胡桃沢耕史、直木賞をとった直後(昭和58年/1983年10月)に講演会小説「青木賞の取り方」を発表する。

胡桃沢耕史の墓のほうから直木三十五の墓(右)を眺める。
先日、7月15日(水)の夜に第175回(令和8年/2026年・上半期)直木賞に関することで、ブログを一本のせました。
そこでも書いたんですが、ここ4年ばかり、毎年7月の直木賞の日には、横浜・長昌寺にある直木三十五さんのお墓に行っています。直木賞というものが、そもそも直木さんを追悼する発想で生まれたものだからです。
直木さんのお墓に参る。……ということは、どういうことか。自動的に、胡桃沢耕史さんのお墓を詣でることになります。
第89回(昭和58年/1983年・上半期)直木賞受賞者、胡桃沢さんのことは、うちのブログでもクドいくらいに紹介してきました。もちろんそんなもの、胡桃沢さんの長い作家歴のなかでほんの一握りの、ほとんど触れていないに等しいぐらいのエピソードでしかなく、それが悲しくもありますが、今年も直木さんの横にある胡桃沢さんの墓石に手を合わせながら、ああ、そういえば胡桃沢さんも講演会と直木賞、というテーマでは、当然取り上げておかなきゃいけない人だった、と思い出しました。
なので、今週は昭和50年代なかば、講演会と直木賞の関係性がジュクジュクと熟していたそのころに直木賞を受賞した胡桃沢さんのハナシを書いておくことにします。
いまさら言うまでもなく(とか言いながら、繰り返し言いますけど)、胡桃沢さんは若いうち――およそ30代の頃から、まわりにいた仲間たちがぞくぞくと直木賞をとって「エラい人」扱いされていくのを体験し、そのうちおれも、とせっせと小説を書きつづけましたが候補にも挙がらない時期が続くうちに、おカネの稼げるエロティックな領域で職業作家となったものの、いつまでも満たされないものを感じていたのか、もう一度、中間小説・大衆小説の王道で直木賞にチャレンジしたい、と昭和50年代に筆名を改めて書きはじめたところ、これはこれで話題になるかも、と文春の人たちに思われたのか候補に挙がるようになって、ああだこうだ、とマスコミに登場しては直木賞に対する執念を語り続けるうちに、第89回のとき『黒パン俘虜記』で受賞を果たします。
ときに胡桃沢さん58歳。選考委員で「先輩」と見なせるのは、村上元三さん、源氏鶏太さんの2人ぐらいのもので、水上勉さんもギリ先輩といっていいでしょうけど、そのほかの人は同輩や後輩ばかり。とくに受賞後に起きた、城山三郎さんの委員辞任事件とか、池波正太郎さんとの確執とか、胡桃沢さんの「ヤラかし芸」が冴えまくって、直木賞の歴史に、ポッと妖しげな光をともしてくれました。
その胡桃沢さんに、直木賞をとったあとの講演会に関するこんな文章があります。
「それにしても直木賞の価値はやたらに高くなった。いまでは数ある賞の中で最大の騒がれ方をする、社会的な行事になってしまった。文化勲章だってあんなに大きく報道されない。
(引用者中略)
直木賞に対する世間の評価というのは、想像以上に高い。ぼくは愛媛県で講演をしたことがあるが、会場に行ったら、入り口に大きな看板が立っていた。「直木賞作家講演会」とあって、肝心の胡桃沢耕史の名前がない。要するに直木賞作家ならだれでもいいわけだ。」(平成3年/1991年4月・廣済堂出版刊、胡桃沢耕史・著『翔んでる人生』所収「直木賞の取り方を教えます」より)
この「直木賞の取り方を教えます」は、初出が『正論』平成2年/1990年10月号です。それからいまは36年たちましたが、こないだも芦辺拓さんがXで、映画『宝島』の原作クレジットの扱いが、作家の名前ではなく「直木賞受賞作」を大きく出したことをポストしてバズっていました。やたらと「直木賞」という三文字を強調させる風潮は、残念ながら当時から変わっていないようです。
胡桃沢さんはエッセイにしろ発言にしろ、けっこうモるくせがあることで知られています。じっさいの愛媛県での講演で、ほんとうにそんな大看板が出ていたのか、これはもう愛媛に住む直木賞オタクのどなたかが調べてくださることを期待するしかないんですけど、でも、たしかに「直木賞作家講演会」とドドーンと出ているのに講演者の名前がない、というのはいかにもありそうな風景です。
もうひとつ、胡桃沢さんが世間に放った「講演会と直木賞」に関する遺産(?)があります。「青木賞の取り方」という小説です。
どちらかというと、こちらのほうが、直木賞の歴史に刻まれるべき「講演会にまつわる事象」のひとつかもしれません。というのも、胡桃沢さんが直木賞を受賞したのが昭和58年/1983年7月で、その受賞決定と選評は同年『オール讀物』10月号に出たんですが、それと書店で並べられるタイミングの『問題小説』10月号で、胡桃沢さんはこの小説を発表しているからです。話題になりそうなら、すぐさまペンをとって挑戦的なタイトルの小説を書き上げてしまう。さすが胡桃沢さんしかできない芸当だ、と言っておきましょう。
この小説はのちに光文社文庫(平成4年/1992年9月)に収められています。まだ直木賞をとる前の胡桃沢さん自身を彷彿させる〈澄川正太郎〉なるエロジャンルで食ってきた小説家が、大衆文芸勉強会10月例会の講師となって、120人ほどの聴衆を前に、うらみまじり、くやしさまじりに文学賞「青木賞」はどうやったらとれるかを講演する、という内容です。
| 日程 | 場所 | 講師・演題 |
|---|---|---|
| 昭和58年/1983年 10月26日 |
東京・飯田橋駅近く 山形書店 7階ホール |
大衆文芸勉強会 十月例会 澄川正太郎 「青木賞の取り方」 |
ちなみに会場の「山形書店」というのは、いわゆる本屋ではなく、
「山形書店は飯田橋駅から歩いて十分のところにある中級の出版社である。『歴史と真実』という雑誌を刊行するときに、大崎の口ききで、この勉強会所属の作家の協力を受けたので、月に一回の例会には、無料で会議室を開放してくれ、女子社員の一人を残業させて、お茶の仕度までしてくれた。」(「青木賞の取り方」より)
かつて『歴史と旅』を出していた秋田書店を思い起こさせます。
まあ、この作品に出てくる架空の固有名詞が、じっさいは誰の何をモデルにしているのか、それを追っていってもキリがありません。それより、やはりこの作品が面白いのは、怨念たっぷりの作家が、作家志望者を含む百ン十人の聴き手を相手に、青木賞という文学賞のことを講演する、という形式を選んだところです。
なぜ対面式で主人公に語らせるかたちをとったのか。胡桃沢さん自身が、このころ一気に市民権を得はじめていた「カルチャーセンター」の講座に、猛烈な反発を抱いていたため、それを逆手にとったパロディを、人々に語る形式でやってみただけかもしれません。作意はもはやわかりません。
ただ、先の胡桃沢さんのエッセイで書かれていたことではありますけど、直木賞というものが文学やら楽しい読み物やら、そういった枠組みを超えて、いわば「社会的な行事」になった、ということを示すとき、本を読む種類の人たちではない大衆に向けた講演会、というものが、やたらと世間で評価が高いこの賞の姿を、たしかに象徴していると思います。
直木賞は、じっさいに候補作や受賞作を読まなくたって、人々の関心の対象になる。きっと胡桃沢さんは自身の経験から、その性質を十二分に味わっていたので、受賞第一作(のひとつ)としてこういう講演会小説を書いたんでしょう。
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