カテゴリー「直木賞、海を越える」の50件の記事

2020年5月31日 (日)

五木寛之、旅行先のモスクワで小説の素材に出会い、そこから一気にスターダム。

 先週取り上げた藤本泉さんは、昭和41年/1966年に商業誌にデビューしました。あんたの小説は純文学じゃないね、大衆文学だね、とか何とか同人誌の仲間から偉そうに批評され、その声を謙虚に受け止めて『オール讀物』そして『小説現代』の新人賞に応募、受賞したことがきっかけです。第6回小説現代新人賞は、その藤本さんを世に出せただけでも十分な成果があったのだ、と言えるんですけど、この回にはもうひとり同時受賞者がいます。五木寛之さんです。

 いまから50年以上もまえの昭和41年/1966年、40歳を超えたおばさん作家より、30代なかばの若々しさあふれた作家のほうに露骨にスポットライトが当たってしまった……というのは少し言いすぎかもしれません。しかし、「直木賞の歴史を変えた!」と言われる受賞者はこれまで何人もいますが、そのなかでも直木賞に与えた影響度、世間に対する衝撃度などでトップクラスに君臨するのが、五木さんです。作家デビューから1年もたたないうちに第56回(昭和41年/1966年・下半期)直木賞を受賞、テレビから新聞・雑誌からこぞってバンバン取り上げられました。いまの直木賞受賞報道なんてチンケなもので、五木さんのときの破壊力はもはや空前絶後。と聞いています。

 それで「直木賞、海を越える」のブログテーマもそろそろ1年がたち、今回で50週目です。今日でこのテーマは最後になるんですが、五木寛之という存在は日本の中間小説の歴史を変えただけでなく、直木賞と海外の関係という点でも偉大にそびえ立っています。とりあえず最終週にふさわしい直木賞受賞者でしょう。

 五木さんにはデビュー直後から(いや、新人賞をとる以前から)現在にいたるまで、膨大な雑文、エッセイ、インタビューがあり、作家の業績をとらえようとする関連書もたくさん出ています。切り口は無数にあるのは間違いありません。なかでも直木賞との関係性で見たとき、どうしても気になるのが、五木さんの国際性です。海外との縁です。

 日本で生まれながら幼少期に海の外の、朝鮮に連れていかれ、昭和22年/1947年14歳のときに引き揚げを経験している、という海外との縁は、とりあえず措いておきます。注目したいのは直木賞と関連した部分です。小説デビュー作も、半年後に直木賞をとった作品も、ともに強烈なほどに海の外のことを描いている。そのことが、何とも新しい作家が直木賞に登場したもんだ! という一般的な印象を、よりいっそう高めたのは明らかです。当時の五木さんが、日本を舞台にした和風な小説で登場していたら、それほど注目されていなかったかもしれません。

 どうして小説の処女作がモスクワを舞台にした海外モノだったのか。というと、直前の昭和40年/1965年にシベリアからモスクワに旅行、数か月を海外で暮らしたからだそうです。どうして行き先がソビエトだったのか。もともと大学進学で露文科を選ぶほどにロシアの文学に興味を覚えていたからとか、いきなり欧米・西洋に行くより日本と親近性がありそうなロシアに足を向けたのだとか、いろいろ理由はあるんでしょう、しばらくゆっくり過ごせる場所ならどこでもよかったのかもしれません。

 ちょうど五木さんをとりまく仕事の状況も変化の時にありました。昭和39年/1964年4月、五木さんの所属していた「三芸プロ」社長の滝本匡孝さんが、社員の雇った殺し屋に殺害されるという事件が起きて、会社は解散。その前進というか母体ともいえる「冗談工房」も幕を引き、メンバーはみな別々の道を歩みはじめます。20代から30代、芸能マスコミの片隅でしゃかりきに突っ走ってきた五木さんも、ふと自分の人生を考えることになって、一度これまでの仕事を清算して次のステップに進むための充電として旅行を企てた、ということらしいです。

 先のことは何も考えない。目的をもたず、ぶらりと海外に行く。……というこの行動がすでにオシャレというか、大衆感覚から半歩から一歩まえに出ています。しかも、からだと心を休めるために休暇に当てたふうを装いながら、赴いた先でこの見聞を小説にしてみよう、とひらめいてしまう。何だか頭の切れるビジネスマンみたいです。

「『さらば――』は、五木サンがマスコミ無宿の生活を精算してソ連を旅しているときに、すでに構想ができあがっていたもの(引用者中略)。「五木寛之」としての処女作は、『さらば――』と、五木サン自身、決めていたのだ。その証拠に、五木サンが友人に宛てた当時の手紙があって、そこには、

「帰国後は旅の体験を源に小説を書こうと思っています。題名は『さらば、モスクワ愚連隊』ということにでもしましょうか。」

と書かれてある。」(昭和52年/1977年5月・大和出版刊、四倉芙蓉・編著『五木寛之全カタログ』より)

 現代のモスクワに住む現地の人たちの姿を、そこでたまさか関わることになった日本人の目から描く。小説現代新人賞で編集者や選考委員たち、あるいは受賞作として『小説現代』に載った作品を読んだ読者たちが、思わずこれはスゴい!と身を乗り出した要因に、素材の清新さがあったのは間違いありません。五木さんも旅立つまえには意図していなかったんでしょうが、旅をしている最中に題名まで決めて、これは小説になると頭が働く瞬発力……べつの表現を使うと「才能」ということになるんでしょう、ひとりの人間の、ひとつの海外旅行が直木賞という文学賞を、いや中間小説の歴史を大きく動かすことになります。

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2020年5月24日 (日)

藤本泉、西ドイツのケルンで生活を送り、最後に確認された場所がフランス。

 盛厚三さんという文学研究者がいます。北海道釧路にまつわる文学者や作品のことに異常にくわしく、また埼玉県春日部あたりの文学についてもよくご存じの方です。

 春日部というと、ワタクシの敬愛する先輩研究者、荒川佳洋さんが住んでいます。直木賞の選考委員をしていた三上於菟吉さんが同地の出身だった関係で、於菟吉関係の催しがあると荒川さんに誘われて足を運んだりするうちに、その集まりが縁で盛さんと知り合いました。

 平成15年/2003年5月から10数年来、盛さんは『北方人』(北方文学研究会・発行)という同人誌を刊行しています。ワタクシ自身、以前から同人誌という形態にあこがれに近い感情をもっていたので、何か書いたら載せてもらえますか、とお願いしてみたところ、何でも自由に書いてちょうだいよ、とすんなり快諾のお返事です。

 だれも読まないだろうと自覚しながら、無償の原稿を書く……。毎週ブログを書いているので、こっちも慣れています。取り上げたい直木賞の受賞者・候補者は山ほどいますから、これまで同誌の誌面を借りて米村晃多郎さん(第31号・平成31年/2019年3月)、桜木紫乃さん(第32号・令和1年/2019年8月)、堤千代さん(第33号・令和1年/2019年12月)のことなどを、あれこれ書いてきました。

 つい先日、令和2年/2020年5月に完成したばかりの『北方人』最新号(第34号)が、ワタクシの手元にも届いたところです。今回は第75回(昭和51年/1976年・上半期)直木賞の候補に挙がった藤本泉さんに焦点を当てて、彼女の前半生の文学生活を中心にまとめてあります。

 そもそも藤本さんについて知りたいのに、公刊された資料やネットを見ているだけでは、わからないことが多すぎるぞ! ……と発狂しそうになったのが昨年のことです。これはもはや動くしかないな、と勇気を出してご親族に連絡をとり、藤本さんの弟ご夫妻と長男ご夫妻それぞれにお話をうかがいました。生い立ちから、兄の戦死、結婚、実家との関係、同人誌『文芸四季』『現象』への参加などなど、興味のある方は『北方人』を入手して読んでもらえればいいんですが、ちなみに実家は藤本、名前は芙美、結婚して姓が変わったので本名「新藤芙美」。平成12年/2000年に『日本ミステリー事典』(新潮社/新潮選書)で杉江松恋さんが記載しているとおりです。また、平成1年/1989年66歳のときから現在まで死亡が確認されたことはなく、ン歳で亡くなったとする情報は基本的には不正確なもので、フランスで消息を絶ってから約30年、たしかに現在も行方不明中だそうです。

 と、人生最終盤のモヤモヤする展開をはじめとして、藤本さんといえば海外のエピソードがふんだんに出てきます。海の向こうとの関わりかたは、直木賞候補になった数々の作家を見渡しても、かなり特異と言っていいでしょう。ドイツに数年住んで、日本に戻ってくる途中のフランスでぱったり足取りが途切れたまま生死も確認されていない人なんて、そりゃ直木賞の候補者では藤本さんしかいません。特異です。

 行方不明の一件はワタクシもよくわかりませんし、ご長男でもいまなお何があったのかわからないご様子だったので、ここで新たに書けることはありませんが、藤本さんと海外のことは『北方人』の原稿では深く掘り下げられませんでした。とりあえずブログのほうに書いておきます。

 藤本さんの海を越えた人生を考えるとき、まず外せないのが父親の藤本一雄さんのことです。

 明治26年/1893年に静岡県で生まれた一雄さんは、東京で教師になって結婚したあと、猛烈に湧き上がる学究意欲を抑えることができず、東京帝大で学び、あげくのはては家族を置いて単身、海を渡ってアメリカの南カリフォルニア大学で学びます。いわゆる勉学の虫です。後年、東海大学の教授となって、『性格教育と宗教 徳育の根本問題』(昭和33年/1958年・明治図書出版刊)、『道徳の根本問題 性格教育の理念と実際』(昭和35年/1960年・明治図書出版刊)、『一般教育基盤としての宗教 道徳の根本問題 学理篇』(昭和41年/1966年・風間書房刊)などの著作も出しましたが、その原稿の整理や清書は、娘の芙美さんが頼まれることもあった、といいます。「お父さんの書くものは、面白くないからねえ」とブツブツ愚痴りながら手伝っていたそうです。

 一雄さんはお寺の生まれですが、一生涯を教育者として貫徹した人で、海外に行って学んだのも教育学でした。影響を受けたのはイギリスの教育学者ニイルの考えかたで、子供の自由を最大限に認める教育を実践する、というもの。日本でその思想を受け継ぎ「叱らない教育」を提唱した霜田静志さんとも交流を深め、またその考えをじっさいに行う場として故郷である静岡の現・菊川市で私設の保育園・幼稚園をつくります。昭和28年/1953年のことです。創設からしばらくは、芙美さんもしばしば実家に帰り、地域の子供たちに囲まれながら世話をしたりお話を創作して聞かせたり、教育現場に立つひとりとして過ごします。

 子供を育てて、その成長を見守る大人の行為には、国境もクソもない。ということなのかどうなのか、教育学もその現場もよく知らないのでうかつなことは言えませんけど、ともかく一雄さんが教育に対する自身の考えを高めるときに海外にその手本を求めたことは間違いありません。ニイルがイングランドに設立したサマーヒル・スクールには一度、二度と視察に訪れた記録もあります。芙美さんのほうは幼少時代に父の実家があった静岡で暮らし、その後東京に出て日本大学を卒業、まもなくの昭和22年/1947年には埼玉県所沢市に住む中学校教諭の新藤さんと結婚して以来、家庭に入ったかたちになりますが、まだまだ欧米に渡ることが特別だった時代に、彼女がとくにヨーロッパ方面におのずと明るくなったのは、父の一雄さんや霜田静志さんという身近な教育実践者をたどった先に、ニイルやサマーヒル・スクールなどのヨーロッパがあったからではないか、と推測します。

 商業誌のデビュー作こそ「媼繁昌記」という、日本の平安時代ごろを題材にした王朝時代モノでしたけど、デビューしてしばらくは『小説現代』『別冊小説現代』あるいは『小説CLUB』などにヨーロッパの各都市を舞台にした現代小説をぞくぞくと発表。あるいは、もはや伝説と化している「毎年夏になると自宅を離れて、地方に行っては家を借り、数ヵ月間そこで暮らす」という、藤本泉って何者なんだエピソードを飾る例の行動をとるときにも、北海道、東北、長野といった国内だけでなく、さらっとパリやケルンを行き先に選んでしまっています。

 『ガラスの迷路』(昭和51年/1976年8月)光文社カッパノベルス版の裏表紙には、「プラハ取材中の著者」とキャプションの付いたモノクロ写真が載っています。その横に書かれた説明書きは、こうです。

「「無器用な作家」を自称する藤本泉の取材方法は、一風変わっている。彼女は、対象とする土地に、何カ月でも居を移して住みついてしまうのだ。本書を書くにあたっても、前後二回にわたってプラハに滞在した。そうした創作態度が、作品に確かな表現力を与えているのだろう。」(『ガラスの迷路』裏表紙より)

 直木賞の候補になったり江戸川乱歩賞をとったりするまえから、とにかく身軽に海を越える人だった、ということです。

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2020年5月17日 (日)

木村荘十、中国を舞台にした「日本人が出てこない」小説で初めて直木賞を受賞する。

 ご多分に洩れず、うちも最近、部屋の片づけに明け暮れています。懐かしい本や資料が何年かぶりで出てくる。ああワタクシもあれから年をくったんだなあ、と回想や感慨にふける。あっという間に夜になる。という展開もまた、ご多分に洩れません。だいたい凡庸な暮らしを送っています。

 そんなこんなで部屋を整理しているとき、積み上げられた本の下から久しぶりに『消えた受賞作 直木賞編』(平成16年/2004年7月・メディアファクトリー刊)が出てきて、思わずギョっとしたものですから、今日はここに収録されている作家のハナシで行きたいと思います。加えて前週、深緑野分さんにかこつけて注目した「日本人が出てこない」受賞作・候補作のつづきでもあります。第13回(昭和16年/1941年・上半期)「雲南守備兵」で受賞した木村荘十さんです。

 同書に「木村荘十 人と作品“放蕩児”」という解説が載っています。自分が書いた文章ですけど、もう16年もまえのものなので、はっきり言って他人です。いまよりまったく直木賞のことを知らず、関連の資料をどこで探したらいいのかもわからず、作家と小説の解説なんか書いたことのないド素人が、よくまあ頑張って背伸びして、まとめたものだと思います。逆に「おれは直木賞に関する知識が豊富だ」という自負が薄い分、いまより読みやすい文章になっているかもしれません。

 この直木賞受賞作アンソロジーをつくるに当たって、当時の担当編集者、安倍(あんばい)さんから最初に提案がありました。収録作家のご遺族に取材しましょう、ご遺族の居場所を探してアポをとるのはこちらでやります、それをもとに川口さんが解説を書いてください、と。

 収録作家は計7人いましたが、安倍さんが全部連絡先を調べてくれて、じっさいに直接ご遺族のところにうかがうことができたのが5人分です(海音寺潮五郎、森荘已池、岡田誠三、小山いと子、藤井重夫)。富田常雄さんについては、くわしいハナシができる人ということで、ご遺族の了承のうえ、富田さんの秘書をしていたという元編集者の野瀬光二さんに取材しました。いまとなって思い返せば、もっといろいろなことが聞けたに違いない、と悔やまれますが、当時は野瀬さんの名前どころか、牧野吉晴と言われても「だれですか、それ」とピンと来てないボンクラなインタビュアーだった我が身を、ただもう恥じるばかりです。「川口さん、ボソボソ言ってないで、もっとちゃんと取材してください!」と、安倍さんにはずいぶん叱られました。

 それで、唯一直接の取材ができなかったのが木村荘十さんです。親族として姪にあたる光枝さんが対応してくださったそうですが、自分には伯父や直木賞のことを語れる思い出が何もないので、という理由で、戦後に小唄を習いはじめてその師匠だった八重子さんと結婚してからの木村さんのことを、お手紙で教えていただくにとどまりました。それと、木村さんの自伝的小説『嗤う自画像』(昭和34年/1959年12月・雪華社刊)を一冊お借りしたので、そこに書かれてあることを中心に必死になって解説をまとめた日の苦しみが、おぼろげながらよみがえってきます。

 以来16年。解説を読み直してみても、いまのワタクシにこれ以上のことは書けません。まったく16年何をしてきたのか、自分の不勉強ぶりが悲しくなりますが、このブログでは「直木賞、海を越える」のテーマに合わせて、直木賞史上はじめて「日本人が出てこない」海外物の小説で受賞したという視点から考えてみます。

 「雲南守備兵」はこんなハナシです。

 昭和15年/1940年の中国雲南府。貧民窟として知られる黄泥巷で生まれ育った孫永才伍長が、機密の手紙を前戦から軍務司長に届けるという任務で久しぶりにこの地に足を踏み入れます。しかし、孫の知っている街とは大きく様相が変わっていて、貧民窟にいた人々も多くが行方不明。うわさによれば多くの下層民たちが、官署の命令によって錫の鉱山に鉱夫として連れていかれたのだと言います。

 その後、孫の上官、沈大佐が、鉱山街である箇旧(コチュウ)の守備隊長に任じられたことから、孫もその鉱区に赴任します。そこで彼は鉱山の有様を目にすることになりますが、子供たちを過酷な労働につかせて、逃亡する者があれば容赦なく射殺する、という地獄絵図です。あまりのひどさにショックを受ける孫伍長。やがて知るところでは、洪開元という将軍が一帯の鉱区をなかば恐怖政治によって支配していて、イギリス人の技師長H・デューラン氏らとともに巨富を築き上げているとのこと。いわば暴利をむさぼる支配者、彼らに富と生活を搾取されつづける貧しい被支配者という構図です。

 自分がこれまで軍隊教育のなかで知らされてきた状況とは、まるで違う現実に、孫は怒りをおぼえます。街で出会った老人には、軽率に行動しても何も変わりやせんよ、と諭されますが、それでも我慢がならない孫はついに実力行使に打って出ることになるのです……。

 と、これは昭和16年/1941年の直木賞選考会でも、戦争小説、時局物ととらえられ、その観点から推薦する白井喬二さんのプッシュがあって受賞が決まりました。当時の日本でこの小説を読んだとしたら、どうなんでしょう。中国の政治、地方の統治にはオモテ沙汰になっていないだけで問題が多い。一般市民が鉱山で働かされて、その状態を改善する手だても打てない。だから日本が代わって支配して、中国の人たちの暮らしを守り、幸せにしてあげようではないか! ……と思わせる空気だったのでしょうか。

 木村荘十さんの作品を、全部読んだわけではないですけど、やはりこの作家は、カネ目になりそうな時流に乗った題材のものを、請われるままに発表していくタイプの書き手だったと思われます。戦後(いや、当時も)さんざん馬鹿にされ、影では批判されたはずの、ホイホイと軍国主義について回る、作家的良心など見られない大衆作家のひとりとしてです。

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2020年5月10日 (日)

深緑野分、「日本人が出てこない」小説に対する直木賞の議論に新地平を切り開く。

 「直木賞、海を越える」のブログも、例年どおり昔のエピソードを中心に進めてきました。でも一週ぐらいは、ほぼリアルタイムな最近の事例を取り上げたい。そう思いながら一年過ごしてきたんですけど、このところ家でじっとしていることが影響して、昔の話題を書こうにもネタが枯渇ぎみです。なので今週は、いまも現役バリバリ絶賛活躍中の若手(?)候補者と直木賞のハナシで乗り切ろうと思います。

 深緑野分さんは、日本人が出てこない海外を舞台にした小説で、第154回(平成27年/2015年・下半期)と第160回(平成30年/2018年・下半期)、二度候補に挙がりました。生まれは昭和58年/1983年。その年齢からして直木賞のなかでは若い候補者の部類に入ります。

 日本人が海外のことを小説化して何の意味があるのか。……という議論は不毛としか言いようがありませんけど、直木賞という文学賞はこれまで80余年、まともな評論を交わす場としてはなかなか一般に認識されず、またそれで何ひとつ問題もなく、いっぱしの権威として頑張ってきました。なぜ日本人が(いや、作家が)小説を書くのか。この不毛にも近い議論を、直木賞のなかで再燃させた画期的な候補者が、深緑さんです。

 客観的に見て、まず言えることがあります。日本人が出てこようが出てこなかろうが、直木賞のとりやすさや、とりにくさには関係がない、ということです。

 過去1,000を超すすべての候補作のうち、ワタクシ自身読めていないのも数作ありますが、おおむね把握できている内容で数えてみますと、以下のような数値が割り出せます。日本人が出てこない海外物(たとえば星新一さんのショートショートとか、宮内悠介さんの作品集だとか、微妙なものもこちらに入れます)を【無】、その他日本人が出てくる、ないし日本が舞台という作品は【有】と記します。

【無】【有】
総数36作996作
受賞7作(19.4%)192作(19.3%)
落選29作(80.6%)804作(80.7%)

 要するにほとんど違いがありません。

 いや、そもそも世のなかには「日本人の出てこない傑作」があふれているのに、そこから候補に選ばれる数が少ないんだ、だから候補に挙がった作品だけを見て「直木賞をとりやすい・とりにくい」を語るのはおかしいのではないか、という声はあるかと思います。ただ、そこに踏み込むと文藝春秋による予選の問題になってきて、情報は完全非公開、何が何の理由で選ばれ、どんな事情で落とされたのかわかりません。日本人が出てくる出てこないとは、別の要素がからみ合いすぎていて手に負えないので、ここでは「最終候補作に残ったなかで」という限定のハナシにとどめておきます。

 少なくとも最終選考会で、名前も顔もだいたいわかる有名作家たちが謙虚に激論したり、偉そうにふんぞり返って当落を決めたりしている、一般に直木賞の選考といって想像される例のイベントでは、日本人登場人物の有無は当落に関係ない、ということがわかりました。なので「いまどき日本人が出てこないという理由で深緑作品を落としている直木賞、クソ」とか批判している人がいたら、自分のイメージだけで物を語る浅はかな人間もいるんだなあ、とやさしく見つめながら、近寄らないのが無難です。

 しかしデータだけで終わってもつまりません。直木賞はデータを見る面白さと同じくらい、ひとつひとつ、事情も背景も違う候補作と当落の関係を考えていく面白さがあります。

 深緑さんの最初の候補作『戦場のコックたち』は、選考委員たちの心に火をつけたらしく、第154回の選考会では多くの時間をかけて議論されたらしいです。1980年代に生まれた日本人が、第二次大戦下のヨーロッパを舞台に、ノルマンディーへの降下からオランダ、ベルギー、ドイツと進軍するアメリカ軍コック兵を描く。べつに問題はありません。しかし林真理子さんが選評で明かすには、彼女自身は「どうしてアメリカ軍の兵士の物語を書かなければならないのか」という疑問が拭えなかったと言います。そういう感覚の人が一部にいることは社会の多様性を示しているだけのことで、これもまた問題ないでしょう。

 日本人が、日本人の出てこない海外の小説を書くことの意味。そこから作家が小説を書くとは何なのか、直木賞とは何なのかを突き詰める議論にもなって、思いのほか時間がかかった、ということです。そのなかで深緑さんの作品が「日本人が出てこないこと」が理由で落ちた、と思える形跡はまず見当たりません。

 票を入れなかったと見られる委員の意見からうかがえる、『戦場のコックたち』最大の落選理由は何か。よく調べたことに感心・感動するがはっきり言ってミステリーとしていまいち面白くない。……どうやら、そういうことのようです。

 つづいて3年後、第160回で『ベルリンは晴れているか』が候補に挙がります。第二次大戦後、連合国軍の統治下に置かれたドイツで、不審な死を遂げたひとりのドイツ人音楽家。戦後の荒廃した国土を目のあたりにしながら、その死の捜査に駆り出される少女の経験や冒険を通して、ナチスの台頭した時代の国内状況も描き出されるという、そうとう重い小説です。

 林さんの評価はみちがえるように大逆転、まえは他国の人を書いている違和感が残ったが、今度の小説はそれがまったくなかったと褒めたたえ、◎印をつけて推しました。ワタクシ自身、各候補作に対する感想が林さんと合致することが多く、いつもショックを受けている口なんですけど、『戦場のコックたち』はともかく、たしかに『ベルリンは晴れているか』は受賞しても不思議じゃない作品だったと思います。ところが残念なことに、やはりこの回も受賞には至りませんでした。ミステリーとしての構成に不満を抱かれたのが、主な原因だと伝えられています。

 いずれまた訪れる(はずの)3度目の候補作では、謎の提示と終盤の解決とに見られる不自然さを、どう払拭してくれるのでしょう。深緑さんと直木賞の未来には、もう楽しみしかありません。

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2020年5月 3日 (日)

伊藤桂一、中国での戦場体験をプラスに変えて直木賞を受賞する。

 いまはシガない社畜として安月給に耐えながら暮らしているけど、いつかはプロの作家になることを夢見てコツコツと小説執筆に励んでいる。そんな冴えない独身男性は、現在の日本にもおそらくたくさんいると思います。

 冴えないかどうかは異論があるでしょうが、ここは一般的な通念から「冴えない」とさせてもらいまして、文学に熱中するあいだに年を食い、頭髪もだんだん薄くなるなかで、勤め先は激務なうえに薄給中の薄給、ストレートに貧乏な生活を送っていた独身の伊藤桂一さんが、直木賞受賞の報を受けたのは、昭和37年/1962年1月に行われた第46回(昭和36年/1961年・下半期)選考会の直後でした。44歳のときです。

 ちなみに伊藤さんを「40代独身」だとしてイジるやり口は、ワタクシの独創ではありません。当時の記事でも、けっこうこの件がイジられていて、そんなのばかり読んでいたものですから、ついブログの書き出しもこんな感じになってしまいました。すみません。

 昭和36年/1961年で44歳ということは、生まれは大正6年/1917年。めでたく20歳の誕生日を迎えたのが、昭和12年/1937年7月に盧溝橋で事件を起こして日本が大掛かりな喧嘩をおっぱじめたその年です。徴兵検査を受けたところが甲種合格で問題なくパスし、昭和13年/1938年1月に習志野騎兵第十五聯隊に入営することになって、1年間を内地で過ごしたあと、いよいよ伊藤さん、海を渡ります。昭和14年/1939年に朝鮮の竜山に赴任。まもなく新たに編成された騎兵第四十一聯隊に配属されて、中国山西省に赴きました。

 以来20代の貴重な青年時代を、思いっきり戦争体験に費やし、あるいは費やされます。いわゆる戦中世代というヤツですが、伊藤さんにとっての海外とは、ほとんど中国大陸での兵役生活と重なる、と言っていいでしょう。

 その体験がなかったら伊藤さんが直木賞をとることもなかった……とはさすがに断言できません。しかし、はじめて芥川賞の候補となって丹羽文雄さんにコイツはなかなか面白いぞと見初められた「雲と植物の世界」とか、その後直木賞に選ばれる「螢の河」とか、受賞に至るまでの数々の作品が生まれていなかったのは、たしかです。

 「螢の河」は、かつて揚子江の支流に駐留した一小隊の兵士が語り手を務めます。すでに野戦の経験のあった「ぼく」が、当時のことを回想するというかたちです。もうひとりの重要な登場人物は、新しく小隊長となった安野という見習士官で、たまたま同じ中隊に居合わせることになった「ぼく」とは、世田谷中学時代の同級生。安野はとにかく部下たちの安全を第一に考える、というあまり見かけないタイプの下士官だったので、隊員たちからも親しみをもって慕われます。

 ある晩、小隊は六、七人ずつ舟に乗って夜の討伐に出かけますが、舟の進む清水河のほとりにはホタルの群れが驚くほどに密集していて、戦場というより幻想的ともいえる光景です。その船上で「ぼく」はウトウトと仮眠してしまい、うっかりと失敗をやらかします。もし中隊長にバレてしまえば、罰として銃殺されることもなくはない、現地の兵士にとっては重大な失敗でしたが、そこで安野が見せた姿と、小隊員たちの行動を、「ぼく」はいまだに忘れることができません。

 ……ということで「ぼく」というのは、ほぼ伊藤さん自身のことでしょう。昭和18年/1943年初頭に再召集を受けた、いわば野戦経験のある古兵だった伊藤さんは、佐倉の歩兵第百五十七聯隊の要員としてふたたび中国大陸に渡り、揚子江岸の南京上流に駐屯。「中支」と呼ばれる一帯での軍務に明け暮れるうちに、上海の近くで終戦を迎えたと言います。

 さかのぼって伊藤さんは、世田谷中学に通っていたころから文学に取りつかれ、校友会雑誌に詩や作文を積極的に投稿していたそうですが、早くから文学とともに生きていく覚悟を固め、小説や詩作に熱中します。それがこの海外体験といいますか戦争体験を境に、日本に帰ってきてから猛烈に小説を書きはじめて、各懸賞に応募、好成績を残すうちに徐々に注目の新進作家になっていった、という展開です。

 伊藤さんいわく、三十年計画という長期的な考えで文学に取り組んでいたらしいので、30歳近くになってじわじわ注目されだしたのは、ひょっとすると計画どおりだったのかもしれません。だけど、日本軍部の悪辣なしわざに対する批判も反省もない、こんな感傷的な「戦記」を文学にして何の意味があるんだ、とかさんざん批判されながら、あえて意識的にナマナマしさを排除した戦場でのあれこれを題材にする姿勢は、やはり愛すべきガンコさだと思います。いや、尊敬すべきガンコさ、と言い換えておきましょう。

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2020年4月26日 (日)

笹倉明、直木賞を受賞してから10数年で経済的に行きづまり、タイに移住する。

 「直木賞、海を越える」。……テーマそのものがブレまくっています。とりあえず直木賞の受賞者や候補者たちが、日本を囲む海を越えて外に行ったとか帰ってきたとか、そういうハナシをいろいろ調べてきたんですけど、ちょっと待ってください。直木賞80余年の無駄に長い歴史のなかで、このテーマに最もフィットする作家を、もしやお忘れではありませんか。すみません、ワタクシは正直忘れていました。

 平成が始まってすぐに開かれた第100回(昭和63年/1988年・下半期)、『漂流裁判』ではじめて直木賞の候補に挙がり、つづけて半年後、第101回(平成1年/1989年・上半期)では『遠い国からの殺人者』で2期連続の候補に選ばれ、文句なしの高評価で受賞が決まった、という例のアノ人。笹倉明さんです。

 戦後の昭和23年/1948年に生まれた笹倉さんは、受賞当時ちょうど40歳を迎えた頃でした。

 直木賞といえば、受賞すればいくらでも仕事が舞い込み、商業的な小説をたくさん書く機会に恵まれるうちに、誰と誰がどういう経緯で候補になったのかまったく不透明な、時代に逆行する仕組みを絶対に変えようとしない、名前だけはそれらしい文学賞に選ばれたりしながら、プロの作家としてキャリアを積んでいくのが受賞者の王道だ、と言われます。もしくは、多作濫作できるタイプでなくても、都市や田舎にとどまりながら、「直木賞を受賞した作家先生」としての看板で、ぽつぽつと入ってくる仕事を引き受けながら、自分なりの文学を突き詰めて尊敬されるような人もいます。あるいは、若くしてとるような賞でもないので、受賞後そんなに作品を発表せず、やがて死んでいく作家もいます。まったく人それぞれです。

 そのなかでも笹倉さんが異色なのは、それまで曲りなりにもコピーライターとか雑誌記者とか、いわば文章を書くことで糊口をしのぎ、40歳の働きざかりで直木賞を受賞したというのに、その後とくに本が売れるわけでもなく、人気も出ず、文学賞にも引っかからず、次第に発表作が減っていき、マジで「消えた作家」の領域に達してしまったことです。とくに商業出版が産業として成熟した昭和後期から平成以降、ここまでキレイさっぱり落ちぶれた受賞者というのは珍しく、直木賞なんてとったって大成しない作家ばかりだ、と強固に信じている向きには、ぜひこの笹倉さんの動向に注目してほしいと思います。ちなみに令和1年/2019年11月で71歳を迎えた笹倉さんは、いまもご存命。タイ・チェンマイのワット・パンオンという寺院で僧として暮らしているそうです。

 ということで、その生誕71年を記念して(というわけではないでしょうけど)、令和1年/2019年11月、久しぶりに笹倉さんの新刊が出版されました。『出家への道――苦の果てに出逢ったタイ仏教』(幻冬舎/幻冬舎新書)という、渾身のエッセイというか、自分の後半生を素材にしたノンフィクションです。著者名は「プラ・アキラ・アマロー(笹倉明)」となっています。

 語られているのは、平成28年/2016年3月、長年過ごしたタイ・バンコクを離れ、チェンマイで出家するまでに至る、笹倉さんの悔恨まじりの来し方です。ざっくり言ってしまうと、40歳で直木賞を受賞してから、自分の軸となるテーマや題材を探しあぐね、出す本、出す本ことごとく売れずに、注文は徐々に減少。『新・雪国』(平成11年/1999年8月・廣済堂出版刊)の映画化にどっぷりと力をそそぎ込んだことで借金をつくり、その間、家庭的にも順風満帆だったわけではなく、長く別居状態にあった妻との離婚とか、関係をもち子供をもうけた女性との、籍を入れないままの生活とか、腰の定まらない状況が描かれます。貧窮の道を一直線に突き進む笹倉さん自身、平成12年/2000年に入った前後からかなりフトコロ事情が厳しくなって、やがて住む場所にも困るようになり、たどり着いたのがバンコクの住まいでした。

「私がタイへの移住(二〇〇五年暮れ)に踏み切ったのは、経済的に行きづまったことが主な原因でした。

(引用者中略)

(引用者注:タイの)生活費の安さは確かに助かるものでした。が、そこに安住していたかというと、そうでもなく、一方では現状に不満や焦りもあって、故国へ返り咲く夢もみていたし、経済的な問題がなくなることも望んでいました。誰の反対もない独りの移住は期間を定めないものでしたが、できれば一時的なものにして、故国への正常な復帰を望んでもいたのです。」(『出家への道――苦の果てに出逢ったタイ仏教』「第三章 華と没落を招いた日々」より)

 しかし残念ながら、土地を変えただけで事態が好転するほど甘くはありません。いろいろと商売にも手を出しますが、金まわりは糞詰まりです。早川書房に拾ってもらった刑事モノのミステリー『愛闇殺』(平成18年/2006年6月)『彼に言えなかった哀しみ』(平成19年/2007年9月)は、話題にもならなきゃ売れ行きも悪く、版元から打ち切りを宣告される始末。もはや物書きとして続けるのは無理だろうと思っていたところ、平成22年/2010年ごろから縁あって出家を考えはじめ、その6年後についに決行することになった、というおハナシです。

 それで煩悩から脱却して、静かに余生を送るのだろう。と思ったら、わざわざその過程を書き記して日本の出版社から刊行する、というのはいったいどんな複雑な論理が発動したんでしょうか。これを受け入れた幻冬舎がスゴいのか。あるいは「直木賞受賞者」という肩書の力がスゴいのか。いずれにしても、直木賞を受賞した人が生活に困窮して海を渡り、いよいよ物書きとしての注文もなくなって、海外で出家する、というのは笹倉さんだけがなし得たサプライジングな人生です。これが一冊になることに、何の不思議もありません。

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2020年4月19日 (日)

赤羽堯、20代前半に安宿を渡りあるいて海外を放浪、のちに国際スパイ小説を書きはじめる。

 明治や大正に生まれた人たちが戦時中にどうしたこうした。と、最近うちのブログではそんなハナシばかりしています。戦争によって海の外に渡った日本人たちが、のちに直木賞に影響を与え、直木賞を変えることになったのは事実でしょう(いや、直木賞に限ったことではないでしょう)。だけど今週は気分を変えて、昭和10年代に東北の片田舎で生まれた国際派作家の話題でいきたいと思います。

 赤羽堯さんです。作家としてデビューしたのが昭和54年/1979年8月、『スパイ特急』(光文社刊)を書下ろしで出したのが42歳になった頃と言いますから、けっこう遅めです。その後、刊行点数だけがやたらと多い読み物エンターテインメントの分野で活躍を始め、第96回(昭和61年/1986年・下半期)のたった一度の直木賞候補を除いては、文学賞という文学賞から無視されつづけます。しかし、そんなことはまるで意に介さず精力的に小説を発表している矢先に、突然という感じで肝硬変で亡くなったのが平成9年/1997年1月。享年59。わずか20年足らずの作家人生を終えました。

 以来すでに20年以上が経ち、名前を聞くこともほとんどありません。赤羽堯。あまねくすべての作家の、すべての小説は、べつに読もうが読むまいが問題なく生きていける類いのものなので、赤羽さんの遺した作品も、いまさら読まなくてもだいじょうぶです。

 だいじょうぶなんですけど、そういう作家のほうがよけいに気になって知りたくなります。……というのも毎週のように書いていることで芸がありませんが、とりあえず赤羽さんといえばその海外渡航歴は尋常じゃありません。そして、ベルリンの壁が崩壊する平成1年/1989年のほんの少し前に、海外事情マニアのような作家によるスパイ物が、こうして直木賞の候補に挙がったことは、敗戦後の日本人たちが外の世界に対していかに好奇心を爆発させたかがわかる、ささいだけど見逃せない現象のひとつ、と言っていいでしょう。

 直木賞の歴代候補作リストを見てみますと、昭和50年/1975年ごろから、題材に現代の世界情勢、外国風土を求めたものが増えはじめたことがわかります。楢山芙二夫さんや醍醐麻沙夫さんなど、若くして海外に滞在した人たちが自分の実感のなかから外国物を発表しはじめ、それを『オール讀物』などの中間小説誌が積極的に誌面に反映させていた頃です。

 その後に訪れるのが、仕事の関係で海外との交流が多い職種の人たちが、その体験から想像力を働かせて商業小説に結実させた候補作の登場です。航海士だった谷恒生さんやテレビマンの平田敬さんについては、すでにうちのブログでも取り上げました。新聞記者の三浦浩さん、航空会社に勤める深田祐介・中村正䡄のお二人、外務省に籍をおいた高柳芳夫さんなども、そこに含めていいかもしれません。まったく海外モノ百花繚乱の態です。

 こういった直木賞における海外モノの大噴火が起きているあいだに、冒険スパイ小説でデビューしたのが赤羽さんだった。ということになるんですけど、昭和12年/1937年、ほぼ戦時下に足のかかった時代に青森県の弘前市で生まれた赤羽さんは、少年時代に終戦を迎えます。弘前高校に通ったあとは東京の明治大学文学部仏文学科に進学しますが、卒業後うずうずと外に飛び出したい気持ちが強くなったものか、そこから海外を転々とすること8年間。これが20代(ないしは文献によっては20代前半)ということですから、昭和30年代、西暦でいうと1950年代から60年代ごろです。

 のちに東西冷戦の象徴になっていく〈ベルリンの壁〉が築かれたのが、ちょうどその時期、昭和36年/1961年のことです。赤羽さんが実際に現地でその状況を体験したのかどうか、それはわかりませんけど、20代に過ごした海外というのは具体的には、エジプト、地中海、そしてヨーロッパと、このあたりの地域をフラフラしていたらしく、薄ぎたない服で貧乏旅行をつづける冴えない(?)日本人青年が、刻々と変わるヨーロッパの情勢を肌で感じながら毎日を生きていた姿は、容易に想像できるところです。

 当時の回想を引いておきます。

(引用者注:酒を)よく飲んだのは、雪とは無縁のエジプト滞在中で、昼間、灼熱地獄を歩きまわった後は、毎晩ナイトクラブでエキゾチックなサウンドをシャワーのように浴びた。(引用者中略)そんな日が数ヵ月続いて、ふと気がつけば、無一文。浦島太郎ならここで浜へ帰るところだが、カメラやトランジスタ・ラジオなど売り払って、地中海のむこうへ河岸を換えることにした。

(引用者中略)

乞食みたいな格好でヨーロッパをほっつき歩き、酒場ではグラスすら出してもらえない有様。これが妙な復讐心となって、帰国してからは、いい酒を安く飲ませる場所を捜し当てる習性となった。」(『オール讀物』昭和60年/1985年8月号 赤羽堯「酒との出逢い 鉄をも腐らせるとは」より)

 20代前半の体験とは書いていないので、もっと後のことかもしれませんけど、いかにも「海外放浪」と呼ぶにふさわしい、計画性のない旅行風景です。

 日本に帰ってきたあと、赤羽さんは出版社に勤務、あるいは週刊誌記者、フリーのライターとしてまた各地を飛び回った、ということになっています。それは当然間違いないんでしょうが、しかしこの時期の赤羽さんにはもうひとつ、ある肩書が付けられていました。「音楽評論家」です。

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2020年4月12日 (日)

武田芳一、上海でたまたま仲間になった小泉譲の縁で、丹羽文雄門下に加わる。

 10数年ブログを書いてきているのに、まだ一回もまともに取り上げたことのない直木賞候補者がいます。これが絶望するほど、たくさんいます。

 直木賞について知りたくなると、おのずと候補者たちのことも知りたくなるものです。知ったところで、こっちの生活には何ひとつ役立ちません。世のなかの誰の役にも立ちません。無意味・無意義の極みではあるんですが、とにかく知りたい衝動だけは抑えることができません。

 昭和30年/1955年7月に決まった第33回(昭和30年/1955年・上半期)の直木賞。もはや遠い昔の出来事と言ってもいいでしょう。次の第34回(昭和30年/1955年・下半期)では新田次郎さんと邱永漢さんが受賞者に選ばれた……と言うよりも芥川賞に石原慎太郎さんが選ばれたことで、芥川賞ビッグバンが爆発してしまい、二つの賞のあいだに横たわるイメージ格差がよりいっそう鮮明になったという、例のアノ回ですが、その半年まえに行われた第33回。直木賞では7つの作品が予選を通過して、ああだこうだと議論が交わされた挙句、けっきょく受賞作なしに決まりました。要するに、直木賞の歴史のなかでもまず注目されることの少ない無風の回です。

 7人の候補者のうち、多少なりとも世間で名が知られるのは、当時「三ノ瀬溪男」というペンネームでオール新人杯の佳作に入った伊藤桂一さんぐらいのものでしょう。他に何となく文学史に名前の出てくる九州文壇の雄、劉寒吉さんとか、山岳小説で名を馳せることになる瓜生卓造さん、歴史物を何冊も残した谷崎照久(谷崎旭寿)さんなどが候補にいますが、正直いって地味だし小粒。読者がテンションあげて飛びつくような作風でもありません。それ以外の候補者となると、もはや、その名を知っているほうが奇異な目で見られるという、まあ無名作家の部類です。

 ということで、無名なんだよね、別に無視したっていいよね、とスッパリ切り捨てられる性格に生まれていたら、きっと人生幸せだったんだろうなあ、と思うんですが、逆にワタクシはそういう作家が気になって仕方ありません。いったい何者なのか。どこでどうやって小説と出会い、たまさか直木賞の場に登場してしまったのか。それを知らなきゃ、とうてい直木賞を知っていることにはならないじゃないか。……と考えてしまうところが、たぶん異常者の論理なんでしょう。

 また前置きが長くなりました。第33回直木賞の候補に挙がった無名に属する作家のうち、鬼頭恭而さんや鬼生田貞雄さんには以前触れたこともあるんですけど、いまひとり、よくわからない人が混じっています。「鉄の肺」を書いた武田芳一さんです。

 明治43年/1910年兵庫県神戸市出身。ということですから、当時最年少委員だった村上元三さんとだいたい同世代です。生まれてから直木賞の候補に挙がる44歳まで、武田さんはどうやって生きてきたのでしょう。候補に挙がったことで、どんな生活を送ることになったんでしょう。

 断片的な資料をつなぎ合わせてみると、やはり武田さんも日本の外に出た海外での体験が、転機のひとつになったようです。

 この世に生まれてまだ日も浅い2か月ほどの段階で、実の父母が離婚。母が武田家から離縁されたというかっこうですから、芳一坊やは父のもとに引き取られます(『季刊・歴史と神戸』昭和40年/1965年8月「祖父のことなど」)。……もうこの始まりからして苦難の人生を匂わせるところですが、武田さんが2歳のときに祖母が死に、4歳のときには当時30歳だった父親まで他界してしまったため、身柄は祖父の手に預けられます。

 しかしこの祖父という人が、どうも人生うまいこといかなかったらしく、新しい仕事を始めては失敗し、別の土地に移って心機一転、職にありついては失敗し、ということを繰り返したそうで、武田さんも転校につぐ転校で、せわしない子供時代を送ります。孫のなかで最も期待をかけていた、という武田さんの成長を見ることなく、祖父は74歳で死去。武田さんがまだ14歳のころでした。

 庇護者がみんないなくなり、亡父の兄、神戸にいた伯父のところで暮らすことになりますが、この伯父も別に裕福なわけではなく、兵庫駅の裏にあった貧民街に住む、いわゆる下層な階級にいた人です。大正終わりから昭和のはじめごろ、ああ、こうなりゃおれは勉強して手に職をつけるしかないぞ! と奮起したのかどうなのか、空腹に耐え、勉学に身をそそぎ、苦学生を地でいく生活を送りながら歯科医師を目指しはじめます。

 そのころには「文学」に対する憧れを持ち、一生文学と添い遂げたいという、近代(および現代)社会には一定の割合で発生してしまうオソロしい文学病に罹ったらしいんですけど、優雅に文学書を読んで同人誌に参加するようなブルジョアな生活が許されるはずがありません。医師免許をとるために歯をくいしばって必死に勉強に集中。まるで文学から遠ざかった青春時代だったそうです。

 その成果があったのか、25歳で歯科医師検定に見事に合格を果たしたのが昭和10年/1935年ごろ、さらには結婚して自身で医院を開きます。そして、海を渡って中国の上海へ。……ということになるんですが、どうして行き先が上海だったのか、事情はよくわかりません。生活のため、生きていくため、といえばきっとそういうことなんでしょう。昭和10年代のとくに前半、日本にいる人が生活のために上海に転居する、というハナシはさほど珍しいことではなかった。と断言していいのかどうなのか、しかし居住地を上海に求めたことが、武田さんの文学人生を大きく変えることになります。

 歯科医院を開業したことで困窮の底から浮かび上がった武田さんは、いよいよ、ようやく、心に温めていた文学への情熱を発散させます。上海の邦人社会で結成されていた長江文学会(昭和15年/1940年創設)に参加してまもなく、ゾルゲ事件の影響で『長江文学』がつぶれると、今度は上海芸文会という別の団体が合流するかたちで上海文学研究会(昭和18年/1943年創設)ができ、武田さんがその機関誌『上海文学』の編集を担うことになるのです。当時は「猛田章」という筆名を使っていたそうです。

 『上海文学』というと、内山完造、池田克己、黒木清次といった同人の他に、やはり小泉譲さんの存在を挙げないわけにはいきません。直木賞候補者の、あの小泉さんです。「直木賞、海を越える」のテーマでも一週分取り上げました。上海の地で「文学に対する情熱」というたったひとつの共通点しか持たない二人の男、武田芳一と小泉譲。二人の出会いが、やがて武田さんの前に直木賞候補にいたる道すじをつけることになるのですから、思わず身を乗り出してしまうところです。

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2020年4月 5日 (日)

若尾徳平、ニューギニアで経験した不幸、見た不幸を、小説で表現する。

 昭和53年/1978年1月に白川書院から刊行された『若尾徳平シナリオ集』という本があります。

 若尾さんは大正7年/1918年生まれですから、太平洋戦争が終結したときは27歳。働き盛りのやり盛り、映画の世界からラジオ、テレビのほうまでシナリオライターとして猛烈に働き、その世界で名を残しました。惜しまれながら昭和51年/1976年に他界して、まだ日も浅いうちに、こういうタイトルの本が出るのは、おそらく自然な展開だったでしょう。しかし「シナリオ集」と銘打ちながら、だいたい3分の1ぐらいを小説が占めているのは、いったいなぜなのか。若尾さんの小説に向けた情熱が、おそらくまわりの人たちにも伝わっていたからだと思います。

 回想をたどってみると、昭和14年/1939年、日本全土が戦争の風に吹かれて不穏な世情に包まれるなか、慶應義塾の本科生だった若尾さんは夏休みを利用して上海、南京あたりを旅します。帰国後にこのときの紀行文を書いて、奥野信太郎さんに読んでもらったところ、ふうむキミなかなかスジがいいね、と褒められ、そのまま『三田文学』への掲載が決定。これが同誌昭和15年/1940年2月号に載った随筆「蘇州の一日」だった、ということのようです。外国に行ったことが若尾さんの文章が世に出るきっかけになった、ということでもあります。

 このころからすでに若尾さんは随筆よりも創作に意欲を燃やしていたらしく、いつか小説を書いて発表したい、と思っていたようなんですが、昭和16年/1941年に大学を卒業、日本鋼管に入社した時分に書いた小説を、『三田文学』の編集部にいた和木清三郎さんに宛てて送ります。それが採用されるかどうか結果を知らないまま、昭和17年/1942年に現役兵として入隊、日本を離れたあとで、自分の書いた「盆地」という小説が『三田文学』昭和18年/1943年4月号に載ったので、若尾さん大喜び。その後もひまを見つけては小説や戯曲をいくつか書きますが、それらは発表するあてもないまま、世に出す機会を逸したそうです。

 そりゃ機会も逸するでしょう。世の中それどころではありません。若尾さんも、お国のためだ、おれもまじめに戦わなければと、生来の生真面目気質を存分に発揮して、幹部候補生を志願すると、立派な軍人になるべくがむしゃらに突き進み、新京の経理学校に学んだあとは、北満、そして南洋へと戦場を渡り、忠実に軍務に励みます。要するに、敵とみなしたよその国の人たちをぶっ殺すことに全身全霊をささげたわけです。

 じっさいにぶっ殺したかどうかはわかりませんが、ともかく若尾さんは中尉にまで昇進して南洋戦線の渦中にあったニューギニアに送られます。東部ニューギニア北岸のウェワクに展開された第十八軍所属です。本部からの補給がまるで絶たれたなか、現地で食糧を調達し、現地で敵軍とぶつからなければいけない、死闘というか犬死というか、凄惨極まりない戦線でどうにかしのいでいるうちに、あんたたちいつまで戦っているの、日本政府、降伏したんですってよ、と現地の部族の人にサラッと教えられて、うそだろ、と顔面まっさおになったのが昭和20年/1945年の9月に入ってからのこと。

 当然徹底抗戦しかないはずだ、と思っていた矢先、第十八軍の司令部はオーストラリア(豪州)軍にスパッと投降の意を示し、日本軍はみんな俘虜となってウェワク沖20海里のところに浮かぶ無人島ムッシュ島に収容されることになります。

 若尾さんが復員後に『三田文学』に書いた、いわゆる戦争・戦地モノの一篇「俘虜五〇七号」は、このムッシュ島での俘虜生活に材をとったものです。

 主人公の望月中尉は、杉山隊所属の主計将校で、週に一回、豪州軍から支給される糧秣を受け取り、隊員たち全員に確実に手渡すという役目を担っていました。しかし、あるとき全員に配ったところ、ブリキ罐の携帯口糧がひとつだけ余ってしまいます。すぐに正直に返さなくては、あるいは上官に報告しなければ、と思いながら背嚢に入れておきますが、その間にも空腹感は抑えがたいものがあり、ここでパクッたりしては主計の恥だ、いや、もっと悪いことをしている奴は将校にもたくさんいるじゃないか、とか何とか、天使と悪魔の囁き合いが脳内で繰り返されたあと、ついに望月はみなに隠れて、ブリキ罐に手を伸ばしてしまいます。

 ……といったような導入から、いったいこのブリキ罐と望月はどんな運命をたどるのか、そしてムッシュ島からの移動命令がくだって、11月23日、ついに日本の巡洋艦に乗せられて島を離れるまでの状況が描かれた短い小説です。俘虜生活のなかで「現地自活の励行」という、要はいつ帰れるかわからないから自発的に畑をつくったり魚をとったりしろ、という命令がくだったりするお先真っ暗な状況ですから、明るいハナシなわけがありません。しかしそれでもこの小説を読んで、思わずフフッと笑えてしまうのは、ひとえに望月中尉のクソまじめで律儀な心理が共感できるからでしょう。

 さすがに面白い小説とまでは言えませんが、現場を経験した人によるリアリティが光ります。

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2020年3月29日 (日)

篠田節子、ウイルス感染のパニック小説で、インドネシア・バンダ諸島に目を向ける。

 インドネシア東部、バンダ諸島の最南端に浮かぶ火山島ブンギ。およそ400人ほどの島民が暮らしていましたが、ひとりまたひとりと死んでいき、ついには全島全滅してしまったそうです。それから約4年ほどたった平成5年/1993年、日本の首都にほど近い埼玉県のベッドタウンで、「新型の日本脳炎」と思われるウイルス感染症が突如発生。市民たちは一気に不安におびえ、市の保健センター職員や医師たちは硬直した対応しかできない行政組織のなかで懸命に出口を見出そうと奮闘します。

 と、未知のウイルスが蔓延する現代社会の問題にするどく切り込んだのが、平成7年/1995年に毎日新聞社から書き下ろしで出版された篠田節子さんの長篇『夏の災厄』です。デビューしてから約5年。篠田さんが第113回(平成7年/1995年・上半期)、はじめて直木賞の候補に挙げられた記念すべき作品でもあります。

 つい先日『朝日新聞』に載った「(新型コロナ)脅威と向き合うために 読むべき一冊、6人が寄稿」(令和2年/2020年3月25日)という記事でも、藤田香織さんがこの小説を紹介していました。読むべきかどうかまでは、さすがに保証できませんけど、発表されてからずいぶん経ったいま読んでも作品の魅力が失なわていないことを、ワタクシも再確認したところです。

 いわゆる「パニック小説」というのは、洋の東西問わず昔から数々書かれてきた伝統的な小説形態のひとつです。直木賞の長ったらしい歴史のなかでも、そのいくつかが候補に挙がっては、読者を震え上がらせたり、はたまた「そんなことあるかよ」とあきれさせてきました。つくりごととリアリティのあいだに果敢に攻め込むパニック物は、守りに入ってなかなか冒険の手を打てない直木賞のような賞では、候補になったとしても本選で高く評価されることは少なく、たいていが「候補作どまり」で終わります。『夏の災厄』もそうです。

 しかしその後、篠田さんは次々に、つくりごととリアリティの間隙を突く小説を世に問います。第115回(平成8年/1996年・上半期)で『カノン』、第116回(平成8年/1996年・下半期)で『ゴサインタン 神の座』が候補になり、とくに後者のほうは出来もバツグン、気合も十分という感じの濃密な小説だったので、受賞まずまちがいなし、とか何とか周囲からもいろいろと煽られたらしいですが、結果的にこれではとれず、その半年後、第117回(平成9年/1997年・上半期)の『女たちのジハード』でようやく受賞が決まりました。

 どうですか。篠田さんを受賞者に迎えるにあたってよりによって『女たちのジハード』を選ぶという、この直木賞のハズしっぷり。手を伸ばせば届くぐらいの狭い世界のリアリズムじゃないと、ほんと直木賞ってOKサイン出さないよねー、と思わず微笑んでしまいますが、それはそれとして、これら候補作の並びだけ見ても、篠田さんの海外志向が如実に現われています。まあ海外志向といいましょうか、舞台を日本にとどめておかずに、ゆったりとした広がりをもつのが、篠田作品の真骨頂です。

 『ゴサインタン』では嫁不足に悩む日本の田舎のハナシから遠くネパールにまで世界が広がり、『女たちのジハード』では、大人の女性たちの向かう先としてネパールやアメリカが自然なかたちで入り込んでいます。『夏の災厄』は、〈埼玉県昭川市〉という架空の一地方都市で起きるウイルス感染が基本的な設定にありますが、冒頭に挙げたように、これとまったく同じ症状の感染がインドネシアの離島で起きていた、というのが悲劇のカギを握っています。

 海外というと、おおむね自分の身には関係のないヨソサマの出来事、というのがだいたい昔から現在まで社会認識の基本ラインにある感覚でしょう。そういう感覚が誤っていることに、するりと気づかせてくれるのが、あるいは篠田作品の特徴なのかもしれません。……いや、特徴じゃないかもしれません。無理やり「海を超えた直木賞」のテーマにこじつけようという論法がみえみえですね。すみません。

 だけど、東京にほど近いどこか架空の街で、住民たちの生命をおびやかす目にみえない病原と、そこで巻き起こるさまざまな事態を描くにあたって、どうしてわざわざインドネシアのエピソードが必要なのか。といえば、これは作者の篠田さんが必要だと思ったからだ、と言うしかありません。人類の社会から完全に疫病が消えたわけではなく、とくに衛生、医療環境の整っていない地域では、治療薬もワクチンもないウイルスが、ぞくぞくと発生しているかもしれない。たしかにそのとおりです。その現状を見れば、日本の一地方のハナシに終始させるより、海の外にも目を向けたほうがリアリティが生まれるような気がします。

 もはや小説のなかのリアリティは、海の向こうを取り入れたところでつくられる、ということなんでしょうけど、「もはや」もクソもありません。『夏の災厄』が書かれたのは20年以上もまえの、かなり昔のことです。しかし、当時の各選考委員の選評を読んでみると、これがまったくの酷評といいますか、新しいものに食いつく気ゼロの雰囲気がありありと出ていて、相変わらずこの賞の頑迷ぶりが露呈しています。この段階でもまだパニック物が直木賞で理解されるには早すぎたようです。

 賞をとろうがとるまいが、パニック物と篠田節子といえば、切っても切れない(?)相性のよさは否定できないところですが、もう少し昔の文献を追ってみると、デビューする前に篠田さんが体験した大きな出来事として、あるひとりの作家の、あるひとつの小説との出会いがあった、というハナシにぶち当たります。西村寿行さんの『滅びの笛』(昭和51年/1976年9月・光文社刊)です。

 『夏の災厄』よりさらに20年ほど前に刊行された、これもまた、どこからどう読んでも正真正銘のパニック小説です。そして、やはり直木賞の候補作に選ばれ、選考委員たちからさんざんに言われて落とされた、という点が共通しています。直木賞のことばかり書いていたいうちのブログとしては、見過ごすわけにはいきません。

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