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2026年8月23日 (日)

直木賞をとって有名になった五木寛之、講演会に呼ばれれば積極的に全国を飛び回る。

 直木賞がどうしてこんなに多くの人に知られる存在になったのか。それはもう石原慎太郎さんのおかげです。

 ときは昭和31年/1956年ですから70年まえのハナシで、別にワタクシもその現場に立ち会ったわけじゃないので、どの程度の爆発だったのかは文献で知るしかないんですが、そりゃまあ、石原さんがナンチャラ賞をとったそのあとからの数か月か1年ぐらいは、すさまじい騒ぎだった、と言われています。

 まだ大学に通っていた頃のちょっとスマートな青年が、文壇ではスゴいとされている新人賞をとった、しかもその作品のなかみが、古い世代のジイさんバアさん辺りが眉をひそめるような、暴力と無軌道を当たり前のようにさらしている若い男女の生態を描いたものだった……ということで、世間もマスコミもギャーギャー騒いだんだそうです。

 突如現われた現代のヒーロー、石原慎太郎、ということでそのハナシが紹介されるときに、たびたび出てくるのが講演会のエピソードです。

 いわく、ナンチャラ賞をとったことで、全国各地で行われる文化講演会の講師の一人となった石原さんが、壇上に現れると、若い女性たちがキャーキャー黄色い声を上げて、それはもう従来の講演会の様子とはかけ離れた、映画スターかアイドル歌手の舞台公演かのような雰囲気になった、というヤツです。なるほど、そんなこともあったんだろうな、とは思います。

 しかし、だいたい先に話題になるのは、直木賞じゃなくてもう一つの賞だ、というのは、覆すことのできない歴史的な事実です。「ワーキャー人気」もその例にもれず、直木賞にそういう状況が訪れるのは、それから10年あとの第56回(昭和41年/1966年・下半期)まで待たなくちゃいけません。

 直木賞を見るというのは、イコール待つことである、という至言があります。

 1度や2度候補になったぐらいじゃまだまだ青い、候補を重ねるのを待たなきゃいけないとか、発表時刻は常にナンチャラ賞のほうが先で、直木賞の発表はそれから数十分待たなきゃいけないとか、選評が読めるのも先に世に出るのは兄弟賞のほうなので、直木賞の選評を読むのも待たなきゃいけないとか、とにかく直木賞ファンは多くの場面で待たされます。これはもう仕方がありません。

 で、それはそれとしてワーキャー人気の件です。

 奇しくも石原さんとまったく同じ年の、同じ日に生まれた男が、10年のときを経て今度は直木賞に「ワーキャー」を持ってきてくれました。五木寛之さんです。

 直木賞をとったとき、五木さんは34歳。青年というにはちょっと薹が立っている気もしますが、でもやっぱり若々しくて凛々しいビジュアルをしていましたし、公衆の前に出ていくことを厭うタイプの人ではなかったので、顔も売れて、行く先々でワーキャー言われた……と伝えられています。

 これもまた五木さんの受賞は60年近くまえのことですので、ワタクシは目撃したわけじゃありません。すべてが誰かの受け売りです。

 受け売りではあるんですけど、過去の直木賞とその周辺のことをすべて目にして体験した、という人間は、残念ながらいまの世の中、ひとりも存在していません。けっきょくのところ、直木賞のことを語る場合は、ほんのちょっとの自分自身で知り得たことと、だれかの受け売りにならざるを得ず、そこはあきらめて、だれかの言っていることを拾い集めて、直木賞とは何なのかを考えていく他ありません。

 ハナシがまた逸れてきました。講演会のことに戻します。

 作家のなかには、講演が苦手だ、小説家なら小説を書くことが本業でそれ以外は極力避けて通りたい、という人が一定数存在します。それはそれでいいんですけど、直木賞にワーキャーを起こした救世主、五木さんはそれとはまったく別の考えを持つ人でした。

 自分の考えていることを文章で伝えることと同じように、直接、人の前で話をしていきたい。ものすごく講演会に積極的な姿勢を打ち出します。

 直木賞をとり、直木賞の選考委員にもなってから相当経った後年のことですけど、五木さんに「わが講演に悔いなし」という文章があります。講演というものに対する五木さんの考えを表したものです。

「講演というものを、私はこれまで仕事と考えたことがない。辻説法だと思っている。自分の考えていること、感じていることを、対面して人びとに伝える。そのために自分で会場を借りたり、人を集めたりする必要がないというのは、じつに有り難い。

言いたいことがあれば文章を書けばいいではないか、という意見もあるだろう。だが、私はそうは思わない。話を聞きに集まってくる人びとは、必ずしも活字に親しんでいる読者ではないのだ。いや、本を読まない人たちが多いからこそ、しゃべりに出かけるのである。」(平成18年/2006年7月・講談社刊『新・風に吹かれて』所収「わが講演に悔いなし」より)

 平成31年/2019年2月に東京堂出版から出た『作家のおしごと』でも「講演について」と一章を割き、みずからのたどってきた仕事の重要なひとつに講演を位置づけています。

 何だか、ここまで行ってしまうと、直木賞がどうのこうのとかは関係ない、えらく遠い世界の人物のようです。こういう化け物級のエンタテイナーを生み出してしまったのも、直木賞の功ないしは罪、どっちなのかわかりませんが、直木賞があったからこそ出現した現象なのは間違いないでしょう。

 直木賞をとる。それを契機に発生する「講演のお仕事」をまったく嫌がったり拒否したりすることなく、みずからの表現手段の一つとして全国各地を飛び回る。それによってまた、直木賞というものの存在も、五木さんのおかげで各地に広げていってもらえる、という寸法です。あるいは、直木三十五さんや菊池寛さんも、こういう作家の誕生を待ち望んでいたかもしれません。

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