カテゴリー「初候補で受賞した作家列伝」の50件の記事

2012年6月10日 (日)

井上ひさし(第67回 昭和47年/1972年上半期受賞) 半年前だったら受賞できていなかったよね、と言う人あり。相当レベルの高いもの、と言う人あり。いろいろ。

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井上ひさし。「手鎖心中」(『別冊文藝春秋』119号[昭和47年/1972年3月])で初候補、そのまま受賞。『ブンとフン』での小説家デビューから2年半。37歳。

 昨年平成23年/2011年6月、司馬遼太郎さんから始めまして、今日の井上ひさしさんで50人目です。

 どんなに偉くなろうが、周囲から祀り上げられようが、井上さんもまた、初候補で直木賞を受賞した人です。取り上げないわけにはいきません。

 昭和40年代。新橋遊吉千葉治平のエントリーでも確認したように、当時の直木賞は「いかに中間小説誌で活躍できそうな作家か」がひとつの受賞予想基準になっていました。ご注意ください。「受賞基準」ではありません。「受賞予想基準」です。

 つまり、まわりで好き勝手なことを言い立てる直木賞ファンたちが、好き勝手に設けた基準です。彼らは中間小説誌の発展(要は部数右肩上がり)のなかで生きてきました。

 そういう人たちにとって、井上ひさしの存在はどう見えていたか。『小説現代』でモッキンポット・シリーズつう大変ユニークな小説を書いて評判をとり、それよりもちょっと出来は落ちるけど、『別冊文藝春秋』に新作を発表したことで、まあ無難に直木賞路線だね。……って感じでしたでしょうか。

 井上さんも「モッキンポット」ものみたいなのが(引用者注:直木賞の)候補作だったら、もらえる感じが薄くなると思うよ。おかしいのは、受賞が決まったあとの記者会見で、松本清張が、「第二の野坂 (引用者注:昭如)」とかいっているでしょう。井上さんは、こんど初めて小説を書いたわけじゃないし、そんなに才能があるんだったら、この前のときに候補にもならなかったということがおかしいわけですよ。(引用者中略)今回も、いままでの「モッキンポット」風のものだったら取れなかったかもしれない。

 そうだろうな。推せんする人だって、なんとなく落ちそうだというのはわかるわね(笑い)。

 だけど、井上さんの場合、受賞作の「手鎖心中」だけの評価ではないと思う。いままでの実績とか力量みたいなものをふくめて評価されているんじゃないかな。野坂昭如の再来といういい方は、それからきているんじゃないかな。

 あれ一作だけの評価とは考えられないからね。

 考えられない。ぼくは、「手鎖心中」は井上さんの作品としてはあまり買わない。

 井上さんの作品としては、やや直木賞向けという感じはあるよね。」(『噂』昭和47年/1972年9月号「直木賞作家誕生!編集者匿名座談会 三度目の正直で生まれた受賞作」より)

 このころの井上作品の代名詞でもあった「ナンセンス」と、少しの「諷刺」。プラス、高齢の選考委員にも配慮した「時代もの」。何より、候補にしてもらうための強力な援軍を得ることができる「文春の雑誌に掲載」と。これらを掛け合わせたうえで「手鎖心中」は生まれ、直木賞をとるべくして書かれた、と言っても過言ではありませんでした。

 ここら辺のこと、どこまで信用していいかわからない書き手、としておなじみの、西舘好子さんの回想文から引いておきます。

(引用者注:「手鎖心中」の)担当は中井勝さん、(引用者注:『別冊文藝春秋』の)編集長は西永達夫さんだった。担当の中井さんは穏和な洞察力のある人で、井上さんの文体で江戸を書かせたいと考え、「戯作者」というテーマを持って来た。時代物を井上さんにぶつけてきたのだ。

 当時の直木賞の選考委員には高齢者が多く、そのことも考慮に入れたのかもしれない。

 いくら文学とはいえ、話題性と部数が勝負の世界だ。

 心ある編集者は優秀な作家の発掘と、賞を受賞させるための作品に命を削っていた。」(平成23年/2011年9月・牧野出版刊 西舘好子・著『表裏井上ひさし協奏曲』「第四章 あっという間に直木賞」より)

 一瞬目を疑いましたが、誤植ではありませんよね? 「賞を受賞させるための作品に命を削」る編集者のことを、はっきり「心ある編集者」と言っちゃっています。

 そのあとの文章を読んでも、西舘さん、ずいぶんと直木賞の威力を見せつけられたというか、直木賞から多大なる恩恵を蒙ったそうですからねえ。たいてい、賞に狂奔する作家や編集者は、心ある人たちから馬鹿にされる対象だとばかり思っていましたよ。西舘さんのチョー肯定的な文学賞観に出会って、ワタクシはホッとしています。

 ということで、心ある編集者、中井勝さんの証言を。

「「井上さんに書いてもらおうと思ったのは、はっきりいえば直木賞ねらいですね。最短距離にいる人だと考えていました。(引用者中略)別冊のお願いをしたい、と言いますと、井上さんはこうおっしゃったんです。

『いろんな人からいろんなものを書けと言われてますけれど、もし別冊文春から注文があったら書きたいと思っていたテーマが二つあるのです。これは誰に言われても書かなかったテーマです』と。

 それが『手鎖心中』と『江戸の夕立』だったと思います。(引用者後略)」」(平成13年/2001年6月・白水社刊 桐原良光・著『井上ひさし伝』「第五章 芝居が、舞台がぼくの先生だった」より)

 なんか微妙に西舘さんのハナシと違っている気がしますが、どうなんでしょう。『別冊文春』=直木賞狙い=江戸もの、の方程式を考え出したのが井上さん本人だったのか、中井さんだったのか。よくわかりません。

 当時の『別冊文藝春秋』は、「直木賞第二の機関誌」の名に恥じず、直木賞候補になりそうな作家に中篇を書く場を、積極的に提供していました。じっさいに力のこもった数多くの掲載作が、直木賞候補作になりました。

 なぜ直木賞候補が「モッキンポット師」でなくて「手鎖心中」になったのか。といえば、そりゃあなた、候補作を決める立場の近くに、『別冊文春』の編集者がいたからです。先の『噂』誌匿名座談会でも語られていたとおりに。いや、社内事情にくわしくない人の証言だけじゃありません。当の中井勝さんも認めています。

「社内で、直木賞に『モッキンポット師』を推す人もいたのですが、デスクの豊田健次とぼくが、いま、すごいのができるから待ってくれ、と説得したのです。それには相当レベルの高いものが必要だったのですが、それ以上のものができたということですね」(同)

 担当編集者ですからね、心ある編集者として賞を狙い、「レベル以上のものができた」と胸を張るのは当然でしょう。いや、ワタクシも一読者として井上ひさしさんが「手鎖心中」で受賞したこと、嬉しいですよ。好きな小説ですし。

 ただ、ほんとうに「手鎖心中」が「モッキンポット師」を超える一大傑作なのか、もし回がズレていたら受賞できていなかったんじゃないか、と指摘する人たちがいたことも、併せてご紹介しておきます。

 例の匿名編集者の面々です。直木賞は前々回の第65回、前回の第66回は「受賞作なし」でした。2回連続見送りの次だから、綱淵謙錠『斬』と「手鎖心中」とが受賞圏内にすべり込めたのではないか、みたいな見解を繰り広げています。

 今回受賞した二人でも前回だったらどうかといえば、どうもわからない。

 競馬のワク順有利みたいなところがあるな(笑い)。

 綱淵さんの「斬」も、出版されるタイミングがズレて前回に候補になったら、危なかったと思う。井上さんだってそうだね。

 前回なら“二回連続受賞作なし”でもおかしくないんだ、二人とも“処女候補”であれば、見送られた可能性のほうが強いな。」(前掲『噂』編集者匿名座談会より)

 ふうむ。そうかもしれません。さすがに『斬』は前回候補でも受賞できていたと思いたいですけど。

 まあ、決まっちゃったあとなので、どうとでも言えるんですけどね。少なくとも、「直木賞に選ばれたから」っていう理由で、賞の権威に知らず知らず心を動かされて、その小説を名作扱いしたり、評判作などと煽ったりするのは、バカっぽいことだよなあ、と思わされました。

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2012年6月 3日 (日)

中村正軌(第84回 昭和55年/1980年下半期受賞) 小説執筆は趣味のひとつと固く決めているので、直木賞ごときでは動じない。

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中村正軌。『元首の謀叛』(昭和55年/1980年7月・文藝春秋刊)で初候補、そのまま受賞。同作でのデビューから半年。52歳。

 せつなくなります。名前の〈ノリ〉の漢字がパソコンで呼び出しづらい(䡄=車偏に几。当ブログでは「軌」の字で代用)ゆえではありません。すでに直木賞作『元首の謀叛』は入手難ですが、この先も、新刊書店に並べられる期待はほとんど持てないからです。

 なにしろこの作、東西ドイツがまだ分かれていた時代に書かれた国際政治モノ。「二つのドイツが一緒になるなんて、まあ当分、無理だよね」っていう状況下だからこそ、逆にリアリティあふれる小説として受け入れられた感があります。

 さらに、原稿用紙1200枚のボリューム満点な長篇。文庫化にあたって上下巻に分けられたのも当然の処置でした。しかし、あなた。さくっとお手軽な薄ーい本ならいざ知らず、こんな長大な二分冊が復刊されたりするんでしょうか。格別「名作」扱いされているわけでもないし。

 そして愕然とすることに、作者の中村正軌さんが寡作中の寡作ときています。ここ十数年、小説の発表はなく、新作の刊行も期待薄です。今じゃ「誰それ?」の領域に入ってしまいました。

 「忘れられた直木賞作家、直木賞受賞作」への道まっしぐらです。止めようがありません。こういう作家の旧作を、復活させてくれるほど出版界の懐が深ければいいんですけど……。

 と愚痴っていても仕方ありませんね。こんな事態を引き起こしたのも、中村さんの強い信念といいますか、確固たる人生観のなせるわざです。その意味で、そんじょそこらの直木賞受賞者とは一線を画す中村さんらしい状況、と見ることもできましょう。

 ごぞんじのとおり、中村さんは受賞時、職業作家ではありませんでした。サラリーマン生活が充実していたさなかでもあり、作家になるつもりはなかったそうです。

「東京駅の前の本社から横須賀線で横浜の家に帰ることになりますと、坐りながらも会社のことを考えてるわけですね。それに気づいて、電車の中では、会社とは関係のない本を読もうと決めたんです。(引用者中略)眼鏡屋に行ったら、老眼のなり初めだから、電車の中で細かい字を読まないほうがいい、と忠告されましてね。仕方がない、会社とは関係のないテーマをきめて、電車の中で考えてたらどうだろう、ついでにそれを書きとめとけばいいじゃないかと思いたったんです。(引用者中略)ですから、本にして出版しようという気はなかったんです。」(『週刊文春』昭和56年/1981年2月5日号「イーデス・ハンソン対談 処女作が直木賞!「フォーサイスを越える」と称された“大型新人”は日航の部長さん」より)

 また、首尾よくデビューできたからといって、日本航空調達部長のポストを手放す気もありませんでした。

ハンソン (引用者中略)これからは文章の注文も殺到するでしょうし、お仕事と両方、大変ですね。

中村 ただ、私は日本航空という会社が好きですし、いまの仕事に生き甲斐を感じてますから、両立しなくなって、手抜きせざるをえなくなったら、はっきりさせます。すべきだと思ってます。」(同)

 当時の中村さんは、直木賞受賞者として多くの記事に取り上げられました。その多くで「二足のワラジ」なる言葉が多用されました。頻出しました。ぜんぶ同じ記者が書いているんじゃないの、と思えるぐらいに。

 と言いますのも、中村さんがインタビューなどで執筆時間のことをきっちり説明する様を表現するのに、「飛行機の運航ダイヤ並に秩序正しく正確」といった比喩が、いくつもの記事で使われているんですもん。いかにもうまいこと言った感のある表現は、ひとりが使うならいいですが、こうも各媒体で軒並み使われると、こっちが恥ずかしくなってきます。

 で、安易なテンプレでお茶を濁すマスコミに対し、デキる男・中村さんは憤然とこう言い放つわけです。

「サラリーマンと作家の二足のワラジ――といわれますが、ぼくはそうは思わない。会社に迷惑をかけない、一時間の余暇の使い方ですから。ですから“二足のワラジ”というのはあたりません。」(『週刊ポスト』昭和56年/1981年2月6日号「新・ライフスタイル研究 もう一人の日航作家中村正軌氏の『二足のワラジ』」より)

 しっかりと人生を見据えて50年生きてきた、ブレない男を前にすると、チャラチャラした直木賞はまるで形なしですね。「作家はねー、直木賞をとって2、3年が勝負だよー」なんちゅう誰それの声も、中村さんにはまるで効きません。

 いっときの騒ぎに乗じて浮かれたり、虚勢をはったりしない人でした。昭和63年/1988年3月、60歳の定年で日航を退社するまでの7年、中村さん、マジで小説執筆から一切遠ざかった、という。

「1981年に、東西ドイツの統一をテーマにした国際小説「元首の謀叛」で第84回直木賞を受けた後、筆をおいていた中村正軌(まさのり)さん(60)が、定年で3月かぎりで日本航空を辞め、作家として復帰することになった。

 その後、執筆しなかったのは「二君(にくん)に仕えず。二足のわらじは、納得できなかったから」と信念を初めてもらした。「日本航空で全力投球。人間、自分のベストを2分することはできない」とも。」(『朝日新聞』夕刊 昭和63年/1988年4月6日「人きのうきょう 中村正軌さん 日航を退職し作家復帰」より)

 じゃあ、定年退職してからは一気に作家業フル回転で、続々と新作を発表か……というとそうでもなく、その後の10年間で残した著作は4冊。あくせくしたところの見受けられない、悠然たる歩みでした。

 部長職にまで上り、養う子供もなく、まだ日航が安泰だったころの退社ですから、さぞかし幸せな定年後人生を送った(送っている)ことでしょう。

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2012年5月27日 (日)

山崎豊子(第39回 昭和33年/1958年上半期受賞) 発表するあてもなく7年かけて小説を書いていたワーキング・ウーマンが、あれよあれよと、出来すぎなデビュー。

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山崎豊子。『花のれん』(昭和33年/1958年6月・中央公論社刊)で初候補、そのまま受賞。『暖簾』でのデビューから1年。33歳。

 以前、司馬遼太郎さんの受賞について取り上げたことがあります。そのコメント欄で「君は、これほどの大作家を、ツマラなくて、どーでもいい観点でしか書けないのかよ。文章も下手くそだし」とバシッと指摘されちゃいました。

 今日も懲りずに、「大作家を、どうでもいい角度から取り上げる」愚行、ふたたびです。

 そう。山崎豊子さんといえば、直木賞専門ブログが紹介するまでもないほどの、押しも押されぬ有名な盗用作家です。……もとい、有名なベストセラー作家です。このような怪物作家の誕生に、直木賞が重大な役割を発揮していたことを、直木賞オタクとして嬉しく思います。

 ただ、惜しいかな、直木賞が彼女を見出したわけではありませんでした。先に山崎作品に高評価をくだしたのは、賞ではなく、大衆読者のほうだったみたいです。

「はじめて書いた長篇「暖簾」が本人が驚ろくほどの売行でたちまちベストセラー。映画になり芝居になって大変なブームをつくりあげた。これが昨年(引用者注:昭和32年/1957年)のこと。」(『週刊サンケイ』昭和33年/1958年8月10日号「話題の人にきく “土性ッ骨”のある男に惚れる 直木賞を受賞した山崎豊子」より)

 昭和32年/1957年4月に東京創元社から刊行された処女作『暖簾』。これがいきなり、十万部を超えるヒットとなり、当時の直木賞選考委員のほとんど全員が読みました。その影響があって、第二作目で早くも直木賞受賞につながった、と語っているのが吉川英治さんです。

「「花のれん」は、だいたい、うごかない或る位置をもつてゐた。一般の市評も手つだつてゐたが、山崎豊子氏の前作「のれん」(原文ママ)を誰も読んでをり、それに比べての進歩がたいへん信頼をつよめてゐたのである。だから席上で言はれたのは、その長所よりもむしろ欠点の方だつたが、にも関はらず推薦の座からは外されなかつた。直木賞の特質がこゝにもみられる。」(『オール讀物』昭和33年/1958年10月号 吉川英治選評「寸感」より)

 かように山崎さんの直木賞受賞には、一年前の『暖簾』が欠かせません。ってことで、ちょっとその辺りのことに目を当ててみましょう。

 『暖簾』は昭和32年/1957年4月刊。毎日新聞の先輩記者、大いなる薫陶を受けた井上靖さんの跋文も収められ、約1年後の段階で22回の増版。12万部売れたそうです。

 ド素人の小説が一作目で大当たり。この状況をみて、「ふん、あんなもの文学でも何でもないよ」と指摘したのは、我らが愛すべき十返肇さんでした。

「文芸評論家十返肇氏はこうして誕生したベスト・セラーにかなり批判的だ。

「たしかに『花のれん』は幾分うまくなっている。だが、『暖簾』は悪文で、ときに稚拙でさえある。それがウケたのは、ちょうど当時の“成功ものブーム”に乗ったからだろう」

 売れたのは文学作品としてではない。“百万長者になるには”式の立志伝なみに読まれたというわけ。

(引用者中略)

 しかも「暖簾」は、なお文学作品として読まれている。

「それは文壇がダラしないからだ。一般にも、昔のようなもったいぶった“文壇人”の権威なんか認めなくなったからでもある」

 だから、昨日まで無名の人でも一躍ベストセラーをものして、引張りダコという現象も起る。名前の新鮮なスターはマス・コミにとって、この上ない魅力だからである。」(『週刊東京』昭和33年/1958年2月22日号「アマチュア歓迎します あなたもタレントになれる」より)

 いかにも、文学作品と認められないものが大層売れるのは最近の特徴的な現象だ、と言いたそうな文章です。そうですか。でも昭和10年代前半、豊田正子や野澤富美子ら、ド素人小説が大ウケしたじゃないですか。昨日まで無名の人がベストセラーをものにするのって、さして時代のせいじゃない気もしますけど。

 で、山崎さんの場合、並の「ポッと出ベストセラー作家」とちがったとすれば、発表する当てもない小説を7年かけて完成させた、その準備期間の長さでしょうか。『暖簾』を書き始めたのは昭和26年/1951年、井上靖さんが毎日新聞を退社したころのことでした。

 20代後半から30代にかけて。新聞記者としてむちゃくちゃ忙しいこの時期に、コツコツ書きつづけた持続力。偉いですよなあ。

「よく宣伝文などには七年がかりの労作というふうに言われますが、私はこの言葉が非常につらいんです。と申しますのは、七年がかりの労作といっても、ともかく新聞という激しい仕事を持っておりますので、毎日曜日にしか執筆できないわけです。ですから延べ執筆日数というものはおのずからおわかりと思いますが、七年がかりの労作といわれるほどのものではないのです。しかし、ともかく私が考えたことは、小説というものは才能があるとかないとかということよりも、七年間同じことを同じ姿勢で同じ情熱を持って続けて行くということは、非常にむつかしいことで、もしも私をお認めいただけるとすれば、小説の反響とか話題よりも、七年間同じことを同じ姿勢でやり続けてきたその忍耐力をお認めいただくのが私にとって一番ありがたいと思います。」(『大阪商工会議所Chamber』昭和33年/1958年5月号 山崎豊子「大阪人と大阪の文学―小説『暖簾』をめぐって―」より)

 丹精込めて小説を書き上げた山崎さん。井上靖さんはじめ、知り合いの誰かれに読んでもらったらしいですが、知人の手を介して東京創元社に持ち込みます。なぜ、この出版社だったのか。はなから山崎さん自身、本を出すなら創元社から!と決めていたらしいです。

「本屋にはS社(引用者注:東京創元社)を選びました。学生時代以来私の教養の糧となり、私を育ててくれたものが、そこのS選書だったからです。私は一生にたゞ一冊でいいから、いい本を出してご恩返ししたいと思っていたのです」(『若い女性』昭和32年/1957年6月号「いとはん作家登場」より)

 一冊の著書もない無名の人が、若いころからずっとファンだったからといって、その出版社に原稿を持ち込み、希望どおり出版が決まり、しかも予想以上にガッツリ売れて、ほんとうに恩返しできてしまう。どうですか、この流れ。ちょっと出来すぎの感がしないでもありません。

 世の中そんなに甘くありませんよ、マスコミ熱なんてものが大して長続きしないことは、古今東西共通していますしね。幸運なデビューを果たした直後は、山崎さん、各新聞・各雑誌にひっぱりダコだったわけですが、時を経るうちに徐々に、「出来すぎ」なデビュー騒ぎも下火になって……。

 いくかと思いきや。下火にならなかったのですよ御同輩。山崎さんの「出来すぎ」って、トップクラスの「出来すぎ」に属するよなあと思わされるゆえんです。

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2012年5月20日 (日)

佐藤賢一(第121回 平成11年/1999年上半期受賞) 「時期尚早だよ」「順調な人生だね」などと言われて、「違う!おれだって苦労してきたんだ!」と叫ぶ31歳。

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佐藤賢一。『王妃の離婚』(平成11年/1999年2月・集英社刊)で初候補、そのまま受賞。「ジャガーになった男」でのデビューから6年。31歳。

 よほどの小説好き以外、名を知られていない。そんな作家に、パッと一瞬光が当たる。光の余韻が解けるころにはまた、よほどの小説好き以外、名を知られていない作家に戻っていく。……直木賞劇の見どころ・見せどころです。

 あ。佐藤賢一さんを「名を知られていない作家」などと呼んだら違和感ありますか?

 ただ、まあ、アレです。「同じ舞台に立った他の誰よりも地味」っていう意味で、村山由佳さんより桐野夏生さんよりマイナー感を放っていますよね、いまでも。

「デビューの頃というと、あまり明るい思い出がない。(引用者中略)

デビュー作が売れていれば、もとの有頂天を取り戻せたのかもしれない。が、現実は甘くなかった。ぽっと出の新人が簡単に売れたり、話題になったりするものではないと、そういう慰め方も私にはできなかった。同時受賞が村山由佳さんで、その受賞作が今頃になって映画化されるまでもなく、いきなりベストセラーになったからだ。同じ年の純文学のほう、すばる文学賞が引間徹さんだったが、こちらも受賞作が芥川賞の候補になった。今年出た新人として、三人で左右に並んでおきながら、私ひとりが売れず騒がれずに埋没する体だったのだ。」(『青春と読書』平成19年/2007年2月号 佐藤賢一「苦悶煩悶の二年間」より)

 ははあ。引間さんはどうだったか詳しくありませんが、村山さんを取り巻くビジュアル戦略まじりのスタート・ダッシュこそ、異常だったと思います。「小説すばる新人賞」受賞ぐらいでは、基本、それほど売れないでしょうなあ。

 村山さんとの同時受賞だったのが運のツキと言いますか。売れない、目立たない。その状況を佐藤さん、「一度死にかけた」と回想しています。

佐藤 新人賞を取ったときは、みんな「これで未来が開けた」みたいな気持ちになるわけなんですが、実際この世界って新人賞を取っただけで消えていく人もたくさんいるわけですから。

 僕はそういった新人生き残りレースで、一度死にかけたところがあるわけで、そのときは非常に苦しかったですね。(引用者中略)

 そのときはもう苦しい苦しいだけだったんですが、あとで振り返ると「おれはあのとき死にかけたんだな」と。僕は、単行本が出てそれが文庫本になるまで4年かかってるんです。普通は3年なんですが、僕は3年目では生き残れていなくて、その後でやっと生き残れたんで文庫になったんです。

宮崎(引用者注:宮崎緑) 文庫になることが作家として生き残ったということなのですか。

佐藤 何冊か続けて出る見込みがないと文庫にはなりませんから。僕はデビューしてから次回作が出るまで2年くらいかかったんですよ。その次回作が何とか出たんで、デビュー作も文庫にしてもらえた。だから、あのときに2作目を出せなかったら作家として死んでたんだなと思いますね。」(『週刊読売』平成11年/1999年10月10日号「宮崎緑の斬り込みトーク」より)

 4年だの3年だのと、具体的な数字を出して話してくれるところが、ワタクシ、好きです。歴代の小説すばる新人賞受賞者のうち、「死んでしまった」認定された人は誰だったかな、と調べるときには集英社文庫リストを見ればいいので便利です(って、こらこら)。

 それは冗談としまして。

 新人賞のときだけではありません。直木賞のときも、佐藤さんのかたわらには、きらびやかな女性が立っておりました。多くの人の視線が、隣に向いてしまう事態、パート2です。

(引用者注:桐野夏生と)東京会館の記者会見と文藝春秋の社屋で、二度ほど顔を合わせているが、たいへん御綺麗な方であることも手伝って、私は大いに気後れしたことを覚えている。記事や広告等々で何度も写真を拝見していたため、こちらは即座に桐野さんを見分けられた。有名人と会った、と些か興奮したくらいだ。が、桐野さんのほうは私の顔も名前も、全くの初見、初耳という感じだったに違いない。佐藤賢一? 誰だ、それ。記者会見場の衝立に潜みながら、そんな記者さんの言葉を現に私は聞いている。怒るより、苦笑する。無理もない、と思うからである。桐野さんに比べると、我ながら、ぽっと出の小僧の感が否めない。」(『青春と読書』平成11年/1999年9月号 佐藤賢一「冠の戴き方」より)

 「佐藤賢一? 誰だ、それ」。……いいなあ、その言葉が耳に入ってきたことを忘れずにおいて、受賞記念エッセイに書きつける姿勢が。

 晴れの舞台で、スポットライトを同時受賞者に奪われてしまう星のめぐり合わせ。さすが佐藤さん、モッてますねえ。そういうとこ、大好きなんです。

 上記のちょっとした引用でもおわかりのとおり、少なくとも当時の佐藤さんは、ずいぶんと「売れる」「騒がれる」「他の作家と比べてどう」といったことに敏感でした。そして敏感な感覚をインタビューやエッセイなどで披露してくれています。

 これはワタクシの当て推量というより、佐藤さん自身が語っています。いまはそういうことを考えなくなったが、かつては気にしていた日々があった、と。

「売れるとか、騒がれるとか、他の作家さんと比べてどうとか、そんなことも考えなくなったからには、自信も回復したのだろう。音楽に譬えるならば、純文学はクラシックのようなもの、エンターテインメントのなかでも恋愛小説はポップス、ミステリーはロック、してみると、歴史小説は演歌なのだ。他と比べても仕方がない。苦節十年二十年は当たり前で、すぐには芽が出ない。爆発的に売れるジャンルでもないが、地道に続けてさえいれば、必ずや報われるのだ。」(前掲「苦悶煩悶の二年間」より)

 そうであってほしいものだと思います。ほかの同種文学賞に比べて、直木賞はとくに歴史小説や時代小説にも温かい賞ですが、その姿勢がミステリー愛好者からボロクソ言われて歩んできました。苦節ン十年、地道に続けてきました、そんな直木賞は、いま報われていますもんね。

 ……ん? 報われているのかな。

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2012年5月13日 (日)

星川清司(第102回 平成1年/1989年下半期受賞) 文学賞の候補になるのは嬉しい。でも「世俗」は嫌い。そんな彼が選択した手法は年齢詐称。

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星川清司。「小伝抄」(『オール讀物』平成1年/1989年10月号)で初候補、そのまま受賞。「菩薩のわらい」での小説家デビューから19年。68歳。

 きらびやかなものが嫌いで、恥ずかしがり屋で、地味で。どう考えても、星川清司さんは、直木賞のなかでも「ひっそりと陰に咲く名無し草」っぽい役回りです。

 その星川さんがまさか21世紀に、直木賞トップ・ニュース(?)の上位に食い込み、俄然注目を浴びることになるとは。想像だにしなかった事態に直面して、驚いた方も多いと思います。ワタクシもそのひとりです。

「小説「小伝抄(こでんしょう)」で直木賞を受賞した作家、脚本家の星川清司(ほしかわ・せいじ、本名・星川清=きよし)さんが、肺炎のため平成20年7月25日に死去していたことが分かった。葬儀・告別式は近親者のみで済ませた。

 星川さんは東京都生まれ。脚本家としては市川雷蔵主演の「眠狂四郎」シリーズなどを手がけた。

 家族によると、大正15年10月27日生まれと公表してきた生年月日は、じつは大正10年で、亡くなったのは86歳だった。平成2年に直木賞を受賞したときは68歳で、古川薫さんが持っている受賞最年長記録より年長だったことになる。星川さんは家族に、自身の死を公表しないように伝えていた。大正15年生まれの妻に「運が強いから大正15年生まれをもらうよ」と語っていたという。」
(『産経新聞』平成22年/2010年4月10日「訃報 星川清司氏死去 直木賞「最年長」受賞」より)

 ほんとは68歳で直木賞受賞。なのに5歳サバ読んで、63歳で受賞、ってことにしていたという。68歳の受賞ともなれば、堂々の最高齢受賞です。タイトルホルダーです。直木賞のことが大好きな新聞各紙は、当然、この件にガツガツ食らいつきました。

 おそらく、生前の星川さんは、こういう事態になるのがイヤだったんだろうなあ。

 星川さんは、平成2年/1990年1月に直木賞を受賞しました。以後いくつかの場で、自分のことを語らざるを得ない状況に陥ります。彼はどう処したか。嘘(というか省略)をかなり含みつつ、自分を語りました。年齢のこと、名前のこと、小説執筆の遍歴のこと、などなど。

三枝(引用者注:桂三枝) 「星川清司」さん……きれいなお名前ですね。

星川 そうでしょうか。

三枝 これ、ペンネームですよね、もちろん。

星川 いえ、本名です。

三枝 ご本名ですか。

星川 はい。」(『週刊読売』平成3年/1991年9月29日号「三枝のホンマでっか」より)

 おお。この流れるような受け答え。とうてい嘘をついているようには読めませんが、星川さん、本名は「清(きよし)」さんというのだそうです。

 この対談では『オール讀物』に登場するまでの経緯も語られています。こんな感じです。

星川 小説書いてもそれを発表する場所のあてはなかった。あるとき、友人に聞いたんです。新人が最も登場しにくいのはどこだと。「オール読物」だろうという答えでした。まず新人賞に応募して、それを取って筋道をつけてから登場していくものだと、そう言うんです。

三枝 それで……?

星川 ですが、私はもう若くはなし、そんな暇(ルビ:いとま)はない、そう思いましてね。どのみち、これは腕だめしだから持ち込み原稿をやろうと、自分で決めたんです。それで「オール読物」編集部を訪れまして……。

三枝 全然、面識なかったんですか。

星川 はい。

三枝 向こう、何者だろうと思ったでしょうねえ。

星川 まあ、私が映画の世界にいた人間だということは知ってましたけれど……。そのとき渡しました作品が「小伝抄」です。」(同)

 この対談以外でも、星川さんは、似たような説明をしたのかもしれません。昭和46年/1971年、中央公論社の人に焚き付けられて何篇かの小説を書いたものの、それは別として、本気で小説を書こうと思って発表にいたった第一作が「小伝抄」、それで突然直木賞を受賞……みたいなストーリーです。

 しかし、このハナシ、信用できるでしょうか。星川さんが別に書いた自伝、「不運と幸運が綯い交ぜで」では、少し様相がちがっているんです。

「わたしはよっぽど強運なやつらしくて、「オール讀物」編集部に電話紹介してくれるひとがあらわれた。あす、文藝春秋へすぐにいきなさいという。もうすこし書きためてと思っていたのだけれど、あわてて原稿を持参した。当時編集部次長の設楽さんとおめにかかった。

 「稀なる幸運に恵まれた」と設楽さんがいった。持ち込んだ原稿のうちのひとつ、百枚のものが、渡してから五日ほどして、「オール讀物」に掲載が決まった。」(『オール讀物』平成2年/1990年3月号 星川清司「不運と幸運が綯い交ぜで」より)

 これが星川さんの『オール讀物』初登場作、「闇のささやき」(昭和63年/1988年11月号)の掲載経緯だといっています。

 いったいこの食い違いは何なのでしょう。なぜ対談では、自分で持ち込んだように聞こえる言い方にしたのか。……「電話紹介してくれたひと」だの「編集部次長の設楽さん」だのの存在を敢えて省略したのかもしれません。彼らに要らぬ迷惑がかかることを避けるために。

 新人の作品で百枚、百五十枚の長さのものは、そうやすやすと載せてくれるわけがなくて、昭和63年/1988年に第一作が出てから、約1年間、時間がかかった、その2作目がみなさんご存じの直木賞受賞作です、などといちいち説明するのは、たしかにかったるい。「小伝抄」より前に作品を発表していたことなど、どうせ多くの人は興味がないだろうから、そこは省いてしまおう、とも考えたかもしれません。

 どうなんでしょう。正直わかりません。なにせ、星川さんは身の上話をイヤイヤしていたような人です。ワタクシらのような興味本位至上人間に、ほじくり返されるのがお気に召さないかのごとく。そんな彼の語ることの、どこまでを信用していいのでしょう。お手上げです。

「自伝とかいうようなものは、これから先、もう書かないつもりだ。書きたくない。これはいわば直木賞受賞者の義務だから、致し方なく、需めに応じて書くことにした。

 身上咄の類いは、もうこれでおしまい。」(同)

 まあたしかに、自分の死でさえも世間に隠そうとしていたほどですからねえ。よほど、身の上話を避けたかったようで。

 ええ、そう考えますと、なぜ5歳年齢を詐称したのか。「寅年生まれは運が強いからと寅年の大正15年/1926年生まれを称した」と明かされたその理由までも、まだ真実を語っていないのではないか、と疑いたくもなろうというもんです。

続きを読む "星川清司(第102回 平成1年/1989年下半期受賞) 文学賞の候補になるのは嬉しい。でも「世俗」は嫌い。そんな彼が選択した手法は年齢詐称。"

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2012年5月 6日 (日)

大沢在昌(第110回 平成5年/1993年下半期受賞) ライバル作家に続いて、遅まきながらいよいよこの人も。文学賞をとって大にぎわい。……ってハナシは3年前に終わってますけど。

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大沢在昌。『新宿鮫 無間人形』(平成5年/1993年10月・読売新聞社刊)で初候補、そのまま受賞。「感傷の街角」でのデビューから14年半。37歳。

 ひとりの直木賞ファンとして、「くやしい」作家ってのがいます。大沢在昌さんはまさに、多くの直木賞ファンをくやしがらせた人、と言っていいでしょうなあ。

 というのも、「大沢在昌ブレイク」の手柄を、みんな他に奪われてしまったからです。

 '91年版の「このミス」(平成3年/1991年1月・JICC出版局刊『このミステリーがすごい!'91年版』)にはじまって、平成3年/1991年春の吉川英治文学新人賞、それから日本推理作家協会賞。

 『新宿鮫』(平成2年/1990年9月刊)の一作は、大沢在昌ここにあり、を世間に知らしめた記念碑的な作品でしたが、まず読者たちから熱い称賛を受けました。永久初版からの脱出を果たしました。そして、平成2年/1990年刊行物を対象とした賞レース。直木賞はボヤボヤして、何もからむことができませんでした。くやしいと言うほかありません。

 元来、文学賞は良さ、利点、うまみといったものも持っています。そのことを先に大沢さんに教えたのは、くやしいかな、吉川新人賞のほうでした。直木賞でなくて。

「今回の受賞(引用者注:吉川英治文学新人賞受賞)で自分は物凄く幸せだと思ったことがあるんです。例えば吉川賞のとき、推理作家協会理事の山村正夫さんが「飲みに出ておいでよ」とおっしゃってくれたし、選考委員の謙ちゃん(引用者注:北方謙三も「大沢、出てこい」って。彼は「大沢に対して強い立場にあったけど、これでもう俺は権力を失った」なんていってましたけど、自分のことのように喜んでくれました。(引用者中略)

 小説家というのは、お互い友だちであると同時にライバルでもあるわけです。だから、誰かが賞を取ると“良かったな”と思う反面、“ちくしょう。どうして俺じゃないんだ”と思う部分がないといえば嘘になる。なのに、みんながみんなと言っていいほど、僕の受賞を凄く喜んでくれました。僕はこの人たちに嫌われてなかった、良かったと、しみじみ思いました。」(『週刊文春』平成3年/1991年4月25日号「行くカネ来るカネ 私の体を通り過ぎたおカネ 大沢在昌」より)

 でしょう、でしょう。自分自身の喜びを超えて、まわりの人たちも喜んでくれる、文学賞の温かさ。それを、大沢さんに実感してもらうチャンスは(『新宿鮫』一作の件でいえば)、先に直木賞のほうにあったのに……。

「この原稿は、吉川英治文学新人賞の授賞式の翌日に書いている。(引用者中略)正直、プレッシャーに怯えていた。これほどにも運に恵まれた作品のシリーズ第二作、手が動かないのではないだろうか、と。

 だが、不思議なことに、至極スムーズに手は動いた。なぜだろう、たぶん、ふたつの賞(引用者注:吉川新人賞と日本推理作家協会賞)の重みが、私の手を動かざるをえないようにしているのだ。つまり、上からの圧力ではなく、中からの圧力として働いて。

 恥ずかしい作品は書けない。が、これも不思議なことだが、恥ずかしい作品にならない予感もある。

 いただいてわかったこと。賞とは、もの書きにとり、すばらしい栄養剤である。」(平成10年/1998年1月・小学館/小学館文庫 大沢在昌・著『かくカク遊ブ、書く遊ぶ』所収「栄養剤二本」より)

 でしょう、でしょう。文学賞ってすばらしいものでしょう。だけど、そのすばらしさを伝え得たのは、直木賞ではなかったわけで……。

 大沢さんは平成3年/1991年、『新宿鮫』がダブル受賞!って話題を受けて、数多くのメディアに登場しました。3年後、平成6年/1994年に第110回直木賞を受賞したときも、同じくさまざまなインタビューを受けました。

 語ることといえば、子ども時代の読書体験、慶應大学で遊び呆けて中退し、父親に怒られたこと、小説推理新人賞をとるまでの経緯、とってからの「売れない」期間の長さ、「永久初版作家」と言われたこと、冒険作家クラブを中心としたライバル作家たちの交流、などなど……。直木賞後に語られるハナシはほとんど、3年前に、吉川新人賞・推理作家協会賞のときに流布したストーリーの繰り返し、といっていいほどだったんです。

 この展開を目の当たりにして、くやしくならない直木賞ファンなどいるのでしょうか。

 大沢さんと賞、っていう世界のなかでは、直木賞なんてのは、同じ味の料理のおかわり、と言いますか。視聴率を集めたドラマの昼間の再放送、と言いますか。それはそれで意味はあるけど、新鮮味に欠けるのはいかんともしがたい。

 大沢さんに言わせますと、直木賞とは、以前の賞に比べて、この程度の違いしかなかったようなのです。

三枝(引用者注:桂三枝) やっぱり直木賞受賞すると、周りの雰囲気とか変わってくるもんですかね。(引用者中略)

大沢 四年前に『新宿鮫』というのを出しまして、それで賞をもらって、本も急に売れるようになったんです。そういう意味では多少、免疫ができていたつもりでいたんですけれども、やはり、ちょっと違う賞かなと。

三枝 ほおぅ。

大沢 例えば、この前、飲んでたら、伊集院静さんに呼び出されまして、何人かお連れの方がいらしたんですが、「こちらが直木賞とった大沢さんだよ」って伊集院さんが言うと、座ってた人たちが一斉に、「あッ」と言って立ち上がるんですね。これが直木賞かいなあ、とねえ(笑)。」(『週刊読売』平成6年/1994年2月20日号「三枝のホンマでっか!」より)

 何だか文学賞を毛嫌いする人たちが、なぜ毛嫌いするのか、その理由がわかるようなエピソードじゃありませんこと? 作品の内容とか、作家としてのこれまでの歩みとか、そういうのを語らずして、単に「何何賞をもらった」というだけで周囲の扱いが変わる気持ち悪さ。

 文学賞のおいしいところは全部、吉川新人賞あたりに持っていかれてしまい、イヤな面、チャカされる面、馬鹿にされる面を直木賞がひっかぶる構図、とでも言いましょうか。まあ、そうですよね、直木賞ってけっこう損な役回りですもんね、と愛おしくなる場面でもあります。

 『新宿鮫』でだって、四作も待たずに、ズバッと一作目で受賞させて、おお直木賞もなかなかヤルじゃん、と拍手されるチャンスはあったのに。いや、それ以前だって、プロフェッショナルなエンタメ作家、でもあまり世間に評価が広がっていない作家、そういう人を世に紹介する、なんちゅう直木賞が威力を発揮する恰好の舞台が、大沢在昌さんのまわりには何年もあったのに。

 直木賞君。かわいそうだけど、あなたの損な役回りは自業自得のようです。

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2012年4月29日 (日)

千葉治平(第54回 昭和40年/1965年下半期受賞) この人のせいで二人の選考委員のクビが飛んだ!とさえ言われてきた、強烈な受賞者の誕生。

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千葉治平。「虜愁記」(『秋田文学』23号~27号[昭和39年/1964年8月~昭和40年/1965年11月])で初候補、そのまま受賞。「蕨根を掘る人々」でのデビューから19年半。44歳。

 第54回(昭和40年/1965年下半期)の直木賞は二人の受賞者を生みました。先週の主役新橋遊吉さん。そして、もうおひとりは直木賞史を語るうえで絶対欠かすことのできない方。「超」が10個ぐらい付くほどの重要人物、千葉治平さんです。

 どちらの人も地方の同人誌作家でした。東京の商業誌にまったく登場したことがありません。受賞直後、選考経過をまとめるにあたって新聞記者はこう書きました。

「今回の直木賞は、将来に期待できる新鮮な人を選んだのが特色。」(『毎日新聞』昭和41年/1966年1月18日「芥川賞高井有一氏 直木賞新橋、千葉氏 選考経過」より)

 しかし奥さん。あなたは、その後の千葉治平さんの活躍をご存じですか?

 千葉さんは身のほどをわきまえた方でした。「賞」に躍らされて東京進出、なんちゅう愚行をするはずがありません。秋田の地で定職に就きながら、終生、こつこつとおのれの道を邁進いたしました。

 高橋春雄さんにいわせると、こういうことです。

「直木賞受賞後は『八郎潟・ある干拓の記録』等のほか創作は寡作。「虜愁記」では中国の風土に圧倒されている作者のロマンティシズムのふくらみが、職業作家に堪えられる質のものでなかったかとも思われ、思想の上の低迷があったかとも思われる。プロ作家になりきった新橋遊吉と対照的である。」(『直木賞事典』「選評と受賞作家の運命」より ―執筆担当:高橋春雄)

 寡作。いやもう、寡作どころの騒ぎじゃありません。まもなく、秋田を離れた地では、千葉さんのお名前や作品を見かけることが、ほぼなくなったほどです。受賞作の「虜愁記」ですら、文藝春秋がいちど単行本化しただけで、そのほかで読むことができない、という直木賞受賞者としては珍しい状況がつくり上げられていきました。

 だからでしょう。かの有名な(?)直木賞の定説まで誕生してしまったのです。直木賞が「将来職業作家としてやっていける人」ではなく、「すでに職業作家として人気を勝ち得ている人」を選ぶようになったのは、昭和40年/1965年下半期のこの回が分岐点だった、っていう。

 ええ、そうですね。この定説を語るのであれば、二人の選考委員のハナシを抜かすわけにはいきませんよ。小島政二郎さんと木々高太郎さんです。

 お二人とも、第54回が終わってまもなく選考委員を辞任。いや、辞任といいますか、以前に小島政二郎「佐々木茂索」のエントリーでも確認したように、主催者日本文学振興会(つまり文藝春秋)の意向により解任されたらしいのです。

 文壇周辺の界隈では、その件に関して、あるウワサ話がまことしやかに流れました。

 どんなウワサでしょう。以下、うちのブログでは何度か引用した文章ですが、念のためもう一度。

「青山(引用者注:青山光二は、『オール讀物』編集部が直木賞選考に強い不満を抱いているということも耳にした。直木賞というのは『オール讀物』の常連作家を補充するという意味合いもあるが、「今回の二人(引用者注:第54回受賞の新橋と千葉)は使えない」と編集部が考えているというのである。そうした文藝春秋側の意向も働いたのか、木々と小島の二人は次の回から選考委員をはずされた。」(平成17年/2005年12月・筑摩書房刊 大川渉・著『文士風狂録 青山光二が語る昭和の作家たち』より)

 ふうむ。このウワサ話、あらためて読み直すと、どうにも気色悪いですよね。

 というのもアレです。新橋・千葉という『オール讀物』向きでない人を受賞させたのは、いかにも小島さんと木々さんの責任だと匂わせているからです。

 だって、『オール讀物』の常連作家を生み出すのが直木賞の目的なのであれば、そうなりそうもない人を、予選で通過させなきゃいいだけのハナシですもん。文藝春秋の人たちが。

 自分たちで候補に残しておきながら、いざ選ばれたら、ブウブウ文句を言うってどういう了見ですか。意図どおり動かない選考委員を解任できる力があるんなら、はじめから新橋さんや千葉さんを候補にするなよ、と言いたくもなります。どう見ても、新橋さんと千葉さんが選ばれたのは、文春の責任でしょう。なのに、小島・木々二人の批評眼をおとしめるようなウワサばかりが面白おかしく語り継がれるという。ああ、気色悪い。

「このとき新橋、千葉の二人をつよく推した三人の選考委員のうち小島、木々の二人はこの回を最後に委員を辞任し、次回からは新たに柴田錬三郎水上勉の二人が新委員に任命された。」(大村彦次郎・著『文壇挽歌物語』「第十二章」より)

 新橋・千葉の受賞をつよく主張した委員が、小島・木々など3人いた。……っていいますけど、ほんとですか? 選評を読んでもそうは分類できませんけど。

 村上元三さんはこう分類していますし。

「大仏(引用者注:大佛次郎、木々、小島の(引用者注:日露)戦前組は新橋遊吉氏の「八百長」を推し、源氏(引用者注:源氏鶏太、松本(引用者注:松本清張、村上の戦後組が千葉治平氏の「虜愁記」を推した。そして、ちょうど“戦中派”の海音寺潮五郎氏は中立という具合に色分けができた。その結果、二作とも受賞ときまったのです。」(『週刊文春』昭和41年/1966年2月21日号「盛会の芥川・直木賞授賞式」より)

 事実はあやふやです。

 それでも、なにせ千葉さんのその後の活躍ぶり(不活躍ぶり?)が強烈すぎました。「職業作家として使えない」度は、天下一品です。その千葉さんの姿に引きずられて、この回の受賞者を推した小島・木々の二人が、その責をとらされて解任された、みたいな風評は絶えることなく受け継がれてきたのでしょう。たぶん。

 直木賞において千葉さんの存在が重要である、と思わされるゆえんです。

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2012年4月22日 (日)

新橋遊吉(第54回 昭和40年/1965年下半期受賞) 大衆小説文壇に、いきなり現われていきなり去っていき、独自の道を駆け抜けた。

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新橋遊吉。「八百長」(『讃岐文学』13号[昭和40年/1965年8月])で初候補、そのまま受賞。同作での同人誌デビューから半年。32歳。

 そうなんです。昭和40年/1965年に突如あらわれた直木賞界の大穴、新橋遊吉さんは「八百長」が処女作なのだそうです。

 「八百長」の前に作品はない。正真正銘、はじめて書いた小説なのだ。……と、この説を唱える人はたくさんいますが、その代表者がご本人、新橋さんです。

「この作品は新橋さんの第一作。その後は、三十九年(引用者注:昭和39年/1964年)暮れに夫婦で同人になった豊中の同人雑誌「行人」に「内輪外輪」を発表しているだけである。

 だから直木賞受賞に驚いたのは新橋さんだけではない。マスコミ関係者も驚いた。

「ほんまに新橋さん、書きはったんですか」

 新進作家に対してたいへん失礼な愚問がでる。」(『週刊サンケイ』昭和41年/1966年2月7日号「女房が授けた直木賞・新橋遊吉」より)

 32歳になるまで、いったい新橋さんは何をしてきたのか。どうして突然、小説など書いたのか。ってことを少し追ってみたいと思います。

 同記事で妻の玲子さんが、こんな証言をしてくれています。

「この人はテレ性なんで、人さんの前ではウマのことばっかりいうてますけど、病気のときは小説や文学もずいぶん読んでたようですよ」(同)

 そうかあ、新橋さん、テレ性なのかあ。だから、いつも冗談みたいなことばっかり言って、どこまでがホントで、どこからが脚色なのか判然としないんだそうです。

 ってことはですよ。直木賞を受賞してから、各媒体で語ったこと書いたことも、きっと新橋さん、面白おかしく誇張したり省略したりしたんだろうなあ、とは想像がつきます。そのせいなのでしょう、新橋さんのプロフィールは、書く人によって微妙に細部が違っているんですよ。んもう。研究者泣かせなんだから。

 たとえば、武蔵野次郎さんはこんな文を書いています。

「初芝高校卒。七年間にわたる療養生活をおくり職業も転々としたが、その間も小説勉強に励み、昭和四〇年下期第五四回直木賞を『八百長』(昭和四一・四 文芸春秋)で受賞。」(昭和52年/1977年11月・講談社刊『日本近代文学大事典 第二巻』より)

 「その間も小説勉強に励み」ってどういうことなのでしょう。なにしろ新橋さん本人は、「八百長」まで小説を発表したことがないと証言しています。小説をたくさん読んできた、とは言っていますが、通俗小説ばかりだったそうで、とうてい小説勉強に励んできた形跡がありません。

 はて。武蔵野さんは、どんな具体的な行為を指して「小説勉強に励み」なる表現にたどりついたのでしょうか。不明です。

 あるいはもうお一人。木村行伸さんは、こう解説します。

「初芝高校卒。七年間の療養生活や、様々な職業を転々としていたが、昭和40年に作家を志して同人誌「讃岐文学」に参加。そこで発表した『八百長』(昭41)が直木賞を受賞。」(平成16年/2004年7月・明治書院刊『日本現代小説大事典』より)

 ははあ。「小説勉強」の部分をばっさりカットしちゃっていますね。昭和40年/1965年『讃岐文学』に参加したタイミングを、「作家を志した」時と認定しています。

 いったい、どういうことなんでしょう。「小説勉強」とは何だったのか。作家を志したのは、ほんとに『讃岐文学』に入った頃なのか。その点に注目しながら、いくつかの文献を読んでみました。

 そもそも新橋さんと『讃岐文学』との縁を取り持ったのは、妻の玲子さんでした。これはどうやら確かなようです。前掲の記事によれば、

「新橋さんは、療養中に玲子夫人と知り合い、玲子さんが同人雑誌「讃岐文学」の同人だったことから玲子さんのすすめで、この会合に顔を出しはじめたのである。(引用者中略)

 玲子さんと新橋さんとは半年の交際の後、三十八年十月十日、堺の天神さんで結婚式をあげた。(引用者中略)

 新橋さんは昨年(引用者注:昭和40年/1965年)の春ごろから正式に「讃岐文学」の同人になった。どこの同人誌にも“書かざる同人”はいるものだが、新橋さんもその例にもれず、最初のうちは、いっこうに小説らしいものは書かなかった。」(前掲『週刊サンケイ』記事より)

 この経緯だけ追えば、作家を志したから昭和40年/1965年に正式な同人になったのだろうな、とは読めます。読めるんですが、新橋さんののらりくらりな証言は、その認定に水を浴びせてしまうのです。困った人です。6年後にこんな回想を残しています。

「早いもので私が讃岐文学十三号に「八百長」を発表してから、今年で七年が経つ、思えばその頃、女房曰く、

「あんたの話は聞いていると面白い、小説に書けばいい作品が出来るかも…」

 などと調子よくおだてられ、主宰者の永田敏之さんに、

「ほんなら一丁、大小説を同人雑誌に発表するべェか」

 などといい、私の方は冗談半分であったのに、永田さんが本気で受け取り、「貴兄の作品を十三号の巻頭に持ってゆきたい、ぜひとも年末までに脱稿の上、郵送されたし……」

 と十二月に入ってから矢の如き催促、(引用者中略)

 十二月も半ば過ぎると寒く、この年はときどき雪がちらついた。貧乏暮らしなのでガスストーブは費用がかさむと敬遠され、石油ストーブで暖をとりながら日付けが変る頃まで、私は「八百長」を女房はオール読物新人賞に応募するのだといい「天保の乱余聞」を書いていた。(引用者中略)それでも何とか間に合って(引用者注:『讃岐文学』発行所のある)高松へ送った。」(『讃岐文学』21号[昭和47年/1972年9月] 新橋遊吉「あれから七年」より)

 これを信ずるなら、新橋さんがはじめての小説「八百長」を書いたのは昭和39年/1964年暮れです。作家を志したのは、昭和40年/1965年になる前だった、と解釈せざるを得ません。

 だいたいアレです。少なくとも『讃岐文学』より以前に、新橋さんはほかの同人誌に属していた経験があるんですもの。昭和40年/1965年に突如、小説を書く気になったと考えるのは違和感があります。

 『週刊文春』昭和41年/1966年1月31日号の記事では、「大阪の同人雑誌の会合で知り合った亀山玲子さん(筆名)と結婚。」と紹介されています。「大阪の同人雑誌」の誌名は紹介されていませんが、新橋さんが『讃岐文学』や『行人』を知る前であることは確実です。

 その同人誌の候補をひとつだけ挙げておきます。堺市の『文学地帯』です。かつて北原亞以子さんが所属していたことでも知られる雑誌ですが、

「「文学地帯」は(引用者中略)現在の関西の同人誌の中では、「VIKING」「文学雑誌」「雑踏」などに続く歴史を持ち、直木賞作家の新橋遊吉さんや、企業小説の門田泰明さんらを送り出している。」(『読売新聞』夕刊[大阪版]平成5年/1993年8月17日「直木賞作家支える同人誌」より)

 なあんて語られていたりするわけです。武蔵野次郎さんはこの辺りを意識して「小説勉強に励み」と書いたのかもしれません。

 しかし、作家業に憧れを抱き、同人誌に参加したからといって、小説勉強に励んでいたとは限りません。この辺が新橋さんの、いわゆる療養生活中のあやふやなところです。

 胸を病んで療養中、昭和31年/1956年のことです。石原慎太郎さんが「太陽の季節」で芥川賞を受賞しました。このころのことを、新橋さんはこう振り返っています。

「石原慎太郎が湘南地方の若者の風俗を描いた『太陽の季節』で芥川賞を受賞、学生作家としてデビューした。(引用者中略)

 私が文学に対して関心を持つようになったのもこの頃からで、原稿を書いて銭になれば、こんないいことはないと思ったものの、とても自信などなく、いたずらに無為徒食の日が明け暮れた。

 ただ、まだ働くということは無理な身体だったので、療養中の大義名分があったから、精神的にはそれほど苦痛を感じなかった。」(昭和60年/1985年6月・グリーンアロー出版社/グリーンアロー・ノベルス 新橋遊吉・著『競馬有情 無頼編』より)

 7年の療養とは言いますが、実際には3年ほどで全快し、その後4年は仕事を探しながら無職の日々を送っていたそうです。推測するに、昭和30年代前半、健康が回復するにつれて作家を志すようになり、大阪の同人誌に顔を出すようになったのではないでしょうか。しかし実際に小説を書くことはできず、「書かざる同人」のまま、競馬・競輪などにうつつを抜かしていたと。

 そこで亀山玲子さんと出会い、また永田敏之さんとも縁ができたのが運のツキでした。書いたらいいよ、書け書けと背中を押す人が現われたのです。せっつかれて、ようやく昭和39年/1964年、第一作を書き上げることができた。……っていうのが、「八百長」完成までの流れなんだろうなあ、と思います。

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2012年4月15日 (日)

中島京子(第143回 平成22年/2010年上半期受賞) 家族たちがかもし出す静かで温かな受賞光景。出版界の馬鹿さわぎがかすんで見えてきます。

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中島京子。『小さいおうち』(平成22年/2010年5月・文藝春秋刊)で初候補、そのまま受賞。『FUTON』での小説家デビューから7年。46歳。

 ついこないだの出来事です。誰の記憶にも、きっと新しいはずです。

 うちのブログはたいがい、古い時代のハナシにばかり目を向けて、ご機嫌をうかがっています。何でまた、2年も経っていない中島京子さんの受賞のことを取り上げるのか。……といえば中島さんが「初候補で受賞した」人だからです。

 初候補での受賞は、第131回(平成16年/2004年上半期)の熊谷達也さん以来、6年ぶりでした。じつは初候補受賞者を手ぐすね引いて待っていた人たちが世のなかにはたくさんいたらしくて、中島さんの受賞が決まるや、いっせいに喜びを爆発させました。

 その一端は直接、中島さんの耳にも届いたそうです。

「初ノミネートでいきなり受賞は珍しいと、いろんな人に言われた。」(『毎日新聞』夕刊 平成22年/2010年7月29日 中島京子「直木賞に選ばれて 「とにかく、書く」ということで」より)

 「喜びを爆発させた」は、ちょっと表現が間違ったかもしれません。

 うちのブログでは昨年6月より毎週、「初ノミネートでいきなり受賞」した作家を紹介しています。今週の中島さんで42人目です。まだあと23人もいます。直木賞史においては、とくに珍しくこととは言えませんよね。中島さんのまわりにいる直木賞に詳しい人たちも、んなことは先刻ご承知でしたでしょう。それでも、「珍しい」などと口走ってしまったのは、6年も待たされた反動から、つい嬉しくなっちゃったからなのだろうな、と推察したわけです。

 いっさい新人賞をとった経験のない作家。デビューして7年、小説13冊目。着実に新作を上梓しつづけているものの、時代小説とかミステリーとかSFとかホラーとかラノベとか、そういうわかりやすいジャンル区分の世界にはいない、基本、初版止まり作家。

 こういう人に、バシッと一発目で賞を授けることができたのです。直木賞にとってこのうえなく理想的で、ある種「直木賞らしい」ともいえる授賞です。……直木賞の好きな人たちが、ついつい喜んでしまったのも、故なしとしません。

 ワタクシにとっても嬉しい出来事でした。そして、あまりの嬉しさに、口が滑らかになってしまった人もいました。選考委員の林真理子さんです。お得意の、記者会見で余計な発言を炸裂させてくれました。よっ! 待ってました、真理子さん。

「こうして今回は芥川賞、直木賞ともに初候補作品が受賞という、珍しい結果に終わった。さらにもう1つ異例といえるのが、林(引用者注:林真理子)選考委員が総括として「今回は、全体として作品が小粒だった。小説が売れない時代に、直木賞は指針を示すものでなければならない」と、小説界全般に対して直木賞が果たすべき役割を言明したことだ。

 文学界の権威の選考によって小説の魅力を位置づける直木賞。だが、最近は「本屋大賞」のような作家以外の人による小説のランク付けに販売力で及ばないなど、影響力の低下がささやかれる。林委員の発言は、こうした危機感の表れといえるだろう。」(『日経エンタテインメント!』平成22年/2010年9月号「選考委員の平均年齢も若返り “売れる”本に言及した直木賞」より ―文:土田みき)

 ははあ、なるほど。そんな意識が、1年後の第145回(平成23年/2011年上半期)で展開された、林さんの『ジェノサイド』推しにつながっているのかな、などと想像させてくれたりもして。

 まあ、林さんは、何に対してそんな使命感を燃やしているのか、とツッコミを入れたくなるほど、直木賞の受賞を過大に考えるきらいのある方ですから。仮想の敵と常に闘う女、マリコ嬢。温かく見守ってあげたいなと思います。

 偉そうなことを言いますけど直木賞がゴールじゃなくて、これからが頑張りどきですよ。気を緩めているとすぐに忘れられてしまいます。(引用者中略)私も書き続けて、後世の語り部にならなきゃいけない使命を帯びているんじゃないかと思うんです。ほんとに中島さんには頑張ってほしいなと思います。私たちって大量に書き続けなきゃいけないわけで。直木賞を獲ったからって安心できないんですよ、活字文化にとってやさしい時代でもないですしね(笑)。」(『オール讀物』平成22年/2010年9月号 林真理子×中島京子「受賞記念対談 戦前日本は、明るく豊かだった」より)

 またそうやって、直木賞をとって寡作を貫いたような、信念の作家を「直木賞受賞者としては傍流」みたいに、決めつけちゃうのですね。林さんの直木賞観はあまりに熱くて濃くて、そして狭すぎて、肩がこりますよ。忘れられるのが、そんなに恐怖ですか?

 直木賞はもっと自由なものだと思います。たかが直木賞です、気楽にいきましょうよ。

 当の中島さんは、直木賞のことをかなり自由な発想でとらえてくれているようで、なんだかホッとしました。

「直木賞は伝統のある文学賞で、懐の深い賞でもある。ベテラン作家に授与されることもあれば、私のようなものが受賞することもある。そうなるときっと、直木賞の意味合いも受賞者によって違うと解釈すべきだろう。(引用者中略)

 これからどんな作家人生が待ち受けるのか想像もつかないが、「とにかく、書く」ということで。後のことは、またまた運に任せるしかない。」(前掲「「とにかく、書く」ということで」より)

 直木賞は懐が深い!との指摘に、思わずうなずいてしまいます。

 まったくです。100人の直木賞受賞者がいれば、100通りの直木賞があるってわけでして。「直木賞とは、どんな賞か」と問われて、最も的確な答えは、「自由な賞である」というものでしょうから。

 受賞傾向も「自由」なら、受賞者の筆歴、作家としての歩みもバラバラ。とったあとの活動だって、当然、書いたっていいし書かなくたっていい。

豊崎(引用者注:豊崎由美) (引用者中略)わたしは中島さんが直木賞を受賞して、ほんとうによかったと思っているんです。大きな賞をとると、より書きたいものが書ける自由を得るという利点がありますから。

中島 そういえば山田詠美さんもすごく喜んでくださって、「実用的な賞だからとっておくといいわよ」とおっしゃっていました。

豊崎 その通り。これまで以上に書きたいものを書いてください。」(『書評王の島』4号[平成22年/2010年12月] 「ロングインタビュー「中島京子」ができるまで」より ―聞き手:豊崎由美、構成:石井千湖)

 そして、書けば書いたで、ワタクシらのような無責任な読者からは「濫作だ」「紙の無駄づかい」とあしざまに言われ、本が出なくなると「低迷」「地味」「忘れられた」と言われる。それもこれも全部含めての直木賞。何と魅惑的で心おどる事象なんでしょう!

続きを読む "中島京子(第143回 平成22年/2010年上半期受賞) 家族たちがかもし出す静かで温かな受賞光景。出版界の馬鹿さわぎがかすんで見えてきます。"

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2012年4月 8日 (日)

光岡明(第86回 昭和56年/1981年下半期受賞) よーし、小説どんどん書くぞ、の意欲を封じ込めてでも生きる、デキる地方在住ビジネスマンのジレンマ。

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光岡明。『機雷』(昭和56年/1981年・講談社刊)で初候補、そのまま受賞。「卵」での文芸誌デビューから6年半。49歳。

 中間小説誌に一度も登場したことのない地味な作家が、書き下ろし長篇を発表。突然、直木賞が授けられました。

 光岡明さんです。受賞してまもなく、その後の20年におよぶ光岡さんの活動を、ある意味予見するような記事が書かれました。いま読むと、何だかせつなくなります。

「受賞決定の目まぐるしさから一段落した光岡は「これまで以上にスピードを上げて書き続ける覚悟は、もう完全に据わった」と言った。芥川賞候補に四回挙げられ、同人誌にも属さず独力でやってきた自負もさることながら、直木賞の性格から、今後も小説を書き続けられる人間と認められたという重みを身にしみて感じ取っている。「『機雷』はデビュー作と考えたい。代表作はこれから。六十五歳ぐらいまでは全力を挙げて取材する覚悟で」。」(『中央公論』昭和57年/1982年4月号「人物交差点」より)

 ……ええと、こんなにヤル気まんまんだったのに、受賞してから遺作まで、光岡さんが出すことのできた小説は、『千里眼千鶴子』『前に立つ空』『薔薇噴水』のわずか3冊。エッセイやノンフィクションの類を加えても、10冊にも達しません。うおう。せつない。

「熊本市での受賞祝賀会で、出版社関係から「どうか地方の名士に祭り上げてくれるな」という意味の挨拶があったが、頼まれてもそうなるような人柄ではないというのが、周囲の一致した見方。」(同)

 ああ。ため息が洩れちゃいます。

 「頼まれてもそうなるような人柄ではない」ですと? どなたですか、そんな無責任なこと言ったのは。頼まれて頼まれて頼まれ尽くして、光岡さん、そうなっちゃったんじゃないんですか?

「52歳で新聞社を辞め、85年~95年まで、熊本近代文学館の初代館長に。県や市の各種委員就任への依頼は増え、「書く時間が足りない」とぼやいたが、「むげに断れるほど偉くない」とエッセーに書いている。」(『朝日新聞』夕刊 平成17年/2005年1月31日「惜別 作家・元熊本近代文学館館長 光岡明さん 記者意識、礎に」より ―署名:渡辺淳基)

 周囲の人には、地元の名士に祭り上げる気はなかったかもしれません。だけど結果、「県在住の唯一の直木賞作家」みたいな肩書きが、光岡さんの創作時間を奪い取り、寡作作家へのレールを敷いたことは否定できません。

「館長時代は時間が細切れにしか取れず、小説もなかなか書けませんでした。十年間で短編二本ぐらいでしょうか。」(『西日本新聞』平成7年/1995年5月30日「近況 公職やめ小説に専念、光岡明」より)

「昨年三月、新聞社退職後、十年間務めた熊本近代文学館長を退いた。「在任中は企画展が年四回、各種審議会の委員が三十三も重なる」相当な激務。小説を書く心境ではなかったようだ。」(『西日本新聞』平成8年/1996年10月27日「ひと・仕事の内そと 短編小説集を刊行した、光岡明さん」より ―署名:藤田中)

 ちなみに光岡さんの年譜は、井上智重さんが『恋い明恵』(平成17年/2005年8月・文藝春秋刊)の巻末「光岡明さんのこと」内でまとめてくれています。それによると、直木賞受賞の49歳のときには熊本日日新聞社編集局次長の職にあり、同年、論説副委員長。さらに熊日情報文化センターに社長として出向後、昭和60年/1985年に退社、52歳で熊本近代文学館館長に就任します。そこから10年。平成7年/1995年までの10年間、62歳まで、館長としての激務――言い換えれば地元の名士として熊本県文化向上のために精一杯つくした、と。

 65歳までは全力を挙げて取材するのじゃ!と創作意欲もえたぎっていた光岡さんの、貴重な貴重な10数年でした。でしたのに。

 もちろん、「直木賞作家」の肩書きだけのせいじゃありません。なにせ光岡さん自身、真面目で誠実で、打ち込むとなればトコトン打ち込む人です。しかも50歳。まわりのことや社会のことを考えなければいけない、いい大人です。頼まれれば断らない、それどころか小説執筆をおいてまで、「地元の名士」に情熱を傾けました。

「新聞社にいたときは記者として、文学館に移ってからは各種審議会、委員会の委員として、熊本県内は隅々まで歩き回った。同時にその人脈は県内の行政、民間の両方にまたがって隈なく拡がっていた。真面目な性格で、一度委員職につくと、資料を丹念に読む、周辺を勉強し、ときには事務局に出かけて行って質問し、データをもらった。ますます委員職がくるという悪循環のなかにいたが、「それが住むということだ」と光岡さんは思っていた。」(井上智重「光岡明さんのこと」より)

 周囲の人たちがもう少し、光岡さんへの公職依頼を遠慮していてくれたら。光岡さんがもう少し、わがままを通す人で作品を生み出すほうに専念していてくれたら。まだあと何作も、ワタクシたちは光岡作品を読めたかもしれません。

 きっと光岡さん自身も悩んだことでしょう。あたら「直木賞」などという、虚飾の最たる肩書きを背負わされたばっかりに、思い通りの執筆活動ができなくて。

 直木賞が運んでくるのは、職業作家への扉をあけるカギばかりではない、地元民たちの期待にくるまれた社会的な役割までも、どっさりと押し付けられる……。デキる作家でもあり、デキるビジネスマンでもあった光岡さんは、そんな直木賞の性格を、痛いほどに体感させられたのでしょう。

「――受賞時は熊本日日新聞の編集局次長でしたね。作家との両立は大変だったでしょう。

光岡 作品に対して与えられた賞が、同時に社会的地位を高めるということを実感しましたね。講演依頼やいろんな委員会の委員就任要請が殺到し、受賞後の二、三年は異常な状況でした。新聞記者なので地域社会のお役に立ちたいという気持ちはあったが、一方で書く時間がなくなる。正直言って、私の心の中ではかなりの葛藤(かっとう)がありました。」(『西日本新聞』平成2年/1990年4月3日「九州の文字を語る・芥川賞、直木賞作家座談会1 賞の意味」より)

 光岡さんは、ついに、直木賞をとりながら寡作のままで逝ってしまいました。誰の責任でしょうか。直木賞のせい。地元の人たちのせい。光岡さん自身のせい。……ううむ、どれとも言いがたい。せつないです。

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