昭和33年/1958年に「芥川賞作家講演会」が開かれ、2年遅れて「芥川・直木賞記念講演会」が催される。
芥川龍之介さんが死んだとき、文藝春秋社は追悼講演会を開きました。それなのに直木三十五さんが死んだときには、似たような追悼企画をやった形跡がありません。代わりに、文学賞をつくることで直木さんの追悼としたのでした……といったようなことを、何週か前に書いた覚えがあります。
要は、直木賞とアクタ何とか賞、創設の頃から二つの賞は並び称される存在で、正直、両賞に違いがあろうがなかろうが、どっちでもいいハナシではあるんですけど、こまかく見ていけば、直木賞には片一方にはない特徴があるし、逆もまたそうだ、みたいなことが講演会についても当てはまるのだということです。もちろん、そりゃそうです。
直木賞ともう一つの賞は、扱う対象の作品種別が違う、ということ以外に、さまざまな違いがあります。両賞の違いについては、うちのブログでもけっこうコスッてきました。ただ、どうしても心が傷んでくるのを抑えられません。昭和の半ば(ひょっとしたら昭和の終わりごろ)まで、直木賞はいーっつもアクタ何とか賞の影に隠れた……隠された存在だったからです。
なんだか、うちのブログを始めた十数年前から、こんなことばっかり書いている気がします。
ワタクシもときどき、リアルな世界で、おれは・わたしは文学について一家言あります! といった他人と、直木賞のことを語り合う機会をもったりします。しかし、いくらこちらが「直木賞はかわいそうだ、歴史的にもう一つの賞に比べてあまりに扱いがひどすぎる期間が長かった!」と主張しても、ほとんどの相手はぽかんとして、何いってんの、このキモいおじさん、という目で見られてばかりです。もしかしたら、ワタクシの感覚がよほどズレているのかもしれません。
だけど、何度でも、何十度でも、繰り返して書いておきます。どうして直木賞は、これほどわきに追いやられなければいけなかったんだ。どう見てもカワイソすぎるだろ、と。
文藝春秋社の頃から講演会は、この会社のおはこのイベントでしたが、戦後、社長が佐佐木茂索さんになって文藝春秋新社と組織が変わっても、やはりその伝統が受け継がれます。毎年恒例、全国各地で作家や文化人たちによる講演会をひらく催しは、昭和27年/1952年に復活し、その後、えんえんと行われました。
その講演会の講師として、直木賞やもう一つの賞の受賞者も駆り出された……というところが、直木賞が講演会と縁ぶかい文学賞だと言える大きな理由なんですけど、文春の社史『文藝春秋七十年史』(平成3年/1991年12月・文藝春秋刊)を見てみると、その名もずばり、文学賞の名前を講演会のほうにも掲げて、定期的に大きな会場をおさえてイベントをやっていたことがわかります。
こんな感じです。
| 日程 | 場所 | 催事名 | 講師 |
|---|---|---|---|
| 昭和33年/1958年 7月26日 |
一ツ橋共立講堂 | 芥川賞作家講演会 |
|
| 昭和34年/1959年 2月14日 |
一ツ橋共立講堂 | 芥川賞作家講演会 |
|
| 昭和35年/1960年 2月15日 |
東京産経ホール | 芥川・直木賞記念講演会 |
|
いったいどうして昭和33年/1958年夏に、このような催しを計画することになったのか。調べていけば、きっとこれぞという開催理由が見つかるかもしれませんが、上記社史の本文ではくわしくは触れられていません。
ただ、昭和33年/1958年のトピックスとして、第38回(昭和32年/1957年・下半期)のアクタ何とか賞における開高健さんと大江健三郎さんの一騎打ち(結果、開高さんの「裸の王様」が受賞)と、翌第39回(昭和33年/1958年・上半期)大江さんの受賞のことに結構な行数が割かれています。
「石原慎太郎以来、というよりも、受賞のその日からマスコミ沙汰となったのは、この一騎打ち以後としたほうが正確であるかもしれない。
(引用者中略)
大江もまた、開高以上に、マスコミに追われる身となったことはいうまでもない。芥川龍之介の名を冠する賞にこれほどふさわしい若き鬼才はいないと、だれもが感じとったからである。それと選考委員会で、もはや新人に非ず、賞の資格なしと強硬に主張する委員もあり、かなり揉めたことが伝えられていた。そのこともあずかって話題を大きくした。」(『文藝春秋七十年史』より)
開高さんの受賞でマスコミの異常な過熱ぶりが噴出したのが昭和33年/1958年1月。大江さんのすったもんだの受賞が決まったのが同年7月21日。そして「芥川賞作家講演会」に、いま話題の受賞者ということで大江さんが演台に立たされたのが、それから一週間も経たない7月26日です。
こんな急ピッチな出番を、よくまあ大江さんも受けたものだな、と思いますが、それはともかく、石原さんから開高・大江ご両人の受賞が、ジャーナリズムにとって、あるいは文藝春秋新社にとっても、アクタ何とか賞が相当おいしい飯のタネになるぞと気づいて、はあはあゼエゼエよだれを垂らしてガッつきはじめたことはわかります。
それに比べて、直木賞はどうだったか。いや、直木賞だって十分マスコミに取り上げられて話題になっていたはずだ、というのは、ワタクシも理解できるんですけど、でもどうして講演会を開くときに、アクタ何とか賞にスポットを当てるのが先で、昭和35年/1960年になってようやく両賞並列の企画にしたのか。そりゃないぜ、文春の企画担当者よ、とまた今週も愚痴を言いたくなりますが、1960年前後、直木賞がどう見られていたのか、こういうところにも一端が表われているものとして、黒歴史のひとつとして挙げておくことにします。
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