カテゴリー「直木賞のライバルたち」の50件の記事

2011年6月12日 (日)

芥川龍之介賞 時代時代で「直木賞との境界がなくなった」と、いろんな人に突っ込んでもらうために存在する賞。

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【芥川龍之介賞受賞者・候補者一覧】

※こちらのエントリーの本文は、大幅に加筆修正したうえで、『ワタクシ、直木賞のオタクです。』(平成28年/2016年2月・バジリコ刊)に収録しました。

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2011年6月 5日 (日)

渡辺賞 菊池寛が「権威ある賞になれば」と期待をこめた、画期的な文学賞の誕生。

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 ちょっと大きく出ます。これまで一年くらいかけて「直木賞のライバル」を取り上げてきました。じつは理由があります。どうしても、この賞に光を当てたかったからなんです。

 直木賞と芥川賞ができる、わずか10年ほど前でした。「日本で唯一の文学賞」と称された賞がありました。渡辺賞といいます。

 いま、この賞を知っている人はほとんどいません。よね? と言いますか、過去も含めて渡辺賞を正確に語ってくれた人は、あまりいません。

「もちろん芥川賞の前に文学賞が全くなかったわけではない。余り人に知られていないが、大正15年に創設され、文芸家協会が年一回、優秀新人に授賞した渡辺賞などがあり、(引用者中略)これは函館の実業家渡辺安治の意志によって基金が文芸家協会に贈られたもので、昭和5年には功労賞に切りかえられてしまったが、選考母体が文芸家協会だけに既に実力充分の見きわめをつけた無難な選考がおこなわれていて、芥川賞のような全くの無名の新人に与えられることもある、という冒険もないが、また失敗もないという賞で、結局長つづきしなかったものと思われる。」(昭和43年/1968年10月・神奈川県立図書館刊『日本の文学賞』 小田切進「日本の文学賞について」より)

 代表として小田切進さんの文章を引用させてもらいました。

 小田切さんは、瀬沼茂樹さんらとともに、不毛といわれた文学賞史研究の世界に、とくに積極的に分け入ってくれた先達です。そのキモさはハンパなく、ワタクシも尊敬しています。でも残念なことに、上記の渡辺賞の説明はちょっと間違っています。

【渡辺賞受賞者・候補者一覧】

 一、二の評論家が間違っているだけなら、まだ我慢もできよう、ってもんです。この賞の主催者は文藝家協会っていうんですが、その後身である日本文芸家協会ですら、公式(?)資料で次のように紹介しちゃっているのですからもう。呆然とします。

「劇作家協会と小説家協会が合併して文芸家協会になったのは大正十五年一月七日のことであった。(引用者中略)この年の十一月八日、北海道函館の実業家渡辺安治の遺志によって一万円の金が寄付され、文学賞として利用してほしいという申し出が文芸家協会にあった。(四、五年の間、利息六百円を毎年送金するという方法であった)協会はこれを受諾して「渡辺賞」を設定し、受賞資格者は会員に限らず、投票選考の上、前年度の優秀な新進作家に贈るということにした。」(昭和54年/1979年4月・日本文芸家協会刊『日本文芸家協会五十年史』「第一部 戦前篇」より 執筆担当:巌谷大四 太字・下線は引用者によるもの)

 ぬ、ぬおう。どうして、ことごとく渡辺賞に無関心な人ばかりなのだ。涙が出てくるぞ。

 そもそも、当時の函館には渡辺安治なる実業家は存在しないのです。さらには、「遺志によって」お金が寄付された、なんて事実もありませんでした。

 以下、渡辺賞の創設経緯を、なるべく正しく伝えるよう努力します。

 まずは時代を明治5年/1872年まで、さかのぼらせてください。

 舞台は北海道函館です。越後国中蒲原郡鳥屋野村で生まれた20歳そこそこの青年が、その年の7月、函館にやってきました。名を渡辺長蔵といいます。

 『北海道人名辞典』(大正3年/1914年11月・北海道人名辞典編纂事務所刊)によりますと、長蔵さんの生まれは嘉永3年/1850年11月。函館に渡ってきた理由は不明ですが、とりあえず、天秤を肩にかついで油売りを始めたそうです。

「初め天秤を肩にして油売をなし孜々として零砕の資を貯ひ稍々資本成るに及んで雑貨米穀商を営み苦闘多年の後金貸業を営み富百万を積み函館屈指の富豪となるに至れり」(『北海道人名辞典』より)

 働いて働いて働いた末に運をつかみ、商売を拡大して大金持ちになりました。やったね、長蔵。

 彼には、少なくとも3人の子供がいたようです。娘(明治21年/1888年生まれ)、息子(明治24年/1891年生まれ)、息子(明治26年/1893年生まれ)。長蔵さんは大正3年/1914年2月に病没しまして、長男の長一郎が家を継ぎます。家督相続を機に、泰邦と改名しました。

 この泰邦さんは、早稲田実業学校から早稲田大学政治経済学科に進んだ渡辺家期待の星。在学中は文学にかぶれ、同人誌に参加し、将来は文壇に打って出ようとの夢を描いていたと言います。

「然し卒業後に於て氏は考慮之れ久しうしたが、暮夜ひそかに、自らの将来を考へた時、自分は文壇人として果して立つべきか、将た又実業界に雄飛すべきか、或は又官界に進出すべきか先づ自らの素質を顧みた、その結果長髪蒼白の文学青年に対しては好意を持つ事が出来なかった。豪毅である処の性格から観て将来の大政治家たらんとした。」(昭和11年/1936年2月・函館名士録発行所刊『函館名士録』より)

 で、函館区会議員になったのをスタートに、函館が区から市に変わってからも市会議員に立候補して当選。それだけではあきたらず、欧米・支那・蒙古・印度などをめぐる視察旅行に出かけて、昭和5年/1930年には衆議院議員に当選。国政で活躍することになります。

 さて、泰邦さんの姉弟はどうしていたでしょう。姉のカツと弟の長太郎は、それぞれ分家しました。カツは安榮という名の男と結婚しまして、函館の地で、父の事業を受け継いで金銭貸付業を営みます。明治43年/1910年ごろには長男を授かり、お金をがっぽり儲けながら順調に生活を送っていました。

 順調かと思われました。

 大正14年/1925年のことです。カツと安榮の長男は15歳となり、旧制函館中学に通っていました。11月5日。その長男が自殺してしまうのです。

 11月7日号と8日号(7日夕刊)、『函館毎日新聞』に下記のような黒枠つきの死亡広告が載りました。

「長男安治儀 急病にて五日午後四時三十分死去仕候間此段生前辱知諸君に謹告仕候

 追而葬儀は来る八日午前十時自宅出棺元町別病院に於て執行仕候贈花等は乍勝手御辞退申上候

大正十四年十一月六日 函館市青柳町五〇

 父 丁(引用者注:原文は「□」の内に「丁」) 渡邊安榮

      外親戚一同」(『函館毎日新聞』大正14年/1925年11月7日号より)

 安治君です。渡辺安治君です。実業家ではありません。中学生です。

 函館に住む裕福な家庭の中学生が、いったいなぜ、何を思って死んだのでしょうか。周囲のだれにもわかりませんでした。

 しかし、「自殺の原因がわからなかった」ことが幸いしました。いや、幸いなどと言ってはいけませんね。ごめんなさい。ただ、安治君、あなたのおかげなのです。あなたが「謎」のまま亡くなったおかげで、日本の文学賞史に、大きな変革がもたらされたのですよ。ほんと、何がどう転ぶかわかりません。

 と言いますのも。遺された両親、カツさんと安榮さん。息子がなぜ死を選んだのかわからず苦しんだ末に、こう考えるようになったからです。……そうだ。息子は文藝が好きだったな。しかも死んだときの枕元には『文藝春秋』が読み捨ててあったじゃないか。そうだ息子の死を弔うに、何か文学に関係することで役立ちたい。……と。

若き霊の記念に

文藝賞金一万円

謎の自殺を遂げた少年の

母親から文藝家協会へ

十八日午後四時、北海道函館市青柳町五〇渡邊かつ子(四〇)と名乗る婦人が麹町の文藝春秋社に突然菊池寛氏を訪れ文芸家協会に対し金一万円の寄付を申し込み三ヶ年後には右現金全部を引渡しそれまでは毎年利子六百円づつを協会あてに支払ふ事を約束して引取つた

(引用者中略)同女が菊池氏に語るところによれば渡邊家は函館でも知られた資産家であるが昨年十一月十五日(原文ママ)当時函館中学三年に通学して秀才といはれてゐた子息の安次(原文ママ)君(一五)が全く理由のわからない不思議な自殺を遂げたその枕邊に「文藝春秋」のその月号が読み捨てられてあり日頃文学を好んでた関係から何かこの邊からの思想上の理由があったのではないかと推察されるので「親心として伜の冥福を祈るために何か文藝的な社会的の貢献をしたいと思ふので希望としてはこの金には愚息の名を冠し渡邊安次文藝賞金といふやうなものにしていたゞきたい」との事だった、菊池氏はもちろん『御意思に副ふ』旨を答へた」(『東京日日新聞』大正15年/1926年10月20日より)

 大正15年/1926年10月。日本の文学賞がこれまでと違った一歩を踏み出した瞬間でした。

 一人の人間の死と、遺された人間。その状況から、故人を記念するために基金を設けて文学賞金にする、っていう発想が生じました。美術界には「樗牛賞」がありましたが、亡き人を偲ぶ文学賞制度は、それまで日本の文学界には導入されたことがありませんでした。

 それが大正15年/1926年についに誕生します。そして、新しい文学賞の創設に立ち会ったのが、誰あろう、菊池寛さんだった。つうのがまた重要なわけです。

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2011年5月29日 (日)

日本推理作家協会賞 どこを目指しているかはともかく、変革を続けて60ン年。

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 エンタメ小説を対象にする文学賞は、たくさんあります。過去にも、いっぱいありました。

 それらのうち最も長い期間、直木賞と併走してきた賞は、どれでしょう。これですかねえ。日本推理作家協会賞。長い名前なので以下、推理協会賞と略します。

 第1回が昭和23年/1948年ですから、すでに半世紀を優に超えて64年。長すぎます。エピソードも盛りだくさん、直木賞とのバトルだって一度や二度にとどまりません。ここでササッと取り上げて済ませるのは忍びない賞です。

 どなたか、推理協会賞のことをメインにホームページでもつくってくれないかなあ。

【日本推理作家協会賞受賞作・候補作一覧】

 むろん、日本推理作家協会のサイトが、涙が出るほど充実していますから、アレで十分って感じはしますけど。でもほら、たとえば、日本文学振興会の語る直木賞だけじゃ、直木賞の1割2割もカバーできていないわけですから。やっぱり主催者以外の視点は、それだけで意味あるものだと信じます。

 そのハナシはおいときまして。

 推理協会賞です。昭和22年/1947年6月。江戸川乱歩さんを中心に、探偵作家クラブができました。そのときの規約に、すでに賞のハナシが含まれているのですよご同輩。直木賞が中断していた昭和22年/1947年前半、この時期に文学賞を興そうと発想するとはなあ。

 規約の作成に携わった人として知られる4名。保篠龍緒さん、延原謙さん、水谷準さん、江戸川乱歩さん。あなた方の文学賞熱に、ほんと頭が下がります。

「探偵作家クラブ賞については、委員会を作って具体案を練るつもりであるが、これは各年度に於ける最高作品の推薦といふ意味で、十分賞金も出したいし、尚出来ればその作品をクラブの名によって再出版し、クライム・クラブやディテクティヴ・ブック・クラブの例に習ひ、ベストセラーにするといふやうなことも考へてゐないではない。」(『探偵作家クラブ会報』1号[昭和22年/1947年6月] 江戸川乱歩「クラブ成立の経過と今後の事業について」より)

 「各年度に於ける最高作品の推薦」。……言葉にすると、何と短く簡潔なことでしょう。しかし、多くの文学賞はたいてい、最初に決めたこういう簡潔な規定を、実際にどのようなかたちで実現していくのか、ってところに問題を抱えながら生きていく宿命にあります。

 推理協会賞もしかり。前身である探偵作家クラブ賞もまた、その宿命から逃れることはできませんでした。

 創設当初に早くもひとつ、ケチがついてしまいます。いわゆる「短編賞って何を基準に決めるんだ」問題です。

「今度のクラブ賞では短篇の決定が問題であったと思ふ。(引用者中略)“新月”は小説としては立派な作品かも知れないが、凡愚な探偵小説ファンにとっては、もう一つうなづきかねるところがある。」(西田政治「クラブ賞の決定に就て」より)

「短篇賞については、結局旧人の間での盥廻しが予想される意味で、僕は異論があったが、別に新人賞を設けるといふので、一応賛意を表した。併し次回からは、真に受賞の意義に徹した「新しさ、強さ」が認められぬ限り、単なる努力賞的形式主義は、旧人に関しては遠慮さるべきものと思ふ。」(水谷準選評より)

 長篇と短篇とをあえて別枠で選考しよう、っていうのは、文学賞の上ではなかなか新しい試みです。しかし、どうやら長篇ならば作品本位で優劣を決めやすいが、短篇となると、同じ土俵では決め難いらしい。となると、どうしたって昔から書いている先輩格の作家に票が流れやすいのではないか……なんちゅう問題が露呈してしまいました。

 こうなってくると、作品本位なはずの長篇部門のほうも、疑いの目で見始める輩が出てきます。「探偵作家クラブ賞ってさ。つまり、クラブの上層部たちに有利なお手盛りの賞にすぎないんじゃないの?」って指摘です。

 当時、関西探偵作家クラブが『KTSC』誌って会報を出していました。そこで匿名批評子の「魔童子」が、大下宇陀児の第4回クラブ賞受賞(昭和26年/1951年)を「タライ回し」と批判したわけです。

「大坪氏(引用者注:大坪砂男)の文中に示してあるクラブ賞問題(大下宇陀児先生が長篇「石の下の記録」で受賞された、昭和二十六年度の第四回日本探偵作家クラブ賞のことを指す)については、氏が書いている通り、大下先生がKTSCの「賞のタライ廻し」という批判に対して、個人的にかなり感情を害されたことは事実だったらしい。

(引用者中略)

大下 輪番制という見方、去年ぼくはあれで腹を立てたよ。輪番制だなんていわれる賞なら貰わないと、乱歩に言ったんだ。

香住(引用者注:香住春吾。関西探偵作家クラブ書記長) それは、聞いております。しかし、ぼくたちが輪番制と非難したのは、クラブ賞の選考方法に対してであって、作品自体への非難じゃないんです。クラブ賞はもっと権威のあるものであるべきだと、ぼくたちは考えていますから、妥協的な授賞なら、むしろしない方がいい。

(引用者中略)

大下 しかし、なんだね。ああいう批判をするにしても、君たちのやり方は、どうも不真面目すぎると思うんだ。もっと真面目にやれば、論争する気にもなれるがね。真剣味を欠いているようだね。」(昭和48年/1973年10月・双葉社刊 山村正夫・著『推理文壇戦後史』「魔童子論争」より)

 そうですか大下さん。不真面目はいけませんか。

 推察するに、KTSCのメンバーも文学賞を前にして、ついつい冗談めいた態度になってしまったものと思うので許してやってください。何つったって文学賞が内から発する力は絶大ですもん。どんなに真面目で堅苦しい賞でも、自ずと笑いをまぶしてイジりたくなってしまう、という。

 ええ。おそらく、賞をやっている当のご本人たちは、みなまじめでしょう。たとえば、木々高太郎さんとか。別名「疑義高太郎」(延原謙さんによる命名)。探偵クラブ賞についても、事あるごとに疑義を呈し、さまざまな提案をしてくれています。

「クラブ賞などはどうでもいゝと考へてはいけないと思ふ。そうなら、クラブ賞をやめた方がよい。

 私共は、クラブ賞の価値を認め、光輝あらしめたい。そのためには詮考方法が合理的で、慎重でなければならぬ。」

 と筆を起こして、選考手順のさまざまな改革案を提示したあとで、

「最後に、そんなめんどうなことをする価値があるか、といふ人があるかも知れない。クラブ賞に価値を認めず、ほんの政治的のもの、小説や文学を重んじないもの、と考へるなら、それでよいが、そうならない方がよい。

 作品価値を最大目標にしないやうな文学賞は、凡そ文学賞を恥かしめるものである。もっとも、クラブ賞は文学賞ではない、何故なら探偵小説は文学ではあり得ないから――といふにしても、やっぱり同じ慎重さを欲しい。」(『探偵作家クラブ会報』40号[昭和25年/1950年9月] 木々高太郎「クラブ賞の方法」より)

 うわあ出たよ。木々さん。「探偵小説は文学たれ」を持論とする人ならではの、この探偵クラブ賞観。文学賞観。

 「作品価値を最大目標にしないような文学賞」かあ。ううむ、将来職業作家としてやっていけるかどうかが第一義、とか言っている場合じゃないよなあ、どこかの文学賞の選考委員は。

 文学賞には、年々実施していくなかで自然と性格が決まっていく、って側面があります。それは否定できません。ただ、多くの文学賞は、運営者側自身がかなり意識的に運営方法を考え、見直しながら、賞をつくっていっているものだと思います。

 推理協会賞(探偵クラブ賞)も当然その例に洩れません。とくに初期のころは毎年のように選考方針や選考方法が変わっていました。しかも、この賞は他に比べて、その見直しの過程を、わずかばかりでもオープンにしようって心意気があったりします。

 そのオープンにされた過程からワタクシが最も強く感じるのは、実際に運営に携わっている人たちの、賞に対する愛情がハンパない、ってところです。

 同じことを、日本エッセイスト・クラブ賞を紹介したときにも感じました。たかだか文学賞に、これだけ熱い思いで生きていた人たちがわんさかいる、とその様子を見るだけで、ちと感動してきますぜ。

 そのなかで一人だけご紹介しますと。中島河太郎さんって方がいましてね。この方、クラブ賞改革に相当な熱意をおもちだったようです。

 昭和38年/1963年、日本探偵作家クラブは社団法人日本推理作家協会へと改組します。その準備が進んでいたころ、「社団法人に対する御意見・御感想」っていうハガキアンケートがあったのですが、そこで中島さんは即座に(?)こう答えているぐらいです。

「中島河太郎

 協会設立の許可が得られたらできる限り実現して貰いたいことを箇条書にします。(引用者中略)

 一、クラブ賞授賞対象者の再検討」(『日本探偵作家クラブ会報』183号[昭和37年/1962年12月] 「ハガキ随想」より)

 探偵クラブ賞ができて、このとき15年目。すでにいろいろな改革を行ってきていました。そのうえで、さらなる「再検討」を要求する河太郎さんったらもう。……いつでもどんなときでも再検討していく、それが確かに推理協会賞の大きな性格のひとつ、と言ってしまっていいでしょう。

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2011年5月22日 (日)

ユーモア賞 直木賞から弾かれつづけたユーモア小説限定の賞。

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 直木賞は、とれなかったとしてもネタになる。とは、よく聞くことです。

 うちのブログでも、直木賞に縁遠かったグループのことを何度か取り上げてきました。冒険小説。とれない。SF。とれない。推理小説。とれない。

 ……で、上記のようなジャンル(あるいは、それを主に書く作家たちのグループ)はまだいいのです。いいと言いますか、傷が浅いと言いますか。とれなかったことを逆に利用して、作家自身がエッセイで毒づいたり、熱い読者たちがそれに呼応して、「直木賞め、なにくそコノヤロ」と声をあげたり。そうやって、語り継がれていってくれるからです。

 直木賞の初期のころにも、じつはそんなグループがありました。

 何人も候補になったのに、けっきょく一人も受賞させてもらえなかった小説ジャンル。およびその集団。ただし彼らはみな一様に紳士だったらしいので、直木賞に対する恨みつらみは、あまり書き残してくれていません。

 なので代わりにワタクシが言います。

 「○○では直木賞はとれない、の元祖。それはユーモア小説だ」と。

【ユーモア賞受賞者一覧】

 直木賞ができたのは昭和10年/1935年です。当時すでにユーモア小説は、かなり注目されていたジャンルでした。

 注目、ちゅう表現は曖昧ですね。ええと、市民権を得ていた、と言い直しましょう。ユーモア小説とか、その仲間のナンセンス小説とかは、時の大衆雑誌にはかならず載るほど欠かせないものでした。大衆雑誌って、要は『オール讀物』をはじめとする読物雑誌や、『サンデー毎日』『週刊朝日』みたいな週刊誌ですね。

 欠かせない、とは言い過ぎでしょ。peleboのいつものクセだし。と思いますか。まあワタクシも口がすぎたかもしれませんが、でも、ほら岡田貞三郎さんの証言を聞いてみてくださいよ。大正から昭和はじめに『講談倶楽部』を一大雑誌に仕立てあげた名編集者、岡田さんの言葉を。

「『講談倶楽部』の編集を、淵田さん(引用者注:淵田忠良)に代わって、わたしがお預かりするようになったのは、ちょうどこのころ(引用者注:昭和初年ごろ)のことでしたが、前古未曽有のこうした盛況のなかにも、しかしまだ、なにか知らん欠けているものがある、と思われてなりませんでした。で、その欠けているものはないかと思い、よく考えてみるとそれは探偵(推理)小説と、それからユーモア小説でありました。」(昭和46年/1971年2月・青蛙房刊 岡田貞三郎・述、真鍋元之・編『大衆文学夜話』より)

 そうなんだよなあ。大衆読物誌がぐんぐん力を伸ばしていくにあたって、ユーモア小説、その果たした役割の大きいこと大きいこと。

 で、直木賞です。この賞は「大衆文芸」を対象にすると宣言しました。そのなかに、やはりユーモア小説が含まれていたことに、ぜひご注目ください。

 馬鹿でもわかるように、主催者がはっきり明言してくれています。ありがたい。

「『大衆文芸』とあるのは題材の時代や性質(現代小説・ユーモア小説等)その他に、何等制限なき意味である。」(『文藝春秋』昭和10年/1935年1月号)

 わざわざ明言しなくちゃいけなかった、ってことは逆に、ユーモア小説が「直木賞の大衆文芸」に入ることに抵抗感をもつ人がいた、ってことかもしれませんけども。

 読物誌にとっては王道。でも、「大衆文芸」にとってはひょっとして傍流。ユーモア小説の不思議なところです。

 それで戦前の直木賞におけるユーモア小説の歴史、を語りたいんですけど、後にまわすとしまして、まずは今日の本題から行きます。

 直木賞ができた翌年。昭和11年/1936年7月3日の夜。15人の作家たちによって「ユーモア作家倶楽部」なる組織が旗揚げされました。参加したのは、以下の諸氏でした。

 佐々木邦(代表)、辰野九紫(世話人)、伊馬鵜平、乾信一郎、林二九太、徳川夢声、岡成志、中村正常、中野実、益田甫、サトウ・ハチロー、北村小松、南達彦、獅子文六、弘木丘太。

 きっかけは、昭和10年/1935年から刊行の始まったアトリヱ社の『現代ユーモア小説全集』が完成を見たこと。編集担当の市川明徳さんが、この全集に入っていた15人をまとめ上げたのだそうです。

 最初は親睦団体でしかありませんでした。それが「われわれも一つ勝手なことの書ける雑誌をもとうではないかという議が、誰からともなく起り」(辰野九紫の回想)、翌昭和12年/1937年10月に『ユーモアクラブ』を創刊。発行元は春陽堂書店でした。

 発生の過程や、「親睦団体」としての出発、などを見てもわかるとおり、どうも結束感の乏しいきらいがあります。徳川夢声さんなんかは、そりゃあ会合の出席率わるかったみたいですし。「同じジャンルの小説を書いている」ってだけで仲よくなるわけもないですか。文壇内に居場所がないから集まった、みたいな感じがしなくもありません。

 おそらく、そのまま平和な時代が続いていたら、わざわざ自前の文学賞をつくるハナシなども、出てこなかったかもしれませんね。顔ぶれからして、賞に興味のなさそうな人が多そうですし。

 しかし、昭和15年/1940年に入ったころから雲行きが怪しくなっていきます。

「創刊号は十二年十月に出て、爾来われらの代表『佐々木邦編輯』と銘打ってはあるが、

 当初みんなの考へてゐたやうな同人雑誌的の内容とは、若干その趣を異にし、発行元も昨十五年三月から春陽堂文庫出版株式会社といふ別個のものの手に移り、わがユーモア作家倶楽部とは必ずしも表裏一体をなしてはゐない。」(『日本学芸新聞』昭和16年/1941年5月25日号 辰野九紫「ユーモア作家倶楽部 結成から現状まで」より)

 『ユーモアクラブ』編集部と、倶楽部員たちとの対立です。それが表面化したのが、ちょうど昭和15年/1940年だったようです。

 このことは、「ユーモア賞」なる文学賞の設定は果たして誰が言い出したのか、って問題にも関わってきます。

 ユーモア賞の主催は『ユーモアクラブ』誌です。この雑誌にはたしかに「佐々木邦編輯」と書いてあります。創刊当時は、ユーモア作家倶楽部の機関誌だったんでしょう。でも、昭和15年/1940年にはどうだったか。

 同誌の編集を創刊から受け持っていた指方龍二さんが、憤然と言い放っている文章があります。『ユーモアクラブ』は同人誌どころか機関誌ですらないんだぜ、と。

「ユーモア作家倶楽部対『ユーモアクラブ』の関係など、一般には興味のない問題であらうが――この雑誌は私が創刊号から編輯に当り、大衆娯楽雑誌として出発したもので、同人雑誌でも機関雑誌でもない。欠損をすれば春陽堂が困るし、編輯常事者の私が責任を負はなければならない。私はこの雑誌を成功させるために、人知れぬ苦心をしたのである。」(『日本学芸新聞』昭和16年/1941年10月25日号 指方龍二「ユーモア作家と「ユーモアクラブ」」より)

 指方さんは、こうも吠えています。ユーモア作家倶楽部の連中は、「ユーモア小説が少い」「マゲ物を載せるのは怪しからん」「指方の仲間が書きすぎる」などとブーブー文句を言っているが、売れなきゃ困るのは出版社なんだ、ガタガタ騒ぐな、とか何とか。威勢がいいですね。

 でも、それまでは両者うまくいっていたんでしょうに。昭和15年/1940年、いったい何があったんでしょうか。

 発行元が、春陽堂書店から春陽堂文庫出版に変わったんですって? なぜでしょう。不良事業の清算でしょうか。よくわかりません。

 さらにこのころ、政府や軍部が出版界に猛烈に介入してきた、って背景は確実にあるでしょうね。以前、『新青年』の新青年賞のときにもチラッと触れました。博文館もそうだったように春陽堂も、当局への全面的協力を打ち出した企業です。

 そして昭和15年/1940年10月号のことです。『ユーモアクラブ』誌の表紙に、例のスローガンが印刷されはじめました。

緊めよ同胞

心も口も

 だはははは。このころの同誌でいちばん笑えるの、ココなんだよなあ。ユーモアを売りにする雑誌が、それ言っちゃったらおしまいでしょうに。「口を緊めよ」だなんて。

 ちょうどそのころでした。昭和15年/1940年、「ユーモア賞」が制定されます。

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2011年5月15日 (日)

日本エッセイスト・クラブ賞 スタートの志は直木賞と似通っていたのに。やる人たちによって、こうも違ってくるとは。

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 「直木賞のライバル」シリーズ、始めたときからうすうす気づいてはいたんです。きっと、直木賞に何の関係もない賞まで取り上げることになるんだろうな、と。

 日本エッセイスト・クラブ賞っていうのがあります。昭和27年/1952年創設。以来50数年、資金難をモノともせず一度も途切れることなく続いているエラい賞です。

 清くて爽やかな日本エッセイスト・クラブ賞(以下、エッセイスト賞と略す)には悪いのですが、直木賞と比較させてください。直木賞が、汚くて濁っていると悪役よばわりされてきた経緯と、重ね合わせたいものですから。

【日本エッセイスト・クラブ賞受賞作・候補作一覧】

 昭和26年/1951年6月9日に日本エッセイスト・クラブが設立されました。中心メンバーは、新聞、雑誌、出版まわりでブイブイ活躍していた人たちでした。

 翌年には早くも、自前の賞をつくることを決定しています。わずか1年後です。人が集まるところ、かならず(?)賞あり、の法則はここでも健在ですね。

 とりあえず賞制定の文章を見てみましょう。ジャーナリスト集団らしく、出だしから固いですよ。心して拝読しましょう。

「複雑なる世界情勢の中に、ともかくも独立の歩を踏み出したわが国は、政治、経済、思想その他各般に亘り、多くの問題に直面しつつあり、向後において、さらにこれら諸問題の深刻化が予想されるのであります。公正な世論の喚起という面において、本クラブに負荷せられた使命の愈々重加するを痛感するのでありますが、同時にまた、新鋭ある評論家・エッセイストが一人でも多く出現、自己の正しい自覚において新鮮なる活躍を展開されるよう切望して止まぬものであります。

 依って本クラブは、新人エッセイストを待望、これを激励する意をもって、このたび日本エッセイスト・クラブ賞を制定することに致しました。

 右賞は文芸作品等創作を除く一切の評論、随筆(一定期間内に発表されたもの)等の中より各関係方面の推薦を受け、本クラブに設けられた詮考委員により慎重に詮考の結果、最優秀と認められたもの一篇にたいし記念品および賞金を授与するものであります。

 昭和二十七年十月」(『日本エッセイスト・クラブ会報』2号[昭和27年/1952年12月] 「日本エッセイスト・クラブ賞制定について」より)

 高邁な宣言すぎて、何だかよくわからないことになっていますが、要は新人のエッセイストを発掘したいぜ、という。

 さあ、すでにここでエッセイスト賞は、二つばかり直木賞と似たものを携えて出発したんだな、とわかりますね。

 「新人を見出す」こと。「ジャンル規定の難しい広範囲のものを対象に選考していく」こと、の二点です。

 そう。この二つは直木賞との類似点ではありますが、そのままエッセイスト賞の二大看板なのだ、と言っちゃっていいかもしれません。

 第1回の発表を終えた阿部真之助さんの述懐から引きます。

「この賞は将来も永く持続して行きたい。しかしこれは相当に骨の折れる仕事である。授賞の対象となるエッセイは、その範疇がひろく、かつ甚だ莫としている。さらに仕事の性質上、文芸のように、いわゆる新人がエッセイを書いて忽然と現われるということも尠なかった。」(『日本エッセイスト・クラブ会報』4号[昭和28年/1953年8月] 阿部真之助「エッセイと新人」より)

 賞の二つの特性に触れています。

 それから50年以上たちました。いまもなお、いや、より鮮明にエッセイスト賞は「新人」と「幅広く」の線を強めていっているんです。

「クラブ賞は随筆、評論、ノンフィクション、伝記、研究、旅行記など、エッセイを広い範囲でとらえ、特に新鮮で感銘を覚える新人の発掘に努めております。」(『日本エッセイスト・クラブ会報』62号I[平成22年/2010年8月] 「クラブ賞作品推薦について」より)

 直木賞もはじめは、そんな性質でした。ところが徐々に「新人」から「中堅」へと、「幅広く」から「大手出版社の単行本だけ」へと間口をせばめていきました。ずいぶんな違いです。

 偶然そうなっただけじゃん、とか思いますか? いやいや、ある意味必然だと思うのですよ。

 つまり、いかに経済論理に支配されているかいないか。その違いがエッセイスト賞と直木賞の、その後の道筋を分けていったのではないか、と。

 エッセイスト賞の第三の看板(?)といえば、これはもう文句なく「資金源に乏しい」、ってことです。出発の段階から、そうでした。

 ワタクシが言うまでもありません。当時のクラブ幹部、三宅晴輝さんがキッパリと明言してくれています。直木賞や芥川賞みたいな賞は、お金がかかると。

「新人のエッセイストを見出して世に送りたいと以然から考えていたが、芥川賞や直木賞のようなものを企てるとなると金が要る。(引用者中略)

 エッセイというと非常に範囲が広い。政治、経済、外交、文芸の評論から、渋沢秀雄君のような随筆まで含む。従って、選をするとなると相当困難ではないかと今から心配しているが、予選委員を作り、更に正選者を決め、幹事も作ってあるからチャンとしたことがやれるだろうと思っている。」(『読売新聞』昭和28年/1953年3月2日 三宅晴輝「エッセイスト・クラブ賞」より)

 なにせ営利企業のやる賞とは違います。エッセイスト・クラブは主に会費で成り立っている非営利の団体ですから。資金の問題はなかなか苦労のタネです。常に。

「この会がえらい貧乏で困っておったことは、いまお話しのとおりで、無一文だったんです。おるところがなくて転々としていて、浮浪クラブといったようなものだったわけです。(引用者中略)

 それから、クラブ賞のほうもそうなんです。なかなか金がうまく集まらない。それを、亡くなりました事務局長をしていた篠原亀三郎さんと、小椋君(引用者注:阿部真之助の秘書役だった小椋和子)があちらこちらに手配してくれ、クラブ賞を今日まで絶やさずに毎年出してこられたわけです。」(『日本エッセイスト・クラブ会報』23号[昭和46年/1971年]「エッセイストクラブの二十年」 御手洗辰雄「今はなき馬場さん、阿部さん、山浦さん」より)

 賞運営にかかる資金の問題は、まずひとつ、「どこまで特定の出版社に偏らないでいられるか」に大きく関係してきます。ワタクシたちは、公平・公正をうたったはずの直木賞が、あえなくその軌道から外れていった歴史を知っています。出版社が運営する賞の限界であり、宿命だったわけです。しかたありません。

 エッセイスト賞はどうでしょうか。いくら何でも霞を食っては生きていけません。新聞社、出版社、放送局らに頭を下げ、毎年、寄付金というかたちの支援を受けることで賞金や運営費をまかなってきているようです。

 ただ、「一社におんぶにだっこ」の形態とは違って、支援っていうかたちは、ともかく不安定です。昭和40年代の好景気時代には、支援企業がずらりと20社を超えていたんですが、現在、同賞の支援企業は小学館、新潮社、日本放送協会、日本放送出版協会の4社のみ。ずいぶん減っちゃいました。

 カツカツでやっていく感じ。商業主義と一線を画す方向性。賞としては弱点にもなりえます。しかしどうやら、それがエッセイスト賞にとってはプライドを保つ原動力になってきたらしいのですから、面白いことです。

「エッセイスト賞を受けられる方々も年によりましては、性質や種類がちがいます。偶然のこととはおもいます。今年はお三人とも、特にはじめのお二人のお話には感動いたしました。ことに第二番目の、山形県からみえたお方(引用者注:錦三郎)のお話は、方言がすこし入っております上に、素朴そのもの、またそのお性質や御生活が出ておりまして、そのまごころがきく人々をうってまいります。そして私は、こういう人こそ本当にエッセイスト賞が、発見してよかったと感心いたしました。(引用者中略)

 地方におられて誠実な生活をしていらっしゃる、そういう方々をひろい出す「エッセイスト・クラブ」というのは、軽佻な商業主義のやり方とちがっております。そういう意味で独特な存在で嬉しく思っております。」(『日本エッセイスト・クラブ会報』 板垣直子「二つの大きな筋…追悼と授賞と」より 太字・下線は引用者によるもの)

 よっ。さすがエッセイスト賞だ、文学賞界の良心!

「清貧を誇りとする伝統は今も変ることはない。これは終生『粗衣粗食』を旨とされた初代理事長阿部眞之介(引用ママ)氏の遺訓でもあるが、貧乏世帯をやりくりしなければならない事務局長の苦労がほの見える。」(『日本エッセイスト・クラブ会報』44号[平成4年/1992年]「特集 クラブ四十二年の歩み」より 署名:事務局長浅田孝彦)

 清貧かあ。清貧を誇りとする心持ちがあるがゆえ、初志を貫徹できているのかな。……っていうのは、短絡的な見方にすぎますが、貧乏で大変でもその姿勢のままやっていってほしいですよ。

 やっぱ、直木賞オタクといえども、商業主義にずっぽり染まって初志をねじ曲げてまで続けている文学賞ばっかり見ていると、気分が晴れませんもん。

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2011年5月 8日 (日)

女流文学賞その他 「女流」ってくくりが時代遅れだ何だ、とそっちに目を奪われているうちに、なぜか直木賞系の賞になっていました。

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 これほどまでに文学賞ファンを勇気づけてくれる賞があったでしょうか。「女流文学賞」その他、です。その他、がミソです。

 勇気づけてくれる、というのは他でもありません。

 文学賞って事業は、お金がかかります。手間がかかります。その割に、出版界隈をのぞけば、事業に対して喝采を送ってくれる人は少数です。ほんのちょっとしたことで、すぐやめることができます。やめても、世間からはあまり文句は出ません。世の中は粛々と未来に進んでいきます。

 それで「女流文学賞」系の賞。さかのぼれば、その起源は戦中でした。以後、何度も危機を迎えます。そのつど、運営母体を変えたり、賞名や対象を変えたり……。で、2011年/平成23年現在、いまもなお、その系統を継ぐ賞が残っているのですよ。おお、感動の歴史。

【一葉賞受賞作一覧】

【女流文学者賞受賞作・候補作一覧】

【女流文学賞受賞作・候補作一覧】

【婦人公論文芸賞受賞作一覧】

【中央公論文芸賞受賞作一覧】

 まあ、いまの「中央公論文芸賞」に、戦中の「一葉賞」をしのばせる何が残っているのだ、と問われたら、身もふたもないんですけど。

 昭和18年/1943年創設の「一葉賞」は、いわば女性版芥川賞、の意味合いが濃くありました。

一葉賞規程成る
女流文学者委員会


 
(引用者注:昭和18年/1943年)三月の女流文学者委員会は十八日午後二時から本会々議室で、吉屋信子、宇野千代、板垣直子、円地文子、四賀光子、齋藤史、若山喜志子、阿部静枝、関みさを、江間章子、中村汀女、真杉静枝、永瀬清子の委員に甲賀(引用者注:甲賀三郎)総務部長、河上(引用者注:河上徹太郎審査部長等出席のもとに開会、(引用者中略)既報の一葉賞の規程条に付いて検討した。

一、範囲 女流小説家の新人(芥川賞より今少し無名の人、小説家に限らず一般応募は無しにする)

一、選衡方法 同人雑誌より選出、女流文学者会員の推薦

一、期間 第一回発表十九年四月とし、昭和十八年中に発表執筆の作品より選ぶ

一、賞金 一名五百円、二、三名入賞差支なし

一、選者 『選衡方法』中第一項第二項に属する者も約十名以上共に女流文学者会員より選出、最後に全体の決定委員を男子作家も加え数名選出して之に充つ」(『日本学藝新聞』昭和18年/1943年3月15日 二面より 太字・下線は引用者による)

 女流文学、なるくくりで文学賞を設定しちゃおうぜ、と言っています。

 この発想は戦時中ならではだなあ。……と思わないでもないですが、いや、戦後平和になってから改めて仕切り直して、鎌倉文庫&女流文学者会で懲りずに賞をつくってしまうんですもの。

 文学賞ちゅうのは、時に戦時下の象徴にもなり、時に平和の象徴にもなるという。ニクいなあ。

 ともかく、せっかく樋口一葉の名を借りた賞だったのに、一回こっきりで中断(終了)。唯一の受賞者・辻村もと子の名前とともに、なんだか忌まわしい戦争を思い起こすようでイヤだわ。なんてことはなかったでしょうが、戦後は「女流文学者賞」などという、華のない賞名になってしまいます。

 華がない、といいますか。インパクトに欠けるといいますか。

 どうインパクトに欠けるのか。……この賞名、呼ぶ人によってマチマチなんです。賞名ひとつとっても、まともに正しく表現されないことが多い。文学賞としては、そうとう哀れな姿です。

「女流文学者会は、なんらかの形で、『婦人文庫』に協力するために、女流文学者賞を設定した。(引用者中略)賞は、正賞が記念品、副賞が一万円であった。それらの経済面は鎌倉文庫が受持った。(引用者中略)

 女流文学者賞は、現在は女流文学賞となって続いているが、鎌倉文庫から出されたのは三回までで、第二回は網野菊の「金の棺」(昭和二十二年度)、第三回は林芙美子の「晩菊」(昭和二十三年度)である。」(昭和52年/1977年6月・中央公論社刊 巌谷大四・著『物語女流文壇史 下巻』「女流文学者会」より)

 巌谷さんみたいに、当時の賞を「女流文学者賞」と呼ぶのは、おそらく昭和36年/1961年から中央公論社が引き継いだものと区別するため、つう理由が強いみたいです。現に『婦人文庫』がやっていた3回とも、誌面では「女流文学賞」として発表されていますしね。

 その『婦人文庫』=鎌倉文庫が昭和24年/1949年に倒産。賞も中断を余儀なくされます。

 しかし、女流文学者会の方々の、文学賞にかける情熱はすさまじく(?)、3年後には復活してしまうのです。

 復活の回で吉屋信子さんが選ばれて、「これで純文学作家の仲間入りができた」と喜んだのは有名なおハナシです。当時はまだまだ、女流文学者賞は純文学の賞、と思われていたんですね。

 しかし、賞名はあいかわらず混乱しています。当時の各新聞で使われた名称を挙げておきますと、「女流文学賞」や「女流文学者賞」や「日本女流文学者会賞」などなど。新聞記者がテキトーなのか、女流文学者会がテキトーなのか。

 え? 正式な賞名なんてどうだっていいだろ、って声が聞こえてきそう。そんな悲しいこと言わないでください。文学賞だってそれぞれ立派な人格(ならぬ賞格)をもっているんですから。

 さて、昭和36年/1961年にいたって女流文学者賞は、大きな事件に巻き込まれます。もとい。大きな事件を巻き起こします。賞存続の、三たびの危機です。

 揉めごとの大好きな同志のみなさん。お待たせしました。内紛ゴトです。

「あれは、十四五年も前のことです、私は第何回目かの女流文学者賞の銓衡の席上で、或る揉めごとを引起し、そのとき限り、選者になっているのもご免だと言うので、二度と女流文学者会に、顔を見せなくなったりしたからでした。そんなことは、どんな賞の銓衡にもありがちなことで、冷静に考えれば、何でもなく済むことでしたのに、私はそうではなかったのです。

 何でも、銓衡の最後のどん詰りになって、作品の題名は忘れましたが、芝木好子倉橋由美子かと言うことになり、私はあくまで倉橋を推して譲りませんでした。満場一致を建て前とする賞だったものですから、出席している全会員にはかると、殆んど同点になり、まだ賛否をはっきり言わない大谷藤子によって、どちらかが入賞しそうになりました。「大谷さん、はっきり意見を言って下さい。いつでも、あなたの文学的な見方は、はっきりしてたじゃありませんか。」そう言って、まごまごしている大谷に迫ったりしたのです。そのときです。当時、女流文学者会の会長をしていた円地文子が、その私の顔を見ないようにして、「では、今回は芝木好子さんに決定と言うことにします。」と言いました。その一言で、芝木に決って了った瞬間、私は自分の意見が入れられなかった、と言うよりも、この決定が、文学的なことに関係のない、或るほかのことのためになされた、とそう思いました。」(昭和53年/1978年6月・中央公論社刊 宇野千代・著『宇野千代全集 第十二巻』所収「私の文学的回想記」より ―初出『東京新聞』夕刊 昭和47年/1972年1月22日「女流文学賞のもめ事」)

 「文学的なことに関係のない」ことで文学賞が決まるなど、文学賞の基本のキです。宇野さんも「どんな賞の銓衡にもありがち」とおっしゃっています。当然のことです。しかし、このときの宇野さんは譲りませんでした。

 で、これを機に女流文学者会による女流文学者賞は、歴史の幕を閉じることになります。

「この時、非常にもめた。いわゆる中央沿線派(佐多稲子、壺井栄等)は芝木好子の「湯葉」を推し、宇野千代、平林たい子、円地文子は、倉橋由美子の「パルタイ」を強力に推した。最後に会長である円地文子の裁断で二作に受賞と決ったのだが、その決定に不満を持った宇野千代が脱会すると言い出した。三宅艶子もこれに同調しようとした。その会場にたまたま『婦人公論』編集長の三枝佐枝子が居合せていて、その険悪な空気を見て、せっかくの女流文学者会が分裂しないためには、中央公論社が、女流文学者賞を引受けて、より公な、権威あるものにした方がいいと考え、嶋中鵬二社長に進言した。それが実現したわけである。」(前掲『物語女流文壇史』より)

 選考会があったのは、昭和36年/1961年2月10日。その1か月後の3月8日には中央公論社が「女流文学賞」の設定を正式に発表する、というなかなかのスピード解決(?)でした。

 しかし、ホッとしたのも束の間。このころにはすでに、女流文学賞が創設時から抱えている、アノ問題が、またぞろ顕在化してきたわけです。

 要するに「わざわざ女流に限定して文学を評価する意味、あるの?」問題です。

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2011年5月 1日 (日)

新田次郎文学賞 遺志によってつくられたことと、遺志どおりの賞であるかどうかは、まったく別。

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 去年(平成22年/2010年)の6月以来、いろんな文学賞を取り上げてきました。そのなかで人の名を冠したものは15個。今日で16個目です。

 これまでの15個の文学賞。それに直木賞と芥川賞を加えちゃいましょう。じつはみな共通点があります。

 本日の新田次郎文学賞は、それらとは歴然と異なる意味合いを帯びています。厳然たる違いがあります。

【新田次郎文学賞受賞作一覧】

 それは何か。……「文学賞をつくりたい、と強く思っていた人間の遺志を受けて設定された」ってことです。

 直木賞・芥川賞は、菊池寛さんが賞をつくることを発想しました。両賞だけじゃありません。「直木賞のライバルたち」でもろもろ視点を当ててきた賞は、ほぼ、故人の遺志とは関係のないところでつくられています。

 賞の名前に使われた当人たちは、知らないうちに祀り上げられているだけです。自分の名前の賞に口が挟めないばかりか、夏目漱石さん山本周五郎さんのように、生前、文学賞に対してツバを吐きケツを向けていた人たちまでも、あとに残った人たちの自分勝手な欲望のエジキとなってしまっています。

 ところが新田次郎文学賞は違うのです。新田次郎その人が、「文学賞があったらいいな、文学賞をつくりたいな」と切望していたことが、創設の根本にあるのです。

「「オレが死んだら、文学賞をほしいなあ、いい後輩を育てるために……」

 そう云い残した言葉が、頭の中をぐるぐると廻る。

 夫は、直木賞の選考委員をつとめていたが、ひたすらに後輩を育て上げるという観点から、その任に当っていたように思われた。力のある人を選び出して、その人に賞をあたえることによって、その人はよりいっそうの新しい力を出して伸びてゆくものだと、信じていた様子である。(引用者中略)

「あなた方、オレの文学賞を手つだってくれないかなあ……たのむよ……」

 夫は、仲よしの編集者によくこんなことを云っていた。多分、文学賞を私一人の手で作り上げることは困難だと判断しての言葉であろう。」(昭和56年/1981年4月・新潮社刊 藤原てい・著『わが夫新田次郎』「文学賞の設立を思う」より)

 新田さんが急逝したのは昭和55年/1980年2月。67歳でした。

 そこから妻の藤原ていさんが中心となって、文学賞をつくろうと活動を始めて、運営母体となる財団法人を設立。文部省から認可が下りたのが、新田さん没後まる1年たつ直前の、昭和56年/1981年2月のことでした。

 ていさんいわく「夫の希望していたような文学賞を作り上げようとひたすらに思いつめた」。ってことですから、新田賞の姿を見ることで、新田さんがどんな賞を望んでいたのかが、多少は推測することができそうです。

 たとえば、候補作は非公表、なところとか。

 新田さんがかつて、サンデー毎日懸賞や直木賞のときに、候補作一覧に自分の名前が入っていることで俄然興奮した、っていうのはよく知られているところです。そんな新田さんなら、候補が公表されることの功罪のうち「功」の重みも、じゅうぶん実感されていたと思うんだけどなあ。それが新田賞では封印されてしまっているのは、残念至極です。

 宮城谷昌光さんのエッセイ(『春秋の色』所収「君今酔わずして」)などを読むかぎり、候補者にはいちおう、事前に連絡は行くみたいなんですけど。飯尾憲士さんのように(いや、その年譜をつくった楜沢健さんのように)、自発的に証言してくれない場合は、永遠に候補者リストは不明です。

 ただなあ。作家は褒められてやる気になる、つうのは新田さんの身に染みた経験だったでしょうからねえ。褒めることに特化した賞にしたのは、自然なことかも。

「外部の批評には以前ほど神経をとがらせなくなったが、やはり気にはしていた。このころ「読売新聞」の大衆文芸時評を吉田健一さんが担当していた。私はこの場でしばしば讃められた。(引用者中略)不思議なもので讃められると、更にいいものを書いてみようという気になる。これは、児童の心理と全く同じようなものだ。」(昭和58年/1983年4月・新潮社刊 新田次郎・著『完結版新田次郎全集第十一巻』所収「小説に書けなかった自伝」より ―初出『新田次郎全集月報』昭和49年/1974年6月~昭和51年/1976年3月・新潮社刊「自伝・私の小説履歴」)

 「ケナす選評」は省きたい。それなら落選すると決まっているいくつかの候補作を、わざわざ発表することもない。そんな判断なのかもしれません。

 ただ、ワタクシたちは新田次郎さんが具体的にどんな言葉で、文学賞設立の夢を語っていたのか、直接には知りません。先ほど、ていさんが何度も耳にしたっていう「いい後輩を育てるため」なる言葉を紹介しました。「いい後輩」。けっこう漠然とした表現です。受け取り方次第で、かなり幅があります。

 たとえば、サンデー毎日懸賞の主催者、『毎日新聞』は、この賞が設立されたときに、こう書きました。

「新田さんは、生前から「私が今日あるのは『サンデー毎日』の懸賞小説募集で『強力伝』を認めてもらったおかげ。機会がきたら後進に道を開きたい」と文学賞の設定を計画。」(『毎日新聞』昭和56年/1981年2月7日「「新田次郎文学賞」 「後に続け」遺志生かし 財団法人が、きょう発足」より)

 これはどういうことですか。文学賞っていろんな形態があります。サンデー毎日懸賞や直木賞、あるいは吉川英治文学賞。それぞれ仕組みも目的も異なります。もし、ほんとうに新田さんが「サンデー毎日懸賞」が果たしたような意味で、「後輩を育てたい」と思っていたのだとしたら、どうでしょう。まず公募型の賞にしなければ、遺志の半分ぐらいは無視しちゃうようなものです。

 あるいは、直木賞みたいなものをつくりたい、と思っていたかもしれません。デビューした後の作家に声援を送るかたちの賞。しかも、ベテランというより限りなく新人に近い人たちを対象に。事実、新田賞は当初、「新人賞」と受け取られていたフシもあります。

「大衆文学の分野で個人の名を冠した文学賞は、直木賞、吉川英治文学賞のほかに、江戸川乱歩賞、横溝正史賞、大佛次郎賞、新田次郎賞などがあり、これらは新人賞的性格が濃い。」(『朝日ジャーナル』昭和58年/1983年4月29日号 尾崎秀樹「文化ジャーナル 文学」より)

 既成作家を対象にする賞、となると、当然新田さんの頭のなかに直木賞の存在がなかったはずはありません。昭和53年/1978年下半期、第80回から直木賞の選考委員に就いているわけですし。もしも直木賞が、新田さん自身の考える「後輩を育てるための賞」に合致した性格・性質だったら、どうだったでしょう。「自分が死んだあとに、新しい文学賞をつくってほしい」などと熱望するんでしょうか。

 既存の文学賞に何かしら飽き足らないものを感じていたからこそ、新しい文学賞をつくりたかったのではないか。そう想像してみたくなります。

 では、新田さんは、直木賞のどの辺りに満ち足りないものを感じていたのか。彼の書いた選評をもとに、ちょっと考えてみることにしましょう。

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2011年4月24日 (日)

国民文芸賞 注目を浴びた賞。権威ある賞。でもその終焉は誰も(?)知らない。

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 ひそかに確信していることがあります。明治、大正、昭和はじめ、それらの時期には、文学賞に関するお宝エピソードがどっさり眠っているはずだと。

 それを掘り起こせば、直木賞につながる何かが見つかるかもしれません。逆に外れクジばっかりかもしれません。現状、どっちだかわかりません。わからないので、調べてみたくなるわけです。

 明治末期、『早稲田文学』誌が「推讃之辞」を始めました。文部省が主体となって森鴎外さんたちが文藝選奨に取り組みました。いずれも、次の時代に「文学賞」のかたちを受け渡すことなく、泡のように消えていきました。

 そんななかで、大正8年/1919年、まったく手さぐりのまま、一つの賞が大海原にぽつーんと船出します。国民文芸会なる団体が設けた国民文芸賞ってやつです。

【国民文芸賞受賞者・候補者一覧】

 こやつ、なかなかのものです。文学賞が日本に根づいていくなかで、かなり重要な役割を果たしてくれました。

 いくつかその特徴を挙げさせてください。

 その1。「文芸賞」とはいえ、対象が演劇界隈オンリーなところ。

 そうそう。先の『早稲田文学』推讃之辞でも、演劇は一つの部門をなしていましたもんね。明治から大正当時の、文芸界のありよう、あるいは「文芸」っていう用語の使用範囲の広さが垣間見えたりします。

 今の基準でいえば、これは文学賞ではなく演劇賞と呼ぶべきでしょう。この賞を紹介するときに、「文学賞」と区分けする人はあまりいません。

「“国民文芸会”は当時(引用者注:昭和6年/1931年)の財界人、芸術家が一体となった優秀芸術家推奨の権威ある団体で、その賞は当時唯一の“芸術賞”だった。」(平成18年/2006年3月・演劇出版社刊 西形節子・著『近代日本舞踊史』「第五章 新舞踊運動の開花」より)

 芸術に対する賞。具体的にどんな人たちを対象にしていたのか。もう少し詳しく知りたいぞ。……そんな方には、曽田秀彦さんの著書がおすすめです。大正期の演劇運動研究に一生を捧げた方の本です。

「「国民文芸会」の事業目標は、(1)劇作家、俳優、演出家の養成。(2)芸術的にすぐれた推薦脚本の上演。(3)「社会教育」のための演芸の上場。以上の三点であった。(1)としては、毎年、劇作家、俳優、演出家を奨励するための賞金を設ける。(2)は、演出家をつけて、新脚本を興行師に提供して上演させる。(3)は、もっぱら「国民の精神」の改革をめざすものであって、床次内相の口から浪花節の改良が言われ、新聞で嘲笑されるようなこともあった。」(平成7年/1995年12月・象山社刊 曽田秀彦・著『民衆劇場 もう一つの大正デモクラシー』「芸術運動と民衆政策―国民文芸会の設立をめぐって」より 太字・下線は引用者によるもの)

 さあ出ました。ここに「床次」なる大臣の名が登場しましたね。特徴その2につながります。

 その2。最初は、「国家と密接にかかわる贈賞」だった(と思われていた)ところ。

 文藝選奨から文藝懇話会賞芸術選奨にいたるまで、当ブログでは国家による文学賞をいくつも取り上げてきました。じっさい国民文芸賞もその仲間だったんだぜ、と見る人もいます。こんな感じに。

大笹(引用者注:大笹吉雄) (引用者中略)大正版「演劇改良会」ができた。背後にあるのは、大正八(一九一九)年に原敬内閣がつくった「国民文芸会」です。その国民文芸会が、演劇の改善に乗り出した。民衆の動きを政府側は注目している。ロシア革命、米騒動では、民衆が政治を先導した。「国民文芸会」の発想は、日本国内でその波及をいかにとどめるかというものです。そして、演劇改良で民衆を抱き込もうとした。(引用者中略)

今村(引用者注:今村忠純) 「国民文芸会」は会員制で、(引用者中略)相談役は、当時の内相床次竹二郎。つまり、内務省の演劇社会政策の一環としてスタートしています。官政財界一体となって、演劇文化を奨励していこうという趣旨です。(引用者中略)

 「国民文芸賞」には、話題性がありました。(引用者中略)この賞は、今の芸術選奨にあたるのではないでしょうか。会員組織でオープンに行われていたことに特徴があります。ただ、この会のひもつきに対する警戒の声もあった。

大笹 大きな目で見れば、この「国民文芸会」は、関東大震災でポシャってしまうわけです。」(平成15年/2003年10月・集英社刊 井上ひさし・小森陽一・編著『座談会昭和文学史 第二巻』所収「第7章 演劇と戯曲 戦前編」より)

 すごいでしょ。大笹さんの問答無用の断言。「関東大震災でポシャってしまった」。要は、この会の推奨・授賞なんて、とるに足らん俗事だったととらえているわけですね。震災後も10年間弱は続いたんですけど。そんなもの見るに値しない、と。

 悲しいなあ、賞ってやつは。馬鹿にされること果てしなし。

 それでも「国民文芸会」のほうは、立派に研究対象になるらしいです。なぜなら国家とのパイプをもった社会的な組織だったから。賞なんて付けたし。オマケ。いやあ、立派な先生方がそのようにおっしゃるのもわかります。

 しかも悲しいかな、先生方ばかりじゃないのです。かつて文学賞が注目を浴びない浴びないと怒ってくれた我らが味方、菊池寛さんまでもが、似たような見方をしてしまっているんです。

「日本の法律に、著作権を擁護する明文がないために、我々の著作権がしばしば侵害せられる。この弊を防ぐためには、著作出版に関する完全なる法律が制定せらるゝやうに、努力するのが根本の問題である。国民文藝会などは、僭越にも、劇壇の私設賞勲局を以て任ずるよりも、こんな問題にこそ尽力して然るべしであらう。」(大正15年/1926年6月・改造社刊 菊池寛・著『文芸当座帳』所収「著作権の確立」より)

 賞なんかでウツツを抜かしてないで、もっとヤルことヤレよ、コノヤロ。とおっしゃっています。

 しかし逆に考えると、こういう発言が出るってことはアレです。当時の国民文芸賞って、多少なりとも存在感があったんだろうな、と推察できませんか。

 特徴その3。文壇(劇壇)内だけの内輪の催し、といった枠をやすやす打ち破っているところ。

 この賞、けっこう注目されていました。大正8年/1919年度の第1回目の推奨からほぼ毎年、新聞がある程度のスペースを割いて報じてくれていたんですね。10数年間、途切れることなく。

 美術展の入選者ほどではないですけど。ただ少なくとも、昭和10年/1935年ごろの直木賞・芥川賞に割り当てられた量よりは、格段に大きい扱いでした。

 大正期にしてすでに文学賞は、このくらいの潜在的な報道価値は持っていたのだな。そう思うと心強くなりますよね。……ってワタクシだけですか、そうですか。

 大正から昭和初期。まだ直木賞ができる前です。新聞が、ノーベル賞やゴンクール賞など、外国の文学賞を取り上げることはあっても、国産の賞で記事にしてもらえるのは、「懸賞」=公募型の賞ぐらいなものでした。そのなかでひとり気を吐く国民文芸賞の図。

 新聞の人たちは、なぜこの賞に食いついてくれたのでしょう。

 ひとつには、出発点が政界・財界を巻き込んだものだった、つうことがあったんでしょう。あるいは、芸能(あるいは芸能界)のもつ大衆アピール力も見逃せません。「みんな演劇やら役者やらが大好きだよね」っていう。

 そして最重要項目。単に推奨して拍手して終わり、の行事じゃなかったこと。賞金ないし賞品があったことです。

 なにせ目に見えないものはわかりづらいですから。具体的なお金や物がそこに介在していたことが、結果、新聞屋にとってはわかりやすかったんじゃないでしょうか。

 明治の文藝選奨や、昭和の文藝懇話会賞の場合、それはお金でした。国民文芸賞に賞金があったかどうかは不明です。ただ、賞品があったことは確実です。なぜなら新聞がしっかりと報じてくれているからです。

国民文芸会表彰者

菊五郎と決定

廿三日記念時計贈与(『読売新聞』大正13年/1924年1月14日の見出しより)

 記事本文でも「記念金時計を贈与する」と、形の見えるものを記事に落とし込んでいます。

 そう。みんなに知ってもらうためには、何か目に見えるものが大切だよなあ。

 直木賞と芥川賞だって、最初は「一年で二千円!」の賞金額で勝負しました。しかし、これでは効き目がなかったらしく、結局戦後になって、若い男のルックスや、芸能界(映画界)の力を借りることでようやく、新聞で大きく扱ってもらえるようになったわけですもの。

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2011年4月17日 (日)

作家賞 全国の同人誌作家がこぞって目指した賞、ではないけれど。直木賞・芥川賞に併走した大いなる試み。

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 河出書房新社の「文藝賞」。……この賞名って、ずいぶん、ずいぶんだよなあ、と思うことがしばしばあります。

 だって、雑誌名を賞の名前につけるのは、いいんですけど。それは誌名が一般名詞とまぎらわしくない、特徴あるやつだけに限ってほしいよなあ。

 そんな「文藝賞」とタメを張るくらいの名前をもった賞。「おいおい、その賞名、どうにかできなかったのか」の代表選手。「作家賞」に出てきていただきましょう。

 作家賞さん、恥ずかしがらずに。もっとオモテに出てきてください。

【作家賞(同人対象)受賞作・候補作一覧】(昭和31年/1956年~昭和38年/1963年)

【作家賞受賞作・候補作一覧】(昭和39年/1964年~平成2年/1990年)

 そうです。作家賞。ごそんじですか。直木賞のガチなライバル賞として堂々取り上げられるにふさわしい存在です。

 あ、ごめんなさい。「芥川賞の」と言い換えなくちゃいけないかもしれませんけど。黙って見逃してください。

 かつて『作家』っていう名前の雑誌がありました。同人雑誌です。創刊は昭和23年/1948年1月。同人雑誌といえども、最初のころは取次の日本出版配給を通じて、全国の書店で売られていたらしいです。

 この雑誌の創刊から同人だったひとりが、小谷剛さん。まもなく、その『作家』に発表した小説で芥川賞を受けます。

 昭和24年/1949年、戦後第1回の受賞。ってことで、例によって例のごとく、さほど騒がれもしなかったとの回想文が残っています。まわりの人からは「ゴミカワ賞、おめでとうございます」「チャガワ賞をおもらいになったそうで」などと言われたとか。60年ほどたった今の、周囲の反応と大して変わりません。これはもう、伝統文化の域ですね。

 同人誌『作家』は名古屋で産声をあげました。それがどんどん拡張して、同人が増え、東は北海道、西は広島までいくつもの支部ができ、一大有力同人誌に成長していった……っていう過程については、ばっさり端折らせてもらいます。

 創刊から9年。通算の号数も100号に達することになって、同誌はひとつの賞を設けました。これが「作家賞」です。

 ただしこのときは、あくまで『作家』に載った同人による作品から選ぶ。っていう極めてウチウチの、とくに拡がりのない装いでした。なので被害(?)もそれほどありませんでした。

 既存の大型文学賞との違いは、こんなかたちで表現されています。

「最初に断わっておくが、「作家賞」の対象としては、芥川賞及び直木賞候補作家の作品ははじめから詮衡の対象から外した。つまり藤井重夫曽田文子岡田徳次郎原誠斎木寿夫八匠衆一の六人の作品は対象外として取り扱ったわけだ。」(『作家』昭和32年/1957年2月号「第一回「作家賞」発表 詮衡経過」より)

 「受賞作家」じゃないんですよ。「候補作家」の作品を外す、という。

 たかが候補になった程度で、もう別格扱いです。彼らにとって両賞の候補が、いかなる格を表していたか、よくわかる規定です。

 しかしその取り決めは、第2回が終わった段階で、早くも瓦解します。180度の方針転換です。「芥川賞・直木賞の候補になった者の作品も、詮衡の対象とする」と。あるいは第4回では、あろうことか選考委員の稲垣足穂を受賞者にしてしまったりして。さんざん、抗議を受ける羽目になっちゃいます。

 自由すぎるぞ作家上層部! ……なあんてのも、一同人誌が勝手に内輪でやっていることですから。外の人間に文句をいう資格はありませんね。

 と、思っていたら小谷剛。勝負に出ます。昭和39年/1964年。従来の「作家賞」をとりやめて、新しい「作家賞」をつくるんだと宣言しちゃったのです。

作家賞刷新 賞金十万円

 全国の同人雑誌作品に開放

 これまで作家賞は「作家」に発表された作品を対象として与えられていましたが、この閉鎖性を打破しひろく全国同人雑誌に拠る作家のために開放し、賞金もまた一万円より十万円に増額することといたしました。

 この企ては、作家賞の刷新が新鋭な文学の誕生のためにいささかでも貢献するのではないかという小誌同人の意見が一致したことによるもので、他に理由はありません。」(『作家』昭和39年/1964年2月号より)

 いいっすねえ。「一介の同人誌が全国同人誌に対して賞を出すなんて、何と傲慢な!」みたいな声が寄せられることを見越しての、「他に理由はありません」宣言。

 編集世話人(石川清・川口雄啓・桑原恭子・横井幸雄)のなかのひとりは、さらに言います。

「同人雑誌としての性格からはみ出す、という声も出るかも知れないが、すべて文学賞というものの究極の目的は、一グループをこえたところ――日本の文学の発掘なのであるし、同人雑誌の賞であれば尚更、埋もれた本モノの書きてや、不遇な秀作を、派バツやグループをこえて激励するものであってほしい。」(同号「だ行四段」より 署名:(ベリ))

 おお。「すべての文学賞の究極の目的」を、そんなところに置きますか。どっぷり芥川賞・直木賞基準に染まっているなあ。あのう、文学賞は新人発掘に限ったものじゃないんですよ、功労賞として発達したものもあるんですよ、ごにょごにょ。

 それはいいとして。やはり、この試みは画期的だったそうです。藤井重夫さんは証言します。

「こんど全国の同人雑誌に発表された作品を対象にして選ぶことになった新しい「作家賞」について、期待は大きい。非商業性の同人雑誌が、このような試みをした例は、はじめてガリ版の同人雑誌に名をつらねてから三十二、三年になる私の記憶にもまったくないことである。」(同号「第八回作家賞選評」 藤井重夫「該当作なし」より)

 なにせ珍しい形態の企画です。おそらく、新生・作家賞が始まる前から、小谷剛さんのもとには、さまざまな観点で心配・反対・反感の声が投げつけられたでしょうねえ。

 批判だろうが罵詈だろうが、そんな声でも多いほうがいいに決まっています。文学賞として正しい方向に足を踏み出した証拠だろうな、と思わずにはいられません。何の反響もない文学賞ほど、寂しいものはありませんから。

 ちなみに、小谷さんがまず受けた批判が、これ。

「私のはらはきまった。で、同人のおもなところに相談した。全国の同人雑誌に開放ということには文句がなかったが、十万という額には反対する同人もあった。「そんなに出しては生意気だと思われるぞ」「芥川賞や新潮同人雑誌賞と同額じゃないか」「五万くらいがぶんをわきまえた額だろう」というのだ。」(『新潮』昭和39年/1964年4月号 小谷剛「作家賞十万円の弁」より)

 ふふふ。芥川賞と賞金が同じだと生意気と見られるんですか? そんな心配が出てくるところなんぞが。もう。文学賞って、ほんと即物的な性格を有しているよなあ。

 このように「作家賞」は拡張の一手を打ちました。金額も増額しました。いちばんの転換点は、むろん「仲間うちの馴れ合い」の場から、大きく風呂敷を広げた、っていうところです。

 1960年代中盤でした。この時期に、「すでに発表された作品を対象にして、一同人誌が賞を決める」っていう試みが生まれたことが興味ぶかい。ある種、「昭和10年/1935年、すでに発表された作品を対象に一出版社が賞を決めることにした」つうのと同じくらいの事件であったかもしれません(……って、そりゃ言いすぎか)。

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2011年4月10日 (日)

サンデー毎日大衆文芸 権威であり登龍門であり、作家を志す者のあこがれ。直木賞の先行型。

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 直木賞は大衆文芸の賞です。

 と、さっくり言っちゃえば、ああそうなの、で素通りしてしまいそうな一文です。でも、じっくり見つめてみましょう。じつは、この一文のなかには、さまざまな道のりや、信念や、混乱が無限に広がっているらしいんですよね。

 時代を巻き戻します。直木賞ができたのは昭和10年/1935年。そのきっかけになった直木三十五の死が、昭和9年/1934年。そこから、ほんの8年だけさかのぼります。

 大正15年/1926年。

 前年から白井喬二さんを中心に一つの同人誌が計画されていました。その『大衆文藝』創刊号が発刊されたのが、この年の1月1日付。大衆文芸にとって記念すべき年、とも言われます(って、結構、記念すべき年はいっぱいあるんですけど)。

 『大衆文藝』誌は新聞広告などもチラチラ出します。ついに大衆文芸陣営による文壇なぐり込みが始まったわけです。

 ほどなくして3月。白井さんのおかげで売れ行きを立て直してもらった『サンデー毎日』誌が、ひとつの懸賞募集記事を載せました。

 懸賞そのものは、当時から新聞雑誌の定番企画でしたから、別段、目新しくもありません。そこに「大衆文芸」の名を用いたこと。これが『サンデー毎日』の偉いところでした。

【サンデー毎日大衆文芸入選作一覧】

 大正15年/1926年3月7日号の表紙に、やや大きめに「千五百円懸賞 大衆文藝募集規定」の文字が躍ります。

 ところで大衆文芸って何ですの? そんな読者からの声なき声に、『サンデー毎日』はその募集記事で、単純明快に、こう解説してくれました。

「左の規定に依て『大衆文藝』創作の募集をします、翻訳を除く外新講談、探偵小説、通俗小説等構想は随意ですがサンデー毎日に掲ぐるものとして、興味本位のものを望みます」(「懸賞「大衆文藝」作品募集」より)

 新講談ってごぞんじですか? まあ何でもいいけどとにかく読者が食いつくようなもの送れ、ってことでしょうか。

 何でもいい。……ここが「大衆文芸」にとっての、始動直後にして重要な岐路だった。……と見えるのは、あとから歴史を追う者の勝手な見立てなんでしょう。まあ続けさせてください。

 じっさい「大衆文芸」という言葉には、大きく分けて二つの軸があります。

 ひとつは文学運動を指す姿です。

「大衆文芸が通俗文学とその本質を異にしている最も顕著なる特徴の一つを、我々は大衆文芸の積極的なる理論のうちに見出すことができる。言い換えると大衆文芸が明確なる文学運動として発足しているところにこそ、すなわち文学上における新しい主張と若々しい情熱とをもって、長い文学の歴史の上にその未だ現われなかったところのものを提唱し、樹立し、完成しようと意図したところにこそ、大衆文芸の真に大衆文芸たるの面目がみられるのである。」(昭和48年/1973年7月・桃源社刊 中谷博・著『大衆文学』所収「理論家としての白井喬二氏」より ―初出『大衆文藝』昭和16年/1941年1月号)

 通俗小説、読物文芸、新講談、そういった類の言葉と、大衆文芸とは何が違うのか。明確なる文学運動としてスタートした点なんだそうです。

 たしかに白井喬二さんは、大正13年/1924年ごろから意識的に「大衆」という言葉を、随筆などで使用し始めていたらしい。その結晶が大正15年/1926年の『大衆文藝』誌創刊につながるのだと。

 しかし、仮に白井さんが、大衆文芸の確立者であって、初期にあらわれた随一の理論家だったとしてもですよ。「おれたち、大衆文芸やるぜ」と宣言して、ババーッと広がるのであれば、苦労はありません。いくら大正デモクラシーだの、民衆たちの意識が高まっていただの、そんな時代背景があったとしても、です。

 白井さんの言うことに、ほんとうに「大衆」が耳を傾けたのか。それは疑問でしょう。

 さあ、そこで第二の「大衆文芸」のお出ましです。第二といいますか、こっちのほうが時代としては先だったみたいですけど。

 マスコミ用語としての「大衆文芸」ですね。

 別名、レッテルとも言います。商売のための分類、でもあります。あれですか、「Jブンガク」みたいなものですか。とりあえず新奇な言葉を名づけちゃえ、そしたらバカな大衆どもが目を向けてくれるだろ、みたいな感じです。

 そもそも「大衆文芸」なる言葉の発生源には、長く長く、それこそ直木賞ができる前から長ーく伝えられてきた伝説があります。『講談雑誌』の編集者、生田蝶介さんが広告文を書くときに、はじめて「大衆文芸」を使ったのだと。ね。宣伝の観点から発生した(と言われている)のが、すごく興味ぶかい。

 白井さんも思い出しています。

「ぼくは新しい文学を唱えるにあたって、従来の国民、人民、民衆という呼び方は上から見下ろす語気を感ずるので、彼我平坦に立つ言葉として「大衆」をえらんだ。「大衆文芸」と四字にまとめたのは恐らくマスコミであろう。」(昭和58年/1983年4月・六興出版刊 白井喬二・著『さらば富士に立つ影 白井喬二自伝』「二十一日会と『大衆文藝』」より)

 ええと、マスコミ語としての「大衆文芸」。この場合は、大衆文芸がどんな作品を指すのか、どんな文芸ジャンルとして発展していけばいいのか、などはとくに関係ありません。くくることが第一の目的ですから。

「そのときの生田はこの〈大衆文芸〉という語を明確な問題意識で用いたわけではなかった。それ以前には〈民衆文芸〉という言いかたもあった。生田はその辺から漠然と、雑誌の目次コピー用に民衆を大衆と一字だけ取り替えて、〈大衆文芸〉なる語を発案した。」(平成17年/2005年11月・筑摩書房刊 大村彦次郎・著『時代小説盛衰記』「第四章」より)

 大村さんもバッサリ書くなあ。ほんとに明確な問題意識なかったのかいな。

 ただ、たとえば次のような新聞記事とかを読むと、ああ、ジャーナリズムの人にとっちゃ問題意識もクソもなかったんだろうな、という感じは伝わってきます。

「「大衆」は時代の合ひ言葉だ。今や大衆は、奪はれてゐたすべての権利、圧へつけられてゐたすべての欲求を奪還し、充足し始めた。文学もその例にもれるはずはない。」(『東京朝日新聞』昭和4年/1929年6月27日「文芸盛衰記 新興文学の巻(十五)新興大衆作家の群」より)

 大衆が読むもの、これすべて大衆文芸。乱暴です。大ざっぱです。「大衆」の響きだけをお借りして、何かが語られた気になってしまいます。

 何でもかんでも「大衆文芸」と呼ばれはじめました。それを提唱者の白井喬二さんらは黙して受け入れてしまいました。そこから大衆文芸の衰亡は始まった、と中谷博さんは言っています。

 そう。昭和になって何年かするうちには、「大衆文芸」って何を指すのか、早くもわからなくなってしまっていたのでした。

 その原因の一端を担っていたのは、確実に『サンデー毎日』でした。なにしろマスコミの一つです。機敏に「大衆文芸」の語に飛びつく先見性を持っています。「大衆文芸? 何でもいいじゃん」と言い放つぐらいの、無節操さも合わせ持っていました。

 こうして大衆文芸は、昭和10年/1935年に突入していきます。

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