昭和38年/1963年に直木賞で落選した梶山季之、その翌年から文藝春秋主催の講演会の常連となる。
先週は五木寛之さんを取り上げました。作家とは物を書くことばかりが仕事じゃないんだ、と言わんばかりに、講演だって表現手段の一つなんだから、れっきとした「作家のお仕事」だという方向性を打ち出した人です。
人前に出て、ある程度のスジをもったハナシを、まとまった時間しゃべることができる。……全国各地で文芸講演会というものが多く行われるようになればなるほど、そういった才能のある作家は重宝されます。
それがベストセラー作家となれば、なおさらです。本がたくさん売れて名前が通っている。そういう人は講演をやっても人が呼べるからです。
昭和から平成、令和と数々のベストセラー作家が現われ、あまりオモテに顔を見せない人も少なからずいましたが、積極的に講演仕事を受けて東奔西走、全国をめぐりめぐった人もいます。たとえば梶山季之さんです。
梶山さんがどの程度、講演の数をこなしたのか。具体的な数は、すみません、ワタクシにはわかりません。
ただ、直木賞の候補になった第49回(昭和38年/1963年・上半期)の段階で、すでにトップ屋として文藝春秋とはズブズブの関係にあり、『黒の試走車』(昭和37年/1962年・光文社/カッパ・ノベルス)をはじめ、本から雑誌から原稿を猛烈に書きまくる筆の力はよく知られるところ、まず下馬評では有力候補のひとりと目されていながら、けっきょく直木賞を受賞させることができなかった、直木賞史上にいくつか残る汚点のひとつとして、いまも語り継がれています(たぶん)。
いまの世のなかだったら、2度、3度、と候補に挙がっているうちにそのうち、梶山さんも直木賞受賞者になったかもしれません。しかし、昭和38年/1963年ごろには、いちおう直木賞は新人賞なので、その受賞をもって世間にお披露目をするという役割がある、だから名が知られたり将来にわたって小説をガシガシ発表していく手づるに事欠かない売れっ子は、もはや直木賞を送る意味がない……といった考え方が残っていた時代でもあった、と洩れ聞いています。
その意味では梶山さんが2度め以降の候補入りから(意識的には無意識的にか)外されたのは、とくに理由のないことではありませんし、直木賞をもらわなくたって、その後、読者にわくわくドキドキを提供する娯楽小説を大量に提供できたのだから、直木賞などというお墨付きは梶山さんには不要だった、と言っちゃってもいいと思います。まあ、梶山さんは直木賞をけっこう欲しかったみたいですけど。
しかしそれはそれ、直木賞に落選しようが、それは別に文壇からハブられたことを意味しません。逆に活発・活動的な梶山さんは、講演会の主催者にとっては呼びやすく、名も売れている、話題も豊富、ユーモアもある、と講演にはうってつけの作家になっていきます。
『積乱雲とともに 梶山季之追悼文集』(昭和56年/1981年5月刊)にある「梶山季之完全年譜」を見ると、昭和38年/1963年9月のところに第49回直木賞の落選のことが出ていますが、その翌年から毎年のように「文春講演」という項目が入っています。
| 日程 | 講演名 | 場所 |
|---|---|---|
| 昭和39年/1964年 5月 |
文春講演 | 山陰地方 |
| 昭和40年/1965年 3月 |
文春講演 | 北九州地方 |
| 昭和41年/1966年 4月 |
文春講演 | 山陽地方 |
| 同年 5月 |
文春講演 | 北陸地方 |
| 同年 6月 |
文春講演 | 近畿地方 |
| 昭和42年/1967年 2月 |
文春講演 | 沖縄地方 |
| 同年 3月 |
文春講演 | 近畿地方 |
| 同年 5月 |
文春講演 | 九州地方・近畿地方 |
| 同年 10月 |
文春講演 | 九州地方 |
| 昭和43年/1968年 4月 |
文春講演 | 四国地方 |
| 同年 6月 |
文春講演 | 九州地方 |
| 同年 7月 |
文春講演 | 中部地方 |
| 昭和45年/1970年 6月 |
文春講演 | 東北地方 |
| 昭和46年/1971年 5月 |
文春講演 | 北陸地方 |
| 昭和47年/1972年 11月 |
文春講演 | 関東地方 |
| 昭和48年/1973年 4月 |
文春講演 | 北九州地方 |
| 同年 9月 |
文春講演 | 山陰地方 |
| 昭和49年/1974年 5月 |
文春講演 | 南紀地方 |
そして昭和50年/1975年5月、取材先の香港で吐血し、45歳で亡くなりました。
文春の講演というのは作家に対する慰安旅行のような性格も兼ねていたとは思いますが、これだけひんぱんに駆り出され、おお、行く行く、と本人も乗り気で縦横無尽に駆け巡ったのですから、カジさん、働きすぎだよ、とまわりからさんざん言われた、という逸話があるのもうなずけます。
この『追悼文集』には、講演会にまつわるエピソードもいくつか入っていますが、文藝春秋の名物社員だった樋口進さんは、こんなことを書いています。
「その日の聴衆を見て講演内容を決めるのはなかなか出来ないことだが、梶山さんはそれが出来た一人である。」(『積乱雲とともに 梶山季之追悼文集』所収 樋口進「文チン対漫チン」より)
だれもができるわけじゃありません。梶山さんが小説を書く能力とは別に(あるいは関係があるのかもしれませんが)備えた一種の才能でしょう。デキる作家、梶山季之は、デキル講演者でもあった、というわけです。
まあ少なくとも、第49回の直木賞を受賞したおジイちゃん佐藤得二さんには、これだけ精力的に物語を生み出し、全国を講演してまわるパワーがなかったのは、たしかなことでしょう。第49回の直木賞が梶山さんに授賞できなかったのは、やはり、あーミスっちまったな直木賞、と後世に伝えつづけるべき失敗だと思います。





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