『全逓文学』…きっぱりと消えた各務秀雄、直木賞候補一覧に名を残す。(+一年のまとめ)
直木賞のありようは、さすがにどんな角度から見ても面白いんですが、いっぽう同人誌文化というものも、一度本気で足を踏み入れたら二度と帰ってこられなくなりそうな、魅力や魔力に満ちています。だけど、それぞれの雑誌の成り立ちを知る基本的な調査だけでも、いろんな文献に当たらなければならず、時間がいくらあっても足りません。このまま深淵な泥沼に足をすくわれるまえに、「同人誌と直木賞」のテーマは、今週でひとまず締めたいと思います。
この一年で取り上げていない、直木賞候補に選ばれたことのある同人誌、直木賞に関係した同人誌は、まだまだ存在しています。有名ドコロの『三田文学』をはじめ、古澤元さんの『麦』、木々高太郎&海野十三&小栗虫太郎の『シュピオ』、海音寺潮五郎さんの『文学建設』、米村晃多郎さんのいた『白描』、井上武彦さんの『文芸中部』、津木林洋さんの『せる』、平成以降では、もりたなるおさんがひとりでつくっていた『回転寿司考』、桜木紫乃さんの属した『北海文学』などなど、とめどなく、たくさん挙げられるでしょう。まったく深淵な泥沼です。
なかでも、個人的に気になっている一誌に『全逓文学』があります。
約10年ほどまえの平成21年/2009年に70号で終刊してしまいましたが、昭和の一時期、かなり盛り上がったと言われる労働者文学の世界で、当時数々の問題を抱えていた三つの巨大組織、すなわち電電公社、国鉄、郵便局のそれぞれの労働現場からも、全電通文芸連盟、国鉄動力車文学会、全逓文学会などといった数多くの文学組織が結成され、いまで言うところの「お仕事小説」の、さらに深刻で苛酷なバージョンが、無数の同人誌に掲載された、と洩れ聞いています。
いわゆる文学系を専門とする人たちには、そういった背景や実作、文学全般にもたらした影響などは常識なのかもしれませんけど、大衆文芸だの中間小説だの、そちらの歴史と労働者文学とは、どのように関連を結んでいたのでしょう。まともに取り上げるのも馬鹿バカしいからなのか、いやワタクシが不勉強すぎるせいで、言及したものをほとんど見かけたことがなく、伊藤桂一さんが「螢の河」で受賞した第46回(昭和36年/1961年・下半期)の直木賞で、全逓文学会の同人誌『全逓文学』から各務秀雄さんの「そこからの出発」が、なぜかポツリと候補に挙げられていることを、どう位置づけたらいいのか、よくわかりません。
何といっても、この一作、いまどこに行けば読むことができるんでしょうか。
本気でだれかに教えてほしい、と願うこと十数年、いまだに読むことがかなわずにいて、じっさいの作品を読まずに偉そうに語る恥ずかしさは、十分承知しているつもりですから、『全逓文学』と直木賞とのことは、突っ込んで触れるのを避けようと思いますが、この雑誌が創刊された昭和30年代、全逓文学会は、関東と関西の、二つのグループが同居していたといいます。しかし、どうやら昭和40年/1965年前後に両者分裂。関東グループのひとりだった神田貞三さんが、のちに語るところによると、
「その鋭敏な感受性と旺盛な筆力によって会内のもっとも有力な作家でありつづけた各務秀雄が、その資質の赴くところ当然に会内外の頽廃した空気を感じとって、〈頽廃的な日日〉のなかで「生活に狎れ、文学に狎れ」(会報六〇号)てしまっている会員たちを鋭く告発し、名差されたわたし、神田との会の活動にとって生産的な何ものもつけ加えない討論のあとで、ついに会にとどまる如何なる意味も発見できないとし、「ながき辛抱を」(会報六六号)という辛辣な告別の言葉をわたしたちに残して会を去ってしまった・・・」(『全逓文学』21号[昭和48年/1973年8月] 神田貞三「文学への荷担 会活動の十三年・その断片」より)
ということだそうで、雑誌そのものは関東のメンバーがひきつづいて続刊、神田さんや清水克二さん、徳留徳さんといった人たちの活躍を、その後も通じてうかがうことができますが、関西グループの実作者のなかで最も期待され、外部からの評価も高かった各務さんは、まったく忽然と消えた作家となってしまいます。
直木賞はとくにそうですが、消えた消えたと言われていても、案外あとのことまで判明している受賞者・候補者がほとんどです。そんなに簡単に人は消えたりしないもの、ということかもしれませんけど、各務さんみたいに、ここまでパッタリと文学的な歩みを断つ候補者は珍しく、しかも当の候補作ですら、どこで読めばいいのか皆目わからない。直木賞候補になったのはたしかなのに、それを手にとることができない損失感。あまりに堪えがたく、とりあえず、こんなかたちで触れてみました。マジでだれか読ませてください、「そこからの出発」。
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