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2026年8月の5件の記事

2026年8月30日 (日)

昭和38年/1963年に直木賞で落選した梶山季之、その翌年から文藝春秋主催の講演会の常連となる。

 先週は五木寛之さんを取り上げました。作家とは物を書くことばかりが仕事じゃないんだ、と言わんばかりに、講演だって表現手段の一つなんだから、れっきとした「作家のお仕事」だという方向性を打ち出した人です。

 人前に出て、ある程度のスジをもったハナシを、まとまった時間しゃべることができる。……全国各地で文芸講演会というものが多く行われるようになればなるほど、そういった才能のある作家は重宝されます。

 それがベストセラー作家となれば、なおさらです。本がたくさん売れて名前が通っている。そういう人は講演をやっても人が呼べるからです。

 昭和から平成、令和と数々のベストセラー作家が現われ、あまりオモテに顔を見せない人も少なからずいましたが、積極的に講演仕事を受けて東奔西走、全国をめぐりめぐった人もいます。たとえば梶山季之さんです。

 梶山さんがどの程度、講演の数をこなしたのか。具体的な数は、すみません、ワタクシにはわかりません。

 ただ、直木賞の候補になった第49回(昭和38年/1963年・上半期)の段階で、すでにトップ屋として文藝春秋とはズブズブの関係にあり、『黒の試走車』(昭和37年/1962年・光文社/カッパ・ノベルス)をはじめ、本から雑誌から原稿を猛烈に書きまくる筆の力はよく知られるところ、まず下馬評では有力候補のひとりと目されていながら、けっきょく直木賞を受賞させることができなかった、直木賞史上にいくつか残る汚点のひとつとして、いまも語り継がれています(たぶん)。

 いまの世のなかだったら、2度、3度、と候補に挙がっているうちにそのうち、梶山さんも直木賞受賞者になったかもしれません。しかし、昭和38年/1963年ごろには、いちおう直木賞は新人賞なので、その受賞をもって世間にお披露目をするという役割がある、だから名が知られたり将来にわたって小説をガシガシ発表していく手づるに事欠かない売れっ子は、もはや直木賞を送る意味がない……といった考え方が残っていた時代でもあった、と洩れ聞いています。

 その意味では梶山さんが2度め以降の候補入りから(意識的には無意識的にか)外されたのは、とくに理由のないことではありませんし、直木賞をもらわなくたって、その後、読者にわくわくドキドキを提供する娯楽小説を大量に提供できたのだから、直木賞などというお墨付きは梶山さんには不要だった、と言っちゃってもいいと思います。まあ、梶山さんは直木賞をけっこう欲しかったみたいですけど。

 しかしそれはそれ、直木賞に落選しようが、それは別に文壇からハブられたことを意味しません。逆に活発・活動的な梶山さんは、講演会の主催者にとっては呼びやすく、名も売れている、話題も豊富、ユーモアもある、と講演にはうってつけの作家になっていきます。

 『積乱雲とともに 梶山季之追悼文集』(昭和56年/1981年5月刊)にある「梶山季之完全年譜」を見ると、昭和38年/1963年9月のところに第49回直木賞の落選のことが出ていますが、その翌年から毎年のように「文春講演」という項目が入っています。

日程 講演名 場所
昭和39年/1964年
5月
文春講演 山陰地方
昭和40年/1965年
3月
文春講演 北九州地方
昭和41年/1966年
4月
文春講演 山陽地方
同年
5月
文春講演 北陸地方
同年
6月
文春講演 近畿地方
昭和42年/1967年
2月
文春講演 沖縄地方
同年
3月
文春講演 近畿地方
同年
5月
文春講演 九州地方・近畿地方
同年
10月
文春講演 九州地方
昭和43年/1968年
4月
文春講演 四国地方
同年
6月
文春講演 九州地方
同年
7月
文春講演 中部地方
昭和45年/1970年
6月
文春講演 東北地方
昭和46年/1971年
5月
文春講演 北陸地方
昭和47年/1972年
11月
文春講演 関東地方
昭和48年/1973年
4月
文春講演 北九州地方
同年
9月
文春講演 山陰地方
昭和49年/1974年
5月
文春講演 南紀地方

 そして昭和50年/1975年5月、取材先の香港で吐血し、45歳で亡くなりました。

 文春の講演というのは作家に対する慰安旅行のような性格も兼ねていたとは思いますが、これだけひんぱんに駆り出され、おお、行く行く、と本人も乗り気で縦横無尽に駆け巡ったのですから、カジさん、働きすぎだよ、とまわりからさんざん言われた、という逸話があるのもうなずけます。

 この『追悼文集』には、講演会にまつわるエピソードもいくつか入っていますが、文藝春秋の名物社員だった樋口進さんは、こんなことを書いています。

「その日の聴衆を見て講演内容を決めるのはなかなか出来ないことだが、梶山さんはそれが出来た一人である。」(『積乱雲とともに 梶山季之追悼文集』所収 樋口進「文チン対漫チン」より)

 だれもができるわけじゃありません。梶山さんが小説を書く能力とは別に(あるいは関係があるのかもしれませんが)備えた一種の才能でしょう。デキる作家、梶山季之は、デキル講演者でもあった、というわけです。

 まあ少なくとも、第49回の直木賞を受賞したおジイちゃん佐藤得二さんには、これだけ精力的に物語を生み出し、全国を講演してまわるパワーがなかったのは、たしかなことでしょう。第49回の直木賞が梶山さんに授賞できなかったのは、やはり、あーミスっちまったな直木賞、と後世に伝えつづけるべき失敗だと思います。

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2026年8月23日 (日)

直木賞をとって有名になった五木寛之、講演会に呼ばれれば積極的に全国を飛び回る。

 直木賞がどうしてこんなに多くの人に知られる存在になったのか。それはもう石原慎太郎さんのおかげです。

 ときは昭和31年/1956年ですから70年まえのハナシで、別にワタクシもその現場に立ち会ったわけじゃないので、どの程度の爆発だったのかは文献で知るしかないんですが、そりゃまあ、石原さんがナンチャラ賞をとったそのあとからの数か月か1年ぐらいは、すさまじい騒ぎだった、と言われています。

 まだ大学に通っていた頃のちょっとスマートな青年が、文壇ではスゴいとされている新人賞をとった、しかもその作品のなかみが、古い世代のジイさんバアさん辺りが眉をひそめるような、暴力と無軌道を当たり前のようにさらしている若い男女の生態を描いたものだった……ということで、世間もマスコミもギャーギャー騒いだんだそうです。

 突如現われた現代のヒーロー、石原慎太郎、ということでそのハナシが紹介されるときに、たびたび出てくるのが講演会のエピソードです。

 いわく、ナンチャラ賞をとったことで、全国各地で行われる文化講演会の講師の一人となった石原さんが、壇上に現れると、若い女性たちがキャーキャー黄色い声を上げて、それはもう従来の講演会の様子とはかけ離れた、映画スターかアイドル歌手の舞台公演かのような雰囲気になった、というヤツです。なるほど、そんなこともあったんだろうな、とは思います。

 しかし、だいたい先に話題になるのは、直木賞じゃなくてもう一つの賞だ、というのは、覆すことのできない歴史的な事実です。「ワーキャー人気」もその例にもれず、直木賞にそういう状況が訪れるのは、それから10年あとの第56回(昭和41年/1966年・下半期)まで待たなくちゃいけません。

 直木賞を見るというのは、イコール待つことである、という至言があります。

 1度や2度候補になったぐらいじゃまだまだ青い、候補を重ねるのを待たなきゃいけないとか、発表時刻は常にナンチャラ賞のほうが先で、直木賞の発表はそれから数十分待たなきゃいけないとか、選評が読めるのも先に世に出るのは兄弟賞のほうなので、直木賞の選評を読むのも待たなきゃいけないとか、とにかく直木賞ファンは多くの場面で待たされます。これはもう仕方がありません。

 で、それはそれとしてワーキャー人気の件です。

 奇しくも石原さんとまったく同じ年の、同じ日に生まれた男が、10年のときを経て今度は直木賞に「ワーキャー」を持ってきてくれました。五木寛之さんです。

 直木賞をとったとき、五木さんは34歳。青年というにはちょっと薹が立っている気もしますが、でもやっぱり若々しくて凛々しいビジュアルをしていましたし、公衆の前に出ていくことを厭うタイプの人ではなかったので、顔も売れて、行く先々でワーキャー言われた……と伝えられています。

 これもまた五木さんの受賞は60年近くまえのことですので、ワタクシは目撃したわけじゃありません。すべてが誰かの受け売りです。

 受け売りではあるんですけど、過去の直木賞とその周辺のことをすべて目にして体験した、という人間は、残念ながらいまの世の中、ひとりも存在していません。けっきょくのところ、直木賞のことを語る場合は、ほんのちょっとの自分自身で知り得たことと、だれかの受け売りにならざるを得ず、そこはあきらめて、だれかの言っていることを拾い集めて、直木賞とは何なのかを考えていく他ありません。

 ハナシがまた逸れてきました。講演会のことに戻します。

 作家のなかには、講演が苦手だ、小説家なら小説を書くことが本業でそれ以外は極力避けて通りたい、という人が一定数存在します。それはそれでいいんですけど、直木賞にワーキャーを起こした救世主、五木さんはそれとはまったく別の考えを持つ人でした。

 自分の考えていることを文章で伝えることと同じように、直接、人の前で話をしていきたい。ものすごく講演会に積極的な姿勢を打ち出します。

 直木賞をとり、直木賞の選考委員にもなってから相当経った後年のことですけど、五木さんに「わが講演に悔いなし」という文章があります。講演というものに対する五木さんの考えを表したものです。

「講演というものを、私はこれまで仕事と考えたことがない。辻説法だと思っている。自分の考えていること、感じていることを、対面して人びとに伝える。そのために自分で会場を借りたり、人を集めたりする必要がないというのは、じつに有り難い。

言いたいことがあれば文章を書けばいいではないか、という意見もあるだろう。だが、私はそうは思わない。話を聞きに集まってくる人びとは、必ずしも活字に親しんでいる読者ではないのだ。いや、本を読まない人たちが多いからこそ、しゃべりに出かけるのである。」(平成18年/2006年7月・講談社刊『新・風に吹かれて』所収「わが講演に悔いなし」より)

 平成31年/2019年2月に東京堂出版から出た『作家のおしごと』でも「講演について」と一章を割き、みずからのたどってきた仕事の重要なひとつに講演を位置づけています。

 何だか、ここまで行ってしまうと、直木賞がどうのこうのとかは関係ない、えらく遠い世界の人物のようです。こういう化け物級のエンタテイナーを生み出してしまったのも、直木賞の功ないしは罪、どっちなのかわかりませんが、直木賞があったからこそ出現した現象なのは間違いないでしょう。

 直木賞をとる。それを契機に発生する「講演のお仕事」をまったく嫌がったり拒否したりすることなく、みずからの表現手段の一つとして全国各地を飛び回る。それによってまた、直木賞というものの存在も、五木さんのおかげで各地に広げていってもらえる、という寸法です。あるいは、直木三十五さんや菊池寛さんも、こういう作家の誕生を待ち望んでいたかもしれません。

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2026年8月16日 (日)

邱永漢、株の講演会で、文芸講演会をしていたころより5倍も10倍も聴衆を集める。

 講演会とひと口でいっても、その種類は多種多彩です。

 うちのブログで取り上げているのは「文芸」にまつわるもので、実態は単なる世間話か思い出バナシか、そういうものであったとしても小説家を演台に立たせている以上、多少は「文芸」の講演が期待されています。

 ただ、それ以外の他の事柄、人間が関心をもつありとあらゆるジャンルをテーマに講演会は開かれつづけています。一回ぽっきり、エラい先生のお話を聴いただけでいったい何になるのか、よくわかりませんけど、何百人と聴衆を集める講演会は珍しくはありません。生身の人間がしゃべっているのを、目前できちんと見ながら話を聴く。そういう経験を重要視する感覚は、オンライン全盛の現在でも残っているのかもしれません。

 それはそれとして、直木賞です。対象となるのは、かつて戦前には戯曲も入っていたことがありましたが、おおよそ小説です。受賞するのは小説家、ということで関係する講演会も「文芸」をテーマにしたものが中心になります。

 しかし、何といっても直木賞は無駄に歴史が長いので、これまでいろんな人が候補になり、いろんな人が受賞してきました。小説家として人生をまっとうした人ばかりではなく、直木賞をとったあとに紆余曲折を経て、また別の方面で有名になった人もけっこういます。たとえば邱永漢さんです。

 邱さんのことも、うちのブログでは何度も取り上げてきました。第34回(昭和30年/1955年下半期)の直木賞を受賞したのが31歳のときで、それからしばらくは物書きとして活躍したものの、『金銭読本』(昭和34年/1959年・中央公論社刊)の評判がよかったことをきっかけに株を勉強しはじめ、積極的に株式投資の世界に進出し、みずからビジネスを興し、失敗し、そういったなかで経営コンサルタントを看板に掲げたりしておカネを稼ぐほうにシフトを移していった末に創作をやらなくなったという、直木賞史のうえでも独特な道を歩んだ人です。

 ということで邱さんは、はじめの頃は直木賞を受賞した作家として、いわゆる文芸講演会の演者になっています。直木賞受賞から約2年後、昭和33年/1958年に井上靖さん、檀一雄さん、森田たまさんといっしょに高知に招かれて講演をした、という記録が残っています。

 おそらくそのときのエピソードだと思うんですが、邱さんはのちに回顧し、

「私は、檀一雄さんや井上靖さんたちと土佐の高知に講演旅行に出かけたことがあるが、檀さんは居並ぶ主催者や知人たちのいる前で、

「この人は、二、三年前は、もう文学なんかやめて香港へ帰るといっていたんですよ。僕がこの人の文学的才能に手形を書き、佐藤春夫先生が裏書をしたのに、まだだめだといってね」

と私をひやかした」(昭和46年/1971年10月・徳間書店刊『邱永漢自選集VIII 私の金儲け自伝・日本天国論』所収「私の金儲け自伝」より)

 と言っています。檀さんがどれだけ邱さんを高く評価していたかがわかるハナシです。

 しかし、と言いますか、必然的にと言いますか、邱さんは「小説家」というチッコい肩書きでの仕事には満足せず、物書きのために用意された狭くて安い世界を抜け出して、投資家として名をならします。すると今度は、そっち方面からの講演依頼もぞくぞくと舞い込んでくるようになり、そちらでもずいぶん場を沸かせたようです。

 文芸講演会から投資講演会への移行に関して、先述の「私の金儲け自伝」から邱さん自身の言葉を引いてみます。

「私は小説の次に株式投資を選んだが、世の中で株式投資に関心を持つ人は小説を読む人よりも数が多い。小説家として私は、しばしば、講演会にひっぱり出されたことがあるが、株の講演をするようになると、その五倍も十倍も聴衆が集まった。そんなとき、私はそれを自分の人気のせいだとは思わないで、聖徳太子さまの人気のせいだと思うことにした。いついかなる時代でも、お金は一番人気がある。その人気にあやかって、生活をしていく方法もある。」(前掲「私の金儲け自伝」より)

 喩えに「聖徳太子」を使っているところが時代を感じさせますが、株の講演会というのはずいぶん集客能力があったようです。そういうものをまざまざと体験したら、とうてい小説を書くことや、それに付随するチマチマした仕事に戻る選択肢が、邱さんの頭からなくなったのも自然でしょう。

 ということで、小説家は大して儲からない、お金を稼ぐには他にいくらでも道がある、という邱さんお得意の主張が活きてくるわけです。これは聖徳太子のころも渋沢栄一になっても、あまり変わらないかもしれません。

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2026年8月 9日 (日)

昭和38年/1963年、杉本苑子が直木賞受賞直後に母校で講演会の壇上に立つ。

 直木三十五さんの作品は、いまではもうほとんど読まれていません。

 いや、直木さんだけじゃありません。直木賞を受賞した人はこれまで200人以上いますが、死んだあとならなおさら、存命であっても、広く読まれている作家がどれだけいるんでしょうか。長く読まれるか、そうでないか。けっきょくのところ文学賞とはあまり関係がなく、いま読まれているかどうかを直木賞のテーマとして語るのは、正直、おカドちがい感が拭えません。

 といった書き出しで、この人のことを取り上げるのが合っているのかよくわかりませんけど、今週の主役は杉本苑子さんです。

 第48回(昭和37年/1962年下半期)直木賞を受賞して、現役時代は小説だのエッセイだのを書きまくり、その後にいくつかの大きな賞もとって、紫綬褒章から文化功労者、文化勲章と、何だかエラそうに見えるアレコレも次々に贈られました。

 平成29年/2017年に没。来年で没後10年になります。とりあえず、いまも改版されたり再版された文庫が新刊で手に入るので、もうしばらくは読みつづけられる作家……なのだと思います。

 それで、杉本さんと講演会……ということなんですけど、まずは講演に対して杉本さんはどんな考えを持っていたのか。小説家は小説を書けばいいのであって他のことはなるべく排したい、と考えていたようで、われがわれがと積極的に人前に出ていくタイプではなかった、と伝えられています。

 たとえば杉本さんは、自分は小説家だ、だから小説には楽しく挑めるけど、随筆は苦手なんだと表明した「モグラのひとりごと」(初出『流動』昭和49年/1974年7月)というエッセイがあります。こんなふうに言っています。

「小説家は、小説を書くべきであり、小説家にはまた、小説を書かせるべきであるというのが、私の持論である。

随筆、脚本、評論、紀行、対談、講演、座談会、テレビ、ラジオ、あるいはインタビューしたり逆にコメントを取られたりというように、現代のごとくマスコミが発達し多様化し、出版物の数がおびただしくなると、しかし、とても、

「小説家は、小説だけ」

 というわけにはいかなくなる。さまざまな分野での仕事をいやおうなく押しつけられ、消化しなければならないのが現状だが、少し厳密に、あるいは良心的に考えると、こうした現象は、よいこととは思えない。」(昭和54年/1979年7月・読売新聞社刊『片方の耳飾り 随想集』所収「モグラのひとりごと」より)

 本来的にいえば、小説家は小説だけ、というのが理想であって、自分もまたその路線で生きていきたい。だけども、現代社会ではそれでは成り立たない。と言っています。

 いまでもきっと、事情はそこまで変わっていません。マスコミそのものの発達・多様化は、50年近くに比べたって相当様子が変わっているはずですが、小説だけ書いていたい人はけっこういるでしょうし、そんな小説家を人前に立たせたがる人たちも一定数います。「講演したくない」と「お願いしたい」とのツバぜり合い。これも、昭和から平成・令和につづいてきた文芸周辺の、歴史の一端でしょう。

 それはそれとして、どうして杉本さんのハナシをわざわざ取り上げたかといえば、杉本さんが直木賞を受賞した昭和38年/1963年1月、受賞発表のわずか4日後に、おそらくかなり熱心にせがまれて、講演会を開いているからです。

日程 場所 催事名 講師
昭和38年/1963年
1月26日
駒沢学園記念講堂 直木賞受賞記念講演会 杉本苑子

 1月26日というのは、駒沢学園にとっては道元禅師の誕生日に合わせて学園の誕生を記念する大事な「誕生記念日」だということで、まさに直木賞を受賞したばかりの、駒沢学園(駒沢高女)出身者、杉本さんにお願いして講演に来たもらった……ということのようです。

 当日は、受賞作となった『孤愁の岸』で描かれた濃尾平野の治水工事に関してを語ったそうで、

「これらのこと(引用者注:『孤愁の岸』に描かれた話)を事実とフィクションを織り交ぜて長時間にわたって話しつづけた杉本苑子は話術の方も「超一級」であり、教員も生徒も始終、水を打ったように熱心に傾聴した。」(昭和62年/1987年10月・駒沢学園刊『駒沢学園六十周年史』より)

 と、さっと壇上にあがってテキトーに短時間ですませるのではなく、きちんと講演に当たったことが記録として残っています。

 いまに置き換えてもそうでしょうが、当時だって、相当ネジ込んだ感のある講演だったに違いありません。だって、受賞が発表されてすぐに依頼したとしても、杉本さんには3日しか準備期間がなかったんですよ。よくぞ受けたものですし、あるいは、よほどの母校愛があったんじゃないか、とも思います。

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2026年8月 2日 (日)

昭和33年/1958年に「芥川賞作家講演会」が開かれ、2年遅れて「芥川・直木賞記念講演会」が催される。

 芥川龍之介さんが死んだとき、文藝春秋社は追悼講演会を開きました。それなのに直木三十五さんが死んだときには、似たような追悼企画をやった形跡がありません。代わりに、文学賞をつくることで直木さんの追悼としたのでした……といったようなことを、何週か前に書いた覚えがあります。

 要は、直木賞とアクタ何とか賞、創設の頃から二つの賞は並び称される存在で、正直、両賞に違いがあろうがなかろうが、どっちでもいいハナシではあるんですけど、こまかく見ていけば、直木賞には片一方にはない特徴があるし、逆もまたそうだ、みたいなことが講演会についても当てはまるのだということです。もちろん、そりゃそうです。

 直木賞ともう一つの賞は、扱う対象の作品種別が違う、ということ以外に、さまざまな違いがあります。両賞の違いについては、うちのブログでもけっこうコスッてきました。ただ、どうしても心が傷んでくるのを抑えられません。昭和の半ば(ひょっとしたら昭和の終わりごろ)まで、直木賞はいーっつもアクタ何とか賞の影に隠れた……隠された存在だったからです。

 なんだか、うちのブログを始めた十数年前から、こんなことばっかり書いている気がします。

 ワタクシもときどき、リアルな世界で、おれは・わたしは文学について一家言あります! といった他人と、直木賞のことを語り合う機会をもったりします。しかし、いくらこちらが「直木賞はかわいそうだ、歴史的にもう一つの賞に比べてあまりに扱いがひどすぎる期間が長かった!」と主張しても、ほとんどの相手はぽかんとして、何いってんの、このキモいおじさん、という目で見られてばかりです。もしかしたら、ワタクシの感覚がよほどズレているのかもしれません。

 だけど、何度でも、何十度でも、繰り返して書いておきます。どうして直木賞は、これほどわきに追いやられなければいけなかったんだ。どう見てもカワイソすぎるだろ、と。

 文藝春秋社の頃から講演会は、この会社のおはこのイベントでしたが、戦後、社長が佐佐木茂索さんになって文藝春秋新社と組織が変わっても、やはりその伝統が受け継がれます。毎年恒例、全国各地で作家や文化人たちによる講演会をひらく催しは、昭和27年/1952年に復活し、その後、えんえんと行われました。

 その講演会の講師として、直木賞やもう一つの賞の受賞者も駆り出された……というところが、直木賞が講演会と縁ぶかい文学賞だと言える大きな理由なんですけど、文春の社史『文藝春秋七十年史』(平成3年/1991年12月・文藝春秋刊)を見てみると、その名もずばり、文学賞の名前を講演会のほうにも掲げて、定期的に大きな会場をおさえてイベントをやっていたことがわかります。

 こんな感じです。

日程 場所 催事名 講師
昭和33年/1958年
7月26日
一ツ橋共立講堂 芥川賞作家講演会
  • 石川達三
  • 井上靖
  • 遠藤周作
  • 石原慎太郎
  • 大江健三郎
昭和34年/1959年
2月14日
一ツ橋共立講堂 芥川賞作家講演会
  • 佐藤春夫
  • 堀田善衛
  • 松本清張
  • 五味康祐
  • 芥川比呂志
昭和35年/1960年
2月15日
東京産経ホール 芥川・直木賞記念講演会
  • 丹羽文雄
  • 開高健
  • 邱永漢
  • 戸板康二
  • 司馬遼太郎

 いったいどうして昭和33年/1958年夏に、このような催しを計画することになったのか。調べていけば、きっとこれぞという開催理由が見つかるかもしれませんが、上記社史の本文ではくわしくは触れられていません。

 ただ、昭和33年/1958年のトピックスとして、第38回(昭和32年/1957年・下半期)のアクタ何とか賞における開高健さんと大江健三郎さんの一騎打ち(結果、開高さんの「裸の王様」が受賞)と、翌第39回(昭和33年/1958年・上半期)大江さんの受賞のことに結構な行数が割かれています。

「石原慎太郎以来、というよりも、受賞のその日からマスコミ沙汰となったのは、この一騎打ち以後としたほうが正確であるかもしれない。

(引用者中略)

大江もまた、開高以上に、マスコミに追われる身となったことはいうまでもない。芥川龍之介の名を冠する賞にこれほどふさわしい若き鬼才はいないと、だれもが感じとったからである。それと選考委員会で、もはや新人に非ず、賞の資格なしと強硬に主張する委員もあり、かなり揉めたことが伝えられていた。そのこともあずかって話題を大きくした。」(『文藝春秋七十年史』より)

 開高さんの受賞でマスコミの異常な過熱ぶりが噴出したのが昭和33年/1958年1月。大江さんのすったもんだの受賞が決まったのが同年7月21日。そして「芥川賞作家講演会」に、いま話題の受賞者ということで大江さんが演台に立たされたのが、それから一週間も経たない7月26日です。

 こんな急ピッチな出番を、よくまあ大江さんも受けたものだな、と思いますが、それはともかく、石原さんから開高・大江ご両人の受賞が、ジャーナリズムにとって、あるいは文藝春秋新社にとっても、アクタ何とか賞が相当おいしい飯のタネになるぞと気づいて、はあはあゼエゼエよだれを垂らしてガッつきはじめたことはわかります。

 それに比べて、直木賞はどうだったか。いや、直木賞だって十分マスコミに取り上げられて話題になっていたはずだ、というのは、ワタクシも理解できるんですけど、でもどうして講演会を開くときに、アクタ何とか賞にスポットを当てるのが先で、昭和35年/1960年になってようやく両賞並列の企画にしたのか。そりゃないぜ、文春の企画担当者よ、とまた今週も愚痴を言いたくなりますが、1960年前後、直木賞がどう見られていたのか、こういうところにも一端が表われているものとして、黒歴史のひとつとして挙げておくことにします。

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