昭和33年/1958年、小田武雄、講演会で松山に来た今日出海からオール新人杯を授与される。
東京にはたくさんの出版社があります。直木賞をとりまく商業小説のあれこれも、そのほとんどが東京に集まっています。
そのおかげで、東京ではない土地に住んでいる人が候補になったり受賞したりすれば、それはそれで話題になりますし、受賞作を出した雑誌とか出版社とかが東京以外に本拠地をもっていれば、なおさらです。昔から現在までそういう例は、なさそうでありそう、ありそうでなさそうな微妙なラインと言ってもよく、うちのブログもいつか「東京以外の直木賞」ということをテーマにしてみたいなとも思います。
それはともかくです。来年の5月頃までは「直木賞と講演会」をテーマにして調べを進めていくつもりですけど、講演会ネタというと、「東京以外」のハナシがけっこう多いのはたしかです。
それは、直木賞と講演会というと、真っ先に来るのが文藝春秋の文化講演会ですから、当然といえば当然といえるかもしれません。文春の講演会は、日ごろお世話になっている作家や評論家たちに向けて文春が提供する慰安旅行のサービス、という面があります。おのずとエピソードは、東京を離れた旅行先での出来事、という風合いが多くなりますし、紀行文とか、地方の歴史にからめたハナシとか、講演会にかこつけて、そういうエッセイを残す作家も、ちらほら見かけます。
では、彼ら東京からやってくる作家を迎え撃つ、地方在住の人たちはどうでしょう。
雑誌や本でしか名前を知らない有名な先生が、自分たちのまちにやってくる! じかに接したい、この目に生きた姿を焼きつけたい、と思った人たちも多かったことでしょう。手軽に遠距離を移動できるわけではなかった時代の人なら、当然の感情です。
今回取り上げるのは愛媛県です。
いまから60年も70年も前の1950年代、愛媛に住みながら直木賞の候補に2度ほど挙げられた作家がいます。小田武雄さんです。
大正2年/1913年生まれといいますから、最初に直木賞候補になった第38回(昭和32年/1957年・下半期)の段階で44歳です。それまでは会社員や教員を務めながら俳句の世界でひそかに活動をつづけていたようですが、戦後は散文の、しかも純文学ではない大衆文芸=歴史小説にも軸足を伸ばして、サンデー毎日大衆文芸懸賞ではしばしば入選するほど評価を受けます。
勢いはさらに他の雑誌にも波及して、いずれも公募型の懸賞応募ではありましたが、第4回小説新潮賞を「舟形光背」で、第11回オール新人杯を「紙漉風土記」で受賞します。オール新人杯といえば、直木賞にびっちり直結したコンクールでしたので、昭和32年/1957年12月号の『オール讀物』に載った受賞作がそのまま、文藝春秋新社の予選を通って直木賞の候補に挙げられました。
直木賞の候補はともかく、オール新人杯についてはれっきとした受賞者です。通常であれば選考委員たちも出席のうえで、主催者から受賞杯やら賞金やらをもらうようなイベントが行われてしかるべきだったんですが、小田さんは当時、生まれ故郷の愛媛県松山市に住んでいました。
松山と東京。いまとは違って、そうやすやすと行ったり来たりできる距離ではありません。このとき小田さんは、東京の文藝春秋新社を訪ねることもなく、地元松山にとどまっていたと言います。
ではどうしたか。
小田さんの受賞を決めた5人の選考委員、梅崎春生さん、今日出海さん、富田常雄さん、浜本浩さん、吉田健一さんのうち今さんが、文春の文化講演会で四国を旅するというので、小田さんに渡す賞品・賞金を携えて愛媛にやってきます。
「新人杯の受賞は道後温泉の鮒屋旅館で、折よく文芸春秋の講演会に見えられた今日出海先生の御手から戴くことが出来た。小野詮造編集長立会いである。その時、今先生は身に余る過賞と激励を下さつた。その折、先生は「何事も職業となるとむずかしいもんです」と仰言られたが、この言葉はその時も今も私の肝に銘じている。」(昭和33年/1958年9月・東京文芸社刊『代表作時代小説 昭和33年度』所収、小田武雄「紙漉風土記 作者のことば」より)
「講演会」というのは、人が壇上に立って多くの人に何かを語るものですが、ただそれだけの行事ではない、ということがわかるエピソードです。講演者にとっては、多くの場合それは旅行とセットとなり、また時には懸賞小説……文学賞の贈呈までも付いてくる。人が物理的に移動するというのは、何かといろいろなものを孕んでいます。
まだ、素人作家に毛が生えたような小田さんも、直接、今日出海さんとか、文春の小野さんと会って、おそらく感激したんでしょう。その後、「紙漉風土記」を含む作品集『うぐいす』が、第41回直木賞(昭和34年/1959年・上半期)でもう一度候補になって、思うところがあったものか、ふるさとを離れて東京に居を移します。
今日出海さんが言ったという「何事も職業となるとむずかしいもの」という言葉を、小田さんはどのように理解し、消化し、受け入れて上京したのか……。その心境はまったくわかりません。出版社の集まる東京にやってきて、意に沿う仕事、沿わない雑事、もろもろ波に流されながら亡くなるまで文筆生活を続けた、と伝えられています。





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