« 2026年8月 | トップページ | 2026年10月 »

2026年9月の4件の記事

2026年9月27日 (日)

昭和33年/1958年、小田武雄、講演会で松山に来た今日出海からオール新人杯を授与される。

 東京にはたくさんの出版社があります。直木賞をとりまく商業小説のあれこれも、そのほとんどが東京に集まっています。

 そのおかげで、東京ではない土地に住んでいる人が候補になったり受賞したりすれば、それはそれで話題になりますし、受賞作を出した雑誌とか出版社とかが東京以外に本拠地をもっていれば、なおさらです。昔から現在までそういう例は、なさそうでありそう、ありそうでなさそうな微妙なラインと言ってもよく、うちのブログもいつか「東京以外の直木賞」ということをテーマにしてみたいなとも思います。

 それはともかくです。来年の5月頃までは「直木賞と講演会」をテーマにして調べを進めていくつもりですけど、講演会ネタというと、「東京以外」のハナシがけっこう多いのはたしかです。

 それは、直木賞と講演会というと、真っ先に来るのが文藝春秋の文化講演会ですから、当然といえば当然といえるかもしれません。文春の講演会は、日ごろお世話になっている作家や評論家たちに向けて文春が提供する慰安旅行のサービス、という面があります。おのずとエピソードは、東京を離れた旅行先での出来事、という風合いが多くなりますし、紀行文とか、地方の歴史にからめたハナシとか、講演会にかこつけて、そういうエッセイを残す作家も、ちらほら見かけます。

 では、彼ら東京からやってくる作家を迎え撃つ、地方在住の人たちはどうでしょう。

 雑誌や本でしか名前を知らない有名な先生が、自分たちのまちにやってくる! じかに接したい、この目に生きた姿を焼きつけたい、と思った人たちも多かったことでしょう。手軽に遠距離を移動できるわけではなかった時代の人なら、当然の感情です。

 今回取り上げるのは愛媛県です。

 いまから60年も70年も前の1950年代、愛媛に住みながら直木賞の候補に2度ほど挙げられた作家がいます。小田武雄さんです。

 大正2年/1913年生まれといいますから、最初に直木賞候補になった第38回(昭和32年/1957年・下半期)の段階で44歳です。それまでは会社員や教員を務めながら俳句の世界でひそかに活動をつづけていたようですが、戦後は散文の、しかも純文学ではない大衆文芸=歴史小説にも軸足を伸ばして、サンデー毎日大衆文芸懸賞ではしばしば入選するほど評価を受けます。

 勢いはさらに他の雑誌にも波及して、いずれも公募型の懸賞応募ではありましたが、第4回小説新潮賞を「舟形光背」で、第11回オール新人杯を「紙漉風土記」で受賞します。オール新人杯といえば、直木賞にびっちり直結したコンクールでしたので、昭和32年/1957年12月号の『オール讀物』に載った受賞作がそのまま、文藝春秋新社の予選を通って直木賞の候補に挙げられました。

 直木賞の候補はともかく、オール新人杯についてはれっきとした受賞者です。通常であれば選考委員たちも出席のうえで、主催者から受賞杯やら賞金やらをもらうようなイベントが行われてしかるべきだったんですが、小田さんは当時、生まれ故郷の愛媛県松山市に住んでいました。

 松山と東京。いまとは違って、そうやすやすと行ったり来たりできる距離ではありません。このとき小田さんは、東京の文藝春秋新社を訪ねることもなく、地元松山にとどまっていたと言います。

 ではどうしたか。

 小田さんの受賞を決めた5人の選考委員、梅崎春生さん、今日出海さん、富田常雄さん、浜本浩さん、吉田健一さんのうち今さんが、文春の文化講演会で四国を旅するというので、小田さんに渡す賞品・賞金を携えて愛媛にやってきます。

「新人杯の受賞は道後温泉の鮒屋旅館で、折よく文芸春秋の講演会に見えられた今日出海先生の御手から戴くことが出来た。小野詮造編集長立会いである。その時、今先生は身に余る過賞と激励を下さつた。その折、先生は「何事も職業となるとむずかしいもんです」と仰言られたが、この言葉はその時も今も私の肝に銘じている。」(昭和33年/1958年9月・東京文芸社刊『代表作時代小説 昭和33年度』所収、小田武雄「紙漉風土記 作者のことば」より)

 「講演会」というのは、人が壇上に立って多くの人に何かを語るものですが、ただそれだけの行事ではない、ということがわかるエピソードです。講演者にとっては、多くの場合それは旅行とセットとなり、また時には懸賞小説……文学賞の贈呈までも付いてくる。人が物理的に移動するというのは、何かといろいろなものを孕んでいます。

 まだ、素人作家に毛が生えたような小田さんも、直接、今日出海さんとか、文春の小野さんと会って、おそらく感激したんでしょう。その後、「紙漉風土記」を含む作品集『うぐいす』が、第41回直木賞(昭和34年/1959年・上半期)でもう一度候補になって、思うところがあったものか、ふるさとを離れて東京に居を移します。

 今日出海さんが言ったという「何事も職業となるとむずかしいもの」という言葉を、小田さんはどのように理解し、消化し、受け入れて上京したのか……。その心境はまったくわかりません。出版社の集まる東京にやってきて、意に沿う仕事、沿わない雑事、もろもろ波に流されながら亡くなるまで文筆生活を続けた、と伝えられています。

| | コメント (0)

2026年9月20日 (日)

昭和43年/1968年、直木賞をとった野坂昭如、憧れだった文春文化講演会に参加する。

 基本、職業作家は人気商売です。小説を書いて、多くの人に本を買ってもらう。それが自身の生活費になります。

 「小説を書いて発表すること」そのものは、べつに客商売でも何でもありませんが、それを商業出版社を介して作品を売るということになれば、途端に人気が生活を左右します。不思議な世界です。

 こういう職業作家像の成り立ちに、リキを入れて取り組んだのが菊池寛さんで、文藝春秋社に勤める人たちも菊池さんの方針のもとで働いていましたので、そういう中から生まれた直木賞は、当然といいましょうか、職業作家に贈られる(ないしは贈ったあとに職業作家になる)ことを念頭においています。

 その前提がベースにあるので、とうてい職業作家としてやっていけそうもない人が受賞すると、あれはないんじゃないか、選考がおかしいんじゃないか、などとまわりにいるクソみたいな連中がツバを飛ばして批判する……という極上の風景が展開されたりします。佐藤得二さんが受賞したときとか。千葉治平さんのときとか。まわりを巻き込むいざこざは、はたから見るとやはり面白いです。

 直木賞を楽しむためには、じっさいに小説家になって候補になりそうな界隈に身を置くよりも、ちょっと距離をとった場所からその様子を眺めるほうがいい、と確信するゆえんなんですが、そんなこと言っても世の中には、作家になりたい人や直木賞をとりたい人はたくさんいるでしょう。何に興味をもって何を優先させるかは、人それぞれです。

 第58回(昭和42年/1967年・下半期)に直木賞を受賞した野坂昭如さんも、小説を書いて生活することに強烈な憧れを持っていた、と伝えられています。

 小説なんか書かなくって、人前に出ていって目立つことをやるのはやめられない、雑文・戯文を書く能力に長けていたのでライター稼業を続けたって食うには困らなかったでしょう。それでも当時まわりにいた人たちは(というか日本じゅうの風潮として)電波やら映像の世界に携わっていても尊敬されず、出版の世界でも短い文章をチョコマカ書いたところで、文芸誌・読物誌に名前がバーンと出ている小説家より立場が数段落ちる……と言っている。野坂さん自身もまた、その状況をみっちり実感して、「文壇で活躍する小説家」に憧れていたらしいです。

 ということで「講演会」の出番となるわけですが、なんで小説家に対する憧れと講演会が結びつくのか。まったく不思議なハナシですけど、野坂さんの感覚のなかでは、講演会……とくに文春主催の文化講演会というものが「文壇の小説家」の象徴のように見えていたからです。

 『文壇』(平成14年/2002年4月・文藝春秋刊)から一節を引いてみます。

「(引用者注:直木賞の)受賞後、原稿の注文が増えると聞かされていた。すでに、いわゆる三誌のうち二誌に毎月執筆の感じだったが、変化はインタビュー、対談、講演会講師の注文殺到。(引用者注:昭和43年/1968年)四月、文藝春秋主催文化講演会を依頼された。これで受賞の実感が少し湧いた。ほぼ毎月の印象で、この講演会に伴った編集者の、随行記が本誌見開き二頁で掲載され、会場となった町の描写、聴衆の反響はともかく、講演後、講師ともどもドンチャン騒ぎをするらしい。

(引用者中略)

二十年代の半端仕事、三十年代初期のラジオ・TV時代、小説家を羨ましく思ったかなりの部分に、この賑々しい宴会があった。」(野坂昭如・著『文壇』より)

 この引用箇所のうしろでは、実際に昭和43年/1968年4月、講演会旅行に出かけたときのことも出てきます。開催地は宮崎、大分、別府で、同行の講師は今日出海さんと開高健さん。そちらの記述でも「憧れの、「文藝」ではなく「文化講演会」」というふうに表現されています。

 この引用箇所のうしろでは、実際に昭和43年/1968年4月、講演会旅行に出かけたときのことも出てきます。開催地は宮崎、大分、別府で、同行の講師は今日出海さんと開高健さんだったそうですが、そちらの記述でも野坂さんは「憧れの、「文藝」ではなく「文化講演会」」というふうに表現しています。

 公衆の面前でべらべら、あることないことしゃべるのは、野坂さんの得意技です。おそらく直木賞受賞直後の興奮もあいまって、各地では大いに盛り上がったのだろう、と思います。

 そんな講演会に出ることに憧れて作家生活に入った人間を、邪道とみるか王道とみるか。これもまた見る人によってさまざまな感想がありそうですけど、ワタクシ自身は、こうして直木賞をめざし、直木賞を利用してくれる人がいたことが、心から嬉しいです。

 だれしも人生一度っきり。まわりがどう思おうが、どんな動機であろうが、小説を書きたい人は書きゃいいし、小説を書かずに満身直木賞を楽しみたい人はそうすればいいんだと思います。

| | コメント (0)

2026年9月13日 (日)

昭和47年/1972年より始まった文藝春秋の海外文化講演会で、直木賞受賞者たちが重宝される。

 昭和40年代、1960年、70年代は日本にとってどんな時代だったか。……という問いがあったとすれば、その答えのなかに確実に入ってくるのが「国際化」です。

 一度、海の外に乗り出そうとして思いっきり失敗し、敗戦の宣告を突きつけられてから10年、20年。もう一度、日本人の誰それ彼それが海の外に対する憧れを抱き出して、チャレンジしようと立ち上がります。

 そんな熱い思いが、狭っ苦しい文壇のなかでピーピーやっているだけの直木賞にも、確実に影響が現われた……みたいなハナシはうちのブログでも以前取り上げたような気がします。五木寛之さんの「さらば、モスクワ愚連隊」による登場が昭和41年/1966年の頃ですから、まあそんな時代です。

 直木賞……というか、読み物文芸の世界と言い換えてもいいんですけど、そういった分野で仕事している作家や編集者が、日本だけじゃなくて海外、外国、海の向こうを取り入れようとした、ということはどういうことか。商業をやっている出版社がそっちにも手を広げようとした、ということです。もちろんそうです。直木賞がそれ自身単独で何か新しい方向に行くはずがなく、その背景には日本社会全体の動きと何かしらリンクしています。

 というところで注目したいのが「講演会」です。

 講演会をどこでやるか。自分の住んでいる近くの会場、あるいは少し遠出して数泊しながら巡回する。いろいろな形態で発展してきたなかで、世に国際化の波が押し寄せたタイミングで、やっぱり講演会も日本を飛び出します。海外です。

 何の使命にかられたのか、文藝春秋は戦前の菊池寛さんの頃から必死に毎年講演会をひらいていました。うちのブログでもたびたび触れているのは、それは直木賞も、その「文化講演会」の試みも、菊池さんやら佐佐木茂索さんやらその他、周辺にいた文春社員たちの手によって事業化されたものだからです。

 その文春が、全国各所のみならず海外に講演会の会場を求めたのは昭和47年/1972年の年からでした。こんな感じです。

日程 講演名 場所 講師
昭和47年/1972年
6月16日~28日
『文藝春秋』創刊50周年記念文化講演会 ロンドン、デュッセルドルフ、アムステルダム、ミラノ、パリ
  • 司馬遼太郎
  • 江藤淳
  • 池島信平
昭和49年/1974年
10月19日~26日
海外文化講演会 サンフランシスコ、ロサンゼルス、シカゴ、ニューヨーク
  • 柴田錬三郎
  • 城山三郎
  • 山崎朋子
昭和51年/1976年
10月19日~26日
海外文化講演会 バンクーバー、メキシコシティ、ロサンゼルス、ホノルル
  • 高木俊朗
  • 戸川昌子
  • 村上元三

 ちなみにこのあとも、同様の海外での講演会はまだまだ開催されていくんですが、ひとまず今週は最初の3回のみを挙げておきます。

 これを見てわかることといえば、直木賞の受賞者のほうが、もう一つのアクタなんちゃら賞より重宝されていることです。

 海外向けの講演会は、現地にいる日本文化・日本文学に関心のある外国人も想定された聴衆の一群ではあったみたいですが、基本的にはそれらの地域に住む邦人の駐在会社員、学生などが主たる対象です。

 ハナシによればどの会場も大盛況で、パリでは800人が集まり入場制限がかかった、とも言います。日本の地方都市の人口ぐらい、当時すでに海外の街には日本人が住んでいた……といえるかどうかはわかりませんが、ただ、日本の情報や文化に飢えた気持ちの邦人に、文学のこむずかしいハナシよりも、もう少しくだけた話題を提供できる、しかも名前も知られている有名作家を連れていきたい! となったときに、おのずと直木賞の受賞者たちにお声がかかったんでしょう。直木賞、やってて無駄じゃなかったんですね。

 ちなみに、このとき海外での講演会を仕掛けたトップは、社長の池島信平さんでしたが、池島さんには講演会について綴ったエッセイがあり、こんなことを書いています。

「テレビがいくら普及しようが、やはりナマの話やナマの印象は強いものである。文芸講演会という形式は、これからも地方の人々によろこばれ、つづいてゆくことだろう。」(昭和48年/1973年6月・文藝春秋刊、池島信平・著『池島信平文集』所収「文芸講演」より ―初出:『中部日本新聞』昭和36年/1961年6月14日)

 テレビの普及から、いまではインターネットの普及になりましたが、文芸に関する講演はいまでもいろんなところで行われています。直木賞はそのうち廃れていくだけの右肩下がりの運命かもしれませんけど、講演会にそんな日が来ることは、相当遠い未来までなさそうです。

| | コメント (0)

2026年9月 6日 (日)

昭和58年/1983年、近ごろは面倒になって講演の話もほとんど断わっている、と池波正太郎はいう。

 「講演は、その人を映す鏡」ということわざがあります。

 ほんとうに、そんなことわざがあるんでしょうか。だいたい、こういうカッコつけた書き出しをするもんに、ロクなヤツはいない、というのが人間社会の真理でしょう。ワタクシは、文学賞に興味をもっている段階ですでにロクな者ではないんですが、これよりさらに人間のレベルが下がらないように気をつけたいと思います。

 さて、そんなハナシはどうでもいいです。直木賞の受賞者、候補者、選考委員は、もはや誰も調査し尽くせないほどの講演を、さまざまな土地で、さまざまな人たちに向けてやってきているわけですが、講演会というものにどう相対するか、その姿勢は十人十色、おのずと個性がにじみ出ます。

 たとえば今週取り上げる池波正太郎さんは、後年たくさんの人に読まれたエッセイからもうかがえますけど、まあ、個性のカタマリのような作家です。

 大正生まれの戦前育ち、苦労しながら劇作そして小説創作を勉強しはじめ、新鷹会のお兄さんがたの猛烈な期待をしょい込むかたちで、第43回(昭和35年/1960年・上半期)直木賞を受賞します。

 その後、中間小説誌、あるいは週刊誌全盛時代の申し子の一人として、多くの読者に愛される人気作家となっていくんですが、こうなると小説書き以外にもさまざまな仕事が舞い込んでくるのが世の習いです。池波さんのところにも、講演の依頼がいくつかやってきて、「おれはそんな面倒なもんは受けねえ!」などと、タンカを切るほど我がままではなく、頼まれればネタを用意して、与えられた時間はまじめにこなす。律儀なところを発揮します。

 律儀というか、あるいは不器用だったのかもしれません。講演に呼ばれていくときの自分の姿勢を、池波さんはこんなふうに書いています。

「私は、目的以外のことを、

「ついでにやる……」

ことができない。

たとえば、出版社の講演旅行を三、四日つづけるとなれば、講演以外の事は絶対にしない。

講演する土地が、いま自分が執筆している小説の舞台になってい、見たり調べたりすることがあっても、ついでにはやらない。あらためて今度は取材のために同じ土地へ来る。」(昭和56年/1981年7月・新潮社刊、池波正太郎・著『旅は青空』「アルルの酒」より)

 ついでにやる、という気持ちじゃなくて、講演と取材、二つの仕事を同じくらいの温度感でやればいいだけのハナシなのでは……と思わないでもありませんが、人間、そう簡単に気持ちがつくれるものじゃない、というのもわかります。それだけ講演のときは、講演のことで頭をいっぱいにして集中する、ということなんでしょう。

 おなじみ文藝春秋の文化講演会にも何度か呼ばれました。自作で舞台にした土地からは、先生、ぜひ来てくださいと言われて、忙しい執筆のあいまを縫って、旅をしたりもしました。はなから講演を毛嫌って、なるべくそういう雑事から逃れたい、ということでもなかったようです。

 しかし、池波さんは1980年代ごろには、講演の依頼を極力断わるようになった、と言っています。自己分析によると、それは年齢ゆえのことのようです。

「人にもよるだろうが、私の場合は、小説を書いて暮していると、どうしても人びととの交際がおろそかになってしまう。

それでも若いうちは、酒を酌みかわす友人もいたし、つきあいの時間も現在よりは豊かだった。

しかし、齢をとるにつれて、そうしたことが、だんだんに面倒となり、酒飯のつきあいのみではなく、たとえば講演のようなものをたのまれても、十年ほど前までは年に七、八回は出かけていたのに、ちかごろはほとんど断っている。」(平成15年/2003年6月・講談社刊、池波正太郎・著『作家の四季 池波正太郎未刊行エッセイ集5』所収「年賀状」より)

 このエッセイが収められた『作家の四季』によると、これは昭和58年/1983年に書かれたもののようで、池波さんはおおよそ60歳ごろ。まだそんなに老け込む年でもない気がしますが、年をとるにつれて若い頃には何でもなくこなしていたことが徐々に面倒になる、という気持ちはよくわかります。それから7年ほど、池波さんは生きましたが、つまり50代後半から亡くなるまでの晩年は、ほとんど講演というものに出なかったそうです。

 50代後半からの晩年……ということで思い出されるのが、池波さんが直木賞の選考委員をやっていた時期です。

 池波さんが選考委員になったのは、まさにちょうどその頃、第86回(昭和56年/1981年・下半期)からですから、58歳のときです。そもそもが律儀な人だったらしいので、候補作はきちんと読み、選考会ともなれば相当真剣に向き合った、と伝えられていますが、何といっても、講演に行くのも面倒になっちゃった頃に引き受けたお役目です。きっと直木賞も面倒なことの一つだったんじゃないか、と申し訳ない思いでいっぱいです。

| | コメント (0)

« 2026年8月 | トップページ | 2026年10月 »