カテゴリー「犯罪でたどる直木賞史」の50件の記事

2019年6月 2日 (日)

平成27年/2015年・妻に対する傷害容疑で逮捕、不起訴となった冲方丁。

妻に暴力をふるったとして傷害容疑で逮捕された作家の冲方丁(引用者中略)さん(38)について、東京地検は15日、不起訴処分にしたと発表した。地検は処分理由について「夫婦間で問題は解決されており、妻も処罰を望んでいないため」と説明している。

――『朝日新聞』平成27年/2015年10月16日「冲方丁さん、不起訴処分に」より

 昨年平成30年/2018年の6月から始めた「犯罪でたどる直木賞史」のテーマも、今回で何とか50回目です。相変らず当初の想定どおりには進まず、無理やり感のあるエントリーを適当に差し挟んでお茶を濁してきましたが、とりあえず今週でこのテーマは最後にしたいと思います。

 それで毎週、次は何の話題を取り上げようかと物色するのは、意外と楽しい時間だったんですが、そのあいだ、このニュースに触れるかどうかはかなり悩みました。悩んだすえにけっきょく書いてみることにしたのは、直木賞や直木賞候補者がからみ合った話として、これだけ知れ渡ったニュースを無視するのも変だなと思ったからです。いまから4年弱まえ、冲方丁さんが妻への傷害容疑で逮捕された、ということで大きく報道された一連の騒動についてです。

 そのとき誰が何をして、どんな発言をし、どう騒ぎになったのか。いまでもネット上に無数の痕跡が残っています。といいますか、本人や関係者以外よくわからないことを、単なる臆測で物語っても仕方ありません。経緯だけ簡単にまとめます。

 平成27年/2015年8月21日夜7時ごろ、冲方さんが事務所として使用していたマンションの、エントランス付近で冲方夫妻が口論となり、冲方さんが妻の顔を殴って前歯を折るなどの怪我をさせた、という内容で、翌22日妻が警察に相談した結果、警察が動きます。その日の夜に「冲方サミット」というイベントを秋葉原で開いていた冲方さんが、無事終わって打ち上げをしていたところ、警察がやってきて「奥様のことでうかがいたいことがあるので、署までご同行願います」と、それだけ言って冲方さんを渋谷署に連行。妻に対する傷害の容疑で勾留されることになります。連日、取り調べが行われますが、冲方さんは容疑を否認、けっきょくそのまま8月31日に釈放され、その後10月15日に、東京地検が不起訴処分とすることに決定しました。

 この騒ぎが、冲方さんやそのまわりの人たちに大きな影響を与えたことは明らかでしょう。あるいはいまも影響を残しているのかもしれません。ということで、ここでは時系列上、文学賞とくに直木賞との関係性を中心に、流れを追ってみます。

 冲方さんがデビュー13年にして初めての歴史小説『天地明察』を刊行し、吉川新人賞、本屋大賞をたてつづけに受賞、そのまま鳴り物入りで直木賞の候補に挙げられたのが、平成22年/2010年7月決定の第143回(平成22年/2010年・上半期)のときでした。その鳴り物もずいぶんうるさいものがありましたが、人と違ったことをするプロデュース力に長けた冲方さんは、自宅で待つ、行きつけの店で待つ、というのが一般的な、結果発表を受けるための「待ち会」を一般公開にし、パーティー形式の「大・待ち会」と称して、観衆にもいっしょに楽しんでもらえるようなイベントに仕立てます。受賞すれば大盛り上がり、落選すればおのずと湿っぽくなる、というのが一般的な固定観念としてありますが、そこから少しでも足を踏み出す行動を模索してみる。尊いことだと思います。

 「大・待ち会」にも姿を見せて仲睦まじいと称される関係に見えていたその妻と、それから5年後の平成27年/2015年8月にいざこざが起こり、DVだ、勾留だ、不起訴だ、不当逮捕だと、大騒動。不起訴となってわずか1か月少しで、『週刊プレイボーイ』で「冲方丁のこち留 こちら渋谷警察署留置場」(平成27年/2015年12月14日号~平成28年/2016年3月21日号)の連載を始めると、加筆修正のうえ平成28年/2016年8月に集英社インターナショナルから単行本として刊行します。

 「作家だから、そういう話題でも何でも仕事に還元してしまう」という説があります。たしかにそうなのかもしれないな、と思わないでもありません。だけど、そのやり方に冲方さんの独自性が出ていると言いますか、直木賞の候補になったときの待ち会とか、逮捕騒動の後処理とか、できるだけ直接的な還元方法を選んでしまうところが、並の作家とは違う冲方さんの個性です。そんなことやらなければ、静かに執筆活動に専念できるのに……。と思うようなことでも、あえて積極的に顔をさらして、やってしまいます。演者でもあり仕掛け人、プロデューサーでもある冲方さんの真骨頂でしょう。

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2019年5月26日 (日)

昭和58年/1983年・自分の小説の映画化をめぐって裁判所に訴えられた村松友視。

直木賞作家の村松友視氏原作の小説「泪橋(なみだばし)」の映画化をめぐり、独立プロ「にんじんくらぶ」(岩下和男代表取締役)が「映画製作のための脚本など流用された」として、村松氏、「泪橋」を映画化した「人間プロダクション」(加藤晃夫代表取締役)、作家・唐十郎氏らを相手取り三千五百二十万円の損害賠償を求める訴訟を四日までに東京地裁に起こした。

――『毎日新聞』昭和58年/1983年1月5日「村松友視氏らを訴え 「泪橋」映画化で独立プロ」より

 昭和57年/1982年7月、第87回(昭和57年/1982年・上半期)の直木賞は深田祐介さんと村松友視さんが受賞しました。村松さんといえば中央公論社で文芸編集者を務めたことがある業界人ちゅうの業界人でしたが、大好きなプロレスに関するマジメとおフザケの双方に重心をかけたような本を出したところから、突風に近い追い風が吹いたおかげで、ちょこちょこと小説を手がけるようになると、ものの2、3年で直木賞を受賞。軽い文体と言われながら、テレビメディアにもホイホイと顔を出すことになったのは、80年代の直木賞が芸能の世界とかなり蜜月の関係にあったことをうかがわせる一現象と言っていいかもしれません。

 それはともかく、村松さんに吹いた追い風がよほど強烈だったことを示すのが、受賞した翌年の昭和58年/1983年に早くも、受賞作の「時代屋の女房」と、第86回直木賞で候補になった「泪橋」、それぞれを原作とする2つの映画がたてつづけに公開されたことです。なかなかの勢いです。

 「時代屋の~」は松竹が製作、いっぽうの「泪橋」は俳優の長門裕之さん、本名・加藤晃夫さんが代表を務める人間プロダクションが手がけたもので、とくに両者リンクしていたわけではなく、公開が重なったり、どちらも主演俳優に渡瀬恒彦さんが起用されたのは、たまたまの偶然だそうです。「泪橋」は当初、松田優作さんを主演にしようということで、裏の交渉を続けましたが、どこからかスポーツ紙に情報が洩れてしまい、松田さんがそれに立腹して出演を断ってきたのだと、監督の黒木和雄さんが『映画作家黒木和雄の全貌』(平成9年/1997年10月・アテネ・フランセ文化センター、映画同人社刊、フィルムアート社発売、阿部嘉昭・日向寺太郎・編)で明かしています。

 しばらく同書の記述から製作過程を追ってみます。

 はじめに黒木監督に「泪橋」を映画にするのはどうだろうかと持ちかけてきたのは、プロダクション〈にんじんくらぶ〉の高木一臣さんだったといいます。もとより黒木さんは〈にんじんくらぶ〉の代表者格にあった若槻繁さんをずっと尊敬していたので、どうやら経営がうまく行っていないらしい同社の助けになればと思い、この企画を進めることにしました。昭和57年/1982年はじめごろのことです。

 原作者の村松さんに連絡をとったところ、かなり乗り気に快諾され、しかも自分でシナリオにしてみたい、という前のめりなご返事。まもなくその一稿ができあがってきますが、黒木さんからすると、うーん、と満足できる出来ではなかったので、村松さんと親しかった状況劇場の唐十郎さんに手伝ってもらうことになります。シナリオづくりに励む3人。すると、なんとまあ不思議なことに、唐さんの手によって見違えるようにムチャクチャな……いや、素晴らしい台本に仕上がります。

 スタッフも少しずつ集まってきて、主役の相手を務めるヒロインを誰にするか、ここは一般に募集してみようかと、募集案内もつくられます。そこではクランクイン8月中旬、完成10月初旬、公開は昭和57年/1982年の年内、との予定も発表されましたが、肝心の〈にんじんくらぶ〉が資金を調達できず、とうてい予定どおりに進みそうにありません。ヒロインは結局、人間プロ所属の新人で、愛川欽也さんの娘という触れこみの佳村萠さんで行く、ということまで決まっていたのですが、金が回らなければ映画はつくれない。黒木さんは仕方なく、人間プロの長門さんのもとに状況を報告しに足を運びます。

 すると長門さんは、その場で銀行から金を借りる算段をとりつけると、人間プロで製作をつづけようじゃないか、と黒木さん側に提案したものですから、一気に光明が差します。黒木さんが、〈にんじんくらぶ〉の高木さんに話をしたところ、うちで始めた企画をよそでやるのはちょっと……と難色を示されますが、病気がちだった若槻さんのところに相談に行ってみれば、いやいやうちが迷惑をかけたんだ、どうぞ人間プロのほうで完成させてほしい、と温かい言葉で対応してもらい、とくに契約書も結んでいなかったということもあって、製作は人間プロの仕切りで再開。完成にまでこぎつけました。

 この映画を製作している期間、昭和57年/1982年7月に村松さんが直木賞を受賞、半年たって昭和58年/1983年1月には今度は唐十郎さんが芥川賞を受賞と、共同脚本の2人がそれぞれ注目の作家としてジャーナリズムをにぎわせます。公開まえの映画の宣伝としては願ってもないほどの、これまた追い風が吹いた、と言っていいんでしょうが、この風に乗れなかった人たちがいることも忘れてはいけません。〈にんじんくらぶ〉の人たちです。

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2019年5月19日 (日)

昭和33年/1958年・小説の内容が名誉棄損だと告訴されて笑い飛ばした邱永漢。

「オール読物三月号に掲載された小説“韓非子(かんぴし)学校”の主人公は私をモデルにしたもので、事実と相反することをたくさん書いており、名誉を棄損された」―と十七日、徳大学芸学部法律政治学教室助教授、高橋正臣氏(五〇)(引用者中略)が作者の邱永漢(きゅう・えいかん)氏(引用者中略)とオール読物編集長小野詮造氏(引用者中略)を相手どって徳島地検に告訴した。

(引用者中略)

邱永漢氏の話 「徳島へ旅行中にちょっと耳にはさんだことを私の想像をおりこんで書いたもので、訴えている高橋さんという人も、名西高校という学校も知らない。想像と事実が一致する場合もあるが、これは偶然の一致だろう。あの小説は深刻な現在の教育問題を気軽に笑いながら書いたもので他意はない。告訴してくれれば私も有名になって小説もよく売れるだろうよ」

――『徳島新聞』昭和33年/1958年7月19日夕刊「“モデル助教授”大いに怒る 邱永漢氏らを告訴 徳大の高橋氏“小説は名誉棄損”」より

 たとえば何かの小説に、明らかに自分をモデルにしたとわかる人物が出てきたとしたら。しかも、読んだ人の多くが軽蔑するような人物として、かなり誇張して描かれている。……果たしてそれを読んだ自分はどう思うんでしょうか。

 ……ワタクシ自身はとくにそんな経験もないので、実感はよくわかりませんけど、いまから60年ほどまえの昭和33年/1958年、徳島の地でいきなりそれを体験させられた人がいます。高橋正臣さんです。

 さて、いきなり実名を挙げてしまいましたが、高橋さん、いったい何者でしょうか。

 きっと知っている人のほうが稀なんじゃないかと思うので、履歴に少し触れておきますと、生まれは明治41年/1908年5月12日。生家は徳島県の河崎家ですが、高橋家の養子に入って姓が変わり、長じて東京帝国大学法学部を卒業します。昭和9年/1934年に満洲国財政部に勤務したところから始まって、総務庁企画処の調査官、参事官、大同学院教官、法制処参事官などとして働きながら終戦まで満洲で暮らしたのち、戦後は故郷に戻って昭和24年/1949年4月から昭和26年/1951年3月まで、徳島県立名西高校の校長に就任。昭和28年/1953年には徳島大学に転じ、昭和33年/1958年当時は50歳で同大の助教授、その後に教授を歴任しました。専門はずっと法律学だったようですが、学生のころから洋楽、とくにバイオリン演奏にハマっていたといい、奥さんも国立音楽学校ピアノ科のご出身だと、『人事興信録』(昭和41年/1966年 第二十三版(下))に書かれています。

 それで高橋さんが言うには、『オール讀物』に載っている邱永漢の小説って、あなたのことを書いているようだけど、これってどうなの、と親類や知人などから何件も問い合わせがあったそうです。じっさい読んでみれば、その「韓非子学校」に登場する徳島県M高校の校長というのが、自分をモデルにしていることは明々白々。だけど、ずいぶん事実と相違して戯画的に書かれている。高橋さんカチンと来てしまいます。

 というところで、この「韓非子学校」なんですが、昭和31年/1956年に第34回直木賞(昭和30年/1955年下半期)を受賞した邱さんの、これから小説家として活躍していこうかという昭和33年/1958年に発表された一篇で、とうてい邱さんの代表作と呼べるものではありません。これはこれで知っている人のほうが稀なはずなので、あらすじをざっと書いておきます。

 語り手の「私」は、かつて一通の手紙を受け取ったことがあります。「私」がある雑誌に韓非子についての文章を発表したところ、送られてきた未知の読者からの手紙で、差出人は徳島県で高校の校長をしているらしい与田文平なる人物です。与田氏は書きます。学生はすべて不良少年で、教員はすべて怠け者だ。だから小生は、いまの教育に必要なのは鞭である、という信念を抱いている。貴殿の書かれた、道徳教育なんか無用で、目指すべきは法治教育だという道徳教育無用論に、心から賛同します、うんぬんと。たしかに韓非は、人間とは悪党であり、そういう悪党でもできるような政治機構を提唱したけれど、まさか本気でそんなことを教育の現場で実践している人がいるとは……と「私」はなかば驚き、なかばあきれ返ります。

 その後、たまたま徳島に行く機会を得た「私」は、同地で教育関係の役人をしている柴崎博志という友人に、与田校長のことを尋ねてみます。するとこれが、M高校に赴任して以来、相当に困った校長として知られている人物だ、ということが判明。たとえば、校舎の入口にはたいてい受付の事務室があるものですが、その部屋を校長室にして、生徒や教員が遅刻や早退をしないか目を光らせている。放課後はそこに残って趣味のバイオリンを弾き、教員たちを帰りづらくしている。職員室にある机と椅子を鎖でつないで、勝手に椅子を移動して無駄話をさせないようにしている。あるいは学生の本分は学問することだからと強硬に主張し、卓球で優勝した生徒がいるのに、国体への派遣を認めず、PTAの役員と揉める。と強烈な教育者ぶりをかまして、まわりからなかなか問題視されている様子です。

 しかし与田校長は自説をまげず、他校とスポーツで交流試合とかしている場合じゃないと、近隣のN高校に学力テストによる決戦を挑みます。結果は大惨敗となりますが、学校を挙げての学力向上に取り組みはじめ、思いきって野球部を廃止、そこにかかっていた費用を、成績の優秀な生徒たちに当てて、特別授業を受けさせ、東大の合格者を生もうと意気軒昂です。「私」はその様子を見学させてもらいますが、どうにも重苦しい気分になってくるのでした。

 これが書かれた昭和33年/1958年からもはや60数年が経っています。当時は、行きすぎた教育方針ではないか、と思われていたような、学力向上と受験と東大合格を結びつけての学校運営も、何ひとつ物珍しいものではなくなり、ちょっとイカれた校長として描かれた与田文平も、いまとなっては学業に熱心な素晴らしい教育者、と見られないともわかりません。そこが笑うに笑えない、邱さんの狙ったリアリティとデフォルメのギリギリのラインだったのでしょう。うまく成功しています。

 ところが、モデルにされた高橋さんにとっては不愉快このうえなかったらしく、昭和33年/1958年7月17日、邱さんと『オール讀物』編集長の小野詮造さんを相手取って徳島地検に名誉棄損の訴えを起こすにいたります。「どんなにまわりに迷惑がられようが自分の考えをまげない」という、与田文平校長のモデルになった人だけあって、なかなか高橋さんも意地っ張りな性格だったのかもしれませんが、さらに告訴にまで発展したと思われる大きな要因も見逃せません。

 高橋さん自身、自分は教育者であるだけでなく法律の専門家なのだ、という自負があったことです。

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2019年5月12日 (日)

昭和43年/1968年・掏摸というのは芸術家だ、と言い張る犯罪者のことを小説にした藤本義一。

四年ほど前に掏摸を主人公にした小説を書いたことがおます。(引用者中略)この小説の取材で、一人の老掏摸を追った時に、色々と面白い目にあいました。

「フジモトシャン、スリツウノハ、芸術家デッシェ」

と彼は胸を張ったもんだす。言葉が一寸けったいなのは、彼の歯が抜けているためだす。

(引用者中略)

この後、新入りスリの造反がおこり、組合は暴力団に半分が流れ、おっさんは関東で検挙されてまいました。

――昭和49年/1974年5月・いんなあとりっぷ刊 藤本義一・著『オモロおまっせ』所収「目玉のついたゴールドフィンガー」より

 劇作、脚本、放送台本など映像メディアで頭角を現わした藤本義一さんが、本気で小説を書こうと思ったのはいつごろなのか。子供の頃から、という回想も見かけたことがありますが、長年胸に秘めていたといったような、そういう夢のハナシは別として、具体的なきっかけとして記録に残っているのは、同じ関西エリアで放送業界にいた知り合いの田辺聖子さんが昭和39年/1964年にいきなり芥川賞を受賞。うわっやられた、と藤本さんはほぞを噛み、おれも芥川賞か直木賞をとったるで、と急激に小説執筆の意欲をふくらませ、とりあえず芥川賞と直木賞、二つ分の「受賞の言葉」を書いてみるところから始まった、と伝えられています。

 小説を書いてもいないのに、賞をとったときの晴れがましい我が身を想像して、受賞の言葉を考える。……当時はどうだったかよくわかりませんが、いまとなってはとくに珍しくない、よくあるタイプでしょう。

 しかし藤本さんが他と違っていたのは、執筆の依頼も企画もないのに、ひとりで原稿用紙のマス目を埋め、ほんとうに小説を書きはじめたことです。1960年代中盤、藤本さんが30歳をすぎたころのことで、ちょうど読売テレビの「11PM」のホストとして顔が売れはじめた時期に当たります。

 それで、どうしてここで藤本さんに触れているかといえば、直木賞を念頭に書きはじめた藤本さんの小説には「犯罪」が欠かせなかったからです。小説家としての藤本さんを見たときに、彼を推理小説家と区分けする人はまずいないはずですけど、少なくともワタクシは、初期の藤本さんのことを犯罪小説家と呼びたいと思います。

 もともと放送作家として飯を食っていたときから、藤本さんの書くものには犯罪の気配が漂っていました。本人の証言によると、昭和30年/1955年から昭和41年/1966年の11年間でテレビの30分ドラマを2500本ぐらい書いたそうで、その多くはペテン師、ポン引き、釜ヶ崎ものだったといいます(『週刊読売』昭和41年/1966年12月23日・30日合併号「やァこんにちは近藤日出造」)。犯罪というより、ひときわ一般庶民や経済的に貧しい人たちに関心を持っていた、と言ったほうがいいのかもしれません。ただ、

「本来、ぼく自身にそういった性癖があったのかわからないけれど、名もない、それも底辺に生きる人たち、ポン引、パン助、ヤクザにヒモに釘師にスリ、といった人とも仲がよくなる。」(『サンデー毎日』昭和44年/1969年1月4日号 藤本義一「テレビわが交遊珍録」より)

 と語っているのを見ても、藤本さん自身がおのずと、犯罪と背中合わせに生きている人たちの生態に親近感をもつ人であり、それが作品に投影されていた。というのはあながち間違いではないでしょう。

 そんななかで数多くの人と出会ううちに、まだ小説を書いたことのなった藤本さんに、おお、これは小説の素材になる! と思わせた人がいます。大阪で活動していた、ひとりの老掏摸です。この人物に「平平平平(ひらだいら・へっぺい)」という名前を付ける藤本さんのセンスもどうかと思うんですけど、人のものを勝手にくすねる犯罪行為に芸術性を見出す掏摸の、けったいな論理に目をつけると、ここに戦時中は中支戦線で戦友だったという掏摸係の刑事や、それぞれの家族を配し、いくつかの事実と、数多くの想像から生まれた嘘っぱちを混ぜ合わせて長編小説に仕立てます。じっさいこの老掏摸にはモデルがいて、大阪界隈の掏摸事情もなるべく事実に沿った背景をもとにしているそうです。

 これが『ちりめんじゃこ』(昭和43年/1968年11月・三一書房/さんいちぶっくす)というタイトルで刊行され、第61回(昭和44年/1969年・上半期)直木賞の候補作に残り、藤本さんが単なるビッグマウスの電波野郎でないことが明らかになったわけで、藤本さんと直木賞の結びつきを現実的なものにした作品が、現実の犯罪に依拠しているというのは、うちのブログとしては見過ごすことができません。

 いったい現実にはどんな掏摸だったのだろう。いちおう調べてはみたんですけど、平平平平(のモデルになった人物)のことは、よくわかりませんでした。ただじっさい、60年代の大阪では『ちりめんじゃこ』の主人公のような、指先の技術を誇る掏摸たちのグループよりも、いっそう組織的に金品の強奪をもくろむ集団暴力スリと呼ばれる人たちが猛威をふるっていたのは、たしかです。

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2019年5月 5日 (日)

昭和46年/1971年・建物の所有権をめぐる契約書偽造が疑われて逮捕された加賀淳子。

東京地検特捜部は六日夕、(引用者中略)歴史小説作家、加賀淳子(あつこ)=本名、吉村美名子(五一)と加賀の夫、会社役員、吉村益史郎(六二)を私文書偽造、同行使、詐欺未遂の疑いで逮捕した。二人は家の契約書を勝手に偽造した疑い。

――『毎日新聞』昭和46年/1971年9月7日夕刊「女流歴史作家 加賀淳子を逮捕 家の譲渡書偽造 乗っ取り図る」より

 直木賞というものは、日本の小説のなかのほんの一部にしか関係がありません。いちいち言うまでもありません。現に直木賞と無縁なマーケットで作家業を営む人はたくさんいますし、これまでも数えきれないほどにいました。じゃあどうして直木賞に関することだけでブログをやっているのか。それを話し始めると長くなるんですけど、「犯罪でたどる直木賞史」のテーマも始まってそろそろ1年、おしまいに差しかかる頃合いですから、ひさしぶりに直木賞(やもうひとつの文学賞)とあまり関係のない作家のことを取り上げたいと思います。

 戦後まもない昭和24年/1949年、どさくさまぎれのようにして29歳で文芸出版界にデビューした加賀淳子(あつこ)さんという人がいます。

 時代は直木賞や芥川賞が4年にわたる中断から復活したときと重なり、もちろん当時も加賀さんだけじゃなくいろんな人が数々の雑誌でデビューして、なかには横光利一賞や戦後文学賞、大衆雑誌懇話会賞など、そのときにしか存在しなかった賞をとった新人もいましたが、無名のまま商業誌に登場した加賀さんを有名にしたのはそういう文学賞ではなく、別のゴシップ的な話題でした。

 デビュー作の「処世」(『改造』昭和24年/1949年10月号)につづいて、「浮雲城」(同誌昭和25年/1950年1月号、第二部は同年12月号)を発表。するとこれが、没落した公爵家をモデルにしている、という素材の衝撃性で悪目立ちしたおかげで、いったい加賀淳子って何者だ、ということになり、加賀さん本人が自分の経歴をペラペラしゃべる人ではなかったことも好転して、どうやら島津忠重元公爵の養女らしいだの、いや加賀百万石の血をひく前田利為元侯爵のご落胤だのと、勝手なウワサ話が文壇を駆け巡ったと言われています。しかも、顔写真などをさらすことは、なぜかNGではなかったため、その顔立ちやたたずまいなどが喧伝され、美貌だ美貌だと、そちら方面でもずいぶんと名を挙げます。

 昭和31年/1956年『新潮』2月号に「雑役長官」を発表したときには、親しい作家仲間によるエッセイのようなかたちで、檀一雄さんが「加賀さんのこと」を寄せました。ほんの2ページの短い文章のなかに「美人」という単語が6回、「美貌」が4回も登場するという一種の異様さを漂わせたシロモノで、いまどきこんな作家紹介文を書いたらきっとあちこちから叩かれるでしょう。

 じっさいのところ〈加賀〉という筆名は、本名・吉村美名子さんの結婚した益史郎さんの母方の実家が、薩摩島津家忠宗の第六子資忠を始祖とする北郷加賀守三久なる武将だったことに由来しているそうです。要するに加賀さん本人には大名や皇室、華族の血は流れていないわけですが、「元華族にふさわしい貴族的な顔立ち」とかいう、どう考えても胡散くさい謂われが、加賀さんの文壇での活躍をやたらと後押しします。

 真偽のわからない、でもいかにもな経歴をもつ、美しい女性。……という、まあ言うなれば、キワモノ扱いの作家として登場したことは間違いありません。しかも、のちになって加賀さんに対する悪口が活発になったときに、このキワモノ感が改めて活きてくるのですから、人間という集団が形成する印象づけの恐ろしさを、まざまざと感じます。たとえば円地文子さんは「何か、初めから信用できない面が、作品の面からも感じられました」(『週刊サンケイ』昭和46年/1971年9月27日号)などと振り返り、林芙美子さんは「目次で加賀淳子と並ぶと「この女は何者か、こんな女と同じ号に書きたくない」と怒った」という証言が出てきたりしました(昭和52年/1977年5月・光和堂刊『雑誌『改造』の四十年』)。

 ともかく、デビュー以来20数年。純文芸雑誌から中間小説誌へと軸足を移しながら、女性の歴史小説家の先駆者として活躍をつづけ、当時の用語でいうところの〈自閉症〉の息子を抱えて婦人誌などにそういうテーマのエッセイを書くさなか、昭和42年/1967年、47歳のときには自身も喉頭がんを患って仕事に支障をきたすようになった折りも折り、ひさしぶりといってぐらいに加賀さんに強烈なスポットライトが当たります。それは夫の益史郎さんが経営していた日本橋通のレストランの、建物の所有権をめぐるトラブルが発展して、加賀さん夫妻が東京地検に逮捕されてしまったからです。

 地検の調べによれば、昭和40年/1965年春、東京・日本橋通の木造二階建て住宅を所有していた池田よしさんから、加賀さん夫妻がそれを借り受けてレストラン「サラ」を経営していましたが、池田さんに断りもなくこの建物を担保にして金を借りていたことが発覚、昭和42年/1967年6月にいたって池田さんは二人に対して建物明け渡しの訴訟を東京簡裁に起こします。ところが翌年1月に池田さんが亡くなると、加賀さんたちは池田さんから預かっていた印鑑を使って、自分たちに建物を譲渡するという内容の契約書を偽造し、11月、それを証拠として池田さんの長女敏子さんを相手に、建物所有権移転登記請求を提訴。これはけっきょく昭和45年/1970年5月に加賀さんたちの敗訴になりますが、どうも二人が契約書を偽造したらしいぞと知った敏子さんが激怒しないはずはなく、東京地検に告訴するに及んだ結果、昭和46年/1971年9月6日に二人は逮捕され、懲役2年執行猶予3年、という刑がくだります。

 まがりなりにもプロの小説家としてコツコツと商業誌に作品を発表し、それなりの地位を確保していたひとりの作家が、病気を患った影響はあるんでしょうけど、建物の所有権をあらそっての詐欺未遂という、小説の内容とは何の関係もない犯罪事件を起こして以降、ぴたりと表舞台から消えてしまった。光と闇のこのコントラストが、単に加賀淳子というひとりの作家の問題というよりも、文芸出版界を含めた世間一般の非情さを感じさせるところです。

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2019年4月28日 (日)

昭和45年/1970年・大麻パーティーの記事に名前を出されて名誉棄損で告訴した山口洋子。

東京・銀座のクラブ「姫」の経営者、山口洋子さん(三三)(引用者中略)は、二十三日女性週刊誌「ヤングレデイ」の平賀純男編集長と、出版元の講談社野間省一社長を東京地検に名誉棄損で告訴した。

――『読売新聞』昭和45年/1970年3月24日「女性週刊誌を告訴 「姫」の山口洋子さん」より

 数か月まえ、なかにし礼さんが若いころに見舞われた昭和46年/1971年の犯罪事件を取り上げました。直木賞という行事には受賞者や候補者を通してこういう芸能ニュースの血が脈々と流れていたりします。正真正銘の事実です。そういうありようを抜きにしてこの賞のことを単なる文芸の話題として切り出すのは、ずいぶんもったいないことだし味気ないと思います。

 ということで、今週の主役の山口洋子さんも、なかにしさんと同様に右肩上がりの歌謡ビジネスのなかで作詞家として重宝され、やがて物書きとして小説を執筆、第93回(昭和60年/1985年・上半期)の直木賞を受賞した人なんですが、この人も直木賞を受賞した段階で、もはやかなりの有名人でした。ヒット曲の多い作詞家としての顔は言うまでもありません。そのうえ、東映第四期のニューフェイスとしていっとき女優を志しながら、すぐに見切りをつけて夜の世界に飛び込み、昭和31年/1956年8月、19歳の若さで銀座に「姫」という酒場をオープン、以後数多くのプロ野球選手や芸能人、作家たちの集まる店へと育て上げた、という売りもありました。

 夜の銀座にしても芸能界にしても、世間の生活とは離れた特殊な世界、というのが一般的に存在していた昭和の時代の共通認識でしょう。カタギに対するところのヤクザな世界。とでも言いますか、けっきょく同じ人間ですからやっていることは大して変わらないはずですが、特殊な世界として切り取られ、ときに彼らの言動が市場価値を持ち、テレビ、ラジオ、雑誌、スポーツ紙などでは花形の話題として流通したりします。警察沙汰や裁判沙汰ともなれば、マーケットは一般紙にも広がり、購読者の興味・関心の欲をかきたてるために、何ということもない事件が紙面の一角を占めて報道されることも、しばしばです。

 何ということもない、などと決めつけちゃいけませんね。これが些細なことなのかどうなのか、ワタクシには判断できませんけど、当時〈銀座のクラブのママであり作詞家〉として知られていた山口さんが講談社の『ヤングレディ』の記事に怒り、これを名誉棄損だとして東京地検に告訴した事件があります。昭和45年/1970年3月のことです。

 話の発端は、芸能界をまきこんだ大麻汚染の話題です。はっきり言って極めてよくある話題です。

 昭和45年/1970年2月に発生したのは、前衛ミュージカルとして評判をとっていた「ヘアー」の関係者や出演俳優たちが都内各所で何度もハシシュ(マリファナとする報道もあり)・パーティーと称する集まりを開いていたとして、ぞくぞくと逮捕者を出した一件です。自宅を提供してパーティーを開いていたとされたのが、「ヘアー」プロデューサーの〈象多郎〉こと川添象郎さん当時28歳のほか、バンドマンのフォルツノ・エドモンドさん、俳優の寺田稔さん、元ザ・タイガースの〈加橋かつみ〉こと本名・高橋克己さんが2月26日、大麻取締法違反で警視庁保安二課に逮捕されると、その後作詞家の安井かずみさんなども同じ容疑で警察にしょっ引かれます。

 川添さんという人は、その後にわたってある種の方面ではしたたかに力を発揮した著名な人だということでWikipediaにも立項されています。経歴はそちらを参照してもらえればいいんですが、逮捕が報じられると、犯罪者につらく当たるのがオレたちの使命だとばかりに、週刊誌では「親の七光り」だの「口八丁手八丁」だのさんざん叩かれたうえに、

「ひと言でいうとまるで頼りない男でね。頭がいつもボーとしていた。約束を平気でスッポかすし、右からいったことはすぐ左にぬける感じだな。頭はいいし、たしかに音楽的才能はあるけど、オヤジさんとおなじように、まるで行政手腕がない男ですよ。いまから思うと、ボーとしてたのはマリファナのせいなんだな。ボクらは二日酔いとばかり思ってましたがねえ」(『週刊文春』昭和45年/1970年3月16日号「お粗末「ヘアー」の七光りプロデューサー リッチマン川添一家の息子」より)

 と、「ヘアー」を主催した松竹の製作室、寺川知男プロデューサーによる忌憚のない月旦評まで紹介されるありさま。

 なかなか山口洋子さんと結びつきませんが、とりあえず川添といえば怪しい犯罪者、という認識のなかでゴシップジャーナリズム界で盛り上がっていたところに、講談社の『ヤングレディ』誌も、じゃあ我われもご相伴に預からせていただこうかと、さらっと川添パーティーネタを取り上げた状況があったわけです。

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2019年4月21日 (日)

昭和38年/1963年から翌年・〈草加次郎〉を名乗る男からたびたび脅迫電話を受けた木々高太郎。

二十六日午後八時十分ごろ、(引用者中略)慶大教授、林髞さん(六七)方に、若い男の声で「おれは草加次郎だ」と電話があった。応対に出たお手伝いの仙葉昭子さん(二〇)が「なんですか」と聞きただすと「爆弾だ」といって電話を切った。

林教授の家には昨年九月からこれまでに三回も“草加次郎”と名のる若い男から電話がかかり、そのたびに爆弾を仕掛けてやるとおどしている。

――『読売新聞』昭和39年/1964年6月27日「「草加次郎だ」とまた怪電話 林教授宅」より

 昭和37年/1962年からにわかに発生した〈爆弾魔・草加次郎〉の一連の事件は、昭和の未解決事件として名高く、これと関連する小説もさまざまに書かれてきました。とりあえずここは直木賞専門ブログですから、直木賞の候補者や受賞者の作品だけに絞りますけど、佐野洋さんの『華麗なる醜聞』(昭和39年/1964年)、桐野夏生さんの『水の眠り 灰の夢』(平成7年/1995年)、奥田英朗さんの『オリンピックの身代金』(平成20年/2008年)などを挙げてみます。そういう作品を読み比べてこの犯罪事件をとらえてみたら、きっと面白い試みになるでしょう。

 ……とか何とか言いながら、すぐに作家ゴシップに走るのがこのブログの悪いクセなんですが、だらだらと前置きせず速やかに今日の本題に進みたいと思います。

 〈草加次郎〉の犯行というと、ひとつの大きなあらすじがあります。昭和37年/1962年11月4日、東京・北品川の島倉千代子後援会事務所に届いた一通の郵便小包。中には開けると発火するような仕掛けを施した黒色火薬が詰めてあり、後援会の幹事が火傷を負う、という被害が発生します。その仕掛けのところには〈K〉〈祝〉〈呪〉などの文字とともに〈草加次郎〉という四つの漢字が記載されていました。

 その後、爆弾を仕込んだ石川啄木詩歌集とかエラリー・クイーンの小説、ボール箱などが都内各所で発見されたり、翌昭和38年/1963年には、上野公園で起きた発砲事件と同一と思われる弾痕をもつピストルの弾丸が、〈草加次郎〉の名前で警察に送られてきたり、姿を見せぬ犯行者の名前が徐々に世間をにぎわせはじめますが、ついには9月5日夜8時すぎ、地下鉄銀座線の京橋駅で、停車したばかりの車両で突然の爆発が発生。現場に残っていた乾電池に「次」「郎」といった文字が発見されたところから、爆弾魔〈草加次郎〉による狂気の犯罪が一般市民の生活を脅かすものとして大きく報道されるにいたります。

 爆弾を使うその手口とは別に、芸能人たちに金を要求する脅迫状を何通も送っていたのも〈草加次郎〉の名を有名に押し上げたひとつです。先の島倉千代子さんをはじめ、映画スターの吉永小百合さん、鰐淵晴子さんと、いわゆる世間で「清純派」と呼ばれる女性芸能人ばかりを標的にしていたことが、おそらく若い男の犯行ではないかとか、不遇感を抱きながら晴れがましい世界に憧れや妬みをもっている者のしわざではないかとか、硬から軟まであらゆるジャーナリズムが食いつき、世をあげた犯人推理ゲームを過熱させることになります。

 ときに〈草加次郎〉とはひとりの異常者ではない、いまの社会には草加次郎的な憤懣をかかえる人たちが無数にいて、あくまでそれが爆発魔というかたちで噴き出したにすぎない、これは日本全体の、日本人全体の問題なのだ、と大上段に解説する意見も現われます。社会的な犯罪事件を対象に、有識者というか有名人というか、そういう人たちが自分たちの意見を交わし合う、その様子を遠巻きに眺めている一般の人たちが納得したり楽しんだりする……というのは、いまを生きるワタクシにも非常に馴染みのある構造です。50数年前の昭和38年/1963年当時も、もちろんそういう光景が展開されたわけですが、そこにお声がかかったひとりが、われらが直木賞の選考委員、木々高太郎さんでした。

 木々さんといえば、直木賞の選評でもなかなかの高圧的な発言を繰り返し、候補作家の神経を逆撫でしてきた人でもあります。『読売新聞』紙上に掲載された〈草加次郎〉事件に関する座談会でも、その特徴がいかんなく発揮され、のっけから犯人を無意味な精神病質者、と切り捨てます。

本社 草加次郎の目的、動機をどうお考えになりますか。

 特定の意思、目的はありませんね。意味のない反社会的行為です。たとえば電車のなかで女性のスカートを切るようなものです。知っている女なら憎しみという動機があるかもしれませんが、この場合相手が女性であればいいのです。したがってこのような事件をくりかえしてやる以上、精神病質者といえましょう。

(引用者中略)

多くの女性歌手、女優がいるのに、島倉、吉永の二人を選んでいるし、凶器に爆弾を使っている。殺す相手にも好みがあるのは変質的な傾向を裏づけているのですが、私の推定では四十歳ぐらいで、インテリだと思う。

(引用者中略)

日本の法律はやさしいところからこんな事件がおきるんじゃないかね。他人の生命をあやうくするようなものは厳罰にすべきだ。」(『読売新聞』昭和38年/1963年9月11日号「“社会の敵”を葬れ 「草加次郎」紙上捜査会議」より ―参加者:警視庁刑事部長・本多丕道、慶大教授・林髞〈推理作家 木々高太郎〉、推理作家・佐賀潜〈弁護士 松下幸徳〉、東大助教授・樋口幸吉)

 草加次郎のような精神異常は社会から隔離すべきだ、というのが林=木々さんの持論だったそうです。あるいはそういう身も蓋もない威張りくさった発言が、誰かの癇に障ったものでしょうか。木々さんの自宅に不審な電話がかかってくるようになります。

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2019年4月14日 (日)

昭和41年/1966年・怪しいパーティを開き、ブルーフィルムを上映したことで逮捕された松本孝。

東京戸塚署は警視庁捜査四課の協力で新宿を根城にする暴力団極東組の摘発を行なったところ、一味の自供から(引用者中略)ルポライター、松本孝(三三)と妻、佳子(三二)が小説の材料にするため少女二人と少年一人に自宅で、睡眠薬を飲ませ、ブルーフィルムを見せて反応を観察するという“生体実験”をしたことをつきとめ、このほど松本夫妻をわいせつ物公然陳列の疑いで逮捕した。

(引用者中略)

松本は週刊新潮の「黒い報告書」などに事件をアレンジしたドキュメンタリーふうの小説を書いており、同事件の少年、少女のことは八月二十二日号の週刊誌「平凡パンチ」に書いた。

――『毎日新聞』昭和41年/1966年9月12日「とんでもないルポライター夫婦 薬のませ、不良映画 少年少女の反応を材料に」より

 うちのブログで約1年にわたって「同人誌と直木賞」を書いたとき、『断絶』とからめて松本孝さんのことにも触れました。松本さんの出世作といえば、第45回(昭和36年/1961年・上半期)の直木賞候補になった「夜の顔ぶれ」と言っていいんでしょうが、じっさいにはそれより早いタイミングで『週刊新潮』「黒い報告書」シリーズの第1号ライターに起用されたことが大きかった……みたいな流れで紹介したものです。いずれにしても〈エロス!〉および〈犯罪性!〉という、刺激的な題材をぬきにしては語れない物書きだったことは間違いありません。

 ということで、直木賞の候補作家とはいえ、いまとなっては文芸方面から顧みられることもない売文ライターのひとり、と言ってもいいはずですけど、その松本さんが現実の犯罪に巻き込まれ、いや、犯罪を起こした張本人だと糾弾されて、『毎日新聞』紙面に「とんでもないルポライター」だとデカデカと書かれたことがあります。直木賞の候補になってからわずか5年しか経っていない昭和41年/1966年9月の話です。

 事の起こりは、松本さんが小説を書きはじめた時期に当たる、1960年代の前半ごろにさかのぼります。

 その当時、都内の盛り場、とくに新宿あたりでは放埓で無気力で刹那的な生活を送る、いわゆる「フーテン」と呼ばれる10代、20代の若者たちが増え始めた、と言われています。一部は60年代安保の学生運動に打ちやぶれ、政治や社会制度に対する反抗心の行き場をなくした人たちが、そういうかたちで既成のモラルをぶち破ろうとしたのだ、という分析を信じていいのかどうなのか、それはともかくとして、家出して定宿のないまま、着の身着のまま、働きもせず、享楽にうつつを抜かし、睡眠薬を摂取することで混濁した意識にふける「ラリパッパ」なる遊びがじわじわと流行。こういう人たちの発生が社会的な現象として一気にマスコミの注目を集め、俗にいう「フーテン族ブーム」が訪れるのは昭和42年/1967年夏のことですが、それより前から松本さんは彼らの生態に密着し、妻とともに自分も新宿フーテン族の仲間というか兄貴分として過ごしていました。

 とくに松本さんを有名にしたのが、新宿区下落合の自宅を開放して若者たちとともに遊ぶ、プライベート・パーティの主催者としての顔です。

 自然発生的にパーティを開催するようになったのは、まさに60年代初期の昭和36年/1961年ごろからだといいます。参加者たちにはとにかくパートナーを独占しないというルールが課せられ、松本さんの準備した下着類を、男女の別なく自由に身にまとい、酒や睡眠薬を飲んでは、夜どおし踊ったり騒いだりする……という、人によってはおそらくこのうえないほどに楽しい催しを繰り広げ、いつの間にやら松本さんは、まわりから「教祖」と呼ばれるようにまでなります。

 ところが、昭和41年/1966年3月、いつものように開催されたパーティに、15歳と14歳の女子2人と、17歳の男子1人が新顔として参加したところから話はダークな方向に向かいはじめます。彼らが参加したきっかけは、松本さんの妻、佳子さんと新宿のジャズ喫茶で知り合ってパーティに誘われたから、と言われていますが、どうやら暴力団組織〈極東組〉のチンピラとつながっていたらしく、8月23日の深夜、突然松本さんの家に、前科二犯のバーテンダー新井元久さんと19歳の見知らぬ青年の二人がやってきます。

 19歳の青年は、パーティに参加していた女子の恋人だと言いだし、ついては女がおたくの知り合いに孕まされた、どう責任をとってくれるんだとイチャモンをつけてくる。つづけて翌日には、極東組組員の村畑誠一さん、女子2人を含めた5人でしつこく家にやってきて、何だかんだと理由をつけては5万円支払えなどと脅してくる。その恐喝ネタのひとつが、ブルーフィルムいわば非合法のポルノ映画を上映したという松本さんのパーティだったわけです。

 何だかしょぼい連中だなと思いながらも、松本さんは戸塚署に通報、9月6日に新井・村畑の両名が恐喝の容疑で逮捕されます。しかし彼らが供述した内容から、今度は松本さんがブルーフィルムの上映会をやっていることがバレてしまい、同日に家宅捜査が行なわれた結果、そこでは証拠のフィルムは出てこなかったものの、松本夫妻も猥褻物公然陳列罪で逮捕され、略式命令で1人3万円ずつの罰金刑と決まります。未成年もからんだ事件ということもあって、松本さんは、

「パーティーのなかに十四、五歳の少女がまぎれ込み、それが現実問題として堕落したことにはいたく反省して、「これでボクの社会的生命も終わりでしょう。テレビ局が連ドラをやってくれるはずだったが、もうとてもねえ。筆を折りたいと思ってます」と意気ショウチン」(『週刊大衆』昭和41年/1966年10月6日号「“わいせつ作家”松本孝氏の実績」より)

 と、断筆を決意しなければならないほどに深く反省することになりました。

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2019年4月 7日 (日)

昭和53年/1978年・タクシーのフロントガラスを壊し、器物損壊で現行犯逮捕された佐木隆三。

直木賞作家の佐木隆三(四一)=本名、小先良三(引用者中略)=が一日未明、酔って帰宅途中、乗車を断ったタクシーに腹を立て、フロントガラスをこわし、器物き棄の現行犯で東京・築地署に捕まった。

調べによると同日午前零時五十五分ごろ、中央区銀座七の三の一三の路上で(引用者中略)個人タクシー運転手、奥谷義里さん(三六)が信号待ちしていたところ、小先が「乗せてくれ」と近寄ってきた。

奥谷さんが「タクシー乗り場で拾って下さい」と断ると、小先は「なぜ乗せない。空車なんだからいいじゃないか」とタクシーのボンネットに上がり、こぶしやヒジでフロントガラスをこわした。被害は三万円相当。そのさい小先もヒジに軽いケガをした。

――『毎日新聞』昭和53年/1978年7月1日夕刊「直木賞作家の“乱行” 佐木隆三逮捕 タクシーに暴力」より

 直木賞を受賞した人はだいたい「直木賞作家」と呼ばれます。

 しかしこの呼び方は変じゃないかと、直木賞が生まれて以来、批判や異論をぶつける声は数知れず、これをテーマに1年分のブログが書けそうなぐらいに多くの人たちが問題視してきた呼称ですが、「ただの「作家」とは違うかのように印象づけながら、直木賞をとった、という以上のことを示しているわけではなく、けっきょく賞の知名度に頼った表面的な呼称」にすぎません。そう考えると、「イメージ先行で、ブランド力だけが肥大化している」という、直木賞そのものの一般的な実態が、意外とうまく表現されている単語です。

 いまのところ、この呼称を撤廃しようという動きはありません。おそらくこれからも直木賞の受賞者が何かすれば「直木賞作家が」うんぬんと話題にのぼり、直木賞という審査および顕彰機関が半年に1回おこなっていることとは何の関係もない分野でも、この賞の名前がひんぱんに使用されることは絶えないでしょうが、今週は「直木賞作家」の5文字が新聞の社会面に躍った昭和53年/1978年の一件を取り上げたいと思います。

 佐木隆三さんです。「犯罪でたどる直木賞史」のテーマでは「昭和46年/1971年、沖縄ゼネストの警備警官殺害事件」につづいて2度目の登場になります。

 前回の事件のときは、誤認逮捕でした。やってもいないことをやったと疑われ、留置所に拘束され、逮捕されたという報道が新聞にも出て、警察権力に対する憤怒の感情を思うぞんぶんかき立てることができました。それがひとつのきっかけとなって「犯罪」に興味の目を向け、やがて書下ろしの『復讐するは我にあり』完成にたどり着き、空想的なものよりリアリズムをこよなく愛する直木賞の風合いにハマって、この賞を受賞したのが第74回(昭和50年/1975年・下半期)、昭和51年/1976年1月のことです。

 下積みも長く、小説はもとより多才なジャンルの文章で稼いできた佐木さんは、直木賞特需に沸く受賞後からの原稿注文にも次から次へと柔軟に対応。受賞から2年ほど経った昭和53年/1978年6月にいたっても、いったいこれをひとりでさばき切れるのか、というぐらいの忙殺状態にあった、ということです。

 雑誌の締切を6つ抱えて赤坂見附のホテルにこもる、いわゆる「カンヅメ」になることに決めた6月30日、出版社の人などといっしょに銀座に出かけたのが夜8時半ぐらい。それからだいぶ酒を飲んだそうですが、そろそろ帰って仕事をやらなきゃまずいなと思い、日がまわって7月1日深夜1時少し前、タクシーを探しはじめます。

 ホテルまで距離も短いので、乗車拒否に合う可能性もある。これまでの経験上、個人タクシーならまず拒否されない、と判断した佐木さんは、連れの友人に個人タクシーを停めてくれるように頼み、じっさいに友人は一台のタクシーを停めたんですが、どうやら午前1時をまわる前は近くのタクシー乗り場で拾うのがルールだということで、運転手からそのことを告げられます。交渉する友人。しかし窓ガラスに手を入れた状態の友人をひきずるようにして、タクシーが動きだしたものですから、それを見た佐木さんはカッと頭に血がのぼり、なんて乱暴なことしやがるんだと、タクシーを停めるためにボンネットの上に飛び乗ります。危険です。

 はじめは運転手も丁寧な態度だったそうですが、佐木さんが暴れて、タクシーの窓ガラスにキズがついたのを見て激昂。乗せていけという佐木さん、ガラスを割りやがったな弁償しろという運転手、言い合いの喧嘩になり、よし話なら警察でつけようと佐木さんが提案して、銀座にある数寄屋橋交番の前まで移動します。しかしそこでも口論はまったくラチが明かず、そうこうするうちに築地署から刑事がやってきて、刑法第40章第261条、器物損壊の罪という運転手側からの告訴を受けて、佐木さんは現行犯逮捕されました。

 本人によれば、当夜はたしかにかなり酔っていて、あまり後先のことを考えずに、わかったわかった、ひと晩ここで泊まってやるから明日シロクロつけてやろう、と逮捕に応じたらしいんですが、翌朝起きてから冷静に考えたところ、こちらがきちんと詫びないと留置所から出ることもできず、締切の原稿を進めることもできない、という状況に気づき一気に青ざめます。丁重に反省の意を示し、ガラス損壊の弁償金16万円を支払うことも認めて、運転手との示談が成立。告訴は取り下げられ、7月1日夜、釈放されるにいたりました。

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2019年3月31日 (日)

昭和23年/1948年・将校クラブで酒を盗んだとして前科一犯がついた田中小実昌。

一九四七年(昭和二二)二二歳(引用者中略)

八月、米軍通信師団の将校クラブでバーテンダーになった。その将校クラブの図書室でベン・ヘクトなどを読み、W・サローヤンに興味を覚えた。一〇月、基地の人員整理で失業し、兵員食堂で働いた。

一九四八年(昭和二三)二三歳

将校クラブの雑役(ルビ:ジャニター)の仕事に就いたが、窃盗容疑で罰金刑を受け、両国の同愛病院の夜間受付になった。

――『ユリイカ』平成12年/2000年6月臨時増刊〔総特集 田中小実昌の世界〕 関井光男・編「田中小実昌年譜」より

 田中小実昌さんといえば、その作品だけでなく、メディアを通して伝わった人柄を含めて、既成の枠にハマらない独特の風合いが魅力的です。

 昭和30年代、ストリップ劇場をこよなく愛する、怪しくてエロチックで、道を外れた自由な生きかたがジャーナリズムで面白がられました。以来、なんだか畏まっている文壇の主流とは相容れない、反権威を象徴する物書きだと勝手に思われて、そんな記事も書かれたりしましたが、昭和54年/1979年、54歳のときに第81回直木賞を受賞。小説のようなエッセイ、もしくはエッセイのような小説を書くこの作家に、どうにか賞を贈りたいと思って奮闘した文藝春秋・豊田健次さんをはじめとする直木賞の、偉大なフリーダム精神がうまく発揮された授賞だったと思います。

 ところで、枠にハマっていない。ということは、ある面では社会的な制度から足を踏み出しがちです。「飄々とした」と形容されることの多い田中さんの履歴のなかに、いくつか犯罪事件の話題が出てくるのは、そういう意味では案外自然なのかもしれません。とくに戦後、田中さんが東京大学に復学してから、ほとんど学校に行かずに各地をぶらぶらしながら生きていた頃の回想には、タナカ・コミマサといえば犯罪、というぐらいにいろいろなエピソードが出てきます。

 その事件の多くは自分の預かり知らない、いわば濡れ衣だったそうです。牛を盗んだ、麻薬をパクッた、宝石や貴重品をかすめ取ったと、だいたいが窃盗の疑いでしたが、どれもこれも田中さんには身に覚えがなく、しかしほうぼうで「タナカ・コミマサを名乗る人間が悪事を働いている」みたいな評判が立ったといいます。こういうところが、いかにも清と濁に境目のない田中さんの不思議さです。生きざまそのものが、なかば文学、なかば犯罪です。

 将校クラブで働いていたときに窃盗の罪で警察に突き出され、有罪となった一件も、もとは濡れ衣が発端でした。当時のことを田中さんはいろいろ書き残していますが、そのなかのひとつ『いろはにぽえむ ぼくのマジメ半生記』(昭和60年/1985年2月・ティビーエス・ブリタニカ刊)を見てみますと、昭和23年/1948年、渋谷・松濤にあった広大な敷地の旧鍋島侯爵邸を接収してつくられた米軍通信師団の将校クラブで、雑役(ジャニター)として働いていた田中さんは、ある日の昼下がり、バーカウンターのうしろでウイスキーを拝借して飲んでいたところ、若い中尉にいきなり拳銃を向けられます。最近、カメラなど将校の持ち物がひんぱんに紛失している。従業員の持ち物を調べてみたら、バーから勝手にくすねたと見られるウイスキー1壜、缶ビール2個が田中さんの部屋から発見された。おまえは泥棒だ。ということを言われ、田中さんは渋谷署の刑事に引き渡されることになりました。

 のちの対談で、田中さんはとくに悪びれず、このように語っています。

「ぼくは前科一犯なんですよ。(引用者中略)窃盗前科ですよ、人を殺ったといえばカッコもいいけど、ウイスキー一本と缶ビール二本……それでも裁判所に呼ばれて前科一犯だもんね、威張っちゃいけないけど……(笑)。

(引用者中略)

将校クラブでバーテンやってたからね。バーテンなんかさ、泥棒というんじゃなくて商品持って帰っちゃうよ。だけどホラ、調べられりゃ泥棒だもんね。」(『週刊読売』昭和54年/1979年8月26日号「古今亭志ん朝対談 えーちょっと伺います」より)

 犯罪は犯罪です。その後、通信師団の本部のあった日比谷一帯を管轄している丸の内署に移され、留置所に入れられます。じっさいに騒ぎのきっかけになったカメラの窃盗事件は、他に犯人がいたことが判明し、田中さんの罪状はウイスキーと缶ビールの窃盗、という微罪中の微罪だったんですが、釈放されると簡易裁判所から罰金4000円の命令書が届きます。そんな大金は持っていないし、どうしようかと思っていたところ、知り合いの吉岡忠雄さんが払ってくれて事なきを得た、ということです。

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