カテゴリー「直木賞にまつわるお金のこと」の50件の記事

2023年5月28日 (日)

600円の映画原作料を直木にパクられた今東光、直木賞をもらったのでトントンだ、と笑う。

 最近はなかなか図書館にも行けません。ブログに書きたいことも別になく、最近は惰性でやっています。まあ、直木賞を調べたって、何ひとつ得することなんかありませんからね。惰性でだらだらやるのが一番です。

 直木賞とおカネのことも、ほんとうはもっと最近の、2000年以降のハナシを調べたかったんですが、ひまが取れずにまったく目的を果たせませんでした。人生、うまくいかないことばっかりです。

 と、それはそれとして、そろそろ別のテーマに変えたくなってきたので、「直木賞にまつわるお金のこと」は、今週で最後にします。最後もまた、ずいぶん昔にさかのぼって、苔むした受賞者のエピソードで締めることにしました。今東光さんです。

 直木三十五さん本人とは、7歳ちがい。生前は面識もあって、いろいろと縁のあった今さんが直木賞を受賞したのは、第36回(昭和31年/1956年・下半期)でした。年齢でいうと58歳のときです。

 今さんが語るところ、直木さんに対してはずっと貸しがあった……のだそうです。

「ぼくの作品が映画になったときに、直木のやつ、原作料をつかいこんじゃったことがあるんです。阪妻の独立第一回の映画として、ぼくの「異人娘と武士」というのを高松プロダクションでつくった。直木が撮影所で、「今とは無二の親友だから、おれがもってってやる」といって、原作料をうけとって、途中でつかっちゃった。(引用者中略)あいつがまだプラトン社の「苦楽」の編集長時代ですよ。こんど、ぼくが直木賞をもらったのは、あのときのかねをとりかえしたことになる。(笑)これで、トントンだてえわけだな。(笑)」(昭和33年/1958年2月20日・朝日新聞社刊『問答有用 夢声対談集X』より)

 直接、今さんからハナシを聞いたという足立巻一さんによれば、原作料は大正14年/1925年当時の相場からして2倍の600円(昭和42年/1967年12月・理論社刊『大衆芸術の伏流』)。それから10年後の直木賞の賞金が500円ですから、それよりもっと高かったわけです。今さんは「トントンだ」と言って笑いましたが、直木賞の一回分ぐらいじゃ、貸しは返しきれていないわけですね。まったく、直木さんのおカネのルーズさはむちゃくちゃです。いつも金欠でピーピー言っていたのは、自業自得です。

 さて、60歳近くなって直木賞をうけた今さんですが、彼もまた「カネがない」ってハナシをしょっちゅう語る人でした。住職を務める八尾のお寺を、貧乏寺だとさんざん言いふらしたのが、その代表的なエピソードです。

 昭和26年/1951年、特命住職の命を受けて、今さんが乗り込んだのが河内八尾の天台院です。檀家は35軒。そこから上がる収入は月2,000円~3,000円程度だったと言います。これだけじゃ寺の運営は成り立たない。夫婦二人の生活も送れない。それなのに檀家の連中は、住職のお経には重みがないだの何だの、文句ばっかり言いやがる。ひでえ檀家ばっかりだ、がはははは。と得意の毒舌をたびたび披露しました。

 しかしそれでも、何とか寺を守ってやっていけたのは、今さんに副収入があったからです。直木賞をもらう前から、文章を書いて原稿料を稼いでいましたし、講演や短大の講師の口もかかる。そういった個人の収入を、寺の運営につぎ込んで、楽しくやっていたのですから、案外、今さん自身はおカネを持っていたようにも思います。

 ただ、いったいいくら入ってきて、いくら使ったのか、まるでわからないというのが実状だったようです。妻のきよさんは、東光さんの没後のインタビューでこう語ります。

「金銭感覚はまったくない人でしたね。実印なんて自分で持ったことはないでしょう。土地の名義替えでも、すべて「おまえ、いいようにやっとけ」っていう調子でした。

(引用者中略)

主人が亡くなって十年ぐらいたってから、「先生の借用証書をとっている」という人がやって来たことがあります。「幾らですか」「六百万円です」、候文で判も実印じゃない。何が何だかちっとも分からない。」(平成23年/2011年5月・文藝春秋/文春文庫『想い出の作家たち』より ―初出『オール讀物』平成5年/1993年7月号「回想の今東光」、聞き手:岡崎満義)

 このルーズさ。それでいて、カネのことに細かい面もあり、みみっちい収支にはうるさく口を挟んでくる。

 ああ、どこかでこんな人がいたよなあ、と思ったら、そうだ、直木三十五さんにもそんな感じの文章がたくさん残っています。

 友人の原作料を勝手に使い込む直木さんも、直木賞をもらってトントンだと笑い飛ばす今さんも、けっきょくの金銭感覚は似た者同士、ってことなんでしょう。選考基準だけじゃなく、おカネに関して(も)ざっくりルーズなのが、やっぱり直木賞にはお似合いです。

          ○

 次の第169回(令和5年/2023年・上半期)が目の前に近づいてきて、気が気じゃありません。そのあいまを縫って、また来週から別のテーマで、昔の直木賞の(どうでもいい)ハナシをあれこれほじくっていきたいと思います。

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2023年5月21日 (日)

小説書いて、なんぼほどもらえますのん、と聞いてくる大阪の人たちに、阿部牧郎、思わず笑う。

 阿部牧郎さんが、勤めていた〈タキロン化学〉を辞めたのは、昭和42年/1967年暮のことです。年齢でいうと34歳。

 ちょうどその年、阿部さんは文學界新人賞に送った「空のなかのプール」が最終候補になりながらも落選。しかし、そこから同誌の編集者、豊田健次さんと縁ができ、何か書けたら見せてください、と言われて送った「蛸と精鋭」が『別冊文藝春秋』に載ることが決まります。その話を聞きつけたのが『小説現代』編集部の三木章さんと大村彦次郎さん。遅れちゃならんとあわてて大阪まで会いにやってきて、早速「今月の新人」で取り上げてくれたのが昭和42年/1967年9月号で、「ビーナスのひも」という、ストリッパーとそのヒモのことを書いた小説が『小説現代』に載りました。一年のあいだに、めまぐるしく動きます。

 会社では、すでに課長職のポストを与えられ、そのままいれば安定的な収入も見込めたでしょう。社長の松井弥之助さんからは目をかけられ、別に居づらくなったというほどでもない。それでも阿部さんは、小説家としてやっていけるのではないか、と手ごたえを感じ、思い切って退社を決めます。

 サラリーマンを辞めて、筆一本で立っていこうと歩きだしたものの、そこから直木賞の候補になっては落ち、候補に挙がっては落とされる日々が始まります。直木賞さえとってしまえば、物書きとしての生活も安定する。それが、選考委員たちのその日の気分や腹芸で、とらせてもらえないことが続いたとなれば、そりゃあ阿部さんも泣きたくなるでしょう。

 そんな当時の思い出が綴られたのが『大阪迷走記』(昭和63年/1988年3月・新潮社刊)です。おカネのハナシも出てきます。

 阿部さんがタキロン化学に中途入社したのは、昭和36年/1961年でした。小学校に勤め出した同棲相手の〈映子〉と合わせて、二人の収入は月4万円ほど。阿部さん一人では月給2万円程度だったと言います。退社する頃にはさすがにもう少しもらっていたと思いますが、専業の物書きになってから、二年目以降は原稿依頼も途切れずに、昭和48年/1973年には、会社勤めの頃の4~5倍の収入があったそうです。阿部さんの順調さがわかります。

 いや、阿部さんは謙虚にこういう表現を使っています。

「(引用者注:直木賞には)落選つづきだったが、小説の注文はくるようになった。中間小説雑誌が隆盛を誇っていた時代だった。〈オール讀物〉〈小説現代〉〈小説新潮〉ほか〈小説セブン〉〈小説エース〉〈小説サンデー毎日〉などが発刊されていた。前三誌には新人の作品はめったに載らない。だが、後発の三誌は、たびたび発表舞台をあたえてくれた。なんとか食えるようになった。サラリーマンをやめて一年目は、経済的にどん底だった。だが、二年目から収入がサラリーマン時代の倍になった。四年目の昭和四十六年には四、五倍に殖えた。週刊誌やスポーツ紙からも、注文がきはじめていたからだ。スポーツ紙に観戦記を書いたり、テレビの野球中継にゲスト出演するようになった。私は幸運だった。新人の小説家が生活しやすい時代にあわせて、サラリーマンをやめたことになる。」(『大阪迷走記』より)

 たしかに、昭和40年代後半ごろは、やたらと中間小説誌が湧き返っていました。いまからすると、なんであんなものがたくさん刷られて売れたのか、異様さ、狂気さも感じます。

 それでも、その狂気的な時流に、すべての新人作家が乗れたわけじゃありません。阿部さんの筆力のなせるわざだったでしょう。

 おカネに関するハナシでは、『大阪迷走記』には、 阿部さんの回想が面白いのは、大阪っぽいエピソードが語られているからです。プロ作家として駆け出しだったとき、大阪の飲み屋に行くと、相客と会話することになります。おたく何してはる人、へえ作家ですか。そうなると、大阪の人たちはたいてい、かならず聞いてくるそうです。それで小説書くと、いくらほどもらえますのん、と。

 露骨にカネのことを聞いてくる大阪の酔っ払いたち。阿部さんはそこで、うろたえることもなく対応します。

「「まあ一枚三千円ぐらいですな。雑誌によってちがいはありますがね。このあいだの作品は五十枚でした」

駄法螺であった。当時私は一枚千円ももらっていなかった。

「へえ。ほなあれで十五万円でっか。えらい儲かるもんでんなあ」

相客ははじめて敬意にみちた顔になる。」(『大阪迷走記』より)

 だいたいのことはカネ、カネ、カネ。ああ、大阪らしいな。と阿部さんは笑っちゃいながらも、あらためて考えたそうです。そうか、作家というだけで尊敬のまなざしを送ってくるような、高尚な土地柄もあるけど、小説を書いていくらになるのか、そういう目でしか見てこない土地のほうが、書き手としてはいちばんの修練の場所になる、と。まったく、阿部さん自身、たくましい人です。

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2023年5月14日 (日)

300~500円程度の原稿料が、直木賞をとると1,000円以上にはね上がる、と青木春三は言う。

 青木春三さんの『文壇登竜 作家になる道』(池田書店/実用新書)が出たのが、昭和35年/1960年1月のことです。

 ブログを始めて16年、歴史的にも重要なこの面白本を、まだ一度も取り上げたことがない、というのはどうしたことでしょう。まったく不徳の致すところです。すみません。

 昔の文士といえばビンボーが定番だった。だけど戦後10年ほどがすぎて、出版界も文芸界も金回りがよくなり、作家の生活も激変します。作家になりたい、と思う人の数も増えるいっぽう。だけど、どうやったら作家になれるのか、実践的な本が見当たらない。じゃあおれが書いてみよう……というのが本書の基本姿勢です。まあ、もう60年以上も前の本ですからね。内容については、ふうん、そうなんだろうな、と言うしかありません。

 ところで、青木さんとは何者か。いまとなっては名も残っていませんが、雑誌編集者、物書き稼業をコツコツやってきた人です。戦前からベッタベタの大衆小説を書いていました。

 明治43年/1910年、栃木県宇都宮市生まれ。小学校高等科を出たあとは東京逓信講習所に学び、郵便局で働きます。23歳のとき上京して、白井喬二さんに師事。『大法輪』や『婦人と修養』で時代小説の連載を持ったそうですが、すみません、ワタクシは読んだことがありません。昭和初期には『主婦の友』の編集、わかもと製薬広告部、古河鋳造勤労課、陸軍航空補給廠労務掛と転職して戦後を迎え、美松宣伝部、『新日本』『ウインドミル』『読切講談』と編集部を渡り歩いて、昭和25年/1950年に作家生活に入った……、と『作家になる道』の「あとがき」にあります。

 この本が出る直前の直木賞受賞は、渡辺喜恵子さん『馬淵川』と、平岩弓枝さん「鏨師」、第41回(昭和34年/1959年・上半期)です。だいたいそれまでの、ほんの20~30年しかやっていない直木賞や芥川賞を語っているだけですので、いまとなっては参考にしようもありません。ただ、なぜ芥川賞は同人雑誌からよく選ばれるのに、直木賞はそうでないのか。直木賞をめざすには同人雑誌ではなく懸賞小説に挑戦するのが主流だが、それはなぜなのか。青木さんなりに簡潔にまとめてあって参考になります。

「なぜ純文学をめざす同人雑誌だけが多く、大衆文学の同人雑誌がないのか?

それは作家志望者のほとんどが最初、純文学を志すからである。というのは、純文学の方がとつつきやすく、若くても書ける点にある。

純文学は自分の体験を見つめて書けばよい。自分の知らないことは書かずに済む、狭い範囲内を掘り下げればよいのである。

ところが大衆文学となると、そうは行かない。自分の体験を離れて、広い視野に立たなければならない。社会観が必要になつて来る。それに雑学がいる。年が若くてはそれが手にはいらない。」(『文壇登竜 作家になる道』より)

 わかったような、わからないようなハナシです。まあこれも、青木さんの実体験と当時の見聞から導き出された説ですので、別に反論する気は起きません。ふうん、そうなんでしょうね、と言いながら先に進みます。

 おカネのことです。同書に「作家の収入について」という項があります。

 流行作家になれば子々孫々まで財が残るが、無名の作家は収入がなくカツカツの極貧暮らし。と当たり前のことが書いてあるんですが、具体的な金額も出てきます。400字詰め換算原稿用紙1枚分の雑誌の原稿料です。『作家になる道』の記述をもとに、以下表にしてみました。

A級 B級 C級 D級
総合雑誌 1,000円前後 500~800円
文芸雑誌 500~1,000円 300~500円
大衆雑誌 1,000円前後 500~1,000円 200~400円 100~200円

 ちなみに直木賞の賞金が10万円のころの金額です。いまは賞金100万円ですから、ざっくり見るには、だいたい現在の10分の1ぐらいの水準だと考えるといいんでしょう。

 こんなふうに具体的な金額が挙がっています。

「普通三百円から五百円までぐらいで、千円以上の原稿料が常に取れるようになれば、堂々たる作家である。

(引用者中略)

「芥川賞」や「直木賞」を受賞されると、原稿料は千円以上にはね上がる。

(引用者中略)

映画の原作料はどのくらいかというと、最初は二十万円から三十万円だが、名が売れてくると、五十万円から七十万円ぐらいになる。

(引用者中略)

(引用者注:単行本は)初版は三千部から五千部が普通で、一万部刷るというのは大出版社か特殊の場合であろう。

かりに印税一割とみて、定価二百八十円の単行本を三千部刷ったとする。印税は八万四千円であるが、そのうち一割五分を源泉徴収されて税務署の方へ廻されるから、手取りは八割五分の七万一千四百円となる。」(『文壇登竜 作家になる道』より)

 原稿料1,000円なら一ト月50枚売れると5万円。単行本や映画原作料は、毎月入ってくるわけじゃない臨時の収入ですけど、青木さんが挙げたとおりに7万1400円やら20~30万円やらが入ってくれば、十分すぎるほどのおカネになります。そりゃあ、直木賞受賞=おカネ、と言いたくなるのも、よくわかります。

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2023年5月 7日 (日)

直木賞で落ちた岡戸武平、仕送りが1000円だという同郷の友人の話を聞いて目を剥く。

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 ここ最近、文芸同人誌『北斗』を毎号送ってもらっています。岡戸武平についての連載小説が載っているからです。

 作者は寺田繁さん。題名は「幻の直木賞作家 小説 岡戸武平」。先日送られてきた5月号で第六回を数えました。

 岡戸武平って何者か。ワタクシはよく知りません。作者の寺田さんも「覚悟していたことではあるけれど、岡戸武平についての資料の少なさには唖然とする外ない。」(『北斗』令和5年/2023年1・2月合併号「岡戸武平 つれづれ」)と書かれていて、自分なりの想像や解釈をまじえなければ、その人物像を描くことはとても難しく、だから「小説」として書いてみる……ということなんだそうです。

 ともかく、知らない作家のことを知るとわくわくします。それが直木賞とつながりがあった人となればなおさらです。岡戸さんは第1回(昭和10年/1935年・上半期)の直木賞のときに、最終的に名前が挙がった候補者のひとり、とモノの本には記されていますが、その実態はよくわかっていません。

 第1回のときは、直木賞の運営側もどうやって進めていいのかわからない。前後2回にわたって作家や評論家など100数十の宛先に、だれか適切な無名・新人作家を推薦してくれませんか、とアンケートを送り、その回答を参考にしながら数度にわたって選考委員会を開いた、と言われています。アンケートの回答者の名前が『文藝春秋』昭和10年/1935年9月号に載っていますが、まともに大衆文芸の新進を推薦してきた人がどれだけいるのか。加藤武雄、北村小松、浜本浩、長谷川伸、大下宇陀児といった辺りは、いちおうそれなりの人を回答したのではと思いますけど、詳細は不明です。

 そこには名前は出ていませんが、海音寺潮五郎さんも、すでにこの頃デビューして数年経っていましたので、誰か候補を挙げてくれるよう依頼された側だったそうです。それがフタをあけてみれば、海音寺さん自身が有力な候補として選考会で議論されている。もうムチャクチャです。

 岡戸さんは小酒井不木さんを師と仰ぎ、その小酒井さんが昭和4年/1929年に亡くなったあと、東京に出てきて博文館の編集者となります。昭和7年/1932年まで同社に勤めて、その後は独立して文筆生活を送ったそうですが、寺田さんの連載第1回目では、第1回直木賞の頃のことが触れられたあと、第2回以降それまでの岡戸さんの歩みが語られていて、最新回では小酒井さんの急逝と、岡戸さんが東京に出てくるところで終わっています。そこから岡戸さんがどのように編集者、作家生活の荒波にこぎ出していくのか。楽しみに待ちたいと思います。

 さて、それはそれとして、無理やりにでもおカネのハナシに結びつけないと今日のエントリーは締められません。

 「小説 岡戸武平」のなかで直木賞のことが出てくるのは、先に書いたとおり冒頭の(一)です。博文館を辞め、〈畳々庵〉と名づけた部屋で妻と二人暮らし。同郷の青年、寺田栄一とはしばしば会う間柄で、直木賞選考会が終わった秋、その栄一に連れられて東京會舘の洋食レストランプルニエに足を運びます。そこで舌鼓を打つ武平と栄一。

 小説ですから、そういう事実があった、とは断定できません。ただ、以下の辺りは、それなりに事実に近い記述かと思われます。

「「旨い。うみゃあなあ」

武平も唸る。

「栄ちゃん、立ち入ったころを聞くが、どのくらい仕送りもらっとる」

「月に大体、千円。財布が底をつけば、カネオクレってね。(引用者中略)」

千円。目を剥く武平。直木賞と芥川賞の副賞が五百円だった。」(『北斗』令和4年/2022年11月号 寺田繁「幻の直木賞作家 小説 岡戸武平(一)」より)

 どうして事実に近そうなのかというと、寺田栄一とは、作者・寺田繁さんの亡父のことだからです。寺田さんには『名古屋の栄さまと「得月楼」 父の遺稿から』(令和3年/2021年10月・鳥影社刊)の一冊もあります。名古屋の料亭のドラ息子として、当時、どのくらいの仕送りをもらっていたかは、きちんと調べていてもおかしくありません。

 しかしまあ、昭和10年/1935年、直木賞の賞金が文藝春秋社にとっては太っ腹の500円だった時代に、1,000円仕送りをもらっていた、というのは生活レベルが違いすぎます。

 岡戸さんがどのくらいの部屋に住んでいたのかはわかりませんが、〈畳々庵〉と名づけたぐらいですから、畳にして数枚程度、慎ましく狭かったのだろうなとは想像できます。仮に家賃を20円と見積もると、栄一さんの豪勢さとは雲泥の差。格差社会の縮図のような状況に、直木賞はとれなかったけど、がんばれ武平、と思わず応援したくなるところです。

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2023年4月30日 (日)

広瀬仁紀、直木賞に落選して「2000万円は損した」と編集者に言われる。

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 今日は東京・池之端(地下鉄・根津駅付近)で「不忍ブックストリート一箱古本市」があったので、ちょっと覗きに行ってきました。

 行ったところで、そこに直木賞の風は吹いていません。たいていはどの箱も見るだけに終わって、そっとため息をつきながら、スゴスゴと帰路につくことになります。

 たぶん今日もそうだろう。あきらめ気分でウロウロしていたところ、「HOTEL GRAPHY NEZU」に出店していた古書ますく堂の前にいたのが、春日部の奇人・盛厚三さんです。「これ、知ってる?」と『遊草の二人―潤一郎と勇』(昭和52年/1977年4月・學藝書林刊、真下五一・著)を差し出されたのですが、まるで知らないものだったので、びっくり仰天、思わず買ってしまいました。

 いや、びっくり仰天したのは、本のほうではなく、そこに挟まれていた學藝書林の刊行物案内のしおりです。「出版情報誌 風の軍隊」と銘打たれ、No.7 1977/3 と書かれています。

 問題は1ページ目に載っている記事のタイトルです。「『適塾の維新』直木賞を逸すの記」。うえっ、こんな文章があったのか。まったく知りませんでした。

 學藝書林と直木賞には、ほとんど接点がありません。直木賞80ン年の歴史で、同社の本で候補になったのは、ただ一作のみ。第76回(昭和51年/1976年・下半期)の候補作、広瀬仁紀さんの『適塾の維新――福澤諭吉別伝』です。

 広瀬さんはこの作品をきっかけに小説家としての道が開け、数多くの経済もの・金融界ものを残します。ただ、直木賞の候補になって落選したその当時の文章をあまり見かけたことがなく、いやまあ、ワタクシが知らないだけなんでしょうけど、思わずこのしおりに惹きつけられました。

 書いているのは編集部の(D)なる人です。おそらく当時、學藝書林で編集長をしていた出口宗和さんなんじゃないかと思います。

 場面は直木賞の選考会の日。広瀬さんといっしょに発表を待っていた編集者から見た、そのときの光景を描いたものです。銚子をあけること10本以上。発表の時間を1時間以上すぎても連絡がなく、次第に重苦しい雰囲気になってきたとき、ぽつりと広瀬さんが一言吐き出します。「西村さんですよね」。……同じく候補に挙がっていた西村寿行さん(作品『滅びの笛』)がおそらく受賞するだろう、と広瀬さんや編集者は思っていたわけですね。へえ、そうなんだ。

 けっきょくこの回は、産経新聞記者の三浦浩さん『さらば静かなる時』と、文學界新人賞をとってまもないド新人、三好京三さん『子育てごっこ』がせり合って、最終的に三好さんの受賞に決まります。広瀬さんの歴史小説はほとんど評価が得られず、まったく惜しくも何ともないまま落選しました。

 この文章の幕切れに、おカネのことが出てきます。

「鎌倉駅前での別離も、寒々しいものとなった。彼の後姿を追いながら、私は思わず叫んでいた。

「これで二千万はそんしたなあ――」

彼に対する私の言葉は、やはりそんなものでしかなかったのである。」(『出版情報誌 風の軍隊』No.7[昭和52年/1977年3月]「『適塾の維新』直木賞を逸すの記」より ―署名:(D))

 2,000万円。なんだか妙に具体的な数字が挙がっています。

 のちの広瀬さんの回想によると、『適塾の維新』は1冊1,400円の本ですが、1万部刷って印税は110万円。手取りは100万円。しかし、書下ろし小説に専念するために、ライター業をセーブしていたのでこの間生活費は稼げず、資料費・取材費などで約280万円もかけていました(『商工ジャーナル』昭和62年/1987年1月号、川原千寿子「作家に聞く「経営者像」(10)」)。まったくの大赤字です。

 直木賞ではその一年前に、佐木隆三さんが受賞して、その受賞作『復讐するは我にあり』(上・下)が40万部近くの大ベストセラーになっています。そこから推測すれば、直木賞の受賞作は20万部は売れる。1万部で100万円なら、20万部で2,000万円。それが落選で泡となった……ということなのかな、と思います。

 受賞するのとしないのとでは、生涯収入は大違い、と言われるのが直木賞です。しかし、生涯とか何とか、そんなことを言っている場合じゃありません。ともかく目先の2,000万円がスーッと消えてしまう。それだけで悲しくなるのは、たしかに想像できます。その後、広瀬さんは『銀行緊急役員会』(昭和52年/1977年1月)、『銀行破産』(昭和53年/1978年2月)、『銀行派遣役員』(昭和53年/1978年4月)と徳間書店から立て続けにビジネスものを出し、いずれもベストセラーになるほど売れて、家のローンの頭金ができたんだそうです。よかったです。

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2023年4月23日 (日)

受賞してからン十年、『天正女合戦』や『海の廃園』に古書の世界で高値がつく。

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 大場啓志さんの編纂した『直木賞受賞本書誌』(龍生書林刊)という本があります。スゴい本です。

 発行は令和1年/2019年10月25日。と、まだ3年半しか経っていませんが、第160回(平成30年/2018年・下半期)受賞の真藤順丈さん『宝島』まで、直木賞の受賞作本がぜんぶカラーの書影で拝むことができる! ということの他に、大場さんが長年扱ってきた経験から、古書としてどのくらいするのか、およその価格まで載っている! 年季・労力・マニア熱、その他もろもろの要素が結集しなければまずつくることのできない一冊です。スゴいという他ありません。

 冒頭の「はじめに」から、面白い情報があふれています。大場さんいわく、「古書界で蒐集家の多いのは、どちらかと言うと芥川賞よりも直木賞のように思える」のだそうです。

 どんな勝負でも、直木賞が芥川賞を上回っているのは、ワタクシにとって無上の喜びです。おおっ、ここでも直木賞に軍配が上がっている、とほくそ笑んでしまいます。

 面白いのはそれだけじゃありません。コレクターが重要視するのが、要するに最初に流通したものかどうか(版数は初版で、帯はいちばんはじめに巻かれていたもの)、きれいかどうか、などなど、こっちにとってはどうでもいいことばかり。その馬鹿バカしさが、文学賞のアホらしさとか、人間の愚かさにも通じていて、古書の世界でも直木賞の面白さはあなどれません。

 それはともかく、手に入りにくければ価格がハネ上がる。自然の摂理です。いまの直木賞受賞本は、だいたい注目の作家がとることがほとんどですから、初版が受賞する前に刊行されたものであっても、まあまあ市場に流通しています。それと当然、あんまり時代を経ていないのできれいものが多い。それに比べて、時代がさかのぼればさかのぼるほど、受賞本のもつ古書的な価値は上がり、一冊につきン万円、ン十万円するものも珍しくなく、カネもっているヤツの道楽じゃん、というレベルに達します。こういうのは、指をくわえて遠目で見るのがいちばんです。

 『直木賞受賞本書誌』によると、戦前の受賞本のなかで、いま(というか令和1年/2019年の段階で)最も高い値がつきそうなのは、まずは第3回(昭和11年/1936年・上半期)の海音寺潮五郎さん「天正女合戦」を収録した同題の単行本。昭和11年/1936年8月18日・春秋社刊、函付き帯付きで、70万円以上。発売当時の定価が1円50銭ですから、だいたい47万倍になっている計算です。

 そのほかにも第7回(昭和13年/1938年・上半期)の橘外男さん「ナリン殿下への回想」収録の同題単行本は、元帯(受賞する前の帯)付きで60万円以上。第12回(昭和15年/1940年・下半期)の村上元三さん「上総風土記」収録の同題本は、帯付きで60~70万円ぐらいだということです。

 どうして他の回の作品に比べて、これらの値が高いのか、大場さんの解説がそれぞれ付いています。それを読むだけでも面白く、ほんとは全部引用したいんですが、そういうわけにもいきません。

 ひとつだけ挙げておきます。海音寺さんの『天正女合戦』は、とにかく帯がイノチなんだそうです。

「三十数年前、戦前の近代文学専門店で数多くの稀本珍本発見の実績を持つ、あきつ書店・白鳥恭輔氏に帯を譲って貰った。一般市場に流布しているものは凾付が殆どで帯付はこれを一度扱ったのみ。今では凾付だけでも入手は難しいが帯付は極珍である。」(『直木賞受賞本書誌』より)

 帯のない場合は、函付の美本でも、値は半分さがって35万円から。ううむ、なかなか付いていけない世界です。

 ちなみに戦後、第21回以降のなかで最も高い古書価になりそうなのは、第22回(昭和24年/1949年・下半期)山田克郎さん「海の廃園」を含む同題作品集。昭和25年/1950年8月15日・宝文館刊行のものです。カバー帯美で、25~30万円は、一冊定価150円に比べると、1600倍~2000倍ぐらい値が上がっています。

 大場さんの付けたコメントに「初版、再版ともに滅多に現れない。」とあります。昔、受賞作本の部数を調べたことがあって、そのときは『海の廃園』がけっきょくどれだけ売れたのかわからず、モヤモヤしたものが残りました。おそらく大して売れなかったんでしょうね。発売当初に売れなければ、それだけ世に出まわる部数も少ない。となれば、希少価値があがって、のちのち古書値も上がります。

 直木賞の受賞作は、受賞当時に売れれば、もちろんそれだけおカネが動きます。だけど、べつに売れなくたって、あとになればおカネを生む。「おカネにまみれた文学賞」と言われる直木賞、面目躍如です。

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2023年4月16日 (日)

『津軽世去れ節』を出した津軽書房、直木賞受賞後の約10年で2000万円以上の借金を抱える。

 いつも同じような本ばかり読んでいてもつまりません。新たな本に触れたいなと思っていたところ、今日は東京・雑司ヶ谷で「鬼子母神通り みちくさ市場」があると聞いて、春日部の奇人・盛厚三さんといっしょに、みちくさ市場へ、さらに近くの古書往来座まで歩いてきました。

 本はあふれるほどにありました。ただ問題は、こちらの関心分野が狭すぎることです。ううむ、もっといろいろなことに興味を持つようにならんと、ワタクシの未来も暗そうだな。と再確認して、トボトボ帰ってきたんですが、この本は面白そうだ、と脳内でささやくかすかな声を頼りに買ってきたなけなしの一冊が、林邦夫さんの『当世出版事情』(昭和59年/1984年4月・草思社刊)です。

 林さんは『毎日新聞』の学芸記者だった人です。同書では、昭和58年/1983年当時の出版界や、そのまわりにうごめく有象無象のありようを取材してレポートしています。いまから40年まえのハナシです。

 日本の出版界の市場規模は、平成8年/1996年が山のピークだったと言われています。昭和58年/1983年は何だかんだ言っても上り坂の成長期です。

 この年は、ミリオンセラーがたくさん出ました。しかし森村誠一さんの『悪魔の飽食』を除けば、著者は穂積隆信、鈴木健二、黒柳徹子、江本孟紀と、どれもこれもテレビがからんだ、いわゆる「テレ・セラー」ってやつで、文芸モノやお堅い小説は軒なみ大苦戦。マンガが支える一ツ橋、雑誌が支える音羽と、大きい会社はより肥え太りますが、ダメな会社は金回りにピーピー言っている。完全な二極化です。「活字離れ」という言葉が当たり前のように叫ばれて、活字文化は危機のまっただなか。ああ、これからどうなっていくというのか。……みたいなストーリーが同書の底流をつくっています。まあ、よくあるっちゃあ、よくあるハナシです。

 ぺらぺら読んでいくうちに、文学賞の話題は載っていないかなあ、と探してしまうのがワタクシの悪いクセなんですが、昭和58年/1983年の文学賞は、だいたい唐十郎さんが話題を持っていっちゃったので、直木賞のことは出てきません。しかしそのなかで、ふっと目に留まったのが「〔七〕出版の原点ここにあり=地方出版社の活力=」です。

 この章は、秋田文化出版社、津軽書房、マツノ書店、葦書房といった地方の雄への取材記事や、当時の数値的なデータなどで構成されています。神田の「書肆アクセス」(地方・小出版流通センター直営店)のことも出てきます。

 そして地方と直木賞といえば、何といっても津軽書房です。長部日出雄さんの『津軽世去れ節』に収録された二篇が直木賞を受賞したのは昭和48年/1973年・上半期ですので、『当世出版事情』がレポートした年はそれからちょうど10年たった頃にあたります。

 ここに直木賞がもつ面白い一面が出てきます。

「全国に名をはせたのが四十八年、長部日出雄の『津軽世去れ節』が直木賞を受賞したときだ。初版二千部、受賞のとき七百部残っていたが、一日でなくなり、二刷り目を一万五千部、ついで三刷りを五千部……と今日でもロングセラーである。大手取次のルートに乗って売れつづけた。これだけならいいことずくめだが、このさい一気にと、全国に送り出したほかの出版物は返本があいつぎ、かえって経営を圧迫した。借金返済に苦労する。」(『当世出版事情』より)

 いや、面白い、なんて言っちゃいけませんね。

 長部日出雄さんだけじゃなく、ミスター津軽書房、高橋彰一さんにまで強烈なスポットライトを浴びせたのが、この回の直木賞です。受賞して2年後、同社に入社した伊藤裕美子さんによると、当時はスタッフも7人いて、東京出張所までできていたと言います。しかし直木賞が仇となって借金がぶくぶくと膨らんでいき、『当世出版事情』が出たその翌年、昭和59年/1984年2月には二度の不渡りを出して銀行取引が止められます。『読売新聞』平成23年/2011年1月28日、伊藤さんをフィーチャーした「あおもり人伝」(3)によると、借金の総額は2,000万円以上。

 それでも法人ではなく個人経営だったことから、現金取引で事業を続けます。在庫で残った本を現金で売り、取引先の支援もあって細々と刊行を継続。高橋さんと伊藤さんの涙ぐましい努力の日々は、ワタクシも興味があるので、いずれ追ってみたいと思いますが、とりあえず今週のエントリーはここまで。

 それもこれも直木賞のせいじゃないか。と思うと胸が痛みます。見た目が華やかで、ワーッと多くの人が視線を送るものは、たいていが一過性なんですよね。どうも、そこに直木賞という事業の罪多き性質がひそんでいます。

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2023年4月 9日 (日)

友人に100円貸すために、ふっと魔がさして原稿を書いたんだ、と橘外男は言う。

20230409

 令和5年/2023年もまた、橘外男さんの本が出ました。『人を呼ぶ湖 橘外男海外伝奇集』(令和5年/2023年3月・中央公論新社/中公文庫)です。

 没してもうじき64年。ときどき思い出したように、その特異な(異常な)作品群に光が当たってきました。おそらくいまは第四次ぐらいの橘外男ブーム(?)ですけど、これからも五波、六波と繰り返して読み継がれることでしょう。こういう人に受賞してもらって、ほんとうに直木賞、よかったなと思います。

 さて、橘さんといえば、何と言ってもおカネです。

 実家は陸軍将校のお堅い家柄。幼少時代はおカネに困ったことはありませんが、たびたび学校の体制に歯向かったことで問題視され、家を追い出されてからというものの、おカネとの格闘が付いてまわります。

 橘さんの自伝的作品が面白いのは、具体的な金額がきちっと書かれているからだ。……というのは言いすぎですが、何だか嘘みたいなハナシでも、おカネのことが多少のリアリティを底上げしているのは間違いありません。むろん、どこまでほんとうかわかりませんけど、だいたいおカネにまつわる事件で人生の転機を迎える、というのが橘さんの自伝の大枠です。

 「若かりし頃」は、まだ橘さんが20代の頃、札幌で鉄道会社に勤めていた時代が素材になっています。大正初めの苗穂の鉄道工場では、15~16歳の給仕が日給35銭。中学を出ていない者は日給45銭。卒業者は50銭。橘青年は、工場長だった親戚の温情で50銭がもらえることになり、とすると月に30日で月給は15円です。カツカツです。

 そのうえにいくと、月給雇員になります。階級がいくつも分かれていて、月給は33円ぐらいから75円。このクラスになれば一人前といったところでしょう。

 では、橘さんの月給は最終的にいくらになったのか。並木行夫さんの「伝記読物 小説橘外男」によると、20歳のときに鉄道書記に任用されて月給35円になった、とあります。事実かどうかはわかりませんが、そのくらいであれば現実的にありえそうです。

 大正5年/1916年6月15日、橘さんは札幌署の刑事に逮捕されます。遊興費その他のために貨物運賃の着払金や、荷物引き換え代金を、およそ2か月にわたって着服したのだと、当時の新聞記事は伝えます。その額、700円。月給に換算するとだいたい20か月分に相当する大金です。ずいぶん派手にクスねたもんだな、と思います。

 それからおよそ20年後の昭和13年/1938年、橘さんは第7回(昭和13年/1938年・上半期)直木賞を受賞します。賞金は500円です。その20年間で貨幣価値はどれだけ動いたか。専門じゃないので、ざっくりとしか言えませんけど、だいたい2倍程度になったと考えれば、大正5年の700円は昭和13年/1938年では1400円。直木賞の賞金ごときじゃ全然、取り返せなかったわけですね。……って、そりゃそうか。

 ちなみに、橘さんが直木賞をとったのは、昭和11年/1936年に『文藝春秋』に「酒場ルーレット紛擾記」が載ったことが大きな引き金となっています。本人いわく、この実話(というか小説)を書くきっかけもまた、おカネのことだったそうです。

 当時、蠣殻町の貿易屋を切り盛りしていた橘さん。あいかわらず、そこまでおカネはありません。そこに100円貸してくれないかと頼んできた友人がいます。銀座で西洋料理屋「ボントン」をやっていた中川三吉郎さんです。料理屋もいつもピーピーして金まわりがよくなく、そのやりくりでどうしてもおカネを貸してほしい、ということでした。

 そこで橘さんは、ふと妙案を思いつきます。「ボントン」には雑誌社の編集者もけっこうたむろしている。おれが小説でも書いて、その連中に買ってもらえれば、原稿料で100円ぐらいの融通はつくだろう、と。

「が、しかしそれまで、小説を書いてみようという気持なぞを起したことは、私にはただの一度もない。小説を書くどころか! 年中商売にアクセクして、月々の雑誌や人の書いた小説一つのぞいて見たこともない。そんな人間が、なぜその時に限ってそういう妙な気が起ったか? 今以て私には、まったく謎である。ほかに金を作る道もないから、苦し紛れにそういう、途方もない料簡が起ったのか? しかし私は、それほどまでにこの友達に、同情したというのでもないし……まったく以てその時、ふっとそういう気がしたとより外は、なんとも私にもいいようのない、気紛れな気持だから仕方がない。」(橘外男「予は如何にして文士となりしか」より)

 何だのかんだの言い訳がましく書いています。橘さんのカワユさがあふれ返った回想です。

 120枚を書き上げて、それを中川さんに手渡したところ、それが『文藝春秋』の菅忠雄さんの手に渡り、掲載が決まったと言っています。

 原稿料はけっきょくどうなったのか。「金は半年ばかりたったら二百五十円だか三百円だったか返して来た」(「予は如何にして文士となりしか」より)といい、それはそこまでで、別に続けて物を書く気はまったくなかった、と橘さんは書いています。ただ、やはりこのあたりの心の動きがよくわかりません。カネのためなのか、それともただ書いてみたくなっただけなのか。

 貧乏性(のはずの)橘さんです。300円近くもらえるのなら、もう少し興味をもってもよさそうなものですが、いつもおカネを欲しがっているくせに、こういうところで急にシラをこいてしまうのです。まったく、橘さんったら、カワユい人です。

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2023年4月 2日 (日)

本屋大賞の実施事業、年1,000万円近くに膨れ上がる。

 いま現在、直木賞一回あたりの経済効果は2億円、対して本屋大賞のそれは3倍近い5億8,000万円ぐらいだ、と言われています。

 ……とまあ、そんなのは(もちろん)真っ赤なウソですけど、ワタクシ自身、春になると自然と本屋大賞を欲するからだになってしまいました。今年も「直木賞のすべて」のわきのスペースを借りて、「本屋大賞のすべて」というサイトをつくりましたが、準備期間約2か月、こんなのに時間をかけても何のおカネにもなりゃしません。そうさ、文学賞に対する興味は、いつだってプライスレス。本屋大賞は毎年楽しいので、それはそれで文句ありません。

 野次馬にとって、おカネのことなんかどうでもいいです。しかし本屋大賞といえば、本を売りたいんだ、本を買ってほしいんだ、という思いで始まった経緯があります。いわばおカネを前提にした事業と言ってもよく、ノミネート発表から受賞発表、そしてその後にいたるまで、出版業界、印刷業界、メディアを含めて、ドロドロ、ズブズブ、カネまみれの文学賞であることは確かな事実です。

 こないだ『読売新聞』に載った本屋大賞に関する記事でも、やっぱりおカネのことが出ていました。

「インターネットなどの影響で、文芸書を取り巻く環境は厳しい。出版科学研究所によると、04年に9429億円だった紙の書籍の推定販売金額は、22年には6497億円に減少した。」(『読売新聞』令和5年/2023年3月2日「「本屋大賞」20回目 出版不況下 名著発掘の場に」より ―署名:文化部 川村律文)

 平成16年/2004年からこの20年間で、紙の本は急激に売れなくなってきている。とおカネのことが持ち出されています。この賞を目の前にすると、つい目ん玉が¥マークになってしまう。本屋大賞の宿命です。

 ということで、今週は本屋大賞にまつわるおカネのことを取り上げます。

 ところで、あの催しって、毎年どのくらいかかっているんでしょうか。主催しているNPO法人本屋大賞実行委員会が、毎年の収支をホームページで公開しています

 決算書が初めて公開されたのが平成17年/2005年度(平成17年/2005年6月1日~平成18年/2006年5月30日)です。平成18年/2006年4月に、リリー・フランキーさんの『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』が大賞をとった時期で、フリーペーパー『LOVE書店!』の発行事業を除いて大賞実施事業だけを見ると収支は大きく赤字。約280万円入って、約420万円かかったために、140万円程度のマイナスになったそうです。

 ちなみにそのころ、直木賞はどうだったのか。以前、羽鳥好之さんを取り上げたエントリーで触れました。

 直木賞の主催者は、本屋大賞とちがって、5つも文学賞をやっている公益財団法人日本文学振興会で、平成16年/2004年度の収支決算書によると、1年の直木賞の事業費は約3,000万円。1年に2回やるので、1回あたり約1,500万円程度だった、ということになります。

 ざっくり言ってしまえば、本屋大賞400万円 対 直木賞1,500万円の構図。3~4倍のひらきがあります。

 400万円の賞だってけっこうな規模だろ、とは思います。でもまあ、手づくり感満載であることを打ち出して、まんまと世間の心をつかみながら本屋大賞も回を重ねて今年で20年。収支計算書のうえでも、実施事業の収入が1,600万円を超える年も出てきました。近年では、1,000万円近くの収支を続け、しかも黒字に転じています。

 ああ、もはや庶民には手の届かない存在になってしまったんですね(……って、庶民って何だよ)。今年もきっと、目ん玉を¥マークにした人が本屋大賞を盛り上げるんでしょう。直木賞オタクとしては、それを指をくわえながら遠目で楽しみたいと思います。

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2023年3月26日 (日)

乱歩賞・直木賞を受賞しても、藤原伊織の借金3,000万円ほどは完済ならず。

 直木三十五記念館は、大阪市中央区谷町6丁目にあります。歩いて数分足らずのところに、若き直木三十五さんの過ごした長屋があった、というコテコテ&バリバリの下町です。

 直木賞と直木さんは別ものです。直木さんゆかりの地だからといって、別に直木賞と深い関係があるわけじゃありません。ただ、そこは直木賞の風呂敷の広さ。この賞は全国各地のあちこちに、かすかなつながりを張り巡らせています。

 直木記念館の界隈でいうと、まさにそこら一帯を舞台にした万城目学さん『プリンセス・トヨトミ』(第141回・平成21年/2009年・上半期 候補作)とか、やはり浄瑠璃の本場ということで縁のある大島真寿美さん『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び』(第161回・平成31年・令和1年/2019年・上半期 受賞作)などの作品が、近年では挙げられるでしょう……といったようなことを、こないだ記念館を観にいったときに、事務局長の小辻さんから聞きました。

 それと受賞者では、意外とこの近くで生まれ育った人がいるんですよ、と教えてもらったのが藤原伊織さんのことです。

 へえ。そうなんですか。あまり大阪のイメージはなかったですけど、たしかに調べてみれば藤原さんが高校まで育ったのは、大阪市の今里。記念館から少し距離は離れていますが、長堀通り一本でつながっていて近隣の街です。

 直木さんと藤原さん。無理やりこじつければ、その境遇は似ていないこともありません。藤原さんのエッセイにはこうあります。

「私の実家は裕福とはいいがたい。給与生活者になる以外、生きる方法は考えつかなかった。作家になろうなどとは当然、夢想だにしなかった。

赤貧というほどではないが、私の家はたしかにビンボーだった。実家は、大阪の今里にある長屋の端っこである。」(『オール讀物』平成8年/1996年3月号、藤原伊織「空白の名残り」より)

 家が貧乏である。高校を出たのち、東京の大学に進んだ。はじめ作家になろうとは、つゆほど思っていなかった。などなど。そしてやっぱり直木さんと藤原さんといえば、最大の共通点は「借金」です。

 直木さんの借金ネタは、みんな大好き、こぞって語り継ぐほどに有名ですが、藤原さんのエピソードも負けちゃいません。

 平成7年/1995年、第41回江戸川乱歩賞の受賞が決まったとき、受賞会見で賞金1,000万円の使い道を聞かれて、麻雀とかでふくらんだ借金の返済に使います、と返答。これがマスコミ陣に大層おもしろがられて、いろいろと記事に書かれたうえ、その半年後には直木賞までとってしまったことで、エピソード力も倍増し、フジワライオリといえば高額賞金を借金返済に使い、それでもまだ返し切れないほどの借金魔……として人々の印象に残りました。

 どんな麻雀を打っていたんでしょう。その一端が、上に引用した『オール讀物』の受賞記念エッセイで触れられています。

 時代は、藤原さんが『野性時代』の新人賞に応募していた昭和50年代から少しあと、すばる文学賞をとる昭和60年/1985年よりちょっと前の頃。マンションの一室で行う三人麻雀で、賭けのレートがべらぼうに高く、だいたい30分打って一ト月分の給料がふっ飛ぶぐらいだ、というのですから、異常な遊びです。藤原さんの友達は、そこで1年で1億円負けたんだとか。

 まあ、借金の額を誇るようになったら、人間おしまいだ、という気はします。藤原さんも別に、借金をたくさん抱えていることを自慢げに吹聴したわけじゃなく、乱歩賞のときも、記者にツッコまれて言わされた、といったことがあったようです。「賞金は何に使うんですか」「借金の返済に充てます」「住宅ローンとか?」「いや」「では、何の借金?」「麻雀の負けとかいろいろあって」と。あんなこと言うんじゃなかった、と藤原さんはあとで悔やんだらしいです。

 本人が語るところでは、このとき借金は3,000万円ほどあったのだと言います。乱歩賞の賞金。それから単行本(1冊税込1,400円)の印税。なにしろ『テロリストのパラソル』は、かなり売れましたので、印税の収入だって馬鹿になりません。仮に印税10%で、30万部売れたということになれば、税抜136円×30万=4,000万円ほど。そこから税金が引かれて、藤原さんの手もとに残るのは、もう少し額が落ちますが、賞金と合わせてこれで完済できたっておかしくありません。

 しかし、けっきょく乱歩賞のアレコレでは完済することはできなかった模様です。かたわら、天下の電通に勤めて毎月、高給を得ます。その後、コンスタントに小説を書き、そのたびに評判もよくて本も売れ、文庫化されればさらに売れ、いずれは借金もなくなった……とは思うんですが、なにせヒトさまのフトコロ事情です。どうなったのか詳しいところまではわかりません。

 ところで、乱歩賞をとった半年後には直木賞を受賞して、このときは賞金100万円が出ました。いったいその賞金は何に使ったのか。普通に考えれば、これもまた借金の返済に全額あてた、と考えるのが自然でしょう。聞く記者がいなかったのか、乱歩賞のときに懲りて藤原さんが正面から答えるのを避けたのか。とくにエピソードとしては残されていません。

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