カテゴリー「批判の系譜」の51件の記事

2015年5月31日 (日)

「選考委員が一致して推せないのなら、受賞させるな。」…『読売新聞』昭和58年/1983年8月27日「直木賞作家を安易に作るな」松島芳石

■今週の文献

『読売新聞』昭和58年/1983年8月27日

「直木賞作家を安易に作るな」

松島芳石

 「直木賞に対する批判」を取り上げつづけたら、文献は半永久的に尽きません。きりがないので、今日でいちおう、このテーマも終わりにしますけど、掉尾を飾るにふさわしい批判者に登場していただくことにしました。

 東京都品川区にお住まいの57歳の公務員(昭和58年/1983年当時)、松島芳石さんです。国会図書館のデジタルコレクションで検索すると、同名の人がずらずらと検索にひっかりりますが、同一人物かどうかはわかりません。

 新聞には各紙、読者からの投稿を載せるコーナーが用意されています。街で見かけたちょっといいハナシとか、ヒステリックママの社会への提言とか、じいさんばあさんの繰り言とか、そういうものが載って、恰好のひまつぶしの読み物として長年親しまれてきたアレですが、こういうところで直木賞批判をやっちゃう人も、ポツポツと見受けられます。書いてあることは、SNSとか2ちゃんとかでよく見かける直木賞批判の文章と、だいたい似たようなものです。

 けっこうな人生経験を重ねたはずの松島さんも、昭和58年/1983年に、直木賞に対して何か言いたくてしかたない病に襲われたらしく、「まあ。あのひと、いい年して、直木賞の動向なんかを気にしている……、近寄らないようにしなきゃ」と、近所に住む良識人たちから冷たい視線を浴びることを認識したうえで、それでも『読売新聞』に送ってしまった痛恨の一通。これが採用されてしまい、おそらく松島さんは周囲から変人扱いされたことだろうと思いますが、そんな状況にもめげず、幸せな人生を送られたことを、同病の人間としては祈るばかりです。

 さて、松島さんが投稿しようと思ったきっかけは、昭和58年/1983年の直木賞で、新聞ネタになるほどのニュースが巻き起こったことにありました。例の、城山三郎、直木賞の生ぬるい選考会の空気に失望し、委員を辞任する、の件です。

 このニュースにピピンと反応してしまった松島さん。本来なら、それまでの直木賞がどうであったか、などを調べてから意見を言うのがスジでしょうが、そんなもの面倒だと(たぶん)思って、こんな感じで考えを進めてしまいました。

「選考の経過では、城山氏のみならず反対意見や受賞に難色を示した委員が多く、決定までかなり難航したようである。

 ということは、選考委員が一致して推せるような作品が、今回はなかったということになろう。八人の選考委員に異論の多い作品を無理して受賞に結びつけたところに大きな問題がある。」(『読売新聞』昭和58年/1983年8月27日 「気流 直木賞作家を安易に作るな」より)

 ここにある相当な飛躍こそが、この投稿文のキモ(キモい、ではない)だと思います。

 選考委員のあいだで(いくらかの)異論の出た作品を受賞させることが、なぜ「大きな問題」なんでしょうか。ワタクシもよくよく考えてみましたが、どうしても理解できませんでした。

 ただ、直木賞の素顔や実態から目をそらしていいのであれば、別です。たとえば仮に「X賞」という文学賞があるとします。この賞は、明確な授賞基準が決まっています。しかも、見る人によって違いが出るような性質の基準ではなく、論理的、科学的に検証が可能で、そこから外れるような作品が選出されることは絶対にあり得ない。この「X賞」であれば、異論が出た作品を受賞させるのは、(大きいかどうかはともかく)問題視していいかもしれません。……だけど、そんな賞、直木賞以外に目を向けたって、どこにもありません。

 異論も出るし、賛成する人もいる。そのなかで、毎回毎回ぐらぐらと揺れる、それぞれの委員の基準のなかで、授賞したり、落選させたりして決められていくのが、直木賞じゃないですか。そこに「問題」があるというなら、直木賞そのものが生まれたときから問題です。いや、人間が決める、という意味においてすべての文学賞が問題です。もはやそれは問題と呼ぶにはふさわしくなく、文学賞に絶対に備わっている基本的な性質といってもいいし、カッコよく言えば「文化」であるかもしれません。

 しかしまた、なぜ松島さんは、直木賞なんちゅうものの「問題」を指摘しようとするんでしょうか。それは、続く次の文章で明らかにされているのでした。

「このことは、芥川賞とともに権威のある直木賞の価値を著しく低下させることになるであろう。」(同)

 えっ。マジで言っているんですか。

 直木賞には権威がある、という。ええ、それはいいでしょう。だけど、直木賞の権威性は、かつての選考委員たちが一致した見解によって作品を受賞させてきたから、なんかじゃないですよ。異論百出の受賞作が誕生することが、「権威ある直木賞の価値」を低下させるわけありません。なぜ直木賞には権威があると見なされてきたのか。それは、直木賞がどんなことをやらかしても、どんなにバカバカしい話題を振りまいても、かならずそれを「権威ある直木賞」っていう視点から(のみ)見てしまう、松島さんのような方が、昔からたくさんいたせい、なんじゃないですか。

 要するに、直木賞を批判する行為は、ほぼ直木賞のほうに問題があるのではなく、批判する側の、個人の問題なんじゃないですか。

 だって、最後に、このような締めくくり方をしてしまう松島さんに、ワタクシは、どこか偏った、不自然な姿勢を感じないわけにはいきませんもん。感じますよね?

「候補作品の評価が分かれるような場合は、安易に直木賞作家を作らないようにしてほしい。」(同)

 どう考えたって、おかしいでしょ。安易に作られた直木賞受賞作家が、そこかしこにあふれて、何の問題があるんです? というか、われわれが見ている直木賞は、何十年間も、安易に受賞作家をつくりつづけた末の姿なんですよ。別に問題ないじゃないですか。

 もしも、「そんなことをしていたら、直木賞の権威が下がる」とか、「力のない作家が持てはやされるばかりで、不愉快」とか思うのだとしたら、それは「直木賞は、自分を楽しませてくれる作家を生み出す象徴」であってほしい、あるべきだ、みたいな観念に脳内を汚染された病気です。で、松島さんまでも罹ってしまった病気が、いまの日本にもまだまだ蔓延しています。直木賞がいつも楽しいのは、じっさい、そういう病人たちがいるおかげです。ほんとにありがたいかぎりですね。

          ○

 来週からはテーマを変えて、懲りずに直木賞についてのハナシを続けていきたいと思います。ワタクシの直木賞病が完治する日は、まだまだ先みたいです。

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2015年5月24日 (日)

「『オール讀物』に書かなきゃ直木賞はもらえない、という非難は根強い。」…『読切読物倶楽部』昭和28年/1953年新春増刊号[1月]「直木賞のこと」北島真

■今週の文献

『読切読物倶楽部』昭和28年/1953年新春増刊号[1月]

「直木賞のこと」

北島真

 「直木賞に対する批判」をテーマにして、そろそろ1年。いいかげん、別のテーマに変えたいなあと思うんですが、どうしてもこの文献は取り上げておきたいので、ねじ込みました。北島真さんの「直木賞のこと」です。

 北島真、とは何者か。ワタクシは全然知りません。

 しかし、はるか昔の60年以上まえ、石原慎太郎さんが芥川賞を受賞する第34回(昭和30年/1955年下半期)を、まだ迎えていない時代――要は「当時の直木賞・芥川賞は文壇内の出来事でしかなく、一般的に話題になることはなかった」などと、のちにえんえんと言われることになる昭和20年代後半。たぶん「文壇」からは外れた存在と見なされるはずの、一般大衆向けの〈倶楽部雑誌〉の一コラムで、ポロッとこんなことを書いてしまっているスーパー・ライターとして、記憶されるべき人物にちがいない……というのは言いすぎでしょうが、まあお聞きください。

 もう一回くりかえしますが、昭和28年/1953年1月に刊行された、つまりは直木賞では第27回に藤原審爾が受賞、芥川賞は第26回堀田善衛さんに贈られ第27回該当者なし、と決まったあとぐらいに、文学亡者たちの読む文芸誌ではなく、娯楽をもとめる人たちのための読物雑誌に載った文章です。

「既に誰知らぬ者もないことなのだが、芥川賞と同じく直木賞は故菊池寛氏が亡友の名を冠した文学賞の制定によつて、文運の興隆を計り友の名を長く伝えようとしたものである。また芥川賞は純文学を志す無名の新人に、直木賞は相当の労作を発表して来た大衆文学の作家に受賞されるという説がある。

 何れも制定の趣旨をこえて、一箇の社会的事実にすらなつているのだから、これは承認していゝことだろう。」(『読切読物倶楽部』昭和28年/1953年新春増刊号[1月] 北島真「直木賞のこと」より)

 ほんとうに、「すでに誰知らぬ者もなかった」のか。真偽は確かめようもありません。ただ、芥川賞と直木賞のそれぞれの受賞傾向を解説するにあたって、わざわざ「という説がある」と言っています。自分の見聞や感覚にすぎないことを、あたかも事実であるかのように断言しちゃう文壇ライターとは違って、相当に信頼感がもてるところです。そして、あえて「説がある」と言いながら、でも「一箇の社会的事実にすらなっている」から、その説は認めていい、と言っています。

 この「社会的事実」っつうのは、なかなかキワドい表現です。芥川賞(プラス直木賞)が「社会的ニュース」「社会的な話題」として見られるようになったのは、昭和31年/1956年1月の石原慎太郎さんの第34回芥川賞受賞以後だ、という定説があります。ワタクシもニュースとか話題とかは好きなので、どうしてもそこに引きずられてしまうんですが、しかしそれ以前の両賞はどうだったんでしょう。

 北島さんの文章を読むと、やはり「直木賞・芥川賞は一般に知られていなかった」とするのは正しくなさそうです。ニュースや話題とまでは行かないまでも、社会的事実、と言えるほどには一般に流布していたのではないか。そして、パーッと盛り上がったり受賞直後はマスコミに引っ張りダコ、なんて状況がないのにもかかわらず、直木賞と芥川賞が(何となくでも)一般に知られていたのだとしたら、これは文学賞として、すでにかなり異常な存在感です。

 そもそも、読み捨ての最たる媒体、といってもいい倶楽部雑誌が、昭和20年代に、直木賞を中心に据えた「大衆文芸受賞作品選集」なんて増刊号を出していることからして、読者に対して文学賞がどれだけ強いアピール性をもっていたのか、わかろうってもんです。

 ちなみにこの号の内容を紹介しておきますと、受賞作品ではない作品を寄せている作家が3人。井上友一郎「夫と恋人」、田宮虎彦「流転の剣客」、小山いと子「原罪」、あわせて「新春特選三人集」のくくりです。

 そして「特集大衆文芸受賞作品選集」と題されて11作品が掲載されています。

 「女流文学賞」から第4回「鬼火」吉屋信子(……これが「大衆文芸受賞作」のひとつに数えられているのはどうかと思うんですけど)。

 「サンデー毎日賞」(正確には『サンデー毎日』大衆文芸懸賞)から第17回「泣くなルヴィニア」村雨退二郎、第23回「約束」山岡荘八、第32回「ねずみ娘」宇井無愁。

 そして「直木賞」の受賞作から選ばれたのは、第3回「天正女合戦」海音寺潮五郎、第12回「上総風土記」村上元三、第13回「雲南守備兵」木村荘十、第21回「面」富田常雄、第24回「長恨歌」檀一雄、第25回「英語屋さん」源氏鶏太、第27回「罪な女」藤原審爾という布陣です。

 さらにこの特集がエラいのは、吉屋、村雨、山岡、海音寺、木村、富田、檀の7名の「受賞作品の思い出」っていう囲みコラムを載せているところ。木村さんの「雲南守備兵」は、現地取材から成り立ったものなのではなく、アメリカの新聞記者の旅行見聞記を参考にして、雲南地方の世相、実話、風俗を調べ、ありそうなこと、起こりそうなことを想像で書き上げたものだとか。海音寺さんの「天正女合戦」は、『オール讀物』編集長の菅忠雄さんの勧めで書き始めたところ、なかなかの好評を獲得。菅さんからは「受ければ(連載を)延ばす」とも言われていたため、長く書こうかと思っていた矢先、編集長が永井龍男さんに変わり、「三回で書き切ってほしい」(実際は4回で完結)と要求されてしまったので、最後はかなり端折ったかたちになった。そのことから後年、同じ材料で長篇小説「茶道太閤記」を書くことにつながったのだとか。

 もっとこの特集がエラいことには、北島さんの「直木賞のこと」、村田芳郎さんの「サンデー毎日賞のこと」、と題された文学賞解説記事が載っているところだ、っていうのは、もう言わずもがなですね。これら文学賞てんこもりの様子に惹かれて、昭和28年/1953年に生きていた文学賞マニアたちがどどっと書店に押し寄せた……のかどうかは知りませんが、めぐりめぐって、ワタクシの手もとにやってきてくれたのですから、文学賞への興味は時を超えて生きつづけるのだ! とうれしくなるわけです。

 北島さんの記事に戻りますと、これ全篇、直木賞礼讃、と言っていいでしょう。北島さん自身は、直木賞を(それこそ社会的事実に鑑みて)好意的にとらえています。しかし当然、昭和20年代にだって、直木賞にケチをつける人はいたらしく、そのひとつが紹介されているのでした。

「両賞の推進母体は財団法人日本文学振興会であるが、それは文芸春秋社内に置かれてある。このため「オール読物に書かなけりやあ、直木賞は貰えねえじやないか」という文壇人の非難は根強いものがある。」(同)

 まだ一般には、直木賞への批判は社会的なものではなかったのか、「文壇人」による非難が挙げられています。しかも「根強い」のだそうで、たしかに直木賞は『オール讀物』のためにある賞、と見ても間違いではないでしょう。

 さあ、ここで直木賞擁護派の北島さんが、どう迎え撃つか。直木賞に対する批判、そしてその反論が見られることが、このコラムの最大の見せ場です。ガンバレ北島!

「然し、こうした批判とは別に、直木賞が今日の大衆文壇に与えた影響は激甚なものがある。極めて低俗な講談的大衆文学を、どうにかこうにか今日のものに導いて来た功績は直木賞にあるので、それ以外の何処にもありやしない。講談社の無定見さとは対蹠的なものがある。」(同)

 あはは。返す刀で思いっきりの講談社批判ときました。

 でも北島さん。無定見さでは直木賞もヒトのこと言えないんじゃないの。と、つい囁いてみたくなるところではあります。私見では、直木賞が大衆文壇に与えた影響、というよりも、「大衆文壇」なんてものがおぼろげながら形づくられていたのは、ほぼ直木賞があったからでしょう。直木賞がなきゃないで、大衆文壇なるものは消えるなりして、別のものになったでしょうが、それで一般向けの小説が「低俗な講談的大衆文学」ばかりになっていた、とは言えないのではないか。

 他に北島さんがどんなところで、どんな文章を書いていたのか、まったく知りません。大衆文学、大衆文壇、直木賞についてどのように考えていたのか、もっともっと、読んでみたい書き手です。気取ったふうに直木賞にケチつける人はたーくさんいますけど、そういった批判に真正面から反論しようとする人は、なんつっても稀少ですから。

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2015年5月17日 (日)

「近い将来、大衆小説界をリードしていくのは山周賞になるだろう。」…『本の雑誌』平成5年/1993年7月号「山周賞はエライ!」無署名

■今週の文献

『本の雑誌』平成5年/1993年7月号

「真空とびひざ蹴り
山周賞はエライ!」

無署名

 5月の半ばだというのに「このミス」のハナシをしている場合じゃありませんでした。今週は、きちんと(?)季節にマッチした直木賞批判でいきます。

 先週は、例年になく三島由紀夫賞が盛り上がりました。その陰にかくれて、ほとんどの人の目に「三島賞の前座」のように映ってしまった賞があります。創設当時「直木賞のライバルだ!」とのろしが上がったアノ勢いは夢のできごとだったんじゃないかと思うほどに、注目度のうえでは本を売る文学賞・本屋大賞に軽ーく抜かされ、いまでは存在感の薄さが特徴になってしまった、かなしき文学賞こと、山本周五郎賞。

 とかく人間には「直木賞よりも○○のほうが断然いい」と言いたがる習性があります。本屋大賞まわりの賑わいを見ればよくわかりますよね。山周賞も一時期(いや、いまでもですか)、「直木賞より……」っていう、他者との比較ばかりが看板になってしまう、つらい過去がありました。

 その代表的な例が、平成5年/1993年に『本の雑誌』の巻頭コラム「真空とびひざ蹴り」で華々しく打ち上げられた山周賞礼讃&直木賞批判です。無署名ではありますが、書いているのはおそらく目黒考二さんです。

 当時、山周賞は第6回(平成5年/1993年度)が決まった直後。選ばれたのは、ごぞんじ宮部みゆきさんの『火車』で、はじめて「直木賞落選→山周賞受賞」の経路をたどった記念の作品となりました。小説好きは直木賞よりも山周賞に惹かれるのだ! というハナシはよく耳にしますが、そのことを多くの人に印象づける回になった、と言い換えてもいいでしょう。おそらく。

「振り返ってみると、第一回の山田太一から山周賞はそうそうたる作品・作家を選んでいる。なにしろこれまでの受賞作家が、山田太一、吉本ばなな、佐々木譲、船戸与一、宮部みゆき、なのだ。91年度に『今夜、すべてのバーで』が候補作となった中島らもに山周賞をあげていれば、これはもう完璧ではないか。その間、直木賞は十七人の受賞作家を生んでいるが、幾人か惹かれる作家はいるものの、総じて弱い。その後の活躍を比べれば、山周賞のほうが今や信頼できると言ってもいい。」(『本の雑誌』平成5年/1993年7月号「真空とびひざ蹴り 山周賞はエライ!」より)

 信頼、がうんぬんと言っております。

 いかにも、それまでに直木賞のことも「信頼」っつう観点で見てきた人たちがいた、と受け取れるような文章です。しかし、ワタクシは首をかしげてしまうのです。本気で直木賞を信じて崇めていた人などいたんですか?

 言うまでもなく、「直木賞」っていう単語は、世間に流布はしていましたよ。異常なくらいに。だけど、そのほとんどが、表層的な直木賞のことじゃないですか。権威だ何だと攻撃する人。直木賞とっても活躍せずに消えていった人も多い、とかしたり顔で言う人。直木賞受賞者だ、と聞いただけで急にあこがれのまなざしを向ける人。……もちろん、直木賞は、表層あっての存在ですから、表層的に直木賞をとらえることがおかしいわけじゃありませんが、でも、それらは「文学賞に対する信頼」の表われなんすか? ほんとに? いったい、直木賞のどこが、誰に、どういうふうに「信頼」されていたと言うのでしょう。よくわかりません。

 ただ、「とびひざ蹴り」で指摘されている、受賞者のその後の活躍だとか、商業作家としての強さ・弱さの点で、直木賞はいまいちだ、ということは、ワタクシにも納得できます。まったくそのとおりです。山周賞ができて以来に限ったハナシじゃありません。直木賞って、ずっとそんなもんでしたよね。小説を読む行為に「信頼」を求めちゃうような読書家にとって、直木賞の受賞作ラインナップが当てになるわけがありません。

 直木賞は弱い、といったことを、「とびひざ蹴り」はさらに具体的な作家名・作品名を挙げて語ります。このあたりは、さすがは(いかにも)目黒さん、といったチョイスになっています。

「直木賞は船戸与一を候補にしたこともなく、佐々木譲『ベルリン飛行指令』が89年上半期の候補になった例が見られるのみ。つまり候補作がもともと弱い。志水辰夫の『帰りなん、いざ』が90年下半期の候補になっているが、あの作品で候補にされたのでは、志水辰夫も困るだろう。」(同)

 そもそも直木賞って候補作の選択が変だ、と言っています。

 ええ、その変さこそが、直木賞を直木賞たらしめている核の部分だと言ってもいいぐらいです。なので、そこがダメだと言われちゃったら、もう交渉は決裂です。水かけ論です。ハナシは進みません。そうじゃないですか。文句なしの、力感あふれる、作家の力量が存分に発揮された、のちのち代表作と語り継がれるぐらいの小説しか候補に挙がらない、そんな文学賞の何が楽しいのか。ワタクシにはさっぱりわかりません。

 文学賞に対して過大な期待を寄せてしまう、まじめな読者家にとっては、そういう文学賞が理想なんでしょうか。そして、そういう人は直木賞よりも山周賞を好きになる。まあだから、いつまでたっても山周賞は、一部の好事家にしか顧みられない、かなしい地点から一歩も脱け出せないままで、ごにょごにょごにょ……。

 「とびひざ蹴り」に戻ります。つづいて、自分の好きな『火車』を選んだ山周賞をほめ、いっぽうで落とした直木賞を批判する段になりまして、ここでおなじみ(?)、楽しき個人攻撃を繰り出してきます。

「特に渡辺淳一と黒岩重吾の選評を読まれたい。はっきり書くがこの人たちの小説観はもう古いのではないか。直木賞がこういう作家に選考をまかせているかぎり、この賞は読者の実感からどんどん遠のいていくような気がする。」(同)

 そうです、そうです。直木賞は読者の実感から遠いです。まさに。

 だいたい、読者の実感は、読者それぞれが感じればいいことです。そんなものを文学賞が代弁する必要はありません。むしろ、読者の実感とは切り離された、新たな価値観が提示されてこそ、わざわざ何十人・何百人もの社畜……じゃなくて出版社に勤める有能な編集者たちがよってたかって運営するだけの意味があるってもんじゃないですか。遠のいたっていいんです。

 で、こういうハナシになると、「受賞作だから、って理由で手にとる人たちは多いんだぞ。そういう人たちの気に入るような小説を選べない直木賞、クソ」とか言い募る連中がいたりするんですけど、なにを甘えたこと吐かしているんでしょうかね。非があるのは文学賞じゃないでしょ。そんな理由で本を選ぼうとする読者のほうが100%悪いです。

 といって、さすがに『本の雑誌』で読者批判・文学賞擁護、などするわけはなく、当然「とびひざ蹴り」は終始、直木賞を叱り倒しまして、最後の最後、スバラシキ山周賞に関するある予言をもって、締めくくります。はっきりいいまして、大風呂敷です。いまから22年前にここまで言われた山周賞が、その後にどのような旅路を経ていまワタクシたちのまえにあるのか、思いを馳せながら読みますと、哀愁・諦観・憐憫・苦悶……などなど、さまざまな感情がからだじゅうを駆けめぐる仕掛けになっているのでした。

「大衆小説界を山周賞がリードしていくのはそう遠い未来ではない。今回の『火車』事件はそういう時代の変わり目を象徴しているのだ。」(同)

 ……この22年間、大衆小説界を山周賞がリードしたとは、とうてい言えないとワタクシは思います。と同時に、もちろん直木賞がリードしたことだってありませんでした。だって、そりゃそうでしょう。「大衆小説界」なんてフトコロの深い世界、たったひとつの文学賞ごときがリードできるはず、あるわけないです。

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2015年5月10日 (日)

「直木賞の選考委員は、入れ替えるべきだ。」…『このミステリーがすごい!2000年版』平成11年/1999年12月・宝島社刊「狂犬三兄弟がいく!」茶木則雄

■今週の文献

『このミステリーがすごい!2000年版』平成11年/1999年12月・宝島社刊

「実名(+匿名)座談会
狂犬三兄弟がいく!」

茶木則雄(ほかに池上冬樹、関口苑生、T=豊崎由美なども参加)

 季節はこれから暑い夏に向かおうとしていますが、いかがお過ごしでしょうか。今週の話題は、年末の風物詩『このミステリーがすごい!』です。全然、季節と関係ないです。すみません。

 『このミス』の名物企画といえば〈匿名座談会〉ですが、これは2年目の'89年版から始まりました(この年まで'89年版といえば'89年度の作品が対象、翌年からは'91年版が'90年度を対象とするようになり1年ずれる)。最初の記事タイトルは「いろいろあった……'89年大回顧座談会」と、かなりおとなしめ。しかしその後、作品をけなす、作家の発言を嘲笑する、『産経新聞』匿名コラムとケンカする、などなど威勢のいいことをやらかすうちに、〈匿名座談会〉の株は徐々に上がりまして(?)、こういうところで悪ノリするのが宝島社の風土(なのか)、座談会のタイトルも「暴言かましてすみません」だの「覆面4匹 地雷原を行く!」だの「覆面5匹、地雷を人に踏ませる」だのと、アオリの方向に発展していき、'99年度版で「終わっちゃっていいんですか?いいんです!」として、ひとまずの区切りをつけました。

 その翌年からは代わりに「狂犬三兄弟がいく!」のタイトルで、池上冬樹さん、関口苑生さん、茶木則雄さんの3人に、ゲストを加えて座談会が行われます。続いたのは2年間だけでしたが、〈匿名座談会〉は当然のこと、この企画もまた、直木賞ファンにとって忘れられない企画なのでした。

 といいますのも、やはりアレです。やがて直木賞批判者として大々的に知られることになる〈文学賞メッタ斬り!〉の二人、大森望さんと豊崎由美さんがここに関わっているからです。大森さんは〈匿名座談会〉のころに〈O〉として参加経験がありましたが、「狂犬」企画になりますと豊崎さんまでもがゲストとして登場。ミステリーの案内本だっつうのに直木賞に対する批判・非難の声が掲載されまして、直木賞批判天国時代の到来を予感させる企画となった、と言ってもいいでしょう(よくないぞ、たぶん)。

 たとえば、〈匿名座談会〉末期の'97年版で、ゲスト参加した〈O森某さん〉こと、〈O〉こと、大森さん。AさんBさんDさんSさん(=関口苑生)といっしょに、直木賞のダメさ加減の話題でひとしきり盛り上がってみせました。

 どう考えても納得できないのは直木賞。『蒼穹の昴』が受賞しないとは。『火車』が落ちたときにも言ったけど、バカだね。選考委員の、とくに……。

 今回の直木賞は、すでに候補作からしてまちがっている(笑)。宮部みゆきが『人質カノン』、篠田節子が『カノン』、鈴木光司が『仄暗い水の底から』でしょ。作家の名前だけでそろえたとしか思えない……。

 篠田の『カノン』は、まだわかるけど。受賞した乃南アサが『凍える牙』というのも変です。『風紋』とか、ああいった作風が本線の作家だから。

 作者のいいところがいちばん出ているのは、浅田次郎でしょうが。

 該当作なしだったら、まだしもってとこかな。

 『凍える牙』もダメな作品とまで言わないけど、これで直木賞だったら、ミステリー界から、ぞろぞろ取ってていい。

 だから、ぞろぞろ取ってるじゃないですか(笑)。

 直木賞選考委員には文壇の将棋大会で活躍してればいいような人もいるし。」(平成8年/1996年12月・宝島社刊『このミステリーがすごい!'97年版』所収「匿名座談会国内編 絶賛帯はホントに信じていいのか」より)

 がんがん熱くなる批判者の輪のなかにいながら、「だから、ぞろぞろ取ってるじゃないですか」とサラッとツッコんでみせるところなど、もう〈メッタ斬り!〉でよく見る光景ではないですか。ねえ。

 いずれにしても、床屋談義といいますか、飲み屋で交わされる放言、みたいなことの楽しさを、ミステリーファンだけじゃなく直木賞ファンにも味わわせてくれる、大変ありがたい座談会だったものと思います。ワタクシは当時リアルタイムで読んだわけじゃありませんけど、いま読み返すと、ああ、そうだよなあ、かならずしも作家の本流でない作品、ベスト級とも思われない作品を候補作に挙げてみたり、渾身と思われた大作を落としてみたり、直木賞ってシブいよなあ、とますます直木賞が好きになったりします。

 それで3年後に『このミス』の座談会は「リニューアルオープン」して「狂犬三兄弟がいく!」になりました。2000年版、この年のゲストはみなイニシャルなんですが、豊崎さんは〈T(豊崎由美=フリーライター)〉と名前を明らかにして、ミステリーに関するお話に参加しています。

 この当時は、世間では「ミステリーと直木賞の蜜月」と言われていました。となればやはり、直木賞ごときが、年間ミステリー回顧のハナシに登場させられるわけですけど、ここで豊崎さんがどのようにからんでくるかと言いますと、例によって例のごとく、と言いますか、これがなきゃ豊崎由美じゃない!とまで言われる例の観点で、直木賞を批判するのです。

茶木 (引用者中略)今回の直木賞、『永遠の仔』落選の最大の理由は長さにあった。長いこともあって落ちたんじゃなくて、長いから落ちたとしか、選評を読むと思えない。もちろん、ほかにもいろいろあるようですけど。みなさんどうですか?

 選評の中でたしかにうなずけるところもあります。子どもはこんなふうにはしゃべらない、とか。天童さんがこの小説で訴えたいことを子どもに語らせちゃってる部分がちょっと目立つんですよ。(引用者中略)ただ、ここまで長さ長さと言われるというのは……どんな恨みを天童さんは買ってるんだろう(笑)。やっぱり、ひとつには、読んでて長いと疲れちゃうと思うんですよ、お年寄りの選考委員の方たちには。しかも、このなかでも渡辺淳一は自分のコトは棚にあげるよね。たとえば『失楽園』の文章。「ボディトークという言葉を思い出す。いま、ふたりはまさしく身体と身体で語りあった」とか、こんな文章を平気で書く作家が、どうして直木賞の選考委員になってるわけ?」(平成11年/2000年12月・宝島社刊『このミステリーがすごい!2000年版』所収「狂犬三兄弟がいく!」より)

 期待どおり来ましたね。よっ。豊崎屋!

 直木賞選評の華、のひとつだった渡辺淳一さんの、読み手の神経をゆさぶらずにはおかない稚気たっぷりな選評に、豊崎さんががっつり反応するという。おそらく視聴者にアンケートをとったら、直木賞批判史の名場面ベスト10の上位に食い込むんじゃないでしょうか。「渡辺淳一選評を攻撃する豊崎由美」の図。これが『このミス』誌上で展開されていたことに、感涙にむせぶ直木賞ファンはきっと多い……のかどうかは審議の余地ありですが、ワタクシの胸はつい熱くなります。

 豊崎さんの熱に押されたか、いや、茶木則雄さんのことですから、たぶん文句を胸におさめておけなかったようです。自分の勇敢さに酔いしれながら、直木賞に対して批判の声を謳いあげるのでした。

茶木 直木賞の選考委員はね、入れ替えるべきだと声を大にしてこの座談会で言っておきたいね。誰も表立って言わないから。たしかに『永遠の仔』は、欠点のない小説じゃないけど、絶対にこれは認められないような欠点ではないでしょう。ミステリー的には、読みながら「これは甘いな」とチェックが入るところもあったけど、でも、読み終わったらそんなことはもういい。べつに欠点なんか気にならない。圧倒的な読後感を高く評価したいけどな。(引用者後略)(同)

 誰も表立って言わなかったのは、けっして、直木賞の動向程度のことに誰も興味がない、わけではなかったのですね! 半年に一度、文藝春秋の恣意が入りまくった候補作のなかで決められる、文芸の中心にあるわけでもない、一瞬騒ぎが起きるだけのあんな賞、誰が選考委員に就いてたって別にどうでもいいだろ、みたいに誰もが思っていたわけではなかったのですね。うれしいです。

 ただ、茶木さんのような方までもが、わざわざ声を大にして言ってくださっても、そんなことで直木賞は動いたりしない。これもまた、直木賞の魅力です。ミステリーが候補作に入っていなければまず直木賞に関する発言などしないような人たちから、ちょこちょこと文句を言われても、意に介さずに我が道を行く、けなげな直木賞。

 この先、〈メッタ斬り!〉の活躍もあり、ほんとに多くの人が表立って選考委員の入れ替えを言い立てる、まさに直木賞批判の天国時代が訪れます。ご承知のとおりです。そして、ますます直木賞のけなげさが際立つようになりました。直木賞ファンにとって、このうえなく幸せな時代になった、と思わないではいられません。

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2015年5月 3日 (日)

「直木賞をとると、それだけでいきなり名士扱いされて困る。」…『オール讀物』平成16年/2004年9月号「奥田英朗がドクター伊良部を訪ねたら」奥田英朗

■今週の文献

『オール讀物』平成16年/2004年9月号

「受賞記念架空対談
奥田英朗がドクター伊良部を訪ねたら」

奥田英朗

※こちらのエントリーの本文は、大幅に加筆修正したうえで、『ワタクシ、直木賞のオタクです。』(平成28年/2016年2月・バジリコ刊)に収録しました。

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2015年4月26日 (日)

「受賞者がタレントのように持てはやされてきたので、その軌道修正、か。」…『読売新聞』昭和63年/1988年1月16日「軌道修正?した芥川賞 熟年ずらり、水準高かった候補作」(草)

■今週の文献

『読売新聞』昭和63年/1988年1月16日

「軌道修正?した芥川賞
熟年ずらり、水準高かった候補作」

(草)

 直木賞や芥川賞の解説文などには、ひんぱんに使われる言葉があります。たとえば「顔みせ」(=とくに直木賞。受賞には遠いけど、選考委員たちにその候補者の存在を印象づけるために、予選会が初候補として選ぶこと)とか。「文春枠」(=候補選びの際に、他社のものとの比較ではなく、文藝春秋の刊行物が優先的に選ばれることを指す)とか。こういう言葉を使うと、いかにも直木賞・芥川賞にくわしそうに思われて、多少の優越感にひたれるかもしれないんですけど、たいてい周囲からはウンザリした目で見られるので、ご注意ください。

 それから、こんな直木賞・芥川賞用語もあります。「軌道修正」。

 ときどき、マスコミ受けする派手な経歴、容貌、言動などで強烈な光を浴びるような受賞者が誕生します。そういう話題性を快く思わない「〈文学〉病の患者」は全国各地にいますので、そのあたりからワーワー批判の声が上がり、いっそう話題にはずみがつくわけですが、次の回で、話題性の乏しい、昔ながらの地味ーな受賞作が選ばれたりすると、だいたい「軌道修正」といった言葉を使う文壇ライターが出てきます。

 芥川賞のほうで言いますと、第75回に村上龍さんが受賞、第76回は受賞作がなく、第77回に三田誠広さん・池田満寿夫さん、ときまして、みんなの芥川賞愛が炎をあげて最高潮に達します。そのあとに選ばれたのが、第78回の宮本輝さんと高城修三さん。代表的な「軌道修正」として(「軌道修正」っつう言葉がいろんな人に多用された例として)よく知られています。

 まあ、そのときは、いつものように芥川賞偏重の取り上げられ方でしたし、直木賞といえば、そもそも軌道もレールも見当りませんから、特段気にするハナシじゃありません。その直木賞が、「軌道修正」なる言葉を使ってもらえたのが、第98回(昭和62年/1987年・下半期)のときでした。

 何つっても、これまで調子こいて注目の的になってきた芥川賞のほうは、受賞作なしを繰り返す暗黒のトンネルのなか。話題になるような受賞者も出せず、きらびやかさが大嫌いな文学通たちは、いい気味だとほくそ笑んでいました(……たぶん)。

 対して直木賞は、第93回山口洋子さん、第94回林真理子さん(+地味なおじさん森田誠吾さん)、第95回は三期連続女性の皆川博子さん、とんで第97回には、タレントの記者会見かというぐらいに会見場をカメラの山で埋め尽くした山田詠美さん(+地味なおじさん白石一郎さん)ときました。話題になるものを叩きたくてウズウズしている人たちの、攻撃の矛先が、にわかに直木賞に向けられたわけです。

 と、この流れのなかで第98回がやってきます。受賞結果が発表されて、その経過を伝えますのは、読売新聞記者の(草)さんです。ここに及んでも直木賞の話題としてではなく、芥川賞の話題として書いちゃっているのは、もはや失望とともに笑うしかないんですが、こう書き出しました。

「今期の芥川賞は、池沢夏樹氏「スティル・ライフ」と三浦清宏氏「長男の出家」の二作受賞に決まった。このところ女性作家に押されぎみだった同賞だが、男性のダブル受賞は第七十九回以来、ほぼ十年ぶり。芥川・直木賞の候補そのものが全員男性というのもちょっと異例だった。

 もう一つ目立ったのは、候補者の年齢の高さ。芥川賞七人の候補の中に戦後生まれはいなかった。」(『読売新聞』昭和63年/1988年1月16日「軌道修正?した芥川賞 熟年ずらり、水準高かった候補作」より)

 絶対に直木賞中心の記事など書くもんか、という気概のような意志が、強烈に感じられる文章です。おそらく直木賞のほうには、8人の候補者のうち、たったひとりだけ戦後生まれの小杉健治さん(昭和22年/1947年生まれ)が入っていたので、(草)さんに無視されたんでしょう。

 要するに(草)さんは、芥川賞では最近に珍しく、40歳を超えたジジイたちの小説ばかりが候補になった、と言っているわけですが、それなら芥川賞のことだけ言っていればいいのに、都合よく利用されるのが直木賞の存在です。たぶんここで、「芥川賞・直木賞」のハナシに移行しても違和感に気づく読者などいないだろう、と考えたものか、ここ数年間は芥川賞の代わりのようにマスコミに注目されてきた直木賞のことを、さらっと引きずりこんできます。

「このところ芥川・直木賞は、話題性の強い候補によって、ともすればショー的になっていた。それに比べ、いわば実力派中心の今回は地味だった。東京会館での記者会見も、いつもよりテレビライトの数が少なく、受賞者の受け答えも落ち着いて、大人の雰囲気が支配していた。

 現実の社会のなかで、文学はマイナーな存在であっていい。文学者がタレントかなにかのようにもてはやされるのは、文学にとってけして幸福なことではないのである。」(同)

 山田詠美さんを撮りたがったテレビカメラの群れが、今回はいっせいに潮が引くようにいなくなった、というのもよくわかります。阿部牧郎さんは、発表直後の東京會舘の記者会見には出てこなかったようですが、たぶん阿部さんが来ていても、けっきょくジジイ3人が並ぶだけなので、カメラ映えの点では変わりなかったことでしょう。

 ちなみに阿部さんの『それぞれの終楽章』は、それまでの直木賞史上でトップクラス、と言われるほどの、選考委員たちゲキ推しの完成度! な受賞作でしたが、そんなことに飛びつく報道陣など、いるはずもありませんでした。

「選考委員を代表して、山口瞳氏は「今回の候補作品はどれが受賞してもおかしくなかったが、阿部氏の作品は直木賞史上最高ともいえる支持を集めた。作品は氏の戦後史であり、男の友情を描いた青春小説だが、文章が非常に安定していて、さりげない描写に胸を打つ個所がいくつもある。これまでの氏の作品の傾向を方向転換し、それに見事に成功している」と高く評価した。」(『毎日新聞』昭和63年/1988年1月14日「芥川賞に三浦清宏、池沢夏樹の両氏、直木賞に阿部牧郎氏」より 太字下線は引用者によるもの)

 ふたたび(草)さんの文章に戻ります。最後のしめくくりの部分です。自分の意見としてではなく、その場にいた周囲の誰かさんの、思いつきに近い放言を紹介して、第98回の地味な直木賞・芥川賞を解説してみせました。なぜ、それまでテレビカメラも追っかけるような受賞者を出しておきながら、この回、むさくるしい男連中ばかりに授賞したのか、それは――

「この春から、芥川・直木賞に対抗して新潮社が三島由紀夫、山本周五郎賞をスタートさせる。そのインパクトが芥川・直木賞の軌道修正をもたらしたという、うがった見方もあった。」(同)

 これぞどこに出しても恥ずかしくないほどの、カンペキなヨタ! と言いたくなるほどの、まとめかた。山周賞・三島賞の、創設発表のインパクト、なるものを持ち出すところが、さすが、この創設発表を特ダネですっぱ抜いた文学賞脳集団・読売新聞だけはあるなあ、と感心しつつ、でも、マスコミ陣の目を引かない受賞者が選ばれた原因が、山周賞・三島賞の存在にあった……とか、そりゃ考えすぎでしょ。どう見ても。

 だいたい、圧倒的な候補回数を重ねた作家として、白石一郎さんの受賞から阿部牧郎さんへ。中年・老年の書き手によるノスタルジックな自伝的小説として、常盤新平さんの受賞から阿部牧郎さんへ。何だ、全然、軌道修正してないじゃん。

 ……などといっても、芥川賞にしか興味のなさそうな(草)さんには、どうでもいいことに違いありません。とりあえず芥川賞の専売特許の感があった「軌道修正」っつう用語が、直木賞のほうにも押し広げられたんですもんね。ここは素直に喜んでおきたいと思います。

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2015年4月19日 (日)

「上品すぎるもの、たくましさのないものは、直木賞的じゃない。」…『新潮』昭和32年/1957年12月号「今年の文壇――座談会――」臼井吉見、中村光夫

■今週の文献

『新潮』昭和32年/1957年12月号

「今年の文壇――座談会――」

臼井吉見、中村光夫(ほかに河上徹太郎も参加)

 直木賞とはどんな賞か。職業作家を発掘し、あとあとまでカネの稼げる物書きとして育ちそうな作家に与えるもの。というのが、一般にいわれている定説です。

 定説どころか、おそらくそれが正しい解答だと思います。まわりから口を挟みたがる「オレ、文壇のプロ」を自負する人たちだけじゃなく、歴代の選考委員たちだって、昔からずーっとそう証言しつづけているわけですから。

 そうは言いつつ、ときどき、職業作家としてブイブイ書きまくれそうにない人材が、選ばれてしまう回もあります。何度もありました。ふつう、何度もあれば、直木賞の目的とは「職業作家として今後もやっていけそうな人を選ぶこと」だけじゃないんだな、と考えるのが自然だと思うんですけど、「直木賞=職業作家養成」の図式はそうとう強固らしく、不文律の極みのようなこの直木賞観が、いまだに頑固なまでに健在です。不思議なことです。

 周囲の人から見て直木賞にそぐわない作家の受賞。そのひとつが、第37回(昭和32年/1957年・上半期)でした。大衆文壇・大衆文学とは縁遠かった筑摩書房から、ズブの新人作家が書下ろしで出した小説、江崎誠致さんの『ルソンの谷間』が選ばれた回です。

 さあここで黙っちゃいられなかったのが、評論家の肩書きを掲げた〈筑摩のスポークスマン〉こと、臼井吉見さんです。同じ回に芥川賞を受賞した菊村到「硫黄島」とからめながら、直木賞と芥川賞の逆転現象だ、ふうのことをさんざん言い触らしまして、のちに平野謙さんなど、それを真似する追従者たちを生んだことで直木賞&芥川賞交流史に燦然と名を刻むことになったのでした。

 臼井さんは、菊村さんが明らかに中間小説・風俗小説を生み出す気質に富んでいて、芥川賞委員たちもそのことがわかっていながら、結局賞を与えたことに注目します。それを話題にするときに、比較がてらに直木賞を引き合いに出してみせました。

「直木賞のほうが、逆に芥川賞にふさわしいと思われる江崎誠致の「ルソンの谷間」をえらんだことを思い合せると、この事情(引用者注:芥川賞委員が菊村到に授賞するという日本文学の現状)はいよいよはっきりするように思われ、ぼくなど興味津々たるものを覚える。

 直木賞の永井竜男委員は、「ルソンの谷間」の一章々々に「光り」があると言い吉川(引用者注:吉川英治)委員は、人間を失った人間群を描きながら、どの人間にも「あいまいさ」がないと言い、大仏次郎委員は、この作のもたらす「素朴な感動」について語り、小島政二郎委員は、「こんな芸術的気稟をもつ人が大衆小説を書こうとも思えない」として、点を入れなかったと語っている。村上元三委員も小島委員の意見に近いようだ。芥川賞委員は現代小説に「気稟」や「光り」を求めることにあきらめてしまったのであろうか。ぼくは皮肉を言っているのではない。芥川賞委員と直木賞委員の入れ替えなどという冗談をとばすつもりなどさらさらない。これでいいのである。くどいようだが、日本文学のぶつかっている問題は、このことでかえってはっきりするのである。」(『朝日新聞』昭和32年/1957年8月21日「文芸時評」より ―引用典拠は平成20年/2008年10月・ゆまに書房刊『文藝時評大系 昭和篇II 第十二巻 昭和三十二年』)

 直木賞と芥川賞という、対峙・並立しているように見せかけて実は何の関係もない二つの賞の傾向から、日本文学のぶつかっている問題がはっきりする、などと言っちゃう、何とまあキモいおっさん。と感じた読者が、この当時どのくらいいたのか知りませんが(いなかったでしょうね……)、いずれにせよ、自分の頭のなかで「直木賞にふさわしいもの」「芥川賞にふさわしいもの」っつうイメージを抱き、それとズレる(と自分の目に映った)現象に遭遇したときに、ほんとうに自分の抱くイメージが正しいものだったのかを検証せずに「日本文学」なんかを語っちゃう姿勢。キモい部類に入れたいところではあります。

 臼井さんがキモいかどうかはさておいて、この第37回の「逆転現象」には、おなじみのアレがつきまっていることも紹介しておかなきゃなりません。直木賞の背負った悲哀、ってやつです。

 江崎誠致さんは「直木賞よりもむしろ芥川賞向きの資質」だと言われました。じゃあ「芥川賞よりも直木賞向きの資質」と言われた菊村到さんはどう反応したか。臼井さんいわく、こうでした。

「僕は、菊村氏が芥川賞作家にはなつたけれども、そのことをあまり気にかけずに、直木賞作家のような仕事へ進む方がいいのではないか、結局はそこへ進む人だろう、ということを考えて、そういうおせつかいを書いたことがある。そうしたら菊村氏が何かに、直木賞的な作家に見られるのはまことにおもしろくない、と書いていた。」(『新潮』昭和32年/1957年12月号 臼井吉見、河上徹太郎、中村光夫「今年の文壇――座談会――」臼井発言部分より)

 360度どこから見ても、カンペキに直木賞が嫌われています。かわいそうですね。

 正確にいいますと、嫌われている対象は、直木賞そのものではなく、それぞれの頭のなかにある「直木賞的なもの」っつうイメージのほうかもしれません。この座談会では、臼井さんと、芥川賞委員のひとり中村光夫さんとのあいだで、直木賞委員が『ルソンの谷間』を褒めるに当たって使った「光り」や「気稟」について、会話が交わされているんですが、そこに両人のもつ「直木賞的」なるイメージが垣間見えています。

〈臼井〉江崎氏の「ルソンの谷間」を選んだ直木賞の委員たちがどうもこれは直木賞にしては少し……

〈中村〉上品すぎる。

〈臼井〉こういうものを書いた人が直木賞的な作家としてたくましく職業作家になれるかどうか、疑問なんだね。だけれども、永井龍男さんだつたかな、「光り」もあり、気品もありと認められて出てきた。ところが一方の芥川賞の委員たちのなかには、瀧井孝作とか宇野浩二とか、もつぱら光りとか気品というものを目がけて仕事してきた人でしよう。そういう人たちが、(引用者注:菊村到に授賞させたのは)やはりそれだけじや済まないというような気持があつたんじゃないかな。

〈中村〉それはある。

(引用者中略)

〈臼井〉一方の直木賞の委員の人たちは、相変らず作品の「光り」とか気品とかをノスタルジアとして持つているわけだ。そこが僕はおもしろいと思う。」(同)

 上品すぎるものは直木賞的ではない、たくましいのが直木賞的だという。……これってもう、直木賞の不文律とか、直木賞の真の目的とか、そういうのを飛び越えて、完全に「直木賞的」に対するそれぞれが連想するイメージにすぎませんよね。臼井さんなど、直木賞委員たちが「光り」や「気品」を求めるのはノスタルジアを持っているからなぞと言い出す始末で、こやつ、勝手に芥川賞を「先進的」、直木賞を「時代おくれ」の枠におさめて考えようとしてやがるな! と感じるのは、ええ、直木賞オタクのひがみです。

 ともかく臼井さんは「直木賞委員のノスタルジア」説を唱えています。これを中村さんはどう受け止めたかというと、敢然と(?)異論を展開してみせるのでした。

〈中村〉ただ、江崎氏に関する場合は、つまりああいう言葉で婉曲に才能がないということをいつているんじやないかな。

〈臼井〉おそらく、職業作家にはなれそうもない。

〈中村〉それは氏があとで書いたものを見ればわかる。やはり直木賞の方は職業作家養成という建前がはつきりしている。だからそういうふうに婉曲に言つているということも僕はあると思う。」(同)

 婉曲。直木賞は職業作家養成の建前がある、それに反する候補作を推すのだから、あえて持って回って、「光り」「気品」なんちゅう抽象的な褒め言葉を使っている……ということでしょうか?

 ノスタルジアなのか、建前への抵抗なのか。二人の直木賞談義は尽きるところが……なかったら嬉しかったのですが、基本、お二人とも直木賞にはそれほど興味がないようです。ハナシは違うほうへ流れていき、直木賞の話題はこれで終わっています。

 ワタクシはつらつら思うのです。果たして、おおかた下品さを備えた、金かせぎのために濫作多作するたくましさのある、いわゆる「直木賞的」な作家を、そんなに直木賞はたくさん生み出してきたでしょうか。あるいは、直木賞を受賞しなかった人たちで、そういう「直木賞的」な大衆作家もいたじゃないか、と思うとき、なんでそういうダークなイメージに「直木賞」の単語が使われているんでしょうか。

 江崎誠致さんだって、(建前を度外視してまで)授賞されたぐらいの人ですから、立派な直木賞受賞者じゃないですか。それが例外扱いされてしまうとは。やはり何をやっても、ひとりひとりの心に棲む「直木賞的」なイメージを覆すことのできない、直木賞本体の悲哀が、ああやっぱり身にしみます。

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2015年4月12日 (日)

「菊池寛は「直木賞をやめてしまおう、とときどき思う」と言っていた。」…『別冊文藝春秋』49号[昭和30年/1955年12月]「苦と楽の思ひ出」宇野浩二

■今週の文献

『別冊文藝春秋』49号[昭和30年/1955年12月]

「苦と楽の思ひ出
――芥川賞、直木賞詮衡委員としての思ひ出――

宇野浩二

 宇野浩二じいさんが、芥川賞ファンのみならず直木賞ファンからも慕われているのは、何といっても、選評や回想文で見せるアノ異様な記録癖を、直木賞に対しても発揮してくれているからだと思います。

 あ、「じいさん」とか言ってすみません。宇野さんが直木賞の選考委員を兼任でやらされたのは、昭和14年/1939年下半期からの2年間。宇野さん、まだ50歳になるかならないか、ぐらいでした。いまの直木賞の委員のだれよりも若い、ピッチピチのお年ごろ。そのたった2年のことを、他の戦前期の(直木賞専任も含めた)委員に劣らないぐらいの長文で、克明に、熱く語っちゃっている。日ごろ脇におかれることの多い直木賞資料のファンが、宇野さんのことを神認定するのも当然でしょう。

 昭和20年代後半から昭和30年代にかけて、直木賞・芥川賞が世間の話題になった(と言われる)石原慎太郎さんの登場をまたずして、『別冊文藝春秋』がにわかに、選考委員だの関係者だのの、両賞にまつわる回想録をこつこつと掲載しはじめました。「文学の鬼」にして「芥川賞の鬼」こと宇野さんも、この流行に狩り出されまして、「回想の芥川賞」を同誌29号(昭和27年/1952年8月)と30号(同年10月)に発表します。

 それじゃまだまだ足りないっすよ、宇野先生! と文春の編集者が思ったのかどうかは知りませんが、昭和30年/1955年には、

「芥川賞の詮衡委員として苦しいと思つたことと楽しいと思つたことの思ひ出を述べてほしい、といふのが、編輯者の註文である。」(『別冊文藝春秋』49号[昭和30年/1955年12月]宇野浩二「苦と楽の思ひ出――芥川賞、直木賞詮衡委員としての思ひ出――」より)

 という新たな発注を受けて、宇野さん、また新たに第6回(昭和12年/1937年・下半期)に委員に就任してからの各回の思い出を、じっとりと書き下ろすにいたりました。

 書き下ろすことにはなったんですが、資料として記録されていない(裏話のような)ことを記憶を頼りに書くわけですから、これが全部、じっさいに起こった事実かどうかは疑うべきところではあります。宇野さんも、言い訳しています。

「ここで断つておくが、これまで述べた事は、(これから書く事も、)何分十七八年も前の事を殆んど記憶だけで述べるのであるから、マチガヒがところどころにあるかもしれない事を、お断りしておく。」(同)

 たとえば、第6回の直木賞で、井伏鱒二『ジョン萬次郎漂流記』と橘外男「ナリン殿下への回想」が最後まで争った、と紹介しているところ。

 井伏さんのほうが受賞と決まったが「『ナリン殿下への回想』は、落とし兼ねるから、つぎの回で、当選させよう、といふ事になった」というんですが、えっ、そうなんですか。そういえば、「ナリン~」は『文春』2月号に掲載ですから、選考会のときに委員たちが読んでいたかもしれないし、話題にはなったかもしれません。でも、第6回の対象期間から外れているのはわかり切ったことです。それが、どちらを取ろうか最後まで議論されるもんでしょうか、どうでしょうか。

 あと、こういったとっておきの(?)思い出バナシもあります。直木賞委員たちの欠席率があまりに高かったために、芥川賞委員だった宇野さんたちに、直木賞のほうにも参加してほしいとの話があったころのことです。……ただし、こちらも宇野さんが繰り返して、又聞きの又聞きだから間違いかもしれないよ、と機先を制してから紹介しているので、要注意ではあります。

「私たちが直木賞の詮衡まで頼まれた時分の或る日、大佛次郎が、日本文学振興会の誰かに、芥川賞の詮衡委員の人たちは、詮衡をするのに、議論があまりはげしく喧まし過ぎるから、あの何人かの委員の中から、代表者として、「川端さん(引用者注:川端康成)一人にしてくれないか、」と、顔に例の笑ひをうかべながら、申し出たことがあつたさうである。」(同)

 ほんとうの話なら、むちゃくちゃ面白いんですけどね。直木賞の選考会は、芥川賞に比べて、そんなに激しい議論もなく進行されていた、と小島政二郎さんや永井龍男さんも証言していましたが、そこにいきなり熱湯がそそがれるのを懸念した大佛さん。代表者として川端さんひとりを指名したとか。ほんとかよ、と思っちゃいます。ありそうな場面ではありますけど。

 ともかく、こうして芥川賞委員が、直木賞の選考にも参加することになりました……。第10回(昭和14年/1939年・下半期)から第13回(昭和16年/1941年・上半期)。この2年間の試み、けっきょく何だったんでしょうか。2年で立ち消えになったわけですから、はっきり言って失敗だったんでしょう。たしかに、直木賞専任だけでやっていても同じ授賞結果になっていたんじゃないか、としか思えないですもん。せっかく忙しい芥川賞委員に依頼した意味、どこにあったんでしょうか。まったく見いだせません。

 宇野さんもまた、この時期のことを、「苦しみのほうの思い出」として書いている段落のなかで取り上げています。岩下俊作「富島松五郎伝」の、例の「直木賞へのスライド事件」のことです。

「直木賞といへば、第何回であつたか、芥川賞の候補作品のうちの一つになつた、岩下俊作の『富島松太郎伝』を読んだ瀧井孝作が、例の上の前歯が見えるのが愛敬になる笑ひ方をして、『富島松五郎伝』は、なかなか面白いところがあるが、直木賞の方にまはした方が……と云つた。私は、それに同感であつたから、そのやうに計らつたが、『富島松五郎伝』は、瀧井や私の目がくもつてゐたのか、直木賞を授けられなかつた。」(同)

 この一件など、もし成就していれば、戦前の直木賞を紹介するときの、有名な逸話として語り継がれていたはずで、そうなれば多少なりとも、芥川賞委員の参加も意味があった、とか言われるようになったに違いありません(たぶん)。なんでこのとき、「富島松五郎伝」に授賞しなかったのか。悔やまれます。

 さて、現在うちのブログのテーマは「直木賞に対する批判の系譜」です。何か直木賞を批判しているような文章を、紹介したいところなんです。ただ、宇野さんにとって直木賞は、あくまで一時的にお願いされて同席しただけの、他人の集まり。はっきりと、直木賞の何がダメとかは言及していません。思い出バナシ、それから人から耳にしたことの紹介、などに終始しています。

 そのなかで、直木賞批判、というよりも、直木賞の存続にも関わる発言について触れられているので、今日はここを取り上げたかったのでした。

「直木賞のことでふと思ひ出したことがあるから、書いておく。

 ある時、やはり、詮衡会の席で、菊池(引用者注:菊池寛)が、例のやうに、突然、つぎに述べるやうなことを、云つた。

「大佛(引用者注:大佛次郎)君、……僕は、『大衆』で通すつもりだけど、君は、『純文学』の方にずゐぶん色気がある、……」

 かういふ事を云つた菊池が、別の時、独り言のやうに、どういふわけか、私に、「僕は、ときどき、直木賞を止めてしまはう、と思ふことがあるよ、」といふ意味のことを、はつきり、云つた。」(同)

 菊池さん……。ときどき、ってことはけっこう頻繁に、考えていたんですね。直木賞の中止を。

 社会的な話題にまではなっていなかった、とか言われながら、いやいや戦前からちょくちょく、新聞にも雑誌にも取り上げられていた芥川賞。半年に1回ごと、作家志望者も、文壇作家たちも気にして、注目して、議論のタネになっていた芥川賞。それに比べて、選考委員もろくに出席せず、出席する少数の人間にしてからが、お茶でも飲みながら世間話をしにくる感覚で、選考にあたっていた、ぐだぐだな直木賞。いったい、これやっていて、何の意味があるのか。菊池さんが日々、疑い、不安になり、こんなもの止めちまえ、と思っていたとしても、そりゃ不思議はありません。

 仮に、戦前のどこかで直木賞が中止、消滅、雲散霧消していたとしましょう。それによって日本の文学史に何の影響も与えなかったのは確実、と思えるところが悲しくもあり、情けないおハナシなわけですが、しかし、菊池さんの「直木賞なんて止めちゃいたい」の気持ちを思いとどまらせたものは、果たして何だったのか。……文学賞制度には悪評がつきまとっていたうえ、直木賞には意義がある、続けるべきだ!みたいな強い応援の声も、聞いたことがありません(あります?)。ひとえに、こちらは強く存続の意思の感じられる芥川賞、そのついで、といった惰性感がぷんぷんと匂う、昭和10年代の直木賞なのでした。

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2015年4月 5日 (日)

「選考委員の人事だって、けっきょくは話題づくり。」…『サンデー毎日』昭和62年/1987年6月14日号「芥川・直木賞 選考委に初の女流四氏」清水靖子

■今週の文献

『サンデー毎日』昭和62年/1987年6月14日号

「芥川・直木賞 選考委に初の女流四氏」

清水靖子

 ワタクシがはじめて直木賞のことを耳にしたのは、おそらく小学生のときです。当時すでに、「直木賞なんて、もう落ち目」と言われていて、以来この年になるまで、ずっと直木賞は落ち目だと聞きながら育ちました。今日取り上げる文献は、ワタクシが子供だったころの、いまから約30年まえに発表された記事ですが、直木賞なんてもう落ち目、といったことが語られています。当然のように。

 いや。正確にいうと、「凋落傾向にあるのはとくに芥川賞だ」っていう指摘でした。直木賞のほうは、その巻き添えを喰って凋落仲間に加えられているかっこうです。そして凋落だ、凋落だ、いっているそばから、何でこんなことをデカデカと記事にするんだ! と多くの人が思うはずのテーマで、わざわざ直木賞・芥川賞のことが記事にされている。っつう意味でも、これまた空気のように、いつもボクラの身のまわりにあるようなテイストの記事になっているわけです。

 芥川賞の周辺では、昭和50年代から昭和60年代にかけて、とくに盛んに叫ばれていたことがありました。「選考委員に女性を入れるべきだ」という要望です。

 そのさなかの昭和60年/1985年、第94回(昭和60年/1985年下半期)から直木賞の選考委員に陳舜臣、藤沢周平のお二人が加わり、芥川賞には直木賞から水上勉さんが移って、さらに古井由吉、田久保英夫のお二人が就任したときには、こんな文章すら書かれるほどでした。

「芥川賞・直木賞(日本文学振興会主催)の選考委員が大幅に変わり、来年一月の第九十四回選考会から新体制で実施される。

(引用者中略)

近年女性作家の候補作が増えたことから、空席には女性委員をとの声もあったが今回は見送られた。」(『読売新聞』昭和60年/1985年10月8日夕刊「芥川・直木賞 選考委員に新たに四氏」より)

 とにかく「女性を就任させろ」の声が、両賞のまわりで相当高まっていたわけですね。日本では、この二つの賞のことになると、やたらと何か注文をつけずにはいられない人種が、創設したころからずーっと存在してきたんですが、この時代の、彼らの流行のキーワードは「はやく女性選考委員を」でした。

 流行りとなると、マスコミ陣はそこを集中的に突こうとする。これは、いまのネット民たちとあまり変わりません。昭和62年/1987年、第97回(昭和62年/1987年上半期)からようやく直木賞・芥川賞ともに2人ずつ、女性が選考委員に入る、と発表されたときには、

「まあ、女性をなぜ入れないか、と雑誌が特集をしたりして責めたてている感じがあったから、その要請に(引用者注:主催者が)応えたんじゃないの」(『サンデー毎日』昭和62年/1987年6月14日号「芥川・直木賞 選考委に初の女流四氏」より 署名:清水靖子 太字下線は引用者による)

 とコメントされるぐらいに、女性を要望する声はヒートアップしていたわけです。ちなみに、このコメントをしている主は、当時、島田雅彦さんあたりからガーガー噛みつかれ、「僕はもうそろそろ辞めたいんだよね」などと弱気になっていた芥川賞委員、吉行淳之介さん。記事をまとめたのは『サンデー毎日』編集部の清水靖子さんです。

 そして、ここで登場します。してしまうのです。週刊誌ネタのレギュラー回答者としておなじみの(?)「某紙文化部記者」とやらが。ふふん、何やら騒いでるようだけど、ただ単に「主催者が外部からの圧力に屈した」だけが原因だろうなどと思うのは大まちがいだよ、トウシロ君。これまで長らく直木賞・芥川賞をとりまいてきた伝統の見解を忘れたのか、と言わんばかりに、例の視点をねじ込んでくるのでした。

 なぜ、いまになって女性の選考委員を加えたか。そりゃあ、衰退するいっぽうの芥川賞に、少しでも世間の目を引きつけようとする話題づくり、に決まっているじゃないの、と。

「年に二回ずつ受賞作家を量産しているこの芥川賞と直木賞。以前ほど、一般の人々の興味をひかなくなっている。おまけに作家にとっても、かつては、この両賞のどちらかを受賞すれば、その名前で一年は仕事がくると言われたが、いまはそれがひどい場合は半年。特に芥川賞の衰退が指摘されている。

 某紙文化部記者によれば、この芥川賞の下落傾向と今回の“新人事”とは結びつくものがある、としてこう解説する。

「芥川賞は中上健次さん(50年下『岬』で第74回芥川賞)以降、文壇の勢力となるような有力な作家がほとんど育っていないんですよ。むしろ、何回目かの候補になった時、『芥川賞なんていらない』と断ったという噂がある富岡多恵子、津島佑子さんなんかが活躍している。選考委員の候補も手詰まりになってきています。今度の補充で、芥川賞を受賞していない黒井千次さんが選考委員になったのは将来への布石でしょうし、女性を入れたのも、外からの要請に応えたということと同時に、話題づくりもあったんじゃないですか」(同)

 とりあえず芥川賞についてコメントするなら、「話題づくり」の単語さえ持ってくれば、すべてが丸く収まる定番の図式、といいましょうか。受賞作が売れれば話題づくりだと言い、衰退したと見るや話題づくりにばかり身をやつしたからだと解説し、それを取り戻そうとする姿勢もまた話題づくり、ととらえる。ここから20数年たったのち、今度は島田雅彦さんが選考委員になったときにも「芥川賞の話題づくりだ」とさんざん言われたことは、記憶に新しいですよね。

 ……魔法のことば「話題づくり」。この賞がどういう状態であろうと、何をしようと、すべてそれで押し通そうとする人びと。ここまでくると、普通は笑えます。だから芥川賞関連記事っつうのは人気があるし、いつ見ても面白いんだと思わされるゆえんです。

 ただ、面白がってばかりもいられません。この匿名記者のコメントには、つづきがあるのでした。今回の女性選考委員誕生は、残念ながら、みんなの大好きな芥川賞だけの話題ではありません。ってことで、この記者が何と言ったか。書き手の清水靖子さんが、冷酷に伝えてくれています。

「直木賞のほうは男性の候補者もいるが、芥川賞とのバランス上、直木賞にも二人の女性選考委員が誕生した、というのがこの記者の推測である。」(同)

 どうですか。芥川賞の委員人事は熱ーく語ったくせに、直木賞のことになった途端に、この冷め具合。要するに、直木賞は「ついで」の存在だと言っちゃっている。

 ああ、そうですか。直木賞は、直木賞だけの理由で何か変革する、とすら見てもらえないんですか。芥川賞ほど凋落してはいない、芥川賞ほど話題づくりに躍起にはならない。そこにあってもなくても、べつにさほど心を動かされない存在、直木賞。

 でも、この1年ほど前の第95回、皆川博子さんが受賞したときには、「昭和60年代に入って、史上はじめて女性の受賞者が3回連続で選ばれた。直木賞の世界に、たしかに女性が増えはじめている」ぐらいのことを言う人もいたんですから、「芥川賞とのバランス上」なんてお手軽な表現をしなくても、もっと解説できたでしょうに。クヌー、匿名記者め、芥川賞びいきが露骨すぎるぞ、コノヤロ。

 ともかくも、当時、芥川賞大好き文芸ジャーナリストたちが、やたらと固執していた女性選考委員の就任。これで念願がかないました。さあ、こうなれば直木賞・芥川賞に対する外からの評価も、思惑どおり、第97回から徐々に回復していくはずだったのですが、果たしてどうなったのか。……直木賞・芥川賞に注文をつける人は、注文するときは威勢がいいです。でも、だいたい無責任です。今日は、そこに触れるのはやめときます。

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2015年3月29日 (日)

「選考委員に評論家が加わっておらず、作家ばかり。」…『文學界』昭和25年/1950年11月号「文学主権論」大宅壮一

■今週の文献

『文學界』昭和25年/1950年11月号

「文学主権論」

大宅壮一

 大宅壮一さんには、「文壇ギルドの解体期」っつう、非常によく知られた評論があります。

 書かれたのは大正15年+昭和1年/1926年です。それまでの文壇は職人世界そのものであり、〈親方〉になるためにはまず〈徒弟〉を経験しなければならない、仲間入りを果たすには〈親方〉連に認められる必要があり、それ以外から入ってこようとする〈素人〉に対しては排他性が発揮され、侵入できないようになっている。しかし大正15年の状況を見ると(素人の文壇侵入、プロレタリア文芸運動の勃興、純文芸雑誌・出版の不振、文壇内での企業熱の高まり、などなど)、文壇ギルドが解体しつつあるいくつかの兆候が見られた……と言うわけです。

 ここで「もう完全に解体しきった」などと大言壮語してみせなかったところがミソでして、それから24年たった昭和25年/1950年、大宅さんはこう書きました。

「私が「文壇ギルドの解体期」を書いたのは今から二十五年前であるが、今だにその性格は失われていない。そしてその性格が芥川賞の中にもっともよく現われていることは、前にのべたところによって明らかであろう。」(『文學界』昭和25年/1950年11月号 大宅壮一「文学主権論」より ―引用原文は昭和34年/1959年10月・筑摩書房刊『大宅壮一選集9 文学・文壇』)

 「前にのべたところ」というのは、何のことか。段落をさかのぼって引いてみます。

「芥川賞の目的は、有力な新人を文壇に送りこむことである。折紙をつけることである。その折紙も、ジャーナリズム市場がつける前に、作家自身の手によってつけようというのである。

(引用者中略)

芥川賞の選者というのは、現文壇の長老に、もっともイキのいい新人のスター・プレヤーズを加えた一流メンバーである。かつては日本の文壇も、ワールド・シリーズのアメリカン・リーグとナショナル・リーグみたいに、ブルジョア派とプロレタリア派に二分されていたが、今はその区別がなくなったというよりも、後者は前者によって、少くとも市場面においては、完全に打倒された形である。それだけに、前者を代表する人々の市場支配力は非常に強大である。いや絶対的であるともいえよう。この伝統の上に立つ芥川賞が、すべての文学賞の中でもっともポピュラーであり、権威がある。そればかりでなく、実際的な効果をもっていることはいうまでもない。」(同)

 いま、ワタクシたちがリアルタイムで見聞している芥川賞(大宅さんのここには出てきていませんが直木賞も)は、例の、芥川賞を変えたとまで言われる「太陽の季節」騒動以後のものですが、上記の大宅さんの文章は、その5、6年ほど前のものです。それなのに、現状の芥川賞を指摘していると見なしても、あんまり違和感がなくないですか? まったく何十年たっても変らないんだねえ芥川賞、むふふふ、とついニヤけてしまう場面です。

 それで、文壇ギルドだ何だ、みたいなおハナシがつづくのであれば、直木賞の出る幕はありません。いや、そりゃあ大衆文芸の世界にだって、当然、大衆文壇と呼ばれるものがあって、有力な先輩作家から認められないとその仲間入りができない、といった風習はあります。直木賞受賞者が選考委員をつとめ、直木賞受賞者ばかりたくさん選ばれる、柴田ナントカ賞とか中央ナントカ賞とか吉川ナントカ賞とかがあるのは、その典型なんですが、ご存じのとおり、こういう文学賞はまるっきり読者には相手にされていません。大衆文壇(エンタメ文壇と言い換えてもいい)に生息する作家たちの、箔づけオンリーのためにある、はっきり言ってどうでもいい賞です。

 対して芥川賞の系列は、そのギルドに入れるかどうかが、職業として作家生活を送るときの死活問題に関わっています。いちばんでっかい効果をもたらすのは芥川賞ですけど、その他、三島賞、野間文芸賞あたりすら贈られない人は、長く商業文芸誌界隈でお仕事が続けられません。大変な世界だなあと言いますか、正直、自らこういう世界に関わり合いたいと願うのは狂人ぐらいだと思います。

 芥川賞には、文壇ギルド的性格がある、と大宅さんは言いました。しかし、そのことを問題視しているわけではないのです。では、何が問題だというのでしょう。

 作家だけが選考委員になっていることが異常だ、というのです。

「芥川賞の選者はすべて作家であって、批評家は一人も加わっていない。この点も他の文学賞とちがっている。

(引用者中略)

数多くあるこの国の文学賞の中で、選者が作家だけで構成されているのは、芥川賞とその姉妹関係にある、直木賞くらいのものであろう。これはいずれも物故作家を記念するものであるから、その銓衡を作家が担当するのは当然だといってしまえば、それまでであるが、他の文学賞が必ずしもそうでないところをみると、芥川、直木両賞の特殊な性格がうかがわれる。」(同)

 さすが大宅さんだ。単に「直木賞・芥川賞の選考委員には評論家がいない」ぐらいのことなら、いっぱしの口を叩く小学生でも言えちゃうことですが、そこに他の文学賞とちがう特殊性がある、と目をつけるあたりが素晴らしいです。

 たとえば、芥川賞のライバル賞と目されて(昭和25年/1950年の段階では消滅しちゃっていたものを含めた)文学賞の様子をうかがってみますと、新潮社文藝賞(第一部)には杉山平助、「文藝」推薦作品には青野季吉、横光利一賞には小林秀雄、河上徹太郎、戦後文学賞には佐々木基一、花田清輝、小田切秀雄、公募の新潮社文学賞には河盛好蔵などなど……。戦争中に、選考ができそうな人員が不足したため(たぶん)人数合わせのように2年間だけ河上徹太郎さんに参加してもらった芥川賞は、けっきょく戦後復活のときにオール実作家にしちゃったのだから、特殊だと言われても仕方ないでしょう。

 その特殊性はいったい何に起因しているのか、といえば、大宅さんは、この二つの賞をつくろうと発案したのが菊池寛さんであったことが大きいと見ます。菊池さんは自身が、芥川龍之介、直木三十五ふたりの文学的性格にも通じた作家だったわけですが、それだけじゃなく、企業を主宰する経営者でもありました。文学賞の骨格・根底をつくりあげるのは、選者よりもまず、主催者の権限に属します。菊池さんが音頭をとったからこそ、文壇ギルドへの入門を審査する主権を〈文学作品の生産者=作家〉がにぎることになった……と。

 でも、その文学の主権とやらを、ほんとに〈生産者〉だけが代表していいのか、というのが大宅さんの問題意識らしく、では〈消費者〉の立場としてだれが主権者になり得るかを論じていきます。

 消費者といえばまず〈読者〉だけど、おいおい、文学の主権を読者に委ねられるか? 危険すぎるよね。〈出版社〉はどうだろう。これもまた損得勘定で動くだけだから超絶に危険。となれば、ってことで、読者でもあり、出版社の立場も兼ねることができ、作家の味方にもなれる〈批評家〉が、どうしても求められるのだと、大宅さんは言うのでした。

「今の文壇に一番欠けているのは、この種の批評家が存在しないことである。存在していても、現実にそういった役割を果していないから、存在しないと同然である。

今日の文壇には、主権が行方不明でどこにあるのかわからないというものも、実はそこからきているのである。」(同)

 直木賞の立場からすると、もうほとんど対岸の火事というか、よその国のハナシをされているようで、ポカーンと口をあけるしかありません。

 大衆文藝の場合、生産者である作家に対峙する消費者として、〈読者〉が想定されることが自然です。要するに「読者に支持されるやつがいちばんエラい」みたいな風潮が、ずっとありました。いまもあります。そして読者人気はたいていミズ物ですから、作家が死ねば急激にしぼむのが当たり前、そのほとんどがのちの世に残ったりはしません。御大・直木三十五さんの、生前の人気ぶりと没後の忘れられっぷりなど、直木賞をとりまく世界では、ぎゃあぎゃあ騒ぐようなことでもありません。普通のことです。

 直木賞は、選考委員といえば、ひとり残らず作家だけでやってきました。仮に、選考委員に尾崎秀樹さんのような大衆文壇にくいこんだ評論家が加わっていたら。はたまた、一般読者とか、読者の声を代弁してくれる書店員とかが混ざっていたら、どうなるのか。……〈徒弟〉から〈親分〉に格上げさせてもらった選考委員の面々が、「これは文学性がある」と認める賞になるか、それとも、そのうち衰退していくに決まっている〈読者人気〉とやらで一喜一憂、5年後10年後のことなどシリマセン、っつう賞になるか。

 どう転んだって、けっきょくむなしいものでしかない、という。直木賞というのは、つくづく哀しい存在だよなあと、思わず胸にせまるものがあります。……ありますよね? そして、そのむなしさこそが、直木賞の魅力のひとつなんだと、ワタクシは声を大にして言いたいです。

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