カテゴリー「直木賞にまつわるお金のこと」の9件の記事

2022年8月 7日 (日)

2500万円の借金を5年で返している最中の佐藤愛子に、贈られた20万円。

 直木賞と借金はよく似合う。……というのは、もはや手垢のついた常套句です。でもそれを言い出すと、直木賞そのものが、いまでは手垢のついたシロモノでしょう。気にしないで先に進みます。

 なぜ直木賞と借金がセットになるのかといえば、それはもちろん直木三十五さんという人がいたからです。

 人からどんどんカネを借りる。しかし返す約束は打ち棄てる。借金取りが家にきても、ずっと無言で座っているだけ。そのうち相手がしびれを切らして帰っちゃう、なんてハナシがゴロゴロしています。要は多額の借金を抱えたというよりも、借りたカネを返さないというエピソードで面白がられた、とんでもなくイカれた野郎なんですが、とにかく直木さんといえば、カネ、カネ、カネのハナシが欠かせません。

 直木賞が、金儲けに成功したキンキラの財産家のことよりも、貧乏でカネに困った人のことを書いたほうが受賞しやすいのは、そういうところに原因があるわけです(って、そんなわきゃないです)。とにかくそういう借金まみれのハナシを小説で書き、直木賞をとった人というと、まず名前の挙がるのがこの人。佐藤愛子さんです。

 当時結婚していた田畑麦彦さんのやっていた事業が、昭和42年/1967年に倒産。多くの借金を抱えます。佐藤さんにも、そのうちの一部が背にのしかかり、ほうぼうにおカネを返さなきゃなりません。その頃までに、佐藤さんはジュニア雑誌や中間小説誌につながりができていて、原稿をおカネに代える手段をもっていました。小説やら、エッセイやら、おカネになる仕事をどんどん引き受ける。収入は借金返済に当てられる。と、そんな生活を続けていたときに、第61回直木賞を受賞します。昭和44年/1969年夏のことです。

 よっしゃあ、これでカネまわりがよくなるぜい、借金も返せるぞ。とガッツポーズを決めないところが佐藤さんのイイところでしょう。いや、おそらくそこで大はしゃぎを爆発させるような受賞者は、直木賞の歴史のなかにはいないかもしれません。佐藤さんの場合も、むしろまわりの人のほうが、直木賞=おカネの皮算用をすぐに意識したようです。

 受賞決定の報を聞いたとき、佐藤さんのそばにいたのが、入院中の川上宗薫さんです。その病室でのやりとりを、佐藤さんが受賞後のエッセイに書いています。

「「直木賞が佐藤さんと決定しましたが、お受けいただけますか」

と文春の人が急に改まっていった。

「は、はい、あのう……はい、やむをえま……」

と思わずいいかけて慌てて口をつぐんだ。文春の人は苦笑いをして部屋を出て行った。電話で私の返事を伝えるためである。私は呆然としてベッドの上の宗薫氏を見た。

「どうしよう。川上さん」

「いいじゃないか、貧乏しとるんだから、これから稼げるぞ」

と何やらドサまわりの一座の座長のような顔つきである。」(『文藝春秋』昭和44年/1969年10月号 佐藤愛子「直木賞がくれたラブレター」より)

 ……ということなんですが、このブログで具体性のないことばかり言っていてもラチが明きません。金額のハナシに移ります。

 佐藤さんがとったとき、直木賞の賞金は20万円でした。むろん、全額を返済に当てたそうですが、まったく足りません。

 そもそも田畑さんが倒産して残った借金は総額2億4000万円だったそうです。いやはや、まるでケタが違います。

 そのうち、債権者たちと交渉したり折り合いをつけたりして、妻の佐藤さんが負った分が、約10分の1の2500万円。文献によると2400万円とするものもありますが、いずれにしても、これを個人で返すのです。正直、かなり浮世離れした世界です。

 前年の昭和43年/1968年、一年間で佐藤さんが返した借金は、だいたい500万円ぐらいだった、といいます(『週刊文春』昭和44年/1969年8月4日号)。50年以上まえの500万円といえば、いや、いまでもそうですけど、けっこうエゲツない金額です。直木賞をとろうがとるまいが、死にもの狂いで働ければ、年間でこのぐらいを返すことができていた、というのは、そりゃもう相当な高額所得者だった、と言わざるを得ません。

 べつに直木賞をとったから借金を返せたわけではなく、賞の動向なんか関係ないところで、佐藤さんは2000ン百万を5年がかりで返す計画を立てていました。直木賞をとって、原稿の注文や講演会の依頼も急増。返済計画も順調に進んだでしょう。

 そういう意味では、佐藤さんが受賞できてよかったとは思うんですけど、そもそも賞金の20万円が一瞬で消え去るような、嵐のなかの出版業界。貧困家庭がどうのこうのとか、寝る場所にも食うものにも困る貧乏人とか、そういう世界とはまったく違います。佐藤さんの受賞に、鼻白んだ感がただよっているのも、また事実です。

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2022年7月31日 (日)

賞金10万円で、川端康成への借金の一部を返した山口瞳。

 現在の直木賞は、賞金が100万円です。高いような安いような。この中途半端な価格設定が、いかにも直木賞がやってきた中途半端さを物語っています。

 というのは、いつもどおりの冗談ですけど、直木賞の賞金なんておカネとしてみれば大した価値じゃない、というのは、さかのぼってみてもやはり直木賞の伝統のようです。

 山口瞳さんという受賞者がいます。受賞したのが第48回(昭和37年/1962年・下半期)ですから、いまからおよそ60年前。賞金は10万円でした。

 ちなみに山口さんの受賞作は、当時の世相をなるべく忠実に映した作品です。「平均的」と呼ばれるサラリーマンたちのお金にまつわるハナシがいろいろ出てきます。いったい当時の10万円とは、どの程度の価値だったんだろう。せっかくので、そこら辺を『江分利満氏の優雅な生活』で見てみます。

 東西電機に勤める江分利氏は、本給が3万6000円です。そこに諸手当などがついて、税金などが引かれて、一ト月の手取りが4万円とあります(同書「おもしろい?」より)。

 となると、10万円は、基本的なサラリーマン月給の約2か月半の手取り給料とトントンです。

 現状、たとえば100万円の40%、40万円を平均世帯の月給だと設定して、庶民生活を描いた小説だ! などと胸を張ったら、さすがにそんな作家は叩かれるでしょう。そう考えると、当時の10万円は、かなり格安な金額だったと言えそうです。

 その賞金を山口さんが何に使ったか。これは山口さんもいろんなところで書いている有名なハナシですが、自分の父親が、かつて隣家に住んでいたよしみで川端康成さんから金を借り、その借金がまだ残っていたので、賞金を返済の一部に当てた、ということです。

 と、これだけだと10万円の金額感がいまいちわかりません。

 『江分利満氏~』は山口さんの実体験が反映された作品で、この借金についても出てきます。作中、市川市に住む社会学者の山内教授というのが、川端さんをモデルにした人物らしいです。

 「困ったときの小谷野敦だのみ」で、小谷野さんの『川端康成伝 双面の人』(平成25年/2013年5月・中央公論新社刊)を見てみたところ、やはりこのあたりの事情が、金額とともに書かれていました。山口さんの母親が昭和34年/1959年に大晦日に急死。その直後に、父親はひとりで川端さんの家を訪ねていきます。小谷野さんの記述を引いてみます。

「この時、瞳の父正雄は川端邸を訪れて、葬儀の費用で赤字が出て困っている、本来瞳が来るべきだが本人はショックで口もきけないので代理で来たと言い、母は生命保険に入っていたが、瞳の不手際ですぐに金がおりない、しかしいずれ交付されるからと言って、三十万円を借りたのである。」(小谷野敦・著『川端康成伝 双面の人』「第十三章 『眠れる少女』、「日本の文学」」より)

 そのことを後で知った山口さんは、慌てて義弟から5万円を借りて川端さんちに駆けつけます。しかし川端さんの妻、秀子さんはお金を受け取らず、ボーナスが出たときにでも少しずつ返してくれればいい、と言ったのだそうです。

 山口さんが寿屋勤務のかたわらで、いろいろと外で雑文書きに励んだのは、一つにはその父親の借金を返すためだった、と山口さん自身の私小説『家族 ファミリー』(昭和58年/1983年4月・文藝春秋刊)に出てきます。その雑文書きのなかに『婦人画報』に昭和36年/1961年10月号から連載した「江分利満氏~」が入っていたわけですから、どこがスタートで何が結果がよくわかりませんけど、直木賞の賞金がけっきょく川端さんのところに行ったのは、筋のとおった循環だったということです。

 にしても、10万円があっても、借金が30万円だったのなら、まったく足りません。『家族 ファミリー』の記述によれば、直木賞の受賞時、父の正雄さんは済生会中央病院に入院中で、「父の入院費には、毎月四十万円を要した」などとも書かれています。曲りなりにも子供たちで(というか山口さんひとりで)その費用を賄っていたんですから、山口さんの、父親をめぐる借金話はもはや庶民感覚を越えています。

 賞金のすべてが借金返済で飛んでしまった、というのは、直木賞がどうこうより、やはり山口さんが異常だったんでしょう。

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2022年7月24日 (日)

賞金5万円の一部を使って、山田克郎、家の屋根を直す。

 新しい直木賞が決まりました。

 だいたい直木賞は、時がたてばたつほど面白くなるシロモノです。なので、第167回(令和4年/2022年上半期)で受賞した窪美澄さんとか、候補者の人たちのことは、また10年、20年ぐらいたったときに取り上げていければいいな、と思います。

 とりあえず12月が来るまでは、過去の直木賞のことを掘っていくことにしますけど、中心のテーマは直木賞にまつわるお金のこと。とくにしばらくは直木賞の賞金について調べます。

 受賞者が賞金を何に使ったのか。これが一挙にわかるのが『国文学 解釈と鑑賞』の臨時増刊号「直木賞事典」です。

 刊行されたのは昭和52年/1977年6月です。そのときまで、具体的にいうと第76回(昭和52年/1977年・上半期)受賞の三好京三さんまでの受賞者たちにアンケートを実施して、賞金の使い道を振り返ってもらっています。

 第76回ですから、いまとなっては直木賞の歴史の前半にすぎません。賞金も当時30万円。そこから直木賞は、マスコミのおもちゃとして弄ばれ、バブル景気に乗って金銭面での絶頂を経たあと、なだらかな下り坂をトボトボと歩いています。

 ただ、直木賞の後半期あたりのお金にまつわる話題は、またこれから取り上げることとして、ひとまず第76回、昭和52年/1977年までに目を向けてみます。

 「直木賞事典」が編集された段階で、受賞者の数は79名。物故者は15名。残り存命中の64名のうち、アンケート回答を寄せたのは46名。「賞金は、当時何に使われましたか。」という下世話な質問に、唯一答えなかった結城昌治さんを除くと、45名の賞金の使い道が、ここに提示されていることになります。

 第27回(昭和27年/1952年・上半期)までの受賞者は、一度、『別冊文藝春秋』30号[昭和27年/1952年10月]で似たようなアンケート企画をやったことがあり、そのときにも答えたり無視したりしています。このときの回答は、7月3日のエントリーでも一覧にして触れました

 昭和27年/1952年の段階で回答のなかった人が、「直木賞事典」のほうで新たに答えている例があります。第19回受賞の岡田誠三さんと、第22回の山田克郎さんです。

「敗戦前後のあわただしさの中で消えてしまった。何に使ったかという記憶すらない。」(「直木賞事典」岡田誠三のアンケート回答より)

 岡田さんが受賞したのは昭和19年/1944年8月で、賞金は500円。直木賞が始まった昭和10年/1935年と同額です。その9年のあいだに貨幣的な価値は大きく変わりましたし、ときは戦争まっただなか、使おうたって派手に使えるわけでもなかったでしょう。

 ただ、岡田さんの性格がよく出ているなあ、と思うのは、賞金をもらったことを家族にはいっさい言わなかったことです。昔、アンソロジー収録の件で、息子さんに話をうかがったとき、賞金については家族に内緒で、おそらく一人で使ってしまったはずだ、とお話しされていました。自由人です。

 いっぽう山田克郎さんが受賞したのは、戦後まもなく昭和25年/1950年4月。賞金は5万円です。

「家の屋根の修理に使いました。あとズボン一着。」(「直木賞事典」山田克郎のアンケート回答より)

 山田さんは戦時中に、東京から神奈川県秦野に移り住み、受賞したときも秦野の家に住んでいました。そこの家の屋根を修理したんでしょう。

 戦後もまた、物価の変動が激しかった時代です。屋根の修理とズボン1着で、5万円の全額がふっとんだのかどうか。その程度のことをしただけで底をついてもおかしくありませんが、それはそれとしても、恬淡として小説づくりに臨む山田さんの生活感が、賞金の使い道に表われています。

 その後に山田さんは秦野から引っ越しました。修理した屋根つきの家はどうなったのか。たぶんもうこの世にはないでしょう。新着したズボンも同様で、いまやどこにあるとも知れません。

 直木賞をとったことなんて、その程度のもんだよ。と、山田さんなら言っていそうな気がします。

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2022年7月10日 (日)

第100回の贈呈式でいきなり「今回から賞金が倍額になります」と発表。

 ときどき「昔の直木賞は……」みたいな表現を聞きます。創設から87年。「昔の直木賞」はネタの宝庫で、語ることはいくらでも存在します。だけど、直木賞の「昔」と「今」ってどこに境界線があるのか。これがよくわかりません。

 ワタクシ自身がけっこうなおじさんですし、普段、小説のことをしゃべるのもジイちゃんバアちゃんばかりです。なので「昔」というと、昭和50年代ごろ、第80回ぐらいより前をイメージしてしまいますが、次の直木賞は第167回(令和4年/2022年上半期)です。そうなると、歴史を2つに分けて後半のすべてが「今」ということになってしまう。やはり変です。

 「今の直木賞」と言った場合、ふつうに考えれば最近10年ぐらい、長くても20年ぐらいの、いわば21世紀に入ってからの動向なり傾向が対象になるのかな、と思います。

 としてみたとき、今の直木賞を表わすぴったりの言葉があります。「停滞」です。

 いや、直木賞だけじゃなく、今の商業出版界そのものがそうだ、と言ったほうがいいですね。停滞というより凋落というべきなのかもしれませんが、明るい光はみえず、とりあえず現状を維持するのにせいいっぱい。商業出版と直木賞、いずれも共通しています。

 暗いことを言っていても仕方ありません。ハナシを戻して、直木賞にまつわるお金についてです。停滞ぶりをよく示しているのが直木賞の賞金です。

 500円でスタートした賞金は、第21回(戦後~昭和24年/1949年・上半期)に5万円になります。100倍。新円切り替えの影響です。その後は、経済復興および経済成長の波に乗って10万円20万円30万円50万円まで順調に上がっていきます。

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 50万円だったのは10年間。第80回(昭和53年/1978年・下半期)から第99回(昭和63年/1988年・上半期)で、昭和の最後のほうです。日本人は優秀だ、よおしこのまま日本が天下をとるんだ、と鼻息を荒くした人たちが社会全般にのさばっていたという、いまから考えると気色の悪い時代ですけど、よそに高額賞金を謳う文学賞がぞくぞくと生まれるバブル経済に突入して、直木賞も賞金をさらに倍に増やしました。第100回(平成1年/1989年・上半期)から、受賞者ひとりにつき100万円がもらるようになります。ちなみに直木賞は賞金が課税対象なので、手もとに残る額はもう少し少ないはずです。

 以来、平成が31年。年号が変わって令和。「今の直木賞」にいたるまで、ずーっと賞金は同じです。停滞と言わずして何というんでしょう。

 いまさら賞金が増額されることがあり得るのか。外国の文学賞みたいにネーミングライツ的なスポンサー制を導入すれば、その時代に調子のいい金持ち企業が、きっとポーンと出してくれるでしょう。まじで続けられなくなるまで文藝春秋の体力がなくなったら、そんな新しい直木賞が見られるかもしれませんね。心待ちにしています。

 それはともかく34年前、賞金がアップしたときは、かなり行き当たりばったりのノリに近いものがあったようです。

 というのも、選考会のときや選評発表の『オール讀物』3月号が校了するまでは、前回と同額のはずだったのに、平成1年/1989年2月13日、贈呈式の場でいきなり「今回から賞金を100万円にする!」と発表されたからです。

「田中健吾・文芸春秋社長によると、倍増決定は「先週の役員会」。従来額は当世いかにも安いし、百回の節目も考えてという。」(『毎日新聞』平成1年/1989年2月14日「芥川・直木賞の副賞百万円にアップ」より)

 その前年から始まった新潮社の山本周五郎賞と三島由紀夫賞は、はじめから賞金100万円でやっています。それに引きずられたところもあったかと推測しますが、別に次の第101回からでもいいのに「100回記念で盛り上げているところだし、今回からやっちまえ」と、急きょこぶしを振り上げました。30数年の、出版業界を覆っていた景気のよさがもたらした勢いとノリだったんだろうな、と思われます。

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2022年7月 3日 (日)

井伏鱒二は賞金500円を妻と分け、自分の分で「はせ川」のツケを払う。

 井伏鱒二、檀一雄、梅崎春生。みんな直木賞の受賞者です。ただ、こういうメンツを並べると、純文学の作家がどうして直木賞を!? ……みたいなツッコミが入ったりします。一般の人にとってはどうでもいい話題です。

 まあワタクシも一般の人間なので、正直どうでもいいんですが、とくに「おれ、文学のことわかってるぜ」と自負する人ほど、大衆文芸の賞を純文学の作家がとるなんてさあ、変だよねえ、うんぬん、とか言いたがります。うるせえよ、と思います。

 純文学の作家が直木賞をとると、何がどう不自然なのか。よくわかりません。難しい文芸批評は「おれ、文学のことわかってるぜ」の人たちにまかせることにしましょう。うちではおカネのハナシを続けます。

 最近とりあげているのが『別冊文藝春秋』30号[昭和27年/1952年10月]の「時計と賞金」アンケートのことです。対象は第27回(昭和27年/1952年・上半期)の受賞者なので、そんなに多くありませんが、彼らが受賞の賞金を何に使ったのか。一覧でまとめておきます。

受賞回 受賞者 賞金 使い道
第1回 川口松太郎 500円 京橋のレストラン「アラスカ」で記念会を開催し、知友を招待。
第2回 鷲尾雨工 故人のため未回答
第3回 海音寺潮五郎 覚えていない。
第4回 木々高太郎 築地の「宝亭」で記念会を開催し、知友を招待。食事・芸者代などで29円の足を出す。
第6回 井伏鱒二 未回答
第7回 橘外男 覚えていない。
第8回 大池唯雄 生活費。+記念に『復古記』全15巻を購入。
第11回 堤千代 全額両親に。その中で絽縮緬の着物を購入。
第11回 河内仙介 15か月分(月15円)の滞納家賃の支払い。+大阪へ帰郷する費用。
第12回 村上元三 書物の購入代。
第13回 木村荘十 大きな机を発注。+質の受出し代。
第16回 田岡典夫 おそらく生活費。
第16回 神崎武雄 故人のため未回答
第18回 森荘已池 おそらく生活費。
第19回 岡田誠三 未回答
第21回 富田常雄 5万円 もらったその日に酒を飲み、全額消えた。
第22回 山田克郎 未回答
第23回 今日出海 もらったその日に飲み歩き5分の3を消費。残りは妻に。
第23回 小山いと子 銀座のレストランで娘二人との食事代。+応接間のソファ代の穴埋め。
第24回 檀一雄 未回答
第25回 源氏鶏太 覚えていない。
第26回 久生十蘭 1万円は妻に取られ、残りは「有益な方面」で使用。
第26回 柴田錬三郎 ピアノ購入代の一部。
第27回 藤原審爾 友人2人に貸す。

 こんなくだらないアンケートは完全に無視する井伏さんや檀さん。対して川口さんや木々さんは賞金を使ってパーッと派手な記念会を開く。ここに純文学作家と大衆文芸作家のいちばんの違いが出ているわけですね。

 というのはもちろん冗談です。井伏さんも他のところでは賞金の使い道を答えています。上記のときは面倒だっただけかもしれません。

 井伏さんの使い道は、『別冊文藝春秋』49号[昭和29年/1954年12月]の「時計・会・材料その他―直木賞受賞の頃のこと―」とか、『オール讀物』昭和38年/1963年10月号「時計もくれますか」(のち「時計と直木賞」に改題)に書かれています。賞金の500円は、文藝春秋社のほうで使いやすいように10円札にして渡され、もらったその日に銀座「はせ川」に行って、一部をツケの支払いに使ったそうです。

 ただ、この二つのエッセイは井伏さんなりに言い回しを変えている部分があります。ちょっと記憶違いが入っている可能性も否定できないので、受賞してからまだ日も浅い頃に、雑誌のアンケートに答えた2つの回答を引いておきます。下記いずれも『井伏鱒二全集第七巻』(平成9年/1997年1月・筑摩書房刊)に載っています。

「賞金は女房と山分け、勇んで銀座の長谷川へ呑みに現はれると、居合せたお歴々は姿をくらまして了ひ、林房雄と新宿の樽平に進出したが、先客の立野信之と林のために忠告され、無理矢理に円タクで帰される。」(『日本学芸新聞』昭和14年/1939年3月5日「賞金の行衛? 直木賞」より)

「賞金はいつもの原稿料の通り日常の入費に使つてゐます。尤も井伏も使用しました。(井伏帰省中につき留守番代筆)」(『モダン日本』昭和13年/1938年6月号「文学賞の賞金を何にお使ひになりましたか?」より)

 ここでは林房雄さんといっしょに新宿「樽平」に行って、きみ、賞金を粗末に使っちゃったいけないよ、みたいに忠告されたことになっていますが、戦後の井伏さんの回想には立野信之さんの名だけがあり、林さんは出てきません。なぜ林さんが思い出から抜け落ちたのか、気になるところですけど、ともかく賞金にまつわる井伏さんのエピソードは、派手にみんなに驕ることを止められて、平穏に落ち着いたかっこうです。

 いっぽう、檀一雄さんの賞金5万円は、どう使われたのか。まだよくわかっていないので、日を改めて追っていきたいと思います。

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2022年6月26日 (日)

賞金500円の一部で、河内仙介は滞納した家賃を払い、大池唯雄は高い本を買う。

 直木賞の受賞者だと聞いて、その作品を読んでみたけど、さっぱり面白く感じない。そんな経験はワタクシもけっこうあります。

 しかしまあ、作品が面白いかどうかなんて些細なことです。その割に人間性が面白い、という受賞者はたくさんいます。そういう人たちのエピソードを残しておいてくれるだけでも、直木賞が長く続いている価値はあるってものです。

 たとえば、第11回(昭和15年/1940年上半期)を受賞した河内仙介さんです。

 昭和29年/1954年、55歳のときに死んでしまい、多少の逸話だけは残っていますが、『別冊文藝春秋』30号[昭和27年/1952年10月]で歴代受賞者に「時計と賞金」のアンケートを実施したときは、まだ生きていました。ともかく河内さんといえば、貧窮、貧乏、金欠の人でしたので、賞金のエピソードもやはり借金にまつわるハナシが出ています。

 受賞当時、河内さんは月15円の家に住み、その家賃を15か月分滞納していたそうです。都合225円。すでに40歳を越え、家庭もあり、妻子を食わせていかなきゃいけない身の上で、この貧窮を続けていたのは、河内さんもなかなかつらい毎日だったと思いますが、直木賞をとったおかげで、賞金で滞納した家賃をきれいさっぱり支払います。

 このとき、家主のオヤジに言われた印象的なひとことを、河内さんは書いています。

「「あなたはどこか見込みのある方だと思つていましたので、あまりきつい催促もしないでおつたのですが……」

と、見え透いたお世辞をいわれた」(『別冊文藝春秋』30号[昭和27年/1952年10月] 河内仙介「時計と賞金」より)

 受賞したときに、ほうぼうに借金があった人は、他にも何人もいます。家賃を滞納していたのも、河内だけではなかったでしょう。しかし、追い出されてもおかしくないほどに1年以上も支払いを待たせつづけ、これを一気に賞金で解消したという一発逆転劇は、河内さん以外には見られません。しかも、そのときに手のひらを返しやがった家主のオヤジのイヤらしさを、こういうアンケート回答を使って晒し上げちゃうんですから、河内さんの意地の悪さが伝わってきます。

 河内さんの小説は、どれも大して面白くありませんが、人物像ははるかに面白い人です。直木賞が権威や名誉だけじゃなくおカネがからむ事業だったおかげで、人間的な面白さがより際立った。河内さんはそんなタイプの受賞者だったと思います。

 「時計と賞金」の回答を見てみると、賞金を使って、受賞の記念に何らか特別なことに使った人が、何人か見られます。木村荘十さんは、畳一畳分よりも大きな机を注文。堤千代さんは、全額両親に渡して、そのなかから絽縮緬の着物を買ってもらったとのことです。

 記念は記念でも、せっかくの大金だからこういうときこそ高い本を買おう、と考えたのが大池唯雄さんです。第8回(昭和13年/1938年下半期)の受賞者です。

 ぐっと時代がくだって、21世紀に、本屋大賞という文学賞ができました。受賞者、というか書店員からの投票でナンバー1に推された作家が、副賞として贈られるのが図書カード10万円分です。受賞者はそれを使って、本を買う、というわけで、副賞を現金ではなく図書カードにしたのは、往年の直木賞受賞者、大池さんの故事を参考にしたと言われています。いや、ウソです。

 それはともかく、大池さんがもらった賞金が500円。病気療養中だったため、生活もままならず、一部は生活費に回されたそうですが、「時計と賞金」によれば大池さんは記念で本を買っています。『復古記』全15巻です。

 大池さんの受賞作は、「兜首」は戦国時代の伊達政宗が東北にいた頃のことですが、「秋田口の兄弟」は、幕末から明治のはじめ、戊辰戦争に材をとった歴史物です。それが直木賞に選ばれたので、まさにその頃の歴史的な資料を編纂した『復古記』を買った……ということなんだろうと思います。

 東京帝国大学蔵版として15冊にまとめられた『復古記』は、大池さんが直木賞をとる10年ほど前、昭和4年/1939年6月から刊行が始まって、昭和6年/1931年10月に15巻目が完結したもので、東大の史料編纂所によって編纂されました。発行所は内外書籍株式会社です。

 果たして大池さんはこれをいくらぐらいで手に入れたのか。

 全冊、奥付では「非売品」となっています。ただ、国会図書館デジタルライブラリーに入っている『史料編纂所一覧 昭和十二年五月』(東京帝国大学文学部史料編纂所・編)に「出版図書定価表」が出ていたので、これを参考にしてみます。『復古記』は各冊金7円だったそうです。

 ということは、15冊なら7円×15で105円。賞金の5分の1ぐらいをつぎ込むことになります。

 いまの直木賞は、賞金が100万円なので、5分の1なら20万円。本代としてはなかなかの額ですが、賞金の使い道にこういう買い物を選ぶところが、さすがは大池さん、ブレない向学心の持ち主だ……といった気がします。

 河内さんにしろ大池さんにしろ、その人となりが自然と出てしまうのが、賞金の使い道、ひいてはお金にまつわるエピソード、ということなんでしょう。

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2022年6月19日 (日)

寄付金3万円。文藝春秋社からお金をもらって日本文学振興会がつくられる。

 また直木賞のことがニュースで流れる季節がやってきました。

 いったい直木賞って何なんだ。と考えると、かならず行き着くのがおカネの問題です。

 ということで、年がら年じゅう直木賞のことだけ書いているうちのブログでは、いま「直木賞にまつわるお金のこと」を探っています。今回取り上げるのはこちら。直木賞がお金で成り立っていることをいまも我々に示してくれる団体、日本文学振興会についてです。

 直木賞以上に、この組織は謎めいています。いや、政府から認可を受けた公益財団法人ですから、組織の成り立ちもカネの動きも公然としていて、別に怪しいところはありません。オフィスは、出版社文藝春秋のビルのなかにあり、働く人たちも文藝春秋から出向している人が中心で、理事長は文藝春秋の社長。要は、文藝春秋の事業のなかでも文学賞に関する業務だけを切り離して、独立した収支で動いているのが、この法人なわけです。

 人間っつうのは、ほんといろんな仕組みを考え出しますよね。文学賞だけに特化した財団。胡散くさいといえば胡散くさいですけど、この仕組みをつくった菊池寛さんによれば、こうして独立した法人にしておけば、万が一、文藝春秋がこの世から消滅したとしても、文学賞の運営は残せるじゃないか、という発想でできたんだそうです。

 ただ、じっさいのところは、文藝春秋がダメになれば、日本文学振興会も無傷じゃいられません。お金の問題がからんでいるからです。

 くわしいことは、ワタクシみたいな外野の野次馬には、もちろんわかりませんけど、文学賞の運営は、それ自体で収益のある事業じゃありません。反面、支出のほうは、賞金を出すほかにも、選考する手間やら、場所やら、授賞式などまで含めて、けっこうなお金がかかります。それをまかなうために、プールしたお金の利子がつぎ込まれたり、資金運用したりするわけですが、そもそもそれらのお金がどこから出てきたかといえば、文藝春秋からの寄付金です。

 日本文学振興会の歴史をひもとくと、最初の段階でどれほどのお金がつぎ込まれたのか、菊池寛さんが書いています。直木賞ができたのは昭和9年/1934年、それから3年ほど経った昭和13年/1938年7月に文部省からの認可が下りて、財団法人日本文学振興会ができました。

「芥川賞、直木賞、菊池賞を銓衡授賞する日本文学振興会の法人設立許可が認可された。(引用者中略)本社は、既に三万円を資金として寄付したが、数年の間に十万円位の資金を寄付するつもりだ。」(『文藝春秋』昭和13年/1938年8月号 菊池寛「話の屑籠」より)

 昭和13年/1938年の3万円とか10万円というのが、どの程度の価値なのか。賞金500円と同じく、ちょっと感覚がつかみづらいですけど、参考までに文藝春秋社の資本金額を挙げてみますと、株式会社になったのがそれより10年前の昭和3年/1928年で、資本金5万円。昭和10年/1935年8月に、倍額増資して資本金10万円。昭和11年/1936年11月、第二次増資で資本金15万円。さらに、財団をつくった昭和13年/1938年には5月に、またもや倍にして資本金30万円、とぶくぶく膨れ上がっています。

 資本の額が、企業の動かすお金の多寡を現わすわけではありませんが、ン万円といえば、明らかにハシタ金じゃありません。賞金をもとに換算すると、賞金500円の段階で寄付金3万円、というのは賞金100万円の現在でいえば6,000万円ぐらいの感覚でしょうか。「これぐらいあれば、安心して3つの文学賞をやっていけるだろう」と菊池さんが考えた10万円は、いまでいうと2億円ぐらい。カネがかかるんですね、文学賞は。

 ちなみに、直木賞なんてクソの価値もない、もっとオレ好みの文学賞が現われてほしい。と思う向きは、多いのか少ないのか、まあ現在でも一定数いると思いますが、菊池さんが言うには、日本文学振興会にお金を寄付すれば、あなたの文学賞もつくってくれるそうです。

(引用者注:菊池寛賞のように)僕の名前を、賞金に冠するのは、可笑しいと云ふ人があるかも知れないが、デービスカツプや、ノーベル賞金のことを考へれば、少しも可笑しくない。有志の方は、十万円もこの法人に寄付して下されば、その方の名前を冠した文学賞金をいつでも設定する。」(『文藝春秋』昭和13年/1938年6月号 菊池寛「話の屑籠」より)

 いまもこの菊池さんの言葉が有効なのかどうなのか。振興会に聞いてみないとわかりません。どこかのお金をもったYouTuberが2億円ぐらい寄付して、文学賞が設定されるか試してみてくれないかなと、期待しています。

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2022年6月12日 (日)

木々高太郎、探偵文壇の人たちを招いて祝賀会を開き、賞金500円使い切る。

 しばらくは、賞金のことを突っついていきます。

 直木賞の受賞者が、賞金を何に使ったのか。21世紀のこの時代に、そんな話題が盛り上がるとは思えません。M-1グランプリのように賞金1,000万円!! とかそのぐらいのインパクトがあれば、多少のにぎわいも生まれるんでしょうけど、いまの直木賞は、賞金100万円。それが年に2回。その程度のおカネの流れは、せわしない情報の荒波に埋もれて、さしたる話題にもなりません。

 ただ、一部の人たちはやっぱりおカネのハナシが大好きです。直木賞の場合も、少し時代をさかのぼれば「賞金の使い道」がビッグな(?)エピソードとして扱われる時期がありました。

 『別冊文藝春秋』30号(昭和27年/1952年10月)は、まだたった第27回目の授賞が終わったばかりの、直木賞史のなかでいえば序盤も序盤の頃ですが、そこで各受賞者にアンケートをとって載せています。正賞の時計がいまどうなっているか、副賞の賞金を何に使ったか。前週の川口松太郎さんのところでも参照した「時計と賞金」の記事です。

 そのときまでに直木賞を受賞した人は計24人。すでに亡くなっていたのが鷲尾雨工さんと神崎武雄さんの2人。アンケートに回答しなかったのは、井伏鱒二さん、岡田誠三さん、山田克郎さん、檀一雄さんの4人なので、残り18人の受賞者は、それぞれの言葉で賞金の使い道を答えています。

 なかで川口さんと同様に、受賞記念のパーティーを開いてパーッと使った、というのが木々高太郎さんです。木々さんの頃はまだ賞金500円の時代でした。

「賞金は当時の探偵作家クラブの諸君(江戸川、海野、大下、水谷、小栗、延原その他)を築地宝亭(今はなし)によび、食事だけではさうかゝらぬ時代でしたが芸者をよんだのでかゝり二十九円足を出しました。」(『別冊文藝春秋』30号[昭和27年/1952年10月]「時計と賞金」)

 29円足を出したということは、かかった費用529円。1年ほど前に京橋のレストラン「アラスカ」で記念会を開いた川口さんは、そこまではかからなかったはずなので、木々さんはさらに大がかりで派手ハデしくやったんじゃないかな、とうかがえます。

 芸能の業界にいた川口さん、それから学界にいた木々さん。そうやって大勢を集めて自分が主役に立つ場面を用意しよう、と発想してしまうところが、両者似ています。目立ちたがりというか出たがりというか。直木賞の受賞者には伝統的に、こういうイタい人が出てくる、というのは、いまのいま、現在の直木賞を見ていてもよくわかりますが、そのイタさが目に見えるかたちで現れるのが、「賞金の使い道」の意義かもしれません。

 ちなみに、木々さんが乱歩さんほか探偵文壇の人たちを招いた「宝亭」での食事会がどんなドンチャン騒ぎだったのか、じっさいはよくわかりません。というか、ほんとうに「宝亭」だったのか、これも(川口さんと似て)木々さんの勘違いじゃないのか、という疑いがあります。

 昭和12年/1937年6月16日夜。木々さんの直木賞受賞からおよそ4か月後。築地ならぬ京橋の明治屋ビル「中央亭」で、盛大というほかない受賞記念の「木々高太郎を喜ぶ会」が開かれました。江戸川乱歩さんが『探偵小説四十年』(昭和36年/1961年・桃源社刊)のなかで、かなり詳しく書いています。「私の知る限り、探偵作家の出版記念会などには前例を見ない盛会であった。」とのことです。

 同書では乱歩さんが『東京写真新聞』昭和12年/1937年6月24日号の記事を引いています。それによると、出席したのは100名以上。医学界からは入沢達吉、加藤元一、風間茂など、直木賞の受賞者から第2回の鷲尾雨工、第3回の海音寺潮五郎、探偵文壇からは江戸川乱歩、海野十三、大下宇陀児、水谷準、延原謙、それから賞の主催者サイドから佐佐木茂索さんもやってきています。「当日木々君は三尺四方もある大きな木の板を受附に預け、来会者に縦横に署名してもらい、記念として応接間に額のようにして懸けることにした。」(『探偵小説四十年』)と乱歩さんが語っているその木の板は、去年、山梨県立文学館で開かれた「ミステリーの系譜」展にも出ていました。

 この記念会が、全額、木々さんの支払いだったかどうか。よくわかりません。木々さんが回想したように、探偵作家の何名かを呼んで芸者を入れて500円以上を「宝亭」で費やしたのが事実なのか、勘違いなのか。これもまた、現状調べきれていません。

 ただ、どうであったとしても、これだけは言えると思います。さすがに木々さん、直木賞をとったぐらいでハシャぎすぎじゃないの?……

 同じ時期に直木賞をとった人は、(川口さんの他には)誰もそんな賞金の使い方をしていません。お祝いの会を開くのはいいけど、足が出るほど盛大にやるのは、やはり異常です。木々さんという人の特性が、こんなところにも出ているのかもしれません。

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2022年6月 5日 (日)

賞金500円。京橋「アラスカ」で開かれた受賞記念会にいくら使ったのか問題。

 直木賞にまつわるお金のこと。とりあえず初回は基本的なところから触れていきたいと思います。第1回(昭和10年/1935年・上半期)の賞金をめぐるエピソードです。

 創設されたとき、直木賞の賞金は500円でした。なんで500円なのか。どの程度の価値があったのか。これには、後づけのような理由も含めて、いくつかの背景が伝えられています。最も信憑性が高いのは「このぐらいの金額があれば、一定期間は生活ができるだろう」と考えられていた、ということです。

 『文藝春秋』昭和10年/1935年1月号で、創設が発表されたとき、佐佐木茂索さんがそんなふうなことを書いています。そして主催者の意図を正しく実行できる人が、第1回の芥川賞をとったのも、佐佐木さんたちにとっては幸運でした。石川達三さんです。

 回想によると、当時、石川さんは「朝食つき15円」という家賃で、四畳半の部屋に住んでいたらしいです。そのほか、もろもろの金額を含めると、一ト月の生活費はおよそ40円500円あれば、何も働かなくても12か月(×40円480円)ぐらいは生活できる換算になります。そのあいだ創作に打ち込んで、1年もやっていけば、カネの稼げる作家になれるよね、そういう人を発掘する文学賞にしたいよね、というのが佐佐木さんたちの思惑でもありました。

 そう考えると、石川さんは芥川賞のモデルケースというか、理想的な受賞後の足取りを、まんまと果たしてくれたわけです。500円あげたところで借金の返済で全部使っちゃいそうなダザイ某より、よっぽど芥川賞を上げた甲斐があったでしょう。

 とまあ、それは芥川賞のハナシなのでどうでもいいんですが、問題は直木賞です。賞金は同額の500円。それをもらった川口松太郎さんがこれを何に使ったか。有名な逸話ですけど、基本をおろそかにせず、改めておさらいしてきます。

 『読売新聞』の連載エッセイ「出世作のころ」に、川口さん自身がくわしく書いています。500円といえば大金ですが、川口さんは別に生活に困っているわけではありませんでした。菊池寛さんも冗談まじりに「きみは賞金は要らんだろ」と言う。たしかに要りません。要らないけれど、せっかくもらうのなら、きちんと記憶に残る使い方がしたい。と、川口さんは考えます。そのあたりがもう、堅気でない芸能の世界にいた人っぽいよなあ、という発想です。

 川口さんがよく通っていたレストランに、東京・京橋の宝町、味の素ビル8階にあった「アラスカ」があります。もとは昭和3年/1928年に大阪の北浜で開店した西洋レストランですが、評判がよかったために東京にも進出。「味の素ビル」が竣工したのは昭和7年/1932年6月のことで、その最上階の8階にオープンしたのが京橋の「アラスカ」です。

 定食は3円のものから出していたと言います。いまでいうと1万円はしないけど1,000~2,000円ってこともない、多少は値の張るお食事、ってところでしょう。定食1食5,000~6,000円ぐらいの感覚でしょうか。こんな店にちょくちょく通っていた、というのですから、直木賞を受賞するまえから川口さんの生活水準がいかに高かったか、よくわかります。

 京橋のアラスカでは、エル・モランデーさんという、イタリア・ミラノから来た人が料理長をしていて、イタリア料理やフランス料理が出されていました。この店にお世話になった人たちを招き、直木賞受賞の記念会をする。というのが川口さんが考えた賞金の使い道です。

 メニューはモランデー料理長が考えます。オードブル(フォアグラ、キャビア、ローハム、酢づけの魚類、冷菜など)、オニオン・スープ、海老のコキール、そしてデザートのお菓子とコーヒー。多少、店のほうで負けてくれて1人前4円ほど。参加者は50~60人ぐらい呼んだらしいので、200円以上かかったはずですが、「出世作のころ(44)大成功の記念会」(『読売新聞』昭和43年/1968年4月12日夕刊)によると「チップを含めて百五十円ですんだ。」と書いてあります。30年以上も前のことを思い出して書いているので、まあ、記憶ちがいもあるでしょう。

 たとえば、こんな回想もあります。上記よりも10年早く川口さんが語っている記事です。

「三百圓ぐらい使つたかな。(引用者中略)一人、五、六圓の料理だつたな。」(『別冊文藝春秋』61号[昭和32年/1957年12月]、城を築きかけて」)

 500円のうち150円で済んだのか300円使ったのか。大きく違います。

 しかもこれだけじゃありません。「世話になつた人々を味の素ビルのアラスカへ招待し、全部つかい果し、幾分の足が出たと記憶する。」(『別冊文藝春秋』30号[昭和27年/1952年10月]「時計と賞金」)なんちゅうことまで、川口さんは言っちゃっているんです。こうなると単なる記憶ちがいでは済まないハナシになってきます。

 場面に応じて、どんなふうに言えばいちばんウケるか。ディテールを変えて語ってしまうのが小説家だ、といえば、そうなのかもしれません。全部つかい果たしたケース以外、多少のお金は残ったはずですけど、そういう細かい数字もバッサリ捨てて、とにかく「レストランで、みんなに高級洋食をふるまったんだ」という一点に集約させる。これも小説家としての腕が光るエピソードづくりなんでしょう。

 けっきょく川口さんが、「アラスカ」での記念会のほかに、賞金を何に使ったのか。そこはもう不明です。

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