« 第1回直木賞贈呈式が文藝春秋愛読者大会(昭和10年/1935年10月28日、於・日比谷公会堂)の中で挙行される。 | トップページ | ウォレス・スティーグナーの講演(昭和26年/1951年1月)で聴講者・小山いと子が手を挙げる。 »

2026年6月21日 (日)

文藝銃後運動の樺太行(昭和16年/1941年7月)が長谷川幸延に直木賞を受賞させる芽を摘む。

 時代はどんどん進んでいます。

 なのに、戦前の文春がどうとか、菊池寛がどうとか、昔のことをだらだら調べていったい何になるんだ、と思わないでもありません。しかし、どれだけ直木賞が「講演会」と密接な関係だったかを見るには、やはり戦前・戦中をガッツリおさえておかなかいと駄目なんじゃないか。と、強く自分に言い聞かせて、今週も飽きずに、昭和10年代のハナシをつづけます。

 昭和10年代の文藝春秋社といえば何でしょう。何はなくとも、戦争協力です。

 日本がよそさまの国にまでわざわざ乗り出していって、威張りくさった態度で増上慢に振る舞った10年かそこらのあの時期です。菊池寛さん以下、文藝春秋社の人たちも、会社を守るために仕方ないところはあったんだろうとは思いますが、メディアを使って戦意高揚を煽り立てて、イクサだイクサだと拳をぶん回します。

 まあ、これは別に文藝春秋社に限ったことではありません。新潮社も講談社も中央公論社も改造社も、出版社という出版社は軒並み、拳をどれだけ盛大に振りまわすか、競い合っていました。

 そのなかで文春の特徴といえば何なのか。これはもう、会社のトップが顔も名前も知れ渡った有名作家だったこと。これに尽きると断言できます。

 いや。そんな簡単に断言なんかしてはいけません。ボロが出ないうちに、さっさと撤回しておきますが、ともかく文藝春秋といえば菊池寛、菊池寛といえば文藝春秋。それは広く世間が共有していたイメージなのはたしかでしょう。

 で、有名作家が出版社を采配していたから何なのか。というと、人間の動静そのものが注目を浴びています。おかげで、その立ち居振る舞いがそのまま抜群の宣伝効果につながる、ということです。

 これから戦争をやっていこうとするときに、菊池さんは自ら宣伝塔になり得ることを自覚して、かなり積極的に戦意高揚を打ち出して立ち回ります。それを見て、あたら好戦的な気持ちを加熱させたり、自ら戦地に赴いて命を落としたり、そういう人は決してゼロではなかったでしょう。このあたりの責任は、菊池さんや文藝春秋社に対する悪感情を、いまでも根強く育てることになっているのかどうか、よくわかりませんが、ひとまずこのブログで触れたいのは「講演会と直木賞」のことです。難しいハナシはさておいておきます。

 昭和15年/1940年から、文藝春秋社は文藝家協会との共催というかたちで「文藝銃後運動」を始めます。共催とは言っても、どちらもカシラは菊池寛さんです。両者、ほぼいっしょくたみたいな存在です。

 それで、戦地ではなく銃後の位置にいて、文藝の方面からどんな運動をするというのでしょう。菊池さんたちが選んだのが、全国各地を作家やら文学者やらが回りつつ、多くの聴衆を集めてハナシをする……つまり講演会をやる、ということだったのが、講演大好き菊池さんらしいと言いますか、けっきょく過去にやったことを繰り返しただけと言いますか。よほど生身の人間が生身の人間たちに対して語ることの効果を認めていたんだろうと思います。

日程 場所 講師
昭和15年/1940年
5月
東海・近畿(浜松、静岡、岐阜、名古屋、京都、大阪、神戸、和歌山) 久米正雄、岸田国士、横光利一、林芙美子、中野実、吉川英治、菊池寛
6月 甲信越・北陸(甲府、松本、長野、新潟、富山、金沢、福井) 久米正雄、小島政二郎、川口松太郎、小林秀雄、中野実、北村小松、菊池寛、富澤有為男
7月 東北(仙台、盛岡、弘前、秋田、山形、福島) 佐々木邦、中山義秀、今日出海、阿部知二、日比野士朗、久米正雄
7月6日 東京(神田共立講堂) 中村武羅夫、石川達三、吉屋信子、吉川英治、菊池寛
7月8日 東京(早稲田大隈会館) 阿部知二、川端康成、林芙美子、広津和郎、豊島与志雄
7月10日 東京(青山会館) 片岡鉄兵、芹沢光治良、下村海南、横光利一、里見弴
7月12日 東京(本所公会堂) 中野実、舟橋聖一、長谷川時雨、佐々木邦、久米正雄
7月14日 東京(日比谷公会堂) 久米正雄、林房雄、尾崎士郎、豊島与志雄、吉川英治、菊池寛
7月15日 横浜 木々高太郎、長谷川伸、小島政二郎、大佛次郎、久米正雄
7月18日 千葉 上司小剣、岡田三郎、式場隆三郎、尾崎士郎、高田保
7月20日 水戸 村松梢風、甲賀三郎、石川達三、吉川英治、徳川夢声
7月21日 宇都宮
7月23日 高崎 林房雄、辰野九紫、藤森成吉、河上徹太郎、子母沢寛
7月24日 前橋
7月25日 浦和 片岡鉄兵、丹羽文雄、今日出海、白井喬二、辰野九紫
8月 朝鮮・満洲(釜山、大邱、京城、平壌、新京、大連、奉天、ハルビン) 菊池寛、久米正雄、大佛次郎、中野実、小林秀雄、木村毅
8月 北海道(函館、小樽、札幌、旭川、室蘭) 白井喬二、吉川英治、片岡鉄兵、石川達三
9月 中国(姫路、鳥取、松江、岡山、呉、広島) 島木健作、片岡鉄兵、上田広、久米正雄、加藤武雄
10月 四国(高知、徳島、高松、松山) 横光利一、林芙美子、高見順、浜本浩、高田保
11月 九州(小倉、宮崎、鹿児島、熊本、長崎、佐世保、久留米、大分) 小島政二郎、石川達三、日比野士朗、島木健作、小林秀雄、久米正雄
12月 那覇、台湾(台北、台中、台南、高雄、新竹)、広東 菊池寛、中野実、久米正雄、火野葦平、吉川英治
昭和16年/1941年6月 甲信越 中村武羅夫、新居格、井伏鱒二、亀井勝一郎、日比野士朗
7月 樺太 菊池寛、久米正雄、富澤有為男
8月 北海道 久米正雄、和田伝、中島健蔵、石坂洋次郎、大佛次郎(青森のみ)
8月 関東 久米正雄、舟橋聖一、日比野士朗、上田広
9月 満洲 小島政二郎、片岡鉄兵、久米正雄
9月 近畿・中国 河上徹太郎、石川達三、中山義秀、阿部知二
10月 北九州 竹田敏彦、中野実、井伏鱒二、舟橋聖一、今日出海
12月8日 大宮 菊池寛、横光利一、水原秋桜子
12月10日 八王子 菊池寛、瀧井孝作、林芙美子

 いったい、この2年間の運動が実を結んだのかどうなのか。

 社会に起きるたいていの出来事は、原因と結果が一直線で結びつくことは稀なので、作家たちが意気揚々と全国をめぐったこの試みが、多くの人に「よし、それなら日本全国一致団結して戦いに臨んでやろう!」という気を起こさせたのかは、もはやよくわかりません。

 わかることといえば、こんなことをやらなければ、おそらく「直木賞史上最もツイていない男」長谷川幸延さんが直木賞を受賞していた過去があり得た、ということです。

 昔むかし、うちのブログでも取り上げました。戦前・戦後と直木賞の候補に7回挙げられ、けっきょく受賞しなかった長谷川さんが、最も受賞に近づいた瞬間。第14回(昭和16年/1941年・下半期)です。このときの候補作は「模型飛行機」と「幼年画報」で、選考会は昭和17年/1942年2月に行われました。

 小島政二郎さんが猛烈に推しに推したものの、大勢の賛同を得られず、とくに菊池寛さんが、うーん、それほどの作品じゃないな、と乗り気を見せずに落選させてしまいます。ところが、あとになって菊池さんが、長谷川さんの旧作「冠婚葬祭」や「末広」を読んで、うおー、これはなかなかのもんじゃないかと意見を改めて、

「審査決定後、同君の「冠婚葬祭」や「末広」などの旧作品を読んだが(これは、昨年候補に上ったのだが自分は樺太旅行のためよまなかったのだ)、これらは大衆文学として相当な作品である。自分が、これらの作品を読んでいたら、小島君の主張に賛成したかも分らないと思うので、同君には少し気の毒に思っている。」(『文藝春秋』昭和17年/1942年3月号「話の屑籠」より)

 と言うに及んだものですから、長谷川幸延、どんだけツイていないんだよ、と後世に生まれたワタクシをガックリさせた一件です。

 たしかに前回、長谷川さんが候補になった第13回(昭和16年/1941年・上半期)は選考会が昭和16年/1941年7月に開かれています。委員のうち、菊池さん、久米正雄さん、大佛次郎さんの3人が「文藝銃後運動」のために欠席。菊池、久米の両名は樺太に行っていました。

 せっせと講演会をひらいたことが、一人の作家の(いや、もっといるかも)直木賞受賞という未来を阻んでしまった、と言うこともできます。ツイてる・ツイてない、で済ませていいのか、という感じもしますが、長谷川さんもそして直木賞も、講演会のほうに事情を優先されてしまって、まったく可哀想なことです。

|

« 第1回直木賞贈呈式が文藝春秋愛読者大会(昭和10年/1935年10月28日、於・日比谷公会堂)の中で挙行される。 | トップページ | ウォレス・スティーグナーの講演(昭和26年/1951年1月)で聴講者・小山いと子が手を挙げる。 »

講演会と直木賞」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 第1回直木賞贈呈式が文藝春秋愛読者大会(昭和10年/1935年10月28日、於・日比谷公会堂)の中で挙行される。 | トップページ | ウォレス・スティーグナーの講演(昭和26年/1951年1月)で聴講者・小山いと子が手を挙げる。 »