カテゴリー「直木賞を支えた文芸記者たち」の32件の記事

2022年1月23日 (日)

川村律文(読売新聞)。最近5年間で最も多く、受賞者会見で質問マイクを握った人。

 こないだ第166回(令和3年/2021年・下半期)直木賞の受賞記者会見がありました。

 第144回(平成22年/2010年・下半期)の芥川賞をとった西村賢太さんによる、伝説の「そろそろ風俗に行こうかなと思っていた」会見が、およそ10年前。その回からニコニコ動画(ニコニコ生放送)で、直木賞の受賞者会見がナマで中継されるようになり、第152回(平成26年/2014年・下半期)からはYahoo!ニュースのTHE PAGEでも同様に、生中継が始まります。

 これらネット中継の功績は、いろいろとあるとは思います。なかで、ひとつ確実に挙げなくちゃいけないのは、両賞のまわりにひっついてン十年を数える「文芸記者」と呼ばれる人たちを、公衆の面前に引き出したことです。おそらくそのために生中継が始まったわけじゃありませんが、副産物としてはかなりの儲けものでしょう。

 直木賞という舞台の、第一の構成員が作家、第二が出版社の人たちだとすると、第三はメディアの記者たちです。それなのに、いったいどんな人が取材して切り取って報道しているのか、文芸記者の顔はなかなか観衆の目に見えません。ネットの生中継が始まったことで、チラチラッと映る質問者の影と、その声を聞くことができ、ほんとに生身の人間がまわりで直木賞を支えてきたのか! ということが実感としてわかるようになりました。

 ただ、映像だと、どうしてもカメラは受賞者のほうを中心にとらえてしまって、会見で質問する記者たちにフォーカスしてくれません。あそこで質問している人がいる。だけど、具体的にどんな姿かたちの人なのか、よくわからない。何年か前からワタクシも可能であれば受賞会見場に足を運びはじめましたが、その最大の理由は、質問する記者たちの生身の姿をどうしても間近で見たかったからです。コロナ禍が始まってしまい、ここしばらく自粛して行けていませんけど、またこの状況が改善したら、「受賞者に質問を投げかける文芸記者」を見るために、あの場に行けたらいいなと思います。

 とまあ、文芸記者、文芸記者と言っていますが、彼らもひとりひとり実体を伴う別々の人間です。受賞会見ではかならず、数名の文芸記者が質問をする。じゃあ、いったいどこの何という人が質問しているのか、直木賞オタクとしては当然気になります。

 今度の第166回までのほんの5年間(10回分)だけですが、直木賞受賞者に会見で質問した人たちをリスト化してみました。これで、いま現在のリアルタイムな「直木賞に縁ぶかい文芸記者」が誰なのか、おのずと浮かび上がってきます。

回・年度 受賞者 質問記者 受賞者 質問記者
第157回
平成29年/2017年
上半期
佐藤正午 読売新聞・川村川村律文 読売新聞・川村(再)川村律文
西日本新聞・小川小川祥平 読売新聞・鵜飼鵜飼哲夫
朝日新聞・中村中村真理子 朝日新聞・高津高津祐典
毎日新聞・内藤内藤麻里子
第158回
平成29年/2017年
下半期
門井慶喜 読売新聞・川村川村律文 朝日新聞・吉村吉村千彰
読売新聞・鵜飼鵜飼哲夫 朝日新聞・渡[ワタリ]渡義人
毎日新聞・内藤内藤麻里子 共同通信・森原森原龍介
第159回
平成30年/2018年
上半期
島本理生 日本テレビ(ZIP)・平松平松修造 日本経済新聞・郷原郷原信之
読売新聞・川村川村律文 ニコニコ動画・高橋
→質問者:東京都30代
高橋薫
毎日新聞・内藤内藤麻里子 読売新聞・鵜飼鵜飼哲夫
共同通信・田村田村文
第160回
平成30年/2018年
下半期
真藤順丈 毎日新聞・内藤内藤麻里子 共同通信・森原森原龍介
読売新聞・川村川村律文 テレビ朝日・ナガノ
朝日新聞・宮田宮田裕介 読売新聞・鵜飼鵜飼哲夫
東京新聞・樋口樋口薫
第161回
平成31年・
令和1年/2019年
上半期
大島真寿美 テレビ朝日・シマダ 中日新聞・松崎松崎晃子
読売新聞・十時[トトキ]十時武士 日本経済新聞・ヤマカワ
毎日新聞・内藤内藤麻里子 朝日新聞・宮田宮田裕介
NHK・カワイ 共同通信・瀬木瀬木広哉
読売新聞・鵜飼鵜飼哲夫 読売新聞・村田村田雅幸
ニコニコ動画・高畑
→質問者:富山県40代女性
高畑鍬名
第162回
令和1年/2019年
下半期
川越宗一 西日本新聞・一瀬[イチノセ]一瀬圭司 読売新聞・池田池田創
毎日新聞・須藤須藤唯哉 朝日新聞・山崎山崎聡
北海道新聞・大原大原智也 報知新聞・北野北野新太
日本経済新聞・ムラカミ ニコニコ動画・高畑
→質問者:富山県30代男性
高畑鍬名
第163回
令和2年/2020年
上半期
馳星周 北海道新聞・大原大原智也 日本経済新聞・マエダ
西日本新聞・平原[ヒラバル]平原奈央子 読売新聞・十時[トトキ]十時武士
朝日新聞・興野[キョウノ]興野優平 報知新聞・中村中村健吾
第164回
令和2年/2020年
下半期
西條奈加 共同通信・瀬木瀬木広哉 読売新聞・池田池田創
日本経済新聞・マエダ 産経新聞・海老沢海老沢類
北海道新聞・大原大原智也 ニコニコ動画・高畑
→質問者:富山県40代女性
高畑鍬名
第165回
令和3年/2021年
上半期
佐藤究 西日本新聞・平原[ヒラバル]平原奈央子 澤田瞳子 読売新聞・川村川村律文
朝日新聞・興野[キョウノ]興野優平 ニコニコ動画・高畑
→質問者:東京都40代女性
高畑鍬名
産経新聞・海老沢海老沢類 朝日新聞・上原上原佳久
ニコニコ動画・高畑
→質問者:富山県30代男性
高畑鍬名 毎日新聞・須藤須藤唯哉
共同通信・瀬木瀬木広哉
第166回
令和3年/2021年
下半期
今村翔吾 読売新聞・川村川村律文 米澤穂信 ニコニコ動画・高畑
→質問者:愛知県20代女性
→質問者:東京都30代男性
高畑鍬名
中日新聞・谷口谷口大河 共同通信・鈴木鈴木沙巴良
山形新聞・木村木村友香理 岐阜新聞・井上井上吉博
共同通信・平川平川翔 西日本新聞・佐々木佐々木直樹
富山新聞・?

 記者のフルネームは、ワタクシが勝手に類推して補完したものなので、間違っているかもしれません。誤りがあったら、ごめんなさい。

 ということで、最近5年にかぎって見ると、会見を司会する日本文学振興会の人にたくさん指され、最も多くの質問を放った記者は(ニコニコ動画担当を除けば)、読売新聞・川村律文さんだということがわかります。都合7回。直木賞の会見は川村さんのおかげで保たれてきた、と言っても過言ではないでしょう。……いや、過言でしょう。

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2022年1月 9日 (日)

松田ふみ子(毎日新聞)。困っている人がいたら、手を差し伸べずにはいられない人。

20220109

 もっと詳しく調べたいなあ、と思いながら、手のつかない作家がいます。どんどん増えていきます。堤千代さんもそのひとりです。第11回(昭和15年/1940年・上半期)の直木賞受賞者です。

 いっとき集中して調べたんですけど、そうこうするうちにコロナ禍が来てしまい、現状、中途で止まっています。いつかまた調査を進めたいな。そう思いながらも、他にもやりたいことはたくさんあって、整理がつきません。中途半端のまま、けっきょくワタクシも死んでいくのでしょう。

 それはともかく、堤さんです。その生涯を追っていくと、ひとりの文芸記者にぶち当たります。松田ふみ子さんです。

 この人もまた「文芸記者」と言っていいのかどうか微妙な人なんですが、中央公論社の編集者だったところから、戦争のせいで失職の憂き目に遭い、幸運にも毎日新聞社に拾われて「新聞社の記者」となりました。はじめから週刊誌の担当だったそうで、幅広い分野を扱わなければいけません。ただ、文芸方面の原稿取りや取材も行い、作家とのエピソードもふんだんにお持ちの方ですから、ここは「文芸記者」のくくりで取り上げたいと思います。

 松田さんと堤さんが急接近したのは、どうやら戦時中のことでした。戦争が激しくなって、東京の空にもポツポツと敵機が飛来。そのたびに空襲警報が鳴り響くんですが、堤さんはご存じのとおり生来からだが不自由ですし、防空壕に入るのも一苦労です。当時、都心のど真ん中に住んでいた堤さんは、ほとほと困り果て、どうにか地方に疎開できないかと思いはじめます。そこで手を差し伸べたのが、記者として出入りしていた松田さんだったそうです。

「丁度そのころ、私は家族全部が、山梨県の中巨摩郡鏡村に疎開して、静かな日々を送っておりました。結婚した妹一家も、やはりこの村から少しはなれた町に疎開していました。幸せなことにこの妹の家は二階が二間もあって、のんびりしていました。堤さんが、ひどく困っていられるというので、私は妙に義侠心を出して、妹夫婦にたのみこんで、その二階を空けさせました。堤さんが、この時の喜び方と云ったら、私は今でも忘れません。命の恩人のように喜んで、早速、実子さんという、まるで姉妹のように温い心で堤さんの面倒を見ている女中さんにつきそわれて、山梨県にやって来て、妹夫婦の家に入りました。」(昭和33年/1958年・文陽社刊、松田ふみ名義『夫婦の愛情に関する三十八章』所収「21 愛すればこそ ―堤千代氏夫妻(小説家)」より)

 昭和20年/1945年3月、東京大空襲の直後ぐらいのハナシです。松田さんの妹は確認できるだけで3人います。上記の文章には妹の夫は東京の新聞社に勤めている、とありますから、朝日新聞社にいた佐藤哲男さんの妻、栄子さんが、堤さんを受け入れてくれた疎開先の人ではないか、と思うのですが、確証はありません。

 それはそれとして、ここに松田ふみ子という人の性格がくっきり現われています。困っている人がいれば助けたくなる。また、その筆で松田さんは、堤千代・福留理一のペアのことを深く結ばれた素晴らしい夫婦、みたいに描きました。他人のことを悪くとらえない、善意にあふれる記者だったんだろうな、と思わされます。

 たしかに、病弱な堤さんが伴侶と出会ったことで幸せな生活を送った、というのはある種の美談です。しかし、身近にいた人にとっては、どうも美しいばかりで済まされない事情や感情があったらしく、その辺りのことに松田さんは触れていません。あまり堤家のことに首を突っ込まなかった、ということかもしれませんけど、世の夫婦の生態をたくさん取材し、それを記事にしていた松田さんが、あえて千代さんのダークな部分に踏み込まなかったのは、松田さんが善意で物事を見る人だったからなのでしょう。

 堤千代のダークな部分。それをはっきり書き残した身近な人がいます。大屋絹子さんです。

 千代の実妹、絹子さんには『オフェリアの薔薇 堤千代追想記』(平成3年/1991年5月刊)という回想録があります。ただ、この一冊だけでなく、それから約20年後に夫の大屋麗之助さんと連名で『山路越えて・一隅を照らす』(平成24年/2012年5月刊)という私家本を残しました。読んでみると、前者に比べて後者は、姉に対する愛情だけでなく、確執や決別のところにまで踏み込んで書かれています。

 絹子さんから見る堤千代&福留理一ペアは、とうてい松田さんが描いたような美談の主人公ではありません。

「絹子は、大袈裟な福留さんのナイト気取りが嫌でした。亡くなったお父さんがいつも口癖のように教えてくれた「巧言令色鮮し(少なし)仁」という論語の一節を思い出しました。言葉巧みに人の気を誘ったり、いつも人の顔色をうかがったりする人は仁徳に欠けている、という意味です。

(引用者中略)

絹子は、ここ(引用者注:第一ホテル社長・土屋計雄の家)にも訪ねてくる福留さんが嫌で、すっかり夫婦気取りの二人から、何とかして逃げ出したいという気持ちもありました。」(『山路越えて・一隅を照らす』所収「山路越えて」より)

 福留さんが見せた堤さんへの献身的な姿を、どう見るか。いっぽうでは松田さんのように、世にも稀な崇高な愛情ととらえ、いっぽうでは絹子さんのように、周囲のことを考えない身勝手なふるまいととる。立場によって、こんなにも物の見え方は変わるのか、と思わされるハナシが、堤さんのまわりにはゴロゴロ転がっています。だからこの人の生涯は面白いわけですね。

 ちなみに堤さんが亡くなった昭和30年/1955年11月よりあと、福留さんは二、三の取材を受けて、ぱたりと表舞台から消え去ります。「わたしが死んだら、だれかいい人と再婚して幸せになってね」というのが堤さんの願いだったそうなので、それを実践したのかもしれません。まもなく別の女性と結婚、二人の子供をもうけて、専門だった真空工学の会社で立派に勤め上げた……らしいです。

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2022年1月 2日 (日)

頼尊清隆(東京新聞)。直木賞授賞式の席で、自身の激励会の構想が持ち上がる。

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 2022年、最初に取り上げる文芸記者は、やはり派手な人でいかなくっちゃな。そう思って、この方にしました。『東京新聞』の頼尊清隆さんです。

 どこが派手なんだ! と、ひとりでボケてひとりでツッコむパターンなんですけど、戦後の文壇を調べて名前の出てくる記者といえば、だいたい相場は決まっています。その代表的なひとりが頼尊さんです。いわゆるテッパンというやつです。

 頼尊さんの回想録『ある文芸記者の回想 戦中戦後の作家たち』(昭和56年/1981年6月・冬樹社刊)には、直木賞のことはほとんど出てきません。芥川賞も同様です。そういう切った張ったの賞ごとが省いて書かれているからか、全編どこか悠々とした空気がただよっているんですが、多少なりと直木賞に関係しそうな作家では、吉川英治、梅崎春生、井伏鱒二、木山捷平などが出てきます。まったく、ドイツもコイツも悠々としています。

 「悠々」というのは、適切な表現じゃないかもしれません。だけど、たとえば頼尊さんの描く梅崎春生さんは、無理して前に出ようとせずに、うしろにじっと控えることを徳としています。直木賞のイメージにありがちな「流行作家へまっしぐら」とは、相当ズレています。

「梅崎君は、いつも“後列精神”というものを説いていた。つまり、教練などで並ぶときにはういつでもさっと後列にすべりこむのがいい、人の前に出てはいけない、というのである。それは彼のはにかみや気の弱さからの発想ともいえる。

それに、「僕らうさぎ年生まれの男は気が弱くって損をする。“うさぎの会”を作って、お互いに励ましあうようにしないか」という話を、飲んでいるときに僕に持ちかけてきたのも彼である。」(『ある文芸記者の回想 戦中戦後の作家たち』より)

 なるほど、うさぎ年生まれの男は気が弱いのか。……と思って、直木賞の受賞者で卯年生まれの男性を並べてみました。

 立野信之、今日出海、戸板康二(梅崎さんとは同年生まれで「うさぎの会」メンバー)、結城昌治、城山三郎、藤沢周平、葉室麟、浅田次郎、朱川湊人、重松清、京極夏彦、池井戸潤、道尾秀介……。うーん、何となく言われたらそうかもしれないな、という気はします。損をしているかどうかはわかりません。ちなみに、直木三十五さんも明治24年/1891年、卯年の生まれ。本来、この干支こそ十二のなかで最も直木賞っぽい、と言ってもおかしくないでしょう。

 とまあ、梅崎さん得意の戯れ言はさておいて、頼尊さんのことに戻りますが、この方と縁の深い直木賞候補者といって、まず青山光二さんは外せません。

 頼尊さんは京都の三高、そして東大と、青山さんよりも二年後輩の同窓生。そのころから親しい間柄でしたが、青山さんに言わせれば、自分の作家人生が変わるような一件に加担したのが頼尊さんだったらしいです。

 戦後知り合った花田清輝さんと話しているうちに、丹羽文雄ひきいる「早稲田派」と呼ばれた連中の仕事ぶりが、いかに情けないものか、ということで盛り上がった青山さん。そうだそうだ、青山さん、そういう批判文を書きなさいよ、と花田さんに言われて、さあどうしようかと思っていたところ、ふとその話を頼尊さんに洩らしてしまいます。

 そこで、文芸記者のアンテナがピピンと働いたらしく、頼尊さんはぜひ『東京新聞』に早稲田派批判、書いてくれよ、と依頼。いまの丹羽さんは天下の大将だ、丹羽批判をしたらまわりの連中が黙っちゃいないだろうから、腹をくくって書いてね、と派手な論争が起きることを期待して、頼尊さん舌なめずりした(らしい)ということです。

 青山さんは「ワセダ派文学を批判す」(『東京新聞』昭和22年/1947年10月7日、8日)と題する、完全に喧嘩を売るつもりの批評を書き、望みどおりに早稲田派の北條誠さんが反論を書いて、バチバチッと火花が散ります。「物議をかもしたのも頼尊君と謀議の上のこと」(青山光二「懐かしき記者二人」、平成12年/2000年7月・内幸町物語刊行会刊『内幸町物語――旧東京新聞の記録』所収)だったとも言いますが、また別の場所ではこうも振り返りました。

「東京新聞に評論を書いた後、青山は、丹羽をはじめ早稲田派の作家としばらく絶交状態になったという。

「作家人生を変えるような出来事でしたね。丹羽さんは『わしの跡継ぎは青山光二だ』と周辺に漏らしていたようです。後になってから頼尊から聞きました。実際、そう言っていたと思います。そういう間柄でしたから」」(平成17年/2005年12月・筑摩書房刊、大川渉・著『文士風狂録――青山光二が語る昭和の作家たち』より)

 青山さんが初めて直木賞の候補になる第35回(昭和31年/1956年・上半期)より、ずっと以前のハナシです。文芸記者と親しいことで、作家の人生もいろいろ変わる――それを体現してみせたのが青山さんだった、とも言えるでしょう。

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2021年12月26日 (日)

高野昭(読売新聞)。直木賞の受賞者取材から、作家との縁が深まることもある。

20211226

 今年ももうじき終わりです。年が明ければすぐに第166回(令和3年/2021年・下半期)の直木賞が決まります。いろいろ気になることは多いんですが、とりあえずうちのブログは、現状とはとくに関係のないことを書くのみです。いつものことです。

 少し前のエントリーで百目鬼恭三郎さんを取り上げたとき、丸谷才一さんの文章に触れました。『小説新潮』昭和50年/1975年10月号に載ったものですが、それを読むと、当時直木賞を取材していた報道陣に、読売新聞文化部の高野某なる記者がいたことがわかります。

 オモテ立って触れられることが少ない人なので、ワタクシもよく知らないんですが、読売の高野昭さんも、昭和の半ばに新聞文芸界の裏方として活躍した、と言われています。

 文化部に配属されたのは昭和32年/1957年だったそうです。第34回(昭和30年/1955年・下半期)の芥川賞を石原慎太郎さんがとってから、だいたい1年ほどが経ったころに当たります。

 どんな時代か。といえば、直木賞+芥川賞が近づくと、文芸記者たちが候補者のまわりをうろつき始める、いわゆる「やりすぎ報道」が過熱化していく時代です。読売新聞社の『週刊読売』が両賞の候補になった人たちを根ほり葉ほり取材して、とれりゃ栄光、とれなきゃ悲惨、と囃し立てた異様なるゴシップ記事「芥川・直木賞残酷物語」を掲載したのは、昭和38年/1963年8月10日号です。

 高野さんも仕事ですから当然取材に駆り出されます。のちに親しくなる城山三郎さんと出会ったのも、直木賞の取材過程でのことでした。

「城山さんに初めて会ったのは、文化部記者として「総会屋錦城」の直木賞受賞(引用者注:第40回、昭和34年/1959年1月20日決定)を取材したときだった。そして、城山さんが私と同じ年に生まれ、同じように海軍を志願したことを知った。城山さんは特別幹部練習生、私は飛行予科練習生である。」(昭和55年/1980年9月・新潮社刊『城山三郎全集第8巻付録 月報8』所収、高野昭「たしかな戦友」より)

 それ以後、文春の池島信平さんがつくった「文人海軍の会」に共に参加。同じ時代に生まれ、同じ時代に青春を過ごし、似たようなかたちで戦争と向き合って終戦を迎えた同志として、活気づく日本の昭和をともに歩みます。かたや直木賞をとった作家、かたや文芸を飯のタネにする新聞記者。仕事上での付き合いは、そこまで多くなかったようですが、『硫黄島に死す』(新潮文庫)とか『忘れ得ぬ翼』(文春文庫)といった文庫の解説を任されるほどには縁があった、という二人です。

 その心の結びつきの最初にあったのが、直木賞の取材だった、というのは高野さんの人生にとっても得難い出会いだったと思います。直木賞の報道は機械がやっているわけじゃない。生きた人間がやっているんだ。……城山さん×海軍志願生×高野さんという、後年にまでつづく結びつきは、そのことを感じさせてくれます。

 そういう観点で見てみると、高野さんにはいまひとつ、直木賞の取材から出発した作家との交流がありました。第55回(昭和41年/1966年・上半期)受賞の立原正秋さんとの関係です。

 立原さんが初めて新聞の連載小説を引き受けたのは『読売新聞』夕刊の「冬の旅」(昭和43年/1968年5月15日~昭和44年/1969年4月21日)で、このとき立原さんの起用を強く推したのは、文化部長の平山義信さんとデスクの高野さんだったらしいです。実際の担当は同部の記者、木村英二さんに任されますが、「冬の旅」開始ごろからの立原さんと『読売新聞』のエピソードには、多く高野さんが登場します。立原さんも相当、高野さんに信頼をおいて接していたことが伝わります。

 その出発点となったのが、立原さんが直木賞と決まったときの取材だった。というのですから、直木賞オタクとしては心がトキメかないわけがありません。

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2021年12月19日 (日)

扇谷正造(朝日新聞)。学芸部勤務になって一転、精力的に文壇に足を踏み入れる。

20211219

 文芸記者に有名度ランクを付けるとしたら、トップクラスに挙がるのが扇谷正造さんでしょう。

 「すげえ編集者だったよ」の伝説は数知れず。文芸記者と呼ぶのも違和感があります。だけど、文藝春秋「中興の祖」池島信平さんとはツーカーの間柄で、直木賞史に何かと出てくる人なのは間違いありせん。

 扇谷さんが文芸界に現われだしたのは、戦後のことです。死にもの狂いで戦争から帰ってくると、まず扇谷さんは『週刊朝日』デスクとして力を見せます。昭和23年/1948年、太宰治さんの心中や、川田順さんの自殺未遂が起きたときには、事件記者あがりの嗅覚をびんびんに働かせ、『週刊朝日』に大々的に掲載。文壇ゴシップを社会的な話題に昇華させて、売上部数の飛躍に貢献します。

 そもそも社会部の記者として出発し、自身も野次馬根性がウリだと自覚していた。……それこそ扇谷さんが、戦後の文壇を積極的に渡り歩き、成功したカギなのかもしれません。カギじゃないかもしれません。わかりません。

 ともかく昭和24年/1949年暮、扇谷さんは『週刊朝日』から本紙学芸部の次長として異動になります。知り合いの作家なんて誰もいない、というところから、靴の底を減らして多くの作家を訪ね歩きました。獅子文六さんの『自由学校』とか川端康成さんの『舞姫』などは、扇谷さんのお願いが功を奏して連載実現にこぎつけたものだそうです。

 文藝春秋新社の佐佐木茂索さんに、扇谷さんがはじめて会ったのも、その頃のことです。回想によると、文春から各新聞の学芸部デスクを料亭に招いてお話をうかがいたい、という誘いがあったそうです。いわゆる「接待」というやつですね。ビジネスの世界は、だいたいブラックです。

 扇谷さんはこう書いています。

「若いころの私は、そういう会合には、潔癖なくらい潔癖で、社外のご接待は、いっさいおことわりという編集局外勤記者のルールを固く守り通していたのだが、この会だけは、広告部からぜひにというので出席することにした。私は、その時、自分にこういい聞かせた。

(たぶん、ごち走になるだろう。それがあとで新聞にハネかえるのは嫌だ。文春のことだから、そんなケチなことは考えてないだろうが、しかし、こちらが、精神的な負担を感ずるのはいやだ。その日のうちに、その場で決済はつけよう。それには、何か文春のために考えられるアイデアなりプランなりを三つ用意しよう。それが、文春にプラスになるか、ならないかは知らない。ただ、ベストをつくして、考えてみよう)」(昭和47年/1972年9月・六興出版刊、扇谷正造・著『吉川英治氏におそわったこと』所収「冴えた人、佐々木茂索氏」より)

 新聞各社といかに良好な関係を築くか。その試行錯誤は、直木賞創設の頃から(あるいはもっと前から)の文藝春秋の伝統だったものでしょう。新聞記者もべつに誰かと喧嘩したくて生きているわけじゃない、と思うので、出版社とパイプを築きながら、自社の紙面を発展させ、儲けが出ればそれに越したことはありません。直木賞と文芸記者が歴史的に強い関係性をもってきたのは、こういう交流の蓄積のおかげなんだろうな、と改めて思います。

 それはともかく、扇谷さんです。文壇づきあいはしない、と決めていた頃からは一転し、こうして出版社の人たちには会う、作家には会う、と精力的に動き回ります。まもなく学芸部から再び『週刊朝日』の担当に戻されたのが昭和25年/1950年のことで、ここから扇谷正造『週刊朝日』バク売れ伝説の、幕が切って落とされるのですが、その土壌に流行作家から新進作家まで含めた作家との交流があったことは明らかです。その結果、吉川英治、獅子文六という二人の作家と出会い、とくに傾倒し、終生慕うまでの仲になりました。扇谷さんの人生も、きっとそのことでさらに深みが増したことでしょう。

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2021年12月12日 (日)

松本昭(毎日新聞)。吉川英治の病状を心配しながら、杉森久英の受賞を聞く。

20211212

 新聞社にもいろいろあります。直木賞に最も縁が深いのは、どの新聞なんでしょう。

 ……正直どうでもいい設問です。しかも、直木賞はあと数年で創設90年を迎えるおジイちゃんな文学賞でもあります。時代によってさまざまな性質を求められ、そのつど変転してきましたので、いま「直木賞はこうだ」と一概に言えることなど、ひとつもありません。

 ただ、そういうなかでも『毎日新聞』は特別な存在です。大衆文芸を育てた立役者ですし、また文藝春秋社と持ちつ持たれつの関係にあった、という意味では、最も重要な新聞社と言えるでしょう。なにせ『大阪毎日』&『東京日日』は菊池寛さんと太いつながりがあります。

 ということで、ブログテーマが「文芸記者と直木賞」なら、取り上げるのは『毎日』の記者だけでもいいくらいです。しかし、記者の多くは裏に隠れて、実態がよくわかりません。歴代『毎日』でどんな文芸記者が活躍してきたのか。それを知るだけでひと苦労です。

 今週とりあげる松本昭さんも、元『毎日』学芸部の記者で、吉川英治さんのことをよく書いていた人……という程度のことしか、ワタクシも知らないんですが、吉川さんは亡くなるまで直木賞委員の籍にあった人です。担当記者だった松本さんも、多少は直木賞の動向の近くにいたことだろうと思います。

 吉川さん最後の大作長編『私本太平記』は、昭和33年/1958年1月18日~昭和36年/1961年10月13日に『毎日新聞』で連載されました。当時、松本さんは30代なかば。「吉川係」を命じられ、毎日のように吉川さんちの書庫に通っては、「太平記」に関わる資料の整理をしていた、ということなんですが、それを振り返るにこんな表現をしています。

「昭和三十六年夏のこと。(引用者中略)当時、私は学芸部で文壇を担当し吉川係として常任、吉川邸にゴロゴロしていた」(『新評』昭和42年/1967年9月号 松本昭「観音様を女房にした吉川英治」より)

 毎年夏、吉川さんは軽井沢の別荘に書斎を移すのが通例で、この年も渋谷の松濤にあった本邸では、松本さんなどの関係者が留守預かりのようなかたちでゴロゴロ生活した、ということなんでしょう。

 吉川さんほどの作家の連載小説です。全社を挙げての期待がそそがれています。若き(?)担当記者とすれば、べったり吉川さんのことに集中したいところ……だと思うんですが、学芸部勤めのサラリーマン、そうは甘くはなかったようです。その連載期間中、『毎日』に関わる小説が直木賞の候補になってしまうのです。直木賞、吉川さんも選考委員を務めています。ドキドキです。

 候補になったのは、杉森久英さんの『黄色のバット』です。『毎日新聞』昭和34年/1959年2月14日~9月6日、こちらは夕刊に連載された小説で、同年11月に角川書店で単行本されたところ、第42回(昭和34年/1959年・下半期)直木賞の予選を通過しました。

 杉森さんは芥川賞での候補経験はありますが、直木賞では初の候補。作家自身は冷静でも、だいたい文学賞ではまわりのほうが興奮しがちです。杉森さんの回想でも何だかそんな感じで書かれています。松本さんも出てきます。

「そのころ(引用者注:昭和34年/1959年)は候補になるだけで大分世間で注目されるようになっていたし、私の候補作品の『黄色のバット』が毎日新聞に連載されたものだったので、毎日の学芸部の人たちが自分のことのように気をもんでくれたので、本人も落着かなくなった。

詮衡委員会の日は、毎日の学芸部のデスクの宮良高夫さんと松本昭さんが私につきっきりで、毎日新聞の社屋(有楽町にあった、もとの建て物)の近くのフジアイスで夕方からビールを呑みながら待っていた。(引用者中略)

ところが、八時ころになって、そろそろきまりそうなものだと思っても、電話がかかって来ない。松本さんが

「社へいって、様子を見てみましょう」

といって、出かけてしまった。」(『別冊文藝春秋』132号[昭和50年/1975年6月] 杉森久英「三度目の正直」より)

 しかし、松本さんは帰ってこない。次に宮良デスクが会社に戻る。これも行ったっきり。どうもそのときには、すでに杉森さん落選、戸板康二さんと司馬遼太郎さんの受賞は決まっていたらしく、二人とも杉森さんに「落選」を告げたくなくて逃げたものらしい、と直後に知った……と言うのです。

 盛り上がるだけ盛り上がっといて、落選と知るや候補者を置き去りにする、文芸ジャーナリズム(いや文芸ジャーナリスト)の非情さが、よく出ています。松本さんったら、もう。

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2021年12月 5日 (日)

小山鉄郎(共同通信)。直木賞ぬきで1990年代の文学状況を語った人。

20211205

 先週とりあげた河辺確治さんは、「何も書かなかった記者」と言われていました。著書は一冊もありません。こういう人こそ面白い、とは思います。思うんですけど、正直、そんな人ばかりを調べるのは手間がかかってしんどいです。

 なので今週は、精力的に書きまくっている有名文芸記者のことでお茶を濁します。共同通信社の小山鉄郎さんです。

 1990年代の芥川賞を語らせたらこの人の右に出る者は、おそらく100人ぐらいしかいない……と言ってもいいほどに、盛んに文芸報道していました。『芥川賞・直木賞150回全記録』(平成26年/2014年3月・文藝春秋刊)に原稿を寄せた文芸記者四銃士のひとりでもあります。

 その原稿から伝わるのは、小山さんって直木賞には何ひとつ興味ないんだろうな、という雰囲気です。直木賞に関わらずとも、人間、しっかりと成長し生きていけるので、それは別にいいんですが、しかし直木賞に(しか)興味のないワタクシのような異常人からすると、平成の時代にここまで直木賞を抜かして文学現象を語るのはよっぽどだぞ、と違和感すら覚えてしまうわけです。

 小山さんが『文學界』平成2年/1990年1月号~平成6年/1994年5月号に連載した「文学者追跡」が、すべて収められた『あのとき、文学があった――「文学者追跡」完全版』(平成25年/2013年3月・論創社刊)を読んでも、直木賞なんてほとんど出てきません。たとえば、以下の文章なんか、よっぽどもよっぽどです。

「今年二月十二日夜、東京・丸の内の東京会館で第百四回芥川賞の贈呈式があった。(引用者中略)その日は小川洋子さんという戦後初の二十代の女性芥川賞作家誕生という話題もあって、いつもの芥川賞直木賞の受賞パーティーより賑わっていて出席者は随分多かった。」(『あのとき、文学があった――「文学者追跡」完全版』所収「村上龍の映画熱――1991年6月」より)

 あれ、第104回(平成2年/1990年・下半期)って直木賞の受賞者なしだったっけ、と思わず受賞一覧を見返してしまいましたよ。古川薫さんが『漂泊者のアリア』でしっかり受賞しています。

 小山さんの目には、そんなトウの立った還暦すぎの老人が、昔の遺物を掘り起こしただけの歴史小説で賞をとったことは、語るに値しない、ってことなんでしょう。史上最多候補回数で受賞した、直木賞にとってはとびきりの話題性も、小山さんは「話題」とは見なさず、受賞パーティーにどれだけの人が来るかは、すべて芥川賞の話題性によって決まる、とばかりの言いざまです。いくら何でもひどすぎます。

 いやいや、『文學界』の連載記事なんだから芥川賞メインで書くのは当たり前だろ。と思わないでもありません。だけど、古川薫さんだっていちばん初めは『文學界』で(同誌の同人雑誌評で)見出された作家じゃないか……とモヤモヤするのも、こちらが直木賞オタクだからなんでしょう、それは認めます。

 ただ、小山さんの「直木賞を軽くみる」例はそれだけではありません。「文学者追跡」に色川武大さんのことに触れた文章があるんですが、これも直木賞ファンに喧嘩売っているような書きっぷりです。

「先日必要があって、二年前亡くなった色川武大さんについての資料を調べているうち、こんなことに気付いた。勤務先の通信社にファイルされている色川さん関連の新聞、週刊誌などの切り抜きは、数えてみると全部で五十三枚。(引用者中略)泉鏡花賞決定を伝える記事も十六年前のもの(引用者注:中央公論新人賞受賞の記事)とほぼ同じ大きさの僅か八行の記事だったが、その直後から、いろいろなインタヴュー記事などの切り抜きの増え方は圧倒的だ。一年を経ずして「離婚」で直木賞を受けたことも大きかったろうが、この切り抜きの量の大きな変化をみるだけでも、その後の色川さんにとって、泉鏡花賞という地方自治体(金沢市)が主催する賞ながら、存在感のある賞が果した役割は少なくないものがあると思えた。」(同書所収「文学賞の流行――1992年2月」より)

 すみません、「喧嘩売っている」は言いすぎでした。直木賞ではなく泉鏡花文学賞に花を持たせたのは、大きな権威より小さな市井の営みに目を向ける、小山さん流のジャーナリスト精神なのかもしれません。

 しかしですよ。それなら、いつも芥川賞という巨大な太陽の影に隠れがちな直木賞に、もう少し温かい目を向けてくれてもいいんじゃないでしょうか。けっきょく興味がなかったんだろうな、直木賞には……というところに落ち着かざるを得ません。

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2021年11月28日 (日)

河辺確治(読売新聞)。直木三十五の死のそばにいた、善意にみちた新聞記者。

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 直木三十五さんの売れっ子伝説に加担した、取り巻き文芸記者五人衆。すでに笹本寅さん片岡貢さんを取り上げました。三人目はこの人、河辺確治さんです。

 歴史的にみて『読売新聞』には名物記者(あるいは奇矯な人材)の出てくる土壌があります。なぜなのか、よくわかりません。それが企業風土ってもんかもしれませんが、昭和9年/1934年から始まる文学賞時代の、はじめのほうにも『読売』には存在感ある記者がいました。それが河辺さんです。

 存在感ある、というのは、語弊がありました。とにかく変わった記者だった、と大草実さんは振り返っています。

大草 河辺(引用者注:河辺確治)っていうのは、何も書かない新聞記者だった。こいつは偉かった。そのかわり、本当に度胸があったな。人が好くて。

萱原(引用者注:宏一) あれ、書かなかったの? 河辺は。

大草 ようやく、ちょっと書くぐらいでね、何も書かなかった。

(引用者中略)

大草 美男子じゃなかったが、おっとりしていた。

萱原 それで口数が少ない。

大草 新聞記者らしくは絶対ない。」(『経済往来』平成1年/1989年5月号「続・老記者の置土産(9) 昭和新聞人評論家の百態」より)

 そんな河辺さんは、笹本寅、片岡寅、新延修三、豊島薫といった他社のライバル記者たちと気が合って、昭和8年/1933年から自分たちの雑誌をつくろうと画策。途中で直木さんが、おれも雑誌をやろうと思っていたんだ、おれが金を出すからいっしょにやろうぜと割り込んできて、『日本文藝』創刊直前まで行った……というのは、すでに触れた話です。その関係からか『衆文』昭和9年/1934年4月号の直木追悼号には、五人それぞれが追悼文を寄せています。「何も書かない記者」河辺さんといえども、さすがに直木さんの死に接して、無言を通すわけにはいかなかったようです。

 その追悼文「人間的な魅力」によると、いっとき小林多喜二さんとツルんでいた河辺さんは、小林さんに直木さんを会わせたことがあったんだとか。小林さんの上京が昭和5年/1930年なので、その辺りのことでしょうか。小林さんは直木さんと何やら議論っぽく語り合ったあと、別れるなり河辺さんに「直木って面白い男だね」と言ったそうです。

 河辺さんって、小林さんからも、直木さんからも、よく好かれた人だったんだな。とわかるエピソードですけど、先に取り上げた笹本さんや片岡さんとは違って、この追悼文からは河辺さんの蔭日向ぶりが伝わってきます。我が強くない、と言いますか。前面に立とうとしない、と言いますか。まるで自分の思想も立場も打ち出さず、ただまわりを見守っている。大草実さんに言わせれば、それが「新聞記者らしくない」ところなのかもしれません。

 人付き合いはいいけど、仕事は何をしているのかわからない。酒場に行けば、いつもニコニコしながらそこにいる。会社のなかでは可もなく不可もなく、年功序列のレールに乗って出世する。晩年の直木さんを取り囲んだピリピリとした雰囲気のなかに、なぜ彼も加わっていたのか。不思議なくらいです。

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2021年11月21日 (日)

川合澄男(学芸通信社)。直木賞を活用して直木三十五の追悼忌を復活させる。

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 川合仁さんと来たら、次はだれか。そりゃ川合澄男さんを措いて他にはいません。

 直木賞に縁が深いのは、仁さんよりむしろ息子の澄男さんかと思います。このかたも「文芸記者」と見るのはけっこう違和感がありますが、新聞メディアとともに生きた人です。父・仁さんのあとを継ぎ、文化・学芸に関する記事(小説も含む)を用意して全国の新聞社に配信することでお金を得る、というなかなかの虚業を盛り立てて生涯をまっとうしました。

 交流のあった作家や評論家は数知れず。なかには直木賞をとる前の人とか、とった後の人とかもいて、いろんな作家の「直木賞エピソード」を傍らで見ていた人です。

 そもそも川合さん自身が直木賞(というか直木三十五さん)とは異様なパイプで結ばれています。「直木三十五との奇縁」(『大衆文学研究』96号[平成3年/1991年])で川合さんが書いているところですが、ざっくりまとめると、父の川合仁さんが始めた新聞文芸社で、第一回配信の「妖都」(三上於菟吉・作)につづいて第二回配信の連載小説を担当したのが直木三十五。作品は「正伝荒木又右衛門」です。それの原稿の受け取りに、妊娠中だった仁さんの妻・千代さんもたびたび出向いた、とのことで、胎内ですでに澄男さんは直木さんと会っていたことになります。

 幼い頃に澄男さんが住んだ吉祥寺の家には、隣に直木さんと別れた佛子須磨子さんが住んでいた。とか、後年、立風書房で直木さんの『由比根元大殺記』などを復刊するときには澄男さんも協力した。とか、そういう縁を得て、やはり何といっても澄男さんの最大の功績は、いまもつづく「南国忌」の礎を築いたことでしょう。

 もとをたどると昭和51年/1976年。直木賞でいうと第74回(昭和50年/1975年下半期)に佐木隆三さんの『復讐するは我にあり』が選ばれ、第76回(昭和51年/1976年下半期)三好京三さん『子育てごっこ』が選ばれる直前のころです。中間小説誌は全盛を迎え、出版界も高級なものから低俗なものまで、下手な鉄砲のようにあらゆる種類の書籍・雑誌が出て、気色わるいほど賑わっていました。ちなみに芥川賞に村上龍さんの『限りなく透明に近いブルー』が選ばれたのが、ちょうどこのころ、昭和51年/1976年7月。50万部だ100万部だと、受賞作が馬鹿みたいに売れ、チリ紙のように捨てられた、そんな時代です。

 この年に澄男さんは「よこはま文化苑」という集まりに入会し、そこで企画された「直木三十五墓前祭と文芸講演会」に参加します。あれだけ隆盛を誇った流行作家・直木三十五。いまもなお直木賞というよく知られた文学賞の名前になっている。なのに、横浜市富岡にあるお墓に詣でる人は少なく、朽ち果てている。みなさん、彼の魂をなぐさめ、また自分の魂を高めるために、直木の墓前に集まりましょうよ。ということで、第一回の墓前祭が開かれます。直木賞はよく知られている、なのに直木三十五は忘れ去られて久しい、というのは、それから50年近くたったいまでも、直木さんを語るときの常套句です。

 そのころは、直木さんの墓石は富岡・長昌寺の裏山、ガケぎわの木陰にひっそりとあって、山道を歩いていくのにも危険があった、ということですから穏やかではありません。誰もが顧みなくなった大衆作家の墓としては、それはそれでお似合いだった気もしますけど、澄男さんをはじめとして、せっかく墓前祭もやることだし、もっと安全な場所にお墓を移してはどうか、という意見が持ち上がって、募金を集めたり、もろもろ面倒な諸事を乗り越えたすえに、昭和57年/1982年9月19日に新墓所完成の記念行事を開くまでに至ります。最初の墓前祭から6年がたっていました。

 ここで偉いなと思うのは、日本文学振興会とか、直木賞の受賞者たちに積極的に声をかけて、新墓所の改修やそれにつづく「南国忌」の発足を実現させたところです。

 直木賞と直木三十五。両者のつながりは、そこから名前を採ったというだけのことで、もはやまったく別モノです。現実はそうなんですが、しかし直木さんの墓所を無理やりにでも直木賞という威光・ブランドに結びつけ、講演者として直木賞受賞者にも臆せず声をかけるうちに、身内の胡桃沢耕史さんがついに受賞をもぎとって、ますます大にぎわい。今年2月は、新型コロナ感染拡大の影響でいったん休止となりましたが、それでも毎年毎年、100名以上の参集者を呼べるイベント「南国忌」を続けている、その始まりに川合澄男さんたちがいたのは大きかった、と思います。

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2021年11月14日 (日)

川合仁(新聞文芸社、日本学芸新聞)。文学賞のことを細かく報じる学芸専門紙をつくった人。

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 直木賞は文藝春秋社がつくったものですが、『文藝春秋』や『オール讀物』だけ追っていても全体像はわかりません。

 いや、間違えました。直木賞の全体像が何なのか、ワタクシも知っているわけじゃないので、「全体像はわかりません」などと偉そうに断言してはいけませんね。文春の出版物をまとめても、それで直木賞の全部がわかるわけじゃない。と、そんなふうなことを言いたかっただけです。

 とくに戦前の直木賞は、文春のなかでも影の薄い存在でした。調べれば調べるほど泣きたくなってきます。となると、よその文献で補っていくしかありません。そんなときに頼もしいのがこれ。『日本学芸新聞』です。

 同紙は昭和10年/1935年11月5日の創刊号から昭和18年/1943年7月1日の第155号の終刊まで、復刻版が不二出版から出ています。直木賞やもうひとつの兄弟賞はもちろん、その当時ぞくぞくとつくられては消えていった悲しき短命の文学賞のことも報じられていて、一般紙を見てもよくわからない文学賞隆盛の時代が刻まれています。この唯一無二の文学賞文献を発行していたのが、川合仁さんです。

 紙面全体をながめてみると、かなり硬派なたたずまいです。文学賞なんちゅう下品な話題ばかり載せていたわけではありません。しかし、文芸とその界隈のことをジャーナリスティックに報道しようという意気が熱く、そのおかげで他ではあまり見かけないような文学賞の記事がいろいろ見当たります。

 たとえば、第11回(昭和15年/1940年・上半期)の芥川賞で、受賞と決まった高木卓さんが辞退した、という有名なニュースの一件です。

 『日本学芸新聞』の記者も高木さんを直撃して、その談話を記事にしているんですが(第91号、昭和15年/1940年8月10日「芥川賞拝辞の弁 高木卓」)、「此辞退は芥川賞の権威とそれを狙ふ新人作家の反省に複雑な波紋を投げるものと信ずる。」とか何とか大いに煽ったうえで、高木さんに「なぜ辞退したのですか。学校の方の関係ですか?」「生活がさし当って困らないからですか?」「しかし、委員会で授賞に決定したといふのにそれを受けてゐないのは却って委員会乃至は芥川賞を冒涜することになりはしませんか?」などなど、やたらとぶしつけな質問をして、高木さんからコメントを引き出しています。高木さんが紳士な方だったからよかったものの、うるせえよ、何が権威だくだらねえ、と突っ返されても文句は言えないところでしょう。

 直木賞でいうと、こんな記事も載っています。第3回(昭和11年/1936年上半期)、海音寺潮五郎さんが受賞した直後です。直木賞に関する感想や批評が、新聞で読めるのは当時としてはまずレアなんですが、さすが『日本学芸新聞』の、文学賞への目配りはひとあじ違うな、と感嘆してしまいます。

「第三回直木賞を海音寺潮五郎氏が獲得したのは当を得てゐる。しかし考ふべき事は、オール讀物と日の出に発表した氏の二長篇が特に傑出してゐたが故の受賞ではなく、これだけの仕事さへする新人が他に無かったといふ事実である

新人に舞台を与へないのか、与へようとしても、これに応ずる力倆のある新人がゐないのか、とにかく淋しい気がする。」(『日本学芸新聞』11号、昭和11年/1936年9月11日「大衆文芸時評 海音寺潮五郎氏の本格的な作品 九月号諸雑誌の作品」より ―署名:山下賢次郎)

 川合さんが書いた文章ではありません。ただ、山下さんの表現にならって言えば、こうして直木賞批評にきちんと舞台が与えられているのは、同紙発行人・川合仁さんのおかげです。

 それによって直木賞がどうなったのか。……影響は全然なかった気もしますけど、実績を重視する直木賞に、何だか冴えない賞だなあ、と感じていた人がいたのはわかります。そういう感覚が、大衆文壇のまわりにも漂い、選考委員のなかにもくすぶった結果、大池唯雄さん(第8回・昭和13年/1938年下半期)とか河内仙介さん(第11回・昭和15年/1940年上半期)あたりの受賞につながった、と見るのは不自然じゃありません。

 当時、直木賞にどのくらいの温度で、どういった意見が批判的に出ていたのか。そういう声を後世に伝えるのも、報道機関としての新聞の役目でしょう。いまを生きるノンキな文学賞オタクが戦前の直木賞批評の一端に触れられるのも、川合さんの苦労の多い新聞経営あったればこそです。ああ、ありがたい。

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