カテゴリー「直木賞にまつわるお金のこと」の41件の記事

2023年3月26日 (日)

乱歩賞・直木賞を受賞しても、藤原伊織の借金3,000万円ほどは完済ならず。

 直木三十五記念館は、大阪市中央区谷町6丁目にあります。歩いて数分足らずのところに、若き直木三十五さんの過ごした長屋があった、というコテコテ&バリバリの下町です。

 直木賞と直木さんは別ものです。直木さんゆかりの地だからといって、別に直木賞と深い関係があるわけじゃありません。ただ、そこは直木賞の風呂敷の広さ。この賞は全国各地のあちこちに、かすかなつながりを張り巡らせています。

 直木記念館の界隈でいうと、まさにそこら一帯を舞台にした万城目学さん『プリンセス・トヨトミ』(第141回・平成21年/2009年・上半期 候補作)とか、やはり浄瑠璃の本場ということで縁のある大島真寿美さん『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び』(第161回・平成31年・令和1年/2019年・上半期 受賞作)などの作品が、近年では挙げられるでしょう……といったようなことを、こないだ記念館を観にいったときに、事務局長の小辻さんから聞きました。

 それと受賞者では、意外とこの近くで生まれ育った人がいるんですよ、と教えてもらったのが藤原伊織さんのことです。

 へえ。そうなんですか。あまり大阪のイメージはなかったですけど、たしかに調べてみれば藤原さんが高校まで育ったのは、大阪市の今里。記念館から少し距離は離れていますが、長堀通り一本でつながっていて近隣の街です。

 直木さんと藤原さん。無理やりこじつければ、その境遇は似ていないこともありません。藤原さんのエッセイにはこうあります。

「私の実家は裕福とはいいがたい。給与生活者になる以外、生きる方法は考えつかなかった。作家になろうなどとは当然、夢想だにしなかった。

赤貧というほどではないが、私の家はたしかにビンボーだった。実家は、大阪の今里にある長屋の端っこである。」(『オール讀物』平成8年/1996年3月号、藤原伊織「空白の名残り」より)

 家が貧乏である。高校を出たのち、東京の大学に進んだ。はじめ作家になろうとは、つゆほど思っていなかった。などなど。そしてやっぱり直木さんと藤原さんといえば、最大の共通点は「借金」です。

 直木さんの借金ネタは、みんな大好き、こぞって語り継ぐほどに有名ですが、藤原さんのエピソードも負けちゃいません。

 平成7年/1995年、第41回江戸川乱歩賞の受賞が決まったとき、受賞会見で賞金1,000万円の使い道を聞かれて、麻雀とかでふくらんだ借金の返済に使います、と返答。これがマスコミ陣に大層おもしろがられて、いろいろと記事に書かれたうえ、その半年後には直木賞までとってしまったことで、エピソード力も倍増し、フジワライオリといえば高額賞金を借金返済に使い、それでもまだ返し切れないほどの借金魔……として人々の印象に残りました。

 どんな麻雀を打っていたんでしょう。その一端が、上に引用した『オール讀物』の受賞記念エッセイで触れられています。

 時代は、藤原さんが『野性時代』の新人賞に応募していた昭和50年代から少しあと、すばる文学賞をとる昭和60年/1985年よりちょっと前の頃。マンションの一室で行う三人麻雀で、賭けのレートがべらぼうに高く、だいたい30分打って一ト月分の給料がふっ飛ぶぐらいだ、というのですから、異常な遊びです。藤原さんの友達は、そこで1年で1億円負けたんだとか。

 まあ、借金の額を誇るようになったら、人間おしまいだ、という気はします。藤原さんも別に、借金をたくさん抱えていることを自慢げに吹聴したわけじゃなく、乱歩賞のときも、記者にツッコまれて言わされた、といったことがあったようです。「賞金は何に使うんですか」「借金の返済に充てます」「住宅ローンとか?」「いや」「では、何の借金?」「麻雀の負けとかいろいろあって」と。あんなこと言うんじゃなかった、と藤原さんはあとで悔やんだらしいです。

 本人が語るところでは、このとき借金は3,000万円ほどあったのだと言います。乱歩賞の賞金。それから単行本(1冊税込1,400円)の印税。なにしろ『テロリストのパラソル』は、かなり売れましたので、印税の収入だって馬鹿になりません。仮に印税10%で、30万部売れたということになれば、税抜136円×30万=4,000万円ほど。そこから税金が引かれて、藤原さんの手もとに残るのは、もう少し額が落ちますが、賞金と合わせてこれで完済できたっておかしくありません。

 しかし、けっきょく乱歩賞のアレコレでは完済することはできなかった模様です。かたわら、天下の電通に勤めて毎月、高給を得ます。その後、コンスタントに小説を書き、そのたびに評判もよくて本も売れ、文庫化されればさらに売れ、いずれは借金もなくなった……とは思うんですが、なにせヒトさまのフトコロ事情です。どうなったのか詳しいところまではわかりません。

 ところで、乱歩賞をとった半年後には直木賞を受賞して、このときは賞金100万円が出ました。いったいその賞金は何に使ったのか。普通に考えれば、これもまた借金の返済に全額あてた、と考えるのが自然でしょう。聞く記者がいなかったのか、乱歩賞のときに懲りて藤原さんが正面から答えるのを避けたのか。とくにエピソードとしては残されていません。

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2023年3月19日 (日)

「私は連城三紀彦だ」と言って観光客から1万円を騙し取る男、京都に出没する。

 こないだ、札幌・小樽に行ってきました。

 理由はもちろん、第168回(令和4年/2022年下半期)の直木賞を、札幌からほど近い江別市出身の作家がとったからです。

 ……と言えたら、直木賞オタクとしては美しいですけど、別にそうじゃありません。ただ、いちおう予定のあいまを縫って、江別の市役所に飾られているという祝・直木賞の垂れ幕だけは見物してきました。あれって、いくらぐらい経費がかかったんでしょうね。そのうち公表されたらメモっておきたいと思います。

 さて、旅行の主たる目的は、市立小樽文学館に行くことでした。今回お目当てだった展示内容は、残念ながら直木賞とは関係がなく、正直ブログで書くようなハナシでもありません。だけど小樽文学館といえば、ミステリー作家に関する展覧会をしばしば企画することでも知られていて(知られているのか?)、これまで小栗虫太郎とか、泡坂妻夫、連城三紀彦など、直木賞にも縁のある人たちが続々と取り上げられてきました。きっとそのうち、京極夏彦展も開いてくれることでしょう。開いてくれるといいなあ。期待しています。

 せっかくなので、今週のエントリーは、上記に挙げた作家のうちの一人にからめたおカネのことで行ってみます。いったい直木賞と関係があるのかないのか。よくわからないミミッちい話題です。

 以前、このブログで「犯罪でたどる直木賞史」というのを調べていたことがあります。そのなかで、ある男が「自分は向田邦子の甥だ」と嘘をつき、女性に近づいては金品を騙し取った一連の犯罪事件を取り上げました。

 この男は、スチュワーデス8人からおよそ3000万円を口八丁手八丁で奪って指名手配され、さらに別の女性に結婚を持ちかけて約55万円を詐取した、ということで昭和60年/1985年に実刑判決をくらったそうです。

 直木賞の受賞者の名前を使って、詐欺行為を働く。上記の場合は「受賞者の甥」ではありましたが、もちろん、受賞者本人の名前を騙った例は、古今、日本じゅうで数かぎりなく行われてきたでしょう。これもまた直木賞という文学賞の虚名が膨らんだ末に生まれた、直木賞がらみの案件です。

 小樽で企画展が行われた作家でいえば、連城三紀彦さんも、勝手に知らない人に自分の名前を使われたひとりです。

 報道されたことが2度あります。いずれも連城さんが存命中のことです。

 最初は平成9年/1997年11月。住所不定、当時50歳だった無職の男が、京都の観光地をぶらぶらし、これぞと目をつけた若い女性観光客に近づいて、私は連城三紀彦という作家ですが、いま京都に関する本を書いているところでして、などと話しかけ、ときに現金を騙し取ったり、ときに女性に抱きついたりして迷惑をかけ、京都府警の松原署に逮捕された、ということです。

 2度目はそれから約10年たった平成18年/2006年2月。今度もやはり京都の観光地が舞台にして、住所不定、無職の男が、私は連城三紀彦という作家ですが、と若い女性観光客に声をかけ、アルバイトに雇いたいんですが、いま約1万円を払ってくだされば、登録料というかたちでこちらで話を進めます、みたいなことを言ったようです。そんなこんなで、似たような手口で20件ほど犯罪を重ねたところで、そのうちの一人の女性が、インターネットで調べてみたら、連城って作家と全然、顔がちがうじゃん! と気づき、被害届が出されて、詐欺容疑で逮捕されます。

 まあいずれも、取り上げるのも馬鹿らしいミミっちい犯罪ですが、『毎日新聞』の記事を見比べてみると、当時の年齢や名前からして、この2つの犯罪は同一人物によるものです。

 どうして「連城三紀彦」を選んだのか。そこはよくわかりません。さすがにこの男が連城さんのファンだった、とは考えづらいところではありますが、男がどんな供述をしていたのか、少し詳しく書いているのが『産経新聞』の記事です。

「容疑者は、近くの高台寺付近で、このOLらに「自分は連城三紀彦という作家で、社会派の本を書いている」と接近。OLの手帳に「火曜サスペンス“京都への旅”」と架空の本の題名を書いて信用させ、犯行に及んだ。

(引用者中略)

容疑者は、これまでにも同じく円山公園などで観光客の女性を相手に金品をだまし取っていたことを自供。「京都に観光に来ている女性は、ロマンチックな雰囲気や解放感から簡単にだませる」「だまされても被害届を出さない」などと話しており、同署で余罪を厳しく追及している。」(『産経新聞』平成9年/1997年11月16日「直木賞作家と偽りわいせつ行為 京都旅行のOLに抱きつきキス迫る 無職男を逮捕」より)

 あるいは、連城さんには若い女性をうっとりさせそうな、ロマンチックで信用のある名前だという印象があったのかもしれません。それはそれで、たしかに、とは思いますが、しかし1万円程度のおカネを騙し取るためには、「連城三紀彦は恰好の知名度(というか無名度?)だ」と認識されていたのですから、なかなか悲しくなります。

 ちなみに2度とも捕まったのは鈴木安男という男で、その後健在なら現在75歳ぐらいです。いまでもクソみたいなことやっているんでしょうか。わかりません。

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2023年3月12日 (日)

あまりにカネがなかった佐木隆三、直木賞の賞金は晴着の新調代などに使う。

 書くハナシのストックがなくなってきました。なので、また『直木賞事典』(昭和52年/1977年6月刊)から、賞金の使い道をチェックしたいと思います。

 第74回(昭和50年/1975年・下半期)に受賞したのが佐木隆三さんです。賞金は30万円でした。

 選ばれた『復讐するは我にあり』(昭和50年/1975年11月・講談社刊)は、戦前の変則手ともいうべき鷲尾雨工さんの『吉野朝太平記』を除けば、直木賞ではじめて上・下巻の2分冊に賞が贈られた作品です。上・下それぞれ一冊790円。印税を10%とすると、佐木さんに入るのは79円。ものの記録によりますと、最終的に上・下合わせて43万7000部売れたそうなので、都合、印税は3,400万円以上になります。直木賞の賞金なんて鼻クソみたいなものです。

 それまでの佐木さんは、大して売れていない貧乏ライターでした。沖縄滞在中に再婚した奥さんと、生まれたばかりの長女を連れて、沖縄本土復帰を見届けてから、一家をあげて東京(住まいは千葉県市川)へと転居。しかし佐木さんには、そうそう仕事もありません。新たに第二児も生まれる。アパートの家賃が払えない。そこで市川の公団住宅に移りますが、貧窮・窮乏は何も変わりません。

 と、その辺りは、以前ブログでも書いたような気がします。20代から30歳になる頃には、新進の小説家として注目され、芥川賞だの直木賞だのの候補になったこともある。だけど、その程度の書き手は世のなかにゴロゴロいます。作家で食っていくためには、泥水をすするような取材記事でも、頼まれ仕事の提灯記事でも、何でも書かなきゃおカネになりません。

 そのなかで、完成するのかどうかわからない書下ろしの原稿を、新たに移った埼玉県幸手の公団住宅で、ほぼ2年間チマチマと書き進め、何とかできたのが『復讐するは我にあり』だったと。生活費がないので、講談社に少しずつ原稿を渡すたびに前借りで多少のおカネを融通してもらっていたそうです。

 これが昭和51年/1976年1月に直木賞を受賞します。佐木さんの文筆生活は状況が一変し、わんさか注文が舞い込んできます。無事に貧乏ライターの檻から脱出して、その後は実録物に強い作家として、物書き稼業を邁進することになりました。

 それもこれも、1970年代半ばには、過剰に膨れ上がっていた直木賞のブランド力のおかげです。直木賞をとって一発逆転の人生だ……と、ひとことで言ってしまうと、うさんくささが漂いますが、直木賞がもっている面白さのひとつなのは間違いありません。

 ともかく、直木賞までの佐木さんに、いかにおカネがなかったかは、賞金の使い道にもよく表われています。

「夫婦共に授賞式に出る晴着がなかったので賞金がもらえるまでのつなぎに友人から三十万円借りて新調しました。ほかに、郷里の北九州から母を招ぶ費用などです。」(『直木賞事典』「受賞作家へのアンケート」の「賞金は、当時何に使われましたか」に対する佐木隆三の回答より)

 生活費の一部に消えたのではない。授賞式に出るために賞金を使った、というのがこの回答のキモでしょう。

 戦前から戦後しばらくは、多くの受賞者が何に使ったのか覚えていない、つまり日常の暮らしのための生活費に、賞金が使われるのが一般的でしたが、もはや佐木さんの時代ともなると、生活費は受賞後の原稿料・印税でいくらでも稼げる、ひとまず賞金は授賞式に使ってしまう、ということです。

 実際、直木賞を受賞してまもなく、佐木一家は幸手の賃貸住宅から、同じ埼玉県の蓮田市に家を建て、そちらに移り住みました。佐木さんの1年後に受賞した三好京三さんのことは、先日、取り上げましたけど、三好さんもまた受賞後すぐに新築の家に移っています。1970年代、直木賞をとると家が建つ。そんな伝説が生まれたのは、このあたりが源泉でしょう。

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2023年3月 5日 (日)

50銭だった直木賞発表号、78年たって2,400倍の1,200円に。

 こないだ『オール讀物』令和5年/2023年3・4月合併号が発売されました。

 今回は試験的に、kindleやら何やらでも読める電子雑誌版も発売された、本屋にわざわざ行かなくても済むんだ、ということで大盛り上がり、いままで以上に直木賞の選評に触れる人もぐっと多くなる……かどうかはわかりませんけど、直木賞といえば、『オール讀物』を買うところまでが一連のコースです。ワタクシにとってもルーティンです。

 しかし、最近は一冊に1,200円も払わなきゃいけません。お財布もピーピーです。ああ、もはや大衆誌というより、活字を読むマニアのための雑誌になっちまったんだな、という感を強くしますが、『オール讀物』の歴史を見ると直木賞よりちょっと長くて92年。その価格の変遷を追うだけで、この雑誌と直木賞のおカネについての関係性が、なにがしか浮かび上がってくるんだろうなと思います。

 ただ、変遷を追うのは面倒です。それはまた別の機会にしまして、今週は第1回(昭和10年/1935年・上半期)直木賞が発表された『オール讀物』昭和10年/1935年10月号と、最新回の発表号とを並べてみることにしました。

20230305193510
昭和10年/1935年10月号
20230305202303
令和5年/2023年3・4月合併号
上昇率
一冊定価 50銭 1,200円 2,400倍
直木賞の賞金 500円 100万円 2,000倍
表2広告 コロムビアポータブル
25円
むぎ焼酎壱岐 1800ml・25度
1,900円
76倍
表3広告 ローヤルナイトクリーム
60銭
池井戸潤『シャイロックの子供たち』文春文庫
770円
1,284倍
表4広告 妙布
1円
4711 Portugal
3,000円
3,000倍

※広告掲載商品については、最新号では価格表記がないので、ネット情報で補完

 ほんとは、単号あたり制作にいくらかかったかとか、載っている原稿料の総額とか、そういうのを比較できればいいんでしょう。しかし、さすがにそれはわかりません。

 で、代わりにどのくらいの価格の商品が表紙まわりの広告に出ているのかを挙げてみました。いやいや、そんなの何の比較になるんだ、っていうハナシですけど、とりあえず最新の号では、表紙まわりに自社の商品広告が入ってしまっている。一抹の哀しさを感じます。

 上記には挙げませんでしたが、おカネにまつわる話題でいうと、昭和10年/1935年当時の『オール讀物』には、いくつか懸賞企画が載っています。

 夢野久作「二重心臓」の犯人当ては、当選者には賞品があって、一等・客用座布団一揃(2名)、二等・美術置時計(5名)、三等・特製コーヒーセット(20名)、四等・優美便箋組合せ(50名)、五等・本社特製タオル(100名)、六等・本社特製美麗絵ハガキ(300名)……とのことです。客用座布団、そんなに欲しいか? と思いますが、このあたりは戦前昭和といまとの、生活文化の違いかもしれません。

 懸賞は他に、麻雀、詰碁、詰将棋、聯珠があり、それぞれ当たると賞金・賞品が出ています。一等2円、二等1円、三等・本社特製美麗絵ハガキ一組。

 こういう企画は、現在はときどきはやっていても、毎号ということはありません。それに近いものを感じるのは「短歌の部屋(東直子・選)」「俳句の部屋(高橋睦郎・選)」ぐらいでしょうか。ただ、投稿が採用されても賞金・商品はなく、掲載誌の贈呈のみです。世のなか、おカネより大事なものがある、と(おそらく)言いたいんだと想像します。

 それはともかく雑誌の定価ですが、そのうち1,500円、2,000円という時代が来てもおかしくはなさそうです。そのとき、直木賞の賞金も同じくらいに上がっているのか。いまから期待して、『オール讀物』の値上がりを待ちたいと思います。

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2023年2月26日 (日)

邱永漢、直木賞をとって十万円作家になり、カネ儲けの話を書いて百万円作家になる。

 おカネにまつわる直木賞、ということでいえば、まだまだ取り上げなきゃいけない作家が何人もいます。なかでも、その最高峰(?)に位置するのが邱永漢さん。第34回(昭和30年/1955年下半期)の受賞者です。

 うちのブログでは、何かというと邱さんのことばかり触れています。作品のことは、ワタクシもよくわかりませんが(オイオイ)、邱さんは生きざまが特異すぎて、注目どころが満載すぎる。おのずと、うちみたいなゴシップブログではたくさん取り上げることになる、という寸法です。

 それで、おカネのことですが、邱さんといえば何でしょう。直木賞の受賞者であることよりも、物書きとして一気に売れたのがおカネにまつわる文章でした。

 戦後、日本の社会は「経済大国」を目指します。マスコミでも出版界でも、おカネの話題はカネになる。欠かすことができません。邱さんは昭和31年/1956年1月に直木賞を受賞して以来、乞われるまま、関心の向くままに原稿を依頼されますが、そのなかで、こいつの発想は面白いな、と邱さんの才能に惚れ込んだのが、中央公論社の嶋中鵬二さんです。

 昭和33年/1958年、嶋中さんが編集長だった『婦人公論』におカネに関するエッセイを連載します。それをもとにして『金銭読本』(昭和34年/1959年1月・中央公論社刊)を出したところ、これが大当たり。直木賞をとってもなかなか売れない小説家、になりかけていた邱さんに、なるほど読者はこういうものが読みたいのか、と目を開かせるに至ります。おカネ、というテーマは、邱さん自身の興味にもズバリ合っていました。そこから経済の素人、という仮面をかぶりながら、企業経営、株式投資、おカネ儲けの方面に、着々と足跡を残していきます。

 と、そんなふうに小説家から飛び出ておカネに関する評論・エッセイそして実践者として名を挙げるにいたった経緯は、邱さんの『私の金儲け自伝』昭和46年/1971年10月・徳間書店刊『邱永漢自選集第8巻』所収)に詳しく書かれています。邱さんがどうやって直木賞の世界に行ったのか、そしてそこから小説を書かなくなったのか。おカネの話題にからめて回想された楽しい一冊です。

 直木賞の賞金は、戦後5万円から出発します。そこから10万円に倍増したのが、5年ほど経った第32回(昭和29年/1954年下半期)から。朝鮮特需を経て、経済復興の足取りが確固としたものになった頃です。

 商業としての小説界全般の景気がよくなるのは、もう少しあと、昭和30年代以降に週刊誌が乱立しはじめた頃からだと思いますが、その少しまえ、邱さんが直木賞をとっていよいよ作家として食っていくか、と本腰を入れ始めた時代のことも、『私の金儲け自伝』では回想されています。

 邱さんを文壇に引き上げてくれた恩人のひとり、檀一雄さんが語った言葉です。

「「日本の文壇で、君はプロの小説家としてやっていけることは間違いない。しかし、十万円作家にはなれても、百万円作家にはなれないだろう」

(引用者中略)

「十万円作家とは、月収が十万円ということで、『新潮』や『群像』や『文学界』のような純文芸雑誌を舞台にして小説を書く作家のことです。純文芸雑誌は原稿料が一枚五百円から千円まで程度だから、一篇書いても五、六万円にしかならない。たまに中間雑誌に書くとして、まあ、月に十万円くらいの収入でしょうね。ところが、新聞や週刊誌の連載小説を書くようになると、原稿料も高いし、月に三本も五本も連載しておれば、月収が百万円になる。君の小説は、純文芸雑誌向きだから、十万円作家といったんだよ。」(『私の金儲け自伝』より)

 ほんとに、そう言ったのかもしれません。しかし、直木賞の賞金から見ると、当時の10万円作家は、現在の100万円作家、ということになります。月に原稿を書いて数十万から100万までの収入を得る。作家としては、妥当な部類です。

 十万円作家になれればスゴイじゃないか。と邱さんも、直木賞を受賞するまでは思っていたそうです。いざ受賞してみると、たしかに月収10万円ぐらいは原稿で稼ぐことができる。しかし、小説ではそれ以上の収入を得る作家になれそうもない、と考え始めます。転機です。

 10万円でいいと思うか。100万円を目指すか。直木賞をとってもそれだけじゃカネを稼げる物書きにはなれない。というのが真実でしょうけど、邱さんがのちにおカネのことを書いて百万円作家になれたのは、そもそも直木賞で十万円作家になれていたからだ、とも言えます。どっちにしたって、読者にとっては遠い遠いおとぎ話のようなおハナシです。

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2023年2月19日 (日)

直木賞を受賞すれば講演料が3倍の30万円にハネ上がる、と百々由紀男は断言する。

 何の世界でもそうでしょうが、たいてい外から見ているほうが楽しいです。中に入れば入ったで、おそらく公にはできない汚濁や地獄が広がっているはずなので。

 直木賞もそうなんじゃないか。ということは容易に想像できます。少し離れたところから見ているのが、直木賞は平和で楽しいです。

 というところで、現実に行われている直木賞を追うのに疲れたとき、いつも読みたくなる本があります。百々由紀男さんの『芥川直木賞の取り方 あこがれが“勝利の女神”に!今』(平成5年/1993年7月・出版館ブック・クラブ刊)です。

 あまりに面白すぎて、うちのブログでも十何年か前に取り上げました。どんなふうに紹介したのか、もはや全然覚えていませんが、いまでも手もとに置いて、つらいときや苦しいときには、そっとページをめくってしまう。ワタクシにとって心の清涼剤です。

 こんな本を読んでも、直木賞が取れるとは思えません。そんなことは、著者の百々さんも重々承知のはずで、直木賞の世界を、遠目から見て楽しみたい外野の傍観者たちに向けて、楽しみを提供しよう。そう思って書かれた一冊……なのだと思います。ですので、そういうことに興味のある人は、ぜひ読んでみてください。

 目次を引くと、内容はこんな感じです。「第1章 芥川・直木賞作家の優雅でリッチな生活」「第2章 誰でも作家になれる!受賞のコツと作家修業いろいろ」「第3章 新人賞のここを狙えば芥川・直木賞の道が開ける」「第4章 芥川・直木賞受賞の最短距離を行く」「第5章 芥川・直木賞作家になる、小説の書き方いろいろ」

 小説の書き方、みたいな部分は、正直どうでもいいです。ここで取り上げるのは、やっぱりおカネに関するところです。

 一冊そのものが下品で下世話を煮詰めたような内容なので、おカネのハナシもたくさん出てきていいようなところ、実際そこまででもありません。

 人サマのおカネのことは、外から見ていてもわからない部分が多い、ということでしょう。新人賞に応募して最終選考に残り、だれか作家に選評で触れてもらったら、かならずお礼の手紙を書け、と言っている文章があるんですが、とにかく百々さんは、売れないうちは有名な作家に顔を覚えてもらえ、ゴマをスッて、どうにか自分の原稿が大きな賞の候補になるチャンスを探せ、と主張しています。何か百々さんか、近くにいる人の経験が入っているのかもしれません。

 ここに具体的な金額が書かれているのが、作家がひらく出版記念パーティーの参加費です。「会費を払って(3万~5万)出席すると、署名本をくれるし、挨拶して顔を覚えてもらうのも作戦。」なのだそうです。こういう文章に、百々さんがどういう姿勢で出版業界の底にへばりついていたかが、よく現れています。

 さて、肝心なのは直木賞の受賞に関するおカネのことです。

 受賞すればスゲエ儲かるんだぜ、というその例として百々さんが出しているのが、吉本ばななさんの『キッチン』の例。150万部のミリオンセラー、印税収入が1億5000万円。といったところから見ると、受賞さえしていれば、生涯収入は10億円以上は軽い軽い……。というんですけど、いやいや、爆発的なミリオンセラーを基準に言われてもね、直木賞はどうなんだよ。と、読者にツッコむ余地を与えているところなど、百々さんの芸のこまかさです。

 もうひとつ具体的な金額が挙げられているものがあります。講演のギャラです。

「受賞前10万円の講演料が、受賞したとたん30万円以上にハネあがるのが常識。

テレビ出演も「出たくない」とゴネると、たちまち芸能人なみにアップする。ちなみに出演料は、芸能人、文化人、政治家の順が一般的。」(『芥川直木賞の取り方 あこがれが“勝利の女神”に!今』より)

 そもそも、講演料が10万円から30万円に上がる、ってハナシが、なぜ、じゃあわたしも作家になろう! というところにつながるのか。つながると百々さんは思っているのか。

 百々さん自身、自分が名もない売文ライターだったせいで、講演のギャラ設定で苦い経験をしたんだろうな。思わずうるっとしてしまいます。

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2023年2月12日 (日)

立原正秋、俺が月に5万円ずつやるから仕事をやめろと高井有一にせまる。

 数か月前、高井有一さんの本を集中的に読みました。

 直木賞オタクなどが、いくら読んだってわかるような作家じゃありません。ただ、芥川賞をとった人のなかでも、直木賞とはかなり縁があった、と言われています。読まずに済ますにはいきません。

 高井さんと直木賞の関わりで、やっぱり目に留まるのは立原正秋さんの存在です。

 両者、いったい何がどうやって性が合ったのか。よくわかりませんが、むかし仲がよかった人も含めてバッサバッサと切り捨てた暴君・立原さんが、なぜか心を許したのが高井さんです。

 高井さんもまた、何度か絶交・絶縁をしながらも、けっきょくは立原さんと復縁し、『立原正秋』(平成3年/1991年11月・新潮社刊)なんちゅう作品まで書いてしまいます。こういう人と人との関係は、はたから見ていても正直、理解が及びません。

 さて、おカネのハナシです。高井さんが芥川賞を受賞したのが第54回(昭和40年/1965年・下半期)。立原さんの直木賞受賞は、その次の第55回(昭和41年/1966年・上半期)。賞金が10万円だった時代の、最後のほうに当たります。日本の経済がびゅんびゅん加速して太り肥えていった時代です。

 『立原正秋』のなかで面白いのは、高井さんと立原さんのあいだで、「小説を書いて世に出る」ことに大きな認識のズレがあった、というところです。高井さんは、別に働きながら小説は自分のペースで少しずつ書いていけばいい、と思っていたのに対し、立原さんはまったく違いました。せっかく作家として世に出たなら、書いて書いて書きまくれ。おカネもどんどん稼いでそれで生活を立てろ、と考えていた、と言います。

 昭和43年/1968年ごろ、と言いますから両者ともすでに文学賞をとったあと、高井さんは立原さんから執拗に、いまの仕事はすぐにやめろ、筆一本で立て、とけしかけられます。そして立原さんはこう言ったんだそうです。

「「向う一年間、俺が君に月づき五万円づつやるよ。年に六十万だ。それだけあればどうにか共同を辞められるだらう。どうだ」

この唐突な申し出に何と答へたか、私は自分の言葉が思ひ出せない。口ごもつたあげくに絶句するしかなかつたやうな気がする。月五万円は、当時なら一人がかつかつに暮して行けるだけの金であつた。立原正秋は、その辺も考慮した上で、金額を口にしたのだつたらう。」(高井有一・著『立原正秋』より)

 どれだけあれば生きていけるか、金額をはっきり提示して、それで作家として基盤ができるまでの生活費にしろ、と申し出る。おまえは創設時の直木賞か。と、思わず立原さんにツッコミを入れたくなるところです。

 このとき、直木賞の賞金は20万円に上がっていました。最低限の暮らしを送るには月に5万円が要る、ということは直木賞の賞金は、このとき4か月分程度の生活費、というぐらいの水準だったわけです。まあ、少なくとも直木賞を賞金でもって見るような視点は、すでにこの頃にはなくなっています。

 いずれにしても、一年がんばれば、何とか小説を書くことで安定した職になる、と思われていたのも、経済成長期らしい発想です。いま、そんなことを言える人がどれだけいるか。小説業界は尻つぼみの産業です。一年程度おカネが与えられたところで、その後の収入が安定する未来は、ほとんど見通せません。

 その辺り、高井さんはさすがに見抜いていて、こんな一文も書いています。

「順風満帆の(引用者注:立原の)歩みの背景には、高度経済成長によつて繁栄する社会があつた。古典志向の強い彼は、戦後の社会に美的節度が失はれたのを嘆き、金銭と能率万能の風潮に嫌悪を示し続けたが、一方では、高度成長の余恵を蒙つて、金銭的にも時間的にも余裕を得た女性たちが、派手やかな作風の彼の小説の、最もよい読者となつた事実は争へない。」(高井有一・著『立原正秋』より)

 たしかにそうだろうな、と思います。

 経済成長のこの頃でなければ、売れようもなかった立原正秋。この人もまたおカネに縛られ、おカネの中に生きた受賞者でした。

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2023年2月 5日 (日)

月900円稼いだそばから、月1200~1300円使ってしまい、俺は貧乏だと言い続ける直木三十五。

 先週にひきつづき、また直木三十五さんのハナシです。

 直木賞には関係ないかもしれません。だけど、2月といったら何なのか。直木三十五&直木賞の月です。

 直木さんは2月に生まれて、2月に死んだ人ですし、これまで直木賞の「前年下半期」の回は、2月に選考したり、2月に授賞式をおこなってきました。なのでまあ、この時期に直木さんについて考えることは、すなわち直木賞を語ることにつながるのかな、と思います。……正直、こじつけです。

 それはそれとして、直木さんは「昭和前期に活躍した流行作家」と紹介されることがあります。その時代には流行していたのに、死んでしまったら誰も読まなくなった。という、過去何百人(?)もいる普通の物書きの一人ですけど、普通と違うのは、とにかく何でもあけすけに、べらべら、滔々とぶっちゃけたハナシを手当たり次第に書き殴った、ということです。当時の文人は、菊池寛さんもたいがいですが、あけすけに物を言う人たちばっかりだったとはいえ、直木さんの暴露ヘキもなかなかのものでした。

 おカネのこともさまざまに書いています。何を書いていくらもらった。何をいくらで買った。と、こまごましたハナシまで発表してしまう栓のゆるさ。そんなこと書いてどうするんだ、と思います。ただ、世の中の人はおカネのハナシが大好きです。さらけ出せば出すだけ、それだけ喜ぶ人もいた、ってことでしょう。捨て身の人間は、それだけで魅力的です。

 没後に出た『直木三十五随筆集』(昭和9年/1934年4月・中央公論社刊)に「生活の打明け」というエッセイがあります。昭和8年/1933年頃に書かれたもので、いわば直木さんが「流行作家」として絶頂を迎えた頃のものですが、そこで直木さんはわざわざ、自分の稼ぎというか収支状況を明かしています。

 定収入は、新聞・雑誌への連載で得る稿料です。

「この稿料であるが「夕刊大阪」は、一回原稿紙四枚で、金十圓、一枚二圓五十錢である。「國民」は、最初交渉しにきた時に、一回三十圓であつた。だが私は、成績のよくない會社から、三十圓をとつては悪い、と思つて、二十圓でいゝと辞退した。所が、最近三社が、自力更生といふ事をやるんで、又値下げした。即ち、両社で、三百圓と、四百五十圓と、計七百五十圓。「日本少年」一枚三圓「家の友」一篇百圓。九百圓足らずと見ていゝ。」(直木三十五「生活の打明け」より)

 一ト月の収入が900円というのは、なかなかのセレブな高額所得者です。おおよそ一般には月に100円もあれば、並の生活ができた時代で、切り詰めれば40~50円でも何とかなるだろう、というぐらい。

 なので、直木賞の最初の賞金が500円でも、けっこうな使い出のある金額だ、そうに違いない、と菊池さんや佐佐木茂索さんが主張したわけですね。

 もろもろと鑑みると、月収900円というのは、いまの感覚では200万円ぐらいに相当するんじゃないか、と思われます。物書きのなかでもけっこうな稼ぎ屋です。

 ただ、直木さんに言わせると、それだけ稼いだって、どんどん出ていってしまう。だからいまでも俺は貧乏なんだ、と言い張っています。支出のほうは一ト月だいたい1200~1300円。まあ、どう見ても浪費中の浪費です。

 直木さんは経営や経済に興味があり、俺だって本気を出せばすぐにカネ儲けができるんだ、と信じていたふしがあります。ふしがある、というか、実際そんな文章も残しています。しかし直木さんにとってのカネ儲けはあくまで刹那的です。その意味からして、ほとんど商売人には向いていません。

 もしも、直木さんがカネにシビアで、商売を後まで続けよう、という意思のある人だったら。と仮定で言っても意味はないですが、おそらく昭和9年/1934年には死ななかったでしょうし、菊池さんもわざわざ文学賞をつくって名前を残してやろう、とは思わなかったでしょう。

 いっときバーッと稼いでおきながら、けっきょくは後に財を残さなかったこと。菊池さんが、直木さんのために没後何かしてやろうという気になったのは、やはり直木さんがおカネを全部使っちゃったことにも、多少の理由はあったと思います。『文藝春秋』の昭和9年/1934年4月号を直木追悼号にして、売上の一部を直木さんのために使い、多磨霊園に記念碑をつくったのも、そのひとつ。そして、文春でおカネを負担して、直木の名を冠した文学賞をつくった、というわけです。

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2023年1月29日 (日)

自分でカネを出さない直木三十五、俺に10万円の療養費をくれる人はいないか、とホザく。

 令和5年/2023年2月25日の午後、埼玉県春日部市で「直木賞の歴史と作家三上於菟吉」という講演会をやります。春日部市民じゃなくても大丈夫。ご都合あえば、参加のほどぜひご検討ください。

 ……と、いきなりの宣伝ですみません。

 新しい直木賞も決まって、そわそわとするこの季節。直木さんの盟友にして直木賞にも縁が深い三上於菟吉さんをテーマに講演することになりました。

 人前で話すのは苦手です(文章書くのだって苦手ですけど)。以前、大多和伴彦さんとイベントをやって、ああ、ワタクシは人前に出ちゃいけない奴なんだな、とさんざん懲りました。ただ、春日部の郷土資料館の館長にはすごくお世話になっています。今回はゆきがかり上です。とりあえず、ここ最近、話す内容をせっせとかき集めています。

 そのため、頭のなかはもう、直木さん・三上さんが活躍していた時代のことでいっぱいです。昭和のはじめ、ないしは大正時代。ということで今回のブログは、直木賞のことというより直木さんのハナシを中心に書いてみたいと思います。

 ところで、直木三十五さんとはどんな作家だったでしょうか。簡単にいうと、カネ・カネ・カネ。おカネにまつわるエピソードが異常にたくさんある作家です。

 早稲田の学生だった頃には、授業料が払えなくなって中退した、という金欠バナシに始まって、デカい口を叩いては、人から大金を巻き上げて、どんどん使っちゃう経済観念のなさ。借金取りが家に押し寄せても、慌てず騒がず、払うカネなんてないよと傲然と暮らし、やがて物書きになって稼ぎが増えたら増えたで、所得額の査定が高すぎる、そんな税金払えるか、ぼけ、と税務署と大ゲンカする。

 とにかく貯金するという感覚が乏しく、入ったら入っただけ使ってしまいます。全集15巻に入っている「直木益々貧乏の事」などは、直木さんの病状が悪化して、死にむかって一直線の頃に書かれたものですが、稀代の流行作家といわれたその頃ですら、貯金は0円だったと言い、「直木さんを、今死なすのは惜しい、と云つて、療養費の十萬圓ももつて來てくれる人は、無いものだらうか?」などと書いています。どうしようもないタカリ体質です。

 そのタカリ屋気質について、恨みたらたら暴いてみせたのが鷲尾雨工さん、本名・鷲尾浩さんでした。かの有名な「人間直木の美醜」(『中央公論』昭和9年/1934年4月号)という文章がそれです。

 大正なかばに、神田豊穂さんと古館清太郎さんらが始めた「春秋社」と、鷲尾さんが始めた「冬夏社」。2つの出版社は、はなから姉妹会社の性格があり、株主も両社共通だったそうです。資本は、春秋社2万円に、冬夏社5万円。しかし両社の創設に関わった直木さん(植村宗一さん)は、どちらにも一銭も出していません。それなのに、やたらと優遇され、

「直木の月給は百五十円、だが家賃は要らず(女中一人の給金だけは直木が持ったと憶えている)、交際費はかなり充分とれたし、三四十円で美術雑誌の編輯をしていた時の思いをすれば、甚だ結構なわけなのを、集金に行って京都で芸者の馴染をこしらえたため、急に金が要るようになり、社からの前借りが、忽ち五百円か千円かに嵩んだ。そこで神田が顔をしかめ出した。」(鷲尾浩「人間直木の美醜」より)

 これがだいたい大正8年/1919年ごろです。それから15年ほど経って、直木さんが死んで直木賞ができるわけですが、そのときの賞金が500円。大正中期より昭和初期のほうが物価は上がっているので、同じ500円でも、同じ価値とは言えませんけど、ただ自分の快楽と欲望のために、人サマのおカネを500円、1000円と浪費した直木三十五。こういう人の名前のついた文学賞を受賞して、その賞金を後生大切に使うのは馬鹿バカしいです。

 直木さんには「濫費礼讃」なる、なかなか痛快な文章もあります。おカネが入ったら、くだらないことにどんどん使っちまえ、という。その伝でいけば、直木賞の賞金なんかパーッと使っちまうのが、この賞の伝統に見合ったやり方なんだと思います。

 さて、直木さんは本名・植村宗一時代に、何度も出版社をつくってはつぶしてきた人です。先に挙げた春秋社、冬夏社は言わずもがな。その冬夏社のおカネを勝手につぎ込んだと言われる雑誌『人間』発行元の人間社。そして三上於菟吉さんと共同経営した元泉社……。どれもおカネを出してくれた金づるは別の人で、直木さんはいつも使うだけの濫費ヤロウでした。ろくでもありません。

 亡くなったあとに直木賞なんてものができますが、これも植村家からは何のおカネも出ていません。ヒトサマのおカネで名前まで残してもらった直木三十五。自分じゃ一円も使わんぞ、の徹底した精神が、いまも直木賞のかたちとして続いています。

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2023年1月22日 (日)

直木賞を受賞すれば半年で収入が4000~5000万円になる、と胡桃沢耕史は言う。

 直木賞の賞金は100万円です。しかし、受賞者には賞金だけでは測れない、それ以上の価値が手に入る、とも言われています。

 外から見ていると、「賞金以外の価値」がどの程度のものなのか、よくわかりません。おカネ以上の恩恵があることは想像できますが、人によってバラつきがあるでしょうし、直木賞をとったら収入が下がっただの、全然食えないだの、そういうハナシすら文献には残っています。直木賞をとればこうなる! と何か絶対的なことを言えるわけではない。まあ、それが直木賞という文学賞の面白さでもあります。

 ……と、そんなことを言っていてもハナシが進まないので、無理やり後を続けます。受賞すると、どのくらい儲かるのか。

 『ダカーポ』平成18年/2006年7月19号「芥川賞・直木賞を徹底的に楽しむ」の特集に、石田衣良さんと町田康さんの対談が載っています。これは、いまは更新が止まっているサイト「いやしのつえ」の人が、当時けっこう長く文章を写していて、いまのところネットでも読むことができます。石田さんいわく、編集者によれば直木賞をとると生涯賃金が2、3億円上がるらしい、とのことです。

 いったいその編集者とは誰なのか。いや、編集者は何をどのように計算してそんな結論を出したのか。聞いてみたいところです。

 何といっても興味があるのは、たとえば具体的にどのあたりの受賞者を想定すると、2~3億アップになるのか、ということ。海老沢泰久さんなのか。高橋義夫さんなのか。はたまた、高村薫さん、伊集院静さんなのか。……

 どこに根拠があるかはわかりません。ただ、どれほど読者受けしそうにない地道な人でも、賞なんてとったっておれは変わらんぜ、とかたくなに寡作を通す人でも、最低でもそのぐらいは増える、ということなんでしょう。誰かひまな社会学者か経済学者の人が、直木賞受賞者の生涯賃金でも調べてくれないかな、と思います。

 それはともかく、受賞後にどれぐらい収入が上がったか、なかなか受賞者が自分で言うことはありませんが、以前にはそれを断行した人がいます。胡桃沢耕史さん。下品と下世話を煮詰めたような人です。

 ご高説をうかがってみます。

「直木賞受賞によってきのうまで年収百万円の人が一挙に四、五千万円になる。少なくとも半年間はそのぐらい稼げる。本当に力のある人は収入が一億円になる。まさに百倍である。それから二億、三億と進んでいく人と、六か月でだめになってしまう人に分かれるけれど、直木賞が国家公務員上級試験や司法試験に負けない力があることは確かだ。」(平成3年/1991年4月・廣済堂出版刊、胡桃沢耕史・著『翔んでる人生』所収「直木賞の取り方を教えます」より)

 半年で4000~5000万円。1年で1億円。たしかに受賞作が10万部近く売れ、既刊の文庫本にもぞくぞくと増刷がかかれば、そのぐらい(ないしはそれ以上)行く人もいそうです。

 胡桃沢さんの説を採れば、その後、上に行く人とだめになる人、二極化していく、ということになります。このあたりがどうも信用ならないところで、いやいや、「だめになる」状況にもグラデーションはあるでしょう、こつこつ、そこそこに書き続けて年収1000万円超をキープする作家もいれば、ほとんど新作を出せなくなる作家だっている。

 そして、こつこつ、そこそこに書きつづける人にしても、ほんとに直木賞をとったおかげでその道を歩めているのか、それとも作家の本来の力量ゆえなのか、切り離して計算するのは相当困難です。なので、胡桃沢さんの説を突き詰めても、生涯賃金2~3億アップ、というところには結びつかなそうです。

 人サマのフトコロ事情を、直木賞とからめて語るのはほんとに難しい。と同時に、なかなか空しいことだと、よくわかりました。

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