カテゴリー「直木賞にまつわるお金のこと」の25件の記事

2022年11月27日 (日)

昭和52年/1977年ごろの通り相場では、直木賞をとると翌月から原稿料が2倍にアップ。

 『作家の原稿料』(平成27年/2015年2月・八木書店刊)という本があります。

 元禄6年/1693年から昭和49年/1974年まで、だれのどの作品がどれくらいの原稿料だったか、多くの資料から抽出して並べた「年表篇」が圧巻の一冊です。編著者は「作家の原稿料刊行会」ということで、浅井清、市古夏生、竹内栄美子、菅聡子、谷口幸代、佐藤至子、藤本恵の各氏の名前が奥付に載っています。定価9000円+税もするこの本で、それぞれの編著者がいくら収入を得たのか。そういうことも書いてあったら、より面白かったと思いますが、そんなフザけた本じゃありません。すみません。

 原稿料は、直木賞にとっても重要な指標のひとつです。なにしろ直木賞っていうのは、おカネのためにやっています。受賞作が売れて印税が入るという以上に、やはり大きいのは受賞すればその作家の原稿料が上がることだ、と言われてきました。

 『直木賞事典』(昭和52年/1977年6月・至文堂刊)を見ると、読売新聞の有山大五さんがこう書いています。

「現代、ジャーナリズムをめぐって、エンタティナーたらんとして活躍をはじめている新進作家、およびその予備軍にとって、状況的にみて、直木賞がいかなる意味をもち、各種文学賞においてどのような「位置」にあるのかは、現代が、情報化社会の真っただ中にあることを承知したうえで「直木賞をとった作家は翌月から原稿料二倍、年収は十倍」が“通り相場”であることを知るならば、おのずと理解がゆきとどくのではないだろうか。」(『直木賞事典』所収 有山大五「文学賞における「直木賞」の位置」より)

 理解がゆきとどくそうです。

 これが書かれたのは、昭和52年/1977年1月に第76回で三好京三さんが受賞した直後。となると、有山さんのいう原稿料バクあがりの恩恵を受けたのは、第74回の佐木隆三さん、第72回の半村良さん、井出孫六さん、第71回の藤本義一さん、第69回の長部日出雄さん、藤沢周平さん、第67回の綱淵謙錠さん、井上ひさしさん……そのあたりの名前が挙げられます。たしかに直木賞のおかげで景気がよくなった印象のある人たちです。

 前述の『作家の原稿料』には、残念ながらこの時代についての記述はありません。はっきりと出てくるのは、おおよそ15年ぐらいさかのぼって昭和38年/1963年1月、第48回を受賞した山口瞳さんのことです。

 山口さんの受賞作「江分利満氏の優雅な生活」は、昭和36年/1961年から『婦人画報』に連載されました。原稿料は、400字詰め用紙1枚あたり3000円。1回につき30枚書いて9万円、源泉ひいて手取りは8万1000円。当時の直木賞の賞金は10万円ですから、それと大して変わりません。

 直木賞を受賞した直後、『オール讀物』のために受賞第一作として書いた「伝法水滸伝」は、ぐっと下がって1枚1000円。50数枚の作品で、手取りは5万円に満たなかったとあります。

 婦人雑誌の原稿料、どんだけ高かったんだよ。いや、読物小説誌、どんだけ安かったんだよ。と思うところですが、つづいて『作家の原稿料』の年表では、山口さんが直木賞をとったあとに注文が殺到、書いてもらおうとするメディアは、どうにかおカネで釣ろうとしますので、1枚7000円を提示するところまで現われた……と紹介されています。

 なるほど、1枚3000円だった読み物ライターが、7000円になったんですから、だいたい原稿料は2倍です。

 ただまあ、直木賞の威力すさまじいぜ、などと浮かれていたのも、けっきょく昭和30年代から昭和50年代、日本の経済成長が土台にあったからです。いまさらそんな逸話をみてもシラけるだけですね。

 いまの直木賞でも受賞しただけで原稿料が2倍になるのかどうか。そんなハナシをリアルタイムで明かしたがる作家や編集者は、おそらくいません。これは50年後の直木賞研究者に、そっくりお預けしたいと思います。

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2022年11月20日 (日)

平成16年/2004年、直木賞の事業は1年で3000万円ぐらいかかっていた。

 もうじきなくなるという八重洲ブックセンター本店で、こないだ面白いイベントがありました。免条剛さんと羽鳥好之さんが、それぞれ小説第一作目を発刊、それを記念したトークイベントです。

 免条剛さんといえば、本名、校條剛。元『小説新潮』の編集長を務め、『ザ・流行作家 笹沢左保 川上宗薫』(平成25年/2013年1月・講談社刊)、『作家という病』(平成27年/2015年7月・講談社/講談社現代新書)といった、直木賞の歴史をさぐるうえでも見逃せない文壇回顧ものを書いた人です。トークイベントでも、新潮社がいかに新人発掘で下手をこいてきたか、その澱んだ状況を打ち破るために、昭和63年/1988年、日本推理サスペンス大賞を新潮社側の担当として立ち上げたときの苦労バナシなどが語れていました。それはそれで面白いんですが、今週のブログは、そのことではありません。

 もうひとりの、遅れてきた新人作家、羽鳥好之さんのことです。

 昭和59年/1984年に文藝春秋に入社、長く文芸編集者の道を歩んできました。『オール讀物』の編集長になったのが平成16年/2004年。それから3年ほど、同職を務めます。『オール讀物』の編集長というのは、直木賞ファンにとっては代々おなじみの存在で、要するにそれは、この職にある人が直木賞の選考委員会の司会を務めるからなんですが、羽鳥さんも第131回(平成16年/2004年・上半期)から第136回(平成18年/2006年・下半期)まで司会の椅子に座っています。

 その最後の第136回とは、どんな回か。受賞作が出なかった回です。それ以来、第137回からこないだの第167回までえんえんと、直木賞では受賞者を出しつづけていますので、いまのところ「授賞なしを決断した最後の直木賞司会者」ということになります。

 トークイベントの本筋は、直木賞のことではなかったので、そこら辺の話題はあまり出ませんでしたけど、しかし司会をしていた頃のちょっとしたエピソードが出て、ワッとワタクシのテンションも上がりました。というのも、羽鳥さんは歴代の司会者のなかでも、かなり異質な特徴があるからです。

 第131回・奥田英朗『空中ブランコ』と熊谷達也『邂逅の森』、第132回・角田光代『対岸の彼女』、第133回・朱川湊人『花まんま』、第134回・東野圭吾『容疑者Xの献身』、第135回・三浦しをん『まほろ駅前多田便利軒』と森絵都『風に舞いあがるビニールシート』。……と、羽鳥さんが司会した直木賞ではすべて、文藝春秋の本が受賞しているのです。

 当時のことを羽鳥さんも「まわりからちょっとやりすぎじゃないかと言われたんですけど」とイベントで言っていました。司会は選考に加わりませんけど、最終的な決定をくだすまでの議論の流れは、司会に負うところ大です。文藝春秋の社員としては、そりゃあ、受賞作が自社のものになれば売り上げも見込めます。要は、文春の本が受賞するように司会の手練手管を効かせすぎたんじゃないか、とまわりからイジられた、というわけです。

 それについては、羽鳥さんもイベントの席で、釈明というか説明をしていましたが、編集者たちが作家と二人三脚でいい小説に仕上げていこうと努力するのは当たり前のこと、当時の文春の編集者たちがそれをした結果、直木賞にふさわしい作品が多く出てきただけのことだ、と文芸編集者としての矜持を語っていました。まあ、それはそうかもしれません。

 ハナシが逸れてきました。このブログでは、おカネのことに触れておかないと終われません。

 羽鳥さんが『オール讀物』編集長になった平成16年/2004年、日本文学振興会が直木賞の事業費としてかけたおカネはだいたい3000万円です。年二回の開催なので、1回あたりは単純に2で割ると1500万円といったところになります(「財団法人日本文学振興会 平成16年度収支計算書」より)。ちなみに、同振興会が文学賞の事業として行っているのは、ほかにアクタ何とか何だとか、直木賞を合わせて5つあり、そのすべての支出決算総額はおおよそ1年で1億2000万円ほどです。

 これがいまから18年ぐらい前。その後、出版業界は下向き路線に歯止めがかからず、とくに文芸は厳しい、文芸は売れない、と念仏のように唱えられてきました。

 振興会のサイトを見ると、ここ数年の文学賞事業は、年8000万円ぐらいでやりくりしているようです。ざっと計算すればおわかりのとおり、賞にかけるおカネが羽鳥編集長のころに比べるとだいたい3分の2に減ったことになります。ということは、直木賞にかけるおカネも、ぐっと縮小されたに違いありません。まったく、世知辛いです。

 司会した直木賞の選考会でぜんぶ自社本を受賞させてしまうぐらい敏腕だった羽鳥さんは、そこから役員クラスまで上り詰めますが、けっきょく社を去るときが来ます。そりゃ会社だって、いつまでも高給取りを抱えておく余裕はない。ということなんでしょう。もうお前は要らない、と言われた気がして退職後の人生を悩み、あれやこれやといろいろありながら、羽鳥さんがたどりついたのが、小説を書くことだった。……と先日のイベントでは語られていました。

 羽鳥さんぐらいの経歴なら、高橋一清さんとか豊田健次さんとか、それこそ校條剛さんのように、自分が見てきた作家と文壇についての回想録をいつか書いてもいいんじゃないか、と思います。しかし、いまのところ羽鳥さんにその気はなく、フィクションを書いていきたい、とのこと。この世知辛いを「作家」としてどのように歩いていくのか、注視しておきたいと思います。

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2022年11月13日 (日)

三好京三、直木賞の賞金を家の新築代金の一部に充てる。

 高橋一清さんが書いてきた直木賞の舞台裏バナシ。果たして『芥川賞 直木賞 秘話』(令和2年/2020年1月・青志社刊)で打ち止めなんでしょうか。

 高橋さんしか知らない、高橋さんしか公開しようとしない逸話は、まだまだあるんじゃないかと思います。聞き書きでもいいので、もう少し後世のために残しておいてほしいよなあ。売れないでしょうけど。

 ということで、文藝春秋の編集者として、日本文学振興会の事務方トップとして、のぼり調子な出版業界の波に乗り、多くの受賞と落選に立ち合ったのが高橋さんです。『芥川賞 直木賞 秘話』にも数々の作家のことが出てきます。おカネに関することも、ちょっと触れられています。

 賞金のことです。

 第1回(昭和10年/1935年・上半期)、受賞した川口松太郎さんに贈られた賞金は500円です。それを高橋さんは、今日の調べでは500万円相当だと見積もっています。

 これがなかなか問題です。さすがに500万円というのは高く見すぎなんじゃないか、と思うんですが、高橋さんの回想における直木賞の価値は、だいたい高く見積もられているので、こういうところに書かれる金額もまた、少しでも高めに設定してしまうのかもしれません。

 それはともかく同書には、賞金を受け取った作家のその後として、車谷長吉さんと三好京三さん、もうひとり芥川賞受賞者の3人のことが紹介されています。なるほど、車谷さんもおカネについては、いろいろと面白い逸話がありそうだな、と思いながら、とりあえず今日は三好さんのハナシを見てみます。

 三好さんが初めて東京の出版社(というか文藝春秋)に注目されたのが、昭和50年/1975年のこと。第41回文學界新人賞を「子育てごっこ」でとったときです。

 住んでいたのは、岩手県胆沢郡衣川村。衣川小学校の大森分校で教える学校の先生で、当時44歳です。別にそこまで裕福でもなく、貧乏でもない、ごく普通の田舎の先生でした。

 文學界新人賞の賞金は10万円です。これは今でいうと、だいたい20~30万円といったところでしょうか。昭和26年/1951年に同僚だった京子さんと結婚したとき、三好さんは新婚旅行もせず、結婚指輪も買わなかったので、その代わりということで賞金をまるまる京子さんに渡し、これで指輪でも買ってくれ、と言ったそうです。

 さて、新人賞を受賞してから単行本の『子育てごっこ』(昭和51年/1976年11月・文藝春秋刊)が出るまでのあいだに、三好さん夫妻は長年の分校生活から去ることなります。昭和52年/1977年1月に、直木賞を受賞。このときの賞金は30万円でした。

 直木賞を受賞して、三好さんの生活は急激に騒がしくなります。小説の注文もさることながら、雑誌インタビューやら講演やら、他の用事がどっと増えるのが、直木賞の特徴です。三好さんが教職をやめて独立、筆一本で立つことにしたのが昭和53年/1978年4月ですから、受賞からわずか1年ちょっとで決断したわけです。

 ちなみにそのころ、三好さんは胆沢郡前沢町に新築で家を建てています。ちょうど直木賞の騒ぎが盛り上がっている頃合い、単行本はばんばんと売れ、おおよそ1年で25万部超。1冊定価1100円の本が25万部なら、印税が1割として2750万円

 地元の人たちから「直木賞御殿」と呼ばれるほどの立派な家が建ったとのことです。あまりに過分に直木賞なんかとっちゃって、田舎の先生が浮き足立ち、やたらと虚勢を張って「売れてる作家、っぽく見えること」にカネを使い始めた……三好さんと直木賞の、ちょっとせつなくなる物語はそこから始まりました。

 ところで、受賞してまもなく建てた家のことなんですが、三好さん本人によると、こうです。

(引用者注:直木賞の賞金は何に使ったか、の問いに)受賞以前から家の新築にとりかかっていた 山の友人から木材を譲ってもらっているので、その代金の一部にあてた。」(昭和52年/1977年6月刊『直木賞事典』「受賞作家へのアンケート」より)

 新築したのは、別に直木賞に浮かれたからではなく、そのまえから計画していたのだ、と。岩手の前沢に「豪邸」を建てたといっても、まあかかった費用はたかが知れています。それが「御殿」呼ばわりされたのは、まわりの人たちが直木賞を異様に買いかぶり、受賞すればそのくらいの大金がガッポガッポ入ってくる、と思っていたせいなんでしょう。「直木賞あるある」です。

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2022年11月 6日 (日)

新喜楽の会場で、選考委員に現金100万円ずつを手渡した白石一文。

 先週は白石一郎さんのハナシでした。となると今週は、やっぱり白石一文さんということになります。

 父親・一郎さんが直木賞を受賞したのは第97回(昭和62年/1987年・上半期)。そのときが賞金50万円で、子・一文さんの第142回(平成21年/2009年・下半期)のときは、賞金が倍の100万円。どんな時代でもおカネは大事です。いずれも有効に使われたことでしょう。

 そういえば、白石一文さんと賞金、といえば山本周五郎賞のことが思い出されます。ちょっと直木賞から脱線します、すみません。

 平成24年/2012年5月の第25回。白石さんは山周賞の選考委員になりました。任期は一期4年で、ほかのメンツは、みんな二期8年を務め上げたのに、白石さんは5年やったところで途中で委員を下りてしまいます。

 なので『小説新潮』に載った選評は5回分しかありません。だけど、白石さんの選評は、さすがかつては文藝春秋で、直木賞の運営をやっていただけのことはあるな、という筆さばき。文学賞オタクの心にぐさぐさと突き刺さる書きっぷりで、まあ、そういう選評が本にまとまることはないんでしょうが、『白石一文選評集』として一冊になってほしいものだと思います。読んだところで、文学賞の大好きなゲス人間でないとあまり面白くないかも、ですけど。

 いや、賞金のハナシでした。白石さんが初めて選考に携わった第25回は、原田マハさん『楽園のカンヴァス』が受賞した年です。このとき、いったん選考会では、辻村深月さんの『オーダーメイド殺人クラブ』と合わせて二作授賞という結論を出した、と白石さんが暴露しています。

 一作受賞と二作受賞、何が違うのか。いちばんの違いは、主催者がフトコロを痛める総額です。

 賞によっては、規定の賞金を分割して折半にすることもありますけど、それは正直ケチくさい。直木賞や山周賞、吉川新人賞など、出版社がバックに付いている賞は、世間体もありますので、およそ一人ずつに既定の賞金を渡すのが主流です。

 山周賞にしたって昭和63年/1988年5月に決まった第1回以来、二人授賞がなかったわけではありません。そのたびに、賞金は100万円100万円と、新潮文芸振興会の持ち出しが増えました。ところが、第23回の貫井徳郎さん・道尾秀介さんの同時受賞からこっち、山周賞はここ10数年、二作授賞がぱったりとなくなります。

 それは選考委員が賞を贈りたい作品が減った……のではなくて、主催者がおカネを出したがらなくなったからだ、というのが白石さんの選評からうかがえるのです。

 うかがえるんでしょうか。白石さんの選評に「カネを出したくないからだ」とは書かれていません。当時の新潮文芸振興会理事長、佐藤隆信さんの決断は不明ですけど、しかし一度、二作と決まったものを一作にしろと言う。ふつうに考えて、ケチだなと思います。あるいは、出版社もよほどカツカツなんだな、と同情します。

 文学賞は、出版社の宣伝活動の一部です。いわばおカネをかけ、おカネを生み出すビジネスの一貫だということを、元・文春の編集者、白石さんはもちろんよくわかっていて、その一端をわれわれ外野の人間にも伝わるように、わざわざそういう楽屋話めいたものを選評に残してくれたのでしょう。おそらくは。

 白石さんが直木賞の裏方だったときのことは、自伝的小説と謳われた『君がいないと小説は書けない』(令和2年/2020年1月・新潮社刊)にも出てきます。多くは名前や作品を変え、事実と異なることもあるんでしょうけど、たとえば宮城谷昌光さんが『天空の舟』で文壇に衝撃を与えて、直木賞の候補にまで選ばれる舞台裏や、海越出版社の天野作市さんとの交流なども、素材になっています。

 そのなかに、作中では「N賞」と書かれた直木賞にまつわるおカネについて、こんな記述があります。

「現在はどうなっているのか知らないが、私が在社中はA賞とN賞の選考料は選考会場(築地の料亭だった)でそれぞれの委員に現金手渡しだった。

担当だった頃、この選考料(一回百万円)を両賞計二十人の委員に渡して領収証にサインを貰うのが私の役目だったが、興味深かったのはA賞とN賞とでは各委員の選考料の受け取り方に大きな違いがあったことだ。

ベストセラー作家がずらりと名を連ねたN賞の委員たちは百万円の現金を手渡しても、

「はいはい」

と実にあっさりしたものだった。」(『君がいないと小説は書けない』より)

 A賞の委員がどんな反応だったのかは、同作を読んでもらえればと思います。白石さんが裏方をしていた平成のはじめ頃、新喜楽には毎回、100万円×20人分、計2000万円の現金が積まれていたんですね。

 文学賞っていうのは、カネのかかる事業だよなあ、と白石さんも実感したのか、しなかったのか、それはわかりません。ただ、キレイごとばかりじゃ文学賞はできない。それを身に染みて知っているのが、白石一文という作家でしょう。直木賞オタクを喜ばせるような今後の(ゲスな)活躍に、期待したいです。

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2022年10月30日 (日)

筆一本の白石一郎と滝口康彦、貯金100万円の生活を夢に見る。

 年をとると、どんどん記憶が抜けていきます。昔は、どの雑誌のどこに直木賞のことが書かれていたか、ワタクシも必死に覚えようとしていましたが、もはや完全に耄碌してしまい、いまとなっては水の泡。直木賞を趣味にするというのは、ほんと、むなしさの極致ですね。

 というハナシはさておいて、こないだ『オール讀物』のバックナンバーをめくっていたら、こんな記事にぶつかりました。平成2年/1990年9月号、第103回直木賞に泡坂妻夫さんが決まったときの発表号ですけど、往年の受賞者が直木賞に関するエッセイを寄せています。白石一郎さん「小説の恩」、深田祐介さん「誰にも青春があった〈番外篇〉「息のながーい挑戦のナミダ」」の2つです。

 深田さんのことは措いておきます。今日の主役は白石さんです。

 エッセイの内容をかいつまむと、以前、横浜そごう百貨店で古書展が開かれた、そのとき「白石一郎」と署名された「直木賞との長いつきあい」と題する生原稿5枚が6万円で売りに出た、目録に載った写真を見たところ、自分が書いた覚えがない、きっとニセ物だと確信して主催者に連絡したが、送られてきた全文コピーをみると、どうやら自分の原稿のようだ。いったい、どこに発表されたものなのか、まるで記録がない。……というような、自筆原稿との出会いが書かれています。

 本文中、古書展に出されていた原稿の内容が転載されています。そこから「島原大変」が第87回(昭和57年/1982年・上半期)の候補になった翌年に書かれたものだとわかりますが、白石さんいわく、5枚で6万円の値がつくなんて馬鹿ばかしい、そのときの原稿料はおよそ3分の1ぐらいだった、とのこと。

 要は、6万÷5÷3……。昭和58年/1983年、直木賞候補6度の白石さんの原稿料の相場は、400字詰用紙1枚あたり4000円ぐらいだったらしいです。

 白石さんといえば、おれにゃサラリーマン生活は無理だと若いうちに覚って、本気で作家を志望。昭和32年/1957年、講談倶楽部賞を受賞したのが25歳のときで、それ以来、ずっと筆一本で生計を立ててきた人です。

 昭和30年代から経済成長期、直木賞なんかとらなくても物書きだけで食っていたわけですが、直木賞をとったあとのエッセイや対談を読むと、かなり厳しい収入状況だったことが回顧されています。

 たとえば、古川薫さんが受賞したときに『オール讀物』に載った「おめでとう対談 直木賞受賞の瞬間」(平成3年/1991年3月号)です。

 古川さんにとって長年の心の支えは、福岡に白石さん、佐賀に滝口康彦さん、筆一本でどうにか生活できている人が二人もいる、ということだった、と出ています。それを受けて、白石さん(と滝口さん)の、貧乏作家バナシが始まるのです。

白石 ただね、滝口さんが元気なころ、「白石さん、疲れたあ……」としょっちゅういってましたね。滝口さんは僕らに比べたらはるかに、華やかな花がいっぱい開いた人ですよ。書いた作品が映画になり、舞台になり……。それでもやっぱりくたびれるというのは、わかるね。

(引用者中略)

打ち明けた話をすると、おたがいせめて貯金を百万円ぐらい、いつか持ちたいなといっていたよ、あなた(笑)。」(「おめでとう対談 直木賞受賞の瞬間」より)

 100万円を貯金するのが夢だった、という。昭和中期の職業作家も、なかなか必死で生きていたんだなと思います。

 このあとに古川さんも、当時の収入状態を振り返っています。山口新聞を辞めたのが昭和45年/1970年。原稿注文がたくさんあったわけでもなく、本を出すのも年に一、二冊。それでも年収は250万円ぐらいあった、と言います。

 その主な収入源は、ひとつは講演。もうひとつは、あまりに些細な雑文をいろいろな媒体に書くこと。古川さんは「作品目録にも載らないような雑文」と表現しています。直木賞をとってしまえば別でしょうが、定職をもたず、「筆一本」で生活する人たちにとって、この雑文というやつが、どれほど大事な命綱だったか。しみじみと心に染み入ります。

 最初に挙げた白石さんの、どこに発表したかわからない自筆原稿も、おそらくそういう雑文の一つだったわけです。一枚あたり4000円の微々たるお仕事。けっこう馬鹿にしたもんでもありません(って、だれも馬鹿にはしていないか)。

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2022年10月23日 (日)

借金2億円を返済するために小説を書こうと決意した、と語った山本一力。

 直木賞とおカネ、といって、このテーマにテッパンな受賞者が何人かいます。

 まえに取り上げた佐藤愛子さんもそうですが、やはり直木賞には借金がよく似合う。まあ、なんつったって直木三十五さんの賞ですからね。そりゃそうです。

 ということで21世紀に入ってすぐ、第126回(平成13年/2001年・下半期)に山本一力さんが受賞しましたが、直木賞=おカネ=借金、の系譜ここにありをはっきり示してくれる大きな出来事でした。

 小さいころから人に愛され、人を愛するアクティブなお人柄。日本の経済社会が上を上をと目指して活気づく、そんな時代に成長し、社会に出ます。

 あくせく働き、生活の安定と向上のために必死でおカネを稼ぐ。と同時に、経済至上の風潮に虚しさを感じて、豊かなこころを持ちたいと願う。……というのは、だいたいお決まりの展開ですが、山本さんも例にもれず、おカネの世界と、それだけでは図れない世界、それぞれに関心を抱いて年齢を重ねます。

 山本さんが数多く残しているエッセイやインタビュー等によれば、借金まみれ(?)へのきっかけが訪れたのは、平成2年/1990年。42歳のときです。逆にいうと、それまでの山本さんは、二度の結婚、二度の離婚、女性に対して誠実さを欠いたことはあっても、金銭のことで大きな穴が開いたわけではありません。貧乏ではあったでしょうが、そこそこ普通の経済生活を送っていたらしいです。

 それが平成2年/1990年、雑誌の企画で自転車を特集することになり、その制作を請け負っていた山本さんが、だれかビジュアルのモデルになる人はいないかと思っていたところ、たまたま街で見かけたのが、三度目の妻になる英利子さん。どうにか実家・親戚の反対を押し切って、平成3年/1991年に結婚にこぎつけますが、そこでぶちあたったのが、英利子さんの実家で起こっていた相続争いです。

 実家は東京・銀座にあった五十坪の酒屋です。英利子さんの父親がそこの店主でしたが、他界したことで親戚間に相続問題が勃発。英利子さん家族は17億円を、亡父の姉妹たちに支払わなければならなくなります。

 17億円。もうこの金額が、とてつもありません。

 とんでもない巨額をノンバンクから借り入れざるを得なくなったのは、何も山本さんに才覚がなかったからではなく、むろん新妻の実家のせいでもないんですが、これが山本さんが最終的に抱えた2億円の借金の発端でした。

 平成4年/1992年、山本さんは「ほりはたビデオツインズ」という会社をつくって、ビデオを制作・販売することになります。しかし、わずか2年ほどで商売が失敗。会社設立と継続のために借りたおカネが、おおよそ2億円。サラリーマンの生活に戻りますが、とてもその給料では賄えない。どうやって返したらいいのか。よし、小説を書いてベストセラーを叩き出し、返済に当てよう! ……という思いに至って、根をつめること2か月ほど。完成したのが、第1回小説新潮新人賞(第2回以降「小説新潮長編新人賞」と改称)の最終候補にまで残った「大川わたり」です。それから2年後には、第77回オール讀物新人賞を受賞します。平成9年/1997年のことです。

「しかし家計はこの3年(引用者注:平成11年/1999年から直木賞受賞まで)、いつも火の車だった。マンションの家賃は滞りがち、社会保険料も払えない。何度もサラ金の世話になった。この間、シングルで働く妹は「側面から力になることが私の仕事だ」と数百万円もの援助をしている。英利子も一時はパートに出た。しかし「中途半端な金を稼ぐより、家の中の大事なことをしてほしい」という山本に応えた。買い物上手で値切り上手の彼女は、1日千円の予算で夫と子どもたちに手作りの料理を腹いっぱいに食べさせる。」(『AERA』平成14年/2002年7月15日号「現代の肖像 小説家・山本一力 下町を走る少年」より―執筆:沢部ひとみ)

 涙ぐましい夢みる極貧生活。日本の社会もバブルがはじけて、借金を抱える人が特別ではなくなった時代です。

 小説を書き始めたのが46歳から。その動機が、仕事でつくった借金を返すため。ということで、直木賞をとってから山本さんは一躍、「下降ぎみの日本人に勇気を与える」存在として多くのメディアに取り上げられましたが、そういうハナシを、10年ぐらい前にうちのブログでも書きました。やはりおカネのことは、世間の耳目を集める強烈なインパクトがあるんですね。

 それでも、佐藤愛子さんしかり山本一力さんしかり、直木三十五さんの借金と明らかに違うのは、自分自身の自堕落な欲望でふくれ上がったものではなく、主に連れ合い・家族のためにできた負債、ということでしょう。そこで一発逆転、直木賞を受賞してプラスに転じるから、両者の受賞は美しいわけです。

 直木賞の賞金は100万円。山本さんが具体的に何に使ったかはわかりませんが、受賞直後、記念として家族で囲める鉄板つきのテーブルを買ったそうです。

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2022年10月16日 (日)

直木賞を受賞しても収入が増えない榛葉英治、「金がほしい」と日記に書く。

 『職業作家の生活と出版環境 日記資料から研究方法を拓く』(令和4年/2022年6月・文学通信刊)という本があります。今年出たばかりです。

 編者の和田敦彦さんはじめ、参加している須山智裕、加藤優、田中祐介、中野綾子、河内聡子、大岡響子、宮路大朗、康潤伊といった諸氏が、どんな思いをもち、何を明らかにしようとしたのか。それはもう、高尚ですばらしい文学研究に対する野心が渦巻いているのでしょう。

 ワタクシはハグレ直木賞厨なので、そういう研究的なことはさっぱりわかりません。わからないんですけど、アノ榛葉英治さんの日記が、かなり詳しく紹介されている。何なら、原文の一部まで読めてしまう。それだけで、直木賞大好きゴコロが揺さぶられます。

 「アノ」と言ったのは他でもありません。直木賞受賞者のなかでも、つまらない作品で受賞したことではトップクラス、海音寺潮五郎さんや『下界』のお仲間たちがいなければ、まず受賞しなかっただろう榛葉さん。『八十年 現身の記』(平成5年/1993年10月・新潮社刊)という「ぶっちゃけトーク」な回顧録を残して、その売れない作家人生に華を添えた、半世紀以上まえの直木賞受賞者です。

 その榛葉さんの日記の内容が、またえげつなくて、たまりません。嫉妬と怨念に彩られ、昭和24年/1949年、戦後復活第一回の芥川賞で「蔵王」が候補にも挙げられなかった、だけどあんなに評判がよかった作品なのだから絶対とれたはずだ、とそんなハナシを、えんえんと死ぬまで言いつづけます。戦後の作家人生のなかで、数々の人と接触、語り合いますが、そのときに自分を馬鹿にした連中のことを、終生忘れず、「第2部 データ編―日記資料から何がわかるか」の「文壇グループの動態――人脈の記録」などは、もうワタクシみたいな意地きたないゴシップ好き人間には、よだれだらだらの記述が満載です。

 と、いい年こいてよだれを垂れ流している場合じゃありません。ハナシはおカネのことです。

 本書のひとつの長所は、榛葉さんがいつ、どのくらい、どうやって稼いでいたのか、詳細に書いてあること。作家にとってのおカネが重要視されているところです。

 直木賞の受賞者のなかには、原稿注文が跡を絶たず、ベストセラーを連発、儲けたお金で豪邸を建て、ウッハウッハのセレブな暮らしをした人もいます。ただ、そんな人ばかりでもなく、いつしか雑誌から名が消え、本もほとんど出ず、貧乏なまま一生を終えた受賞者もいます。

 後者もまた、直木賞の歴史が持つ現実の一つです。直木賞なんてとっても、まったく売れない。たとえば河内仙介さん、千葉治平さん、笹倉明さんなど、ワタクシはどうしても、そういう人のほうに興味が沸くんですけど、なかでも榛葉さんは、その卑屈でルサンチマンな回顧とあいまって、思わず引き込まれます。

 同書の「作家の経済活動――金銭収支の記録」には、昭和21年/1946年から平成10年/1998年までの約40年の日記から、収支に関する記述が抜粋されています。

 榛葉さんが直木賞を受賞したのが昭和33年/1958年、45歳。その前後の榛葉さんは、まったくカツカツの生活で、田村泰次郎さんに3000円を借り、丹羽文雄さんに20000円を借り、『小説公園』から3000円を前借りし、荒木太郎さんに3000円を借り……、というふうに原稿料の収入だけでは、まるで生活ができていません。

 税金滞納で、税務署からはもうそろそろ家を公売にするぞ、と脅される始末。「なぜ、こう自分は不幸なのか。根本は、やはり書けないこの自分にあるのだ。あるいは、書いた作品の悪さ、つまりは自分の才能にあるのか。」(昭和32年/1957年5月11日の項)などと書いています。20歳、30歳の青年がいうならまだしも、40歳こえたオッサンが、こういうことを日記に記さなければならない悲哀。ジュンと胸がいたいです。

 第39回直木賞を受賞したのは、完全に生活が立ち行かなくなったそんな時期でした。賞金10万円は、『直木賞事典』(昭和52年/1977年6月・至文堂刊)によると生活費に使ったそうです。そりゃそうです。受賞記念パーティーとかで浪費できわけがありません。

 しかも榛葉さんはすごいことに、直木賞をとってもまるで収入が好転しなかった様子。昭和36年/1961年には「金がほしい。(引用者中略)仕事の注文はない。」と書いていますし、昭和37年/1962年「今は最悪のどん底である。熱海君に借りた一万五千で食っている。」とあります。直木賞とって、最悪のどん底って。これが直木賞という文学賞の面白いところです。

 この日記の解説で、田中祐介さんは、こんなふうにまとめています。

「『赤い雪』(一九五八年)による直木賞の受賞後も経済的な苦境は続き、無収入への不安や、不安が解消された一時的な安堵は最晩年まで綴られる。(引用者中略)榛葉英治の日記は、一面では経済的安定を最後まで得なかった直木賞受賞作家の生活の実態を示す。しかし他面では、作家として稼ぐことにこだわり続けた人間の執念の記録でもある。」(『職業作家の生活と出版環境』「作家の経済活動――金銭収支の記録」より―筆者:田中祐介)

 「執念の記録」とは、ものは言いよう……という感じはしますが、これをめんめんと記録してきた榛葉さんの行為には、頭が下がります。いま、直木賞をとっても生活が苦しい受賞者がいたら(そんな人、いるかな)、没後に公開されることを前提に、ぜひ日記は残しておいてほしいです。未来の直木賞オタクを、喜ばせてあげてください。

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2022年10月 9日 (日)

直木賞をとる直前、翻訳で年間1500万円超、その他を含めて年収3000万円を稼いでいた常盤新平。

 日本が高度経済成長の大波に乗ったとき。直木賞も急に大きな顔をしはじめます。

 直木賞にかぎりません。出版全体が上げ潮です。あらゆる分野の出版がどどーっと成長して、一気におカネまみれになりました。そのなかに翻訳出版も含まれます。

 いや、ほんとうに含まれるのかどうか。テキトーに言っているだけなので、テキトーに読み流してください。

 常盤新平さんは、戦後の復興が進む昭和25年/1950年に、早稲田入学のために東北から上京してきた人ですが、みずからの人生(とくに翻訳人生)と経済成長の時期がちょうど重なっています。昭和30年前後、大学から大学院に進むころには、中田耕治さんから下訳の仕事をポロポロもらって、翻訳=おカネの業界に足を踏み入れると、昭和34年/1959年に早川書房に入って、昭和44年/1969年に退社。その後も翻訳家としての仕事を長くつづけますが、趣味としてやっていたのではなく(当たり前か)、仕事の対価としておカネをもらうプロの翻訳家でした。

 その後に小説を書き始めて、昭和62年/1987年1月に第96回直木賞(昭和61年/1986年・下半期)を受賞。対象となった『遠いアメリカ』も内容からして、常盤さんの翻訳人生なくしては生まれることのなかった小説です。ということで、常盤さんと直木賞、というハナシになれば、昭和20年代から昭和30年代以降、元気におカネにまみれていた時代のハナシは欠かせません。

 それで、また今週も『週刊文春』の語りおろし連載「行くカネ来るカネ 私の体を通り過ぎたおカネ」を参照させてもらいます。

 常盤さんが『遠いアメリカ』を刊行したのはバブルまっただ中で、この連載も好評裡に続行中。まだ第96回直木賞の選考が行われる前、昭和61年/1986年の年末に、常盤さんのインタビュー記事が載りました。とらせたい(というか、とってもおかしくない)という文春の人たちの気合が、ぷんぷん匂ってきます。

 それによると、はじめて翻訳の下訳をやったのが、大学4年生のとき。昭和28年/1953年のことです。ミッキー・スピレイン『裁くのは俺だ』の最初の部分、そこの下訳を100枚ばかり担当して、もらったおカネは5000円。いまなら小遣い程度の額面ですけど、当時の5000円といったらけっこうなもので、大卒初任給の半分ぐらいに当たった、ということです。

 昭和34年/1959年に早川入社のときの、常盤さんの初任給は1万3500円。直木賞のほうはまだ賞金が10万円だった時代です。先週とりあげた出久根達郎さんも、奇しくも同じ時期にはじめての給料をもらっていますが、そちらは住み込みで3000円の月給だったといいますから、常盤さんはエリートもエリート、といったところでしょう。

 出版業界でも、このころには「推理小説ブーム」ってやつが定着しはじめ、直木賞ですら多岐川恭さんだの戸板康二さんだの黒岩重吾さんだのにぞくぞくと受賞させはじめます。そちらの方面に熱を入れていた早川書房は、内情はケチだの何だのと言われたりしますが、それはそれ、とりあえず常盤さんは人並みぐらいの給料はもらっていたようです。

 そこから、翻訳だけじゃなく自分でも文章が書けることにめざめ、社外のお仕事もどんどんやるようになって、ついにはそちらのほうが収入面で上回るように。昭和44年/1969年に退社して、翻訳家・文筆家として一本立ちします。

 この記事の書かれた昭和61年/1986年の前の年の、常盤さんの収入が、おおよそですが紹介されているので引いておきましょう。年収は約3000万円。けっこうな稼ぎです。翻訳での収入はそのうち半分ぐらいで、残りは雑文・エッセイ、小説の原稿料や、講演、翻訳学校講師料とのこと。年齢は55歳、まあ、これだけおカネを稼げていたのなら、成功者と言っていいんじゃないでしょうか。

 常盤さんいわく、

「正直いいますと、翻訳をやってたほうが儲かるんじゃないかと思います。本当は、雑文も書かないで、翻訳に専念したほうが経済的にはいいんじゃないかと思いますけど、昔、人の悪い、ある老編集者に、「翻訳ばっかりやってると、バカになるよ」なんていわれた。ですから、結局、小説まで行き着いてしまったわけです。」(『週刊文春』昭和61年/1986年12月25日号「行くカネ来るカネ 私の体を通り過ぎたおカネ 小説を書くのは心細いし、儲からないが、翻訳ばかりじゃ馬鹿になると言われて」より ―取材・構成:小林靖彦)

 仕事はカネのためにするわけじゃない、ということでしょうか。翻訳だけやっていれば、また別の(金銭的な)成功もあったでしょうが、たいしてカネにならない小説のほうにシフトした……。常盤さんらしい選択だと思います。

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2022年10月 2日 (日)

出久根達郎の古書店「芳雅堂」、平成5年/1993年初日の売上はゼロ円。

 直木賞にまつわる本は、いろいろあります。

 最もわかりやすいのが「受賞本」です。受賞対象そのもの、もしくは受賞作が雑誌発表だった場合にそれが最初に収録された書籍のことを指します。

 「受賞第一作」というカテゴリーもあります。これはこれで、価値があるように見せかけて特別な意味は何もありません。他にオビに書くような宣伝文句がないので、とりあえず「直木賞」という言葉を使って派手ハデしく見せようとした、出版社の人たちの涙ぐましい商売精神が宿っている本のことを言います。「直木賞受賞第一作」だけを蒐集しているコレクターっているんでしょうか。まあ、世のなか広いですからね。どこかにいるかもしれません。

 あるいは、「受賞エッセイの本」ともいうグループがあります。昭和も半ば以降になってからでないと存在しない本です。直木賞に選ばれた人がいる。その直後に『オール讀物』に受賞記念エッセイを書く。それが収められて発売された、受賞者による随筆集・エッセイが、過去にはいろいろとありました。受賞当時の、その作家と直木賞の距離感が、本全体からうかがえるので、ワタクシは大好きです。

 第108回(平成4年/1992年・下半期)に受賞した出久根達郎さんの「受賞エッセイの本」は、『思い出そっくり』(平成6年/1994年3月・文藝春秋刊)です。巻頭に受賞記念エッセイ「親父たち」(初出『オール讀物』平成5年/1993年3月号)と「受賞のことば」が入っています。

 どうしてここで出久根さんのハナシになるのか。というと、なにしろ出久根さんは、れっきとした商売人。直木賞を受賞した当時も古書店主でした。そのためか、エッセイの多くに、次から次へとおカネの話題が出てくるわけです。楽しいですよね、おカネのハナシ。

 出久根さんが地元の茨城から上京して古書店に勤めはじめたのは昭和34年/1959年。直木賞でいうと第41回、渡辺喜恵子さんと平岩弓枝さん、第42回、戸板康二さんと司馬遼太郎さんが受賞した頃です。直木賞の賞金は10万円。大学卒の初任給の平均が1万円、出久根さんの最初の月給は、住み込みで3000円だったそうです。

 出久根さんの本ですから、出てくる金額は、古書値のことが多いんですけど、そのなかでも『思い出そっくり』の白眉は、何といっても「売上ゼロ」(初出『新潮45』平成5年/1993年2月号)でしょう。

 最近出た向井透史さんの『早稲田古本劇場』(令和4年/2022年8月・本の雑誌社刊)を読んでも思うんですが、一冊二冊、どかーんと高い本が売れることもあるけど、基本、古本屋は単価が安い。しかも、だれひとり客のこない、ないしは一冊も売れない日なんていうのがざらにある。とうてい続かずにつぶれていく店があるいっぽうで、「古書」というものに耽美な感覚をもつ人間が、昔からいままで一定数いるのは変わらないらしく、そのなかから暮らしと文化が生まれ、じっとりと社会にしみこんでいく。……と、そういうなかから出久根さんみたいな稀有な受賞者が出てきたわけですし、古書業界のおかげで直木賞が支えられてきた部分は、けっして小さくないと思います。

 それでエッセイ「売上ゼロ」なんですが、これは出久根さんが独立して古書店「芳雅堂」を開業した昭和48年/1973年の頃から、直木賞を受賞することになる平成5年/1993年まで、年明け一発目の開店日について、業務日誌に書かれた文章を紹介しながら、そのときどきの思い出を綴っていくという内容です。

 はじめて迎えた正月、昭和49年/1974年には、店を開けたのが1月4日で、1日で客2人・売上1500円。5日は0円、6日は2000円。およそ50年まえの、生の古本屋の売上記録が出てきます。

 それが昭和53年/1978年には初日の売上2000円、昭和54年/1979年は4000円、昭和61年/1986年300円、昭和62年/1987年0円、平成3年/1991年200円(他に店内で100円を拾う)……

 何年たっても、何十年たっても一向に変わらないこの感じ。ああ、耽美といえば耽美です。

 そして最後は、このエッセイが書かれた平成5年/1993年1月、この年は他とは違って元日に店を開けたらしいんですが、

「むろん日記のような情けない稼ぎが、一年中続くわけではない。正月の四日だから、特別だともいえる。(引用者中略)今年もなんとか命をながらえることができるかどうか、それは日記で見る通り、年頭の口あけで決まるのである。美人の高校生の年は、よいことが連続したのである。売上げゼロの年は、やはり衰運であった。

今年は? 冗談じゃない。いつのまにか、もう午後も六時すぎではないか。往来には人通りもなければ、車も走っていない。」(『思い出そっくり』所収「売上ゼロ」より)

 要するに売上0円。今年も苦しい商売になりそうだ、と匂わせているわけです。

 けっきょくその直後に、出久根さんは直木賞を受賞。なんだかんだと忙しさが押し寄せ、しばらく「芳雅堂」を休店せざるを得なくなりました。

 それを「衰運」と言っていいのかどうなのか。見方はそれぞれ違うでしょうけど、「古本屋を長くつづけること」が成功ととらえれば、直木賞の受賞はとてつもなく邪魔くそな凶事でしかなく、大きなマイナスです。年頭初日の売上でその年の営業を占うという意味では、この年も当たった、ということなんでしょう。

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2022年9月25日 (日)

オール讀物新人賞の賞金20万円、その半分を使って百科事典を買った佐々木譲。

 小説業界にも景気がいい時代、なんてものがありました。しかし、そんなに長く続いたわけじゃありません。

 いや、小説業界にかぎったことじゃないですよね。日本の経済社会が上向いた時代には、そのぶんだけ商業出版も儲かった。それだけのハナシです。

 いずれにしても、稼げる作家は全体のひと握りしかいない、という状況も昔からそう変わりません。明治の頃に文筆をなりわいにする人が出てきてから(ひょっとして江戸時代の頃からでしょうか)、売れっ子と呼ばれる物書きは一部にすぎず、あとの大多数はピーピー言っている。その「ピーピー言っている」人の割合が、ちょっとだけ減ったのが、日本の高度経済成長から平成に入る頃までのことでした。いま振り返れば、ほんの30年ほどしかなかった栄華です。

 30年というのはつまり、佐々木譲さんが作家デビューしてから直木賞をとるまでの時間と、だいたい同じくらいですね。

 ……と、強引に結びつけました。すみません。

 佐々木さんが受賞したのが第142回(平成21年/2009年・下半期)のこと。つい最近のハナシのようですが、10年数年まえの出来事です。

 それより前に、佐々木さんが確実に文学賞づいた時期がありました。バブル経済が終わりかけた1990年前後です。第100回(昭和63年/1988年・下半期)の直木賞で候補になり、日本推理作家協会をとり、第3回山本周五郎賞にえらばれたというアノ辺りの時期。もし直木賞が真に価値ある賞だったなら、そのころに佐々木さんに与えていたことでしょう。

 しかし残念ながら、そのときは思いっきり上げそこねてしまいます。直木賞、ああ、しょせんは直木賞です。

 で、山周賞をとった直後の平成2年/1990年6月、佐々木さんは『週刊文春』の「行くカネ来るカネ 私の体に通り過ぎたおカネ」に登場しました。『ベルリン飛行指令』で直木賞の候補になったときは、胃が痛むほどに緊張したが、『エトロフ発緊急電』で山周賞の候補になったときは、どうせ自分はとれっこないとまったく期待もしていなかった……みたいな文学賞のわくわく話につづいて、お金にまつわるインタビューに答えています。

 佐々木さんがデビューしたのは昭和54年/1979年。直木賞では田中小実昌さんと阿刀田高さんが受賞したり、あるいは中山千夏・阿久悠・つかこうへいの「芸能三羽烏」が候補になってマスコミ陣が沸いたころのことです。佐々木さんが応募して受賞したオール讀物新人賞は、当時、賞金が20万円で、本田技研のサラリーマンだった佐々木さんには、ちょっとした臨時収入でした。賞金の使い道は、定価20万円ぐらいした平凡社の大百科事典、全33巻を、定価10万円ぐらいに負けてもらって買った、ということです。

 処女作の『鉄騎兵、翔んだ』は単行本になって、初版はだいたい8000部。印税はおおよそ70万円ぐらいでしたが、合わせて映画化もされ、その原作料として70万円をもらったそうです。

 夢がある業界だと思うか、大したことないなと感じるか。金銭感覚は人それぞれでしょうけど、佐々木さんは別に大金を手にしたという喜びもなく、ただそこから創作欲に取りつかれて会社をやめ、筆一本の生活に入ります。

 当時、広告関係で付き合いのあったクライアントの社長に気に入られ、会社をやめて大変だろうからと、毎月10万円の顧問料をもらっていた、とのこと。家賃はそれより安いところに住んでいたので、あれはずいぶん助かった、と回想していますが、なんとも恵まれた作家人生のスタートと言っていいでしょう。

 日本全体も、そこから経済はもりもり発展し、新人作家の初版部数も若干増えたりしながら、直木賞の賞金も第100回(昭和63年/1988年・下半期)から、50万円だったのが倍の100万円に。わあわあ、日本の出版文化はカネになるぜ、と絶頂期を迎えます。

 いや。迎えた、と思ったんですが、このとき佐々木さんはこんな実感を吐露しています。傾聴いたしましょう。

「文筆業をとりまく経済状況というのは、相対的によくないと思うな。『エトロフ発緊急電』が原稿用紙一千枚で、書いていた期間が五カ月なんですよね。取材もあるし、資料を読み込む時間もあるでしょう。それで初刷りが一万五千部。正直いってそれじゃ割が合わないですね、職業としては。幸い評判がよくて増刷になっているから、やっとこれで収支が合ってきたというところです。」(『週刊文春』平成2年/1990年6月21日号「行くカネ来るカネ 私の体を通り過ぎたおカネ 冒険小説のテーマは“二十世紀と日本人”「作品が翻訳されない日本のもの書きは不幸です」」より)

 平成2年/1990年にして、この実感です。いわんや令和4年/2022年の作家の経済事情たるや。なかなか哀しいものがあります。

 まあ、書いても書いても収支が揃わない作家たちに、一人でも多く職業的な物書きとして食いつないでいってほしい、という思いから直木賞が運営され、また山周賞も後を追っているわけです。そこは平仄が合っているのかもしれません。

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