カテゴリー「小説に描かれた直木賞」の50件の記事

2010年6月20日 (日)

直木賞とは……候補作をろくに読まずに、のうのうと選考委員やってるようなやつらは、消えうせろ。――筒井康隆『大いなる助走』

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筒井康隆『大いなる助走』(昭和54年/1979年3月・文藝春秋刊)

(←左書影は平成17年/2005年10月・文藝春秋/文春文庫[新装版]

 「小説に描かれた直木賞」をテーマに、1週1作ずつとりあげて約1年。このエントリーで、とりあえず、その締めとしたいと思います。

 締めの作品としてふさわしい、と言って真っ先に思い浮かぶのが、やはりこの小説でしょう。と来ると、ほんと芸がないんですが、「文学賞をネタにした小説」界の金字塔、いや代名詞ですからね、ワタクシとしては何度とりあげたって足りないくらいです。

 昭和54年/1979年以後、だれかが文壇もしくは文学賞をネタにした小説を書けば、「大いなる助走」風、と言われ、あるいは「小林信彦版「大いなる助走」」「三田誠広版「大いなる助走」」「東野圭吾版「大いなる助走」」などなどと言われてしまう。いまだにそうですし、当時からそれほどのインパクトでした。

 ちらりと文芸誌を読んでいても、

「世の中には、理不尽なことというのはあるものである。というよりも、理不尽なことしかない、というのが、この「大いなる助走」の世界のまんなかにあしかけ三年身をおいてみた私の実感である。」(『文學界』昭和54年/1979年10月号 中島梓「ごまめの歯ぎしり」より)

 なんていうふうに、くだらなくて閉鎖的な文壇=「大いなる助走」の世界、っていう比喩が使われていたりします。

 それで、うちのブログでは以前、二度ほど、『大いなる助走』のハナシをしました(平成19年/2007年12月23日付と、12月30日付)。三度めはどんな切り口にしようかと迷いに迷い、せっかくなので王道な切り口で行こうかな、と。

 『大いなる助走』の王道、とは……。

 実在の直木賞選考委員との、すったもんだ、です。

 まずは、本文の引用から。〈直廾賞〉世話人の多聞伝伍に、各選考委員の人となりをざざっと紹介していただきましょう。

「まず鰊口冗太郎。(引用者中略)この人の娘というのがあの鰊口早厭というタレントで、離婚歴があり子供がいておまけにラリパッパ。終始交通事故などを起すものだから鰊口さんも手を焼いています。未婚の男性が直廾賞をとると必ず娘を押しつけようとするので有名ですが、あなたあの鰊口早厭と結婚する気がありますか。」

「推理小説や風俗小説を書いている膳上線引。(引用者中略)いやまあこの人は自分の昔のことを知っている人に会うと実になんともいやな顔をする。さて、その次は時代小説の雑上掛三次。この人は男色家です。うまい具合にあなたのようなタイプが好みです。」

「次は風俗小説の坂氏肥労太。この人は女狂いです。いい歳をしていまだに陰唇をきわめている。しかも若いしろうとの女性が好きときているのでわれわれはいつも困る。」

「次は歴史小説の海牛綿大艦。この人はいつも文壇長者番付に顔を出していますが高価な古書を買いこみすぎて困っていますから、現金は受け取る筈です。明日滝毒作。この人も政府関係の仕事の方で金が要る筈です。」(以上『大いなる助走』「ACT4/SCENE1」より)

 このほかに、名前の登場しない委員が3人。全部で9人。

 名指しされているこれらの作家が、現実のどの作家のことを指しているか。という興味は、発表から40年たった今でも、インターネット上でその当てっこを楽しんでいる人たちがいるのでおわかりの通り、最もゴシップ的であり、イコール最も爆発力があり、『大いなる助走』のかもし出す魅力の核となるところです。

 当時、その魅力に魅せられた多くの読者のひとり。大岡昇平さん。以下は、埴谷雄高さんの証言です。

「或る日、大岡昇平から電話がかかってくると、この頃いささかよたよたしている足の弱さを思わせぬ元気に充ちた声で、私がまったく思いがけぬことに、『大いなる助走』という作品を読めというのであった。

「えっ、筒井康隆? ずばぬけた才人だという名は聞いてるけど、いままで読んだことないな。どういう作品なの……?」

「それが、どうだ、直木賞の銓衡委員がつぎつぎと殺されるという小説なんだよ。ハハハハハッ……」

 電話のこちら側で私は、思わず、うーむとうなった。盗作問題で批評家を殺すという、なんとなくおさまらぬ自己の腹立ちをついに文学的に昇華する執念小説(?)を書いた彼は、その一種奇抜な執念小説の主題に他の何ものにも知られぬ深い親近感をいだいたに違いなかった。(引用者中略)

 それから数日後、私達はこういう会話を交すことになったのである。

「どうだ、読んだかい……?」

「うん、殺しの場面だけ。アクションものというのは、だいたいこういうふうにスピーディに書かれているのかね。」

「そうだ。あのなかの×××××というのは×××××だよ。」

 と、彼は作中のモデルについても私に教えた。

「ほほう、そうだったのか。いちいちモデルがあるのかね。」

「ハハハハハッ……そこがあの小説のいいところさ。」」(『海』昭和54年/1979年7月号 埴谷雄高「記憶」より)

 これより数ヶ月前、根っからのツツイストであり筒井康隆文献研究の第一人者、平石滋さんは、きちんと人名対照表をつくっていました(『ホンキイ・トンク』4号[昭和54年/1979年5月]「『大いなる助走』と直木賞の“事実部分”」)。

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 表組みだと引用しづらいなので、この対照表をもとに論を進めた平岡正明さんの文章を、引いておきます。

「かくして『大いなる助走』で筒井康隆が標的にしたものは、

 鰊口冗太郎=川口松太郎

 雑上掛三次=村上元三柴田錬三郎の合成

 坂氏肥労太=源氏鶏太

 海牛綿大艦=司馬遼太郎海音寺潮五郎の合成

 明日滝毒作=今日出海

 膳上線引=松本清張水上勉との合成

 あとの三人=大佛次郎中山義秀石坂洋次郎

 以上の人名対照は、労作「大いなる助走と直木賞の“事実部分”」で平石滋が割りだしたものである。「あとの三人」とくくられた人たちは、作品中、対立する直廾賞斡旋業者がおさえたものとして名前が出てこない。」(昭和56年/1981年2月・CSB・ソニー出版刊 平岡正明・著『筒井康隆はこう読め』所収「フーマンチュウはこう殺せ」より)

 もちろん、誰がどの作家をモデルにしているのかをわかるように書く、というのは、覚悟のうえだと想像できます。その筒井さんの覚悟と勇気には、惜しみない拍手を送らざるをえません。

 ……と同時に、せっかく身を張って、危険を覚悟で書いているんだ、単なる「文壇暴露小説」が出ましたよ楽しかったね、で終わらせてたまるか、という筒井さんの企みも、そこには垣間見えます。

 企み、または挑発と言いますか。

 そして、まんまとその企みの網に、一人の作家がとらえられてしまいました。

 そう、みなさんご存知、『大いなる助走』といえば今でも必ず名前の挙がる選考委員。松本清張さんです。

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2010年6月13日 (日)

直木賞とは……なにしろ全部一人でやって、しかも新しい仕事もあって。辞退されたときのことなんか、すっかり忘れちゃいましたよ。――永井龍男「文藝春秋の頃」

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永井龍男「文藝春秋の頃」(『文學界』昭和27年/1952年4月号->昭和31年/1956年2月・四季社/四季新書『酒徒交傳』所収)

 純粋に疑問に思うわけです。もしも、直木賞と芥川賞をやり始めたのが、文藝春秋社でなかったら。もしも中央公論社や改造社、春陽堂あたりだったら、どんな歴史になっていたんだろう。こんなにでっかく成長していたんだろうか、と。

 芥川賞(と、ついでに、ほんとについでに直木賞も)が社会に認知されるようになったのは、昭和31年/1956年1月に石原慎太郎が「太陽の季節」で受賞してから。っていう歴史は、耳タコなほど聞かされました。

 ってことは、ですよ。

 それまでの20年間は、直木賞も芥川賞も、さして話題になることなく粛々と運営されていたと。昭和10年代~昭和20年代にかけて、似たような文学賞が、いくつもいくつも生まれ、そしてあえなく中止・廃止で消えていった、その波をかき分けて20年も継続したと。

 商業的な面ばかり重視していたら、果たして一企業が20年もひとつの文学賞を続ける意味があったかどうか。ねえ。やはり、そこには「文壇人が文壇のためにつくり、文壇のために存続させた賞」っていう姿が、力づよく浮かんでくるんですよね。

 ええ。菊池寛佐佐木茂索。がっつり文壇人です。

 ただ、この二人は文壇人……文人のくせして、直木賞と芥川賞について、ついにまとまった文章を書いてはくれませんでした。

 文学賞ならぬ文壇賞としての20年間。それが仮にこの二人だけの力によって成立していたのであれば、20年の流れのわかる資料もあまりなく、その後に両賞が飛躍するいしずえも、もろいものになっていたかもしれません。

 両賞のことをきちんと文章に残した文壇人。いたんですね。はい。ここで永井龍男さんの登場となります。

 戦後、新進の(?)売り出し中作家だった永井さんは、昭和20年代後半に、いくつも、直木賞&芥川賞のことを書きました。

 「文藝春秋の頃」(『文學界』昭和27年/1952年4月号)。

 「直木賞下ばたら記」(『別冊文藝春秋』同年10月)。

 「二つの賞の間―純文学と大衆文学の問題」(『別冊文藝春秋』昭和28年/1953年12月)。

 それと、これらの姉妹編として「小説「オール読物」」(『オール讀物』昭和27年/1952年4月号)。

 以上全部おさめた本が、『酒徒交傳』(昭和31年/1956年2月・四季社/四季新書)です。

 まあ、全部エッセイであり、回想録ではあります。あるんですが、「文藝春秋の頃」の後記として、

「小説「文芸春秋」の出題で、準備もなく思い出を記した。」

 とあります。『文學界』編集部からの注文は、とりあえず「小説を」ってところだったんでしょう。

 さてさて。そこに出てくる両賞は、のちに書かれる『回想の芥川・直木賞』とかぶる部分がほとんどですが、一応、引用しておきます。

「芥川直木両賞もその時分に創設された筈で、事務一切が私の担当であった。おびただしい数の同人雑誌を整理し、眼を通し、それぞれ気難しい委員達の通読をもうながさなければならなかった。(引用者中略)昭和十七年頃、満洲文芸春秋社創立のために、新京へ渡るまで、一人で事務を処理したが、この仕事に関する限り私は心残りを持っていない。」(「文藝春秋の頃」より)

 まじですか。一人で事務を処理していたんですか。さすが、デキるビジネスマンは違うなあ。

 ちなみに永井さんが両賞の事務処理を担当していたのは、正確には昭和18年/1943年、第17回(昭和18年/1943年・上半期)まで、らしいです。

「軍部はジャーナリズムをかんじがらめにした上、用紙をきびしく統制した。統制されなくても、用紙は底を突いていたから、業者は軍部の鼻息をうかがい、二嗹(ルビ:レン)三嗹の端紙の入手にも狂奔した。文藝春秋社もその例外ではなく、満洲文藝春秋社の創立企画も、窮余の一策であった。十八年六月、私はその担当者として渡満、両賞の事務から離れた。一旦帰京の後、同年十一月本格的に新京へ赴任した。(引用者中略)十八年上半期第十七回両賞以降、終戦に至る間の銓衡には関係がなかった。」(昭和54年/1979年6月・文藝春秋刊『回想の芥川・直木賞』「第三章」より ―引用は昭和57年/1982年7月・文藝春秋/文春文庫

 すごく細かいことなんですけどね。この第17回に、永井さんはまだ事務処理していたのか、していなかったのかは、気になります。

 だって、それこそ同人誌の整理、推薦回答カードのまとめ、7月から8月にかけて2度にまたがった選考委員会の場所とり、連絡事務などなど、やることはたくさん。さすがに渡満の準備をしながら、これも一人でやったのかどうかは、ちょっとわかりません。

 『自伝抄1』(昭和52年/1977年3月・読売新聞社刊)に、永井さんの「運と不運と」が収められています。これによれば、昭和18年/1943年6月、新社準備のために満洲にわたり、滞在半か月。と言いますから、6月の多くはそちらに割かれてしまったことでしょう。

 ただ、どうやら第17回も、永井さんが直木賞にバッチリ関わっていたらしい、ってことは他の文章によって推測できます。

 なんつったって、アレですよ。第17回の直木賞といえば、他の140数回の直木賞とは、まったく違う強烈な回ですからね。ここに、永井龍男そのひとが関わっておいてくれなきゃ、どうにもカッコがつきませんぜ。

 山本周五郎の、直木賞辞退、の回なんですから。第17回は。

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2010年6月 6日 (日)

直木賞とは……有名人が候補になると、みんな、ギャーギャー文句言うけどね。いい作品を書けば、酒場のマダムだろうと人殺しだろうと、いいんじゃないの。――山口洋子「階段」

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山口洋子「階段」(平成9年/1997年9月・文藝春秋刊『背のびして見る海峡を――』所収)

 1980年代……昭和50年台後半から平成が始まるまで。この時期の直木賞は、「女性と芸能の時代」などと言われています。

 っていうのはウソなんですけど、いや、そう言っておかしくないぐらいの波が、直木賞のかたちを形成していた頃が、うん、たしかにありました。

 むろん、それ以前の直木賞史にも、女性や芸能は登場しています。でもです。潮流って観点からいえば、やっぱり第81回(昭和54年/1979年・上半期)に、中山千夏さんが登場したあたりに、波の原点があったように考えられるんですよね。

 しかも、その候補作「子役の時間」の素材が、芸能界だったわけですし。

 小林信彦『悪魔の下回り』のエントリーで触れましたが、かの悪名たかきNHKの人権蹂躪番組(?)「ルポルタージュにっぽん 直木賞の決まる日」が放映されたのは、ちょうどそのころ、昭和55年/1980年1月でした。

 候補にさせられた作家には、そりゃあ責任はないかもしれません。「どんな人物であろうが、書かれた作品が水準以上であれば、賞を与える。それが直木賞の公平性ってもんだ」という正論も、当然わかります。

 ただ、やはりあの時代は、ですね。なんと言うんでしょう、テレビを中心とする「イメージ増幅・偏重・曲解」の、暴力的ともいえる流れを、直木賞もかぶらざるを得なかった、と見立てたくなるわけです。

 ええ。注目の人・中山千夏さんの三度にわたる連続候補。ドラマ脚本家、向田邦子さんの華やかなる登場と、悲劇的な退場。お茶の間の人気モノ、テレビとともに歩んできた青島幸男さんの受賞……。

 っていう伏線がありつつの、このかた。山口洋子さんです。

 受賞したとき(昭和60年/1985年)の新聞紙面には、見出しに「よこはま、たそがれ」って曲名といっしょに紹介された、作詞家・山口洋子さんです。

 それより2年前、「貢ぐ女」ではじめて直木賞候補になり落選したときの、週刊誌の記事より。

「山口洋子さんといえば、銀座のクラブ『姫』経営のかたわら、作詞家として、あるいは女性には珍しい野球記者として、また、二十年前には、東映のニューフェースで女優を目指したこともあるという、“マルチ型タレント”として、つとに知られたお方。」(『週刊サンケイ』昭和58年/1983年8月4日号「山口洋子さんが正式に「作家宣言」 惜しくも直木賞を逸した才女の決意」より)

 つとに知られていたかどうかは、すみません、よく知らないのですが、まあ初候補の段階でこの言われ様ですから。女性と芸能のことにはいち早く食いつく週刊誌にとっちゃあ、いいネタ発生源がまた一つできたぜ、えへへへへ、って感じだったのかもしれません。

 時にこの頃、直木賞は「三才女」を、候補陣にひっぱり込んで、注目されていたのですね。一に山口洋子、二に落合恵子、三に林真理子

 それについては、また後で、ちょっと触れますが、山口さんはこの中でやや異質な存在でもありました。異質、というとおかしいですけど。つまり、従来からあった文壇の定石に半分かなった経歴と言いますか。

 「異業種から突然、小説界に殴り込み!」……みたいな人ではない、ってハナシです。

 だって山口さんといえば、それこそクラブ経営の職業柄、作家たちとも顔なじみであって、小説の師として近藤啓太郎さんを仰いでいました。お客さんだった梶山季之川上宗薫吉行淳之介などの売れっ子たちから、温かく作家としての道筋を教えられ、一歩一歩と、作家修業をしてきた人だったんですね。

 けっきょく直木賞なんていうのは、そういう“半文壇人”が受賞するほうが普通なのだ、って側面もあります。先週ご紹介しましたが川口松太郎さんは選考委員の家の隣に住み、「私に直木賞をください」とお願いに行けるほどの立場でしたし。

「亡くなられた作家で何といっても思い出深いのは、梶山季之先生である。

(引用者中略)

 婦人むけの大手の雑誌社や女性週刊誌などに私を紹介して、表舞台への登場に一役も二役も買って下さった。『姫』にとって梶山先生はいいお客様より、こよない相談相手だったのだ。」(「階段」より)

 いみじくも斎藤美奈子さんが林真理子さんの文壇登場を語るときに使ったセリフのごとく、山口洋子さんも、それから落合恵子さんも、別に公募の新人賞をとって作家デビューしたわけじゃないのです。まあ言ってみれば、かなり伝統的な「階段ののぼり方」と言いますか。

 とくに山口洋子さんの、伝統踏襲ぶりは際立っています。すでに、選考委員のなかに、個人的に顔を見知った応援団(?)がいたんですもの。直木賞委員じゃなくて芥川賞のほうでしたが。

「直木賞は二回候補になって落ち、三度めの念願達成だった。某大御所が、「あーあ、バーのママが直木賞候補だと、俺はもう選考委員なんかやってられない」といって、それをきかれた吉行(引用者注:淳之介)先生が、「なに、いい作品を書けば、酒場のマダムだろうと人殺しだろうと、いいんじゃないのか」と色をなしていって下さったとか。そんな裏話を近藤(引用者注:啓太郎)先生から伺って、眼尻がじわりとするほど感激した。「吉行がな、あれは筋がいい、上等な味がする」といってくれたんだよと、恩師は我がことのごとく喜んで下さった。先生がたのお引きたてと励ましがなければ、私など泥中の蓮の根っこのれんこんで、穴だらけのまま永久に陽の目など見ることも適わなかった。」(「階段」より)

 またまた、ご謙遜を。

 ただ、吉行淳之介さんみたいに、「その人の職業がどうだとかは、関係ないんだぞ」と言ってくれる先輩(ベテラン)作家が身近にいる、というのは、たしかに心強かったでしょう。なにせ、当時の山口洋子さんに振りかかる周囲からのバッシングや偏見は、相当なもんだったでしょうから。

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2010年5月30日 (日)

直木賞とは……こんなに一生懸命、「文学」のために選考してきたのに。落ち目になったら選考委員を解任させられちゃうのかよ。――小島政二郎「佐々木茂索」

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小島政二郎「佐々木茂索」(『文藝』昭和53年/1978年11月号)

 以前から、小島政二郎という人が気にかかっています。

 今もメンメンとつづく直木賞の面白さ。作家同士のいざこざの面白さだったり、ショーとしての面白さだったり、まあいろいろあるわけですが、その性質の多くは、小島政二郎なる人物が長いあいだ選考委員として関わっていたからこそでは? と、うすうす思っていました。

 で、この小説(だか何だか判別しづらいシロモノ)「佐々木茂索」を読んで、その思いがますます強まってきたわけです。

 政二郎さんがしでかした、直木賞に関わる騒動はいくつかあります。

 まず戦前。直木賞委員たち(吉川英治白井喬二ですね)があまりに怠惰だったことに業を煮やして、選考会に、芥川賞委員たちをも参加させてしまったアクロバチックな画策。

 この一事をもってわかるとおり、直木賞のなかに、なぜか「文学性」を求める、ちゅう今にいたるまで続く直木賞観の柱を築きました。

 それと戦後には、後輩作家・田岡典夫に、大衆小説は堕落したものだという偏見について、強く噛みつかれた「甘肌」事件。これは以前、『とどまじり』を紹介したエントリーで、少し触れました。

 そして、何といっても政二郎さんが直木賞の歴史に、重要な位置を占めるにいたった最大の事件。といえば、最後も最後、彼が直木賞委員を辞めることになった昭和41年/1966年の、「直木賞委員解任劇」です。

 前にも引用したことのある箇所ですが、再引用。

「青山(引用者注:青山光二は、銀座のバーで文藝春秋の役員池島信平に会ったとき、思わず愚痴をこぼした。

「今回の選考、木々高太郎という人は、ちょっとどうかしていませんか」

 池島は「私もそう思う」とはさすがに言わなかったが、大きくうなずき返し、認めたも同然だった。青山は、『オール讀物』編集部が直木賞選考に強く不満を抱いているということも耳にした。直木賞というのは『オール讀物』の常連作家を補充するという意味合いもあるが、「今回の二人(引用者注:第54回受賞の新橋遊吉千葉治平は使えない」と編集部が考えているというのである。そうした文藝春秋側の意向も働いたのか、木々と小島の二人は次の回から選考委員をはずされた。」(平成17年/2005年12月・筑摩書房刊 大川渉・著『文士風狂録―青山光二が語る昭和の作家たち』「後ずさりした木々高太郎」より)

 この年、昭和41年/1966年の暮れに、文藝春秋のドン・佐佐木茂索が亡くなります。文春が選んだ葬儀委員のなかに、小島政二郎の名前はありませんでした。その一件について、数か月前にあった政二郎の直木賞委員解任のハナシをからませる文献もあります。

「「八百長」(引用者注:新橋遊吉の受賞作)について、小島は「描写」もしっかりしているし、また「手に汗を握らせるクライマツクス」も成功していて、ほとんど欠点がないと褒めちぎっていた。(引用者中略)この選考に小島がかなり強引だったというささやきがあるのも、肯けないことではない。少くとも、小島への多少の遠慮が他の委員たちにあったのだろう。なにしろ小島は昭和十年の芥川賞・直木賞創設以来の、生き残りの選考委員なのだから。そうした小島に佐佐木は不快の念を抱き、批評眼の問題もかかわって、二人の仲は壊れ、社内にも小島を軽んじる傾向が増幅されたという話だ。」(平成7年/1995年10月・講談社刊 小山文雄・著『大正文士颯爽』「序章」より)

 「佐々木茂索」の一編は、このあたりのことを当の小島政二郎本人が書いているのですからね、そりゃあ面白いに決まっています。

 さて、引用するにあたりまして。せっかくなので、直木賞委員解任よりもう少し前の箇所からにします。政二郎さんが戦前、『主婦之友』に「人妻椿」を書き、編集部からたいそう喜ばれたときのことです。

「こんな新派悲劇は書くのはいやだと思ったものを書いて褒められたって、嬉しくも何ともなかった。(引用者中略)私は褒められて、却って大衆小説が分らなくなり、自信を失った。

 得たものは金、失ったものは大衆小説の神髄をつかむ唯一の機会と自信。

 もう一つ、堕落。」(「佐々木茂索」より)

 ここから続く、政二郎さんの自分を評する目は、もう笑っちゃうぐらい鋭いですよ。

「吉屋信子や大佛次郎は、初め大衆小説を書いていて、長ずるに従って芸術的な仕事を始めた。私とは逆の順を踏んだ。

 世間では、そういう人に好意を持つ。私だって、故郷恋しく、心を洗って本当の小説を書く時があった。が、文壇では誰も相手にしてくれなかった。

(引用者中略)

 名声に最も敏感なのは、雑誌社だった。文藝春秋社から、まず「週刊文春」を送ってくれなくなった。続いて「週刊朝日」も、「サンデー毎日」も、「週刊新潮」もくれなくなった。

 生きている限り、送ってくれるものと自惚れていた作者にとって、これ以上のショックはなかった。大関を張っていた力士(ルビ:すもう)が、前頭に落ちた時はこんな気持がするだろうかと思った。身のまわりを突然木枯らしが吹き抜けて行ったような――こんなにまざまざと落ち目を感じさせられたことはなかった。その発頭人が佐々木とは思いも寄らなかった。」(同「佐々木茂索」より)

 いっときの流行作家が一気に凋落。とか、そういうよくあるハナシとは、また別種の事情があるから、ここの政二郎さんの心情が重いわけです。

 つまり、佐佐木茂索と政二郎とは、いわば新進作家と呼ばれる以前からの仲間、友人なのでした。文藝春秋がヤクザなゴシップ雑誌を出している弱小出版社から、誰もが知っている大出版社になり上がる過程のなかで、政二郎の加担した役割も相当なものであったはず。

 それなのに、茂索のやつめ、冷たい仕打ち。コノヤロー。……と政二郎さんに思わせた冷遇の極めつきが、はい、直木賞委員解任、だったというわけで。

「続いて徳田一穂と鷲尾洋二(原文ママ)とを使いに立てて、直木賞詮衡委員の委員をやめてくれと云って来た。直木賞の委員は第一回からの委員だったし、私としては一生懸命勤めたつもりだった。殊に、近頃は文学的要素の少い作品が選ばれる傾向が強かった。

「これではイケない」

 と思って、極力社の意向に逆らってその点を力説して来た。川端康成瀧井孝作が芥川賞の予選に当ったように、私も好意で直木賞の予選をやっていた。これは骨の折れる仕事で、云わば縁の下の舞いのような、間尺にも何にも合った仕事ではなかった。文藝春秋社――いや、日本文学振興会では、十分私達の無償の努力を買っていてくれるものと思っていた。

 そのお礼が委員辞退の申し渡しとは――委員であることに未練はないが、しかし正直の話、私は明いた口が塞がらなかった。」(同「佐々木茂索」より)

 まず、ここで注目しておきたいのは、「極力社の意向に逆らって」の一節でしょう。

 小島政二郎はやたらと「文学、文学」言いたがる。これは直木賞選評を読んでいても、よおくわかります。しかし、これらの頑固な選評、選考姿勢のウラには、その方向性をよしと思わない文春の考え(文学性は二の次にしましょうよ。直木賞を選ぶにはもっと大切なもんがあるでしょ、という)があったんだってこと。はじめて知りました。

 それと、ですね。そもそも政二郎さんが直木賞委員を辞めたのは、ほんとうに解任を申し渡されたからなのだな、ってことが判明したのも重要です。

 過去、直木賞の選考委員は46名います。うち現在もその任にある7名を除けば、39名。彼らが直木賞委員の座から下りた理由としては、わかっている範囲では、死亡、もしくは自発的な辞任が大半です。

 続ける意志のある委員に、文春側から辞任を求める、つうのはねえ。よくよくのことですよ。

 昭和40年代前半に、直木賞の大きな転換期があった。という論は実際、けっこう言われることなんですが、ただそれは、五木寛之野坂昭如の登場によるものだ、って説を語るときに出てくるのが普通です。

 ワタクシも五木・野坂の登場は重要だとは思います。思いますが、やはり直木賞の変節、ということでいえば、昭和40年代前半の、文藝春秋側の主導的なやり口は、忘れちゃならないと思います。

 その意味でも、政二郎さん側からの証言は、重要です。

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2010年5月23日 (日)

直木賞とは……いつだって芥川賞といっしょ。芥川賞が受ける恩恵も祟りも、いっしょに受けざるを得ません。――小谷野敦「純文学の祭り」

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小谷野敦「純文学の祭り」(平成21年/2009年1月・論創社刊『美人作家は二度死ぬ』所収)

 直木賞は、いわば正統・主流の文学とは別モノの、大衆文学の賞と見られています。そのためなのかどうなのか、過去、この賞に注視して、系統立って語ってくれた評論家は、あまりいません。

 そんなこともあって、ワタクシみたいな直木賞オタクは、過去の文献のなかに、直木賞に触れてくれている文章を見出すと、つい嬉しくなってしまうわけです。病気です。

 「触れてくれている」なんていうレベルを超えた著作家もいます。尾崎秀樹さんとか、大村彦次郎さんとか。直木賞の歴史というものを踏まえて、さまざまな事象を語ってくれているんですもの。それだけで尊敬しちゃいます。

 それで、近年では小谷野敦さんです。

 もう小谷野さんについては、ファンやマニアがたくさんいると思いますので、ワタクシなぞは、何も知らない部類に入ると思います。2ちゃんねるや、wikipedia や、その他さまざまなサイトを見るかぎり。ああいうところに書き込んでいる方たちは、小谷野さんをやっぱり愛しているんですよね。……え。違うんですか。

 ああいう方たちの小谷野さんに関する知識には、ワタクシ、とうていかないません。

 でもね、せっかくうちのブログでは、「小説に描かれた直木賞」シリーズをやっているのですもの。「純文学の祭り」をスルーするわけにはいきませんよね。

「二〇二七年、今ではほとんど使われなくなった元号でいえば、暦仁九年のことである。この日、第百七十六回豊島賞および三上賞の選考会が行なわれるのである。老人は、文壇の長老で、もう三十年近く選考委員を務めている浦上龍、七十五歳だった。浦上が、美大在籍中に、ドラッグとセックスの日々を綴った中編「限りなく卍に近いハーケンクロイツ」で豊島賞を受賞して騒がれたのも、もう半世紀も前のことである。」(「純文学の祭り」より)

 と、少し引用しただけで、文学賞好きにとっては、ズルッとよだれが出てきます。

 この短篇で描かれているのは、題名のとおり、純文学方面……芥川賞ならぬ豊島賞の選考会です。ですので、直木賞=三上賞については、あまり出てきません。〈壺井公隆〉や〈田中歌子〉なる登場人物が出てくるときに、チラチラッと三上賞の文字が登場するくらいです。

 と言いますか、ワタクシがここで、どの人物のモデルが誰なのか、などを指摘するのは野暮なハナシです。すでに、kokada_jnetさんがブログで試みています。興味のある方は、「純文学の祭り」と、そちらの対照表を確認しながら読んでいく、というのも、楽しいですよ。

 で、さらに。「純文学の祭り」の物語のなかで、ワタクシにとって興味深かったのは、もうひとつ、そこに描かれた純文学と大衆文学との関係性の部分なのです。

 まあ、世の中には、「純文学=芥川賞、大衆文学=直木賞」、と条件反射のごとく認識して信じ込んでしまう現象が蔓延していますよね? ワタクシもその認識が脳みその奥底にへばり付いている一人ですけども、ワタクシだけじゃない、みんなそうらしいぞと知ると、それだけで芥川賞・直木賞のパワー恐るべし、と畏怖してしまいます。

 だってねえ、当然のこととして、賞ごときが小説ジャンルを規定できるわけないのに。「芥川賞=純文学賞、直木賞=大衆文学賞」というならまだハナシはわかりますが。

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 でも、そんなことわかりきったことだ、として文学賞のことを無視する。そういう態度に出ないのが、小谷野さんです。解説してくれています。

「年に二度行われる、日本で一番有名な文学賞である芥川賞と直木賞は、最近また世間の注目を集めるようになったが、ふだん「純文学」などとは無縁に生きているインテリと亜インテリが、罪悪感から注目し、単行本になると買って読んだりするのだが、それがまた実につまらないものばかりが受賞する。(引用者中略)もしこれら「退屈な芥川賞受賞作」を現代文学の病理だと見るなら、その源泉を『蒲団』に求めるのは大いなる間違いである。だいたい、大塚(引用者注:大塚英志)が言うように私小説が今でも純文学の中心にあるなら、なぜ佐伯一麦、車谷(引用者注:車谷長吉西村賢太ら私小説作家はみな芥川賞をとっていないのか。

(引用者中略)

もっとも芥川賞に限らず、賞というのは当てにならないもので、私はずいぶん文学賞の受賞作を読んだが、賞に値すると思われるものは四割以下だったのではないかと思う。要するに、その時の選考委員との人脈とか、他の作品が減点法でつぶされたとか、功労賞的な意味あいのものが多いのだ。」(平成21年/2009年7月・平凡社/平凡社新書 小谷野敦・著『私小説のすすめ』「第四章 現代の私小説批判」より)

「やっかいなのは、「純文学」というような言葉であって、たとえば芥川賞は「純文学」の賞だけれども、受賞作のなかには、身辺雑記私小説や筋があるようなないような小説から、難解実験小説まで入っており、そのくせ選考委員には、通俗大河ロマンス作家がいたりする。」(平成13年/2001年1月・筑摩書房/ちくま新書 小谷野敦・著『バカのための読書術』「第六章 「文学」は無理に勉強しなくていい」より)

 芥川賞や直木賞によって決まる文学ジャンルの幅なんて、誰かがバシッと区切ったものでも、何でもないんですよね。その時々の風潮というか雰囲気というか流行りというか、何年かたつうちにどんどん変わる尺度と言いますか。

 しかも面白いことに、「純文学と大衆文学」と言うと、厳密な二項対立のように感じるのに、じっさいは対立概念ではなかったりもします。小谷野さん言うところの「インテリ、亜インテリ」に属さない人たちにとっては、両者を区別することはやっぱり難しい。「石原慎太郎って直木賞作家だよね」と記憶しちゃう人も、ふつうにいますし。

 で、その「どんどん変わる尺度」、プラス「結局、何が何なのかはっきりしない尺度」。そういうものが、短篇「純文学の祭り」の根底には、たしかにあるように思います。

 ええ、この感じ。ワタクシはこの小説を読んでいて、じっさいの直木賞が創設以来背負ってきた、ある宿命のことに思いを馳せてしまいました。

 ある宿命。……芥川賞とペアである、ということです。

 もうちょっと言い加えますと、つまり、直木賞一つしか存在していなかったら、まず言われなかっただろうセリフ、「直木賞ってさ、つまり、芥川賞とどう違うわけ?」と思われてしまう性質と言いますか。「直木賞とは第二芥川賞である」という考え方から、どうにも抜け出せない宿命、ってことです。

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2010年5月16日 (日)

直木賞とは……確実に一人の女性の人生を変えた。でも、一度は変えそこなった。――堤千代「青いみのむし」

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堤千代「青いみのむし」(『美貌』昭和22年/1947年10月号)

 直木賞選考会は合議です。委員たちが自説を述べ合い、その末に受賞もしくは落選が決まります。

 そういうものの常かもしれませんが、受賞の理由が何だったのか、もしくは選ばれなかった作品の落選理由が何だったのか。特定するのは、非常に難しいものです。

 当日の夜に行われる委員による記者会見だって、『オール讀物』にのる選評だって、つまりは「後づけ」ですしね。決定の場にいた委員それぞれが、それぞれの感覚でもって、受賞理由・落選理由を語っているだけのものです。時にその一つがピックアップされて、「公式の理由」として世間に流布したりすると、余計にホントの理由が何だったかのか、よくわからなくなるところがあります。

 「半落ち現象」、とでも呼べるんでしょうか。

 ええと、横山秀夫さんの『半落ち』が第128回(平成14年/2002年・下半期)の直木賞に選ばれなかった理由が何だったのか、ここでは掘り起こしません。ワタクシの知る限りでは、おそらく、受刑者がドナーとして骨髄を提供することができようができまいが、あの小説は落選していた可能性のほうが高い、ってことです。

 それより60年ほど前のおハナシ。直木賞に落選した一つの候補作・一人の候補者がいました。堤千代「小指」です。

 第11回(昭和15年/1940年・上半期)の受賞作「小指」ではありません。第10回(昭和14年/1939年・下半期)の候補として落選した「小指」です。

 あ、厳密には、堤千代の直木賞受賞作は「小指」だ、とは言っちゃいけないのかもしれませんね。昭和15年/1940年になって『オール讀物』に「雛妓」(4月号)、「賢ちゃん」(7月号)を発表したことで、ようやく受賞したのですから。それでも堤千代の「小指」は後世にいたるまで、彼女の直木賞受賞作ということになっています。そんな例は、川口松太郎「鶴八鶴次郎」と、彼女の二例しかありません。

 で、「小指」落選のことに触れる前に、今日のエントリーの対象作「青いみのむし」のことを言っておきます。

 堤千代が、「小指」発表前後のことを書いた文章は、きっと他にもあるかもしれません。もしかしたら、散逸する膨大な彼女の小説群のなかに、ポロッと語られているかもしれません。まだ探し出せていなくて、申し訳ないことです。

 それで戦後まもなく『美貌』誌に発表された「青いみのむし」を持ってきました。副題に「生いたちの記 「直木賞」の頃まで」と付いています。たぶん小説じゃなくて随筆の類です。

 ただ文中語られるエピソードの多くが、のちの自伝的短篇小説「父」(『別冊文藝春秋』37号[昭和28年/1953年12月])でも使用されています。「父」の原型といってもいい半小説です。

 たとえば、父の背に負われて行った花見のこととか。

「春の花見に一家中が出る時も私は、留守番であったが、その代り、その前に、父は必らず年に一度の花見に私を連れていく為に、役所を休んだ。」(「青いみのむし」より)

「私は体が弱かったので、家の者と外に出かけると云うことは滅多になかった。ただ、ときどき父が思いついたように伴れていってくれるのが愉しみであった。

 ある春の夕方だった。父は役所からいつもより早く帰ってきて、

「今夜お花見にいこう」

 と、言った。

 私は姉や妹達がお花見にいって写真を撮ったりするのが羨しくてならない所であった。」(「父」より)

 そういうなかで、小説「父」には語られていない箇所もあります。語り手が、自分で書いた小説を『オール讀物』に投稿する場面です。

「黒の縞模様の仲人の妻に手を引かれて、自動車のステップに、足を乗せる、角かくしの姉の振袖は――。美しい嫁入り事の真似は、どんなに、羨やましくても、もう、真似て、独り、戯むには、人目にも自分自身にも、心はづかしい年が私に来ていた――。

 何かを得たい。姉妹や周囲の持つ生活の姿に、空しく眺め入って、床の上に老いていってしまいたくはない。

 自分自らの生命の目的を、そのかけらでも、探り当てたい――。その願いが、いつか私を幼い時から、ともない慣れた、物を読み、書くと言うことに、はめ入れていった――。

(引用者中略)私は思うことを四十枚ばかりの原稿紙に書きつめて、白い糸で、綴じた。何処へというアテもなく、毎月取っていたオール讀物の、編輯部を、送り先にした。

(引用者中略)

 それから二週間も過ぎた頃であろうか。

 オール讀物の編輯部から電話が、掛って来た。いく度か、きゝ直して、呼びに来た女中の後から電話口に立つ私は、受話機を持たない方の手も、壁について、震えをとめていた。

「あの小説ですね、「小指」(記。「小指」は昭和十四年直木賞受賞作品となり氏の小説家生活を決定した。)は、大へんよく出来てる。十一月号にのせますからね、直ぐ、次のを書いて下さい……」

 と、電話の声は早口であった。」(「青いみのむし」より)

 それで、その嬉しさを、当日帰宅した父に話したのだけれど、予想したようには喜んでくれなかったのよね、うんぬんと続きます。

 父の反応についてはすっ飛ばすことにしまして。素人投稿家がですよ、はじめて『オール讀物』に送った原稿が褒められて掲載され、それが翌年には直木賞を受賞してしまった、というんですから。ふつうに考えても、これはもうあれです。シンデレラ・ストーリーです。

 しかも並の(?)シンデレラ・ストーリーと違うことに、堤さんの境遇がまた特殊と言いますか、泣かせると言いますか。先天性肺動脈障害で幼少のころより病弱、小学校にすら通うことなく過ごしてきた20歳そこそこの乙女。……そんな女性が幸運にもデビュー半年で受賞しちゃったわけですから、当然のように直木賞史に残る受賞者だったわけです。

 ああ。そういう女性が、現在あるようなあの暴力的な報道にまみれず、スッと直木賞を受賞できて、ほんとよかったなと思います。以下、当時の受賞を伝える『東京朝日新聞』の記事を引用します。もち、ベタ記事です。

直木賞受賞者 芥川賞は辞退

(引用者中略)

河内氏(引用者注:河内仙介は大阪生れ本名は塩野房次郎、大阪市立商業の出身で長谷川伸氏門下生、又堤さんは東京生れ、病身で小学校にも通わなかった独学者である

尚第十一回芥川賞は『歌と盾の門』の作者高木卓氏(本名安藤煕)(三四)に贈る筈だったが同氏が受賞を辞退したので今回は受賞者なしと決定、」(『東京朝日新聞』昭和15年/1940年8月1日より)

 高木卓さんの辞退の件も合わせて、このスンナリ感。新鮮です。

 ええ、高木卓芥川賞辞退も、堤千代「小指」周辺に負けず劣らず(いや、圧倒的にそっちのほうが)、のちに生きる人たちが、なぜ辞退したのかをめぐって、ああだこうだと語りたくなる一件です。

 むろん、芥川賞辞退のほうがテーマとしては面白そうなんですけど。ごめんなさい。ここはご存知のとおり直木賞偏愛ブログなもので。以下、堤千代「小指」はどうしてはじめは落選したのか、について、ああだこうだ語ります。

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2010年5月 9日 (日)

直木賞とは……幸せなうちはとれません。不幸になればとれるかも。死んじゃうぐらいの不幸が訪れれば。――曽野綾子『砂糖菓子が壊れるとき』

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曽野綾子『砂糖菓子が壊れるとき』(昭和41年/1966年1月・講談社刊)

(←左書影は昭和47年/1972年8月・新潮社/新潮文庫

 砂糖菓子といえば桜庭一樹。と思いきや、直木賞専門ブログのくせして、今日の主役は曽野綾子さんです。

 曽野さんと直木賞、がどうして重なるのか。……いや、重なりはしませんよ。

 それどころか、ご本人にとってはどんな文学賞とも重ねてほしくないでしょう。なにしろ、昭和文学史に何人か存在する「文学賞辞退者」のお一人ですから。

「私の身勝手な感覚によれば、賞をご辞退したのではない。精神的なものとしての賞は、感謝と共にお受けしたのである。ただ、制度としての受賞をお許し願ったに過ぎない。

 芥川賞の候補になって以来、今年で私の作家生活は二十六年である。その間ただの一度も賞と名のつくものを受けなかった。(引用者中略)初めのうちは私もごく普通にいつかは自分も賞を頂く日があるかも知れない、と思って来た。しかし次第に、自分が小説を書く上で、賞というものを考えるのは、不純な情熱だと思うようになった。」(『婦人公論』昭和55年/1980年11月号「受賞を辞退した私の真意」より)

 以上、第19回女流文学賞に『神の汚れた手』の授賞が決まって、その受賞を辞退したときの弁の一部です。

 ふうん、そんな辞退劇があったのか。という知識を得て、それより14年前に書かれた『砂糖菓子が壊れるとき』を読みますと、そりゃあ妄想がよりいっそう広がりますよね。

 ええと、この作はよく知られた小説です。文学賞うんぬんとの関連で有名なわけではありません。マリリン・モンローをモデルにした小説として有名です。

 舞台は全部日本、登場人物も日本人。でありながら、デビューにいたる経緯やら、野球選手との結婚・離婚、有名劇作家との結婚・離婚などの私生活やら、モンローと結びつく小道具が、おなかいっぱい取り揃えられています。

 しかし、ですよ。本作には、要所要所に「賞」が顔をのぞかせているんですよね。

 のぞかせている、なんてもんじゃありません。エンディング近く、主人公〈千坂京子〉の死体が発見されるのが、ちょうど〈日本映画賞〉審査会の日。彼女の主演した〈砂糖菓子が壊れるとき〉が、〈日本映画賞〉受賞と決まった、それと同じタイミングなんですから。

 そう。賞というのは、これです。〈日本映画賞〉。

 女優にとっては誇りであり、欲しい欲しいと切望するほどの名誉らしいです。

「五月に入って、日本映画賞の新人賞候補に選ばれているということを知ってから、私の幸福感は絶頂に達した。私は熱に浮かされたように、落ち着きをなくしてしまった。(引用者中略)

「京ちゃん。お前さん、羽鳥香子と何か気まずいことでもあったのかい?」

 羽鳥香子と言えば、スタジオで、一、二度見かけたことはあった。けれど私が気楽に声をかけられる相手ではなかった。羽鳥は、雅堂さんクラスの大女優だった。新聞社の論説委員の夫人で、四人の子供を持った知識人だった。

「私、お話したこともないんです」

「おかしいな、羽鳥はどうしてああも、お前さんに悪意を持ってるかね。今日の委員会では、あんなは羽鳥のために賞を逃したようなもんだよ。(引用者中略)

 何もかもミソクソさ。お前さんはデリカシーがなくて、趣味が悪くて、服装が不潔でだらしがないって言うんだな。ストリッパーと同じ要素の人気でもっているものを、あんたは、自分の演技だと思いこんでいるんじゃないか、と言うんだ。」」(『砂糖菓子が壊れるとき』「第六章」より)

 マリリン・モンローならぬ〈千坂京子〉は、観客の人気はうなぎのぼりだったけど、映画界からは評価されていなかった、と。ええ、モンローも賞とは無縁の人だったそうですからね。そういう境遇を際立たせるために、「賞」が登場してくるわけですか。なるほど。

 ただ、モンロー=〈千坂京子〉の等式があったとして、そこに、=曽野綾子、という見立てを加えてみたくもなるじゃありませんか。

 じっさい、そういう見方もなくはないようですしね。

「曽野綾子の三十代はほぼ鬱の状態だった。(引用者中略)ウツの最中に夫婦でヨーロッパ旅行に行った。(引用者中略)パリにいる時、マリリン・モンローが死んだ。睡眠薬の誤用、あるいは自殺の可能性もあった。新聞に死体収容所の発表として、彼女の身長、体重が乗っていた。曽野は、

「あたしと同じサイズ」

 と言い、私は、

「フィレでも屑肉でも一キロは一キロ」

 と答えたが、曽野のモンローは自分と同じ精神状態にあったと想像したのだろう。後に彼女はモンローをモデルにしたような、作品を書いた。」(平成21年/2009年2月・扶桑社/扶桑社文庫『椅子の中』所収 三浦朱門「解説」より)

 そうそう、本作はモンローがモデル、とはいえ、完全にモンローの生涯をなぞっているわけではありません。なぞっていない部分、その一つが「賞」と言えるでしょう。

 〈千坂京子〉は、日本映画賞新人賞をとれませんでした。でも、その後、少なくとも三つの賞を受けています。一つは「アメリカのエディソン賞の中で「その年最もその国の映画界で活躍した女優賞」」。一つは「日本映画協会主演女優賞」。一つは「ナポリ映画祭主演女優賞」。

 だけど、〈日本映画賞〉をとれていない、ということが、どうも重要なことであるらしいんです。最後の最後の場面で、大部屋女優時代からの友〈田宮春江〉が、〈京子〉の〈日本映画賞〉受賞を知ったところ。

「「砂糖菓子が壊れるとき」が日本映画賞を受けたという知らせがあった。

 私は二階の階段を、寝室まで一息にかけのぼった。

「京ちゃん! 日本映画賞よ」

 山にのぼったよ、と私は言いかけようとした。」(『砂糖菓子が壊れるとき』「第九章」より)

 山にのぼった……。〈日本映画賞〉とは、評価の頂点であり最高峰である、と。

 それを受けたと同時期に〈京子〉は死んでいた、というのも何かの象徴かもしれません。

 というのも、この物語には、「賞」に関わるあるフレーズが何度か登場します。何度か出てくるくらいだから、意味があるんでしょう。

 こういうものです。

「「君は当分、どんな賞も貰わないな」(引用者中略)「君は今、しあわせだと思われてるからだろうな」

 五来さんは無感動な口ぶりで言った。

「幸福な生活には芸術の香気は存在し得ないものという固定観念がある。だから君に不幸な出来ごとが起れば、多分賞はもらえるよ」」(『砂糖菓子が壊れるとき』「第八章」より)

 不幸になれば賞がもらえる……。ん? どこかで聞いたことがあるフレーズだな、これは。

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2010年5月 2日 (日)

直木賞とは……決定のニュースが翌日の新聞にデカデカと載ります。他の文学賞に比べて異常なくらい。――雫井脩介『犯罪小説家』

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雫井脩介『犯罪小説家』(平成20年/2008年10月・双葉社刊)

 なんで新潮ミステリー倶楽部賞でデビューしたのに、その後、一冊も新潮社から本を出していないのだ?

 で、おなじみの、雫井脩介さんです。

 平成17年/2005年1月、『犯人に告ぐ』で第7回大藪春彦賞を受賞しました。

 平成19年/2007年、『クローズド・ノート』と『犯人に告ぐ』が相次いで映画化されました。

 そこら辺りの経験が、ちょこちょこと盛り込まれたのが、満を持して放った『犯罪小説家』です。雫井さんの場合は、どの作品も「満を持して」の表現がぴったりくるんですけども。

「昨年は『クローズド・ノート』『犯人に告ぐ』が相次ぎ公開され、邦画業界に〈原作者〉として関わった雫井脩介氏。

「映画化にあたって上がってきた脚本に目を通すと、『へえ、あの小説がこんなふうに変わるのか』と毎回新鮮な驚きがありますね。

 別にそれが不愉快だって話ではないんですよ(笑い)。むしろ『なるほど』と感心することの方が多いんですが、彼らの感性や想像力が逆に原作者をどんどん困惑させる方向に向いて行ったらどうなるかというケースを書いてみました」」(『週刊ポスト』平成20年/2008年12月5日号「ポスト・ブック・レビュー 著者に訊け!」より 構成:橋本紀子)

 本作の中心人物は、作家の〈待居涼司〉、ホラー映画脚本家の〈小野川充〉、それとフリーライターの〈今泉知里〉の三人です。

 〈待居〉の書いた小説『凍て鶴』の映画化のハナシが進みます。そこに、過去に世間を騒がせたネット心中グループ〈落花の会〉のことなどがからんでいきます。〈小野川〉の無神経なほどの思い込みにひきずられるかたちで、ずるずると彼ら三人が〈落花の会〉主宰者の自殺や、それにまつわる事件に、関わり合っていきます。

 で、そんなあらすじなどは実はどうでもよくて(こらこら)、本作でも、また一つ文学賞がストーリー展開に大きな影響を与えているわけですよ。

 〈日本クライム文学賞〉です。

「待居はミステリー系の新人賞を受賞し、デビューしてから三年になる。『凍て鶴』はデビュー作から数えて五作目だ。(引用者中略)ほどなく、ミステリー系の新進作家の意欲作に贈られる日本クライム文学賞の候補に選出されたとの知らせが届いた。」(『犯罪小説家』「1」より)

 この文学賞、主催元は出版社の〈文格社〉。「ミステリー系の新進作家」向け、ということなので、むろん、現実の直木賞とは重ね合わせようもありません。

 しいて言うなら、まあやっぱり、大藪春彦賞ふうの賞なんでしょう。

 受賞後の記者会見もあるし、翌朝の新聞には出るし、すぐに重版一万部が決まるし。加えて、選考は春(4月ぐらい)で授賞式が5月中旬、ていう設定も、ああ、いかにもエンタメ文壇の新人賞らしさを演出しています。

 ただ、大藪賞よりはもうちょっと、「格が上」のような雰囲気もかもし出しています。

「仁山が選考委員席に退がると、賞状とトロフィーの授与があり、待居は壇上でそれらを抱えてカメラのフラッシュを浴びた。それに続いて受賞者の挨拶を求められた。

「待居涼司です。このたび、このような歴史ある賞をいただきまして身に余る光栄ですが、(引用者後略)(同書「9」より)

 これが〈待居〉さんのジョークでない限り、「歴史ある賞」というくらいですから、まあ、歴史があるんでしょう。

 ええと、さっきワタクシは「大藪賞より格が上」みたいに表現しました。べつに大藪賞のことを文壇内で格が低い賞だと言いたいわけじゃないんですよ。逆に、格だの何だのうんぬんするような、出版界の力学や作家の階層みたいなものから超越した賞であってほしいと、外野のワタクシは願っているのです。だって、大藪春彦の名を冠した賞なんだもの。

 それはともかくとして。

 本作に出てくる「直木賞」っぽいものに触れなくちゃ、ハナシは始まらないのでしたね。

 料理屋で編集者二人といっしょに、選考結果の報を待っていた〈待居〉。受賞の知らせを受けて、その足で記者会見の場に向かいます。そこに、こんな記述が出てきます。

「選考会場となっていた銀座のホテルには記者会見用の部屋が用意されていて、けっこうな数の記者が待居を待ち構えていた。この手の文学賞はよほど大きな賞でもない限り、一般紙ではベタ記事扱いが普通だが、学芸部の記者たちにとっては取材のトレーニングになるのか、受賞者への質問は微に入り細にわたる。待居がデビューした新人賞のときがそうだったから、心の準備はできていた。」(同書「1」より)

 そう、ほとんどの文学賞は、一般紙ではベタ記事です。その例をまぬがれている「よほど大きな賞」と言われて、思いつく賞は、今のところ二つしかありません。

 直木賞と芥川賞です。

 なるほど。これら二つの賞以外にも、けっこう受賞の記者会見というのは行われていて、でも、ほとんどの場合それが紙面に反映されることはありません。普通の感覚をもった人間が、「なんであの二つの賞だけ、やたらニュースになるんだ」と疑問をもつ所以です。

 そして、たまーに文学賞の受賞作をいくつか読んでみて、「なんだよ、新聞記事が大きいからって、そのぶんその文学賞が上等とか劣ってるとか、そういうことじゃないんだな」と、オトナは学習していくのでした……。

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2010年4月25日 (日)

直木賞とは……たとえるのが難しいなあ。プロ野球でいえば、芥川賞は巨人軍にたとえると、ちょうどいいのだけど。――尾辻克彦「元木」

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尾辻克彦「元木」(平成3年/1991年12月・講談社刊『出口』所収)

 今日もまたまた、横に少しだけズレまして、「小説に描かれた芥川賞」のことです。

 ええ。取り上げる小説「元木」そのものは、直木賞を標的にした直球じゃありません。ただまあ、作者が作者ですから。周辺には直木賞に関する王道ネタが転がっていますし

 そういうことを含めて、今日の主役は尾辻克彦さんです。

 ……にしても、この短篇「元木」。タイトルがそっけないので、見過ごしてしまいがちなんですが。読んでみれば、芥川賞をはじめとする文学賞ってヤツを、手のひらの上でゴロゴロ転がして楽しんでいるさまが伝わってくるじゃありませんか。完全なる「文学賞小説」です。

 雑誌初出時のタイトルは、「ドラフトの星」(『小説新潮』平成3年1月号)といいました。発売されたのは、前の年の暮れです。

 ちょうど世間では、プロ野球のドラフトが終わった頃。この年、元木大介が念願の巨人軍からのドラフト指名を勝ち取ったことに対して、ああだのこうだの、言われていた時期でした。

 「ドラフトの星」が掲載された『小説新潮』の同じ号から、ちょっと引いてみます。

「今年のプロ野球ドラフト会議も、悲喜こもごもの人間の姿を見ることになった。(引用者中略)8球団もの一位指名を受けながら、意中の球団以外に交渉権が渡り、現時点でプロ入りを拒否している大物投手、一年間浪人してまで、子供の頃からの夢であった巨人入りを果した者、また将来約束されているはずのエリートコースよりも、プロのマウンドに強く魅かれた東大生――他人はあれこれ勝手なことを言うだろうが、彼らの人生、ルールに反していない限り、悩み抜いた末の勇気ある決断を、暖かく見守ってあげたい。」(『小説新潮』平成3年/1991年1月号 福島敦子「福島敦子の取材手帳から(6) ドラフト制度に思うこと」より)

「元木大介(上宮高卒)が巨人入りした。私は元木が筋を通したとも、意地を貫いたとも思わない。元木はハワイでほぼ一年間トレーニングしたが、それが許される環境にあったということだろう。

 率直にいえば親に金がなかったり、財界に顔の利く後見人などがいなかったら、普通の高校生には無理だろう。」(同号 近藤唯之「野球巷談 プロってのは仕事だろ?」より)

 プロ野球に詳しくない人には、何のことだかサッパリですよね。

 つまり、元木大介という高校生が、巨人入りを熱望していた。でも、前年のドラフトでは、別の球団(ダイエーホークス)が交渉権を獲得してしまったため、それを断って一年、浪人生活を送った。翌年、晴れて巨人が交渉権を獲得してくれて、夢をかなえることができた。……ていう出来事があったわけです。

 尾辻さんの「ドラフトの星」改め「元木」は、この出来事に類する架空のハナシを、当事者の〈元木太介〉が語っている、という小説です。

 小説上の〈元木〉が憧れているのは、巨人軍ではありません。芥川賞です。

「高校の三年も終りに近づき、いよいよドラフトになった。

 優秀な作家が特定の文学賞や特定の出版社に集中しては、日本の純文学の振興がはばまれるというので、近年になって文学の世界にもドラフト制が採用されている。

 方法はプロ野球のドラフト制と同じようなものだ。高卒、大卒、社会人の若い作家志望の中から、各出版社の文学賞が指名をして、重なった場合は抽選とする。

 筆力の均衡をはかるには、たしかにこれはやむをえないことだな。

 でも一方で、作家の方からすれば、自分の力で文学をやるのに、何故自分の好きな文学賞をもらえないのか、ということになる。

 ぼくはもちろん、芥川賞にしか興味がない。

 子供のころからずうっと憧れつづけてきたのだ。

 芥川賞作家になって小説を書くのが夢だった。

 だから当然、芥川賞以外の賞はもらわないと宣言した。」(「元木」より)

 それ以降の展開は、ほぼ、実際の野球のドラフトでの流れと同じふうに描かれます。

 つまり、〈元木〉君が実際に指名されたのは、〈ダイエー文学賞〉なのでした。〈元木〉君はどうしても芥川賞が欲しいので、これを断り、「ナマイキだ」「ワガママだ」とさんざん新聞に叩かれます。

 ……この小説では、プロ野球の球団名+文学賞、というのがいくつも登場してくるんですね。ダイエー文学賞、阪神文学賞、ロッテ文学賞……。

 その中に、現実の文学賞の名前がまぜこぜになっているのが、またイイ味をかもし出しています。

「今回のドラフトでは小池さんが可哀相だった。大学文学で鳴らしたあの小池さんで、どの出版社も目をつけていた。

 小池さんも逆指名をしていた。ぼくみたいに一本ではなく、小池さんの場合は芥川賞か、三島賞か、泉鏡花賞をといっていたのだけど、結果はロッテ文学賞になってしまった。」(同「元木」より)

 ちなみに三島賞というのは、比較的新しい賞なのだそうで、何年か前、〈清原〉が指名された賞らしい。〈清原〉もまた、芥川賞をとりたがっていたが、やむなく三島賞ということになってしまった。しかし、いまでは〈清原〉は三島賞作家のスタートして、ベストセラーを連発しているという……。

 小説「元木」では、プロ野球ドラフト制度と、純文学の世界とを、交差させてパロっているわけです。ここに大衆文学の賞は登場しません。

 現実には、純文学の賞とエンタメ小説の賞なんて、境があるようでないも同然ですから、そこら辺もからめてパロってほしかったなあ。などと、パロディ作品に注文をつけるなんて無粋でしたね、すみません。

 巨人軍=芥川賞。っていう見立ては、今となっては、すでに誰かがやってそうな構図だな、と思えるぐらい、たしかにバチッとはまります。

 昭和20年代~昭和50年代ごろまでは、多くの人の目がそこに集中していて、「頂点」であり「憧れのマト」であったりしたものが、今や無惨に落ちぶれた(いや、他のものとの違いがなくなってきた)とか。マスコミは、そこにばかり群れたがる(これも近年、瓦解しつつありますが)とか。

「むかし深沢七郎さんが川端賞を断わった。深沢さんは谷崎賞をもらうために川端賞を断わったのだけど、別にワガママだとはいわれなかった。ぼくが芥川賞を逆指名してダイエー文学賞を断わったのと同じことなのに、ぼくの場合はワガママだといわれる。相手が芥川賞だからだな。

 いまの世の中にはアンチ芥川賞の人がかなりいる。何故か知識人といわれる人に多い。とくにむかし左翼だった人。」(同「元木」より)

 あるいは、両者が拠って立つ「プロ野球」と「純文学」の、人気の衰えぶり、ってことでも、重ね合わせることに不自然さを感じません。

 ただ、ここで厄介なことがあります。芥川賞には、直木賞っていう、薄気味悪い弟分が、べっちょり背中に貼りついているんですよね。

 芥川賞が巨人軍、三島賞が西武、とするなら、直木賞は何なんでしょうか。

 二軍? プロ野球解説者? あるいはサッカーのチーム? ……どれも、うまいたとえとは、言えそうにありません。

 厄介だ。ああ、厄介だ。直木賞が属するはずの世界は、芥川賞のそれとは、確実に違う、かと思わせておいて実は同じ。でも、多くのひとにとっては、そんなもの区別がつかないし、つけようとも思っていないから、芥川賞は多くの人の目にはっきり映るが、直木賞は、何となくぼんやりと、その付近にある感じ。

続きを読む "直木賞とは……たとえるのが難しいなあ。プロ野球でいえば、芥川賞は巨人軍にたとえると、ちょうどいいのだけど。――尾辻克彦「元木」"

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2010年4月18日 (日)

直木賞とは……そんなものとったくらいで、売れてるわたしより、どうして優遇されるのよ!――西村京太郎『女流作家』『華の棺』

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西村京太郎『女流作家』(平成12年/2000年5月・朝日新聞社刊)、『華の棺』(平成18年/2006年11月・朝日新聞社刊)

(←左書影は上が『女流作家』平成14年/2002年8月・朝日新聞社/朝日文庫、下が『華の棺』平成21年/2009年4月・朝日新聞出版/朝日文庫

 ゴシップふうのネタというのは、何が真相なのか、たいていわかりません。

 たとえば、「こういうふうにエッセイに書かれていた」とか、「本人がインタビューにこう答えていた」とか、「文芸評論家の調査によると、何何であることがわかった」とかがあれば、ワタクシも信じちゃいます。でも、いかに真実っぽいことであっても、まあ、後世、あらたな資料によってひっくり返されることは、しばしばです。

 エッセイ・日記・手紙のたぐいですらそうなのですから、モデル小説など言わずもがな。

 「これは虚構ですからね」と、あえて弁明されなくても、これを本当にあったことだと妄信するのは危険です。

(引用者注:林真理子 作家に対してどこまでが本当ですか、と聞くぐらい野暮な質問はないですけど、このご本(引用者注:『女流作家』)、かなり真実に近いんですか。

西村(引用者注:西村京太郎) あくまでも小説です。」(『週刊朝日』平成12年/2000年4月21日号「マリコのここまで聞いていいのかな」より)

 でもですね。下世話なハイエナ野郎からしてみれば(いや、上品な読書人だって)、この小説を純粋に虚構のおハナシとして通読することなど、まず無理、っていうつくりになっているんですよねえ。京太郎さんご自身、「編集者はみんな知っていること」と言っているわけですから。こんなに濁して書かずに、もう少し事実っぽく書いておいてほしかったな。勝目梓『小説家』みたいに。

 まあ、「あくまで小説」ってことですから。こちらも「あくまで想像」で立ち向かいますか。

 『女流作家』と『華の棺』の主人公は、〈江本夏子〉。女流推理作家。彼女をとりまく、恋のさやあてだの、あるいはライバルであり親友、〈矢木俊太郎〉との、つかず離れずの愛情めいたものだの、そういうことは、別の方におまかせします。

 うちのブログでは、当然、文学賞まわりに関することのみ取り上げます。

 まずは、K社後援の〈ミステリー文学新人賞〉。

 〈夏子〉に好意をもって接してくる推理文壇の売れっ子、〈松木淳〉。彼が審査員を務める〈ミステリー文学新人賞〉に、〈夏子〉は「海の沈黙」という原稿を応募します。〈夏子〉の大学時代の同級生、〈多島弥生〉がすでにこの賞をとっており、彼女へのライバル心もあってのことでした。

 しかし、〈夏子〉の作品は落選しちゃいます。あれだけ「君の作品を受賞させる」と言ってくれていた〈松木淳〉が、当日、選考会に欠席。しかも、書面回答でも、〈夏子〉の作品を推していなかったらしい。

 それでも、「海の沈黙」は、このまま埋もれさせるのは惜しい、ということでK社から単行本化されることになります。

 そもそもこれが、〈江本夏子〉無冠の作家人生の、はじまりなのでした。

「本の何処にも、当然だが「ミステリー文学新人賞受賞作」の文字は無い。

 何かこの本が、あまり祝福されずに生まれてきた私生児のような気がした。

 きっと、賞に関係のない、次点作家というコンプレックスがついて廻るのではないか。

 そんな不安というか、怯えに似たものを夏子は直感していた。」(『女流作家』「第二章 不安な門出」より)

 そう。賞に対するこだわり。あるいはコンプレックス。というのは、山村美紗さんを語るうえでは、外せないことらしいです。

「彼女と、一年に一度(或いは二度)、必ずする会話があった。

「ねぇ、西村さん。私とKさんとどっちが作家として上かしら? 教えて」

「もちろん、君に決まってるじゃないか。Kは、雑誌にも殆ど書いてないし、本もここんところ出ていない。君の方は五誌に連載していて、本も去年一年で十冊は出しているだろう」

「でも、KさんはR賞を貰ってるわ。私の方は何の賞も貰ってないんだから、彼の方が上じゃない?」」(『週刊朝日』平成8年/1996年9月27日 西村京太郎「独占追悼手記 山村美紗さんはボクの女王だった」より)

 たしかに山村美紗さんは、何度も江戸川乱歩賞に挑戦して、結局とれずじまいでした。『女流作家』の〈夏子〉は、応募した一作目が最終候補に残って刊行までされた、などというある意味幸運なデビューでしたが、じっさいの美紗さんは、足かけン年、欲しくて欲しくてそれでもとれなかった、という状況だったようです。

「中学校教員を経て、主婦のかたわら推理作家を目指していた山村氏も、江戸川乱歩賞を目指すひとりとして熱心に投稿していた。よく知られているように、最終候補には三度残っている。一九七〇年の『京城の死』、一九七二年の『死の立体交差』、そして一九七三年の『ゆらぐ海溝』である。惜しいところで受賞は逃したが、『ゆらぐ海溝』のトリッキィな趣向を惜しんだのが選考委員のひとりだった松本清張氏である。氏の推薦もあって、『ゆらぐ海溝』は『マラッカの海に消えた』と改題のうえ刊行された。(引用者中略)

 しかし、山村氏の江戸川乱歩賞への挑戦は、じつはそれ以前からスタートしていたのだ。確認できたものでもっとも早いのは、一九六三年の第九回で、予選通過二十八作のなかに山村美紗氏の『冷たすぎる屍体』がある。(引用者中略)

 一九六五年の第十一回でも、予選通過三十六作のなかに山村氏の『歪んだ階段』があった。ただ、作者名が「山村美沙」となっているが、これは誤植だろう。さらに、一九六七年の第十三回には、『崩れた造成地』を投じている。」(平成14年/2002年12月・光文社/光文社文庫『京都・宇治川殺人事件』所収 山前譲「解説」より)

 じつに『マラッカの海に消えた』刊行まで、10年ごしの粘りです。

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 ご本人いわく、最初は江戸川乱歩への憧れから、だったとか。

「私が、江戸川乱歩賞に応募しようと思いたったのは、小さいときから、江戸川乱歩先生にあこがれていたからである。

 もし、当選したら、受賞パーティで、お目にかかれる、声もかけてもらえるかもしれないと思うと、考えただけで胸がわくわくした。

 しかし、私は、とうとう先生にお目にかかれずじまいだった。」(平成5年/1993年10月・光文社/光文社文庫『山村美紗の事件簿』所収「乱歩と私」より ―初出『江戸川乱歩推理文庫』昭和63年/1988年10月・講談社刊)

 第9回(昭和38年/1963年)の段階では、乱歩はまだ生きていたわけですしね。美紗の応募動機は案外、ほんとに「乱歩愛」だったのかもしれません。

 その後、乱歩の死に接して「しばらくは、原稿を書く気力を失ってしまった」そうです。それでも、やっぱり乱歩賞に挑戦し続けたのは、これもまた、美紗にいわせれば「乱歩愛」だったらしくて。

「乱歩先生にはお会い出来ないけど、江戸川乱歩賞と名がついている賞をとりたかった。

 結局、私はとることが出来なかったけど、今は、乱歩先生がきっかけで、推理小説を書くことになったことに満足している。」(同「乱歩と私」より)

 『マラッカの海に消えた』の刊行は昭和49年/1974年のこと。果たしてこのとき、美紗さんも、「○○賞受賞」でなかったことが、「祝福されずに生まれてきた」と感じてしまったのかどうか。

 賞出身作家が王道であって、それ以外は常にのけ者。というのは、もちろん美紗さん…いや〈江本夏子〉の大いなる被害妄想なわけですが、でも、そう感じる人間を生み出してしまうほど、中間小説誌や新聞広告は、もう賞・賞・賞のオンパレードだ、というのも事実でしょう。

 ほら。『オール讀物』は「直木賞」作家であることをことさら強調した誌面・広告をつくるし、『小説現代』は「乱歩賞」作家の陣営でかためてくる。

 無冠であることの阻害感。……みたいなものを〈江本夏子〉が、強烈に意識する場面が、「第四章 ハイビスカス」に出てきます。

 〈日本文芸賞作家 池田要〉の威力を、見せつけられる箇所です。

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