カテゴリー「選考委員たちの激闘史」の48件の記事

2014年5月25日 (日)

佐佐木茂索〔選考委員〕VS 『新喜劇』同人〔候補者〕…大衆文芸の場合、一作二作では作家の将来を見抜けない、と言い張る。

直木賞選考委員 佐佐木茂索

●在任期間:通算8年
 第1回(昭和10年/1935年上半期)~第16回(昭和17年/1942年下半期)

●在任回数:16回
- うち出席回数:16回(出席率:100%)

●対象候補者数(延べ):70名
- うち選評言及候補者数(延べ):23名(言及率:33%)

 昨年6月から毎週1人ずつ直木賞選考委員をイジったり、イビったりつづけて48人目。このテーマの最後を飾るのは、全国の直木賞ファンのほぼ全員が、尊敬畏敬してやまない、直木賞史イチの権力者。いまの直木賞をつくった人、でありながら、強烈なキャラクターを有する親分のかげに隠れて、絶対に矢オモテに立たない位置を確保しながら直木賞を操りつづけた真の悪者……いや、真の功績者、佐佐木茂索さんです。

 ワタクシが佐佐木さんのことを好きなのは、ほかでもありません。だいたい直木賞や芥川賞の、文学賞としてのいちばんの特徴は何か、といえば、世間の論調(というか一般的に抱かれるイメージ)と、実態や実際がかけ離れている、っつうことなわけですが、佐佐木さん自身の存在がまさにその代表例だからです。

 この二つの賞について、何かあるたび、まず引き合いに出されるのは、オモテに出て踊り踊らされるピエロ・菊池寛さんばっかりでしょ。直木賞をつくった張本人、佐佐木さんは、いつも脇役というか、そこにいなかった人扱い、の安全地帯。21世紀になってもいまだ頑強に「直木賞・芥川賞=菊池寛」の構図が社会に根を張っていて、その根本を生み出した佐佐木さんの、世評操作能力=出版人としての能力は、何度うちのブログで取り上げても足りないほどのものだと思います。

 たとえば新しめの本で、山本芳明さんに『カネと文学 日本近代文学の経済史』(平成25年/2013年3月・新潮社/新潮選書)っていうのがあります。菊池寛さんが書いた例の有名すぎる言葉――直木賞・芥川賞の発表を一行も取り上げてくれない新聞があった云々、について、「このコメントは事実とやや異なっている」とし、「新聞各紙は大変好意的に芥川賞・直木賞を扱っていたのである。」ととらえた文章もあって、そうだそうだ、とワタクシも膝を打って読んだ本です。

 しかし、山本さんちょっとイタダケないな、と思うひとつは、

「こうして見ると、菊池の怒りには何らかの意図があったと考えるのが妥当だろう。一層の宣伝効果をねらったというわけである。」(同書より)

 と、菊池さんに「意図」があったとしている点です。さらには、この直木賞・芥川賞創設に関する項では、菊池は、菊池は、と(菊池さんが文章を多く残しているので仕方がないとはいえ)、文藝春秋社=直木賞・芥川賞主催者=菊池寛(が中心)、みたいに読めるよう紹介していたりします。佐佐木さんのことも出てきますが、どうしたって脇役の扱いです。これまでの文献とさして変わらずに。

 しかし菊池さんに、何か深い意図などあったのか。単なるその場その場の感想や、思いつきにすぎないんじゃないか。……とは、いずれにしたって想像・解釈するしかないんですが、ワタクシは、こう書く小林和子さんのほうに賛成です。

(引用者注:菊池寛は)社長としては色々と思いつくアイデアマンで、これは佐々木茂索のほうのアイデアとも言われてもいるが、奥さんボーナスなるものや、座談会もそうだったし、しばしば催す小説家や漫画家による文化講演会なるものを事業にしたのも彼のアイデアだった。(引用者中略)

 しかし、思いつきはすぐ実行するのではあったが、それを長く存続させる努力はしなかったので企画倒れになるものも多かった。彼を地道に支えた、佐々木茂索や池島信平らの努力もあったのである。」(小林和子・著『日本の作家100人 人と文学 菊池寛』より)

 まあ、イタダケない、とは言いましたが、山本芳明さんは菊池寛が創設時のときは直木賞・芥川賞にそんなに期待していなかった、と指摘しています。それなのに、これらが事業として発展し、やがて並ぶもののない文学賞となった、っつう事実から、おのずとそのミッションを着実に実行しつづけた佐佐木茂索さんの高い経営能力が知れるので、逆に(?)いいのかもしれません。

 ええ、直木賞(と芥川賞)創設者、としての佐佐木さん。まったく揺るぎない力を見せつけてくれました。誰も否定できやしません。ただ、今回のテーマは「選考委員」としての姿なんですよね、困ったことに。こうなってきますと、佐佐木選考委員のビミョーさ、というか、不思議さ、というか、「直木賞」っぽいマト外れ感、奇妙な立ち位置のことに思いが至らないわけにはいかないのです。

 だって、佐佐木さんが「大衆文芸」の新人賞を選考するんですよ。笑えませんか。大衆文芸を書いたこともないような人が。直木賞というと、そもそも大衆文芸プロパーの評論畑が貧弱ってこともあり、あるいは「実績主義」だから小説ひとつひとつを批評する必要がなく、ガキでもできる、っつうこともあって(か)、芥川賞とは違い、「実作家」ばかり選考委員の席に就いてきました。これはこれで、一応、そうだね、あれだけ自分で売れている小説を書いてきた人が選ぶわけだからね、と思わせることで周囲を納得させるところもあります。それが、カネを出す主催者の代表、とかいう立場をカサに着て、少しばかり文芸のことに詳しかったり経営能力に長けている程度のことで口を挟み、偉そうに選考しちゃうんですよ。

 主催者側が、選考会の行方を左右できる立場にあることが、文学賞にとっていいのか悪いのか。……たかが文学賞なので、べつに結果が主催者の意向どおりになびいてもいいと思うんですが、なにしろ親分がだらしのない人だったので、自分が責任をもって運営せねばなるまい、との責任感から、佐佐木さんは直木賞のほうにも委員 として参加した、……と思いたいです。基本、小島政二郎さん以外、直木賞委員はやる気の薄い人たちばっかりだったようですし。

 佐佐木さん自身はこのように弁明(?)しています。

「最初の銓衡委員もね、これは菊池氏の提案で、故人に縁故のあった者を選ぼうじゃないかというので、選んだわけだね。だから両方に縁故のある者は両方かけもちだった。

(引用者中略)

 直木(引用者注:直木三十五)とはまた、僕は裏表に住んで、彼の離婚の証人になってハンコを捺すというようなところまでやっていて、二人に対してはひじょうなる親愛感をもっていたからね。もしそれほどの友情というものがなかったら、また違ったものだったかもしれない。」(佐佐木茂索、永井龍男「芥川賞の生れるまで」より)

 そりゃそうかもしれません。でもなあ、じっさい、直木賞史を見渡しても、佐佐木さんほど、作家としての実績が乏しい……多くの人に読まれる小説を書いた経験に乏しい人はいませんぜ。芥川賞ではそれもアリかもしれませんが、直木賞でこれが通用してしまうところに、暗中模索のスタート、芥川賞以上に期待されていなかった直木賞(だから、まあ体裁だけ整えて、追い追い考えていきましょ)の姿が如実に現われていると思います。

 そりゃ佐佐木さんだって困りますよね。だから、しょっぱなの第1回(昭和10年/1935年・上半期)の選評で、

「大衆文芸の場合は、一二作で其作家の将来を見抜くという事は、純文学の場合より遥かに困難である。私見を以てすれば、大衆文芸は、「習うよりは慣れ」のアアチザン的何物かが可なり必須のものとして存在するようである。」(『文藝春秋』昭和10年/1935年9月号 佐佐木茂索選評より)

 などと、もっともらしいことを言っているようで、じつは大して説得力のない苦しまぎれの「大衆文芸の選考は実績主義でいこう!」宣言をしてしまった困った人、としていまに名を残すことになってしまったのです。アノ切れ者、佐佐木茂索がこんなことで、みずから名を落とすようなことになってしまい、ほんとうに残念です。

 でも佐佐木さん、直木賞の長い歴史のなかで、(大衆向け)実作家としてのバックボーンなしに、批評的、評論的、もしくは雑誌編集者としての視点でのみ選考にいどんだ唯一の人です。このぐらいのテキトー発言は、許してあげてください。

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2014年5月18日 (日)

林真理子〔選考委員〕VS 森見登美彦〔候補者〕…緻密さを欠いたところから生まれる選評が、みんなからツッコまれて大人気。

直木賞選考委員 林真理子

●在任期間:14年
 第123回(平成12年/2000年上半期)~第150回(平成25年/2013年下半期)在任中

●在任回数:28回
- うち出席回数:28回(出席率:100%)

●対象候補者数(延べ):167名
- うち選評言及候補者数(延べ):167名(言及率:100%)

※こちらのエントリーの本文は、大幅に加筆修正したうえで、『ワタクシ、直木賞のオタクです。』(平成28年/2016年2月・バジリコ刊)に収録しました。

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2014年5月11日 (日)

濱本浩〔選考委員〕VS 大林清〔候補者〕…直木賞を受けるチャンスをことごとく逃し、別の社の賞を受けた者たち。

直木賞選考委員 濱本浩

●在任期間:2年
 第17回(昭和18年/1943年上半期)~第20回(昭和19年/1944年下半期)

●在任回数:4回
- うち出席回数:4回(出席率:100%)

●対象候補者数(延べ):17名
- うち選評言及候補者数(延べ):9名(言及率:53%)

 この人(と吉川英治さんや中野実さん)が、選考委員を引き受けたりしなければ、山本周五郎さんは直木賞を蹴らなかったのじゃないか。とも言われて、いや、言われちゃいないですけど、賞嫌いの連中がみな、ぽわーんと目にハートを飛ばして憧れる、かの山本さんが直木賞を毒づくときに引き合いに出した、クソ選考委員のひとりとして、もはや濱本浩さんの名はおなじみ感があります。そんなところで有名になって、ほんとうにかわいそうな人です。

 人材不足はなはだしい戦中期の大衆文壇界隈。直木賞選考委員になれそうな人材が枯渇し(?)、芥川賞は知らず、だれも注目していない直木賞なんて続ける意味あんの? と多くの人が感じていたでしょう。結果、第17回に委員改選してからの成り行きを見れば、続ける意味なかったね、と総括されてもよさそうなものですが、基本、過ぎ去った直木賞のことは、大半の人にとって興味のないことらしく、当然、戦中のハナシは取り上げられることも少ないわけです。せっかく濱本さん、勢い込んで選考委員にまでなってあげたのに、まじかわいそうな人です。

 勢い込んだかどうかは、知りません。ただ、濱本さんといえば、そもそも直木賞を受けてもよかった人です。川口ナンチャラや鷲尾ドウタラなどという、直木三十五さん本人と縁のある人が取っているぐらいの賞ですから、なおさらです。濱本さんもまた、直木さんとは懇意な仲でした。

「私(引用者注:萱原宏一)が浜本さんを知ったのは、直木三十五の紹介によってである。文芸春秋に「あるエキストラの死」という小説が載り、その後であったと思う。然るべき席を設けて、直木さんが引合わしたのだ。その意味は大衆文芸に進出の遺志のあった浜本さんに、助力してほしいということで無論あったわけだ。

 浜本さんは「改造」の記者を長く勤めていたので、文壇進出が遅れていたが、年は三上於菟吉、宇野浩二、広津和郎などと同年で、直木さんよりは一歳の年長であった。だから、四十過ぎての出陣というわけで、その意味では、悩みを乗り越えた末の決意であった。」(萱原宏一・著『私の大衆文壇史』「浜本浩と酒吟味」より)

 ところが、第1回、第2回と、直木と顔なじみの人が賞を受けたため、直木賞=縁故主義の旧弊なシロモノ、との印象がつくられてしまい、さすがにもう、直木自身から離れて選考しなきゃまずいだろ、と思われたものか、濱本さんは、いつまで経っても、「いまさらこの人にあげることもない」と言われ続けてしまったのでした。

 川口さんが異様に直木賞を欲しがったのと同様、濱本さんも、やはり自分の作家人生のスタートに直木さんの手を借りた、っつうことがあったためか、直木賞を欲しがっていたそうです。第3回受賞の海音寺潮五郎さんも『別冊文藝春秋』に寄せた「のんびりした時代」のなかで、濱本さんが直木賞をほしがっていて、しかも作家としても自分より先輩だから、もう一回選考会のほうで考え直してほしい、と言っていったん断ったことを明かしています。

 濱本さんといえば、改造っ子、でありながらも、文藝春秋・オール讀物にひんぱんに寄稿する「文春っ子」であることは衆目の一致するところ。その意味でも、内輪に授賞させて周囲が白けきっているのを尻目にひとりで盛り上がる、直木賞お得意の展開にうってつけの人でした。

 『オール讀物』昭和8年/1933年4月号「十二階下の不良少年」は、

「永井龍男は「沈滞せる大衆文壇に清新の気を吹き込むに足る大雄篇」と絶賛、浩にとって大きな自信の作となった。」(平成7年/1995年7月・高知新聞社刊『高知県昭和期小説名作集4 濱本浩』所収 高橋正「解題」より)

 とのことです。永井さんがどこで、どの場面で、そう言っていたかはわかりません。永井さんが、というより、『オール讀物』編集長が、っつう匂いもあって、だとすると、8割がた宣伝の大風呂敷なのじゃないかと思いますが、いずれにせよ『オール讀物』のお気に入り=直木賞ライン、というのはたしかでしたでしょう。

 しかし、代表作とも目される「浅草の灯」ですら、直木賞選考会では拒否られ、新潮社文芸賞などという、あまたある新潮社の失敗した文学賞のひとつを授けられて、逆に、ビミョーな立ち位置の作家に。

「時局が戦時体制に入ってののちは、(引用者注:田中)貢太郎や田岡典夫とともに、大衆小説の側から一種の土佐ブームをあふりたて、貢太郎なきのちしばらく、土佐を代表する作家の第一人者と目されていた。このころの文学者の多くが戦争に協力的であったのに浩も例外ではなく、揚子江方面従軍(昭和一三年)にひきつづいて、昭和十七年には海軍報道班員として長駆、ラバウル方面に遠征している。」(昭和37年/1962年8月・高知新聞社刊『土佐近代文学者列伝』所収 木戸昭平「浜本浩」より)

 と、文春一派の名に恥じず、戦争への協力に励み、その貢献もあって直木賞選考委員の話も舞い込んだ。……のかどうかはわかりませんが、でも明らかに戦争下で目立った働きをみせる人材のひとりではありました。同じく選考委員にさせられた獅子文六さん、中野実さんと同様に。

 というところで、濱本さんが選考委員として激突した候補者、のことに移りたいんですが、中野さんのエントリーでも書いたように、たった4度の選考、しかも選評も少ない。いいお相手が見つかりません。戦時下の選考委員、といったことで言えば、永井龍男さんが『回想の芥川・直木賞』で触れているように、あるいは、それを引用しつつ川崎賢子さんが『蘭の季節――日本文学の二〇世紀』(平成5年/1993年10月・深夜叢書社刊)で注目しているように、久生十蘭候補、でもいいのかもしれません。

(引用者注:久生十蘭が)一九四二年から四三年にかけ、三度、直木賞候補にあげられた際、選考委員の浜本浩は〈技術的には、他の候補作の何れよりも優れてゐると思つたが、今日の直木賞としては何となく物足りない〉と発言、永井龍男はこの選評を〈時局的な意義を持たぬ作品ということ〉(『回想の芥川・直木賞』)といいかえている。十蘭的表現の芸を、〈今日〉性・〈時局〉性から孤立した〈技術〉、とかたづけて、十蘭的表現の方法とその歴史性とを切りはなした読みは、いまだに多い。(引用者中略)〈技術的には優れているが〉といったたぐいの評は、戦後も、そして現在も、ながく十蘭につきまとっているが、その〈優れているが〉という留保に透けてみえるのは、表現技術いっぱんにたいする軽視だ。書くことの技術を軽視することは読むことの技術を軽視することでもある。」(『蘭の季節』所収「いくたびも、十蘭的場所をもとめて」より)

 直木賞(の選考委員)に、読むことの技術なんて、期待したり希望をもったりしては身がもちませんね。「時局」を意識しない言説を吐いた途端、明日にも仕事を失うかもしれない情勢のなかで、大衆文芸の賞を選考する、などというのが、いかに困難で、四方壁だらけなことか。その業務に果敢に取り組む濱本さんたちの、その勇気と尽力を、ただただ、尊いものと思います。

 で、永井さんですが、この回の久生さんを、岩下俊作さんとともに「運に恵まれない作家」としながら、久生さんは戦後、直木賞を受ける機会を得ました。いっぽう岩下さんについては、白井喬二さんの項で取り上げてしまいました。

 ええい、となれば、彼らと並ぶほどの「運に恵まれない作家」のもうひとりに、ここで触れないわけにはいかないじゃないですか。直木賞候補2度、予選候補に含まれた回はプラス2度。新潮社文芸賞でも一度候補になりながら、どれも受賞することができなかった戦前・戦中期大衆文壇の期待の星、大林清さんです。

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2014年5月 4日 (日)

阿川弘之〔選考委員〕VS 深田祐介〔候補者〕…賞で結ばれた二人、20数年後またも賞にて相まみえる。

直木賞選考委員 阿川弘之

●在任期間:通算3年
 第83回(昭和55年/1980年上半期)~第88回(昭和57年/1982年下半期)

●在任回数:6回
- うち出席回数:6回(出席率:100%)

●対象候補者数(延べ):44名
- うち選評言及候補者数(延べ):18名(言及率:41%)

 いったい、どうしてこの人が直木賞の選考会などに駆り出されたのか。直木賞七不思議のひとつ、として時どき囁かれてはいるものの、ネタが小ぶりすぎて誰も公然と語りたがらない、阿川の父さん、意味不明なたった3年間のお勤めでした。

 この意味不明さこそが直木賞の身上だ! と言っちゃいたいところではありますが、基本文学賞などどうでもいい、と無関心を装う阿川さん。世の中、文学賞=文壇人事となると、関係もないのに何だかんだと騒ぎ立てようとするワタクシのような人種は、昔からたくさんいたでしょうから、おそらく煩わしいだけだったでしょう。阿川さん自身も、文学賞のからむ話を「甚だうつたうしい」と形容していたりします。

 と、その形容が出てくる、開高健さんの追悼文「早すぎた終焉」に、阿川さんの文学賞観が出てきます。問題となったのは昭和62年/1987年の日本文学大賞。このとき阿川さんは、自分では「文芸」のつもりで書いた『井上成美』が、なぜだか学芸部門を受け、文芸部門は開高さんの『耳の物語』に贈られました。開高さんは自身、文芸部門の選考委員として名を連ねています。ずっと文士としての友人だと思ってきたけど、何だよ開高、賞に執着して醜いな、と阿川さん、憤慨し、ほぼ絶交しました。

 以下、病床の開高さんから届いた、そのときの言い訳めいた手紙に、こう返信を書いた、と語る場面です。

「もし僕が選考委員だとしたら、先づ自分のものを候補作のリストから除いて貰ふやうに頼んだだらう。信じてくれるかどうか分らないが、僕は志賀直哉に師事して、志賀先生といふ人が生涯文学賞と無縁の人だつたせゐもあつて、文学賞にそれほど執着が無い。少くとも、なりふり構はずといふ風にはなれない。どちらかと言へば文壇嫌ひだし、文学賞が欲しくて身も世もあらぬといふ感じはいやなのだ。だから選考委員自ら受賞の醜態が起らぬやうに、ちやんと手を打つて、その上で、友人の作品が他の候補作と較べてさほど遜色無いと思へば、何とかやはり、友達に賞が行くやう努力しただらう。」(平成19年/2007年1月・新潮社刊『阿川弘之全集 第十八巻』所収「早すぎた終焉」より ―初出『新潮』平成2年/1990年2月号)

 文学賞完全否定、ではありません。ただ、自分でよだれダラダラ流してその世界に居座ろうとするのは、みっともない、ちゅうぐらいのスタンスです。

 何より面白いのが、「友達に賞が行くやう努力しただらう」のところですよね。

 だいたい文芸作品をモノサシで計れるわけはなく、言えるのは「他の候補作と較べてさほど遜色」があるかないか、程度のこと。そこで「いや、おれは人間関係など超越して、作品の出来のみをもって評価をくだすことできる有能な評論家でもあるのだ!」などと、カッコつけたりせず、そういうときは友達に賞が行くよう努力するもんでしょ、と言っちゃうところが、阿川さんの可愛さであり、またカッコよさでもあります。

 いいじゃん、情実選考。それの、何が悪いの? 情に流されるなど言語道断、賞は作品本位で選ばれるべき、などとほざいて悦に入っているほうが、よっぽどカッコ悪いです。たかが文学賞のことで、何、カッコつけているのさ、っつう感じで。

 阿川さんの直木賞選考委員生活は、たった3年で終わりました。そのたった3年。さして大衆文壇・中間小説界隈に顔が広かったわけでもない(んでしょう)阿川さんの目前に、知り合いも知り合い、よく知る作家が候補として挙げられてしまうのですから、縁も縁です。

 遠く20数年前、自分が文學界新人賞の選考委員だったときに、けっこう推して当選にこぎつけた新人。深田祐介さんです。

 第7回新人賞の決定発表は、『文學界』昭和33年/1958年10月号に載りました。ここに、おそらく深田さんが文春を訪れたときに撮られた写真が掲げてあるんですが、選考委員、阿川弘之さんとの2ショット! ここから始まって昭和57年/1982年上半期の第87回直木賞へとつながる、という。……運命のめぐり合わせ、とも表現したくなります(おおげさ)。

 選考経過いわく

「残った三篇(引用者注:千早耿一郎「銅像の町」、山下宏「王国とその抒情」、深田祐介「あざやかなひとびと」)について激論が交わされたが「銅像の町」を野間(引用者注:野間宏)委員が、「王国」を福田(引用者注:福田恆存)委員が、それぞれ強く推されたほかは、阿川、椎名(引用者注:椎名麟三)、臼井(引用者注:臼井吉見)三委員とも深田氏作を推薦し、結局、「あざやかなひとびと」が当選と決定した。」(『文學界』昭和33年/1958年10月号より)

 っつうことでした。そんなわけで、推していたという阿川さんの評が、これです。

「深田祐介氏の「あざやかなひとびと」は、外国の航空会社の羽田の事務所へ新しく採用された二人の日本人の青年を中心に、角田という二世や、おゆりというしたたか者のスチュワーデスや、様々の人物が此の近代的な職場で繰りひろげる人世絵模様で、通俗臭はあるが、新鮮で活き活きしているところが、私には大きな魅力であった。中々ユーモアもある。角田という二世は、特によく書けていた。」(同号「新鮮な魅力」より)

 このとき阿川さん38歳、深田さん27歳。初のご対面となりました。

深田 当時の文藝春秋の社屋が銀座の旧電通通り、日航ホテルの前にあったんですね。受賞の知らせがあって、そこの文學界編集部に来るように、と担当のYさんに呼ばれた。編集長のあいさつがあって、そのあとYさんから「選考委員を代表して、阿川さんからいろいろ注文があります」というので、別室に行って、初めてお目にかかった。

阿川 いや、いや、どうも汗顔のいたり。大変失礼いたしましたようで……(笑)。

深田 そこで雑誌のゲラを渡されて、誤字、脱字、表現の、たとえば「エンプロイ」(Employee=従業員)は、「エンプロイイ」と一字足さなければならない、とか。

阿川 そんなこといったかね、ろくに英語もできない人間が(笑)。

(引用者中略)

深田 第一回の文學界新人賞は石原慎太郎氏の「太陽の季節」ですけど、阿川さんは選考委員でしたか。

阿川 いや、ちがう。ぼくは、あなたからだけど、あまり他の人の記憶がないんだよ。わたしが推薦した深田祐介だけ、とにかく功なり名遂げて立派な文章書かれる大流行作家におなりになって、わたしら嬉しいですよ。

深田 よくおっしゃるよ、もう。返す言葉がないですよ。」(平成17年/2005年12月・新潮社刊『阿川弘之全集 第五巻』所収「[対談]昭和史と私」より ―初出『別冊文藝春秋』183号[昭和63年/1988年4月])

 阿川さんが選考委員だったのは「深田さんのときから」ではなく、第5回から第8回までの4回分。最後第8回の佳作は、三好徹さん(当時の筆名は三好漠)でしたけど、もちろん、そういう野暮なことは言わず、阿川さんのオトボケ(のふり)全開、って感じです。

 このあと、深田さんはいっとき小説の執筆に挫折感を味わい、日航のほうでバリバリ(?)働きます。あいだ、阿川さんとは縁が切れなかったようで、復帰作といってもいい『新西洋事情』出版の折りには、文壇パーティーぎらいを自称する阿川さんも出かけていった、っつうエピソードが、『新西洋事情』新潮文庫の解説に書かれています。

「日本航空の同僚上役と文壇関係の知友とが集まつて、小さな出版記念会が開かれた。だが、依然大して世間の評判にはならなかつた。出版記念会の帰り、私は車の中で、「面白いんだがなあ。再版にならないかねえ」、「どうも、再版の話なんか一向無いやうでして」と、著者と話し合つたのを覚えてゐる。それが、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した途端、再版どころか、突如爆発的な売れ行きを見せ始めた。」(平成18年/2006年12月・新潮社刊『阿川弘之全集 第十七巻』所収「深田祐介著「新西洋事情」」より ―初出 昭和52年/1977年7月・新潮社/新潮文庫『新西洋事情』)

 この解説では、「あざやかなひとびと」を受けてから、『新西洋事情』で再登場するまでの深田さんのことが、簡潔にまとめられています。阿川さんは、そのなかに「深田祐介には、沈黙の時期もふくめて二十数年間、文章で苦労した下地が」あるととらえ、こう期待を寄せました。

「『新西洋事情』以後深田祐介の書くものを注意して見てゐると、これはこれで、一つの新しい文学的ジャンルを切り拓いたのではないかといふ気がする。

 小説らしい小説だけを文学と見なさなくてはならぬ理由は無い。しかしまた、この手の素材と手法とにだけ著者がとどまつてゐなくてはならぬ理由も無い。深田祐介には、プラスに転化出来るマイナス・エネルギーが、未だ未だ残つてゐるはずである。」(同)

 この文庫解説が、昭和52年/1977年7月のもの。まだこのとき、阿川さんがゆくゆく直木賞の選考委員になろうとは、誰も予想していなかったでしょう。そもそも深田さんにしても、第40回(昭和33年/1958年下半期)に直木賞候補になって以来、直木賞とはとくに関係のない時期でした。

 翌年の昭和53年/1978年7月。『日本悪妻に乾杯』が第79回の候補に挙がってから、怒濤のごとき深田さんの、直木賞候補ラッシュが始まります。

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2014年4月27日 (日)

平岩弓枝〔選考委員〕VS 宇江佐真理〔候補者〕…忠告・注意をする先輩と、まったく気にしない能天気な後輩。

直木賞選考委員 平岩弓枝

●在任期間:通算23年
 第97回(昭和62年/1987年上半期)~第142回(平成21年/2009年下半期)

●在任回数:46回
- うち出席回数:46回(出席率:100%)

●対象候補者数(延べ):277名
- うち選評言及候補者数(延べ):244名(言及率:88%)

 いまはもう、読めなくなってしまった平岩弓枝さんの新作直木賞選評。まだ平岩さんがブイブイ言わせていた頃(なんてあったのかな)、直木賞ファンなら誰もが、楽しみにしていたはずです。今度の選評では平岩さんの得意技「80パーセント理論」が、出るのかな、出ないのかな、と。

 あまりに有名になりすぎて、ワタクシは平岩さんの名を聞くとすぐ、「80パーセント理論」をイメージするようになってしまいました。ただ、そうでない方もいるでしょう。今日はひとつ、これだけ覚えて帰ってください。平岩さんはこれを言うためだけに直木賞選考委員になった、とも言われる(ワタクシが言っているだけです)、80パーセント理論。

 これが平岩さんの代名詞になる予兆は、選考委員になって2期目、第98回(昭和62年/1987年下半期)にすでに現われていました。

(引用者注:堀和久の)「大久保長安」、今回の候補作の中では唯一の時代小説でした。大久保長安という、とかく悪役にまわされがちだった人物を取り上げたのはいいと思いますし、大作であり労作だと思うのですが、はっきりいって資料の中から人間が起き上って来ないという印象を受けました。資料は多いほどよいが、いざ書く時には、その中のどれだけを捨てられるかが勝負だと、かつて、大先輩から教えられたことがあります。」(『オール讀物』昭和63年/1988年4月号 平岩弓枝「さわやかな受賞」より)

 資料を捨てる、っつうおハナシです。そこから約5年ほど経ち、平岩さんも次第に選考会になじんできたとき、歴史作家、中村彰彦さんの登場によって、このエピソードがついに花開きました。

「「五左衛門坂の敵討」 江戸時代の敵討というものの定義やその実態を把握した上で、この幕末の事件を書くと作家の史観がはっきりわかってテーマを読者に伝えやすい。資料は百パーセント集めて、噛み砕いたら八十パーセントを捨てると良い作品が誕生すると、これは私が師父から教えられたこと。なかなか難しいが。」(『オール讀物』平成4年/1992年9月号 平岩弓枝「足りないもの」より)

 これが世に言う、直木賞史上に燦然とかがやく「80パーセント理論」がお目見えした場面です。

 ここからは、この理論をどの作家、どの作品に対して、どういうふうに切り出すか。平岩さんの選評芸を、しばしお楽しみください。

 まずは現代物の宮部みゆきさんに対して繰り出して、この理論の幅広さを印象づけます。

(引用者注:宮部みゆきの)「火車」は大変、面白かった。才能のあり余るほどの作者が、才能だけでなく仕事を仕上げるというのは、宮部さんにとって一つの方向が出来たというよりも、また一つのひき出しがふえたことであろう。一つだけ、これは私自身、若い日に恩師から教えられたことだが、資料や調査は百パーセントやり抜くこと、ただ、作品にとりかかる時はその八十パーセントは思いきりよく捨てる、それも自分の内部に完全に消化させて捨てるのが、作品を成功させる秘訣だという真実である。」(『オール讀物』平成5年/1993年3月号 平岩弓枝「心に残った「風の渡る町」」より)

 それから松井今朝子さん。彼女の登場が、久しぶりに平岩さんの「80パーセント理論」熱を掘り起こしました。

「かつて私の恩師である長谷川伸先生は、小説を書く上での心得として、調べるのは百パーセント、書く時はその八十パーセントを捨ててかかるように。また、自分の得意の分野、専門的な知識を十二分に持っている世界を書く時にはその九十パーセントを捨てないと良い作品は出来ないといわれた。実をいうと私も長いこと、その点で苦い思いを重ねているけれども、捨てるというのはまことに難かしい。まして自分の知り得たことの過半数を捨てるのは書くのを止めろといわれたような気がするものである。(引用者中略)

暫く、御自分の専門分野に関してはひき出しにしまい込んで、全く知らない世界を一から調べながら書くことを提案したい。」(『オール讀物』平成15年/2003年3月号 平岩弓枝「いま一つの何か」より)

 一回、岩井三四二さんを挟みます。ここでは数字を出さず、お、平岩さんどうしたんだ!? と読者に気をもたせるあたり、選評ファンのツボを心得ていますね。

「岩井三四二さんの「十楽の夢」。資料を柱にして物語を構成するのは悪くはないが、小説の書きはじめになまの資料を長々と書き続けるのは全体のつくりからいって如何なものか。充分な資料を読み込み、それを一度、ふり落してから作品に取り組むのも一つの方法かと思う。」(『オール讀物』平成17年/2005年3月号 平岩弓枝「「対岸の彼女」を推す」より)

 お次の餌食は、森絵都さん。

「森絵都さんの「風に舞いあがるビニールシート」は、作品を書く上で基礎となる取材や資料による下調べをきちんとしている点に好感がもてる。作家として仕事を重ねて行く上で森さんが身につけたこの習慣はかけがえのない武器にもお守りにもなると思う。願わくば調べて知ったものを半分以上、捨ててから作品に取り組むこと。八十パーセント捨てて書けたら大成功と私は教えられました。なかなか出来ませんが。」(『オール讀物』平成18年/2006年9月号 平岩弓枝「三浦しをんさんを推す」より)

 そして第137回で、三たび松井今朝子さんが『吉原手引草』をひっさげて候補に挙がってくるわけですが、こうなりますと、平岩さん、この理論を言いたくて言いたくて仕方ない欲望の、押さえがきくはずもありません。

「時代小説の書き手にとって厄介なのは、背景にする時代について多くのことを調べねばならないが、調べたことが作品の前面に出ると衒学的に見えたり、読者にわずらわしく感じさせる嫌いがある。といって或る程度は書かねば、その時代が明らかにならないので、その兼ね合いが難かしい。若い時分によくいわれたのは、百パーセント調べて八十パーセント捨てて書けというものだが、これが出来たら達人であろう。」(『オール讀物』平成21年/2007年9月号 平岩弓枝「成功した「吉原手引草」より)

 平成21年/2009年下半期にて、直木賞選考委員からしりぞいた後も、この欲望は常に平岩さんのからだに取り憑いているようです。ついこないだの、直木賞委員回顧鼎談でも、しっかりと披露されていました。いいぞ、平岩さん。それでこそ、80パーセント理論の鬼、とまで呼ばれるにふさわしい。

五木(引用者注:五木寛之) ああいう、名伯楽という人、いるもんですね。

平岩 私の場合は長谷川先生ですね。何しろ私の財産はそれしかないんですけど。とにかく一〇〇パーセント調べろとおっしゃるんですよ、たとえば時代ものを書くときに。それで書く時はね、八〇パーセントを捨てろとおっしゃるんですよ。

五木 あ、使うんじゃなくて捨てるほうが八〇。いや、もったいない。

平岩 捨てるんです。それでさらに、九〇パーセント捨てたらなおいいとおっしゃる。だけど、一〇パーセントだって捨てられませんよ。一生懸命調べたんですもん。しがみつくでしょ、やっぱり。捨てられるようになるまでどのくらいの歳月がかかったか。まだ全部捨てられないですもの。(引用者中略)でも、それがもう頭にこびりついてますね。今でもそうなんですけど、捨てたつもりでいても残しますしね。でも、捨てられなかった作品ってやっぱりどっかいけませんね。といって、やっぱり捨てられない。」(『オール讀物』平成26年/2014年2月号 津本陽、平岩弓枝、五木寛之「直木賞と歩んできた」より ―構成:関根徹)

 いずれ、いずれのときには、平岩さんのお墓には、「100パーセント調べて80パーセント捨てる」という言葉が刻まれる予定、とも聞きました。ぜひ実現させてほしいと思います。

 もう今日は、これで十分。平岩さんの直木賞選考委員人生のほぼすべてを語ったようなものですから(って、オイ)、終わりにしちゃいたいです。でも、これまで他の委員の「激闘」を取り上げてきて、激闘多き女・平岩さんだけ、なし、というのも恰好がつきません。80パーセント捨てろ、どころかそもそも100パーセント調べるその前段階のところでミソをつけた、平成の落選王こと、宇江佐真理さんにご登場願いたいと思います。

 直木賞は、時代小説が候補になる割合が高く、そしてそのほとんどが落選する賞。……とはウィキペディアには書いてありませんが、でもじっさい、そのとおりでして、平成の落選王の座を二分する宇江佐さんと東郷隆さん、ともに時代・歴史小説の書き手。6度候補になり、結果、賞は贈られませんでした。

 江戸人情物の女性作家、というと、宇江佐さんはまさに平岩さんの後継にある、とやはり思います。はじめ平岩さんは、直木賞を受賞した「鏨師」をはじめ、現代小説を多く書いていたんですが、昭和48年/1973年から『小説サンデー毎日』に「御宿かわせみ」シリーズを書き、ここら辺りからグッと時代小説中心の作家と目されるようになっていきました。

「昭和の時代小説は、作家も読者も男性が主流だった。だが、『御宿かわせみ』の人気は、江戸の庶民の人情をテーマにした女性作家の時代小説の地平を切り開き、一九九〇年代には宇江佐真理、諸田玲子、松井今朝子の各氏が登場した。」(『東京暮らし 江戸暮らし』所収「『御宿かわせみ』」より)

 と、後輩たち続々と登場したんですが、平岩さん、宇江佐さんが直木賞候補になった6作品は、てんで認められるものではなかったようです。バツ印、バツ印のオンパレードでした。

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2014年4月20日 (日)

永井龍男〔選考委員〕VS 田宮虎彦〔候補者〕…清新さが欲しいよねえ、清新さがないのに賞とったおれが言うのも何だけどねえ。

直木賞選考委員 永井龍男

●在任期間:通算6年
 第27回(昭和27年/1952年上半期)~第38回(昭和32年/1957年下半期)

●在任回数:12回
- うち出席回数:11回(出席率:92%)

●対象候補者数(延べ):84名
- うち選評言及候補者数(延べ):51名(言及率:61%)

 チャッキチャキの東京っ子、気にくわないことがあるとすぐにキレちゃったり、始終、オヤジギャグを放って周囲をドン引きさせたり。その、あまりの傍若無人ぶりに他の直木賞委員たちと肌が合わなかった……わけではないんでしょうけど、せっかく頼まれて引き受けた直木賞選考委員をつづけるのがイヤになって、たった6年で「おれ、やめる」と言い出し、わがままっ子ぶりを存分に発揮した永井龍男さんです。

 永井さんが直木賞委員になったのは、第27回(昭和27年/1952年上半期)のとき。その直後の昭和27年/1952年10月、「直木賞下ばたら記」っつうエッセイを書き、第1回からの直木賞について、タッタッタッと駆け足で回想するお仕事に挑みます。

 そんなこと、なんで委員になったばかりのおれがやらなきゃならんのだ、と不平をもちはしなかったでしょうが、少なくとも48歳の永井さんにとっては、同じ回に再任となった吉川英治さんを含め全員、年長の面々ばかり。気づかいのなかで、その委員生活をスタートさせることになりました。

「さて、「別冊文芸春秋」二十九号で「回想の芥川賞」を書かれた宇野浩二氏にならって、私も一応「ことわり」から始める必要を感じる。

 第一回以来、今日も銓衡委員である、大仏次郎、吉川英治、小島政二郎、佐佐木茂索の中、ことに小島氏あたりが「回想の直木賞」を書かれたら、よい読物になると思うが、たぶん多忙というような理由で、この役が私に廻って来たのだろう。」(『別冊文藝春秋』30号[昭和27年/1952年10月] 永井龍男「直木賞下ばたら記」より)

 気づかいなんでしょうね。「お忙しいセンセイがた」とか言う諸先輩に対するイヤミ、あるいは「ひまなおれ」みたいな自虐、などではないんでしょう、きっと。

 で、このエッセイの末尾では、現在の直木賞について語られています。ここに、おのずと新任委員・永井龍男の、目標、意気ごみ、といったかたちが現われていると見ていいでしょう。

「正直に云って、現在直木三十五賞は、芥川竜之介賞に比較すると俗気といったようなものが混り、清新さは少いようである。しかし、これを払拭する方法のない訳はあるまい。私は、直木賞を数人の委員委せにせず、同賞授賞の作家諸氏が、先ず率先して文学賞の実を挙げるように、尽力することが是非望ましいと考えている。」(同)

 出ました、永井さんお得意の、謎めいた文章。……と、別に謎めかしているつもりはないんでしょうが、『回想の芥川・直木賞』を読んでいても、どうもワタクシには意味のとれない表現や論理があって、いったい永井さんは何が言いたいのか、どう思っていたのか、頭を悩ませることしきりなのです。

 直木賞は芥川賞に比べて俗気が混じって清新さが少ない。っていうのは、すでに売れる原稿を書いて巷に迎え入れられている作家に、直木賞は与えがちだ、というハナシに類する指摘なんでしょう。それを払拭する方法もきっとある。ええ、ありますよね。その次に続く文章が、どうつながっていくのかわからないんです。直木賞を受けた作家たちが尽力することが望ましい、という。

 なんで、そうなるの? そこから、どんな清新さが生まれるというんでしょう。名編集者(でもあった)永井さんの頭のなかには、清新になっていく直木賞のイメージがあるんでしょうが、永井さんがキレ物すぎるのか、よくわかりません。

 本当は、まだ全然売れていない無名に近い作家の出現を、直木賞が後押ししていきたい。でも、同人誌で書いているような人たちのものは、どれも文学ずれしてクソ面白くもなく、結局、まだ「大衆文学を書いている人」の範疇に入っていないぐらいの純文壇出身作家に、あげざるを得ない。……ってな繰り返しで、永井さんはフラストレーションをため込んでいったのではないか、と想像します。

 第33回(昭和30年/1955年上半期)は、受賞作のなかった回ですが、永井さんは一篇の候補にすら触れることなく、積もったフラストレーションをこう表現しています。

「推選したい作品もなく、今回は全く力抜けのした状態だった。

 どの作品も相当な枚数で、読むのに疲れたが、その疲れのはけ場のないような気持で銓衡を終始した。」(『オール讀物』昭和30年/1955年10月号 永井龍男「選評」より)

 疲れ果てています。

 藤原審爾さんに始まり、立野信之さんだの梅崎春生さんだの、有馬頼義さん、今官一さん……。清新さのカケラもない(ってことはないか)連中が候補にあがって、かといって他の候補作はどれも魅力を感じさせるものではなく、直木賞は(おそらく)永井さんの期待するものから遠く離れていくばかり。そして、よりによって旧作家も旧作家、今東光さんが登場するにいたっては、いくら何でも、直木賞=新人賞の概念が崩れすぎちゃう、と思って、「直木賞には不適格」との評を出しました。そして、さすがは永井さんの「言葉足らず」はすさまじく、その選評で思いを正確に伝えることに失敗し、いろいろ物議をかもすことになったわけです。

 と、直木賞では、純文芸の書き手と見なされてきた中堅・ベテラン作家を顕彰するのが、とにかくお家芸といった感がありました。そのなかの代表的なひとりが、田宮虎彦さんでしょう。

 田宮さん。昭和8年/1933年、東京帝国大学生のころに『帝国大学新聞』編集に加わり、森本薫、小西克己とともに『部屋』を創刊。昭和10年/1935年、渋川驍、新田潤の紹介で『日暦』に参加。昭和11年/1936年、大学卒業後に『都新聞』に入社し、『人民文庫』に加わったりなどして、その後は職を転々。戦後にいたって昭和23年/1948年から専業作家となって、続々と小説を発表。

「昭和二十二年、田宮氏は歴史小説『霧の中』を発表する。これが出世作となった。(引用者中略)

 同じく歴史小説の『落城』、後に映画化もされた『足摺岬』、戦時下の希望のない学生生活を描いた『菊坂』『絵本』などの一連の学生物と、続々と代表作、意欲作を書き上げていった。

「当時は流行作家的に書いていたが、決して筆は乱れなかった」と、先輩の作家、渋川驍氏は言う。特に短編集『絵本』は昭和二十六年の毎日出版文化賞を受賞し、田宮氏の作家としての人生は『霧の中』発表からの十年間でピークに達する。」(『週刊文春』昭和63年/1988年4月21日号「自宅マンションで投身自殺 優しい作家田宮虎彦氏の悲しい最期」より)

 あまりに急激に売れっ子になったものですから、第23回(昭和25年/1950年上半期)の芥川賞で候補に挙げられながら、あまりに売れすぎていて「新人賞」対象から敬遠されてしまい、惜しくも辻亮一さんに賞をかっさわられる、っつう芥川賞史上に残るドタバタ選考劇の主役ともなってしまいます。こういうドタバタ選考を語らせたら右に出るもののいない宇野浩二さんが、その威力をまざまざと見せつけた選評を書いたのも、この回のことでした。

「第一回の銓衡会では、文藝春秋新社の係りの人たちが、田宮のことは、「保留」といふことにする、といつたので、なにか「ま」が抜けたやうな感じで、会が、をはつた。

 ところが、第二回の銓衡会のときは、どういふキツカケからであつたか、いつとなく『異邦人』の呼び声が、おこり、それが、しだいに、ひろまつて行つた。これは、第一回の会の時に出なかつた、坂口安吾が、顔を赤くして、最大級と思はれる、いろいろな、言葉で、『異邦人』を激賞したのが、あづかつて、かなり、効果があつたやうである。

 そこで、第一回の会の時から、「なるほど、田宮は、うまいけれど、すでに、『中央公論』、『世界』『展望』、その他の、いはゆる、一流の雑誌に、作品を、出してゐるから、今さら、田宮の小説を、芥川賞として、雑誌に出しても、『文藝春秋』のテガラにならぬ、」とでも思つて、もやもやしてゐたらしい、文藝春秋新社の係りの人たちは、坂口が、いきほひよく調子づいた声で、『異邦人』を激賞する説を述べはじめると、文字どほり、『愁眉』をひらいた顔つきになつた。

 すると、瀧井孝作も、『異邦人』をおし、第一回の会に出なかつた、川端康成も、「これなら……」といひ、舟橋聖一が、田宮はすでに優等作家である、といふやうなことを、云つた。

 そこで、文藝春秋新社の係りの人は、田宮を、「別格「」といふ言葉で、まつりあげ、さて、こんどの候補者のなかで、「田宮氏をのぞいた人のなかで、芥川賞に該当する作品を……」と、きり出し、しばらくして、『異邦人』は四点……、『断橋』となんとかは、二点……と、いつた。

 ところで、そのあひだのいろいろな話のやりとりのなかで、「政治的」といふやうな言葉を、文藝春秋新社側の人たちがつかふのは仕方ないとしても、委員の人たちのなかに使つた人があつたので、私は、アツケにとられた。」(『文藝春秋』昭和25年/1950年10月号 宇野浩二「銓衡感」より)

 すげえ威力だ、宇野選評。あまりにすごいので、長めに引用してしまいました。

 こうして田宮さんは、けっきょく無冠の士のまま。さすがにこれではもったいない、と翌年の毎日出版文化賞が『絵本』に贈られたのは、『週刊文春』の記事にあるとおりです。実力は折り紙つき(?)、これに文学賞をもらって名実ともに文壇の雄に躍りあがった田宮さん、毎日出版文化賞の祝賀会「田宮虎彦の会」(昭和26年/1951年11月7日、丸の内「山水樓」)の模様を紹介する『週刊朝日』記事では、このように書かれました。

「田宮の先輩という非文壇人の一人が、「田宮は好きだが、もう少し面白い小説を書いてくれ」といった。これも悪くない祝辞であった。

 然し日本の文壇における田宮の地位は、例えていえば、お米みたいなもので毎日食べる御飯を格別においしいという人はあるまい。だから、この注文は、少し無理だ。」(『週刊朝日』昭和26年/1951年12月16日号「文壇二つの会 中島健蔵ご苦労さんの会 田宮虎彦の会」より)

 わかりづらい譬えですが、田宮作品のもっている、何か特別に取り立てて賞讃しづらい地味な感じは伝わってきます。

 それでも大きな賞を授賞して、発表の舞台も数々もち、もうそれで田宮さんには十分でしょう。と、純文壇的にはそうなりそうなものですが、ここで直木賞は田宮さんの、『オール讀物』に掲載されたナニゲない、ナニゲなさすぎてまず田宮さんの代表作とは見なされない地味ーな短篇を候補に挙げちゃうのです。このあたりの、トンチンカンなところが、ワタクシが直木賞を好きなゆえんでもあります。

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2014年4月13日 (日)

桐野夏生〔選考委員〕VS 高野和明〔候補者〕…選評とは、選考経緯を書く場ではなく、作品評をするところ。

直木賞選考委員 桐野夏生

●在任期間:3年半
 第144回(平成22年/2010年下半期)~第150回(平成25年/2013年下半期)在任中

●在任回数:7回
- うち出席回数:7回(出席率:100%)

●対象候補者数(延べ):39名
- うち選評言及候補者数(延べ):38名(言及率:97%)

 恐ろしいです、桐野夏生さん。

 いや、桐野さん本人が恐ろしいのではなく、桐野さんの文学賞受賞遍歴が。平成15年/2003年泉鏡花文学賞(『グロテスク』)、平成16年/2004年柴田錬三郎賞(『残虐記』)、平成17年/2005年婦人公論文学賞(『魂萌え!』)、平成20年/2008年谷崎潤一郎賞(『東京島』)、平成21年/2009年紫式部文学賞(『女神記』)、平成22年/2010年島清恋愛文学賞&平成23年/2011年読売文学賞小説賞(『ナニカアル』)。……ワタクシだけがひとり怖がっているのかと思っていたら、桐野さん自身も、やはり、

「'03年に『グロテスク』で泉鏡花文学賞を受賞してからは、今日に至るまで、本人が「順調すぎて怖い」と言うぐらい毎年のように何らかの文学賞を手にしている。」(『週刊現代』平成23年/2011年3月19日号「The Target 桐野夏生 作家の矜持」より ―文:一志治夫)

 と言って怖がっていました。

 こうなってくると、当然、直木賞側としても放っておけません。選考委員就任の打診が桐野さんのもとに飛んでいき、平成23年/2011年1月の第144回(平成22年/2010年下半期)から、伊集院静さんとともに、新しく選考委員会に参加することになります。上記の『週刊現代』の記事は、その最初の選考会まもなくだったこともあって、「直木賞選考委員」桐野さん、の姿も少し紹介してくれています。

 「大いに議論したい」と張り切る桐野さんです。

「そんな超多忙で過酷な日々にもかかわらず、今年から直木賞の選考委員を引き受けた。

「もともと私は理屈っぽい。議論好きなんです。選考会では選考委員が大いに議論をするのだろうと思って臨んだんですけど、最初ですので、私は意見を表明するに留まりました(笑)。選考自体は、他の作家の本を読む機会が増えて嬉しいです。いまの作家の書くものの潮流や動向を常に注意しておきたいと思います。また、どういうものが、どういうふうに売れているのか、すごく興味深い」」(同)

 真剣で、まじめな感じが伝わってきます。それで現在のところ、まだ就任して4年足らずですが7度の選考会に臨んだ計算になります。選評を読むかぎりでは、おおむね桐野さんが大反対するような作品が受賞した例は見当りません。桐野さんがしっかり読み込んで(?)票を投じ、しかしそれでも「最近の直木賞受賞作は、低調の一途だ」などと語る世間の声は増すいっぽう。もうもはや、誰が選考委員になろうが、直木賞に対する悪評がなくなることなど、未来永劫ないんじゃないのか、と思ったりもします。「直木賞」というだけでクソミソにけなそうとする攻撃は、いつの時代も盛んですからね。その火の粉が、桐野さんやその作品に降りかからないよう、祈るばかりです。

 とまあ、桐野さんはどう言われようが、何も気にしちゃいけないでしょうけど。

(引用者注:平成23年/2011年の)10月に桐野は還暦を迎える。

「歳を取ることによって、体力は前より落ちますね。でも、人間て不思議。その代わり、結構冴え渡るところもあるんですね。前よりも、嫌なものを我慢しなくなりました。すぐに切り捨てられるし、自分の仕事のテンションが落ちるようなものはすべて遠ざけようと思う。ものすごく自分が強くなって、はっきりしてきている。以前よりもさらに。自分でも恐ろしいくらいですよ」」(同)

 世間の声を気にしないのが、直木賞選考委員としての鉄則でもありますからね。まったく桐野さんにはお似合いの役目・役柄だと思います。

 で、この『週刊現代』ではまったく注目もされていないんですが、桐野さんは、直木賞よりちょっと前、山田風太郎賞の選考委員も引き受けています。平成22年/2010年秋に始まった、直木賞にも似た(酷似した)角川書店の賞です。就任期間は、たったの2年間だけでした。

 奇しくもこの2年は、あれです。『悪の教典』と『ジェノサイド』という、直木賞史上でも問題作と呼べる2つの作品が、ともに山風賞(&このミス1位)をとったときです。山風賞も、いったいどんな賞になるのやら、っていうワクワク感が年々しぼみ、「受賞作だからといって売れるわけでもなし、続ける意味が見つからん」みたいな展開になって、10年ぐらいで「役割を終えた」とコメントを出して終わっちゃうんじゃないだろうな、と不安を覚えつつ、桐野さんの山風賞選評と直木賞のそれを見比べてみます。

 貴志祐介『悪の教典』に対しては、こうでした。

「栄えある初回、山田風太郎の名に相応しい大作を選ぶことができて満足している。(引用者中略)

「B級ホラー」に徹して書いた凄みが横溢している。その作業は、大変に難しいと思われるが、著者は乱暴に見えるほどの揶揄を込めた表現で、うまく外して書いている。最後までノンストップで読ませ続けるパワーは破天荒だ。ご受賞を心から喜びたい。

 ただ、主人公が共感能力が欠如している、という設定は必要だったのだろうか。この「理」が、「悪」を感じさせないのだ。説明しようのない存在である方が、よりリアル、かつ読者を震撼させる真の悪漢小説になったのではないかと思わなくもない。すると、選考会で、「悪事を書いているが、悪は書いていない」という指摘があった。なるほど。「悪事小説」なのだと思ったら、賦に落ちた。」(『小説野性時代』平成23年/2011年1月号 桐野夏生「破天荒のパワー」より)

 「理」を語る小説はつまらない、っつうおハナシが飛び出しています。桐野さんの小説観のひとつとして、おなじみです。もう、それこそ『江戸川乱歩賞と日本のミステリー』の関口苑生さんとのバトル「ミステリーと弁当箱」論争(……って論争になっていたっけ?)あたりでも垣間見えていましたけど、桐野さん自身、理の小説(ミステリー)からの脱却・脱皮という道を歩んだ方でした。

「まぁ、短編も長編も書き続けるわけですが、理に落ちるのだけはやめようかなって。こうなって、こうなって、最後、ああ、カタルシスみたいな、そういうものはやめようって。なぜやめようかって思ったかというと、私、そういう話、おもしろくないんですよ。生きてる人って、理に落ちないじゃないですか。なのにミステリでデビューして、必ず理に落ちなきゃだめだって、前は思いこんでいて、そういう反省を込めて、理に落ちない物語を書こうと思っていますね、いまは……。」(『宝石』平成10年/1998年11月号「笑ってタラタラ生きていくほうがいい ハードボイルド主婦作家 桐野夏生」より ―インタビュー・構成:山田陽一)

 このインタビューは、直木賞でいうと『OUT』で落選して、『柔らかな頬』で受賞する、ちょうど中間ぐらいの、『柔らかな頬』をせっせと書き直しているぐらいの時期のものです。あれですね、直木賞の選考委員をはじめ、いろんな読者たちから、後半のあの展開が意味わからん、とか、死体処理とか自分でできもしないことを、あんなふうに書くもんじゃないか、とか、さんざん言われて桐野さん、怒った時期ですね。「理」で説明されたものしか評価しないなんて、何と、イヤだわ、と。

 『悪の教典』に戻りますと、山風賞では授賞しましたが、ごぞんじのとおり直木賞では落選します。桐野さんですが、他の候補作に比べて、この作品を評価する言葉で貫きました。

「『悪の教典』は、あるコンセプトのもとに、強い気持ちで書かれた画期的な作品である。つまりは、文体もスピードも内容もトーンも、すべてをB級ホラーに徹しようというコンセプトに準じているのだ。「蓮実は遠い目をした」「蓮実は爽やかな弁舌をふるった」等の乱暴な描写、決まり切った台詞、滑るギャグ。できるようでできない力業であるし、好悪を超えて評価されるべき仕事だと思う。言い換えれば、この世にまったく適応できない「共感性の欠如した」主人公のサバイバル話でもある。表現の自由が狭まりつつある現在、意義ある仕事だと思う。」(『オール讀物』平成23年/2011年3月号 桐野夏生「選評」より)

 「好悪を超えて評価されるべき」のあたりに、桐野さんの思いがこもっている、と読みました。『OUT』が直木賞と吉川新人賞を落選したことを「その「反社会性」とやらで、メジャーの賞から弾き出されたのだ」(「『OUT』という名の運命」より)と受け止めていた桐野さんですもんね。あれ、『OUT』が選ばれなかったのって、ほんとにそんな理由でしたっけ……? と思わないでもないですが、桐野さん自身がそう感じているのですから、いいでしょう。

 ハナシは、次の第145回(平成23年/2011年上半期)へとつづきます。

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2014年4月 6日 (日)

石坂洋次郎〔選考委員〕VS 松代達生〔候補者〕…私はもうボケた、ということを言い始めてから直木賞委員になった人。

直木賞選考委員 石坂洋次郎

●在任期間:通算11年
 第57回(昭和42年/1967年上半期)~第78回(昭和52年/1977年下半期)

●在任回数:22回
- うち出席回数:21回(出席率:95%)

●対象候補者数(延べ):167名
- うち選評言及候補者数(延べ):95名(言及率:57%)

 直木賞選考委員の職において、「ボケている」ていうレッテルは、よく似合います。いまの直木賞では、選考会後に(とくに高齢の)選考委員が繰り出す評を読んで、何でこんなボケ老人が、ボクらの直木賞をメチャクチャにするんだ!と、不平を語り合うことが、風物詩になっています。

 異常だ異常だ、と人に向かって声高に叫ぶやつのほうこそじつは異常、っつう言い伝えからすれば、選考委員はボケてるボケてる、と言ってる人のほうがボケてるわけですが、ボケている人は、もはや自分がボケているかどうかは、正しく判断できないものかもしれないので、完全な水掛け論です。

 いや。それってほんとうでしょうか。直木賞史上、最も「ボケた選考委員」として名を残しているのが、何を隠そう、石坂洋次郎さんです。なぜ石坂さんが、ボケ委員として有名になったのか。それは石坂さん本人が、自分はボケている、と公然と言いふらした人だからです。

 直木賞委員になる前の、昭和41年/1966年に書かれた自作『あじさいの歌』解説から。

「それにしても、文学には無縁の大衆も目にする新聞に、どうしてこんな明暗相半ばする作品を書く気になったのか、私にもその当時の気持がよく分らない。ただ、ボケてもの忘れがひどくなったこのごろの私の思い出の中には、この作品を書き出すとき、イギリスの作家、クローニンの『帽子屋の城』の印象が、頭の中に投影していたような気がしている。」(昭和41年/1966年7月・新潮社刊『石坂洋次郎文庫13』「著者だより」より)

 同年秋、菊池寛賞を受けたときにも、こんなこと、言っています。

「私は小説で賞をもらったのは、若いころの三田文学賞、今度の菊池寛賞と二回ぎりだ。しかも、老来記憶力がボケた私は、三田文学賞をもらった時にどんな気分だったか、ぬぐったようにきれいに忘れ去ってしまっている。」(『三田文学』昭和42年/1967年1月号「私のひとり言 菊池寛賞をいただく」より)

 いったい、自分はボケた、ていう自覚のある人は、どこまでボケたといえるのか。単に、年をとってボケたせいにしておけば、それで許してもらえる場面が増えることをいいことに、いっそう強調して、ボケたボケた、と言ってるだけじゃないのか。石坂さんの場合は、その疑いがプンプンするのです。

 以前、このブログで触れましたけど、石坂さんが選考委員になったのって、67歳になってからですからね。そして、就任した当初(というか、それ以前)から、すでに石坂さんが好んで使っていた決めゼリフが、つまり、「私はもうボケてきている」ということだったんですから。何と言いますか。就任を要請した主催者は、直木賞に、鋭利で的確な批評みたいなことは何ら求めていなかったんだろうな、と言いますか。

 それから77歳までの11年間。石坂さんが残した、もう選評と呼んでは選評側に失礼だと思うぐらいの、自由きまま、我が道をひたはしる輝かんばかりの選評の数々。あ、この人、完全に自分が「ボケ老人」だっつうことを利用して、他の人には書けないところに踏み込んでいるな、という真意が見え見えの、大変面白い選評を、ワタクシたちに提供してくれました。

 いくつか引用してみます。ちなみに以下は、顔見知り同士しかやりとりしないどこかのBBSや、読書大好きを公言する読者のブログに書き込まれた何かの感想文ではなく、『オール讀物』に載った公式の選評の一節です。念のため。

(引用者注:平井信作「生柿吾三郎の税金闘争」について)細かい文学的センスなどにこだわらず、体当りで題材にとり組んでいるのがいい。同郷人(引用者注:津軽人)の平井君が今度の選に洩れたのは残念。」(『オール讀物』昭和42年/1967年10月号「はじめて審査に参加して」より)

「審査員の間に十分な意見の交換があって、佐藤(引用者注:佐藤愛子)さんの二作が、今回の直木賞作品に選ばれたが、それについて私は〈よかった〉という私的な親近感を覚えた。というのは、佐藤愛子さんの父君・故佐藤紅緑は、私の郷里・津軽出身の先輩作家であり、太宰治が陰性な破滅型の人物であったとすれば、紅緑は陽性な破滅型――あるいは豪傑型の人物であり、その血が娘である愛子さんにも一脈伝わっているような気がして、同じ郷土気質をいくらか背負っている私をさびしく喜ばせたのである。」(『オール讀物』昭和44年/1969年10月号「津軽の血」より)

(引用者注:藤本義一「鬼の詩」について)芸能人であれ、作家であれ、私は破滅型の生活には共感がもてない。」「藤本氏よ、作品には破滅型の人物を描いても、貴方自身の私生活を崩すことがないように……。」(『オール讀物』昭和49年/1974年10月号「直木賞所感」より)

 うん、うん。いいぞいいぞ石坂のオヤジ。ワタクシは、こういう選評が読みたいのです。ぜひいまの選考委員の方がたにも見ならっていただいて、そんなかしこまったような、文芸評論もどきの評は破り捨てて、実体験、私的なことがら、小説内容に何の関係もない思いつきなどを、どんどん書いてほしいと心から願います。たかが直木賞の選評なんですから、何を書いたっていいんですもん。

 オレはボケてる、オレはボケてる、と言い続けながら直木賞委員を務めて時がたち、石坂さんは確実にこれを、自分の芸風のひとつと見定めます。

「「このごろ、もの忘れがひとくなってねえ。こないだは評論家の扇谷正造さんたちと、ゴルフをやって、帰ってバッグをあけてみたら、人の道具と間違えているんだ。そのゴルフも一まわりすれば、フラフラだしねえ。この秋には、私の『光る海』がテレビドラマになる――届けられた脚本の会話を読みながら、はて、登場人物にこんなキザなことをいわせたかなあ、と苦笑してしまった。自分の書いた作品の内容まで忘れているんだから――」

 七十二歳の作家、石坂洋次郎氏を、軽井沢の山荘に訊ねたら、しきりに“恍惚ぶり”を自ら強調するのだが、うつくしい銀髪が似合う温顔の色つやもよく、かえって、しのびよる孤独の老いをたのんでいるようにもみえる。」(『週刊朝日』昭和47年/1972年9月1日号「“恍惚”の中に生きる 石坂洋次郎氏(七二)の生活と意見」より ―太字下線は引用者による)

 ボケを売りにする人が、直木賞選考委員をしている、ってもう、ほとんど素晴らしい世界としか言いようがないですね。

 その就任期間の末期も末期、第77回(昭和52年/1977年上半期)は候補作8篇。色川武大さんの、エッセイチックな『怪しい来客簿』VS. 井口恵之さんの古風極まりない心中もの「つゆ」、っつう激戦の末に、授賞なしとなった回です。ここで、石坂さんは、もとよりハメなどに捕われていなかったんでしょうが、自由なイシザカの姿を存分に発揮することになります。

 松代達生さんの『航路』所載「飛べない天使」に、ひとり票を投じて、選評の半分近くを、この落選作について費やしたのです。

 これがまた、「石坂さんにしか書けない選評」ど直球の、選評でした。

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2014年3月30日 (日)

黒岩重吾〔選考委員〕VS 中島らも〔候補者〕…長く人生を歩んできた翁いわく、「最近のミステリーはランクが落ちる」

直木賞選考委員 黒岩重吾

●在任期間:通算19年
 第91回(昭和59年/1984年上半期)~第128回(平成14年/2002年下半期)

●在任回数:38回
- うち出席回数:38回(出席率:100%)

●対象候補者数(延べ):234名
- うち選評言及候補者数(延べ):180名(言及率:77%)

 神奈川近代文学館に行ってきました。平成26年/2014年2月1日~3月30日、「収蔵コレクション13 生誕90年黒岩重吾展」が開かれていたからです。さすが黒岩重吾、没後10年ちょい経つのに、ファンたちを魅了することいまだ衰えを知らず、入場規制が敷かれるほどの大変な人だかり……ってこともなく、平穏森閑とした感じの展示会場でしたが、まず普通には見ることのできない貴重な「直木賞」関連の展示物もあって、満足満足。

 展示スペースのガラス面の前に、何十人もの直木賞ファンたちがヨダレを垂らしながら押し合いへし合い群がっていた一角が(……って、もうこの表現、いいですか)、「spot 後進への眼差し―選考委員として―」の展示です。その説明パネルにはこうありました。

「随所に書き込みが残る候補作の単行本などからは、作品を丹念に読み込んでいることが窺え、選考に対するきわめて真摯な姿勢が伝わる。才能を認めた後輩作家にはあたたかい激励を送った。」(神奈川近代文学館「生誕90年黒岩重吾展」「spot 後進への眼差し―選考委員として―」展示パネルより)

 閉じた状態の本が3冊。角田光代『空中庭園』、東野圭吾『片想い』、浅田次郎『蒼穹の昴』(下)で、カバーが外され、表紙に「直木賞候補作」と「日本文学振興会」という2枚のテプラが貼られていました。選考委員のもとにはカバーを取り外した状態で配布される、っていうのは資料では見たことがありましたが、実物を目のあたりにするのははじめてです。ここで、まず一興奮。

 それで、ページを開いた状態の本が3冊。伊集院静『受け月』、浅田次郎『蒼穹の昴』(上)、宮部みゆき『理由』。いずれも、黒岩さんの直筆で、そこに何やらメモがつらつらと綴られています。まあ達筆というか悪筆というか、ほとんどワタクシには読めなかったんですが、宮部さんの候補作を展示するなら、ここはどう考えても『火車』だろっ! とツッコんだ人がいたものか、展示ガラスに割れた跡があり、テープで補修されていました。ウソです。

 黒岩さんが『火車』に対して放った、直木賞での反対理由、というのはもはや日本人なら万人が知る常識になってしまいましたからね。あえてコアな黒岩ファンしか足を運ばないあんな場所に飾っておくほどの珍しさはない、と判断されたんでしょう。

 候補作の本だけじゃなく、展示されているなかには、直木賞、柴田錬三郎賞、吉川英治文学賞それぞれの、「選評ノート」もありました。選評を書く際の下書きでしょうか。それとも候補作を読みながら書いたものでしょうか。こちらも、何と書いてあるのか判読が難しく、神奈川近代文学館による詳細な研究と解説が、大いに俟たれるところです。がんばれ、カナブン。

 ということで、今日の選考委員は黒岩重吾さんです。出世作は推理小説、しかしトリック重視、つくりものの謎解きに対する嫌悪感をハナから胸に抱え、人間の謎を書いてこそ良質のミステリー、なんちゅう考えを貫いた人でもありました。

 直木賞は、芥川賞と並んで、やたらと選考委員たちが「直木賞とは(もしくは芥川賞とは)何か」を語っている文献が数多く残される、文学賞のなかでも稀有な賞です。何かにつけ、文學界もオール讀物も、こういった企画ばかりやりたがる、ってことは、ついこのあいだの第150回記念のときを見れば、よくわかります。『芥川賞・直木賞150回全記録』に再録された選考委員座談会「直木賞のストライクゾーン」(初出『オール讀物』昭和63年/1988年5月号)もそのひとつです。黒岩さんも出席しています。

 黒岩さんの直木賞観がうかがえる箇所を、二か所だけ引きます。まずは陳舜臣さんの、抑えきれない「SF・ミステリー愛」を受けての、黒岩さんの姿勢から。

 私はいつも思うんですが、これまでの直木賞はそのリアリズムに重点を置きすぎているんじゃないでしょうか。現実をこれまでとまったく別の、思いもかけない角度で切って、それでかえって現実をよりあざやかにうかびあがらせる方法がありますね。たとえば筒井康隆の小説がそれです。けれども、彼をはじめ、小松左京や星新一など、おなじやり方をした人たちは、みな直木賞に縁がなかった。推理小説もそうです。謎をもつというのは、日常茶飯の現実からはなれていることで、これも直木賞とは縁がうすい。栗本薫も乱歩賞はクリアしても、直木賞のレースにエントリーさえできない。ちがったユニホームを身につけているからでしょうかね。

 結城昌治にしても私にしても、推理小説で受賞したのではありません。選考委員になってからの感じでも、いわゆる日常茶飯的リアリズムをはなれたものは不利ですね。(引用者中略)

 身につまされる小説なら、昔からいやというほどあるんです。人を感想させるのは、わりあいらくでしょう。易きについた人がトクをするのは不公平ですね。

(引用者中略)

黒岩 ぼくもどちらかといえばリアリズム手法に重きを置いているけど、一気に読ませるサスペンス小説はそれなりに評価しています。たとえば『レッド・オクトーバーを追え』『ジャッカルの日』『オデッサ・ファイル』など、凄い小説だと舌を巻く。少なくとも右のような作品に比肩しうるものが現れたなら全力で押すでしょう。」(「直木賞のストライクゾーン」より)

 ええと、「それなりに評価」だそうです。この様子じゃあ、なかなか厳しいですね、ミステリー系が黒岩さんのお眼鏡にかなうのは。たとえば、この席で五木寛之さんが、荒俣宏『帝都物語』などが直木賞候補になってもいいじゃないか、と主張するんですが、黒岩さんはそれに真っ向からぶつかります。

五木(引用者中略) これは候補作を選ぶ主催者側への要望でもあるんですが……例えば、荒俣宏さんの『帝都物語』なんかはどうですか?

黒岩 ぼくも読み出したんですよ。でも二巻目は読む気力を失いましたね。荒唐無稽でも伝奇ものでもいいんです。『八犬伝』のように格調高いものなら。問題は大人が引きずりこまれるような文章ですよ。作者は確かに読者を遊びの中に連れ込む才能はあるが、次第に、薄めた色々な酒を飲まされている気がして、小説に酩酊できない。酔えないことが分った途端、読書欲を失ったなあ。つまり、遊びの迷路が見えすぎるんですよ。」(同)

 この感覚が、黒岩さん選考委員5年目ぐらいのときのものです。

 さらに時が経って、平成10年/1998年。今度は『オール讀物』編集部が、ひとりひとりの選考委員にインタビューを試みます。これに応えた黒岩さんは、やっぱり、いまガキが喜んで読んでいるような「ミステリー」は、くっだらねえのがほとんどだ、っつう考えを崩していません。相変らず、比較対象に「東西の名作」を挙げて、いまの流行モノを貶める、けっこうズルい手法を使いつつ。

「短編のミステリーの代表作として、すぐに思い浮かぶのは、芥川龍之介の『藪の中』ですよね。ああいう人間心理の謎解きなら、僕は大歓迎です。バルザックを始め、過去の西洋文学の錚々たる連中も、みなそういう謎解きを書いていますよ。小説は元来謎解き。何故というところから発しているわけです。

 そうした僕が考えてるようなミステリー作品と比べると、最近のミステリーは少しランクが落ちる。ところが、今はその僕に言わせればランクの下がるミステリーがものすごく売れている。誰が買うかというと、人生経験のない若者が買うんですよ。ほとんど人生経験のない若者が、刺激感を受けるために買って行く。不安定な世の中で、リストラされたり、会社が潰れるかも知れない、そんな中で汗水垂らして営々と働いてる社会人――そういう小説好きの大人は、あんなミステリー読んでる暇ないですよ。

 人間を書かない荒唐無稽な小説群がバーッと出てきていることは事実ですが、こういう小説は直木賞とはちょっと違う。そういうのは、面白賞とは刺激賞とか、何か別の賞でいいのではないでしょうかね。」(『オール讀物』平成10年/1998年4月号 黒岩重吾「小説には古いも新しいもない」より)

 だはは。ランクが落ちる、と来ました。黒岩さんも、何か直木賞は、上ランクのものを選ばなきゃいけない、という感覚に縛られていたんですね。ラ・ン・ク……ずいぶんとお偉くなられたのですこと。

 にしても、です。汗水流して営々と働いている社会人、小説好きの大人が、みんな黒岩さんみたいな好みを持っているとは、とうてい思えないわけです。だって、現実のつらさを忘れさせてくれる面白い謎解きミステリーにはまった、いい歳した小説好きなんて、ゴマンといるんじゃないんですか。この、相当いびつ、というか狭い小説観こそ、黒岩さんの真骨頂、でしょうね。

 さて、対する候補者です。

 黒岩さんといえば、奇遇にも、直接面識のある人たちの選考に臨み、しかも授賞に至る現場に立ち合う、っていうことでおなじみ感があります(あるか?)。難波利三、阿部牧郎、伊集院静などの直木賞受賞の選考会では、黒岩さんの一票が投じられました。オール讀物新人賞の委員としては、実弟、黒岩竜太(本名・圭吾)に授賞させるその現場にもいた、なんちゅうオマケつき(ちなみに、このときは、他の委員には自分の弟であることは黙っていて、「このめぐり逢わせには黒岩氏もかなりやりにくかったようだ」(『週刊文春』昭和44年/1969年5月12日号)などと書かれています)。

 ただ、直木賞選考委員・黒岩重吾には、誰がどう見ても、「人を落とす」姿がまことによく似合います。なにせ、堅苦しい直木賞観をもつ黒岩さんです。どうしても受賞に賛成できず、結果、落選させるしかなかったときに書かれる選評は、これぞ選評! と思わずにはいられない素晴らしさに満ちています。

 そうやって落選作家となった人たちはたくさんいますが、ここでは、平成初期の直木賞落選作家といったらこの人、中島らもさん。その候補作と、黒岩さんがどう激突したかを追ってみることにします。

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2014年3月23日 (日)

陳舜臣〔選考委員〕VS 酒見賢一〔候補者〕…何がきても怒らない。ただ、困ったり、心強く思ったりするのみ。

直木賞選考委員 陳舜臣

●在任期間:通算8年半
 第94回(昭和60年/1985年下半期)~第110回(平成5年/1993年下半期)

●在任回数:17回
- うち出席回数:16回(出席率:94%)

●対象候補者数(延べ):109名
- うち選評言及候補者数(延べ):91名(言及率:83%)

 推理・冒険・ファンタジーに、なぜ直木賞は厳しいのだ。厳しすぎるぞ直木賞、と言われつづけてン十年。それでもなかなか変わらない選考会に、1980年代、ぞくぞくとミステリー擁護派が投入されます。その三銃士といえば、田辺聖子さん、藤沢周平さん。そして何といっても陳舜臣大人です。

 温厚にして温和。自分が推した作品はもちろん、推さなかった作品に対しても救いを残す選評を書き、ほんわかとして心地よいことこのうえありません。そうです。以前にも引用しましたが、元『オール讀物』編集長の座談会では、陳さんの名前が「人格者」のひとりとして挙げられていました。

安藤(引用者注:安藤満) 海音寺(引用者注:海音寺潮五郎)さんにしてもそうだし、山本周五郎さんにしてもそうだけど、あの頃の作家は、会うと何となく頭が下がるようなところがあったんだ。今の作家にそういう人がいないというんじゃなくてね。陳(引用者注:陳舜臣)さんも人格者だからね。

豊田(引用者注:豊田健次) 人情味というか、人格的な広さや大きさを感じさせて、その中にこっちが入ると安心しちゃうところがこういう人たちにはある。」(『オール讀物』平成12年/2000年11月号「編集長が語る あの作家・この作家 オールとっておきの話」より)

 そんな陳さん、わずか8年半ほどで直木賞委員を退任してしまうのですが、その際には、あまりにも早い辞任を惜しんで「陳さんやめないで!」のプラカードをもった人たちが紀尾井町の文春のまわりを取り込み、ものものしい雰囲気に包まれたとか。……って想像したくなるぐらい、陳選考委員のファンは多かったに違いないと、勝手に思っています。

 だいたい、この人はモノゴトに対して怒ることがあるんだろうか? と思わずにはいられません。たとえば、直木賞に関連したエピソードでいうと、「陳舜臣なんて外国のモンに、直木賞・芥川賞など、あげてはいかんぞ!」みたいな手紙が送られてきたことがあったのだとか。そのときの、陳さんの泰然自若としたたたずまいたるや。

「数年前、一通の手紙を受取った。なかみは印刷されたもので、差出人の住所氏名ははっきりしていた。正確には記憶していないが、九州地方のお寺であった。和尚さんなのかもしれない。(引用者中略)

 中国人や朝鮮人を「懐柔」するのは、もうやめよう、という呼びかけである。李恢成や陳舜臣などろくに日本語も書けない人間に、芥川賞や直木賞を与えたのは、懐柔策であろうが、もうそんな必要はない、といった主張が盛りこまれていた。(引用者中略)久しぶりに接した人種差別発言であるが、戦時中の亡霊は、なかなか簡単には消え去らないようである。

 匿名ではないので、怪文書の資格に欠けているが、準怪文書と分類してよいだろう。この手紙を受取ったのは、私が直木賞の選考委員になる前だから、賞関係者だけに送ったのではないらしい。文壇関係の名簿をみて、ばらまいたとおもわれる。本来なら、私のところに送るべきものではない。「あいつに賞をやったのはけしからん」というのだから、呼びかけの相手としては、私は対象外のはずである。あるいは、おまえの日本語はでたらめだ、ということを、私にしらせる親切心から送ってくれたのかもしれない。」(平成3年/1991年11月・二玄社刊 陳舜臣・著『走れ蝸牛』所収「怪文書」より)

 ぐはっ。「親切心」ですって。こういうエッセイひとつとっても、「人格的な広さや大きさ」が、もう怖いぐらいに表われているじゃないですか。

 当然、直木賞の選評でも、そんな陳大人の人格者ぶりは端ばしに光っています。我々のような選評好きにとっては、ビシビシと鋭度の高い選評が並ぶなかで、いっとき、陳さんの温かな胸のなかでゴロニャーンと甘えることができる、という寸法です。

 では、さっそく甘えてみましょう(?)。陳さんが、はじめて選考会に参加した第94回(昭和60年/1985年下半期)、選評の冒頭の一節です。

「傾向として直木賞は完成度が重視され、減点法の選考が主流のようにおもえる。作品の構成が複雑になればなるほど不利となる。筋のはげしい起伏や意外性は、ミステリーでは重要な要素だが、その部分こそ叩けばいくばくかの埃が立つのは免れないのだ。それが減点の対象にされるとつらいであろう。」(『オール讀物』昭和61年/1986年4月号 陳舜臣「親しみ深い小世界」より)

 で、陳さんが佳作とみた候補、島田荘司『夏、19歳の肖像』については、「設定がヒッチコックの「裏窓」に似ていることなどが減点法の好餌となったのは残念である」と悔しがっています。

 欠点を積み重ねて落とすのはつらいよね、なるべくなら、いい点を挙げていくことで授賞を決めたいなあ、という思いが言外ににじんでいませんか。言うは易く行うは難し、の典型のような理想論ですけども、それでも陳さんの8年半の選考委員人生は、ある程度、その姿勢を前提にしていたと思います。選評を読むかぎりでは。

 8年たって第109回(平成5年/1993年上半期)。ここに至っても陳さんは、やはり加点法・減点法のハナシを引き合いに出して、2つの作品への授賞理由を述べました。

「選考とは一種の採点だが、それには減点式と加点式とがあるようだ。欠点をみつけるたびに減点して行くのと、欠点はあるていど無視して、キラとかがやく所があれば点を加える方法とである。

 高村薫氏の『マークスの山』は、減点法で品評すれば、多くの点を失うであろう。(引用者中略)だが、加点式で得た点は、減点数をはるかに越える。(引用者中略)

 これと反対に、おなじ受賞作、北原亞以子氏の『恋忘れ草』は、減点のすくない堅実な作品である。ただし、加点法で行けば、それほど得点がなかったであろう。(引用者中略)

 相反する傾向の二つの作品が、最終段階に残ってみれば、どちらも落とせない気がして、二作受賞にほとんど反対がなかった。」(『オール讀物』平成5年/1993年9月号 陳舜臣「減点・加点」より)

 さあ、ここで今日の「候補者」に行きたいと思います。やっぱり陳さんは、思うぞんぶん褒める姿がよく似合う。っつうことで、候補に挙がるたびずっと陳さんが推しつづけた人、泡坂妻夫さんにしようと思ったんですけど、泡坂さんは以前、すでに触れてしまいました。残念。

 じゃあ、この候補者にしましょう。酒見賢一さんです。

 陳さんと酒見さん。ええ、どうしたって重ね合わせたくなりますよ。〈中国〉歴史小説の世界を切りひらき、直木賞選考委員にまでなった第一人者、そこに、どしどし空想とウソ八百をつぎこんで、〈中国〉モノだか何だかよくわからん道を行く新星が出てきたんですから。陳さんがこれをどう見るか、ぜひともその声に耳を傾けなくてはなりますまい。

 第102回(平成1年/1989年下半期)。5つの候補作が出揃って相当な混戦となった激戦回。選考委員だった山口瞳さんは、授賞なし、と考えます。それでも自分は受賞作を出すお仕事なのだから、と気を入れ替えて、酒見さんの『後宮小説』を推してみようかな、と決めました。

「僕はあくまで該当作ナシの立場で終始したが、しかし、根本的に選考委員会は受賞者を出すべきものだという考えがある。そこで、該当作アリとするならばということで、酒見賢一『後宮小説』を支持した。これは、ハチャメチャ劇画風の大嘘小説であるが、第一に楽しくすらすらと読めるところが良く、思いつきに勝れた箇所があって、この作者端倪すべからずという感を強くした。それに、この作者は二十五歳である。若さに賭けてみたいという気持もあった。

 中国の歴史に精しい陳舜臣さん、読書家の井上ひさしさん、スケールの大きな小説を書く五木寛之さんあたりの援護射撃を期待した。」(『週刊新潮』平成2年/1990年2月8日号 山口瞳「男性自身 梅一輪」より)

 うーん、果たして、中国の歴史にくわしいからといって、『後宮小説』を褒めるものなのかどうなのか。大変微妙なところです。逆に「こんなの中国史にのっとっていないぞ」と怒り出す可能性だって、なくはないと思うのですけど。はてさて、陳さんは、どう反応したでしょうか。

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