せっせと書いては送った。たぶん他に能がないので、小説を書くことにしか救いがなかったのだろう。二年ばかりのぶらぶら生活で両親には本当に迷惑をかけた。今でも心の中でお詫びをしている。」(平成7年/1995年3月・文藝春秋/文春文庫『無名時代の私』所収 白石一郎「孫悟空」より)

 「両親」とあるので、おそらく小一郎さんは再婚したものと思われます。いずれにしても、かわいい息子がこの世のなかでどうやって身を立てるかもがいている。父親として心配しなかったわけがありません。

 昭和31年/1956年ごろに、小一郎さんは仕事の都合で、福岡に移り住みます。その頃には息子の一郎さんも、税理士になる目標を捨てて、親戚のやっている電気器具の卸し会社にコネ入社させてもらいます。さすがにおれもきちんと働かなくちゃ、とは思っていたようですが、しかしその会社でも迷惑のかけどおしで、親の心配はますますつのるばかりです。

 そんな一郎さんが講談倶楽部賞をとるのが昭和32年/1957年、はじめて直木賞の候補に挙がるのが、第63回(昭和45年/1970年・上半期)でした。小一郎さんが肺がんで亡くなったのは、70歳すぎの頃だそうなので、昭和37年/1962年前後だったと見ると、一郎さんが作家デビューした頃には存命だったでしょう。しかし、時悪しく一郎さんが寄稿先として頼みにしていた『講談倶楽部』が廃刊となった頃に、小一郎さんは世を去ります。

 息子の生活は、とうてい筆一本でやっていけると言えるほどの状況ではありません。どんな思いで死んでいったのか。心配は心配だったと思いますが、好きなことやっとるようだし、まあええか、ぐらいに思っていたかもしれません。親の気持ちは人それぞれ。こればっかりは、もうわかりません。

| | コメント (0)

2024年3月 3日 (日)

高野一郎・きぬ子(家具職人とその妻)。幼い娘を残して戦場に行った父、晩年まで娘と離れず暮らした母。

 直木賞を受賞した人の親には、履歴の知られた有名な人もいます。ただ、だいたいの親は一般には知られることのない普通の無名人です。

 そんな人たちのことを知ってどうするんだ。という気がしないではありませんが、いや、そんなこと言いはじめたら、世のなかのすべてが「知ってどうするんだ」ってことになっちゃいます。ここは自分の興味の向くままに、直木賞に関する「知っても何の役にも立たないこと」を調べつづけるしかありません。

 一般には知られることのない無名な人。だけども、子供である作家が書き残したことで、われわれ無関係な読者にも、ほお、こういう人がいたんだ、と知られるようになったケースは数多くあります。たとえば第109回(平成5年/1993年・上半期)直木賞を受賞した北原亞以子さんの場合も、そのひとつです。

 31歳で作家デビューしてから苦節20年。『深川澪通り木戸番小屋』で第17回泉鏡花文学賞を受賞し、その勢いで(?)4年後には『恋忘れ草』で直木賞の候補に初めて挙がり、そのままズバッととりました。そのあたりのアレコレは、昔、うちのブログでも触れたことがあるように記憶しています。

 直木賞をとった頃からは順調に原稿の注文が引くこともなく押し寄せて、数々の著作を残しましたが、そのなかで新潮社の『波』で連載したのが「父の戦地」(平成18年/2006年10月号~平成19年/2007年12月号)でした。平成20年/2008年7月に新潮社から単行本となり、平成23年/2011年8月には新潮文庫に入っています。

 タイトルのとおり、これは北原さんが自身の父親のことを書いたものです。と同時に、もちろん父親のまわりにいた母親や係累のことにも筆が及んでいます。

 父親は高野一郎。生まれはだいたい明治の末ごろ。明治45年とすれば西暦で1912年の時代です。実家は東京・芝で家具をつくっていた職人の家で、父にあたる銀次郎さんは椅子の製作を専門にしていたんだとか。もちろん息子の一郎さんに後を継がせて家具職人になってもらおうと思っていたらしいんですけど、一郎さんはそちらのほうにはからっきし興味がなく、イラストとか漫画を描くのが大好きな少年でした。

 11歳のとき、母の〈タマ〉さんが数え30歳で亡くなってしまい、やがて父の銀次郎さんは若い娘さんを後添いに迎えます。新しい継母は、一郎さんとは6歳しか違わない若さだったもので、二人は気安く口を聞き合う仲のいい親子になりますが、そのことが後年までズルズルと尾を引きます。

 尾を引くとはどういうことか。そこに登場するのが一郎さんと結婚することになる〈きぬ子〉さんです。一郎さんのお嫁さん候補を探していたとき、たまたまその継母の従妹にあたる〈きぬ子〉さんに白羽の矢が立てられて、昭和8年/1933年ごろに二人は首尾よく結ばれます。甘ーい甘ーい新婚生活のスタートです。

 ところが、家族関係というのはどこで問題を起こすかわかりません。一郎さんは継母とは軽口や冗談を叩き合って、キャッキャ、キャッキャと打ち解けあう。お嫁さんの〈きぬ子〉さんも二人といっしょに話したいと輪に入っていこうとするんですが、そこで継母が「あなたが来るとおもしろくなくなる」と憮然とした態度をとってくる。それには一郎さんもとくに反論することもなく、ただ黙っていて、〈きぬ子〉さんもしゅんとなってしまいます。ああ、かわいそうな〈きぬ子〉さん。

 結婚して5年め、昭和13年/1938年の正月に待望の第一子が誕生します。美枝(よしえ)と名づけられたこの女の子が、のちに作家となる筆名・北原亞以子さんです。

 その後、昭和16年/1941年に一郎さんは兵隊にとられ、高野一家も銀次郎さんが亡くなって家具づくりの仕事場も閉鎖、〈きぬ子〉さんと娘の北原さんは千葉県成田に疎開して、生活が苦しくなる戦争のあいだ、南方に派遣された一郎さんからぞくぞくと妻子のもとにイラスト入りのハガキが送られてくるんですが、昭和20年/1945年4月29日、一郎さんは従軍先のビルマ、サルウィン川の河口で敵機から銃弾を浴びて死亡。30代半ばの若さでした。

 ……といったあれこれの経緯の詳細は『父の戦地』を読んでいただくとしまして、終戦後、〈きぬ子〉さんは再婚を決意。北原さんも新しい父をもうけることになります。

 〈きぬ子〉さんは北原さんに対して、もとの夫の一郎さんのことはあまり語ることのないまま生活を送ったそうです。あるいは語るにしても、けっこう辛辣に一郎さんのことを悪く言う思い出ばなしが多かったようで、父に対して恋しさを募らせる北原さんは、そういう悪口を聞くのが嫌いでした。母親は、おそらく再婚相手に気を遣ってわざともとの夫をよくは言わなかったのではないか、それと新婚時代に継母と仲良くして言いなりだった夫に、軽く恨みをもっていたのではないか、というのが後年、北原さんが書いている憶測です。

 それで「直木賞と親のこと」のハナシなんですけど、当然、父・一郎さんは北原さんが受賞したときには、この世にいません。母・きぬ子さんも、北原さんが新潮新人賞と小説現代新人賞(佳作)を受けた昭和44年/1969年には存命でしたが、作家としてきちんと食っていけるようになる前には、あの世に旅立ってしまった模様。娘が直木賞を受ける姿を見ることはありませんでした。

 しかし、父のことをずっと恋しく思い、母については「自分はマザーコンプレックスだ」というほど人生の岐路では常に母親との生活を優先してきた北原さんです。きっちりと、直木賞を受賞したときのエッセイに二人のことを書き残しています。

(引用者注:「恋忘れ草」に出てくる)国芳は武者絵が有名だが、私は、わずかしかない彼の風景画に惹かれた。彼の風景画に出てくる人物が、何となく父を想像させたのだ。

(引用者中略)

苦労して育った母の口癖は、「もったいない」だった。私が捨てようとしたものも母は器用に再生し、古いブラウスもスカートも、一部が座布団カバーになったりした。(引用者中略)晩年はミシンを踏まず、針箱を引き寄せては着物を縫い返していたが、私には、その姿と、つましい暮らしをしていたにちがいない江戸の女達の姿が重なって見えるのである。」(『オール讀物』平成5年/1993年9月号 北原亞以子「木々の香」より)

 そして、父と母が、自分を決して丈夫ではなく幼少期から弱いからだで生んでくれたからこそ、自分は作家になったのだと思う、と書いています。名もなき二人の両親のことを、自分が受賞者になったということを活かして直木賞の歴史に刻んでくれた北原さん。心がしみじみします。

| | コメント (0)

2024年2月25日 (日)

井上修吉(薬局店主)。作品を発表したら直木三十五からハガキをもらった。と息子は語る。

 こないだの令和6年/2024年2月23日、「南国忌」の催しがありました。

 前回は令和2年/2020年ですから、ちょうど4年前のことです。それからコロナ感染拡大防止という名目で、3年ほど中止がつづき、今回はひさしぶりに墓前祭と講演会が復活しました。講演者は、うちのブログで何度も取り上げている元・文藝春秋の高橋一清さん。著書にかかれたエピソードなどを中心に、直木賞が決まるまでの過程とか、心にのこった受賞や選考の思い出を、穏やかな口調で話していました。じかに聞けてよかったです。

 と、南国忌といえば、何といってもお楽しみは講演会です。だれが何のテーマで何を話すか。これまでも直木賞とか直木三十五とか、それとは関係ないこととかを演題として、(中止の年を除いて)毎年ひらかれています。じゃあ、過去にはどんな講演があったんだろうか。一覧化したものがあると便利だなと思って、うちのサイトに「南国忌について」のページをつくってみました。

 今日はせっかくなので、この一覧に出てくる直木賞受賞者から、「親」にまつわるエピソードを取り上げたいと思います。

 南国忌の講演は、そのたび実行委員の人ががんばってテープ起こしをして、南国忌の会の会報に掲載されます。それらをまとめた『南国忌の会のあゆみ』という冊子もこれまで2度出ているので、昔の講演を振り返ることができるんですが、そこで親のことを語った受賞者がいないかな。と思ってダラダラ読んでいたところ、ふっと目にとまったのが、第23回南国忌(平成17年/2005年)の講演録です。

 演者は、第67回(昭和47年/1972年・上半期)受賞者の井上ひさしさん。当時は直木賞の選考委員もしていましたので、実行委員の人たちもなかなかの大物をひっぱり出してきたな、という感じです。

 井上さんの両親は、父も母もよく知られています。……いや、井上さん自身が有名人になったおかげで、よく知られるようになりました。

 たとえば母親のマスさんです。井上さんを育てた肝っ玉かあさんとして、メディアにもたびたび登場。『人生は、ガタゴト列車に乗って』(昭和58年/1983年3月・書苑刊)をはじめ、何冊か著書も出しました。明治40年/1907年2月15日生まれで、次男のひさしさんが直木賞をとったときには65歳。そこからマスさんは、第二なのか第三なのか、何度目かの青春を謳歌して、若いころから好きだった文章を書く、という世界でも活躍してしまいます。ひさしさんは直木賞の受賞によって、かなりの母親孝行を果たした、と言ってもいいでしょう。

 いっぽう、ひさしさんの父親はどうかというと、若くして死んでいます。当然ひさしさんが直木賞をとるなんて、想像することもなくあの世に旅立ったんですが、南国忌の講演でひさしさんが語った親のハナシは、その父親のエピソードでした。

 井上修吉。明治38年/1905年10月7日生まれ、昭和14年/1939年6月16日没。実家は山形県東置賜郡小松町、酒づくりの名家「井上酒造」の分家の分家。そこら辺りではけっこう裕福な地主の家でもありました。

 修吉さんは山形中学から東京薬専を卒業。薬剤師となって新宿の病院で勤めていた頃に、看護婦見習いだったマスさんと出会って恋に落ちます。昭和2年/1927年、二人は周囲の反対を押し切っていっしょになると、修吉さんのふるさと小松町に移り住みますが、若い修吉さんは文学やら演劇やら、そちらの方面に興味があって、末は物書きになりたいと思っていたそうです。

 小松町では薬局(の看板をかかげたよろず屋)を営みながら、米沢で劇団を立ち上げたり、農地解放の運動に邁進したり。地主だった父親とは折り合いが悪く、うちの修吉め、東京でアカになって帰ってきよった、と苦い顔をされ、治安維持法違反で留置場に入れられたりもします。ひさしさんの記述によると、留置場で拷問に近い暴力を受けて、修吉さんはからだを壊したんだとか。

 その間も修吉さんの文学熱は収まらず、文学といえば芸術的な文学に進みそうなものを、なぜか大衆文芸にも興味を持ち、『サンデー毎日』の懸賞に何度か投稿を試みます。そのうち〈小松滋〉なる筆名で応募した「H丸伝奇」が首尾よく入選を果たしたのが昭和10年/1935年10月発表の第17回大衆文芸懸賞です。このとき井上靖さんが同じく入選をしていた、というのはひさしさんやマスさんが繰り返し語ったおかげで、チョー有名な逸話となりました。

 実は修吉さんはそのとき(あるいは、その頃に)、直木三十五さんから直筆のハガキをもらっていた……ということが、ひさしさんの南国忌の講演で明かされています。

 短い文章で修吉さんの作品に対する感想が書かれたハガキだった、それを母親のマスさんはずっと大切に持っていて、ひさしさんは何度も見せられた、それが自分が直木三十五という人を知ったきっかけだった、と言うのです。

「私が物心ついた頃に母親が「お前の死んだお父さんはこういう偉い人にほめられたのだよ」と聞かされましてそれがずっと頭に入っておりました。

(引用者中略)

直木三十五と私の関係は、もちろん直木賞を頂いたということはありますが、その前に母親が何かあるごとに見せてくれたちょっと黄ばんだ葉書ですね。「読みました。本当によかった」という三行くらいの短い感想でしたが今も目の奥に残っています。」(『南国忌の会会報』No.23[平成18年/2006年8月] 井上ひさし「特別講演 直木三十五と落語」より―文責・編集部)

 感動的な(?)ハナシだとは思うんですけど、ほんとうにそんなハガキがあったのか、はっきりしたことはわかりません。

 というのも、修吉さんが『サンデー毎日』大衆文芸で入選したのが昭和10年/1935年。直木さんが死んだのは昭和9年/1934年ですから、感想が送られてきたとすればその入選作に対するものではあり得ません。それより前、修吉さんは同誌昭和6年/1931年の懸賞実話「旅で拾つた話」に入選したことがあるそうですが、そんな実話の懸賞ものに直木さんがいちいち感想を送るだろうか、と思います。

 ちなみに桐原良光さんは『井上ひさし伝』のなかで、こんなハナシを紹介しています。

「ひさしの弟、修佑は、母マスが宝物のように大事にしていたはがきがあったのを覚えている。吉川英治からのはがきで、作品は素晴らしい、すごい才能があるのだから上京して活躍しなさい、といった内容だったという。」(平成13年/2001年6月・白水社刊、桐原良光・著『井上ひさし伝』より)

 たしかに吉川さんなら、そんなハガキを送りかねません。

 要するに、ひさしさんの記憶が吉川さん→直木さんにすり替えられたか、あるいは講演の席ですから、ちょっとしたリップサービスで、吉川さんを直木さんに置き換えて話したか、そんなところではないか、という仮説が成り立ちます。

 懸賞に入選した父親が、直木三十五さん本人からじきじきにハガキをもらった。その意志を継いだかっこうの息子が、のちのち直木三十五の名を冠した賞を受賞した。ちょっとハナシとしては出来すぎです。出来すぎではあるんですけど、マスさんが大事にしていたハガキの実物が、その場になかった以上、つくり話かどうかわからない。こういう小説家っぽい真偽不明なハナシが飛び出すのも、講演というものの一つの魅力です。

| | コメント (0)

2024年2月18日 (日)

澤田ふじ子(作家)。権威に寄り添うな、と言い聞かせて育てた娘が何の因果か直木賞をとる。

 直木賞が決まると、どうしても気になることがあります。受賞者や候補者の〈親〉のことです。

 ……というのはさすがに言いすぎですけど、直木賞のことなら何でもかんでも興味が沸く。そのことに嘘いつわりはありません。とくに、親のだれかが文章を売って生活している物書きだったりすると、候補者本人の作品はわきにおいて、その親が書いたものを漁ってしまう変な癖までつきました。まあ、悪性の直木賞病です。

 最近でいうと、第165回(令和3年/2021年・上半期)を受賞した澤田瞳子さんの親御さんが、よく知られた物書きです。ワタクシも瞳子さんが受賞したと聞いたとき、「ああ、お母さんも作家だったか、名前は知ってるけど、いったいどんな人だったっけ」と急激に興味をもってしまって今に至ります。哀しき直木賞ファンのサガ、というやつでしょう。この病気は治りそうもありません。

 それはともかく、澤田さんのお母さんのことです。

 澤田ふじ子。昭和21年/1946年9月5日生まれ。ふるさとは愛知県半田市で、そこで「人はおのれの分を知らなきゃ駄目だぞ」と親に言われながら育ち、愛知県立女子大の文学部を卒業。高校の国語教師になります。

 ところが、どうも自分は教師としては不適格だと思い始めたところ、岐阜県に伝統工芸を伝えるための民芸村をつくろうじゃないか、と夢を語る出版社の社長がいて、まあそれはいいわねと共感。そうか、じゃあ、ふじ子さんはそこで織物を担当してくれ、ということになって、26歳で教師を辞め、西陣のつづれ織を学ぶために京都に移ります。ちなみに、その民芸村の構想は途中で挫折して、話はアワと消えちゃいましたが、出版社の経営が立ち行かなくなったその男こそ、ふじ子さんといっしょになる旦那さんです。

 せっかく民芸村のために織物を学んでいたのに、どうしたものかと次の一歩を決めかねますが、ふじ子さん、小説書きませんか、と勧めてきたのがその旦那さんでした。昭和50年/1975年、28歳のときに「石女(うまずめ)」で第24回小説現代新人賞を受賞。作家デビューを果たします。

 それから2年後、夫にいろいろと教えてもらいながら小説を発表しているさなかに一人の子供を授かって、かわいいかわいい女の子が誕生します。瞳子さんです。

 瞳子さんが自分の名前で本を出すのが平成16年/2004年、徳間文庫の『大江戸猫三昧 時代小説傑作選』の選者としてなので、生まれてから30年弱。幼少期、青春期、ものを書き始めるそれまでのあいだ、瞳子さんはどんなふうに生きてきたんでしょうか。

 「直木賞をとるまでの歩み」というのは、直木賞に関するさまざまな記事のなかでも多くの人が興味をもつ人気コンテンツです(……た、たぶん)。本人が自分で語ったり語らされたりする回想も、もちろん大事なんですけど、親が物書きの人の場合は、その親がかつて子供のことを書いたエッセイやらがけっこう残されています。発表された当時は、なにげない身辺雑記だったものでも、のちに直木賞関連資料になったりするのですから油断できません。

 たとえば、ふじ子さんが平成6年/1994年『読売新聞』に連載した「つれづれ草紙」というものがあります。平成7年/1995年に『京都 知の情景』(読売新聞社刊)となり、平成12年/2000年『京都 知恵に生きる』(中公文庫)として刊行されました。

 そこには夫のことや娘さんのことが、ときどき出てくるんですが、こんなイカすエピソードが収められています。

「「小説がちっとも売れない――」

時代が悪い、本を読む人が少なくなったのだと、しきりに嘆いていた十年ほど前、稚拙な文字でわたし宛てに一通の封書がとどいた。

――私は澤田ふじ子さんの小説が大好きです。どんどん小説を読んでいます。もっともっとたくさんいい小説を書いてください。

封書の裏に住所はなく、つくりものめいた名前が書かれていた。

稚拙な文字にはっきり見覚えがあった。

それは娘がわたしの嘆きを心配するあまり、わたしをはげます気で書いた手紙だった。

(引用者中略)

いまでもわたしはこの封書を、〈心の宝石〉のつもりでもっている。」(澤田ふじ子・著『京都 知恵に生きる』所収「離俗の精神――あとがきをかねて――」より)

 ちょっと長めに引用してすみません。こういう思いやりある関係性を家族どうしで築いてきた澤田家の教育は、やはりイカしていると思って紹介してみました。

 その後、娘の瞳子さんはのびやかに成長します。昔の美術史にも異常にくわしい父親と、こつこつと歴史小説を書く母親。そういう家庭環境からおそらく影響を受けて、美術史を専門で学ぶ道に進み、ガチガチの研究者になるかと思いきや、やがて創作を公に発表するようになって小説家としてもデビュー。10年ほど書き続けたところで、令和3年/2021年に直木賞をとるわけです。

 直木賞は一般には「権威」の権化と思われています。エラいもんだとみんなからチヤホヤされ、ゴマすり、追従、いろいろと誘惑の手も伸びてくる……かどうかはワタクシもわからないんですが、いまのところ澤田さんが悪い人たちにそそのかされて、堕落していく気配はないようです。

 ふじ子さんがかつてエッセイに書いた、我が子に対する教育方針の一節に、こんなものがあります。

「私はわが子に、権威に寄り添うな、弱い立場の相手を決していじめてはならないといいきかせ、これまで育ててきた。

自分の強い立場をひけらかすほど、愚かで見苦しいものはないと、私は考えている。」(『潮』平成10年/1998年12月号、澤田ふじ子「へそまがり」より)

 この教えが瞳子さんの心に植えつけられているかぎり、わたしは直木賞をとったんだ、そうじゃない連中は黙ってろ、とふんぞり返る未来は、おそらく今後もこないでしょう。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧