尾崎秀樹(大衆文芸評論家) 大衆文芸研究界ですら傍流の「直木賞研究」にまで、熱いまなざしを向けた稀有な人。
尾崎秀樹(おざき・ほつき)
- 昭和3年/1928年11月29日生まれ、平成11年/1999年9月21日没(70歳)。
- 昭和20年/1945年(16歳)台北帝国大学在学中に徴集される。停戦後に復学したが、昭和21年/1946年に日本に引き揚げ。
- 昭和31年/1956年(27歳)牧野吉晴の事務所係を務めながら『文芸日本』の編集に携わる。
- 昭和35年/1960年(31歳)『近代説話』同人となる。翌年『大衆文学研究』創刊。
- 昭和41年/1966年(37歳)『大衆文学論』で第16回芸術選奨文部大臣賞評論その他部門を受賞。
大衆文学研究の世界には「尾崎以前、尾崎以後」という言葉があります。いや、本当にあるかどうかはともかく、です。あってもいいと思います。圧倒的な文章量、幅広い関心ジャンル、物事を推進させる力、まわりを和ませる人柄。戦前から戦後、なかなか目立たない存在だった「大衆文学研究」が、昭和30年代以降、徐々に市民権を獲得していく過程において、尾崎秀樹さんの果たしてきた功績を無視する人は、まずいないでしょう。ワタクシなどが吠え立てるまでもありません。
ただ、直木賞研究史でも、事情はあまり変わらないのです。もしも尾崎さんがいなかったら、「研究的な視野から見た直木賞」像は、おそらくもっと貧弱なものになっていたと思います。
昭和30年代、文学賞がまぶしい陽のもとにさらされる時代が訪れます。さあ、文学賞について解説してもらおうか、と記者連中が考えたとき、まず白羽の矢が立ったのが文芸評論家陣です。だけど、彼らは基本、芥川賞にしか興味がありません。イヤイヤながら、ついでに大衆文芸の賞も語る程度に終始し、まあ直木賞なんてヘンな賞は、軽い扱いでいいでしょ、とお茶を濁してきました。そこに新たに勃興してきた「大衆文芸評論家」なる存在。直木賞に関するお仕事が、尾崎さんのもとに流れていったのは、自然なことでした。
「(引用者注:尾崎が杉森久英と)最初にお眼にかかったのは、「文芸」の編集長時代のことだが、実際にお話しするようになったのは、「天才と狂人の間」で第四十七回の直木賞を受けられた後である。(引用者中略)
その頃(引用者注:昭和37年/1962年)はテレビもなく、受賞が決まると、即座にその受賞作についてのエッセイを新聞に書かされるのがきまりで、評論家は候補作家以上に、新聞社からの速報を待機しており、「天才と狂人の間」の受賞決定まで緊張して報せを待った思い出がある。それというのも、その前後、司馬遼太郎、寺内大吉、黒岩重吾、伊藤桂一と「近代説話」の仲間が次々と受賞していたこともあった。」(尾崎秀樹・著『逝く人の声』所収「杉森久英」より)
当時、尾崎さんは新進の(大衆)文芸評論家として、原稿売りに忙しいとき。昭和36年/1961年からは『東京新聞』の匿名コラム「大波小波」執筆陣にも加わっています。さらに、尾崎さん言うように、この時期、『近代説話』の連中が続々と直木賞受賞。っていうかたちのなかで、同誌の同人でもある尾崎さんは、毎回のように直木賞の原稿を書かされるはめになったのでした。
並の評論家なら、そのうち地位も確立してくるにつれ、直木賞や芥川賞なんちゅう馬鹿バカしい行事に付き合うのはやめるものです。そこが尾崎さんの桁外れなところでした。物事を時代の連続性のなかで見よう、っていう姿勢は揺るぎません。一回一回の受賞や落選にばかり目が行って、やがて疲れ果てて、飽きちゃう人たちとは、そもそもの視点が違います。
直木賞と芥川賞のバカ騒ぎに辟易するのは、別に、いまを生きるワタクシたちの特徴じゃありません。直木賞直木賞っていうけど直木三十五の作品なんか、もう誰も読んでいないじゃん、みたいな感想もまた、しかりです。尾崎さんが直木賞の話題を書きはじめた昭和30年代半ば、すでに、いくらでも言われていました。そこで尾崎さんは、直木賞のことをどう表現したか。
「虎は死してカワをのこす、といわれる。
直木は死んで直木三十五賞をのこした。もっとも直木本人にいわせれば、それはあずかり知らぬ話で、迷惑この上もないというかもしれない。しかし今日直木の作品をロクに読まない読者も、直木賞は知っている。
(引用者中略)
最近の直木賞作家が、直木三十五の作品をどれほど読んでいるか疑問だが、直木は自分の作品を読まない作家に、直木賞が贈与されてもすこしも怒ったりしないはずである。むしろにぎやかなことの好きだった故人は、直木賞のフェスチバルを、大衆文学隆盛のあらわれとして心からよろこんでいるかもしれないのだ。」(『大衆文学論』所収「直木三十五論」より)
これ、初出は『大衆文学研究』第3号。昭和37年/1962年4月です。芥川龍之介を語るに、芥川賞を語らない論稿など、腐るほどあります。直木三十五だって、〈評論〉の立場からすれば、別に直木賞など関係ないし、触れずに済ましていいわけです。しかし尾崎さんは、文学賞の営みを馬鹿にすることはありません。それでいて、騒がしいことの好きな直木、と直木賞のお祭り感を掛け合わせて、双方に傷がつかないようにおさめる。なかなか、できることはありません。
やはり大衆文学を研究するうえにおいては、「賞」の果たしてきた重要な役割を軽んずるわけにはいかないのでしょう。その点が、純文学系の研究とは大きく違うところです。だって、大衆文芸が花開いた昭和初期、その影に(オモテに?)は、「賞」の絶対的な機能が働いていたんですから。
「昭和の初期は大衆文学の第一次の繚乱期であった。伝奇小説、股旅小説、芸道小説、捕物小説、実録小説などの時代ものをはじめ、タンテイ小説、怪奇小説、ユーモア小説、未来小説、家庭・恋愛小説など、あらゆるジャンルの作品が一時に花ひらいた。
(引用者中略)
大衆文学の歴史に『サンデー毎日』が寄与したものは大きい。とくに新人の登竜門となり、昭和十年代から戦後へかけて活躍した多くの作家たちを育てている。この育ての親は毎日新聞の学芸部長で、『サンデー毎日』の編集にもタッチした千葉亀雄だった。(引用者中略)
また大衆文学の発展に力を添えたのは、直木賞の創設だった。直木三十五にたいする友情のしるしとして菊池寛によってはじめられたこの文学賞は、昭和十年以後、川口松太郎、鷲尾雨工、海音寺潮五郎、木々高太郎らに贈られてきた。」(尾崎秀樹・著『文壇うちそと』所収「大衆文学はなにを遺したか」より)
この歴史を知らず、直木賞と芥川賞は同じようなものだとしか認識していないような人たちが語る直木賞(の歴史)は、まず信頼できないと思わざるを得ません。そして直木賞を取り巻く言論はずーっと長らく、信頼できない言説がブクブクあふれ返った状況、もしくは信頼できそう人は文学賞に興味がないので語ってくれない、みたいなことが続いてきました。
泣けてきます。泣ける時代が粛々と刻まれていったからこそ、ひとり尾崎秀樹さんは、直木賞研究の視座からも、得難い存在として光かがやいていたわけです。
以下は第60回(昭和43年/1968年・下半期)のときの、尾崎さんの文章です。
「陳舜臣と早乙女貢のふたりが、直木賞のニューフェースにえらばれた。いずれも新人というには、あまりにも名がうれている。(引用者中略)しかしミステリー畑からそだった陳舜臣が本格的な歴史ものへの発表をうちにはらみ、クラブ雑誌作家から転じた早乙女がよりシリアスなものへと向うコースからいえば、ふたりの直木賞受賞も意義あることといえよう。
(引用者中略)
この六十回の歩みについて、奥野健男が新聞紙上に書いていた。そろそろ、その功罪が文学史的にふりかえられていい時期だろう。だいぶまえに瀬沼茂樹が、芥川賞と直木賞の歴史について文学史的なまとめをやったが、さらに社会心理史的に、検討される必要がある。
陳舜臣・早乙女貢ふたりとも、外地派の作家だ。ひとりは神戸生れではあるが外国籍の持主、ひとりはハルビンの生れで、いずれも日本のしめった心理的土壌とはふっ切れた作家たちで、直木賞の一つの曲り角を暗示するともいえる。」(『出版ニュース』昭和44年/1969年2月下旬号 尾崎秀樹「曲り角にきた直木賞」より)
直木賞批評ではおなじみ「曲がり角」論を吐いているところなどは、ご愛嬌。これが、どこかの新聞記者の文ならば、またテキトーなこと言ってらあ、で済ませられるのですが、なにしろ尾崎さんですからね。受賞者二人が外地派、だから曲り角、っていう視点は、ちょっと無理な切り口じゃないかとは思います。だけど、芥川賞と独立して直木賞を振り返ろうとするこの姿勢が、もう尊敬に値するわけです。ほかに誰もやろうとすらしてこなかったことですから。
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