カテゴリー「直木賞(裏)人物事典」の50件の記事

2013年6月 9日 (日)

尾崎秀樹(大衆文芸評論家) 大衆文芸研究界ですら傍流の「直木賞研究」にまで、熱いまなざしを向けた稀有な人。

尾崎秀樹(おざき・ほつき)

  • 昭和3年/1928年11月29日生まれ、平成11年/1999年9月21日没(70歳)。
  • 昭和20年/1945年(16歳)台北帝国大学在学中に徴集される。停戦後に復学したが、昭和21年/1946年に日本に引き揚げ。
  • 昭和31年/1956年(27歳)牧野吉晴の事務所係を務めながら『文芸日本』の編集に携わる。
  • 昭和35年/1960年(31歳)『近代説話』同人となる。翌年『大衆文学研究』創刊。
  • 昭和41年/1966年(37歳)『大衆文学論』で第16回芸術選奨文部大臣賞評論その他部門を受賞。

 大衆文学研究の世界には「尾崎以前、尾崎以後」という言葉があります。いや、本当にあるかどうかはともかく、です。あってもいいと思います。圧倒的な文章量、幅広い関心ジャンル、物事を推進させる力、まわりを和ませる人柄。戦前から戦後、なかなか目立たない存在だった「大衆文学研究」が、昭和30年代以降、徐々に市民権を獲得していく過程において、尾崎秀樹さんの果たしてきた功績を無視する人は、まずいないでしょう。ワタクシなどが吠え立てるまでもありません。

 ただ、直木賞研究史でも、事情はあまり変わらないのです。もしも尾崎さんがいなかったら、「研究的な視野から見た直木賞」像は、おそらくもっと貧弱なものになっていたと思います。

 昭和30年代、文学賞がまぶしい陽のもとにさらされる時代が訪れます。さあ、文学賞について解説してもらおうか、と記者連中が考えたとき、まず白羽の矢が立ったのが文芸評論家陣です。だけど、彼らは基本、芥川賞にしか興味がありません。イヤイヤながら、ついでに大衆文芸の賞も語る程度に終始し、まあ直木賞なんてヘンな賞は、軽い扱いでいいでしょ、とお茶を濁してきました。そこに新たに勃興してきた「大衆文芸評論家」なる存在。直木賞に関するお仕事が、尾崎さんのもとに流れていったのは、自然なことでした。

(引用者注:尾崎が杉森久英と)最初にお眼にかかったのは、「文芸」の編集長時代のことだが、実際にお話しするようになったのは、「天才と狂人の間」で第四十七回の直木賞を受けられた後である。(引用者中略)

 その頃(引用者注:昭和37年/1962年)はテレビもなく、受賞が決まると、即座にその受賞作についてのエッセイを新聞に書かされるのがきまりで、評論家は候補作家以上に、新聞社からの速報を待機しており、「天才と狂人の間」の受賞決定まで緊張して報せを待った思い出がある。それというのも、その前後、司馬遼太郎寺内大吉黒岩重吾伊藤桂一と「近代説話」の仲間が次々と受賞していたこともあった。」(尾崎秀樹・著『逝く人の声』所収「杉森久英」より)

 当時、尾崎さんは新進の(大衆)文芸評論家として、原稿売りに忙しいとき。昭和36年/1961年からは『東京新聞』の匿名コラム「大波小波」執筆陣にも加わっています。さらに、尾崎さん言うように、この時期、『近代説話』の連中が続々と直木賞受賞。っていうかたちのなかで、同誌の同人でもある尾崎さんは、毎回のように直木賞の原稿を書かされるはめになったのでした。

 並の評論家なら、そのうち地位も確立してくるにつれ、直木賞や芥川賞なんちゅう馬鹿バカしい行事に付き合うのはやめるものです。そこが尾崎さんの桁外れなところでした。物事を時代の連続性のなかで見よう、っていう姿勢は揺るぎません。一回一回の受賞や落選にばかり目が行って、やがて疲れ果てて、飽きちゃう人たちとは、そもそもの視点が違います。

 直木賞と芥川賞のバカ騒ぎに辟易するのは、別に、いまを生きるワタクシたちの特徴じゃありません。直木賞直木賞っていうけど直木三十五の作品なんか、もう誰も読んでいないじゃん、みたいな感想もまた、しかりです。尾崎さんが直木賞の話題を書きはじめた昭和30年代半ば、すでに、いくらでも言われていました。そこで尾崎さんは、直木賞のことをどう表現したか。

「虎は死してカワをのこす、といわれる。

 直木は死んで直木三十五賞をのこした。もっとも直木本人にいわせれば、それはあずかり知らぬ話で、迷惑この上もないというかもしれない。しかし今日直木の作品をロクに読まない読者も、直木賞は知っている。

(引用者中略)

 最近の直木賞作家が、直木三十五の作品をどれほど読んでいるか疑問だが、直木は自分の作品を読まない作家に、直木賞が贈与されてもすこしも怒ったりしないはずである。むしろにぎやかなことの好きだった故人は、直木賞のフェスチバルを、大衆文学隆盛のあらわれとして心からよろこんでいるかもしれないのだ。」(『大衆文学論』所収「直木三十五論」より)

 これ、初出は『大衆文学研究』第3号。昭和37年/1962年4月です。芥川龍之介を語るに、芥川賞を語らない論稿など、腐るほどあります。直木三十五だって、〈評論〉の立場からすれば、別に直木賞など関係ないし、触れずに済ましていいわけです。しかし尾崎さんは、文学賞の営みを馬鹿にすることはありません。それでいて、騒がしいことの好きな直木、と直木賞のお祭り感を掛け合わせて、双方に傷がつかないようにおさめる。なかなか、できることはありません。

 やはり大衆文学を研究するうえにおいては、「賞」の果たしてきた重要な役割を軽んずるわけにはいかないのでしょう。その点が、純文学系の研究とは大きく違うところです。だって、大衆文芸が花開いた昭和初期、その影に(オモテに?)は、「賞」の絶対的な機能が働いていたんですから。

「昭和の初期は大衆文学の第一次の繚乱期であった。伝奇小説、股旅小説、芸道小説、捕物小説、実録小説などの時代ものをはじめ、タンテイ小説、怪奇小説、ユーモア小説、未来小説、家庭・恋愛小説など、あらゆるジャンルの作品が一時に花ひらいた。

(引用者中略)

 大衆文学の歴史に『サンデー毎日』が寄与したものは大きい。とくに新人の登竜門となり、昭和十年代から戦後へかけて活躍した多くの作家たちを育てている。この育ての親は毎日新聞の学芸部長で、『サンデー毎日』の編集にもタッチした千葉亀雄だった。(引用者中略)

 また大衆文学の発展に力を添えたのは、直木賞の創設だった。直木三十五にたいする友情のしるしとして菊池寛によってはじめられたこの文学賞は、昭和十年以後、川口松太郎鷲尾雨工海音寺潮五郎木々高太郎らに贈られてきた。」(尾崎秀樹・著『文壇うちそと』所収「大衆文学はなにを遺したか」より)

 この歴史を知らず、直木賞と芥川賞は同じようなものだとしか認識していないような人たちが語る直木賞(の歴史)は、まず信頼できないと思わざるを得ません。そして直木賞を取り巻く言論はずーっと長らく、信頼できない言説がブクブクあふれ返った状況、もしくは信頼できそう人は文学賞に興味がないので語ってくれない、みたいなことが続いてきました。

 泣けてきます。泣ける時代が粛々と刻まれていったからこそ、ひとり尾崎秀樹さんは、直木賞研究の視座からも、得難い存在として光かがやいていたわけです。

 以下は第60回(昭和43年/1968年・下半期)のときの、尾崎さんの文章です。

陳舜臣早乙女貢のふたりが、直木賞のニューフェースにえらばれた。いずれも新人というには、あまりにも名がうれている。(引用者中略)しかしミステリー畑からそだった陳舜臣が本格的な歴史ものへの発表をうちにはらみ、クラブ雑誌作家から転じた早乙女がよりシリアスなものへと向うコースからいえば、ふたりの直木賞受賞も意義あることといえよう。

(引用者中略)

 この六十回の歩みについて、奥野健男が新聞紙上に書いていた。そろそろ、その功罪が文学史的にふりかえられていい時期だろう。だいぶまえに瀬沼茂樹が、芥川賞と直木賞の歴史について文学史的なまとめをやったが、さらに社会心理史的に、検討される必要がある。

 陳舜臣・早乙女貢ふたりとも、外地派の作家だ。ひとりは神戸生れではあるが外国籍の持主、ひとりはハルビンの生れで、いずれも日本のしめった心理的土壌とはふっ切れた作家たちで、直木賞の一つの曲り角を暗示するともいえる。」(『出版ニュース』昭和44年/1969年2月下旬号 尾崎秀樹「曲り角にきた直木賞」より)

 直木賞批評ではおなじみ「曲がり角」論を吐いているところなどは、ご愛嬌。これが、どこかの新聞記者の文ならば、またテキトーなこと言ってらあ、で済ませられるのですが、なにしろ尾崎さんですからね。受賞者二人が外地派、だから曲り角、っていう視点は、ちょっと無理な切り口じゃないかとは思います。だけど、芥川賞と独立して直木賞を振り返ろうとするこの姿勢が、もう尊敬に値するわけです。ほかに誰もやろうとすらしてこなかったことですから。

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2013年6月 2日 (日)

小野詮造(文藝春秋新社・事業調査部長→『オール讀物』編集長) 50年代の「直木賞黄金時代」の中枢にいた名部長、名編集長。

小野詮造(おの・せんぞう)

  • 明治45年/1912年7月16日生まれ。
  • 昭和11年/1936年(23歳)早稲田大学国文科卒。
  • 昭和16年/1941年(28歳)文藝春秋社入社。
  • 昭和21年/1946年(33歳)文藝春秋新社の設立に参加。
  • 昭和27年/1952年(39歳)直木賞・芥川賞の運営を担当する事業調査部長に就任。
  • 昭和29年/1954年(41歳)より『オール讀物』編集長を務める。以後、編集局次長(昭和35年/1960年)、編集局長(昭和36年/1961年)、相談役(昭和57年/1982年)など。

 『オール讀物』の編集長っつうポストは、長くてもだいたい4年程度で交代します。……って、人の会社の人事などどうでもいいんですけど、直木賞と密接に関わる話題なので、しかたありません。

 なかで、歴代編集長のうち、長期にわたってその職にあった人。たとえば小野詮造さん、という方がいます。6~7年間は編集長を務めていたみたいです。直木賞でいえば、第30回(昭和28年/1953年下半期)~第44回(昭和35年/1960年下半期)のこととなります。

 この時代は、直木賞黄金時代、とのちに呼ぶ人が現われたほど(ワタクシがたったいま命名しました)、豪華な受賞者陣を生んでいます。戸川幸夫新田次郎南條範夫山崎豊子城山三郎平岩弓枝司馬遼太郎池波正太郎……。〈豪華〉というのは、いま振り返ったときの感想です。受賞当時はだいたいみなさん、まだ本の一冊も出していないとか、そもそも一度も商業誌に小説を書いたことがないとか、そんな人ばっかりでした。直木賞の受賞が引き金となって、これだけ多くの人が職業作家の道に進み、それぞれが小説界の屋台骨を支える地位にまでのぼっていった、という。「黄金時代」と呼ばれるゆえんです。

 で、そのとき『オール讀物』の編集長だったのが小野さんです。小野さんがいなければ、彼らの文壇登場もなかった、……とはさすがに言えませんが、彼の名前は、直木賞受賞者の回想文などにはしばしば登場します。おかげで小野さんも、映画に出たことのある素人役者、としてだけでなく、「名編集者」といった評価を、いまも得ています。おそらく。

 たとえば新田次郎さんは、信頼できる編集者のひとりに、小野詮造さんの名を挙げています。『小説に書けなかった自伝』から。

「私は、この頃(受賞して2年、昭和33年/1958年ごろ)になってもまだ小説家としての確信のようなものが持てず、この世界から突然消えて行く自分の姿におびえていた。(引用者中略)当時、小野詮造氏は「オール讀物」の編集長をしていた。彼は役人作家としての私を認めてくれた第一番目の人であった。

 彼は年の初頭に、何月までに現代ものを何枚、そのつぎには何月までに時代もの何枚というように仕事の予約をしてくれた。大体年三本であったが、このように前から話があると、それまでによいテーマも探せるし、時間の調整もできてまことに助かった。「小説新潮」の方は川野黎子氏が最初から私の担当だったが、やはり私の立場を理解して、原稿を渡した瞬間に次の原稿の予定枚数と期日を知らせてくれた。」

 ここからわかることは、小野さんが、新田さんのことを、きちっと計画を立てて書くことで力量を発揮できる人だ、と見抜いた事実です。そして、わざわざそんな原稿依頼の仕方をした、と。さすがです。

 新田さんのなかで、さらに小野さんの株が上がった、と思わせるエピソードが、そのあとに出てきます。『酒』誌での有名な、文壇酒徒番付と匿名編集者座談会の一件です。これに新田さん、ムッとし、編集者というのは小野さんみたいな人たちばかりでない、と教えられたんだとか。

「私はこの日まで編集者には特別な敬意を払っていた。(引用者中略)ところがその人たちが、匿名をいいことにして、かなり名の通った作家に対しても乱暴な調子でこきおろしているその記事を読んで以来、私は編集者全体に対して、大きな不信感を持つようになった。編集者は小野詮造氏や川野黎子氏のような人ばかりではないと思った。気をつけないとひどい目に会うかもしれないとそれからは注意することにした。

 「酒」の角力番付における私の位置はずっと砂かぶりであったが或る年前頭に昇進させて、敢闘賞をやるから、その言葉を原稿に書いて送ってくれと云って来たことがあった。私はこの番付と座談会がまことに不愉快な存在であることを指摘して執筆を拒否した。現在も尚、このばかげたことが為されているかどうかは知らないが、作家をこきおろすんだったら、堂々と本名を使ってやればまた別な味も出ることだろうと思っている。」(同)

 これで、じつは匿名座談会の出席者のひとりに、小野詮造さんがまじっていた、なんて真相が明らかになったら仰天です。もちろん、そんなどんでん返しはありません。新田さんにとって、大切な理解ある編集者でした。

 つづいて登場するのは、池波正太郎さんです。五度、直木賞候補に挙がりながら、手が届かず、第43回(昭和35年/1960年上半期)「錯乱」でようやく賞が与えられます。この過程をつぶさに見る立場にあったのが小野さんです。と言いますか、小野さんは、池波さんの受賞に、重要すぎるほどの役割を果たした人です。

 ご本人の回想から。ちょっと長めですが引用してみます。

「私(引用者注:小野詮造)は、昭和廿七年以来、直木賞選考委員会の進行係を受持っていたので、およそのことは記憶にあるが、なかでも惜しかったのは、第三十六回に、『恩田木工』が候補になった時である。『恩田木工』はその回の、有力な本命と目されていた。しかし、遂に受賞作に推されなかった。

 今東光穂積驚両氏が、その時の受賞者である。お二人の直木賞受賞パーティの席で、挨拶に立たれた日本文学振興会の佐佐木茂索理事長が、最后に声を張り、

「池波さん、池波さんはこの席におられますか」

 と呼びかけられ、今度の『恩田木工』が、受賞にはずれたのは残念なことであった。あの作品は受賞作と比べて遜色なかったと、自分は思っている。池波さん、どうかこれからも精進をつづけて、是非近い将来、直木賞を受けて欲しい。そんな風に語られた。

(引用者中略)

 長い間、「オール讀物」を担当していた私として、挨拶をきいたとき、示唆に含んだその言葉の意味を、ただちに悟らねばならなかった筈である。思えば迂闊なことであった。

 池波さんはそれからも、時代物作家として、有力な直木賞候補であった。しかし私は、ずっと何の仕事も頼んでいないのである。」(昭和51年/1976年5月・朝日新聞社刊『池波正太郎作品集3』「付録月報4」所収 小野詮造「『錯乱』の思い出」より)

 ということで、第36回の「恩田木工」から、第37回「眼」、第38回「信濃大名記」、第40回「応仁の乱」、第41回「秘図」まで、5度の候補作はすべて『大衆文藝』に掲載されたもの。そのまま『オール讀物』が、池波さんに小説を依頼していなかったら、どうなっていたのか。知るすべはありません。小野編集長が……いや、池波さんの先輩、北條秀司さんが、小野さんのところに訪ねてきて、こんなやりとりがあったからです。

「北條さんは、

「今日は君に一寸用があって来たのだが、一応二人だけの話としてきいて貰いたい」

 と前書きされて、

「実は池波君のことだが、彼は僕の仲間の一人で、『鬼の会』(北條氏を中心とした劇作家の親睦会)のメンバーでもあり、マジメで、なかなかいい仕事をしているんだよ。御承知の通り、何回も直木賞の候補にもなって、今が大事な時なんだ。君は池波君を、どう思っているのか、ひとつ本気で考えてみてくれないか。彼を励まして、いいものが書けたら、『オール讀物』で取りあげるようにできないものか。よろしく頼みますよ」

 まことに云われる通りで、全く一言もない。

 北條さんは、シビレを切らして態々たずねて来られたのである。それは佐佐木さんの挨拶を聞いた時、すぐ私が思い当らねばならぬことでもあったのだ。

 私は自分の編集者としての怠慢を、ピシャリと一本、正面から打ち込まれたと思った。ハッキリそう思ったのである。」(同)

 それではじめて『オール讀物』が池波さんに「題材は自由に」ということで依頼し、出来上がってきたのが「錯乱」でした。これが、何だかんだと非難を受けつつ、6度目の候補でようやく受賞。

「私も格別嬉しいことであり、正直云って、肩の荷を降ろしたようにホッとした。」(同)

 と小野さん、安堵に包まれたわけです。たかが候補になった程度で、『オール讀物』が声をかけることはない、という当時の直木賞事情、『オール讀物』事情がかいま見えるエピソードではあります。

 池波さん6度目の選考会は、海音寺潮五郎さんが猛反対し、川口松太郎さんが強引に押し切って授賞に導いた、というのはよく知られているところです。『オール讀物』平成25年/2013年5月号「池波正太郎の手紙」でも、そのように紹介されていましたね。いったい、このとき司会役を務めていた小野さんが、どんな気持ちで進行していたのか、想像するのも楽しいことです。

 小野さんが編集長だった頃の直木賞は、いまからは想像できないくらい、『オール讀物』の小説や、文藝春秋新社から出た小説が、候補に挙がる機会が少なく、受賞も稀でした。しかも「錯乱」は、じつは最初、文藝春秋新社の予選では評判が高くなく、外されかかったんですが、「もう一度だけチャンスをあげたい」という声が出て、予選通過作となった、なんて紹介する文献もあるんです。それで何とか受賞したのですから。小野さん、本気で「ホッ」としたのかもしれません。

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2013年5月26日 (日)

長谷川泉(「直木賞事典」編集人) 芥川賞は芥川賞のことだけで語れます。直木賞は、芥川賞といっしょでないと、語ることなどできないのです。と。

長谷川泉(はせがわ・いずみ)

  • 大正7年/1918年2月25日生まれ、平成16年/2004年12月10日没(86歳)。
  • 昭和17年/1942年(24歳)東京帝国大学文学部国文学科を卒業。
  • 昭和24年/1949年(31歳)東京大学大学院修了。医学書院に入社。編集者として活動するかたわら、清泉女子大学教授、学習院大学講師などに就任、文学研究を続ける。
  • 昭和52年/1977年(59歳)至文堂『国文学 解釈と鑑賞』臨時増刊号として「芥川賞事典」(1月)、「直木賞事典」(6月)を編集。
  • 昭和54年/1979年(61歳)医学書院の社長に就任。

 なぜあなたは、芥川賞じゃなく直木賞に、そんなに執心するんですか、とよく訊かれます。

 根本は、物語性重視の時代小説や推理小説、冒険小説その他もろもろが好きだから、なんですが、それは直木賞に興味をもったトバ口にすぎません。そこから直木賞の歴史や、世間の反応、取り扱われ方などを調べるようになりまして、呆然としました。芥川賞のそれに比べたときの格差が、何とまあ、ありすぎること! 正直、驚いて、困って、嘆きました。そんな感想を抱いたまま、払拭することができず、ずぶずぶとドロ沼のなかに歩を進めるようになった。っていうのが正直なところです。

 「直木賞も芥川賞も、そんなに変わんないじゃん」と思いましたか? どうぞ、調べてみてください。ここ十年弱の、「文学賞メッタ斬り!」を中心とした両賞に関する反応だけを見て、満足してはいけません。昭和10年/1935年創設から、時代ごとにおける、直木賞に対する反応を追ってみる。もうそれだけで一生がつぶれること、請け合いです。

 最近はインターネットほか、デジタル環境の整備が進んでいますので、一生をつぶさなくてもいいかもしれませんけど。それはそれとして。

 昭和52年/1977年1月。の奥付ですから、実際はその前月ぐらいには売り出されたんでしょう。『国文学 解釈と鑑賞』が臨時増刊号「芥川賞事典」を発刊しました。ときに世間は、第75回(昭和51年/1976年上半期)芥川賞を、村上龍さんが受賞してからまだ半年も経たないころです。アクタガワショウ・アクタガワショウってうるさいけど、じっさい、それ何なんだ、と思う人も多く、そこに「芥川賞事典」の刊行される土壌がありました。実売数はわかりませんが、編集を担当した長谷川泉さん自身、「広く迎えられた」と表現しています。

「最近「国文学 解釈と鑑賞」一月臨時増刊号として「芥川賞事典」(至文堂)を編んだ。ちょうど村上龍の「限りなく透明に近いブルー」が芥川賞を受賞して、いろいろ論議を呼んだあとであったので、広く迎えられたようである。

 (引用者中略)「芥川賞事典」が迎えられたのには、村上龍の「限りなく透明に近いブルー」が、石原慎太郎の「太陽の季節」いらいの、芥川賞が世評にのぼったことに支えられているともいえる。」(平成10年/1998年8月・明治書院刊『長谷川泉著作選12 評論・随想』所収「芥川賞の人びと」より ―初出『向陵』昭和52年/1977年4月30日)

 なにしろ芥川賞に対する注目度は、その後も浮き沈みを経ながら、延々と続きました。芥川賞の歴史について何か書こうとする際には、この一冊は欠かせない参考資料ともなって、『回想の芥川・直木賞』を書いた永井龍男さんはじめ、多くの人が恩恵に浴してきました。むろんワタクシもそのひとりです。

 長谷川さんは旧制一高時代には、文芸部の委員として創作にも手を染め、森鴎外、川端康成三島由紀夫の研究に邁進し、まじめな文芸の世界で生きてきた人ですから、芥川賞の対象とするような文芸世界は、お得意分野です。「事典」の巻頭には、「芥川没後五十年と「芥川賞」の風雪」を寄稿(のちに昭和53年/1978年1月・教育出版センター刊『近代日本文学の側溝』に収録)。ざっくりと芥川賞の歴史を振り返りつつ、「新人賞としての芥川賞」が、純文学界のなかでどのように変容していったか、みたいなことをまとめました。

 直木賞に関しては、次のごとく、軽ーく触れるにとどまっています。

「芥川賞と対蹠的な賞である直木賞は規定によってあきらかなように「大衆文芸」に対して与えられるものであるが、この賞もまた「新聞雑誌(同人雑誌も含む)に発表されたる無名若しくは新進作家」が対象である。共に「新進作家」の方は、解釈と実際の取り扱い上の境域に微妙な点がある。同じく新人賞であるとは言っても、芥川賞の方が新人たる限界の解釈において厳密である。そのことは、すでに引いたように田宮虎彦の「絵本」が芥川賞の候補作からはずされて辻亮一の「異邦人」が受賞に決定した第二十三回(昭和二十五年上半期)の選評で坂口安吾が触れて、当然候補からはずすべきだと書かれている檀一雄の「石川五右衛門」「長恨歌」が第二十四回(昭和二十五年下半期)直木賞を受賞していることなどによっても察することができる。」(「芥川没後五十年と「芥川賞」の風雪」より)

 なるほど、芥川賞は新人解釈が「厳密」で、直木賞はゆるゆる。たしかにそうです。

 ただ、ワタクシなどは、「直木賞と芥川賞が並べられると、たいてい人間は芥川賞側の基準・物差しで思考しようとするもの」っていう、なかば被害妄想があるもんですから、あえてこう言いたいと思います。直木賞のとらえる「新進」のほうが、あいまいでどうとでも取れる分、現実的であると。

 要は、芥川賞が厳密さをもって「新進」を解釈しようとしていた時代がある、または選考委員がいる、ことは否定しませんが、それ、貫徹できましたか? けっきょく形骸化しちゃって、理想論化、空論化して、ときどき直木賞みたいな「新進」解釈をしないと身動きがとれなくなったり、していませんか?

 最初から、より現実的な「新進」解釈をしてきた直木賞のほうこそ、先進性の面で勝っているのじゃないんですか。

 ……すみません。直木賞を擁護していたら、つい熱くなってしまいました。まあ、文学賞としては現実的よりは無謀なほうが面白いし盛り上がる。それは認めます。直木賞が長らく、芥川賞ほどの爆発力を持てなかったのは、大衆文芸が純文芸よりも下に見られて云々の問題もさることながら、どうしても地に足のついたものを望み、現実路線を歩むほかなかった道行きも、影響していたのかもしれません(←思いつきです)。

 さて、長谷川さんです。「芥川没後五十年と「芥川賞」の風雪」を発表したあと、いよいよ『直木賞事典』を編集・刊行し、日本中のわずかな直木賞ファンに生きる希望と勇気を与えたるにいたるわけですが、その冒頭を飾るための原稿として、「直木三十五と「直木賞」の風雪」を寄稿しました。ほんとうに「風雪」って言葉が好きな方です。

 「~「芥川賞」の風雪」では、自分の興味に身近な、芥川龍之介のことやのちに名をなした受賞者たちのことをわんさか書くことにリキが入っていました。ところが「~「直木賞」の風雪」では様相が一変します。冒頭からいきなり、先ごろ決まったばかりの最新直木賞作、三好京三『子育てごっこ』について筆を費やしているのです。

「第七十六回「直木賞」(昭和五十一年下半期)が、三好京三の「子育てごっこ」に決ったことの意味をまず確認したい。それには「直木賞」選評のなかから「子育てごっこ」の作品評の、「直木賞」そのものへの背反ないしは懐疑の言葉を拾い出すことをなしてみよう。そのことは、芥川賞との関連についても、言及されていることを予想させることにもなる。」(「直木三十五と「直木賞」の風雪」より)

 つまり、どういうことかといえば、長谷川さんのこの文は、直木賞を単独で見る視点ではなく、「芥川賞と常に対にあった直木賞」という状況に主眼をおいて、書かれているってことです。『直木賞事典』の冒頭に掲げられています。

 ここに哀愁を感じない直木賞ファンなど、いるのでしょうか。直木賞が一つの独立した賞として取り上げられることなどあり得ない、絶対的に芥川賞がいっしょになければならない、なぜならオレがそんなことは許さない、と言わんばかりの、編集担当による宣言が、『直木賞事典』のしょっぱなに書いているわけですから。

 ……ええ、被害妄想です。

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2013年5月19日 (日)

平野謙(文芸評論家) 「純文学の変質」を語っていたら、ちょうど直木賞・芥川賞の受賞作の境界があいまいになったので大喜び。

平野謙(ひらの・けん)

  • 明治40年/1907年10月30日生まれ、昭和53年/1978年4月3日没(70歳)。
  • 昭和7年/1932年(25歳)東京帝国大学在学中に、プロレタリア科学研究所に入る。昭和10年/1935年頃から本格的な文芸評論活動を展開。昭和15年/1940年に大学卒。
  • 昭和30年/1955年(48歳)『毎日新聞』にて文芸時評を担当(昭和43年/1968年まで)。
  • 昭和34年/1959年(52歳)『小説新潮』にて「文壇クローズアップ」を担当(昭和35年/1960年まで。昭和43年/1968年に再担当)。

 そろそろ「直木賞(裏)人物事典」も残りわずか。タネ切れ感は否めないところではありますが、いちおう今週も書きます。誰でも知っている(はずの)ビッグネーム、平野謙さんです。

 ミステリー大好き、文壇事情大好き。……平野さんのどうしても隠しきれない、いや、本人も隠そうとはしていないこれらの好みが、直木賞のことに触れざるを得ないかたちで、平野さんの文業のなかに登場するのは、もう当たり前のことです。しかも自身、純文学の変質だどうだ、といったテーマで派手に名を売るぐらいの方です。芥川賞と直木賞、という恰好の材料を巧みに使って、そこから現在の文芸状況を語る芸を身につけるほどの才人でした。

 たとえば、平野さんの有名な「直木賞記事」……有名というか、ワタクシが勝手にこれまで何度も引用しているだけかもしれませんけど、第46回(昭和36年/1961年・下半期)の伊藤桂一「螢の河」受賞について。これなど、直木賞を扱うときの平野さんの手ぎわを代表する文章だと思います。

「今月は芥川賞と直木賞の授賞作発表の月であり、雑誌《文藝》復刊の月である。すでに新聞の報道したように、芥川賞は宇能鴻一郎に、直木賞は伊藤桂一に授賞されたが、宇能鴻一郎の『鯨神』と伊藤桂一の『螢の河』とを読みくらべると、芥川賞と直木賞が逆になったのじゃないかと錯覚するのは、私ひとりではあるまい。芥川賞と直木賞は、よく知られているように、菊池寛が新人奨励のために、亡友芥川龍之介と直木三十五の名にちなんで設けた文学賞である。芥川賞がいわゆる純文学的な新人のために、直木賞がいわゆる大衆文学的な新人のために設定されたのは、おそらく当時としては自明のことだったろう。(引用者中略)以来、星うつり年かわって、宇能鴻一郎と伊藤桂一という二新人にめでたく授賞されたわけだが、その受賞作を読みくらべると、もはや純文学的な芥川賞と大衆文学的な直木賞との境界線が名実ともに崩壊しさっている事実は、何人といえどもこれを疑うことはできまい。」(「文藝時評 昭和三十七年三月」より)

 何といっても一番重要なのは、名実ともに崩壊しさっているのが事実かどうかではない点です。昭和36年/1961年9月に平野さんが『朝日新聞』に「文芸雑誌の役割」(9月13日)を、『週刊読書人』に「『群像』15年の足跡」(9月18日)を書き、いまの文学は中間小説化が甚だしく、「純文学概念」が崩壊する過程にある、みたいなハナシをしたところ、伊藤整さんだの大岡昇平さんだのが反応した、いわゆる「純文学論争」の渦中に、上記の文章が書かれていることこそが、重要です。

 要は、直木賞と芥川賞の受賞作を引き合いに出すことで、ほら見なさい、もうそんな概念は崩壊してるって言ってんだろッ、と平野さんは自説を補強しようとしているわけですね。

 ほかに寄稿した文章では、そのことを、もう少しはっきり文章にしていたりします。

「芥川賞などがはなばなしいマスコミの脚光を浴びて、授賞と同時に受賞者の家にテレビやラジオの報道関係者がワッと押しかける、というような現象は、石原慎太郎の有名な『太陽の季節』以来のことである。たとえば柴田錬三郎は昭和二十六年に直木賞を授賞されたが、当時純文学を志していた柴田錬三郎は、芥川賞ではなくて直木賞を授賞されたことに悲観したそうである。事実、直木賞を授賞された当座、原稿注文はさっぱりなかったという思い出を、柴田錬三郎はどこかに書いていた。ここにも私のいわゆる純文学変質説のひとつの現象がある。

 こんどの『鯨神』と『螢の河』とを読み比べてみると、作品の出来ばえは二の次として、作柄としては『鯨神』が直木賞的なものであり、『螢の河』が芥川賞的なものであることは、だれの目にも明らかだろうと思う。より純文学的な芥川賞と、より大衆文学的な直木賞との境界線は、ここでもしごく曖昧になっている。」(「芥川賞と直木賞に思う」より ―太字下線は引用者による)

 とにかく平野さん、純文学変質説のことで頭がいっぱい。その自説の正しさをもっともっと言いたいがために、たまたま一回、気になる結果が出たから「崩壊しさっている事実」と、ことさらオオゴトのように取り上げたんじゃないのか、っていう匂いがぷんぷんします。

 さすが策士です。

 崩壊しさった例として、これ以上はない、っつう戦後の両賞の例、第28回(昭和27年/1952年・下半期)のときには、平野さん、まったくそんなことオクビにも出していません。それどころか、芥川賞よくやった、みたいなことを言っています。

「第二十八回の芥川賞が決定した。(引用者中略)五味康祐松本清張の二作はそれぞれイヤミのない佳作で、積極的に反対したい気はない。五味康祐の作は立川文庫めいた伝奇的な材料にもかかわらず、一応歴史小説の品格を保っているし、松本清張の作はある不幸な青年の調べ仕事を描いて、題材的にも一種の感銘を与える。(引用者中略)

 今年になってから、読売賞の阿川弘之(『春の城』)、直木賞の立野信之(『叛乱』)が決定したが、作品の内容を一応除外すれば、それぞれの賞の性格にふさわしいものとはいえまい。それにくらべれば、ほとんど海のものとも山のものともわからぬ新人に授賞した芥川賞の英断には、なにかさわやかなものがある。」(「文壇時評 昭和二十八年二月」より)

 このとき純文学変質の話をぶっ放してもよかったのに、しまっておいて、一番効果がある時期を狙って(……いや、無意識でしょうけど)両賞の境界線のハナシを持ち出すんですから。直木賞・芥川賞をしっかり我が武器として活用している、としか見えません。

 個人的な感想をいえば、純文学概念やら中間小説化やらを語るのはいいんですけど、そんなときにかぎって便利な道具のように直木賞を引っ張ってくるのは、なんか都合のいい論に見えちゃいます。戦後15年にわたって、直木賞のいう「大衆文芸」概念は、あっち行ったりこっち行ったり、揺れに揺れまくっていて、かならずしも純文学化とか中間小説化とか、そんな一方向への動きをしていたわけじゃないからです。

 第40回(昭和33年/1958年・下半期)から第48回(昭和37年/1962年・下半期)まで、直木賞の受賞作は『文藝春秋』(『オール讀物』ではない)に転載されました。つまり、この時期だったからこそ、『文藝春秋』一冊を買うだけで、両賞の受賞作を読みくらべることが可能だったわけです。これも、平野さんが文藝時評で取り上げるには、もってこいの状況でした。『文藝春秋』の掲載作品であれば、新聞の文藝時評でこれに言及して、何の不思議もないからです。

 ただ、これは平野さんも言っているんですが、直木賞(=大衆文芸)、芥川賞(=純文芸)という図式そのものが、創設のころにはハッキリしていたかというとそうでもありません。ハッキリはしていないけど、賞が現実に存在していることで、何となしに分類の概念が続いてきた。昭和10年/1935年のころも、昭和37年/1962年のころも、あるいはその後、現在にいたるまで、その茫漠とした感じは何も変わっていないのじゃないでしょうか。あくまで両賞に関するかぎりは。

 だいたい、両賞の概念の境界線が崩壊したと宣言した平野さんでさえ、そのあとも、「直木賞的なるもの」の概念から離れられなかったんですから。

「断わるまでもなく、五木寛之は最近直木賞を受賞した新人で、『さらばモスクワ愚連隊』はその第一創作集である。もっともこの本が企画され、刊行の準備が進行していたときは、まだ直木賞受賞は決定していなかったはずだ。しかし、最近この著者ほど直木賞にピッタリの感じの人はいないし、この本はいかにもそういう著者の処女創作集にふさわしい。」(『新刊時評(下)』「昭和四十二年三月」より)

 ね。「直木賞にピッタリの感じ」とか言っちゃっている。え、そんなもの、とうになくなったんじゃないんですか、とツッコミを入れたくなるところが、平野さんの可愛げのある魅力です。また、そういう人だからこそ、文学賞のことなんか無視すればいいのに、わざわざ、ひんぱんに文学賞について熱っぽく語って、あのひと文芸評論家なの?文壇評論家なの? などと揶揄されたりするわけです。まったく、楽しい人です。

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2013年5月12日 (日)

進藤純孝(文芸評論家) 純文学の変質を語るときに、大衆文学の代表、という役を直木賞に当てはめる。

進藤純孝(しんどう・じゅんこう)

  • 大正11年/1922年1月1日生まれ、平成11年/1999年5月9日没(77歳)。
  • 昭和21年/1946年(21歳)東京大学在学中、新潮社に入社(昭和34年/1959年まで)。大学は昭和25年/1950年に卒業、昭和28年/1953年に同大学大学院修士課程修了。
  • 昭和40年/1965年(43歳)「芥川賞始末記―戦後文学の栄光と変貌」(『潮』9月号)をはじめ、さまざまな媒体で同賞に関する評論を発表。
  • 昭和50年/1975年(43歳)第11回から作家賞の選考委員に就任(終了となる第27回平成3年/1991年まで)。

 1950年代の芥川賞を語らせたら、おそらくトップ100に進藤純孝さんの名は挙がると思います。なぜなら、当時の芥川賞を語ろうとする人は日本で100人もいなかったでしょうから。……っていうのは冗談です。作家とごく親密な立場にある文芸評論家、みたいな立場から生の芥川賞を知っている進藤さんのような人には、ねえ芥川賞のこと何か語ってえ、お願い、といったマスコミからの注文がどしどし押し寄せた関係もあり、奥野健男さんと双璧をなして進藤さんは、芥川賞評論界をリードする存在となったのでした。

 評論界というか、あれです。50年代の受賞たちと親しく、しかも、芥川賞の歴史の分岐点に脇役として登場するぐらいの人ですから、それはもう、にわかに芥川賞の話題がさまざまな媒体で語られるようになった60年代、進藤さんほど芥川賞の回想を語るにふさわしい人は、そうそういませんでした。

 拙ブログでおなじみの顔、山本容朗さんが角川書店編集者時代につくった、進藤さんの著書より引いてみます。

「芥川賞といえば、遠藤周作さんに続いて、石原慎太郎さんが「太陽の季節」で受賞した。

 その受賞決定の一週間前に、石原さんが作品集「太陽の季節」を出版してくれないかと、私のところへ話をもってこられた。(引用者中略)

 一週間経ち、石原さんの受賞がきまった時、ただちに交渉するようにと部長から命令がきた。私は少しもあわてなかった。だいたい、受賞がきまって、その受賞者を追っかけるのはみっともないと、私はつねづね思っていた。

 受賞作は、その前に出版社がきまってない以上、賞の世話をした出版社から出すのが、当り前であり、それを邪魔するのは、横取りみたいで醜悪なことであろう。いくら、ジャアナリズムが、非情冷酷な競争であるといっても、私は編集者が人間の誇りを持つかぎり、そんなことはできたものではないと考えていた。(引用者中略)

 私の仕事は、第三の新人あたりでストップしてしまった。石原さんは例外で、それ以上の新しさに、私は不快をいだいた。

 開高健さんや大江健三郎さんがデビューした時、多くの評論家たちは、「文学に新風を吹き込む」と合唱したが、なにが新しいのか私にはわからなかった。見せかけだけの新しさに、わいわいさわぐ活力を、私はもう持ち合わせていなかった。」(昭和34年/1959年12月・角川書店刊 進藤純孝・著『ジャアナリスト作法』「先取」より)

 「わいわいさわぐ」とは、つまり芥川賞のことを別の表現で示しているのでしょう。自分が「いいぞ!」と思ったものでも、わいわい騒がれると途端に冷めてしまったりするものですが、進藤さんもその病気に罹ったものでしょうか。

 何となれば進藤さんは、その直前、「わいわいさわぐ」と芥川賞が同義でなかったころの芥川賞には、ある程度の理解を示していたからです。

 「太陽の季節」出版の話を引き受けたころのことを、『文壇私記』ではこう書きます。

「呆れ顔でふり返ってみるのだが、やはり、小島信夫の『小銃』と庄野潤三の『愛撫』を手探りで出し、翌年両人が揃って芥川賞を受賞して手柄みたいなことになった、その自信も裏づけになっていたのであろう。

 もっとも、受賞した小島の『アメリカン・スクール』も、庄野の『プールサイド小景』も、みすず書房から上梓されたので、手柄どころではなかった。ついでに言えば、吉行(引用者注:吉行淳之介の『驟雨』も、こっちの担当で新潮社から出ている。当然(?)、これは文藝春秋から出版されるべきものだろうが、『原色の街』を収録したいという吉行の考えに難色を示したとかで、話がこちらに転げ込んだのだったと思う。(引用者中略)

 ともかく、こうして、小島、庄野、吉行と、新進作家の処女作品集あるいは受賞作を手がけて失敗もしなかったことが、一つの思い上りとなり、石原に「おひき受けします」なぞと大きなことを言う始末ともなったようである。」(昭和52年/1977年11月・集英社刊『文壇私記』「文壇の崩壊」より)

 進藤さんの回想は、謙遜や自虐がふんだんに詰め込まれていて、それはそれで味が出ているんですけど、ええと、どういうことですか。自分がこれぞと思った作家の作品集を出したら後から芥川賞が追いかけてきた。芥川賞受賞作をおさめた作品集を、自分の手で出すことができた。それが少なからず編集者としての自信になっていた、みたいなことでしょうか。

 で、結局そういった「わいわいさわぐ」状況に付き合い切れなかった自分を、進藤さんは、編集者の素質に欠けていたのだと判断し、あるいは物書きとの兼業が、新潮社内で嫌がらせを受けたりして居心地が悪くなり、昭和34年/1959年に文筆の道を歩むことを選択します。

 これで立派な文芸評論家。ってことは、自分の好きなことだけ書いてはおまんまの食い上げです。「わいわいさわぐ」芥川賞のことも、やっぱり触れざるを得ません。そこで進藤さんは、「ジャーナリズムのなかの文学」、あるいは「純文学と大衆文学の意味」みたいな、自分の関心分野とひっかけて芥川賞を語る……はい、それはつまり、進藤さんが合わせて直木賞をも語る土壌となったのでした。

 第53回(昭和40年/1965年上半期)、芥川賞は津村節子「玩具」と決まりました。評論界で、これの評判が芳しくなかったことは、『芥川賞物語』でもちらっと触れましたけど、進藤さんも「芥川賞始末記――戦後文学の栄光と変貌――」(『潮』昭和40年/1965年9月号)で、まずそのことに言及しています。

「芥川賞という出来事が、新人の登場という清新溌溂たる光景であるにもかかわらずこんなにも薄ぼけた印象しか与えないというのは、いったいどうしたことなのか。

 罪は津村節子の「玩具」にあるのではない。芥川賞受賞の出来事が、新聞やテレビ放送まで詰めかけるといった、昔は想像もできなかった派手な騒ぎようもむなしく、どうにも生彩を欠き、意気上らぬことになったのは、昭和三十六年頃からのことではないか。」(「芥川賞始末記――戦後文学の栄光と変貌――」より)

 「薄ぼけた印象しか与えない」というのは、もう進藤さんの主観です。それは、見せかけ(だけかどうかはともかく)の新しさに騒ぎたがる文壇と報道に嫌気が差してしまった進藤さん自身の問題なんだろうな、とは思うのですが、さっこんの女性作家は概して〈話上手〉、という自身の考えから、芥川賞に関してもこう評します。

「ここ三、四年の芥川賞の受賞作も候補作も、ほとんど話上手の才筆が選ばれている。芥川賞の女性化時代といっても差支えあるまいが、その故にこの賞の生彩もとみに喪われてきたのである。」(同)

 ははあ。話上手の才筆が、賞の生彩に関係するのだと。

 後段で進藤さんは、五味康祐松本清張両氏の受賞とその後の活躍に触れています。そこに描かれたのは、話上手な才筆=大衆文芸=直木賞、みたいな構図です。

「『喪神』は受賞後かなり評判が悪かった。直木賞との間違いではないかという批評もあった」と五味自身が語り、また松本の受賞作は、最初、直木賞の候補になっていたという事情からも察せられるように、作品の質が純文学の本質からそれており、これらの作品の受賞は、明らかに文学の変質を告げてもいた。

 端的にいえば、両作品ともに見事な完成度を示しながら、それは話上手な才筆に支えられており、作者の魂の呻きを呼吸し、疼きを息づく苦渋晦渋を、ほとんどとどめていないのである。

 こうした文学の質は、その頃から急激にふくれ上ったマス・コミ現象のなかで、小説の繁昌をもたらし、五味も松本も、純文学どころか、大衆文芸の領域に大きく座を占める作家になっていった」(同)

 なるほど。だから進藤さんにとって、直木賞は、生彩なく見えるのですか。ワタクシも「生彩ならあった!」と胸を張って弁護できないのが悔しいですけど、まあ、話上手な才筆が、賞の生彩を失わせる要因だみたいに言われちゃうと、直木賞、立つ瀬ないです。

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2013年5月 5日 (日)

豊田健次(『別冊文藝春秋』編集長→『オール讀物』編集長) 文芸編集者として直木賞を最大限に活用するとともに、「文芸編集者のための直木賞」をつくり上げる。

豊田健次(とよだ・けんじ)

  • 昭和11年/1936年生まれ(現在76歳)。
  • 昭和34年/1959年(23歳)文藝春秋新社入社。『週刊文春』、出版部を経て『文學界』『別冊文藝春秋』編集部員(昭和41年/1966年~昭和43年/1968年、昭和46年/1971年に復帰)となる。
  • 昭和51年/1976年(40歳)より『文學界』『別冊文藝春秋』編集長を務める。
  • 昭和54年/1979年(43歳)より『オール讀物』編集長を務める。その後は文春文庫部長や出版局長、取締役出版総局長、日本文学振興会担当などを歴任。
  • 平成11年/1999年(63歳)文藝春秋を退社。

 この人選は、日本全国民、文句ないでしょう。「直木賞(裏)人物事典」のなかでも、他の追随を許さない、ぶっちぎりの、抜きん出た功績者。豊田健次さん、略してトヨケン、またの名を「ミスター直木賞」、「直木賞中興の祖」、ひところは豊田さんのことを「豊田ナオキショウさん」と呼ぶ人が現われたり、また直木賞が「トヨダ賞」と呼びならわされていた、などという逸話すら……あるわけないです。

 いや、でも、昭和の時代、何人の日本人が生きてきたかは知りませんけど、豊田さんの直木賞に対する功績は、尋常の域をはるかに超えています。いつも芥川賞の陰に隠れてくすぶっていたこの賞に、文芸編集者の視点から、「職業作家のケツを叩くための賞」という役割をしっかりと設定して、「商業主義にすぎる」なんちゅう外野の批判に臆することなく、直木賞の活性化に尽力し、ときに「中のひと」となっては、心ない非難に反論しながら、直木賞文化を盛り立ててきた、という。

 豊田さんの、直木賞に対する業績はきっと語り尽くせないほどでしょう。公にされていないこともゴマンとありましょうし。ここでは、ざっと目ぼしいところだけ挙げてみます。

  • 五木寛之さん(第56回 昭和41年/1966年下半期受賞)、野坂昭如さん(第58回 昭和42年/1967年下半期受賞)と『別冊文藝春秋』に小説を書いてもらい、直木賞受賞を御膳立てした。友人の大村彦次郎さんと語らっての連携プレーのたまものだった。

  • 『別冊文藝春秋』を、文藝春秋が直木賞をとらせたい作家のための媒体として確立させた。

  • 直木賞に遠い存在だった田中小実昌さんの、『香具師の旅』所収の作品を第81回(昭和54年/1979年上半期)の予選委員会で強く推薦し、最終候補にまで残した(そして結果受賞となった)。

  • 第83回(昭和55年/1980年上半期)選考会で分が悪かった向田邦子さんの作品を、無事受賞に着地させた。

  • 直木賞をとりたがっていた胡桃沢耕史さんに、直木賞がとれると囁き、本意ではない私小説もの『黒パン俘虜記』を書かせた。そして第89回(昭和58年/1983年上半期)受賞へと導いた。

  • 『別冊文藝春秋』編集長として、筒井康隆さんの「大いなる助走」を連載(昭和52年/1977年9月~昭和53年/1978年12月)し、直木賞の権威を神格化したい面々から投げつけられる攻撃の矢面に立たされた。

  • 『文學界』編集長として、永井龍男さん「回想の芥川・直木賞」(昭和53年/1978年1月号~12月号)の担当となり、同作を完成させた。

  • 退社後、山口瞳さん・向田邦子さんと直木賞にまつわるエピソードなどを入れた『それぞれの芥川賞 直木賞』(平成16年/2004年2月・文藝春秋/文春新書)を上梓した。

 どれをとっても、直木賞を語るうえでは欠かせない事項でしょうよ。以前に拙ブログで触れたものがほとんどですけど、豊田さんの功績はいつまで経っても色褪せない、って意味もこめて、上に挙げた事象それぞれにおける、豊田さんの存在感を再確認しておきます。

 まずは、『小説現代』との連携プレー。

豊田 例えば、五木寛之さんが「さらばモスクワ愚連隊」で小説現代新人賞を受賞されたとき、「大型新人、現わる」と各社の編集者が殺到して原稿依頼をしました。当然僕も依頼してお引き受けいただいたんですが、『別册文藝春秋』に発表すれば直木賞に近いと『小説現代』の編集者が五木さんにささやいてくれるわけです。

(引用者中略)

 野坂昭如さんのときは、講談社の大村彦次郎さんとそういう話をして、「野坂さんに直木賞を取らせたい。『小説現代』のほうは待っているから、君のところで頼むよ」と言われて、「アメリカひじき」が『別册』に、「火垂るの墓」が『オール讀物』に掲載になってこの二作品で受賞されました(第五八回)。こんなふうに賞を取っていただけるように作戦を巡らしたことは何回かありましたね。」(『文蔵』平成20年/2008年1月号 「対談 直木賞のウチとソト」より ―対談相手:中村彰彦)

 「作戦を巡らしたことが何回かあった」とサラッと言っているところが、スゴイでしょ。他にどれがその作戦だったのかと、想像をめぐらせるように仕向けるとこなんぞ、さすが豊田さんです、格がちがいます。

 第81回受賞、田中小実昌さんの件は『文士のたたずまい――私の文藝手帖』(平成19年/2007年11月・ランダムハウス講談社刊)から。

「コミさん(引用者注:田中小実昌)を、ことさら推さなくとも、おそらく候補から洩れることはなかったと思うが、いささか不安にかられて、田中作品を下読み選考会の席で強く推奨したのである。むろん、その必要もなく大方の支持を得て候補となり、受賞したわけだが、(引用者後略)(豊田健次・著『文士のたたずまい』所収「ぽくぽくコミさん――田中小実昌」より)

 豊田さんの推薦が必要もないものだったのか、判ずる術はないんですが、しかし第66回(昭和46年/1971年下半期)の『自動巻時計の一日』以来、いくらでも田中さんを候補にするチャンスはあったでしょうに、なぜにあそこで、単行本に収録された二篇、なんてかたちで候補にする? 誰かの強引な推しがなきゃ、予選通過はできなかったのじゃないか、と想像するのが自然な気がします。

 向田邦子さんの件は、以前、向田さんを取り上げたエントリーで紹介しましたので割愛。

 第89回(昭和58年/1983年・上半期)の胡桃沢耕史さんの受賞のハナシは、なにせ胡桃沢さんがおしゃべりなものですから、相当有名なエピソードとなっちゃいました。

「「実は本人も、ロマンあふれる堂々としたものでとりたかったと言っていた」。「オール讀物」で「黒パン俘虜記」の編集を担当した豊田健次(五八)=現文藝春秋取締役文芸総局長=はこう打ち明ける。胡桃沢作品の持ち味は気宇壮大な冒険物語だが、「黒パン俘虜記」は捕虜体験を描いた自伝的小説だった。

 「数奇な体験をなさっているのにそれを書かない手はないですよ、と連載してもらった。本人は『私は書きたくなかった。この人に書かせられた』と話していた。でも、直木賞はぜひとりたいといつも言っていたし、その悲願成就に少しでもお手伝いができたのではないかとは思っている」」(『産経新聞』平成7年/1995年6月30日「戦後史開封 芥川賞・直木賞(4)」より)

 胡桃沢さんの『黒パン俘虜記』の件で豊田さんがエラいと思うのは、別に直木賞では私小説ものが有利、なんて傾向はまったくなかったのに、胡桃沢さんが私小説風に書けばとれる!と考えて、本人に打診した点です。しかもそれで、ほんとうに胡桃沢さん、受賞しちゃうという。トヨケンよ、おまえは神か、と言いたくもなります。

 筒井さんの「大いなる助走」騒動。これについては、まえに紹介したとおり、編集長だった豊田さん自身、だれか選考委員から直接抗議された、とは証言していないっぽいのですが、こういうかたちで当時の状況を回想しています。

「さらに、(引用者注:「大いなる助走」を)連載していたのが直木賞を制定している文藝春秋の雑誌「別册文藝春秋」だったことも話題に拍車をかけた。

 
(引用者注:筒井康隆いわく)「でも直木賞の選考委員の人たちは直接、僕には言えませんよ。ただ、文藝春秋には文句を言っていった人がいたらしい。『連載をやめさせろ』って」

 別冊の編集長だった豊田健次(五八)=現文藝春秋取締役文藝総局長=は、「最初から直木賞の選考はけしからんというのではなかった。極端な戯画化は筒井さんの一つの手法だが、次の選考会では何か言われるのでは、と冷や冷やした」と言う。」
(『産経新聞』平成7年/1995年7月1日「戦後史開封 芥川賞・直木賞(5)」より)

 つまり、あれですかね。当初の話し合いでは、豊田さんは、あんな小説になるとは聞いていなかったと。で、そのまま押し切っちゃうあたりが、直木賞の楽しみ方と盛り上げ方をよく知っている豊田さんならでは、というか、豊田さんが直木賞ファンたちから愛されるゆえんだと思います。

 だって、芥川賞の選考に怒ってオレ辞めるっつって自ら縁を切ったオコリンボ永井龍男さんに、「回想の芥川・直木賞」を書いてもらおう、と発想して実現させちゃうんですもの。まったく、直木賞ファンひとりひとりがいまも神棚に豊田さんの写真を掲げて、毎朝お参りを欠かさないのも、当然だと思わざるをえません。

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2013年4月28日 (日)

松田哲夫(ブックコメンテーター) どこまで伝わるかわからない土曜の朝のお茶の間に、直木賞の話題を流しつづけた人。

松田哲夫(まつだ・てつお)

  • 昭和22年/1947年10月14日生まれ(現在65歳)。
  • 昭和45年/1970年(22歳)筑摩書房に入社。『終末から』編集部員を経て、〈ちくまぶっくす〉編集長。
  • 平成8年/1996年(48歳)TBS系テレビ番組『王様のブランチ』放送開始時より、出版コーナーのコメンテーターを務める(平成13年/2001年~平成14年/2002年の中断を経て、平成21年/2009年まで)。

 直木賞の時期になると、ときどき、土曜の朝っぱらから「直木賞」なんちゅうダークなキーワードが公共の電波にのって流れます。「日本人は賢くなったので、もう誰も、権威的なものには影響されない」はずなのにです。このシュールな図をつくり上げた立役者、と言えば、TBS系『王様のブランチ』番組スタッフであり、本のコーナーの顔を長年にわたって務めた松田哲夫さんでしょう。

 まあ、シュールです。過去の遺物だの、時流にとりのこされた存在だのと言われ、「直木賞」という単語を口から発するだけで羞恥を覚えなくてはならないこの世の中、きらびやかで爆発的影響力をもつ(と言われている)TVショーのなかで、直木賞の話題なんか取り上げて、だいじょうぶなんでしょうか? テレビ局にじゃんじゃん苦情・抗議の電話が殺到しているんじゃないかと、心配です。

 松田さんだって、「そんなクサレ文学賞のことなど、口にできるか!」と怒って席を立ってもよかったと思うのです。『永遠の仔』を落としたぐらいの賞ですから。しかしそこで、深く突っ込まず、かといって身を引かず、冷静に直木賞と向き合うところが、松田さんのやさしさです。

「ぼくは、(引用者注:平成11年/1999年4月17日の)「気になる一冊」に取り上げ、こうコメントした。

《これは、ぼくが、ここ数年の間に読んだ小説の中で、間違いなくベストワンの作品です。(引用者中略)下巻の途中からは随所で涙がほとばしり出て、最後に近づいたころには、嗚咽までもらしていました。でも、読み終えたときには、たとえようもない爽快感がありました。(単行本では)上下二冊で千ページ近い大作ですが、ぼくは、この時代に生きるすべての人に読んでもらいたいと思っています。》

 すると、木村郁美アナウンサーは「登場する人たちを抱きしめたくなった」、関根(引用者注:関根勤)さんは「これを読んだ後は、他の軽い小説がしばらく読めなくなりました」と、ぼくの言葉を熱くフォローしてくれた。その後、寺脇康文さん、はなさん、恵俊彰さんなどの出演者たち、岩村隆史プロデューサーはじめスタッフの多くもこぞって読み、何週間にもわたって、『永遠の仔』の話題で盛り上がっていった。」(松田哲夫・著『「王様のブランチ」のブックガイド200』より)

 ちなみに『王様のブランチ』放送開始は平成8年/1996年4月。毎週、本のコーナーはあったんですが、はじまって数年は、特別に売上と直結するものではなかったといいます。平成10年/1998年11月の『朝日新聞』の記事では、NHK衛星第二「週刊ブックレビュー」、『ダ・ヴィンチ』とともに、『王様のブランチ』本のコーナーが取り上げれらた上で、こう言われています。

「このような面白さを伝える工夫は続いているが、実際の売れ行きにつながるかといえば難しい。昨年から書評で取り上げた本の棚を設けた東京・神田の三省堂書店によると、これらメディアの情報に「問い合わせはあるが、飛び抜けて売れるとはいえない」という。

 出版科学研究所の佐々木利春さんも「売れる、という点からいえば、有名人がワイドショーなどで紹介する本にはかなわない。本を紹介するメディアの功績は大きいが、視聴者層の広がりがほしい」と指摘する。」(『朝日新聞』平成10年/1998年11月15日「本の快楽じわ~り伝える 受け手の広がりに課題」より ―署名:馬場秀司)

 それが翌年、『永遠の仔』の紹介→売上増、なんていうつながりもあり、徐々に『王様のブランチ』での紹介=売れる、の図式が築かれていきます。

 平成13年/2001年夏の段階で、『永遠の仔』の一件は、売上を伸ばした代表例の扱いをされるまでにいたりました。

「一昨年のベストセラー、『永遠の仔』(天童荒太)もブランチが火付け役といわれる。番組では松田氏が紹介した後で出演者の関根勤氏や寺脇康文氏が興味を抱いて読み、翌週の放送では『永遠の仔』に関するトークで大いに盛り上がった。さらに、そのトークを聞いてレポーターの女性たちも次々に読み始め、次の週ではさらにトークが盛り上がった。

「その場の空気を伝えることができるのはテレビならではの特徴だと思いますが、本の話題で盛り上がっているスタジオのノリや、台本にはない出演者のコメントは、“生きた情報”として視聴者に伝わるのではないでしょうか。そんな生きた情報を意図的にではなく提供できているからこそ、本の売上に影響するのでしょう」(松田氏)」(『放送文化』平成13年/2001年8月号「テレビで奮闘する出版人・松田哲夫氏に聞く 本とテレビの相性」より)

 『永遠の仔』は第121回(平成11年/1999年・上半期)の直木賞候補になって、これだけ売れているし、読者のハートをつかんでいるし、本命でしょうね、などと思われながら、選考会ではさほど高い評価が得られず落選します。

 ちなみにワタクシの感想を言っておきますと、他の候補作に比べて、なにか特別に飛び抜けて感動できるとか、泣けるとか、そんなことはなかったものですから、『永遠の仔』が落ちても平穏に受け止めました。むしろ、読者人気みたいな風を読まない直木賞、さすがだ! などと、そっちに感動を覚えたくらいです。

 松田さんは『王様のブランチ』での紹介が縁で、天童さんと交流がはじまり、その後の天童作品もフォロー。第140回(平成20年/2008年・下半期)に『悼む人』が受賞したときには、天童さんの口から、受賞を一番伝えたいのは『王様のブランチ』のみなさん、っていう冗談なのか本気なのかよくわからない言葉を引き出しました。

「谷原(引用者注:谷原章介) 松田さん、天童さん、直木賞受賞しましたね。

松田 嬉しいですね。この本のコーナーでは、10年前の『永遠の仔』以来、折に触れて、天童さんの作品を応援してきたので、本当に、ともに歓びを分かち合いたいという気持ちですね。」(「松田哲夫の王様のブランチ出版情報ニュース 「王様のブランチ」本のコーナー(2009.1.17)」より)

 オトナだよなあ、松田さんは。直木賞を単なる、作家に対する祝福の場としてのみとらえ、そこにひそむ至らぬ点、短所、害には触れようともしません。あるいは、そんなことをいちいち考慮するのは無意味、ということでしょうか。文学賞なんて、選ばれても落とされても、さしたる意味はないのだから。「受賞した」という事実をもって、喜んだり、本の紹介に活かせばいい。そんな思いが、ひしひし伝わってきます。

「ぼくは「ブランチ」のコメントでは、ネガティブなことは一切言わない主義でいる。自分自身、編集者という本を作る立場にいるので、これまでに、けなす書評を読んで、「世の中に本はたくさんあるんだから、わざわざ悪口を言うために取り上げることはないだろう」と腹が立っていたからだ。」(松田哲夫・著『「王様のブランチ」のブックガイド200』より)

 ネガティブなことは一切言わない……。そうですか。「けなしてナンボ」の直木賞には、とうてい到達できない領域です。うらやましい。直木賞も、絶対に候補作をけなさずに、褒めることに終始して、候補に挙がった作品は全部受賞! とかできたら、少しは怒る人も減って、直木賞を見直してもらえるんでしょうか。

続きを読む "松田哲夫(ブックコメンテーター) どこまで伝わるかわからない土曜の朝のお茶の間に、直木賞の話題を流しつづけた人。"

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2013年4月21日 (日)

大竹延(南北社社長) 1960年代、新進作家の背中を押すいっぽうで、売れないはずの「大衆文学研究」分野に挑戦。

大竹延(おおたけ・すすむ)

  • 大正15年/1926年生まれ、平成17年/2005年10月12日没(79歳)。
  • 昭和31年/1956年(30歳)南北社を設立(昭和43年/1968年に倒産)。
  • 昭和34年/1959年(33歳)南北社より『大衆文学への招待』(荒正人・武蔵野次郎・編)発刊。
  • 昭和36年/1961年(35歳)南北社より『大衆文学研究』創刊、同人として参加。

 新鷹会の『大衆文藝』の影に、新小説社島源四郎さんの功績あり、っていうハナシは長谷川伸さんのエントリーで触れました。その伝でいくと、大衆文学研究会の『大衆文学研究』の影には、南北社大竹延さんがいました。

 『大衆文学研究』といっても、知らない人のほうが多いと思います。軽く紹介しますと、昭和36年/1961年、なかなか系統立った研究の育たなかった大衆文芸の世界に、出版社の南北社が資金を投ずるかたちでつくられた研究誌。その後、発行元の変転や事務局の代替わりなどを経つつ、いまもなお、発行しつづけられています。大衆文芸のはしくれに位置する直木賞を考えるうえでも、見逃せない雑誌です。いわゆる「研究」論文だけでなく、作家や出版編集者のエッセイ、インタビュー、座談会などなど、貴重すぎておなかを壊しそうな記事が、ざっくざっくと掲載されてきました。

 そのいちばん最初が昭和36年/1961年。大衆文学の研究ってテーマだけで雑誌をつくろうぜ、と売れる当てもない、荒涼たる世界に乗り出した英断、はたまた暴挙を成し遂げた中心人物が、主婦の友社編集局にいた大衆文芸オタク富永真平さん。……武蔵野次郎さんですね。それと、元『文芸日本』編集者で、情熱と執念と気配りのひと、尾崎秀樹さん。プラス、エロフィルム収集家として名を馳せるいっぽう、良心的な文芸出版業に挑戦しはじめていた弱小出版社希望の星、大竹延さんだったわけです。

 南北社が、文芸出版界で光芒を放ったのは、わずか十年あまりでした。どちらかといえば芥川賞の話題として触れるべき事項が多いかもしれません。でも、同社からは一冊、林青梧『誰のための大地』が直木賞候補に選ばれているのですもの、というわずかな突破口を理由に、大竹さんを(裏)人物に入れさせてもらうことにしました。

 『誰のための大地』は昭和39年/1964年、南北社の「新鋭創作叢書」の一冊として出版されました。この叢書について、大竹さんはこう回想します。

「図書出版「南北社」(昭和三十一年四月有限会社として設立し、三十六年四月一日株式会社に改組)を創立する時、私は三つの心覚え(誓い)を決めた。

 ①エロもの、際ものは出さない。

 ②時代の潮流に流されず、なるべく新人発掘に努力したい。

 ③「文学」という階段に一段でも半段でもプラスになるものを出版し続けたい。」(『大衆文学研究』 大竹延「『大衆文学研究』創刊の頃(III)序章(II)の三」より)

「このテーゼに沿って南北社には三つの柱が出来て行った。(小路はウロウロと沢山あったが)「新鋭創作叢書」、「現代評論選書」、「招待シリーズ」だった。「新鋭創作叢書」と「現代評論選書」はすべてその人の処女出版を基本とした。まだ誰も掘り出していない新鮮な筍を狙った。亭々と伸び行く様を描くことは嬉しく楽しい事だった。勿論失敗もあった。がほゞ間違いはなかった。「新鋭創作」の方からは、吉村昭『少女架刑』、伊藤桂一『ナルシスの鏡』、杉本苑子『二條の后』、萩原葉子『木馬館』など。「評論選書」からは、遠藤周作『宗教と文学』、大久保典夫『岩野泡鳴』、尾崎秀樹『魯迅との対話』、村松剛『文学と詩精神』、村上一郎『日本のロゴス』、このほか佐伯彰一、秋山駿などの初めての評論集は南北社から出版された。」(『大衆文学研究』 大竹延「『大衆文学研究』創刊の頃(IV)序章(III)の四」より)

 のちに紹介するように大竹さんは、「エロ事師」などと週刊誌に書き立てられるほど、16ミリエロ映画の収集家であり、また高橋鉄さんの性解放思想の支持者でもあって、高橋さんの娘を南北社に入社させていた人です。胡桃沢耕史さんがまだ清水正二郎で活動していた頃には、お互いに趣味が合ってツルんでいました。もしかして、清水さんの「非エロもの」が南北社から出ていたら、ひょっとすると、万が一にも、このとき直木賞候補になっていたかもしれません。

「清水正二郎さんとは個人的に趣味も合い、一しょに海外旅行や夜のつきあいもしながら彼の本を一冊も刊行しなかったのもこんな理由から(引用者注:エロものは出さないと決めていたから)であった。『近代説話』に書いたもの「壮士両び還らず」などをまとめて上梓の話もしたが、彼は「もう少し待ってほしい。必ず南北社で出しても恥かしくないものを書くから」と辞退した。彼は近代説話の東京事務所兼所長を引き受けていたが、同人たちが次々と芥川賞、直木賞を受賞するのを淋しく悲しみながら世話役に徹していた。」(同)

 いや大竹さん、そこで「芥川賞」を出すのはおかしいでしょう、とツッコむのは野暮ってもんです。当時の大竹さんの意識する「新鋭」作家とは、芥川賞もしくは直木賞を取るか取らぬか、の辺りにいた作家だったのでしょう。芥川賞と直木賞は、どちらにしたって同じようなもの、っつう直木賞観です。たしかに、それも立派な一直木賞像には違いありません。

 大竹さんにとって、芥川賞と直木賞、はそのまま純文学と大衆文学、という区分けだったと思われます。そして昭和30年代、そんなものは崩れた、あるいはグチャグチャになった、との意識があったみたいです。それで南北社の柱の一角〈招待シリーズ〉の2冊目のテーマに、大衆文学を選び、昭和34年/1959年刊行、1万2000部ほど売れた、と。

「昭和三十年代は既成大家たちと戦後の新進作家たちの混乱期にあった感じがする。このカオスの中に果敢に斬り込んだのが『大衆文学への招待』ではなかった、と今でも自負を持っている。大出版社では企画に乗っても必ずつぶされるプランであったろう。

 この『大衆文学への招待』の成功(とはいえないまでも損しなければよいという目的は達成されたこと)によって、南北社に集まってくる人たちが増えて来たことは事実である。人は社業が発展し伸びるところに自然と集まるといわれる。

 またこの単行本の刊行が「大衆文学研究」という特異な雑誌を生む原動力というか基礎になった。」(同)

 『大衆文学研究』は、そこから尾崎秀樹という巨人を生んで育み、また「大衆文学って、研究してもいいんだ」の裾野を広げることに貢献。儲かるはずのないこの雑誌の一切合財、資金面で面倒みた大竹さんなかりせば、まず起こり得なかった歴史だと思います。

「22号(引用者注:南北社で『大衆文学研究』を出していたあいだ)を続けるまで(創刊の話の時代を加えると約十年間)私は尾崎(引用者注:尾崎秀樹)さんからコーヒー一杯ご馳走になった事はない。編集費、交通費(京都・大阪その他都内の人たちに逢いに行く交通費すべて)、例会費用、印刷代などみな私個人の出費だった。大衆文学というジャンルを戦後初めて目に付け斬り込み、育成し続けたのは南北社であり、私であったというのは驕りかもしれないが、大衆文学研究家としての尾崎秀樹の誕生をいささかなりとも育てて行ったのは南北社であり、私であったといっても過言ではないような気がする。」(『大衆文学研究』 大竹延「『大衆文学研究』創刊の頃 序章(I)」より)

 ほんとっすね。それはつまり、随一の大衆文学研究家として尾崎さんが、その後発表しつづけた数々の直木賞に関する文章の礎は、もとをたどれば大竹さんのバックアップにあったと、ワタクシはいま、思っています。

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2013年4月14日 (日)

浜本茂(NPO本屋大賞実行委員会理事長) 思いつきで「打倒直木賞」の名ゼリフを吐き、本屋大賞vs.直木賞の構図を(無意識裡に)予見する。

浜本茂(はまもと・しげる)

  • 昭和35年/1960年生まれ(現在53歳)。
  • 昭和58年/1983年(23歳)中央大学法学部在学中に、本の雑誌社に入社。昭和63年/1988年に一度退社するが、平成2年/1990年に復社。
  • 平成13年/2001年(41歳)目黒考二のあとを受けて『本の雑誌』発行人に。
  • 平成14年/2002年(42歳)書店員の有志で、書店員が決める文学賞の案が語られる。その案が具体化し、平成15年/2003年に本屋大賞の創設が決定。同賞事務局は本の雑誌社内におかれ、浜本、本屋大賞実行委員会の代表となる。
  • 平成17年/2005年(45歳)本屋大賞実行委員会がNPO法人化するにあたり、理事長に就任。

 風のウワサによると、いまは直木賞といっても振り向く人はおらず、本屋大賞というと人が群がるそうなので、うちのブログもその霊験あらたかな本屋大賞の威光に頼りたいと思います。

 で、(裏)人物は杉江由次さんとか嶋浩一郎さんとか、全国の書店員とか、誰でもいいんですけど、いちおうの代表者、浜本茂さんで項目を立てさせてもらいました。何といっても「打倒直木賞!」の名言を残した人ですから。拙ブログにはうってつけの人なのかもしれません。

 本屋大賞のことは3年前、「直木賞のライバル賞」のテーマのときに取り上げたことがありました。ちなみに当時すでに、「本屋大賞は直木賞を抜いた!」と、口角に泡ためて叫び狂っている人がたくさんいました。いつか、そんなことは自明の事実として定着して、誰もそういう煽り方をしなくなるんだろうな、と思うと、直木賞オタクとしてはすでに寂しさを感じています。

 ええと、ひとまず外野の声はおいといて、浜本さんです。本屋大賞を運営するにあたっての浜本さんの、直木賞観はずーっと一貫しています。「打倒直木賞、なんて冗談」です。

「――“打倒直木賞”というのはどこまで本気ですか。第一回目の授賞式で、浜本さんが言っていましたが。

浜本 なんで打倒直木賞だったんだろう。思いつきですよね。前もって考えていたわけじゃない。横山秀夫さんが『半落ち』で賞をとれなかったことに対する憤りが書店員の間にあった、という経緯もありますが。選考に対する不満はずっとありましたね。それがピークになったのが『半落ち』でした。ただ、べつにそういう声を反映したわけじゃないんですけれど。」(『小説トリッパー』平成18年/2006年秋号「本屋大賞の真実」より ―インタビュー・構成:永江朗)

 出ました。半落ち騒動。浜本さん自身はともかく、その騒動が、書店員たちにくすぶる熱い反抗心を一気に噴き出させたのでした。

「本屋大賞のそもそもの始まりは、日ごろの営業活動中、あちこちの書店員から聞いた既存の文学賞に対する不満である。とくに直木賞が槍玉に挙がることが多かった。

(引用者注:本の雑誌社、杉江由次いわく)「みんな不満があるんですね。そのうち、自分たちで選んでみたいよね、なんていう声も聞こえてきました。あくまでお茶を飲みながらの愚痴なんですが」

 とくに書店員の不満が沸騰したのが二〇〇二年下半期(二〇〇三年一月決定発表)。このときは横山秀夫『半落ち』や角田光代『空中庭園』といった候補作がありながら、受賞作なしという結果に終わってしまった。書店員にとっては、受賞して欲しい作家・作品が選ばれなかったというショックに加え、受賞作がない、つまり売場が盛り上がらない、売上が伸びない、というショックが重なる。」(『図書館の学校』74号[平成18年/2006年12月] 永江朗「本はどのように読まれているのか?」より)

 カネの恨みはおそろしい、と言いますか。売上が伸びないのを直木賞のせいにする、というほとんど濡れ衣に近い発想ではありますけど、それだけパワーがあると見なされていたんですね直木賞。しっかりせにゃあかんよ。

 『半落ち』騒動の前の受賞作が、第127回(平成14年/2002年上半期)乙川優三郎『落ちる』。うわー、売れなさそう。書店員の興味ひかなそう。その前、第126回(平成13年/2001年下半期)は山本一力『あかね空』と唯川恵『肩ごしの恋人』。これは2作とも結構売れたって記録が残っているんですけど、それでも不満ですか。その前、第125回(平成13年/2001年上半期)は藤田宜永『愛の領分』。うーん、バカ売れするような作品じゃないでしょうね、たしかに。

 だけど、世に文学賞はあまたあります。そのなかで、なぜか直木賞だけが標的にされる展開がひき起こされました。心ふるえない直木賞オタクがいるでしょうか。直木賞に、「書店員の不満を暴発させた文学賞の代表格」という、他の出版社主催の文学賞が手に入れることのできない新たな称号が与えられることになったんですもの。ありがとう書店員。

 第1回授賞式に出席した永江朗さんは語ります。

「これは私の解釈なのだが、あの場に集まった人たちに共通してあったのは、芥川賞・直木賞など既存の文学賞に対する不満と、新しく誕生する賞への期待だったのではないか。とにかく異様な熱気だった。浜本茂『本の雑誌』編集長がスピーチで言った「打倒!直木賞」は拍手喝采された。」(同 太字下線部は引用者による)

 浜本さんの真意は、思いつき、あるいは冗談だったのかもしれません。だけど、言葉はひとり歩きします。賞そのものが、ひとり歩きします。

 たとえば、本屋大賞2回目を終えたあとの、直木賞報道。

「直木賞を取り巻く環境は大きく変化している。

「打倒直木賞」を掲げ、全国の書店員らが選ぶ「本屋大賞」は、昨年の第1回受賞作「博士の愛した数式」の売り上げを30万部以上伸ばし、直木賞に匹敵する宣伝効果を発揮。321万部の「世界の中心で、愛をさけぶ」など、賞の権威に頼らないメガヒット作も増えている。」
(『読売新聞』平成17年/2005年7月7日夕刊「直木賞候補、グーンと若返り」より 太字下線部は引用者による)

 受賞作が売れなきゃ直木賞の意味がない、みたいな視点ですね。そんなこと言い出したら、直木賞史のいったいどこの時代に、意味があったのか、という。

 この記事では、なぜか浜本さんがコメントを求められています。おカネのことで頭がいっぱいの記者をしりめに、浜本さんはしごく冷静です。

「書評誌「本の雑誌」発行人の浜本茂さんは、「本来新人賞だった直木賞が中堅作家の“上がり”の賞になり、旬の作品が受賞できなくなっていた。世代交代などで本来の形に戻るなら歓迎したい」と話す。」(同)

 さすが、直木賞売れなくなったから落ち目だよねー、などとは言いません。そもそも受賞作を売るための賞でないことをわかっているからでしょう。

 とはいえ、運営する人の思いが、なかなか伝わらないのは本屋大賞も直木賞も変わりません。周囲にいる人たちの、事実を無視した妄想はとどまるところを知らず。本屋大賞のひとり歩き、突っ走ります。

「全国の書店員が投票で売りたい本を選ぶ本屋大賞が創設されて5年。直木賞など作家選考の既成の文学賞を脅かすユニークな賞の課題とは。(引用者中略)

 伊坂
(引用者注:伊坂幸太郎さんの『ゴールデンスランバー』の受賞は、作家が選考委員を務める文学賞に先駆けて賞を授けたという点で、やっと「本屋大賞らしさ」が表れたと言えるが、一方で、この賞の難しさもあらわにした。」(『読売新聞』平成20年/2008年4月9日「本屋大賞「らしさ」出た 「旬」逃さず伊坂幸太郎さんに 作品発掘なお課題」より 太字下線部は引用者による)

 こらこら。「作家が選考委員を務める文学賞に先駆けて賞を授けた」とか事実に反することを言って、大衆文芸新人賞界の良心「吉川英治文学新人賞」を、なかったことにしないでください。

 しかし、です。さっき「本屋大賞のひとり歩き」と表現しましたが、これはちょっと正確ではありませんでした。浜本さんら実行委員会の手を離れて、記者だのライターだの読者だの(ワタクシだの)が、なにか本屋大賞の現象を語るときに、多くの場合で引き合いに出される同伴者がいるわけですから。

 そう。直木賞です。

 去年は去年で、

「本屋大賞は、「売りたい本が直木賞で選ばれない」という書店員の飲み会での不満から始まった。1回目の発表会では、浜本茂理事長(「本の雑誌」発行人)が「打倒! 直木賞」と打ち上げた。」(『朝日新聞』平成24年/2012年4月16日「本屋大賞、売れ筋が本命 「埋もれた本に光を」から変化」より)

 と、しっかりと定番の役者を揃えつつ、

「今回変わったのは(引用者注:投票の)ルールだけではない。受賞者の三浦しをんは2006年に直木賞を受けている。直木賞作家が本屋大賞に選ばれたのは初めてのことだ。

 「直木賞をとれない、候補にもならない埋もれた作品を顕彰するのが当初の意図だった。しかし人気投票で選ぶ以上、候補作を決める段階からあらゆる読者に読まれて、売れている本が点を集めやすい」と文芸評論家の大森望さんは言う。」(同)

 と、本屋大賞の歩みの横には、常に直木賞の影あり、の構図を堅持していました。

 ワタクシは「直木賞なんて、いまでは話題にもならない」という話をよく耳にします。へえ、そうなのかあ、直木賞について話題にするのなんてワタクシひとりなのかあ、と思っていましたら、本屋大賞のおかげで、受賞の時期でも何でもないのに、直木賞が話題になっているではないですか。まったく、本屋大賞実行委員会には足を向けて寝られません。

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2013年4月 7日 (日)

小川和佑(文芸評論家) まじめな文学研究界のなかに埋もれていた、磨けば輝く文学賞批評の逸材。

小川和佑(おがわ・かずすけ)

  • 昭和5年/1930年4月29日生まれ(現在82歳)。
  • 昭和26年/1951年(21歳)明治大学専門部文芸科卒。このころから中村真一郎に師事し、詩作を始める。栃木県公立高校の教諭、その後、関東短期大学、水戸短期大学などで講師。
  • 昭和48年/1973年(43歳)明治大学にて講師(平成12年/2000年まで)。その間、昭和女子大学助教授などを歴任。
  • 昭和52年/1977年(47歳)『芥川賞事典』および『直木賞事典』の原稿を一部担当。
  • 昭和56年/1981年(51歳)より『サンデー毎日』誌上にて武蔵野次郎との文壇回顧対談を担当(昭和58年/1983年まで)。

 直木賞に関する散逸した文献をあさっていると、けっこうな人数で、大学で近代日本文学を専攻している先生方が直木賞を語っている、っていう状況に出くわします。そういう文章、ほんとうに大量にあります。掃いて捨てるほど、です。

 はなから大衆文芸界では批評文化が育たず、さらに直木賞は周囲から盛り立てる援軍が少なく、注目を浴びないこと甚だしい時代が続きました。直木賞が、一般ニュースとタメを張るほどに報道価値をもったのは、昭和30年(1955年)代以降ではありますが、名のある偉い文芸評論家の方がたは、芥川賞のことは真剣に語っても、直木賞に関しては、鼻クソほじくりながら文章を書き流していた……と思わせるような散々たる有り様で、気合いを入れて向き合ってはくれませんでした。

 となると、直木賞を扱うときに狩り出されるのは、パイの少ない大衆文芸評論界から見慣れた顔ぶれ、または、向学心旺盛な大学の先生たち、と相場が決まっています(たぶん)。大学の先生が直木賞なんちゅう文壇行事の傍流中の傍流のことを語る図、なんて、いまでは考えられないでしょうが(いや、そんなことないか)、彼らが直木賞を下で支えてくれた時期もあったのです、ありがとう、若き文学研究者たちよ。

 ……若かったかどうかはともかく、小川和佑さんも、そのひとりです。専門は詩の分野でありながら、小説のほうも等しく研究対象に据えて、

「私自身の昭和期の文学への関心は常に小説と詩の二つの領域を等価値的な視野によって、思考されている。」(昭和52年/1977年12月・明治書院刊 小川和佑・著『昭和文学の一側面――詩的饗宴者の文学』「初出誌一覧」より)

 と語るぐらいの方です。とうてい、うちみたいな腐れブログで取り上げるような方ではありません。

 昭和52年/1977年、長谷川泉さんが編集責任者となって、大学の先生たちに声をかけて『直木賞事典』が作成されました。ここに小川さんも参加しているのが運のツキです。果たして、直木賞にどれほど興味を持ってくれていたか、と不安になる直木賞オタクの心配をよそに、きっちりと小川ブシを存分に発揮して、ワタクシの心を癒してくれたのでした。

 たとえば、城山三郎さん受賞に関する文章。のっけから、小川和佑ここにあり、のテイストです。

「城山三郎は最初、杉浦英一の本名で詩誌「時間」「零度」に詩を書いていた。詩人として出発した杉浦英一はその十年後に城山三郎として処女作「輸出」によって「文学界」新人賞を得て順当に作家の道を歩みはじめていた。

(引用者中略)

経済小説の書き手が詩人であったことを選考委員の誰一人知らなかった所が、大変愉快である。」(『直木賞事典』「選評と受賞作家の運命」より)

 あはははは。そんなところを愉快がる人、小川さん以外にいないんじゃないの? っつう点が愉快です。

 それから第41回、渡辺喜恵子平岩弓枝の二人受賞についてにも、「オレは詩には詳しいんだぞ」の顔をチラッと覗かせつつ、根拠なきゴシップを放り込んできます。

「この頃、文学、詩壇を問わず、女流ブーム、才女ブームの時代であり、女流二名の受賞に村上元三も気がとがめたと見えて「偶然、こんどの直木賞は二人とも女性になったが、委員たちは何も才女ブームを煽り立てようという気はない。」とわざわざ断わりを書いているのは、中間読み物は買い手市場の動向が芥川賞よりも敏感なだけに、暗黙裡に、文春の出版部の意向を受け取ってしまった後めたさか。」(同)

 いいっすねえ。あの村上さんの選評を読んで「気がとがめたと見え」てしまう目をもっている、という。「われわれ選考委員は、文藝春秋編集者の意向を意識的に無視して、今後いっさい受賞作は出さないことに決めた」ぐらい言わないと、どんな選評が書かれようが、裏の意図を読もうとするのでしょう。

 いや、小川さんがこのように書くのには、理由がありました。あとの文でこんなハナシが明かされています。

「この回(引用者注:第41回)の選評は各委員ともどうも歯切れが悪いことは既に書いた。仄聞するところによれば、当時の噂では、該当者なしと決まりかけたが、一転受賞者を作りあげたという風聞がしきりに流れた由である。但し、風聞である。」(同)

 つまり、無理やり女性二人の受賞者をつくり出した、っていう「風聞」を重要視して、村上さんの選評を解釈しているわけです。素晴らしい。どうしても風聞は風聞として、こんな場所に書くのを控えたがるものだと思いますが、小川さんの、直木賞観戦者たる資質の十分なことが、非常によくわかる文章だと思います。

 こういう文学賞を文学賞として楽しむ姿勢は、同書に集った他の先生たちに比べても抜きん出たものがあり、だからこそワタクシも『芥川賞物語』では小川さんの発言を、つい引き合いに出してしまったわけです。同志臭がぷんぷん臭うのです。

 『芥川賞事典』のほうでも、小川さんの全開な様子が楽しめます。

「ともあれ今回(引用者注:第58回)は明治学院大助教授・柏原兵三と国学院大学教授丸谷才一という講壇派作家によって、賞が争われたところに芥川賞史を枠組にして考えた場合の面白さがある。」(『芥川賞事典』「選評と受賞作家の運命」より)

(引用者注:第60回で)注目すべきは石川達三の候補作決定までの過程に対する不信と疑問である。この石川説には筆者も全面的に共感している。芥川賞をつまらぬものにしているのは文春社内の一次選考であろう。芥川賞の質低下の責任は彼らの文学観の矮小さにあること石川達三の指摘通りであろう。この回の選評は芥川賞史の注目に価するものである。」(同)

 まったく、小川さんに、きちんとまとまった芥川賞史、書いておいてほしかったっす……。いまから突如、小川史観による芥川賞史が、書かれる可能性はなくはないんでしょうが、おそらく、ないでしょう。心から悔まれます(これは裏の文意なんかありません、ワタクシの本心です)。

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