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2026年6月の4件の記事

2026年6月28日 (日)

ウォレス・スティーグナーの講演(昭和26年/1951年1月)で聴講者・小山いと子が手を挙げる。

 直木賞に関連して、という前提で講演会の歴史を見たときに、植村宗一さんによる主潮社の講演、菊池寛さんによる文春講演会と文藝銃後講演会、これらは確実に重要な部類に入ると思います。

 それらと並んで、他にどんなものがあるか。そう考えると、コレなんかも最重要の講演会と言っていいでしょう。ウォレス・スティーグナーさんによる慶應義塾大学での連続講演です。

 うちのブログでも、これまでさんざんコスり倒してきました。相変わらず同じネタの使いまわしで、芸がないのが恥かしいですけど、当然「講演会と直木賞」というテーマでいえば外すことができません。あらためて取り上げておきます。

 ウォレス・スティーグナー Wallace Stegner さんです。はてさて、だれでしょう。

 明治42年/1909年2月18日、アメリカ・アイオワ州生まれ。平成5年/1993年4月13日没。О・ヘンリー賞をたびたび受賞したほか、ピューリッツァー賞(昭和47年/1972年)を受賞した"Angle of Repose"とか、全米図書賞(昭和52年/1977年)を受賞した"The Spectator Bird"などの作品で知られている……のかどうなのか、ワタクシもよくわかりませんが、以前うちのブログでは小説教室のことを調べているときに話題に挙げたことがあります。大学で創作科というものをつくり、自身が作家でありながら、生徒に小説の実作を教えたり論じたりしていた人でもある、ということです。

 そのスティーグナーさんが、ロックフェラー財団から委嘱されて、世界にはたくさんの文学者が活動している、うちがお金を出してあげるから、各地をめぐりながら彼らと交流をはかってきてほしい、とハナシを受けて、昭和25年/1950年8月に家族をともなってアメリカから旅に出ます。

 ドイツ、フランス、イタリア、エジプト、インド、タイ、フィリピンとめぐったのちに、たどりついたのが極東の敗戦国、日本です。昭和26年/1951年1月22日にマニラから羽田空港に到着し、その日の午後には宿泊先の東京・目黒の「雅叙園」に移動して、記者たちを相手に会見を開きました。

 おお、あのキラキラしたカッチョいいアメリカからわざわざ、こんなドス汚い日本のために、ど偉い先生が足を運んでくださった。やった、やった、いらっしゃいませ、と当時の日本人記者たちもうれしかったのかもしれません。ともかくこれが新聞記事になるぐらいには、ニュース価値があることだったようです。

 日本にやってきて、あまり休むひまもなく、スティーグナーさんは慶應義塾の演台に立ちます。そこで何を語ったのか。基本的にはアメリカにおける文学の歴史とか昨今の事情などを話してくれたそうです。

日程 場所 講師・演題
昭和26年/1951年
1月24日から
約1週間(6回)
慶應義塾大学 ウォレス・スティーグナー
  • アメリカ文学の伝統
  • 現代アメリカ文学の主潮
  • 作家志望学生の諸問題
  • 現代米国作家の当面する諸問題
  • アメリカの文藝ジャーナリズム
  • 現在及び将来の文学の国際性

 何ひとつ直木賞なんちゅうクサれ文学賞とは関係がなさそうな講演だったんですが、その聴衆のひとりに小山いと子さんがいたものですから、事件が起こります。

 あるいは、小山さんがいたから、というか、講談社の編集者だった大久保房男さんがその場にいて、何が起きたかの回想を『終戦後文壇見聞記』(平成18年/2006年5月・紅書房刊)に書き留めておいてくれたから、それから70年以上もたって「直木賞」にまつわる講演会の出来事として取り上げることができるわけです。大久保さんのおかげかもしれません。

 同書によると、講演の質疑応答のときに、やおら観客席にいた小山さんが発言を求めて、スティーグナーさんとのあいだにこんなやりとりがあったのだと伝えられています。

(引用者注:小山いと子は以下のように発言した)「わたしが純文学として書いた小説に大衆小説の賞が与えられた」「日本では自分のことを書いた私小説しか純文学とは認めなくて、虚構の小説は大衆小説とされてしまう、それは文学者だけでなく、文藝雑誌の編集者も同じように考えている」

(引用者中略)

ステグナー博士は小山女史に、あなたの高いクオリティーの小説に大衆小説の賞が与えられて、多くの読者に迎えられたことは大変羨しいことである、といったようなことを答えた。」(大久保房男・著『終戦後文壇見聞記』より)

 小山さんが「執行猶予」で直木賞を受賞したのは第23回(昭和25年/1950年・上半期)です。受賞が決まったのは昭和25年/1950年9月4日のことで、もともと小山さんが純文学と見られるフィールドで活動してきたこと、なかんずく「執行猶予」という小説が総合雑誌の『中央公論』に掲載された作品だったことから、ほんとにこれが直木賞でいいのか、などなど、受賞直後から文壇界隈ではちょっとした炎上案件になっていました。

 スティーグナーさんの講演会はそれからまだ半年足らずの出来事です。小山さんもまわりからいろいろ言われて、よほど憤然としていたのだろう、と想像できます。

 しかし考えてみれば、直木賞はたしかに大衆小説のための賞とは言っていますけど、どうして純文学のつもりで書いた小説に与えてはいけないのか。一つや二つそういうものに与えただけで、どうしてギャーギャーとまわりで騒ぎ立てる人が増えるのか。小山さんの例だけでなく、戦前の井伏鱒二さんから始まって、事あるごとにそんなギャーギャー騒動が繰り返されてきました。直木賞をめぐる周辺状況にとっては、おそらく永遠のテーマにはちがいありません。

 その永遠性のある疑問を、たくさんの聴衆がいる講演会の場で、受賞者みずからが提示した、というのは小山さん、グッド・ジョブだったと称えるしかないんですけど、もしかしたらこの辺りの感覚はいまでもあんまり変わっていなくて、たとえば純文学でデビューした人が純文学のつもりで書いた小説に、いま直木賞が与えられたら、おそらくギャーギャー言う人はたくさん出てきそうです。

 今度、そういう例が出たら、当の受賞者がどんな発言をするのか、講演会をやってもらってぜひ観に行きたいと思います。

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2026年6月21日 (日)

文藝銃後運動の樺太行(昭和16年/1941年7月)が長谷川幸延に直木賞を受賞させる芽を摘む。

 時代はどんどん進んでいます。

 なのに、戦前の文春がどうとか、菊池寛がどうとか、昔のことをだらだら調べていったい何になるんだ、と思わないでもありません。しかし、どれだけ直木賞が「講演会」と密接な関係だったかを見るには、やはり戦前・戦中をガッツリおさえておかなかいと駄目なんじゃないか。と、強く自分に言い聞かせて、今週も飽きずに、昭和10年代のハナシをつづけます。

 昭和10年代の文藝春秋社といえば何でしょう。何はなくとも、戦争協力です。

 日本がよそさまの国にまでわざわざ乗り出していって、威張りくさった態度で増上慢に振る舞った10年かそこらのあの時期です。菊池寛さん以下、文藝春秋社の人たちも、会社を守るために仕方ないところはあったんだろうとは思いますが、メディアを使って戦意高揚を煽り立てて、イクサだイクサだと拳をぶん回します。

 まあ、これは別に文藝春秋社に限ったことではありません。新潮社も講談社も中央公論社も改造社も、出版社という出版社は軒並み、拳をどれだけ盛大に振りまわすか、競い合っていました。

 そのなかで文春の特徴といえば何なのか。これはもう、会社のトップが顔も名前も知れ渡った有名作家だったこと。これに尽きると断言できます。

 いや。そんな簡単に断言なんかしてはいけません。ボロが出ないうちに、さっさと撤回しておきますが、ともかく文藝春秋といえば菊池寛、菊池寛といえば文藝春秋。それは広く世間が共有していたイメージなのはたしかでしょう。

 で、有名作家が出版社を采配していたから何なのか。というと、人間の動静そのものが注目を浴びています。おかげで、その立ち居振る舞いがそのまま抜群の宣伝効果につながる、ということです。

 これから戦争をやっていこうとするときに、菊池さんは自ら宣伝塔になり得ることを自覚して、かなり積極的に戦意高揚を打ち出して立ち回ります。それを見て、あたら好戦的な気持ちを加熱させたり、自ら戦地に赴いて命を落としたり、そういう人は決してゼロではなかったでしょう。このあたりの責任は、菊池さんや文藝春秋社に対する悪感情を、いまでも根強く育てることになっているのかどうか、よくわかりませんが、ひとまずこのブログで触れたいのは「講演会と直木賞」のことです。難しいハナシはさておいておきます。

 昭和15年/1940年から、文藝春秋社は文藝家協会との共催というかたちで「文藝銃後運動」を始めます。共催とは言っても、どちらもカシラは菊池寛さんです。両者、ほぼいっしょくたみたいな存在です。

 それで、戦地ではなく銃後の位置にいて、文藝の方面からどんな運動をするというのでしょう。菊池さんたちが選んだのが、全国各地を作家やら文学者やらが回りつつ、多くの聴衆を集めてハナシをする……つまり講演会をやる、ということだったのが、講演大好き菊池さんらしいと言いますか、けっきょく過去にやったことを繰り返しただけと言いますか。よほど生身の人間が生身の人間たちに対して語ることの効果を認めていたんだろうと思います。

日程 場所 講師
昭和15年/1940年
5月
東海・近畿(浜松、静岡、岐阜、名古屋、京都、大阪、神戸、和歌山) 久米正雄、岸田国士、横光利一、林芙美子、中野実、吉川英治、菊池寛
6月 甲信越・北陸(甲府、松本、長野、新潟、富山、金沢、福井) 久米正雄、小島政二郎、川口松太郎、小林秀雄、中野実、北村小松、菊池寛、富澤有為男
7月 東北(仙台、盛岡、弘前、秋田、山形、福島) 佐々木邦、中山義秀、今日出海、阿部知二、日比野士朗、久米正雄
7月6日 東京(神田共立講堂) 中村武羅夫、石川達三、吉屋信子、吉川英治、菊池寛
7月8日 東京(早稲田大隈会館) 阿部知二、川端康成、林芙美子、広津和郎、豊島与志雄
7月10日 東京(青山会館) 片岡鉄兵、芹沢光治良、下村海南、横光利一、里見弴
7月12日 東京(本所公会堂) 中野実、舟橋聖一、長谷川時雨、佐々木邦、久米正雄
7月14日 東京(日比谷公会堂) 久米正雄、林房雄、尾崎士郎、豊島与志雄、吉川英治、菊池寛
7月15日 横浜 木々高太郎、長谷川伸、小島政二郎、大佛次郎、久米正雄
7月18日 千葉 上司小剣、岡田三郎、式場隆三郎、尾崎士郎、高田保
7月20日 水戸 村松梢風、甲賀三郎、石川達三、吉川英治、徳川夢声
7月21日 宇都宮
7月23日 高崎 林房雄、辰野九紫、藤森成吉、河上徹太郎、子母沢寛
7月24日 前橋
7月25日 浦和 片岡鉄兵、丹羽文雄、今日出海、白井喬二、辰野九紫
8月 朝鮮・満洲(釜山、大邱、京城、平壌、新京、大連、奉天、ハルビン) 菊池寛、久米正雄、大佛次郎、中野実、小林秀雄、木村毅
8月 北海道(函館、小樽、札幌、旭川、室蘭) 白井喬二、吉川英治、片岡鉄兵、石川達三
9月 中国(姫路、鳥取、松江、岡山、呉、広島) 島木健作、片岡鉄兵、上田広、久米正雄、加藤武雄
10月 四国(高知、徳島、高松、松山) 横光利一、林芙美子、高見順、浜本浩、高田保
11月 九州(小倉、宮崎、鹿児島、熊本、長崎、佐世保、久留米、大分) 小島政二郎、石川達三、日比野士朗、島木健作、小林秀雄、久米正雄
12月 那覇、台湾(台北、台中、台南、高雄、新竹)、広東 菊池寛、中野実、久米正雄、火野葦平、吉川英治
昭和16年/1941年6月 甲信越 中村武羅夫、新居格、井伏鱒二、亀井勝一郎、日比野士朗
7月 樺太 菊池寛、久米正雄、富澤有為男
8月 北海道 久米正雄、和田伝、中島健蔵、石坂洋次郎、大佛次郎(青森のみ)
8月 関東 久米正雄、舟橋聖一、日比野士朗、上田広
9月 満洲 小島政二郎、片岡鉄兵、久米正雄
9月 近畿・中国 河上徹太郎、石川達三、中山義秀、阿部知二
10月 北九州 竹田敏彦、中野実、井伏鱒二、舟橋聖一、今日出海
12月8日 大宮 菊池寛、横光利一、水原秋桜子
12月10日 八王子 菊池寛、瀧井孝作、林芙美子

 いったい、この2年間の運動が実を結んだのかどうなのか。

 社会に起きるたいていの出来事は、原因と結果が一直線で結びつくことは稀なので、作家たちが意気揚々と全国をめぐったこの試みが、多くの人に「よし、それなら日本全国一致団結して戦いに臨んでやろう!」という気を起こさせたのかは、もはやよくわかりません。

 わかることといえば、こんなことをやらなければ、おそらく「直木賞史上最もツイていない男」長谷川幸延さんが直木賞を受賞していた過去があり得た、ということです。

 昔むかし、うちのブログでも取り上げました。戦前・戦後と直木賞の候補に7回挙げられ、けっきょく受賞しなかった長谷川さんが、最も受賞に近づいた瞬間。第14回(昭和16年/1941年・下半期)です。このときの候補作は「模型飛行機」と「幼年画報」で、選考会は昭和17年/1942年2月に行われました。

 小島政二郎さんが猛烈に推しに推したものの、大勢の賛同を得られず、とくに菊池寛さんが、うーん、それほどの作品じゃないな、と乗り気を見せずに落選させてしまいます。ところが、あとになって菊池さんが、長谷川さんの旧作「冠婚葬祭」や「末広」を読んで、うおー、これはなかなかのもんじゃないかと意見を改めて、

「審査決定後、同君の「冠婚葬祭」や「末広」などの旧作品を読んだが(これは、昨年候補に上ったのだが自分は樺太旅行のためよまなかったのだ)、これらは大衆文学として相当な作品である。自分が、これらの作品を読んでいたら、小島君の主張に賛成したかも分らないと思うので、同君には少し気の毒に思っている。」(『文藝春秋』昭和17年/1942年3月号「話の屑籠」より)

 と言うに及んだものですから、長谷川幸延、どんだけツイていないんだよ、と後世に生まれたワタクシをガックリさせた一件です。

 たしかに前回、長谷川さんが候補になった第13回(昭和16年/1941年・上半期)は選考会が昭和16年/1941年7月に開かれています。委員のうち、菊池さん、久米正雄さん、大佛次郎さんの3人が「文藝銃後運動」のために欠席。菊池、久米の両名は樺太に行っていました。

 せっせと講演会をひらいたことが、一人の作家の(いや、もっといるかも)直木賞受賞という未来を阻んでしまった、と言うこともできます。ツイてる・ツイてない、で済ませていいのか、という感じもしますが、長谷川さんもそして直木賞も、講演会のほうに事情を優先されてしまって、まったく可哀想なことです。

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2026年6月14日 (日)

第1回直木賞贈呈式が文藝春秋愛読者大会(昭和10年/1935年10月28日、於・日比谷公会堂)の中で挙行される。

 ついこないだ、令和8年/2026年6月11日に第175回(令和8年/2026年・上半期)直木賞の候補作が発表されました。

 半年に1回、定期的にやってくるお決まりのニュースなので、わざわざブログで言及するほどのことでもありません。……とは思ったんですけど、今回は最近ではあまり珍しいとは言えなくなった「芸能界で活躍中の方が候補入り」という意味で、朝のワイドショーからスポーツ新聞からネットのSNS界隈まで、直木賞だ直木賞だと騒がしくなっています。こういう光景を見るのが、人生最上の幸せと感じるタチなので、今週はうちのブログも、芸能人と直木賞のことに目を向けたいなと思います。

 とは言いましても、今年のブログのテーマは「講演会と直木賞」です。芸能人に触れるにしても、やはりその路線に沿って書いてみよう、と先週の自分のブログを見返したところ、ちょうど直木賞が始まる直前に、文藝春秋社が盛んに文藝講演会をひらくようになった、というハナシに注目したところでした。

 その流れで言うと、重要になってくるのが第1回(昭和10年/1935年・上半期)直木賞の授賞式です。

 いまとなっては、直木賞の授賞式というと、招待者・関係者しか入れない閉鎖的な行事になっています。しかし第1回当時は事情が違って、このときは『文藝春秋』の読者たちに向けた「東京愛読者大会」のプログラムの一つとして、多くの一般観衆の面前で直木賞の贈呈式が行われました。

 実際この頃の文春は、とにかく外に出ていって、じかの読者に対して事業を展開し、少しでも雑誌の宣伝になって実売部数を増やしたい、というモードに突入していた時期に当たります。昭和9年/1934年に東北、九州、近畿中国とまわったのにつづいて、昭和10年/1935年になると、他の各地でも文藝講演会をぞくぞくと開催しています。こんな感じです。

日程 場所 講師
昭和10年/1935年
3月6日
静岡(葵文庫) 小島政二郎、吉川英治、大佛次郎、横光利一、佐佐木茂索、菊池寛
3月7日 名古屋(公会堂)
3月8日 岐阜(公会堂)
9月13日 松本(公会堂) 大佛次郎、久米正雄、吉川英治、菊池寛、佐佐木茂索(+文藝講談:山野一郎)
9月14日 長野(図書館講堂)
9月15日 新潟(白山小学校)
9月16日 富山(県会議事堂)
9月17日 金沢(公会堂)
9月26日 青森(公会堂) 片岡鉄兵、岸田国士、阿部眞之助、小林秀雄、三上於莵吉、佐佐木茂索(+文藝講談:山野一郎)
9月27日 札幌(公会堂)
9月28日 小樽(議事堂)
9月29日 函館(松風小学校)
9月30日 秋田(記念会館)
10月1日 山形(第一小学校)
11月24日 和歌山(公会堂) 佐佐木茂索、大佛次郎、小林秀雄、小島政二郎、菊池寛

 この途中の10月28日に日比谷公会堂で東京愛読者大会を、11月25日に中ノ島公会堂で大阪愛読者大会を、12月26日に日比谷公会堂で第二次東京愛読者大会をそれぞれ開き、8月に決まった直木賞についても10月28日に贈呈式を挙行した、というわけです。

 では愛読者大会というのは何をしたのか。内容を見ると、やはりお得意の講演会があって、講師は穂積重遠さん、兼常清佐さんのほか、文芸畑からは久米正雄さんと小島政二郎さんが出ています。それから直木賞ともう一つの賞の贈呈式、および「余興」と称する出し物も行われ、二三吉さん、松原操さん、大辻司郎さん、古川緑波さん、徳川夢声さんが出演しました。

 この贈呈式で、第1回を受賞した川口松太郎さんはどんなことをしゃべったのか。ご本人による回想が残っています。

「授賞式は日比谷公会堂で、芥川賞の石川(引用者注:達三)と並んで受け、そのあとでこんなあいさつをした。

「直木は私に、小説家にはなれそうもないから思切れといった。その私が第一回の直木賞を受けてしまった。彼の先見の明を裏切ったような気がするので、多磨墓地の墓へ行ってあやまって来ます」

来会者は笑って拍手してくれた。いっしょに目を細めて、わが子の成功を見るように喜んでくれた菊池寛の顔は今でも目の前にある。」(昭和48年/1973年10月・講談社刊『人生悔いばかり』所収「「鶴八鶴次郎」」より)

 川口さん、このとき35歳。ちゃんと観衆から笑いが起こるような挨拶をするところが、さすが若くして立派なエンターテイナーです。

 それはそれでいいとして、ここで注目したいのは余興者の一人に徳川夢声さんがいることです。

 徳川さんといえば、先週のブログに書いた昭和9年/1934年文春講演旅行のなかにも名前が出ていました。活動弁士から出発して、俳優として舞台に上がりながら、ひとりで漫談もやってのけてしまうという、当時でもけっこう知る人の多かった芸能人です。そして『新青年』で多くのエッセイ、回顧録を書いているうちに、ユーモア小説も手がけるようになって、その文才は一般読者のみならず作家や編集者をもうならせていました。

 菊池寛さんや文藝春秋の人たちにも、相当かわいがられます。徳川さんが大辻司郎さんや古川緑波さんたちと喜劇団(おそらく「笑の王国」)をつくるときには、おれもできるだけ協力するよ、と菊池さんから温かい声援を受けたんだとか何だとか。ともかく、舞台の上に立って観衆を楽しませることにかけては筋金入り、それでしかも面白い小説が書ける、ということになれば、菊池さんが主導した文藝講演会の講師にもうってつけの存在だったわけです。

 昭和10年/1935年10月の、第1回直木賞贈呈式のときは、余興の出演者だったので講演会をしたわけではありません。ただ、講演もできる、余興で芝居や漫談もお手のもの、というのは、ふつうの作家にはできない芸当です。才人ムセイ、すでに直木賞ができたときから、文春のために大活躍していました。

 そばで見ていた、講師のひとり小島政二郎さんは、こんなふうに言っています。

「「文芸春秋」は毎年のやうに方々の劇場を借りて読者大会を催した。楽屋へ、いろいろの人が出入りをする。さう云ふ人達が、勢ひ菊池寛のまはりに集まつた。

ところが、見ると、もう一人自分のまはりに大勢の人を集めてゐる人物があつた。

それが徳川夢声だつた。云つて見れば、さながら菊池寛に対して一敵国を形づくつてゐる感じだつた。」(昭和27年/1952年8月・オリオン社出版部刊『夢諦軒句日誌二十年』所収 小島政二郎「初対面の頃」より)

 芸能の世界のスゴい人。その徳川さんの小説界に対する貢献を、どうにか形として示せないものかと、戦前の選考会ではたびたび議論に挙がったそうですし、戦後、第21回(昭和24年/1949年・上半期)のときには親友・獅子文六さんが猛烈に推して、芸能人・徳川夢声さんに直木賞が贈られる可能性は、そこまで低くなったんですけど、しかし結局、あげそこねてしまいました。

 直木賞の歴史に残る汚点の一つ、とも言われています(……いや、ワタクシが勝手に言っているだけです)。

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2026年6月 7日 (日)

文藝春秋の近畿中国地方講演会(昭和9年/1934年12月21日~26日、於・岡山・広島・呉・大阪・神戸・大阪)で川口松太郎が演台に立つ。

 講演会と直木賞。この2つには共通点があります。

 共通点と言おうか、そもそもが似た者同士と言おうか、それぞれが人間だったら、きっと隣人、親戚、あるいは親友ぐらいにはなっていたかもしれません。

 直木賞といえば、菊池寛さんが熱い友情と熱いカネ勘定を膨らませた結果、この世に生まれた事象です。いっぽう講演会のほうも、菊池さんがしょっちゅう企画しては一つの大きな事業として自分の会社の売りにしていました。また、どちらも菊池さんらが、若手、中堅どころの作家に収入の道を増やしてあげようとして必死に育てた、という点でも似ています。

 菊池寛。……有名人です。生前でも没後でも、いま現在でも、多くの人が興味をもって、語ったり批評したり、さまざまに研究されています。

 そのなかでもここで注目したいのは、菊池さんが大の講演好き、と言われていたことです。小島政二郎さんが言っています。

「菊池寛は講演が好きで、殆んど日本全国を回ったが、それほどではないまでも直木(引用者注:三十五)も好きで、菊池、芥川(引用者注:龍之介)、久米(引用者注:正雄)などと知り合った最初は、大阪で講演会を開いた時のことだった。」(「直木三十五」より ―『小島政二郎全集第三巻』昭和42年/1967年10月・鶴書房刊)

 そもそも「講演会」というものがなければ、直木さんと菊池さんが出会うこともなかった。というのは前週触れたとおりですが、いや、そこからハナシを延ばして、菊池さんが講演会に出ること、企画することが好きじゃなかったら、その後の『文藝春秋』の事業も違ったものになっていたでしょうし、文学賞をつくろう、なんて発想にも至らなかったのではないか。そう思われます。

 菊池さんの感覚のなかでは、講演会も文学賞も、文芸にまつわる事業として近いところにあったのはたしかです。芥川さんが自殺したとき、『文藝春秋』として昭和2年/1927年9月号を「芥川龍之介追悼号」としたのにとどまらず、その年の10月には、「芥川龍之介全集刊行会」同人との共催というかたちで、「芥川龍之介追悼講演会」を順次開催。東京の報知講堂、朝日講堂から、大阪、京都など全国各地をまわって、直接、生の作家が聴衆にハナシをする、というものをやりました。

 その講師は、菊池さんのほか、久米正雄さん、佐藤春夫さん、佐佐木茂索さん、谷崎潤一郎さん、小島政二郎さん、室生犀星さん、宇野浩二さん、久保田万太郎さん、小穴隆一さん、萩原朔太郎さん……と名前を並べてみれば、それから7年後につくられる芥川賞の、ほとんど選考委員のメンバーじゃん。というところからも、当時の菊池さんの交友関係、ないしは事業を始めるにあたっての仲間意識がうかがい知れます。

 以降、文藝春秋にとって、作家を招いての講演会は大きな柱の一つとなりました。昭和9年/1934年暮れに、直木賞と芥川賞、二つの文学賞をつくることになったその頃にも、文芸ってものはな、書かれた文章だけで大きなウェーブを起こすことはできないんだぞ、と言わんばかりに、リアルな読者や観衆を集めてのイベントに、文春の人たちは力を入れます。

 何より、直木賞にしろ講演会にしろ、自分の雑誌(文藝春秋)の宣伝のためにやるのだ、とはっきり菊池さんが書いているところが同じです。両者は、いわば親戚どころか「兄弟」事業と言ってもあながち間違いではありません。

 ということで『文藝春秋』は直木賞の創設が発表される前後、昭和9年/1934年9月~12月に、全国で「文藝講演会」を開きます。

日程 場所 講師
昭和9年/1934年
9月21日
盛岡(公会堂) 吉川英治、子母沢寛、小島政二郎、横光利一、菊池寛、佐佐木茂索
9月22日 仙台(東二番町小学校)
9月23日 福島(公会堂)
10月6日 小倉(九電集会所) 久米正雄、大佛次郎、小島政二郎、徳川夢声、菊池寛、佐佐木茂索
10月7日 八幡(大蔵集会所)
10月8日 福岡(公会堂)
10月9日 熊本(公会堂)
10月10日 長崎(公会堂)
10月11日 佐世保(佐世保会館)
12月21日 岡山(公会堂) 小島政二郎、小林秀雄、川口松太郎、菊池寛、佐佐木茂索
12月22日 広島(袋町小学校)
12月23日 呉(呉会館)
12月24日 大阪(中ノ島公会堂)
12月25日 神戸(青年会館)
12月26日 京都(日之出会館)

 終盤の12月は、すでに各新聞などで直木賞が創設されると発表されたあとでしたし、創設宣言が載った『文藝春秋』昭和10年/1935年1月号も発売されたあとでした。きっと、これらの賞のことも、講演会のどこかで誰かがしゃべって、観衆を沸かせたのではないか、と推察しますが、現状その確証はありません。

 この期間中には、さらに文春は「愛読者大会」という催しを東京で2回、大阪と京都で1回ずつやっています。そこで菊池さんらの講演と同時に、例の伝説となった(?)文士劇が始まったと伝えられていて、そういう意味では文士劇もまた、直木賞とは「兄弟」事業と言っていいのかもしれません。わかりません。

 それはともかく、やはりひときわ目を引くのが、近畿中国地方講演会の講師のひとりに川口松太郎さんが入っていることでしょう。まだ第1回の直木賞が決まるまえの川口さんです。

 そうなんだ、このとき川口さんが文春の講演会に登壇したから、文春が運営する直木賞をもらうことができたのだ……といった回想ないし回顧録は、ワタクシも読んだことはありませんけど、少なくとも初回から無名の新人にあげることができなかった直木賞の、直木賞らしい姿は、これらの講演会からも激しく理解できるところです。

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