カテゴリー「直木賞を支えた文芸記者たち」の18件の記事

2021年10月10日 (日)

佐佐木茂索(時事新報)。直木賞創設までに、文芸記者として鳴らした経験あり。

 直木賞の歴史を追いかけていくと、どうしても新聞という媒体に行き着きます。

 いわば、日本の文学賞の根っこには新聞文化がある(あった)……というわけですが、こと直木賞でいえば、文藝春秋社のそもそもの成り立ちに、新聞メディアと文学者の太い関係性があったことを注目しないわけにはいきません。

 そうなると、当然、同社トップの菊池寛さんが、新聞記者だった話を出さなきゃいけないんですけど、順序が逆転しちゃうのを承知のうえで、まずは佐佐木茂索さんを先に取り上げたいと思います。直木賞創設者として見たとき、単にワタクシが、菊池さんより佐佐木さんのファンだからです。

 佐佐木さんは大正期に相当期待された小説家として知られています。ただ、小説家とは言っても小説だけ書いて食っていけるのは全体のごく一部、というのは、いつの時代も変わりません。佐佐木さんが若かった頃もやはりそうで、大正7年/1918年に新潮社に入社したのが23歳のとき。金子薫薗さんの紹介だったそうです。翌年、新潮社佐藤義亮さんの推薦で、田口掬汀さんの中央美術社に移籍。編集のかたわら、小説修業に励み、この年(大正8年/1919年)「おぢいさんとおばあさんの話」(『新小説』)で世に出ます。

 雑誌編集と作家業、二足のわらじで歩きはじめたかと思ったら、大正9年/1920年が明けて早々、今度は『時事新報』の文藝欄を編集してほしい、という話が舞い込んできます。どうやら前に同社で記者をしていた菊池寛さんが推薦したらしいです。いやいや、中央美術に移ったばっかだし、他の人がいいんじゃないの、ほらたとえば小島政二郎とかさ、と佐佐木さんはスマートにかわそうとしますが、小島さんは頑として固辞したらしく、佐佐木君ならできるよ、やってみろよ、と菊池寛さんや加藤武雄さんに背中を押され、けっきょく文芸部主任のかたちで新聞づくりに関わることになりました。以来大正14年/1925年9月まで、25歳から30歳まで、貴重な20代後半の社会勉強の時期に、文芸記者として邁進します。

 どうやったら充実した文藝欄がつくれるか。どうやったら文藝をマスメディアの扱う一ジャンルとして発展させていけるか。試行錯誤、いろいろと頭を悩ませながら働いたこの5年間が、佐佐木茂索という稀代の雑誌出版プロデューサーを生み出す礎になったことは、おそらく間違いないでしょう。

 文芸部主任だった当時、佐佐木さんが新聞の文藝欄にどんな姿勢で臨んでいたか。こんなことを語っています。

「私が新聞の文藝欄に関係してゐて、何が文藝欄に第一に必要だと感じてゐるか。いゝ批評である。凡そ今日の如く、いゝ批評家のゐない時節はない。

今日の批評が、おほむね印象批評であるだけに、しかもこの批評が直に価値判断を下さんとするものであるだけに、人が一段と獲難いのである。」(『人間』大正11年/1922年1月号 佐佐木茂索「羅布断章」より)

 だそうです。ちなみにこの頃の『人間』の編集兼発行人は植村宗一=のちの直木三十五さんだった、というのは、とりあえず措いておきますが、創作は創作だけがあるのではなく、隆盛のためには、いい批評が絶対不可欠だ、力ある批評家よ出でよ、と言っています。どんな時代でも言われがちな、ないものねだりのスローガンかもしれません。ただ、文芸ジャーナリズムの編集側に立ったことで、佐佐木さんがより批評の重要性を感じた、とは言えそうです。

 『時事新報』の文藝欄は、佐佐木主任の時代にさまざまに趣向を凝らし、そして大正後期のこの頃、ずいぶんと評判となったと言われています。だいたい謙遜ぎみの回想をする佐佐木さんをして「相当評判のよい文藝欄を作つてゐた」(「新聞記者時代」)を書かしめるぐらいですから、推して知るべし、という感じです。

 とくに「いい批評」ということで言うと、川端康成さんに時評を書かせたことが挙げられます。どこの馬の骨ともわからない……と言うと言いすぎですが、大正11年/1922年、『新思潮』同人の東大生というペエペエの青二才だった川端さんに文藝時評をまかせ、批評家・川端康成に光を当てたのは、佐佐木さんの慧眼だったと考えられます。

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2021年10月 3日 (日)

片岡貢(報知新聞)。直木三十五といっしょに雑誌をつくるはずだった人。

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 直木三十五さんのまわりにいた文芸記者五人衆。二人目に紹介するのは『報知新聞』の片岡貢さんです。

 ……と、いきなり言われても、何のこっちゃという感じでしょうが、五人衆については先に取り上げた『時事新報』笹本寅さんのエントリーをご参照ください。直木さんが亡くなる寸前、昭和8年/1933年~昭和9年/1934年ごろに仲良くしていた文芸記者のグループです。

 笹本さんによれば、昭和8年/1933年の夏、最初は直木さんとは関係なく、日ごろから親密に付き合っていた5人の文芸記者が、自分たちの名前で責任をもって文章を書いて発表する媒体を持てないだろうか、と相談しはじめたのだそうです。はじめは『ヂヤーナリスト』という仮の誌名を構想していましたが、やがて『学藝往来』と題案が変わり、さらにそこに直木さんも加わって、いよいよ創刊の目途がつく頃には誌名を『日本文藝』とすることが決まりました。そのいきさつは、笹本寅さんの「「日本文藝」のこと――直木三十五氏追悼――」(『文藝』昭和9年/1934年4月号)に詳しいです。

 その追悼文には、同誌創刊号の、およその目次アイディアも載っています。直木さんに関していうと、「元寇(歴史小説連載)」「文学評論」「新聞社会画評」「日本剣道史」「匿名小説(現代もの)」などの他、その目次に挙がっていないものでは、小説「私」の続篇とか、「私」に対する批評への感想(というかおそらく作者側からの反論)も書くつもりだったようです。ほんとに一人でこんなに書けるのかよ、と言いたくなるほどの文量ですが、書くよ書くよ、と口先ばっかり達者なくせに、けっきょく書けやしない人って、いまでもいるんですよねえ、と微笑ましくも思えます。

 そこに「純粋文学盛衰記」を連載するつもりだった笹本寅さん、と並んで、発起人5人のうち寄稿予定者に名前を連ねたのが、片岡さんです。「世界ヂヤーナリズム紹介(第一回ヒツトラー治下のヂヤーナリズム)」と、「H・G・ウエルズの論文」の訳をするはずだった、とわかります。

 片岡さんがどういう文学観をもち、どんな夢を抱いて自分も小説を書こうと思ったのか。よくわかりません。しかしこの頃、片岡さんはまだ30代半ば。国内外の文学(純文藝も大衆文藝も含む)のみならず、ジャーナリズム、社会、国家、歴史、などなど幅広い分野で、言いたいことや書きたいことがウズウズとたまって仕方なかったんだろうな、とは想像できます。

 というのも、『日本文藝』を(お金の面からも)バックアップしてくれるはずだった直木さんが、創刊まぎわの昭和9年/1934年2月に死んでしまって、「余りに大きな精神的打撃」(『衆文』昭和9年/1934年4月号 片岡貢「『日本文藝』のこと」)を受けてもなお、何か筆を使ってぶっ放したいぜ、という意欲が衰えず、翌昭和10年/1935年、今度はプロレタリア畑出身の大衆作家、貴司山治さんのもとに参集して、ついに雑誌創刊までこぎつけるからです。

 それが昭和10年/1935年4月に創立された実録文学研究会が出した『実録文学』(同年10月創刊)です。

 昭和9年/1934年に直木さんが亡くなり、その直後に直木賞が構想されるわけですが、前後して吉川英治さんが『衆文』『青年太陽』を出したり、三上於菟吉さんがサイレン社を興したり、また貴司さんが言い出して『実録文学』が生まれたりと、この頃の大衆文壇の動きはなかなか活発で面白いものがあります。単に「日本を礼讃する右翼傾向に偏った歴史認識」が大衆文芸界に跋扈した、とだけ見ていては、おそらくこの時代の直木賞周辺の動きをつかみそこねるんでしょう。

 尾崎秀樹さんは『実録文学』について、このように解説しています。

「このグループ(引用者注:実録文学研究会)の主旨は、マスコミの走狗となり、文学本来の大衆性を失い、低俗化した一般の文学的風潮を批判すると同時に、新たに実録文学を提唱したものだった。そして全国各地方の郷土史料を蒐集し、正確に記録し、それをもとにしてつくり出される大衆小説、それが実録文学だというのである。同人には海音寺氏(引用者注:海音寺潮五郎)のほかに、岩崎栄、片岡貢、木村毅、貴司山治、大津恒吉、笹本寅、田村栄太郎、戸川貞雄、植村清二の諸氏の名前がみられる。」(昭和53年/1978年12月・朝日新聞社刊 尾崎秀樹・著『海音寺潮五郎・人と文学』より)

 その後、貴司さんと、片岡・笹本コンビとのあいだに、何らかの亀裂が入ったらしく、この研究会は空中分解。片岡さんたちは、直木賞をとった海音寺さんとともに『文学建設』(昭和14年/1939年1月創刊)をつくることになって、新たな歴史文学の創造を築こうと悪戦苦闘していきます。戦前戦中、大衆文芸がどういう道を歩んでいくのか、困難な状況を抱えた時代に、片岡さんも相当悩んだでしょう。文学というより、国際分析、世界の歴史のほうへと関心の軸足を移していった模様です。

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2021年9月26日 (日)

由里幸子(朝日新聞)。芥川賞の歴史における女性作家を語らせたら第一級。

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 第161回(平成31年・令和1年/2019年上半期)の直木賞を覚えているでしょうか。ほんの2年まえのことです。

 この回は候補者の全員が女性になったぞ、といって微妙なバズリが起きたときです。あまりに微妙すぎたので、大半の日本人は早くも忘れちゃったかもしれませんが、このとき「女がどう、男がどう、とそんなことを取り立てて話題にするのがおかしい」と意見している人がいました。たしかにそうなんでしょう。だけど、直木賞における性別の盛衰は、それを追うだけで一生たのしく過ごせるぐらいに骨太な研究テーマだと思います。あえて女性をピックアップすることに、あんまり目くじらを立てないでください。

 直木賞に限ったことじゃありません。近代日本社会の縮図ともいえる「文芸記者」の世界もやはり、殿方ばかりが跋扈する時代が長くつづきました。うちのブログで取り上げてきた文芸記者も全員男性です。そろそろだれか女性の記者にも登場願いたいな、と思っていろいろ考えた結果、文学賞と縁の深い人といってパッと思いつく記者を挙げることにしました。『朝日新聞』の由里幸子さんです。

 由里さんは、どちらかといえば(いや、どちらかといわなくても)完全に純文壇のほうに強い文芸記者です。現役の記者として活躍したのは昭和の後期から平成にかけてで、そこまで遠い昔ではありませんが、それでも由里さんお得意の範疇は明らかに芥川賞のほうでした。基本的に直木賞になんか興味がなかったんじゃないか……とさえ思ってしまいます。

 たとえば、そう思う理由のひとつが、『朝日新聞』に載った「100回迎える芥川・直木賞」(平成1年/1989年1月11日)という解説記事です。

 第100回の回数をかぞえた両賞の歴史を短くまとめながら、どういう変遷を経てきたか、いまどんな問題を抱えているか、評論家などのコメントを紹介しつつ読者の考えるきっかけにしてもらおう、というなかなか難しいお仕事です。これを書いたのが由里さんで、記事の内容としては、賞の芸能化が進み、同時に受賞作の水準が低下してきた、という平凡で穏当なところに落着していて、さすが文芸記者というのはうまいもんだな、と感嘆させてくれるんですが、「五十年以上の歳月に、両賞の性格も、文学をめぐる状況もかわった。」という文章から続く後半部分は、えんえんと芥川賞のハナシばっかりしています。直木賞のナの字も出てきません。おいケンカ売ってんのか、と直木賞ファンとしては吠えたくなるところです。

 しかし、直木賞ファンのみなさん、ご安心ください。由里さんは改心します。いや、別に改心はしていないんでしょうが、文芸記者として(もしくはひとりの文学愛好家として)強烈な関心事項があったために、ここから先、直木賞にも徐々に関心の目を向けざるを得なくなってしまうのです。

 由里さんの強烈な関心事項……それは「女性作家の活躍ぶり」です。

 『「国文学解釈と鑑賞」別冊 女性作家の新流』(平成3年/1991年5月・至文堂刊)に由里さんが「女性作家の現在」という文章を書いています。ここで「私が「女性作家」にこだわるのは、彼女たちの作品には文学の軸とともに、各時代の女性の意識が反映された軸が交差しているからなのだ」と、このテーマに関心を寄せる理由が披瀝されているのですが、割合的に男性が多かった『朝日』学芸部のなかで、文学(文壇)と関わってきた由里さんの、文芸記者としての特徴のひとつが「女性であったこと」は、やはり無視できません。

 しかも、商業的な文芸出版の世界も、ちょうど由里さんが学芸部に配属された頃から、女性作家の台頭が目覚ましく進展しました。同時代の空気を吸いつつ文学の動向に寄り添っていくことは、文芸記者の使命のひとつです。由里さんの目の前で、次々と女性が芥川賞を受賞していく……といった体験も踏まえて、こう書いています。

「七九年上半期から八八年下半期まで、ちょうど第八十一回から第百回までの芥川賞は、秋山駿の予言があたったかのような光景となった。十七人の受賞者のうち、加藤幸子、高樹のぶ子、村田喜代子、李良枝ら、女性が九人までを占めたのだ。

芥川賞には、ほぼ同時期に登場した津島佑子、増田みず子、干刈あがた、中沢けいといった現在の文学を語るとき、見逃すことができない女性作家たちが入っていない。男性でも村上春樹、立松和平、島田雅彦、高橋源一郎らの名前が入っていないのだ。つまり、八〇年代に文学が多様化し、いわば周辺の方が活性化した。にもかかわらず、芥川賞は文壇の中心に位置していたからこそ、皮肉なことに、一部の女性作家をのぞくと、文学の新しい波を捉えきれなかったというわけだ。」(『女性作家の新流』所収 由里幸子「女性作家の現在」より)

 芥川賞は、実力派の作家たちをたくさん取りこぼしてきたポンコツ文学賞。といったことは、まあ誰でも思いつく定型の常套句です。ところが、それを「こんなにも女性作家がとっていない」という観点から提示した論者は、正直あまり見かけたことがありません。おお、これぞ由里さんの個性。と、思わず目を引くとともに、この調子で第100回にいたるまでの直木賞での女性作家の隆昌も語ってほしかったなあ、と悲しくなってしまいます。

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2021年9月19日 (日)

辻平一(大阪毎日新聞)。新聞社から売れる週刊誌をつくり上げた大衆文芸界の偉人。

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 ワタクシは直木賞のファンです。直木賞のことだけ見つめていたいのです。ところが世間は、そう単純じゃありません。

 「直木賞を知りたければ、直木賞以外のものを見ろ」という格言があります。ありましたっけ。よくわかりませんが、たしかに直木賞は、「じゃないほう」の存在として長命を保ってきた、という側面があります。「芥川賞(純文学)じゃないほう」「エロ・グロじゃないほう」「通俗読み物じゃないほう」「売れスジじゃないほう」……ってことは、直木賞を知るには、「じゃあるほう」の芥川賞とか純文学、エロ・グロ・通俗、あるいはそのときどきで「ブーム」と呼ばれる現象を起こしてきた多種多様な小説ジャンルを知っておかないと、ハナシになりません。こちらは直木賞を見つめたいだけなのに、まったく世間の複雑さにはうんざりします。

 それで、仕方なしに昔の文壇回顧物とか大衆文芸の歴史とかを調べることになるんですけど、このとき必ず通ることになるテッパンの本があります。『文芸記者三十年』(昭和32年/1957年1月・毎日新聞社刊)や『花にあらしのたとえもあるぞ』(昭和57年/1982年8月・私家版)……『サンデー毎日』記者として活躍した辻平一さんの作家交友録です。

 辻さんと直木賞といえば、いろいろエピソードがあります。『サンデー毎日』の懸賞でデビューして「直木賞初の懸賞出身受賞者」になった海音寺潮五郎さんとの生涯にわたる交流とか、戦後、直木賞をとるまえの新進作家だった源氏鶏太さんを『サンデー毎日』の読み切り連載に大抜擢したとたん、源氏さんが直木賞をとって、直木賞に先んじて売れる作家に目をつける慧眼を発揮した件などなど。

 ともかく『サンデー毎日』は、大正期から昭和前半に「大衆文芸」を日本に定着させた、ということだけで歴史に名を刻まれてもいい、直木賞にとっても大恩あるメディアですが、そのなかで千葉亀雄さんと辻平一さんという二人の人物が関わっていたことが、いかに重要だったか。以前うちのブログでもさんざん取り上げたように覚えています。

 この二人には共通した特質がありました。すでに名の知れた流行作家や大家ばかりを起用するのではなく、新しい書き手を愛し、我が身を削って新人発掘に賭けたこと。……これに尽きるでしょう。

 新人発掘が大事だ、なんてことは、おそらく雑誌の編集者や新聞社の記者たち、多くの人がわかっていることです。なので、べつに千葉さんと辻さんの、二人だけに特有のハナシではないんですけど、「大衆文芸」懸賞に送られてきた何千編という応募原稿を全部ひとりで読み尽くして入選作を決めていた、という千葉さんの「狂っている」としか思えない伝説的な逸話などは、やはり新人発掘に身を削っていた証しでしょうし、辻さんもまた、新しい作家に入れ込んで支援を惜しまなかった姿が、さまざまに伝えられています。

 と、そんな辻さんのことを知るに当たってありがたいのが、息子にあたる辻一郎さんの『父の酒』(平成13年/2001年3月・清流出版刊)という一冊です。なぜありがたいのかというと、昔の有名作家とどんな交流をしていたか、というような、巷に腐るほど出ている文壇裏バナシの本とは一線を画し、「辻平一」という文芸記者の生態に、いちばんの焦点を当てて書かれているからです。

 ここにも、新人好き・発掘好きだった辻さんのことが、当然出てきます。

「出版界の大立者、この池島(引用者注:文藝春秋の池島信平)と父(引用者注:辻平一)をならべたのでは、非常識のそしりをまぬがれまい。しかしそうではあってもふたりは多くの点でよく似ていた。ただ残念ながら池島が身につけていた豪快さを、父はもちあわせていなかったが、雑誌づくりを〈骨の髄から好き〉な点では同じだった。それだけではない。池島は新しい作家を見出し、育てることを何よりの楽しみにした人物だったが、その点でも同じだった。それだけに意気投合することも多かったのだろう。手帖によれば、よく一緒に飲んでいる。」(辻一郎・著『父の酒』所収「父の酒」より)

 毎日ボーッと過ごしていると忘れがちなんですが、文藝春秋社の根本のどこかに、新人発掘の熱心さがあるのはたしかでしょう。直木賞とか芥ナンチャラ賞とかをつくって、この発掘企画を育ててきたのは、ひとつの現われです。新人起用に積極性を見せた『サンデー毎日』から、幾人もの直木賞候補者や受賞者が生まれていったのは、けっして偶然ではありません。文春の考えと相性のいい辻さんが、懸命に働いた結果だ、と見るのが自然でしょう。

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2021年9月12日 (日)

小塙学(共同通信)。芥川賞(と直木賞)にマスコミが群がり始めた当時の証言者。

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 こないだ、『没後15年 文芸評論家・小松伸六の仕事』(令和3年/2021年7月・北方文学研究会刊)をつくった盛厚三さんに会ったんですけど、その席でこんなことを言われました。「冊子のこと、Twitterで紹介してくれたみたいだね。だけど、川口さんのツイートって反響まったくないんだね」。ずいぶん、あきれた様子でした。

 そもそも何で、ワタクシのやることに反響がある、と盛さんが勘違いしていたのか。思い当るふしもなく、盛さんにガッカリされて正直こちらこそ困惑します。反響がなきゃ普通の人間は20年もサイト&ブログ運営をつづけないだろう、という推測なのかもしれません。残念ながら、直木賞が好きでやっているだけです。

 ということで、今年の6~7月は、ワタクシも小松伸六さんのことを自分なりに調べて、いろんなものを読みましたが、小松さんと縁のあった作家に井上靖さんがいます。井上さんは『朝日新聞』に「氷壁」を連載中の昭和32年/1957年、取材のために穂高の山麓を歩いて以来、たびたび仲間たちと山行を楽しんだ人です。およその目的は、年に一度、北アルプスの涸沢に登ること。その集まりは、いつからか「かえる会」と呼ばれるようになり、「氷壁」の挿絵を担当した生沢朗さんのほか、野村尚吾、瓜生卓造、福田宏年、長越茂雄などの諸氏のほか、新聞社・雑誌社の編集者や、少し年配の井上さんと親しい文筆家・作家の人たちもぞくぞくと参加します。

 「氷壁」の担当記者だった『朝日新聞』森田正治さんの回想録『ふだん着の作家たち』(昭和59年/1984年6月・小学館刊)によると、そこに小松伸六さんも「名誉会員」として名を連ねていたらしいです。「かえる会」には、森田さん以外にも数々の新聞記者がいたようで、今週は井上靖さんと親しかった「かえる会」会員の文芸記者を取り上げたいと思います。

 共同通信社に勤めた小塙学さんです。

 文芸記者にもさまざまなタイプがあります。うちのブログの視点でいうと、大衆文芸・エンタメ小説界に強い文芸記者か、そうでない記者か、という分類法が思い浮かぶところですけど、小塙さんはおそらく後者。純文芸の文壇に広く顔を売っていた人かと思われます。「直木賞」の歴史に登場することはありません。

 ……ないんですが、芥川賞のほうではその限りではなく、昭和30年代ごろの「芥川賞>>>>>直木賞」という芥川賞偏向ジャーナリズム時代にその中核で記者を務めてきた、文学賞史の重要な証人のひとりです。

 昭和34年/1959年、文春のライバル新潮社の『新潮』(3月号)が「芥川賞の候補者たち」と題する随筆ミニ特集を組みました。編集部に求められて寄稿したのは、落選組から有吉佐和子さん、澤野久雄さん、そして受賞者の小島信夫さんの他に、文芸記者の小塙さんでした。

 自ら報道する立場でありながら、小塙さんの基本姿勢は、芥川賞報道には戦後ジャーナリズムの異常性が現われている、というものです。半年に一回、芥川賞の季節になると、報道機関がワッと受賞者、候補者、選考委員たちのまわりにたかる。それで心を病み、あるいは過信・錯覚したすえにつぶれていく新人作家を生み続ける非人道的な現象。わかっているんだ。おれだって、それが異常なことは理解しているんだ。だけど、群がることをやめられず、えらそうに文学賞を分析・解説してしまう文芸記者の悲しき習性が、よく出ている文章です。

 その悲しさがわかるところがあります。芥川賞を盛り上げてきた共犯者たる文芸記者の責任を棚に上げ、けっきょく違うところを責め立てて、自分の原稿を終えている点です。

「芥川賞や直木賞はあくまでもピック・アップ方式によつて、銓衡が進められている。作家、批評家たちから広く作品の推せんを受けて、それを厳選したものが「予選通過作品」だとはいつても、その作品を書いた本人の“意志”とはやはり無縁である。候補に上げられればもちろん嬉しいだろうし、候補に上つた以上は、受賞したいという“願望”も持つだろうが、それはどこまでも間接的な“願望”である。勝手にピック・アップされ、勝手に論議されたあげく、ボイコットされて、あとはおかまいなしというのでは、少し残酷すぎはしないかという。

(引用者中略)

「予選通過作品」の決定だけは、もつと慎重にやつてほしいと思う。」(『新潮』昭和34年/1959年3月号 小塙学「残酷な文学賞」より)

 いやいや、主催者に責任を転嫁するより、まず自分のところの会社が、直木・芥川賞だけ異常に注目する姿勢をやめればいいじゃないか。……と思うのですが、小塙さんも文芸記者としての矜持があるんでしょう。もしくは会社員として、自社や自分の業界を批判しちゃっては出世に響きますから、そちらに矛先を向けられない事情もわかります。まったく悲しいとしか言いようがありません。

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2021年9月 5日 (日)

村田雅幸(読売新聞)。第150回直木賞取材記を『オール讀物』に寄せた唯一人の文芸記者。

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 昔のハナシって面白いですよね。

 過去に起きたことは、もう誰にも体験できないのに、一部を切り取っただけの資料や回想を頼りにして、ああでもないこうでもないと、未来の人間が勝手に感想を抱く。いまを生きるこちらには何の責任も伴いません。何十年も前のことを、安全地帯から眺めてエラそうなことを言う。これほど楽しい時間の使い方があるでしょうか!

 ということで、うちのブログもだいたい昔のことや、昔の人物ばかり取り上げています。だけど、楽しがってばかりもいられません。ナント直木賞はいまだに粛々と実施され、そのまわりではたくさんの文芸記者たちが蠢き、働いているからです。

 だよなあ。たまには最近の記者に視線を向けなきゃなあ。と思っていろいろ考えたんですが、2000年代から2010年代、平成後期の直木賞を語るうえで、この記者は外せないだろうという人がいますので、今週はそんな現役の記者のことで行きます。『読売新聞』文化部の村田雅幸さんです。

 村田さんはいまでも同じ部署で働いていると思いますが、とくに直木賞に関する「報道」を盛んに書いていたのは、直木賞第140回(平成20年/2008年下半期)ごろから約10年ぐらい、2010年代なかばごろまでです。つい最近です。

 ワタクシみたいな、出版業界に関わりのない一般シロウトは、直木賞のことといったらまず新聞記事で知る、というのが長年の伝統でした。それが徐々にインターネットのサイト、記事、SNSへと変わってきたのが2000年代から10年代。村田さんが直木賞報道の中核に出てきたのも、ちょうどその時期です。

 村田さんが報じる記事には、ワタクシもずいぶんお世話になりました。『読売』の特徴なのかどうなのか、この新聞にはやたらと文学賞を深掘りして解説する「文学賞好き」な記者が多い印象があり、村田さんもそういうなかで自然と文学賞報道の手練手管が磨かれたのか、巷で行われている文学賞――とくにエンターテイメント小説系の賞を、さまざまに切り取って記事にしていたからです。

 残念なことに、そういう新聞本紙に載った記事は、歴史の渦に埋没していきます。のちによっぽど文学賞好きな人が現われないかぎり、発掘されることもないでしょう。しかし村田さんの数ある仕事のなかで、確実に後に残るだろうという直木賞に関する業績がひとつあります。『オール讀物』平成26年/2014年2月号に載った「百五十回に何が起こったか」です。

 通常、1月の直木賞は中旬ごろに決まります。第150回(平成25年/2013年・下半期)であれば1月16日です。毎月21日前後が発売日の『オール讀物』に、その結果が出るのは翌2月の発売号(3月号)なわけですが、第150回のときだけ「緊急校了態勢で」(同号「編集長から」)、16日に決まった結果のみならず、会見の様子、朝井まかてさん、姫野カオルコさん2人の受賞者へのインタビューなど、かなりふんばって誌面に反映させ、1月売りの2月号に最新の直木賞ニュースが載りました。そんな事情を知らない全国にいる読者の多くは、ふーんと鼻クソでもほじりながら手にしたものと思います。

 それはそれとして、その特集に『読売』の村田雅幸さんが寄稿している、という点に注目しないわけにはいきません。直木賞にとってどれだけ文芸記者が重要なのか。彼らはいつも陰に隠れて、存在感を消していますが、直木賞と記者の深いつながりをしっかり読者に伝えたところが、この号の編集の勝利です。

 村田さんの文章は、もちろん直木賞のことを書いています。しかし、そこは優秀な人ですから、編集意図をきちんと汲み取って、「直木賞を報道する自分」に落とし込み、「第150回目の直木賞」を取材して報道している自分とはいったい何なのか、というところまで筆を伸ばそうと努力します。

「百五十回と百四十九回の違いは、区切りがいいか悪いかだけなのに、それでも人は、百五十回に価値を見出し、大騒ぎをする。

(引用者中略)

締め切りまで四十分しかない。(引用者中略)「何せ百五十回なのだから」。そんな気負い方をしている自分がなんだかおかしくなり、すっと楽になった。それからの四十分のことは、よく覚えていない。どうにか間に合わせ、一息つくころには、もうすぐ日付が変わろうかという時刻になっていた。そしてようやく、“お祭り”の余韻に浸ることができた。」(『オール讀物』平成26年/2014年2月号 村田雅幸「百五十回に何が起こったか」より)

 どうしてそんなことまでして文芸記者は直木賞に光を当てたがるのか。そこのところは、いまいちよくわかりませんけど、いちいち考えていても仕事にならない、ともかくいま目の前にある現象を手際よく記事にするのが、直木賞に向かうときの文芸記者の心根だ、ということは伝わってきます。

 そんな体力の消耗戦を、よくも何十年も続けられるよなあ、と感心してしまいます。よくよく文芸記者というのは、不思議な人種なんでしょう。

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2021年8月29日 (日)

門馬義久(朝日新聞)。直木賞受賞前の久生十蘭に、ケンカ腰で連載を書かせる。

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 あらためて告白します。ワタクシは直木賞が大好きです。何かを調べるときは「直木賞に関係するかどうか」から入ります。小説の愛好者からは邪道だと馬鹿にされ、作家志望の層からは単なるゴシップ漁りだと軽蔑されて、けっきょくどこに行っても仲間のいない孤独な日々ですけど、自分の好みは変えられません。仕方のないことです。

 で、今週の主役の門馬義久さんも、直木賞と深い関連はなさそうです。だけど、直木賞を調べていると、どうしたって目に入ります。存在感がハンパありません。

 たとえば、永井龍男さんに『回想の芥川・直木賞』(昭和54年/1979年6月・文藝春秋刊)という本がありますが、そこに異常なこだわり癖をもった作家として久生十蘭さんが出てきます。久生さんはあまりに文章表現にこだわりすぎて原稿の進みが遅く、さらには「原稿はもう出来上がっているんだ」などと言って担当記者を油断させておきながら、なかなか仕上がらず、編集者たちを困らせた……というのは有名な逸話なんだそうです。探偵小説の界隈では有名なんでしょう。こういうハナシも、ワタクシは直木賞(というか永井龍男さんの文章)を通して知りました。

 永井さんが披露しているのは、こんなエピソードです。

 『朝日新聞』に久生さんが連載中、担当記者が原稿を取りに鎌倉の家を訪ねると、すでに東京駅に「駅止め便」で送ったところだという。ところがこれが大ウソで、記者が東京の本社に行ってもそんなものは届いていない。あせった記者は、もう一度鎌倉に舞い戻り、一枚でも二枚でも頂かないかぎりは帰りません、と宣言。すると久生十蘭、何を血迷ったか奥さんに、しまっておいた機関銃を出せ、いまからこの男を撃ってやる、と言い放ったのだそうです。ムチャクチャです。

「子供だましにも程のある話だが、作り話ではない。当時久生十蘭係りを担当した。朝日文化部記者、M氏から直接聞いた実話である。腹は立つし、可笑しいし、M氏はその場の始末に困ったということだった。」(永井龍男・著『回想の芥川・直木賞』「第二章」より)

 と、ここに出てくる朝日の文化部記者M氏が、門馬義久さんを指しているのは明らかです。昭和26年/1951年『朝日』夕刊に連載された「十字街」の担当だった門馬さんは、この手の「久生十蘭に困らされた逸話」を、他にもいろいろなところで話しているからです。

 そちらを参照してみると、久生さんが困った作家なのはもちろんなんですが、対する門馬さんも大したタマで、かなり血の気の多いやりとりをしていたことがわかります。門馬さん、まだ30代なかばの若手です。それが50歳手前の久生さんと丁々発止、とにかく「連載の原稿をもらってくる」という自分の仕事に必死に邁進しています。

 機関銃のエピソードも、門馬さん本人が語るところでは微妙に永井さんの筆と違い、先に物騒な言葉で脅しをかけたのは、門馬さんのほうだったのだとか。

「朝、「すぐ出来る」というので紅ヶ谷の彼(引用者注:久生十蘭)の家へ出かけて行くととんだ出鱈目。「おっつけ出来る」と言うから上りこんで待つ。昼食が済んでもまだ出来ない。(引用者中略)いい加減じりじりしてくる。「出来た」というのを受け取って社へ出ようとすると「ちょっと待て」。「気になるところがあるから手を入れたい」というのである。

一日積りに積った鬱憤が爆発した。「もう駄目だ。原稿が間に合わなければ、社を辞め、女房子供連れてここへ住み込む、その積りでいろ、義秀(中山義秀)のとこで刀を借りてきて、ぶった斬る」とやった。すると十蘭は夫人に、「おい、押入から機関銃を持って来い」と来た。これには思わず大笑いしてしまった。」(平成13年/2001年2月・鎌倉山教会刊『トタン屋根の牧会者 鎌倉山教会と門馬義久』所収 門馬義久「思い出の人――山本周五郎――」より)

 おそらく長い記者生活のなかでも、久生さんとの攻防は強烈だった、ということなんでしょう。のちに「困らされた作家」を門馬さんが語るときには、持ちネタのひとつのように、たいてい当時の久生さんのことが出てきます。

 それとこの話を読んだとき、もうひとつワタクシの心に残ったことがあります。時代は「十字街」連載のときですから昭和26年/1951年。ということは、つまり久生さんは直木賞の受賞者ではなかった時期なんだな、という点です。

 門馬さんの回想に、そのことが書かれているわけではありません。ただ、夕刊とはいえ『朝日新聞』の連載に抜擢されるような作家は、ある程度、実績を積んだ人であることは間違いなく、そのあたりは1950年の頃も、まわりの人たちに共有されていたでしょう。

 それから約半年後に開かれた第26回(昭和26年/1951年・下半期)の直木賞選考会で、久生十蘭なんちゅう一家をなした作家に直木賞をやるのは賞の性格にそぐわない、と何人か反対して、選評にも「大家すぎる」とか「すでに人気を確立した人」とかさんざん言われました。その背景には、『朝日』連載に起用されたほどの作家、という感覚が選考委員のあいだにあったんだろうな、と推測が成り立つわけです。

 あまりの凝り性ゆえに、久生さんの直木賞受賞もこれほどに遅れてしまったのだ……というのは、ちょっと言いすぎかもしれません。しかし、久生さんが担当記者泣かせだった、というときに門馬さんの話は欠かせません。直接的にではないけど、直木賞の遠景に姿を見せる文芸記者、門馬義久さん。忘れがたく印象に残ります。

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2021年8月22日 (日)

金田浩一呂(産経新聞、夕刊フジ)。芸能化する直木賞で、記者会見の代表質問を任された男。

20210822

 これまでたくさんの文芸記者が生きてきました。たいていは裏方で、ほぼ無名な人たちですが、「名物記者」と呼ばれる人がときどき現われます。

 「名記者」ではありません。「大記者」でもない。あえて「名物記者」と呼ばれるからには、それなりの特徴があるはずです。人柄がユニークとか、表舞台で目立つことも厭わないとか。どこかネジの外れた変人クラスの記者に付けられる称号。それが「名物記者」です。たぶん。

 直木賞のハナシを調べていても、こういう人たちはやはり目に付きます。名物な人は、記者活動だけに終わらず、いろいろと文章を残し、著書というかたちで後世の人間も一端を知ることができたりします。ありがたいです。金田浩一呂さんもまた、その文壇交流の一部を『文士とっておきの話』(平成3年/1991年11月・講談社刊)にまとめてくれました。

 と、この本のなかみを紹介する前に、まずは金田さんがいかに直木賞と縁の深い人だったか。そこから触れてみます。

 時は1980年代。金田さんも十分に(?)記者として実績を積んだ50代のころ。直木賞は、爆発と炎上の時代を迎えていました。硬い文芸書の売れ行きが凋落するいっぽう、人気が出るのはポップで軽いものばかり。その風に流された文学賞(直木賞とか芥川賞ですね)もまた、やたらと芸能化が甚だしくなっちゃって、とても見ちゃいられない、などと揶揄され、馬鹿にされた時代です。

 そんなタイミングで『新刊展望』に「文学賞の話」というシリーズ読み物の連載が始まります。書き手は『夕刊フジ』学芸部の記者、金田さんです。

 昭和57年/1982年1月号から昭和58年/1983年8月号まで全20回。毎号ひとつずつ文学賞のことを取り上げ、その創設経緯や歩み、裏バナシなどを解説していくという内容です。連載の第1回目が、直木賞じゃなくて芥川賞なのは、両賞に対する一般的な風潮が現われていて、もう「そりゃそうだよな……」とため息をつくばかりですけど、このときに金田さんは直木賞をどう紹介したか。ちょうど第85回(昭和56年/1981年・上半期)の発表から半年経たず、といったタイミングでしたので、とにかく話題は「直木賞(と芥川賞)の芸能化」についてでした。

 受賞者の記者会見が行われた。こんなことを毎回やって記者が集まるのは、直木・芥川賞ぐらいのものだ。しかも第85回は、青島幸男さんが直木賞をとったというので、NHK、日本テレビ、TBS、フジテレビ、テレビ朝日、テレビ東京と、在京キー局6つが取材に来た。これは、両賞史上はじめてのことだった。さらに大きな特徴は、翌日の新聞は一般紙よりもスポーツ紙の芸能面のほうがこの受賞を大きく扱った。これもまた、いままでにはなかった現象だ。第34回(昭和30年/1955年・下半期)の石原慎太郎の芥川賞受賞が、この賞を社会現象化させたのだとすると、以来25~26年、いよいよ文学の芸能化現象にまで到達したのだ。うんぬん。

 まったくです。この段階で、暗くてジメッとした文学行事「直木賞」の命は終わった、とも言えるでしょうし、派手でチャラチャラした芸能ニュースとして直木賞の新たな命が始まった、と言っていいでしょう。楽しい世界の到来です。わーい。

 この状況を現場で逐一目の当たりにしたひとりが、金田浩一呂という人物だった。……というわけですが、金田さんの文章を読んでも、そこまで「芸能化」を悲観していないのは、この記者の特質かもしれません。それよりも金田さんが問題視していたのは、おそらく直木賞の「節操のなさ」です。

 いや。節操のなさ、というか、基準のあいまいさ、というか。何を選考基準に据えて、どういう目的で賞を与えるのか。あまりに茫漠として、まわりの文芸記者のみならず、当の選考委員たちさえ共通見解を持てていない。どうなっとるんじゃ。ということです。

 芥川賞は「作品」に与えられるのに対して、直木賞は「作家」が重視される……と、よく言われます。それなのに、直木賞にも「候補作品」があって、選考の前提はそれらの作品です。金田さんが取材に当たっていたときも、この不思議な状況のおかげで、何度も直木賞のおかしさに遭遇したものと思います。選考委員の城山三郎さんが、作品重視で行こうとして、作家重視の選考風土に合わず辞任した、なんてこともありました。

「作品一本ヤリの芥川賞と違い、直木賞はプロ作家としての実績も物を言うのではないか。少なくとも私などは、そう聞かされ、理解してきた。(引用者中略)

“作品”か“人”かは、いつも問題になる。勧進元の文藝春秋は、そこらをある程度まで、はっきりすべきだ、と思う。」(金田浩一呂・著『文士とっておきの話』「せっかちで勉強家(城山三郎)」より)

 ワタクシみたいに外野から遠目に眺めている分には、そこら辺がはっきりしていないからこそ、直木賞は面白いんじゃないか、と感じます。しかし、賞の当落で生まれる人間模様を見たり、じっさいにそこに関わる人たちと個人的な付き合いも重ねてしまった文芸記者は、面白がってばかりもいられないのでしょう。いつもモヤモヤした感情を、周囲に抱かせる。直木賞の、ほんとイケないところです。

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2021年8月15日 (日)

笹沢信(山形新聞)。元・芥川賞信者。年を経て直木賞受賞者の評伝を書いた人。

20210815

 新聞の文芸記者にはいろんな人がいます。当たり前です。東京に本社がある、いわゆる「全国紙」と呼ばれる新聞だけが、記者の職場ではありません。少し他の地方のことにも目を向けてみたいと思います。

 直木賞もそうですし、芥川賞なんかはもっと強烈ですが、この二つの賞は「東京とそれ以外の地方」という地域的な文学環境が日本でどのように変化し、発展(ないし衰退)してきたのか、という社会的なテーマをはらんだ文学賞です。単に、受賞者にどの地方出身者が多いか・少ないか、みたいなことだけじゃなく、東京を中心とする文芸出版で生まれた権威性が、各地域に伝播して受け取られるうちに、やたらと羨望されて持ち上げられ、実質以上のブランド力を得ることになっていく、という問題もあります。

 それはそれとして、「日本各地における直木賞の受容の歴史」は、また改めて調べていきたいところですが、今日はひとまず山形の、一人の文芸記者のことを取り上げます。昭和の半ばから『山形新聞』で文芸記者として活躍したあと、退職してから山形出身の有名な直木賞受賞者について、評伝を2冊も書いてしまった人。笹沢信さんです。

 笹沢さんには、井上ひさしさんのことを書いた『ひさし伝』(平成24年/2012年4月・新潮社刊)と、それから『藤沢周平伝』(平成25年/2013年10月・白水社刊)があります。平成26年/2014年4月に亡くなったあとには、遺稿的な扱いで『評伝 吉村昭』(平成26年/2014年7月・白水社刊)も出ました。

 吉村昭さんは直木賞とは少し距離がありますけど、妻の津村節子さんが直木賞の候補者になった辺りのハナシは吉村さんとも無縁ではなく、評伝のなかには当然「直木賞」の文字も出てきます。そもそも吉村さんは、純文学の作家とは見なせるでしょうけど、芥川賞の人でないことはたしかですし、オール讀物新人賞、新田次郎文学賞、吉川英治文学賞の選考委員にお声がかかったところを見れば、直木賞寄りの(「大衆文芸」寄りとは違う)作家だとも思えます。

 ともかく、井上ひさし、藤沢周平、吉村昭。……と、全国区のビッグネームすぎる作家を、晩年になってわざわざ執筆の対象に選んだところが、笹沢さんの大きな特徴です。それぞれの作家の履歴と作品のなかに、山形という地域がどれだけ影響を及ぼしたか、ということを手をかえ品をかえ差し挟んでくる技が、山形人・笹沢信の腕の見せどころで、また読みどころでしょう。

 しかし、それとは別に、これらの評伝3作には、隠しがたい笹沢さんなりの屈託が出ています。ワタクシにとってはそこが最も興味惹かれる部分でした。というのも笹沢さんは昭和40年/1965年~平成10年/1998年に『山形新聞』の文芸記者を務めながら、同時に自分でも創作を志す同人誌作家だった、ということです。昭和30年代後半以降、ひさし、周平、昭の小説が続々と書かれ、出版界を賑わせた時期、大学生から社会人になっていった笹沢さん自身は、ひとりの文学青年として三者の作品に接していた、と言います。

 大学時代は同人誌に参加し、そこでは芥川賞の季節になると、候補作の発表と同時に作品を取り寄せて、みんなで受賞作を予想する賭けをした(『評伝 吉村昭』「はじめに」)なんて回想もあって、これがだいたい60年ぐらい前の昭和30年代後半です。いまも、1月と7月には、ネット上でいろんな人が予想記事を出していますが、ああいうのは半世紀以上まえからやっている人たちがいたんだ、日本の文学賞予想文化って、けっこう奥深いんだな、と正直ヒいてしまいます。

 それぐらいならまだいいんですけど、笹沢さんの黒歴史はそんなものじゃありません。芥川賞至上主義だった己の過ちを、こんなふうに振り返っています。

「わたしにも、文学は〈純文学〉であらねばならぬ、という〈信仰〉に囚われていた時期があった。「芥川賞にあらずんば……」である。直木賞となると敬遠する、というより無視する傾向にあった。愛読していた立原正秋や五木寛之の初期の作品が直木賞を受賞したときは憤慨さえ覚えたものだ。周知の通り、ひさし(引用者注:井上ひさし)は直木賞作家である。」(笹沢信・著『ひさし伝』より)

 井上さんの直木賞受賞は昭和47年/1972年上半期。立原さんや五木さんの受賞は、それより5年ぐらい前のことです。ふうん、昭和40年代っていうのは、そういう文学青年が跋扈していたんだよね、時代だよなあ、と、ここは軽く受け流す記述なんでしょう。

 だけど、正直いってワタクシは腹が立って仕方ありません。こんな文学かぶれのキモい信者が、当時、若手の記者として平気な顔して新聞をつくっていたというのです。直木賞は無視してもいいんだ、程度の認識で文学なるものをとらえる視野の狭いアホめが。何が「憤慨さえ覚えたものだ」だ。それを言いたいのはこっちだよ。

 ……まあ、昔の笹沢さんに怒ったって何の解決にもなりませんね。すみません。おそらく笹沢さんもその後、記者として働くうちに自分の未熟さを反省し、直木賞の先見性や意義について見直してくれた、とは思うんですが、あまりそういう気配が著作物から伝わってこないのが残念です。

 それでも、直木賞に何ひとつ興味がなかったはずの笹沢さんが、晩年にいたって、けっきょく直木賞受賞者を評伝を書くにいたったその心境や、出版状況の変化が面白いのだ、と言いたいと思います。全国の文学青年に馬鹿にされながら、それでもめげずに、コツコツ積み上げてきた直木賞の苦悩の歴史が、笹沢さんのバッグに透けて見えるからです。

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2021年8月 8日 (日)

笹本寅(時事新報)。作家たちに愛されて、文学史の一大事に居合わせる。

20210808

 直木賞に名が残る直木三十五さんとは、いったいどんな人だったのか。これはもう、けっこういろんな人がいろんな文献で紹介しています。この程度の作家にしては語られすぎだろ、というくらいです。

 作品の内容はともかく、直木って人はいくら語っても尽きないほどに面白い人だったんだな、ということかもしれません。直木さんの特徴といえば、何よりもまず、その人物の特異さです。それが、昭和初期にほんの数年で新聞・雑誌にドバーッと活躍の場を広げて流行児になった、大きな理由なんじゃないかとさえ思います。

 ともかく直木さんは人から愛されました。というか、まわりの人から面白がられました。作家、評論家、編集者……。そして、もちろん、そこに新聞記者も含まれます。ということで今日は、直木賞の前史、直木さんが生きていた頃に文壇と併走していた文芸記者のおハナシです。

 とくに直木さんの周辺にいた文芸記者のなかで、仲のよかった5人グループがあります。それぞれ別の新聞社に勤めていましたが、おれたちゃ署名なしの原稿もたくさん書くけど、それじゃどうしても責任感が稀薄になる、自分たちの名前で雑誌を出すことで、もっと責任をもって勉強していこうじゃないか……と話し合って、昭和8年/1933年夏に、雑誌発刊の計画を立てた若き文芸記者の面々。報知新聞の片岡貢、東京朝日新聞の新延修三、読売新聞の河辺確治、都新聞の豊島薫、そして時事新報の笹本寅さんです。

 とりあえずその全員、重要人物ですので、折をみて順次取り上げていきたいと思いますが、今週注目するのは、のちに直木さんばりの歴史物・時代物を書いて大衆作家となり、そのなかの一冊『維新の蔭』が第9回(昭和14年/1939年上半期)直木賞の予選で審議されたことがわかっている人。時事新報にいた笹本寅さんです。

 笹本さんの直木さんに対する肩入れぶりは、ちょっと異常に思えるほどで、相当その人柄に惚れ込んでいたようです。昭和8年/1933年12月、笹本さんは時事新報を退社、これはほとんど社のやり方に反対する意をこめた、辞表を叩きつけるテイの退社だったみたいですが、ここにも直木さんが絡んでいます。

 「時事新報退散記」(昭和9年/1934年3月・橘書店刊『文壇手帖』所収)によると、回数の制限はない、という条件で直木さんに連載小説を依頼し、「大阪落城」を書いてもらっていたところ、急に社の都合で「中休み」をお願いしたい、となったとき、最初の約束をたがえるようなことを言い出すわけにはいかない、もし直木さんの連載を終了させなければならないのなら、私は担当記者として詰め腹を斬ります、と義理を通して、けっきょく時事新報を辞めるにいたったそうです。

 美しいと見るべきか。アホらしいとあきれるべきか。わかりませんけど、義理と仁義こそ、たしかに笹本さんの人となりを示すトレードマークです。

 別の言葉で、大宅壮一さんはこんな笹本寅評を書いています。

「私が『人物評論』という雑誌を始めるころで二十年も前のことである。

大衆作家の笹本寅は、当時『時事新報』の文芸部の記者だった。(引用者中略)笹本は、新劇俳優の草分けの一人として知られた笹本甲午の弟で、若いころはサトー・ハチローなどとともに浅草を根城にした仲間である。気だては悪くないがけんか早い。それに人相もあまりよくない。」(昭和31年/1956年10月・角川書店刊、大宅壮一・著『人生旅行』所収「旅の相棒物語」より ―引用原文は『大宅壮一全集第七巻』)

 「気だては悪くないがけんか早い」……というのは、当時もいまもよく見る類いの人種です。そして、こういう人ほど、まわりから愛されるのが、この世の習いでしょう。喧嘩っぱやさゆえに、笹本さんはきちんと給料をもらえていた時事新報社を、わずか勤務3年たらずで辞め、文芸記者稼業からも短期間で足を洗うことになりますが、人から可愛がられ、面白がられる性格のせいか、その後も文芸界に踏みとどまって、多くの仕事を残しました。

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