主潮社主催の藝術講演会(大正9年/1920年11月18日・19日、於・大阪中之島中央公会堂)が直木賞を生む。
直木賞はなぜできたんでしょうか。
設問としては単純です。だけど、けっこうな難問です。
なぜできたか、と言われたところで、そもそも理由を一つに絞って語ることなどできるはずがありません。森羅万象、世のなかの多くの出来事と同じように、直木賞にだってさまざまな背景があります。ひとまずその背景と思われる細い糸を、さかのぼって追ってみます。
背景の細い糸。つまりはざっくり言うと、直木三十五さんという人が文藝春秋社と深い関係があった、あるいは菊池寛さんと強い友情を結んでいた、ということです。
直木賞を見る上では絶対に欠かせない最重要な要素なんですが、そのハナシをたどっていくと、かならずぶち当たるものがあります。それが「講演会」です。
有名なエピソードらしいので、いまさら繰り返しても仕方ないんですが、のちに『文藝春秋』を創刊することになる菊池寛さんと、直木賞の名前のもとになった直木三十五さん(本名・植村宗一)がどこでどうやって知り合ったのか。大正9年/1920年11月18日と19日、大阪中之島にある中央公会堂で藝術講演会というのが開かれました。二人の結びつきは、すべてそこから始まります。
菊池さんはちょうどそのとき『大阪毎日新聞』『東京日日新聞』で「真珠夫人」を連載していた頃にあたり、いわば「いまキテる」脂の乗った若手どころの作家です。年はだいたい31歳のころ。
いっぽう直木さんは、まだ「直木三十五」という名前などこの世に影もかたちもなく、本名の植村宗一として活動していた頃です。早稲田大学を中退して、大日本薬剤師会に書記として務めたものの半年でやめると、美術研究会、あるいは新興美術社という組織に勤めを見つけて、美術雑誌の編集者となります。美術関係の名もなき記者、といったところで泥水をすすって生きながら、『トルストイ全集』の刊行を企てたところ、これがちょっと売れておカネになり、そこから神田豊穂さんと春秋社を、鷲尾浩さんと冬夏社を、と出版社の経営に乗り出しますが、借金ばっかり膨れ上がらせる疫病神の異名を拝命。それでもやたらと事業欲が旺盛で、画家の矢野橋村さんが結成した美術集団「主潮社」に参加して、雑誌『主潮』を刊行します。年は菊池さんの1年ちょっと下ですので、おおよそ30歳ぐらい。はっきり言って、文学関係者でその名を知る人はほとんどいませんでした。
矢野さん率いる「主潮社」では、福岡青嵐さん、名越国三郎さん、福田恵一さんといったお仲間たちの作品を一般に見てもらう美術展覧会を催します。第1回は大正8年/1919年、大阪と東京それぞれで開催したらしいんですが、翌大正9年/1920年秋、その第2回目の展覧会をすることになったとき、どうやら直木=植村さんが一つのアイデアを出したのだと言われています。
展覧会の前に、お客さんを呼べるような藝術、文芸に関する講演会をやったらどうだろう、と。
基本的にこのときの企画は、植村さんが主導してやったらしいです。だれに講演をお願いするか。その人選や、じっさいの依頼、交通・宿泊の手配なども、植村さんが準備したのだ、ということです。
このとき植村さんが声をかけた演者のうち、面識があったのは、早稲田の同窓で作家としてちょっと名前が売れていた田中純さんだけでした。他に植村さん自ら直接お願いしに回ったという久米正雄さんも、宇野浩二さんも、芥川龍之介さんも、そして菊池寛さんも、それまでまるで赤の他人です。こんなドコのドイツかわからない無愛想で気味のわるい男の依頼を、みんなよくぞ受けたものだ、と思います。
実際どんな感じの講演会になったのか。当時の新聞記事を引くと、こうです。
「主潮社主催藝術講演会は既報の通り(引用者注:大正9年/1920年11月)十八日夕より中之島公会堂にて開催された聴衆は定刻前より詰めかけて政党演説会にも劣らぬ盛況で、入江(引用者注:入江來布)氏の開会の辞の後植村宗一氏は文藝講座開放に関して会衆に訴ふる所あり次いで田中純氏は「藝術は実感の貯蔵なり」と題して聴衆を激励し次に真珠夫人の作者として最近全市の人気を湧き立てゝ居る本社員菊池寛氏は大拍手の裡に登壇、時々警妙な皮肉と警句を交へながら「藝術の利益と必要」の題下に満場を唸らせ京大助教授澤村専太郎氏は「現代日本画に於ける写真問題」と題してその選考する東洋美術史の立場から蘊蓄を披露し盛況裡に閉会した」(『大阪毎日新聞』大正9年/1920年11月19日「藝術の炎を捲き揚げた 主潮社の講演会」より)
何といっても目玉は、「真珠夫人」の作者菊池さんの生のハナシが聴ける、というところにあったのでしょう。のちの菊池さんの文章(「講演」)によれば、聴衆2000人以上は詰めかけたんだとか。その点、植村さんの試みは成功しました。
しかし、そうはいっても疑問に思います。アートの展覧会の客寄せのために、どうして新進作家たちを招いての講演会を思いついたのか。そこのところが、植村さんの回想を読んでもよくわかりません。
わからないので、ここは専門家のお知恵を拝借しましょう。昭和48年/1973年に刊行された『近世大阪藝文叢談』(昭和48年/1973年3月・大阪藝文會刊)に、親和女子大学図書館の田熊渭津子さんが「直木三十五と主潮社文芸講座」という文章を発表しています。
それによると、植村さんが文藝に関する講演会をやったのは、菊池さんと出会ったその一回きりではなく、後年にいたるまで約2年にわたって続いた、けっこう気合いを入れた事業だった、ということです。
大正10年/1911年1月から、大阪時事新報社の後援を受けて「主潮社自由大学文芸講座」が開講します。その予告ビラを田熊さんが紹介していて、おそらくこれは植村の手による文章ではないか、と推察されているんですが、ワタクシもそれにのっかって、植村さんがこのとき、どうして大阪で文藝講演会を企画しようとしたかの理由が、ここにうかがい知れると見ます。
「嘗て近松を有し、西鶴を有したる地は、今日、只一個物質上の富のみを以て、満足し得べきに非ず、他都市に優る多くの外観的文化設備を有し乍ら、其内面に於ける貧弱さを思ふ時、我輩は先づ何よりも第一に此運動の必要なるを感じる。」(「主潮社自由大学文芸講座」予告ビラ ―引用原文は『近世大阪藝文叢談』所収、田熊渭津子「直木三十五と主潮社文芸講座」より)
大阪という都市は、むかしは文化的な風土があったのに、現在(大正中期当時)それが衰退してしまっている、だから私は文芸についての講座を開くんだ、という宣言です。
最初の想定では、開催は月一回の夜間、会員制度をとって約500名を上限とし、会費は一回につき金一円、と決定します。その後、大正11年/1912年11月の第15回まで開かれたという記録があるそうで、事業欲の旺盛な植村さんらしく、そして始めるのはいいけどすぐにポシャらせてしまう経営センスのない植村さんらしく、この連続講演会によって何がどう実現したのか、振り返られることなく、きっぱりと終わってしまいました。
植村さん、のちの直木さんがどんな考えで、どういう生き方をしたのかは、文学賞としての直木賞とは何の関係もありません。それはそのとおりです。
だけど、植村さんが書物の上だけでコショコショ文章を書くことのみが大切だ、なんて考えをしていたら、まず熱心に文芸講演会など開かなかったでしょうし、菊池寛さんと会うこともなく、ひいては直木賞が設立される未来も訪れなかった……というのはたしかでしょう。
直木賞というものができるためには、文章表現のよしあしだけではなく、人間がしゃべってそれを人間が聴くリアルな空間、リアルな時間が、最初から欠かせないものとして存在していたのだ。と考えれば、たとえば現在、直木賞の受賞作や候補作を読んで、その小説に対する批評だけが直木賞だ、と見るのは、やはり不自然です。
受賞者が記者会見でしゃべったり、その後に、彼らがテレビやラジオでしゃべったりするのもまた、直木賞の一部と見ていいのではないか。いいですよね? とそういうものも好きなワタクシは、勇気を得た気分です。
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