カテゴリー「直木賞、海を越える」の35件の記事

2020年2月16日 (日)

西川満、台湾で一生を過ごすつもりが、日本の敗戦で全財産を失い、海を渡る。

 直木賞の候補者リストはだいたい無用に幅広いです。無名な人から著名な人までいろんな人が混ざっています。

 そして芥川賞と違って(いや、違わないか)、候補に挙がった作品をあとから見返すと、何でこんなものを候補にしたんだと首をかしげたくなる。それもまた直木賞の特徴です。代表作を候補に選ばない。ないしは候補になったものが代表作にならない。……文学ジャンル、世間の流行、作家たちの実績。それぞれの中心点や王道の領域から、ほんの少しズラしたところを突いてしまう歴史が、おおむね直木賞をつくってきました。文句を言っても始まりません。

 というところで第22回(昭和24年/1949年・下半期)で候補に挙がった西川満さんです。小説家、詩人、編集者、造本家、占星術師などなど、多くの顔がありますが、西川さんの代表作というと、何になるのでしょう。

 すべての作品を読んだわけでもなく、語れるほどの批評眼もないので、正直言ってわかりませんけど、少なくとも「地獄の谷底」を挙げる人はまずいないと思います。もしいても、それは単に直木賞脳が発達しているだけの人でしょうから、無視して問題ありません。この小説は、直木賞候補になった、ということだけでしか知られていないと言ってもいい、取るに足らない一編です。

 まあ、取るに足らない、などと切り捨ててしまってはハナシが進みません。戦後まもない昭和24年/1949年、混迷と再生がごっちゃまぜの出版業界に生きる引揚げ者の悩みを、リアルタイムに描いた貴重なドキュメンタリー、と言い直しておきたいと思います。舞台は、戦争が終わって数年、わさわさと日常の生活が動き始めた東京の一角。雑誌の編集を手伝っている語り手と、終戦で台湾から引き揚げてきた元出版社の社長、井上由紀枝などが登場します。

 この設定から見えるように、西川さん自身の経験がギュッと詰め込まれた小説です。『キング』などという読み捨ての娯楽雑誌に掲載され、雑誌の狙いどおりに読み捨てられて、もはや読み継がれていないわけですが、少なくとも西川さんにとっては大事な一作だったことでしょう。

 明治41年/1908年に福島県で生まれた西川さんは、ものごころつく前の明治43年/1911年、家族ともどもいっしょに海を渡ります(渡らされます)。父親が、親戚の経営する炭鉱の支配人として赴任することになった、というのがその理由だそうですが、

「家庭は統治民族の中でも経済的に恵まれており、両親の愛情のもとに、両親を敬慕しつつ比較的自由に成長した。世俗的な言い方をすれば、(一時、父西川純の会社が倒産し、長屋住いをしたこともあるが)乳母日傘で育てられたといってよいだろう。」(平成7年/1995年10月・東方書店刊『よみがえる台湾文学――日本統治期の作家と作品』所収 中島利郎「西川満と日本統治期台湾文学――西川満の文学観」より)

 と中島利郎さんに言われています。たしかに西川さんが後年残した両親に関する文章は、たいがい甘アマで、デレデレです。昭和3年/1928年から昭和8年/1933年、単身東京に出てきて早稲田大学第二高等学院、早稲田大学文学部仏文科に通い、さあ「ふるさと」台湾に帰るか、東京で生活するか迷ったところで、おれは台湾の地で新しい文学の創造と建設に力を尽くすんだ、と若々しい野心に燃えて帰台。そこから頭でっかち口先だけの文学亡者でなかったことが、みるみる証明されて、昭和20年/1945年に戦争が終わるまでのあいだに、「台湾に西川満あり」と東京で知られるぐらいにメキメキ働きます。

 だいたい目立って評価されはじめると、周囲からにわかに批判されたり、中傷を受けたり、くんずほぐれつの論戦(というか単なるケンカ)に巻き込まれたりします。日本の狭い文学グループとか、出版界、雑誌界でもそうですし、台湾でももちろん例に洩れません。西川さんも、贅沢な本をつくっては悦に入っているような趣味人といいますか、自分の信じる芸術ってやつを推し進めて、現地の台湾人とかその他多様な民族のことは眼中にないような、横暴さも兼ね備えていたらしく、賛否両論、褒める人あれば悪評もふんぷんという、そんな時代を送ります。

 西川さんが語るところによりますと、戦時中、新鷹会の長谷川伸さんや大林清さん、村上元三さんが台北を訪問した折りに、その相手を務めたのが西川さんでした。悪口を言ったり、人の足を引っ張りすることの卑しさを、長谷川さんからふと教えられて改悛し、それ以来だれが何と攻撃してこようが深いフトコロをもって接することができるようになった(『大衆文芸』昭和29年/1954年5月号「鞭」)、ということでだいたいそのころ西川さん30代後半です。大人の階段を、また一段しっかりのぼった、というところでしょう。

 学校を出て台湾に戻ったときから、もはや西川さんはそこで骨をうずめる覚悟だったと言います。日本の戦争のゆくえが違っていたら、きっと海を渡ったままの作家として、また別の作品世界を展開していたかもしれず、そうなれば「直木賞」なんて賞の候補に挙がることもなかったかもしれません。終戦・敗戦とともに、台湾から日本(東京)へ。これが西川さんと直木賞をつなぐ縁になります。

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2020年2月 9日 (日)

浅田晃彦、どうにも自分の置かれた環境がイヤになって、世界各地を旅する船医になる。

 浅田晃彦さんの「乾坤独算民」は、直木賞候補作のなかでとくにワタクシの好きな歴史小説のひとつです。浅田さんが53歳になってから同人誌『小説と詩と評論』62号に寄せた短篇で、第60回(昭和43年/1968年・下半期)候補に挙げられました。

 といったことは、たしかけっこう前にうちのブログでも紹介した覚えがあります。その浅田さんの作家的履歴のなかで、日本を飛び出し、海外に足を向けたことが大きな転換をもたらしたのは明らかです。ということで、「海を越える直木賞」のテーマでも1週分取り上げることにしました。

 大正4年/1915年生まれの浅田さんは、旧制中学のころにはずっぷり石川啄木にハマり、自分で雑誌『ORION』をつくるなど危うい文学青年の道を驀進しましたが、だいたい文学の道なんてものが当時の家庭で歓迎されるはずもありません。悩んだ末に慶應の医学部に進みます。医師になれば将来も安泰、手がたい職業と見なされたからでしょう。

 しかし、浅田さんの文学に賭ける情熱はそんなことでは萎えません。大学に通うあいだも、いくつかの懸賞に応募したり、倉田百三「生きんとての会」に参加したり。はたまた卒業後に陸軍の軍医となってラバウルに出征、そこで終戦を迎えてからは捕虜たちの作品を集めた『草原』という文芸雑誌を発刊してみたりします。

 昭和22年/1947年、30歳すぎで前橋市に個人医院を開業しますが、どうも医者という職業は忙殺につぐ忙殺で、まるで文学に割く時間がとれません。ああ、こんな生活もうイヤだ、と頭をかきむしったかどうか、その言動の詳細はわかりませんけど、昭和26年/1951年には第一生命保険の社医に職を変えたのは、もっと自由に執筆時間をとりたいという理由だったのは、たしかなようです。

 職業柄、群馬県内の各地に出向く機会が増えたことで、桐生にいた南川潤さんや、その南川さんを頼って同地に来ていた坂口安吾さんと縁ができたのですから、この転職も無駄ではなかったでしょう。当時、芥川賞の選考委員をしていた坂口さんとじかに挨拶できるぐらいの関係になり、自分の小説を読んで批評してもらえる、あわよくばおれも芥川賞を……という感じの心の動きは、いかにも危うい文学青年そのままのイヤらしさです。

 浅田さんはこのとき全国的な同人組織『作家』に参加して、いくつか原稿を投稿、採用されていましたが、話によれば文学仲間のあいだでの評判はそこまで高くなかったといいます。いわく「通俗臭が強い」、いわく「苦悩がない」(昭和61年/1986年4月・奈良書店刊『安吾・潤・魚心』所収「南川潤追想 厚かましい弟子」)。おそらくまわりの仲間もこういうことで他人を批判するぐらいですから、キモい文学青年たちだったんだと思います。

 そういう状況に揉まれるうちに、昭和27年/1952年夏、まだ10歳にも満たない息子を事故で喪い、文学上でも行きづまるところ多く、ああ、こんな生活もうイヤだ、とイヤイヤ病が再発。……と、浅田さん自身が書いているわけじゃありませんが、しかし40歳をまえにして昭和28年/1953年に保険会社の社医をやめるきっかけのひとつについて、浅田さんはこう書いています。

 ちょうどこの年、坂口安吾さんがブロバリンの大量摂取で錯乱、南川さんに「おまえなんか絶交してやる」と狂乱行為を働いたことにひっかけて、

「坂口さんの百分の一の激しさもないが、私にも似たような欲求があった。世俗の愛に溺れている自分が、何かのきっかけで、ワッと嘔気がするほどいやになってくるのだ。周りのものを一切を否定し、孤独の底に自分を突き落とさなければ、だめになってしまうような不安に襲われるのだ。そのモヤモヤを坂口さんのように爆発できたらどんなにセイセイすることだろうと思っていた。

私が船医になったのは、そういう環境に自分をぶちこんでみるためだった。

九月からインド航路の貨物船に乗り組み、日本を離れた。」(『安吾・潤・魚心』所収「坂口安吾追想 怪物の魅力」より)

 そういえば、昭和41年/1966年に古川薫さんが40歳すぎで日常生活に倦みを感じ、カナリア諸島への出張を願い出た、というエピソードに触れたことがありますが、それにどこか似たものがあります。養わなきゃいけない妻と子供がいるイイ年齢になった男性が、ここで一躍、海外に出てみようと踏ん切りをつける展開。

 浅田さんの場合はそこから昭和32年/1957年までの3年半、ときどき日本に帰ってきてはまた外国航路の船に乗り込んで、世界各地をめぐります。アメリカに行きたいな、ヨーロッパも見てみたいな、などと勝手な夢を抱いて船医になってみたはいいものの、最初に乗せられたのがインド・カルカッタ行きの、これ途中で沈没するんじゃないかと思うようなチンケな貨物船です。以来、台湾、フィリピン、香港、シンガポール、ラングーン、パキスタン、インド、中東、やがてアメリカ、ヨーロッパ行きの船にも乗せてもらえるようになり、見聞を広めます。

 しかし、浅田さんのエラいところは、外国行きの船や旅先でありあまる時間を使い、ぞんぶんに読書したり原稿を書いたりしていたことです。船医になったのは小説に専念するためだった、という回想さえ見られます。もう文学への情熱が高すぎて、恐ろしいです。

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2020年2月 2日 (日)

粂川光樹、日本語を教えるためにプリンストン大学に赴任したところで、直木賞候補入りを知る。

 海外モノと直木賞の関係のなかで、新しい時代を切り開くきっかけとなったのは、やはり昭和39年/1964年の海外渡航自由化です。

 と、知ったかぶりして書いていいものかどうか悩みますが、こういう社会の動きが即座に文学賞に反映するかというと、なかなか難しいものがあります。少しずつ世界が近くなってきたような気がするよね、でもわれわれ庶民にとってはまだ遠い世界だよね、という状況はそのあとしばらく続き、直木賞の候補作のなかにボコボコと海外モノが出てくるのは、もう少し先のことです。

 それで、海外渡航のハナシですが、昭和39年/1964年というと直木賞がその上半期を対象にして選考会を開いたのが第51回(昭和39年/1964年・上半期)です。

 直木賞にとっては試練の時代、と言っていいでしょう。商業出版の世界で活躍しはじめた作家の背中を後押しする、という賞の性格に選考委員たちがあまり反応しなくなってしまい、もっと新しい芽、新鮮な作品を読みたいんだ! と得手勝手なわがままを言い出して、素人を含めた同人雑誌の世界からぞくぞくと候補作が選ばれていったこの時代。

 やがて訪れる第54回(昭和40年/1965年・下半期)と第55回(昭和41年/1966年・上半期)のあいだの直木賞ビッグバンによって、根底がガタガタと揺らぎはじめることになりますが、ちょうどその「同人誌隆盛」のタイミングで直木賞に現われた、海外と縁の深い人、粂川光樹さんを今回は取り上げたいと思います。

 粂川さんが『半世界』21号に載せた小説「極東語学校夜話」は第54回直木賞の候補作に挙げられました。しかし、けっきょく粂川さんは小説家にはならなかったので、この小説もまず一般的に目に触れる機会はないかと思います。いちおう簡単に概略だけ紹介しておきます。

 アメリカの財閥ジェファースン財団が世界各国で運営している語学校があります。東京に開設されたのが「ジェファースン財団外国語研究所極東語学校」。ここで在日の外国人を相手に日本語を教えている江崎恵子が、小説の主人公です。

 時代はベトナム戦争が真っ最中で、アメリカによる北ベトナムへの空爆、それに対する報復などが連日のように報じられています。日本でも思想や主義をめぐる闘争が日常風景として繰り広げられるなか、恵子の同僚である歌人の根岸省吾、昔の恋人で革命運動家だった片山良治、はてまた語学校の初代校長だったアラン・バーリントンの夫人アンヌを寝取って結婚までしてしまった津田耿平など、恵子とまわりの男たちの恋愛や肉体関係や運動や、その他もろもろの同時代の生活が綴られていく……という小説です。

 いちおう直木賞の候補にはなっていますが、基本的にこのころの、とくに同人誌掲載作の候補作は、筋や背景、展開に面白みのあるものはほとんどありません。「極東語学校夜話」も、あんまり面白くはありません。

 冒頭のほうでアンヌが恵子に相談を持ちかける場面があります。どうも最近津田の金遣いが荒くなって、韓国人の少年に金を渡しているようだ、うんぬんというエピソードが伏線となって、最後の最後でその真相が明かされる、というところにミステリーチックなにおいを感じさせるぐらいです。ちなみに作中、恵子と根岸がミステリー・マガジンに載っている小説について会話をする箇所があります。短歌やミステリーを小道具として出してくる風合いが、昭和40年前後という時代にアメリカ人たちに囲まれて日本語を教える教師たちの、この当時の雰囲気を表しているのかもしれません。

 粂川さん自身は東京大学文学部から同大学院に進んで上代文学を専攻した人ですが、そのあとは自分で詩作もおこなって昭和37年/1962年には『運河と戦争』(屋根裏工房刊)を刊行、あるいは5年ほど東京や横浜で外交官を相手に日本語を教える仕事をしていた、と言います(『古典と現代』23号[昭和40年/1965年9月]「アメリカ生活を前にして」)。自分の身近なこと、体験したことを小説にしていくやり方にのっとれば、自分に似せた男性の主人公を立てて、その見聞を描いていくこともできたはずです。しかし、そういう手アカのついた手法をとらなかったことが、粂川さんのイケているところです。

 それはそれとして、外国人に日本語を教える、という職能が粂川さんにあったおかげで、昭和40年/1965年のこの時代に、直木賞は(候補作家とのまじわりのなかで)海を超えてしまいます。昭和40年/1965年9月、「極東語学校夜話」を置き土産として粂川さんはアメリカのプリンストン大学で日本語を教えるために渡米。そして海の向こうで、自分の小説が直木賞候補に挙げられたという知らせを受けることになったからです。

 候補になったのは、直接海外のことを描いた作品ではありませんが、粂川さんが日本語を教える経験を積んでいたから生まれたような内容です。世界(とくにアメリカとかベトナムとか)のなかでの日本人の、生の息づかいを感じさせるという意味で、このときに「極東語学校夜話」が直木賞の候補となって、候補一覧に名前を刻んだのも、けっして意味のないことではなかった、と言っていいと思います。

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2020年1月26日 (日)

太田俊夫、カメラの卸商になって中国大陸で仕事をした経験が、50代後半で熟成する。

 大正2年/1913年に宮崎県で生まれた太田俊夫さんは、まもなく東京に移り住んだので、出身地は「東京」ということになっています。

 直木賞の創設が昭和9年/1934年ですから、もうそのときには立派に成長して21歳。けっこうなお年頃です。区役所の税務係として働いていたといいます。

 そのころに一度小説を書いたことがあり、大衆雑誌の懸賞に応募したところ、入選の賞金10円をもらったそうです。いまさら太田俊夫の文学的履歴を調べようという奇特な人はいないかもしれません。でも、もしいたら、いつ何という雑誌の懸賞で入選したのか、教えていただけると助かります。よろしくお願いいたします。

 太田さんのインタビュー(『商工ジャーナル』昭和62年/1987年6月号)で語られるところでは、太田さんが入選したのは、丹羽文雄さんが文壇のなかで急激に注目の存在にのし上がっていた時代らしいです。というと、ちょうど直木賞ができた直後ぐらいなんでしょう。雑誌に載った作品を丹羽さんに見せてみたら、こてんぱんにケナされてしまい、それから太田さんは小説の筆をとる気が一気に冷めます。

 以後、昭和43年/1968年ごろまで30数年、いっさい小説を書く気持ちにならなかったという太田さんが、直木賞の候補に挙げられたのが第68回(昭和47年/1972年・下半期)のときです。もちろんそのころには、直木賞を創設したときの理念なんてものは、いろいろな事情で波にさらわれ、ほとんど別モノのような文学賞に変貌していましたが、候補当時ですでに59歳、太田さんの自慢(?)のひとつは、直木三十五さんをじっさいに見たことがある、というものでした。

 『経済界』昭和48年/1973年3月号のエッセイ「直木賞候補」によると、直木さんを見かけたのは太田さんが少年のころ。戦前の銀座では有名だったカフェ「銀座パレス」の向かいの道あたりを、ふらふらと倒れそうになりながら歩いている直木さんの姿を目にとめます。少年の目から見て、あっ、直木三十五だ、と顔のわかる作家だったということなのか、はたまた太田さんのハッタリなのか、よくわかりませんけど、直木さんと同時代の空気を吸った人が、けっこうな人生経験を積んだ末に小説を書きだして、この作家の名を冠した文学賞の候補になった、ということです。

 若いうちの経験は何でもしとけ、……というありきたりな感想しか浮かびませんが、20代から30代にかけての太田さんは、小説から離れて仕事に明け暮れます。日本橋で病院を経営していた叔父がいて、彼からのアドバイスで区役所をやめて、カメラの卸し商に転職すると、口八丁手八丁でものを売って利益を得る世界に魅力を感じ、険悪な国際関係にあった中国に渡って青島、上海、南京などでカメラ商人として青春の日々を謳歌しました。

 のちに太田さんが『文学者』に発表する短編連作「暗雲」は、物語のはじめ区役所に勤めている押見亮太が主人公です。それが役人の世界からオサラバしてカメラ売買に身を移し、日中間の、あるいは第二次大戦の戦局が激化するなか、中国大陸に商業拡大の場所を求めて海を越えます。というこの展開は、まるまる事実そのままと認められるわけではないですけど、かなりの部分で太田さんの経験が活かされたものだと思います。主人公や周辺人物の造詣や言動は、まもなく日本の出版シーンをにぎわせることになる冒険小説を連想させます。

 太田さん自身は、その後日本に帰って映画制作に関わったりするうちに、召集令状を受け取って、ふたたび中国に送られます。日本と中国。当時、兵士にさせられるぐらいの年代だった男性にとって、中国(満洲含む)での体験がそれぞれの人生を変えたと思いますが、直木賞という文学賞だけ見ても、それは同じです。戦後、その体験がきっかけで小説を書き始めたり、あるいはもとから創作をしていた人が海外戦地体験を書いたりします。それら強大な潮流が文芸、小説、読み物に流れながれて拡大し、昭和20年代以降、直木賞の場に侵食していきます。

 たとえばそこで、太田さんだって再び小説を書いてもおかしくなかったはずです。しかし書きませんでした。人生を賭けるなら、おれは商売の道だ、という信念と実感のなかで生きていたからです。昭和21年/1946年に復員してすぐ、かつてから知り合いだった笠井正人さん、宮尾芳房さんと3人で、カメラのフィルターを扱う会社を立ち上げます。「ワルツ」です。

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2020年1月19日 (日)

逢坂剛、社会人になって5年目、本場のフラメンコに触れるために、はじめてスペインへ。

 直木賞に関わる作家は受賞者だけじゃありません。面白い小説を書いていて、人物そのものも面白い(はずの)作家は、受賞しなかった候補者たちのなかにも、山ほどいます。

 なので、落選した人たちや作品にも目を向けたい、と思っているんですけど、じゃあ受賞者なんてクソばかりだから無視してもいいんだ、と主張するのはさすがに違う気がします。

 そんなこんなで今日は、これまでうちのブログでなかなか取り上げる機会の少なかった受賞者のことで行きたいと思います。しかも「海を越えた直木賞」のテーマにぴったりハマりすぎるほどハマっている、第96回(昭和61年/1986年・下半期)受賞者。逢坂剛さんです。

 つい最近、第61回毎日芸術賞を受賞した、まだまだ現役の人ですが、その逢坂さんが直木賞を受賞したのは、だいたいいまから30年ほど前になります。「そんなの最近じゃないか」と真顔でツッこんでくる爺さん婆さんはおいときまして、直木賞の歴史が85年ですから、そこまで最近でもありません。

 第96回の受賞者が逢坂さんと、『遠いアメリカ』の常盤新平さん。候補のなかには『脱出のパスポート』の赤羽尭さんも入っていました。もう海外や外国の話題を小説のなかに全面的に採り入れても、たいして物珍しくもなくなり、古い古いと言われた直木賞の選考委員会でも、拒否反応が薄れていた時期にあたります。

 そのなかでも逢坂さんの小説が候補に挙がるだけならまだしも、まさか直木賞をとってしまうというのは、やはり直木賞のなかの「海外交流史」ではインパクトの残る出来事だった、と言うしかありません。冒険小説と見られる小説が受賞した! という小説ジャンルの問題も、当然ありますけど、受賞作家の海外との縁のつながり方が、なかなか異様だったからです。

 「異様」というと表現が変かもしれません。すみません。しかし、親は挿絵で名の知られた絵描きさんで、生粋の日本人。幼少時代、とくに海外体験を送ったわけでもなく、大学時代に留学した経験があるわけでもありません。順調に大学を卒業すると、順調に(?)大手企業に就職します。そこで海外の支局に転勤してうんぬん、だったらまだわかりますが、そんなこともなく、のちに海外物の小説家としてのし上がっていく芽は、まだ表面化していません。

 そのまま会社員生活を送って、企業人のひとりとして小説を書き、直木賞をとってパッとスポットが当たります。と同時に、その受賞作の素材となった「スペイン」や「フラメンコギター」という海外との縁は、逢坂さん自身の純粋な趣味を突き詰めたところから生まれたものだった、というのです。

 会社に勤めながら、それとは別に余暇の時間をつぎ込んで趣味に没頭する人は、たくさんいます。逢坂さんの場合は、それがとある海外のこと、とある海外の文化だったわけですが、そういう日本人の生きざまのひとつの形態が、昭和62年/1987年1月に直木賞受賞というかたちでニュース記事の一端を飾った、ということです。

 逢坂さんがフラメンコギターにのめり込むきっかけは、二人いるお兄さんのうち、4つ違いの次兄の影響でクラシックギターを始めたことらしいです。本格的に練習を始めたのが大学一年のとき、それが神田神保町の喫茶店「ラドリオ」で、サビカスとエスクデロのレコードを聴いて、ビビッと来てしまいます。なんじゃこの世界は、と急激にフラメンコギターに興味を持ち、そこから演奏の練習に没頭していきます(『青春と読書』昭和61年/1986年3月号「ギターとスペインの話」)。

 やがて趣味が高じて、もう一段マニアに近づき、レコードでばかり聞いていても満足できなくなって、本場スペインで生の音を聴いてみたいと思うようになります。外国に行くとなったら現地の言葉をしゃべれなければ、とスペイン語を勉強し、社会人になって5年目の昭和46年/1971年、有給休暇をとって念願のスペイン旅行に出かけます。当然、その主眼はフラメンコにまつわる土地を見て歩く。というわけで、マドリードからセビリア、ヘレス、グラナダ、カディスとめぐるあいだ、11月1日、28歳の誕生日はグラナダで迎えたとのことです。

 じっさいにスペインの地を旅してみて、いっそうスペインが好きになり、フラメンコのことだけじゃなくもっともっと知りたいぞ、といういわゆる「恋する」感情に取りつかれ、歴史を調べる、現代の状況を調べる、内戦の資料を買い集めて調べる、とズブズブとのめり込み、それをもとに小説を書いてみようと思い立ち、作法もへったくれもなく、原稿用紙にシャーペンで横書きの体裁で、ひまを見つけては書き続け……というような『カディスの赤い星』出版にいたるまでの、涙なくしては語れない苦労話は、まったく有名なエピソードとして数々のところで紹介されているので、飛ばさせてもらいます。

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2020年1月 5日 (日)

直木三十五、日本が迎える未来のことを書きたくて、満洲や上海を旅する。

 新年最初のエントリーは、誰を取り上げるのがふさわしいのでしょうか。

 いちいち考えるのも無駄なので、さっそく本題に入ります。毎年1月といえば、直木賞の月です。個人的にはそれ以外に何もありません。直木三十五の、賞の、月です。

 去年「海を越えた直木賞」というテーマで1年続けようと思ったときは、全然頭になかったんですけど、そういえば直木三十五さんも海を越えた作家でした。明治24年/1891年生まれで、昭和9年/1934年没。当時、日本を出国しないままで生涯を終える人はたくさんいたはずです。そのなかで直木さんは2度ほど海を渡ります。その成果をもとに作品も残しています。

 そもそも外国を旅行したうんぬんの以前に、直木さんの履歴のなかで外国物は外せません。G・K・チェスタートン、エドガー・ウォーレス、ヘンリク・シェンキェヴィチなどの翻訳は「訳者として名前を貸しただけ」説があり、ほんとうに直木さんの仕事だったのかはわかりませんが、大学進学のときに英文科を選んでいるのは事実ですし、あるいは、いくつか手がけた出版事業のなかで大いに成功したと言われているのが『トルストイ全集』刊行だっだりします。こういう人の名前を冠しているわけですから、その文学賞が多少なりとも国際的な側面をもっていたって、バチは当たらないでしょう。

 ……と言いながらも、昭和のはじめに直木さんが外国を取材した、と現在の感覚で言ってしまうのは語弊があるかもしれません。最初の旅行は、まだ日本が占領するまえの満洲地方。2度目は、欧米および日本がヒトの国土をめぐって鞘当てを繰り返していた頃の中国・上海。いずれも日本がよそさまの生活を侵してまで自国の政治・文化を広げたいと思っていた時代に、身近にあった隣国です。

 そのころ、といいますと1920年代後半から30年代、直木さんは大衆文芸作家として急激にマスコミで名前が売れはじめていました。とくに彼を有名にしたのが、軍部と密接にくっついたファッショ主義の持ち主という側面です。左傾ではなく右傾、とそういうことになっています。

 昭和5年/1930年、直木さんは一世一代の代表作「南国太平記」を新聞に連載して、ついに流行作家の地位にのぼりますが、このころ日本国内で話題になっていたことといえば、満洲に対する日本の政策(あるいは日本人たちの向き合いかた)でした。欧米列強に遅れまいと、必死に満洲への進出をすすめる日本。一般的には賛否両論があったようですけど、知識層ないし文学者の方面では「こういう帝国主義的な他国への侵略は悪だ」という認識があったみたいです。ごもっともです。

 しかし直木三十五という人間の、ちょっとイタイ性格が、ここで過敏に反応します。なんといっても生まれついてのアマノジャクです。世間で良識だと見なされる考えかたに対して、つい逆張りしてしまう直木さんの言動は、これ以外にもいくつも見られますが、満洲に関しても例外ではありません。偉そうな奴らは、侵略するのは悪いことだと言う。だからこそ、おれはそんなことはない、と言ってみせる。……というような発想です。

 昭和5年/1930年10月、満洲を1週間ほど旅行し、翌年にはその取材をもとに「村田春樹」という名前で、いわゆる架空戦記物に属する「太平洋戦争」(『文藝春秋』昭和6年/1931年2月号~8月号)を発表します。村上春樹じゃありません。村田春樹です。

 伝えられるところによりますと、直木さん自身は昭和5年/1930年~昭和6年/1931年当時の世界と日本の情勢を自分なりに分析し、きっとこういうことが起きるだろうと予想して書いたにすぎず、別に自分の政治思想をそそぎ込んで世に広めよう、といった感覚はなかったそうですが、流行作家の直木が戦争物を書いたぞ、右傾化しているぞ、と言われてしまいます。そこで、はあすみません、僕の書き方が悪かったですね、などと殊勝に引き下がらないところが直木さんの面目躍如たるところで、うるせえな、ファシストぐらいいつでもなってやらあ、と受けて立って、翌年に「ファシズム宣言」をぶっ放します。それでまた世間がワッと沸く、という展開です。

 こういう流れを見ても、直木さんに何か一本芯の通った立派な理念があったとはとうてい思えません。ハッタリとその場しのぎです。もしも文学賞というものが、例外なく尊敬されるべき人物の名前を冠しなければいけないものだとしたら、この人など、まず文学賞として語り継がれるにはふさわしくない人でしょう。

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2019年12月29日 (日)

皆川博子、「時代小説で直木賞をとった」レッテルから脱して、自分の好きな世界を描く。

 皆川博子さんといえば何といっても海外です。ヨーロッパです。……などと、断言してしまっていいのでしょうか。皆川さんの海外モノはたしかにインパクトがあって強烈に印象に残る、だけどそれだけの作家とは言い切れない、その感じがまったく果ての見えないこの作家の幅広さです。

 そう考えると、この人の名前が受賞者リストにあるだけで、どれだけ直木賞が救われていることか、対外的な影響は計り知れません。一般に直木賞には漠然とした傾向があると言われ、少なくとも構成が整っていて、文章のただずまいとストーリー展開のバランスがとれた、従来のオーソドックスなかたちにハメ込めるタイプの小説が、賞全体の基本をなしています。そこがいまいち、直木賞という賞の突き抜けない原因ともいえますし、いつの時代もトガった文芸に傾倒する一派から馬鹿にされつづけてきた所以でしょうけど、たしかに数ある皆川さんの小説のなかで、よりによって授賞作を『恋紅』にしたことを見ても、この賞に向ける不満が世に絶えないのもよくわかります。

 しかし、受賞させるか落選させるか、文学賞の価値はそこだけにあるわけではありません。どんな人の何という作品を候補に選んできたか。その履歴を刻々と資料として残す文学賞は、いっときの盛り上がりを超えた大きな枠組みのなかで、後世の読者に対しても小説の幅広さを示してくれます。その点、直木賞の候補選出の道のりは、まだまだ対象が狭くて物足りない人もいるでしょうが、けっこう面白い選球眼です。

 皆川さんがはじめて直木賞の候補に挙げられたのは、第70回(昭和48年/1973年・下半期)のことです。『小説現代』の新人賞を受賞してまもない新人中の新人時代のときでした。候補となった短篇「トマト・ゲーム」は、東京に舞台を設定し、描かれる時代は書かれた当時から見た「現在」、あるいはさかのぼっても20数年前で、戦後に米軍キャンプが駐留し、そういう環境のなかで生活を送ってきた男女が登場するという、いわゆる現代ものです。

 現代の世相を小説に映し取ろうというときに、日本人ばかりが出てくる日本人の社会を選択しなかったところに、すでに皆川さんの国境を超えた人間たちへの興味が現われている、といってもいいかもしれません。それから3年後の第76回(昭和51年/1976年・下半期)、今度は書き下ろしの長篇小説でふたたび直木賞の候補に選ばれ、もう一歩、海を越える皆川さんの作家性があらわになりました。

 それが『夏至祭の果て』(昭和51年/1976年10月・講談社刊)です。江戸時代初期の、禁教政策で社会的な圧迫を受けながらそれぞれの信仰と向き合うことを強いられたキリシタンたちの物語です。

 ものの本によれば、というかご本人の書くところによれば、子育てに一段落ついた皆川さんが、それまでの膨大な読書経験を経て、なにか物語を書いてみようと思い立ったとき、強い関心をもって選んだ題材が、隠れキリシタンや殉教者たちのことだった、と言います。

 ひとりの大人が何かに興味をもつ理由は、いろいろあると思います。どうしてそこに注目したのか。そんなことをいちいち突っ込んでいったら答えは無数に出てくるでしょうし、本人も含めて正解を割り出すことなど、ほとんど不可能でしょう。じゃあどうして、うちのブログではそこに触れようとするのか。……この理由もまた、ワタクシ自身ですらよくわかりませんが、もはや直木賞とそれに関連する人たちのことをあれこれ考えるのが面白いから、としか言いようがありません。

 それで、キリシタンものの『夏至祭の果て』が直木賞の候補になって約1年後に、なぜキリシタンものを題材に選んだのか、皆川さんが語ったのは、こんな理由です。

「極限状態に直面したとき、人は、いやおうなしに自分の赤裸々な姿をみせつけられる。十数年前、はじめて小説に手を染めたとき、切支丹と禁教という素材に食いついたのは、その苛酷な状況が、人間をうつし出す鏡として、何より魅力的に思えたというのも理由の一つだった。敗戦によって大人から与えられる価値観が一八〇度逆転した少女期の精神体験も、その上に重ね合わせられた。」(『旅』昭和53年/1978年3月号 皆川博子「切支丹の島・生月の“お誕生日”」より)

 昭和20年/1945年にやってきた日本の敗戦という、自分自身の体験とからませています。

 幼少時代から古今東西問わずに物語に親しみ、人間たちが表に見せる顔とは別のものとして、負の感情の渦巻く心のうちがあることをさまざまな作品から吸収しながら育った皆川さんは、その過程のなかで西洋の作品にも数多く接します。戦中、戦後と本を読まなければ暮らしていけないぐらいの読書家として育ち、進学先には東京女子大学の英文科を選択、しかし健康上の理由から志なかばで退学すると22の年には結婚して家庭に入ったそうです。

 ちなみに「医学と超能力と」(平成8年/1996年3月・中央公論社刊『私の父、私の母PartII』所収)のほか、いくつかのエッセイによれば、インチキくさい霊媒を本気で信じていた父、塩谷信男さんの命によって子供たちも強制的に交霊会に参加させられ、「お筆先」の役をやらされ、それがイヤでイヤで仕方なかったのに、親には絶対服従という家風のなか、ほとんどそこから逃げ出すように結婚生活に入り、親の束縛を断ち切るために、そうとうな苦労を重ねた、といいます。

 そういった現実の生活を送るなかで、キリシタンの受けた過酷さに一種の興味と魅力を感じてしまったというのは、読書というのは恐ろしいなと言いますか、わざわざ皆川さんの例を引くまでもないかもしれません。小説をはじめ種々雑多な本を読むことで、日本という国を飛び出す気分を、たぶん多くの人が味わったことがあるでしょう。

 『夏至祭の果て』で皆川さんが二度目の候補になった当時、まだこの作家に無限の蓄積や、次々と読み手を別の世界に連れていける視野の広さがある、というような印象は持たれていなかったと思います。そういう先々の可能性を、だれも気づかないうちにいち早くとられることができれば、それは文学賞としてはカッコいいところですが、残念ながら直木賞は、早い段階から新人賞に求められる発掘機能を放棄してしまったので、新人のころの皆川さんを引き上げることはできませんでした。

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2019年12月22日 (日)

高橋義夫、大陸から樺太にいたる土地と人々に興味を抱いてミステリー小説を書く。

 今年平成31年・令和1年/2019年の文学賞で、最も心に残ったのは、11月10日に白河市で開かれた第25回中山義秀文学賞選考会で、河治和香『がいなもん 松浦武四郎一代』への授賞が決まったことです。

 「最も心に残った」というのはさすがに大げさなんですけど、この文学賞では例年、それぞれの候補作に対する選考委員4人の評価がズレることは、ほとんど見られません。それが今年は明らかに評価が割れ、『がいなもん』を推す高橋義夫、中村彰彦、清原康正のおじさん3人組に対し、赤神諒『酔象の流儀 朝倉盛衰記』を推す紅一点の朝井まかて、という図式が展開されました。

 おなじみの公開選考会では、罵詈雑言の応酬のうえに両派とも立ち上がっての殴り合いに発展する地獄絵図が観衆の目のまえで繰り広げられた……などと、ウソを書いてはいけませんね。しかし、朝井さんが『がいなもん』に対して、史実に忠実であろうとする作者の意思と、物語としてのふくらみが噛み合っていないのではないか、と苦言を呈したことに、他の3委員がまるで実のある応答をしなかったのはたしかです。視点人物にお豊を選んだのが素晴らしいだの、歴史に対する作者の考えが見えていて、他の候補2作のような「学生の書くレポート感」がなくてよかっただの、そうやって繰り返し褒めるだけ。ああ、あの場所で人の評価に耳を傾ける気など、まったくない人たちなんだな、ということが如実にわかる選考会でした。

 と、義秀賞のことを回想してみたんですけど、「直木賞、海を越える」というブログ記事の導入としては、ちょっと間違ったかもしれません。

 仕切り直しまして、ともかくこの賞の委員を3年前から務めている高橋義夫さんは、第106回(平成3年/1991年・下半期)直木賞の受賞者です。歴史・時代物から出てきた作家は何度も候補にならないと直木賞では認められない、という法則があるとおり、高橋さんも衝撃の(?)歴史小説『闇の葬列――広沢参議暗殺犯人捜査始末』(昭和62年/1987年3月・講談社刊)で、第97回(昭和62年/1987年・上半期)にはじめて候補になってから、落とされ、落とされ、何度も落とされ、ようやく5度目の候補で受賞を果たしました。

 それで、ようやく受賞した作品が、それまでの候補作に比べて特段どうということのないシロモノ、というのも直木賞ではよくあることです。高橋さんといえども例外ではなく、受賞作の「狼奉行」より前の作品のほうが、歴史モノ時代モノの枠組みにとらわれない高橋義夫という人の幅広さが出ていて、ワタクシは好きです。

 なかでも第103回(平成2年/1990年・上半期)のときに、3度目の候補として挙がった『北緯50度に消ゆ』(平成2年/1990年3月・新潮社刊)は、「新潮ミステリー倶楽部」というレーベルのもつ多彩な印象とも見事にマッチして、滅びゆく人間たちという歴史的な事象に光を当てながら、読者に面白く読んでもらおうとする作者の試みがからみ合った一作になっています。どうしてこれが文庫にもならず、直木賞史のなかに埋もれているのか。高橋さん自身の意向なのかもしれませんが、いずれ復刊してほしいと思います。

 ロシア革命が起きて間もない1920年代。東亜同文書院の卒業旅行で満洲を旅する学生が、記憶をなくしたロシア人の娘と出会ったところから、国際的な政略にまきこまれる、という歴史語りに徹するのではなく、そのことがペレストロイカで揺れる現代ソビエトに関わりを持つパートが差し挟まれることで、この小説にいっそうの躍動感が生まれていることは間違いありません。そして何より、過去から現代にまで通じて日本とロシア(ソ連)の人間たちが交わる土地、国家という構造がきしみ合う場所として、舞台を大陸からサハリン(樺太)へと移していく展開が、この小説の重要なところでしょう。

 いったいに高橋さんが、どういった経緯で樺太に行きついたのか。よくわかりませんが、昔から中国大陸の歴史については高橋さんの興味の対象だったことはたしかなようです。20代のころ、友人たちと神保町でPR会社をやっていたときは、よく古本屋をまわって、日本の大陸政策に関するもの、満鉄関係のものなどを買いあさっていたと言います。その後にフリーライターとなってさまざまなジャンルの文章を書きはじめても、関心の一端は切れることなく続いていたのでしょう、『北緯50度に消ゆ』刊行時にもプロフィールに「幕末維新を扱った時代小説を発表する傍ら、大陸に関する広汎な知識を生かした歴史小説を手がけ注目を集めている」と書かれるほど、大陸に対する高橋さんの思いは膨れ上がっていました。

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2019年12月15日 (日)

岡本好古、アメリカでの生活を夢見てン十年、ベトナム戦争を題材にして作家として立つ。

 作家になりたい。目利きの人に認められてデビューを果たし、筆一本で生活していきたい。……世の中には、そんな夢を追う人がいます。

 夢はあきらめずに追うのがいいと思いますが、ワタクシは単なる直木賞好きでしかないので、基本的に無関係です。しかし「直木賞のすべて」とか「文学賞の世界」とか珍妙なサイトをやっていると、そういう人から時どきメールをもらいます。だいたい用件は「あんたが誰だか知らないけど、とにかくおれの書いた小説はすごいから、出版を世話してくれないか」みたいなものです。こちらが微力すぎて、ほとほと扱いに困ります。すみません。

 基本的に無関係、と書きましたけど、直木賞の逸話を追っていると、受賞者や候補者のなかにそういう夢を追いつづけてデビューした作家が、ちらほら見受けられることも事実です。

 今回取り上げる岡本好古さんも例にもれません。作家を志してからコツコツと原稿用紙のマス目を埋め、同人誌に参加しながら、数々の新人賞に応募して吉報を待ちますが、落選につぐ落選の連続。受賞発表号の雑誌を本屋でめくり、自分の名前のないことに歯噛みする、そんな経験をえんえんと続けます。だいたい20代のはじめごろから18年間の苦行だった、と言いますから、なかなかの夢追い人です。

 へとへとになりながら、しかし昭和46年/1971年7月末日締め切りの第17回小説現代新人賞のために、一篇を書き上げたときは、これまでとは違う自信作ができたという感覚があったといい、応募するそばから、これは何だかとれそうだと予感がしたそうです。だいたい、こういう回想は後付けですので、ホントかよ、と突っ込みたくなるところではありますが、岡本さんの応募作は予選をどんどん通過して、ついには受賞にまで輝きます。若かった岡本さんもいつの間にか、妻と2人の子供を養う40歳のおじさん世代になっていました。

 この受賞作「空母プロメテウス」は、『小説現代』12月号に掲載され、途端に話題になったらしいです。何といってもいまとは違って『小説現代』だけじゃなく数誌の中間小説誌が文芸界の天下をとるんじゃないか、と鼻息あらく暮らしていた頃のおハナシです。

 そして、これもいまとは違って、雑誌に掲載された小説が世間で(というか、中間小説誌の編集者たちのあいだで)話題になれば、そのまま直木賞の候補になることも珍しくありませんでした。『小説現代』の新人賞というのは、『オール讀物』のそれと張り合って年に二回開催し、それなりに活躍する人材が輩出していましたが、岡本さんの受賞作は、この半期を対象にする第66回直木賞(昭和46年/1971年・下半期)の候補作に挙げられます。小説現代新人賞の受賞作としては、第6回(昭和41年/1966年)の五木寛之さん「さらば、モスクワ愚連隊」以来、およそ5年半ぶり2度目の事態。それだけでも本作がどれだけ編集者たちに衝撃を与えたか、うかがい知れるところです。

 ということで、どちらかといえば純文芸の方面で作家修業を続けていた岡本さんが、小説現代新人賞をとり、直木賞の候補になった「空母プロメテウス」は、まだ当時、交戦状態にあったベトナム戦争のひとまくを描いています。舞台は、アメリカ・サンディエゴからベトナム沖トンキン湾にいたる洋上。語り手は日系アメリカの軍人で登場人物は空母に乗り込んだアメリカ軍人たちです。思いっきり海を超えた物語です。

 岡本さん自身は、戦争の現場を知りません。生まれたのが昭和6年/1931年の京都。軍国主義のもとで少年時代を送りますが、終戦のときにはまだ13歳でした。出征経験はありません。

 それでハナシはズレますけど、岡本さんの履歴をもう少しだけ追うと、2歳のときに父親を喪い、母親に女手ひとつで育てられたそうです。家にはずっと寝たきりの祖母が同居していた、とのこと(昭和52年/1977年8月・酣燈社刊『歯に衣を着せず』所収「寝たきり十八年の祖母」)。

 その祖母というのが、日本映画史に燦然と輝く伝説的な人物、牧野省三さんの姉に当たる明治6年/1873年生まれのマスヱさんだったと言います。ここら辺、天下のwikipediaに何か書いていないかと思って、牧野さんの項目を確認したところ、姉がいたことすら触れられておらず、ちょっと不安になったんですが、『人事興信録』第七版(大正14年/1925年8月刊)には牧野さんの姉マスヱさんの記述があるので、たしかな事実でしょう。要するに岡本さんは、藤野齋さんの曾孫であり、牧野省三さんの姪の子供であり、まあ大きくとれば牧野一族の末端に属していて、岡本さん自身は大人になるまでその自覚はなかったけど、いずれ文学を志す血が知らず知らずのうちに流れていたのだ、と書いています。ホントかよ、という感じです。

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2019年12月 8日 (日)

虫明亜呂無、フランス語由来の名をもつ男が、ヨーロッパを旅して日本のことを思う。

 映画のことやスポーツのことを書くうちに、やがて独特な小説世界を開花させた虫明亜呂無さんは、東京生まれの東京育ち、生粋の江戸っ子です。

 しかし彼の文章のまわりには、せまい日本を覆う窮屈な感覚を飛び越えて、ワールドワイドな風合いが明らかに漂っています。何といっても、名前が名前です。亜呂無(あろむ)。相当、日本人離れしています。

 本人によると、この本名は父親がつけたものだそうで、父は二科会、円鳥会と移りながら萬鉄五郎さんに師事した大正時代の洋画家。おそらく虫明柏太さんのことです。西欧の絵画にのめり込んだ父親は、ヨーロッパ熱が高じすぎたのでしょうか、9月に生まれた息子に、菊が香るのイメージから芳香を意味するフランス語「アロム」の名をつけてしまったのだ、といいます。もしかすると、尊敬していた萬鉄五郎の娘さん「馨子」から拝借したのかもしれないな、というのが亜呂無さんの説です(『文藝春秋』昭和43年/1968年11月号「わが名はアロム」)。

 ともかく亜呂無さん自身は、もっと平凡な名前がよかったなあと思いながら、日本という国や歴史に対して関心を深めていった……ようにも思えるところ、一方では西欧のものも同じくらいに好きになって、大学では仏文を専攻。日本とか日本以外だとか、そういう壁をつくらない意識のなかで、貪欲に内外の文化を享受し、やがてそれを伝える立場に身を置くようになります。

 いったいに虫明さんは、幼い頃からひとりでぶらーっと遠くに出かけるのが大好きで、その性格は年を経ても変わらなかったようです。いや、むしろ成長するにつれて放浪の傾向は強くなるばかりだった、と言っています(『月刊教育の森』昭和54年/1979年3月号「放浪へき」)。遠くに行く。何の理由もなく、ただただ家を離れて遠くに行く。東京を出て、日本を出て、異郷をさすらうそのことが、何の理由もなく心地よい、という感覚です。

 それでハナシは一気に飛びまして、虫明さんがユニークなナンデモ評論家から小説を書き出す時代に行くんですが、もうすぐ50歳に差しかかろうかという中年の頃。「小説がいちばん自分のいいたいことがいえますからね。」「今まではその準備のようなものにすぎません。」(『競馬研究』1351号[昭和45年/1970年4月])とインタビューで答えていて、「抒情と感情で語る評論家」の皮を脱いでいよいよ小説に向かうのは、虫明さんのなかでは自然な流れだったと言えるでしょう。

 このとき虫明さんが数多く手がけることになったのが、スポーツにまつわる人間たちの物語です。それがもう新風、新鮮にふさわしく、みずみずしくて先鋭的。虫明さんの切り開いた地平を起点にぞくぞくと、読んで面白い、対象人物に肉迫したスポーツ・ノンフィクション作品が日本で生まれていくことになった……と言われるぐらいですから、その素晴らしさには打ち震えますが、とりあえず他の文学賞の顔をうかがうことなく、虫明さんの小説を候補に挙げた当時の直木賞も、なかなかのものだと思います。

 第80回(昭和53年/1978年・下半期)といえば、いまから見るとちょうど直木賞の歴史の中間あたり。約40年ほどまえですから、そこまで昔ではありません。

 しかし、その候補作は『シャガールの馬』(昭和53年/1978年10月・講談社刊)という作品集に収められた「シャガールの馬」その他である、という記録が残っているいっぽうで、当時の文献には「シャガールの馬」「アイヴィーの城」「海の中道」の3作品だ、と報道されているものもあり(『日本読書新聞』昭和54年/1979年1月29日号)、まあ正確なところはどっちでもいいじゃないかというこの賞の鷹揚さ(もしくはいい加減さ)が垣間見える時代です。どっちでもいいのかもしれません。

 オビにある「収録作品とテーマ」の記述を、そのまま並べると、「海の中道」―マラソン、「連翹の街」―サッカー、「黄色いシャツを着た男」―プロ野球、「タンギーの蝶」―プロ野球、「アイヴィーの城」―テニス、「ふりむけば砂漠」―陸上競技、「シャガールの馬」―競馬、「ペケレットの夏」―ボート、ということになります。スポーツを扱った小説集であることはたしかなんですけど、声なき声のように、この一冊から国際的な香りが漂ってくるのは、やはりその何篇かの舞台が海外だからです。

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