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2026年5月の3件の記事

2026年5月17日 (日)

「九八年一月。選考会当日は、前日に降った雪が溶けきらない寒い日だった。」…桐野夏生、第173回直木賞の選評より

 昨年令和7年/2025年5月25日から、うちのブログは19期めに突入し、「選考とは関係ない選評」を昔のものから順に取り上げてきました。

 さすがに近年、すっとんきょうな選評を書く人は、さほどいなくなったようにも思います。それが一抹の(いや、大いなる)寂しさを感じさせますが、まじめにやって、まじめに書いている人たちに、遠くから文句を投げても仕方ありません。直木賞の選考委員のなかに、それならわたしが「選考とは関係ない選評」をどんどん書いて選評の場をかき回してみせるわ、という猛者が現れることを期待するばかりです。

 で、このテーマでブログを書くのは今週がラストになります。

 注目するのは第173回(令和7年/2025年・上半期)の選評です。ほとんど昨日のような出来事です。

 あまりに記憶が新しすぎて、わざわざ解説するのも馬鹿バカしいですが、昨年7月、直木賞ともう一つの賞、同日同時刻に選考会が始まる二つの文学賞で、両方ともに該当作なし、となったという例の回です。

 受賞作がなしになると、とたんに選評に、選考とは関係ない話題が飛び出してくる。……というのは、この一年間、いろいろな回の選評を読んでわかったことですが、まあそんなことを知ったところで、何の腹の足しにもなりません。別に面白くも何ともないんですけど、ただ、今後いずれやってくる該当作なしの回のときに、さあ、今度はだれがどういうふうに関係ないハナシで行数を稼いでくるか、とわくわくしながら『オール讀物』の発売日を待てる、というおまけが付いてきます。正直、直木賞の楽しみ方としては、邪道も邪道、といったところでしょう。

 ともかくハナシは第173回です。

 候補作は6作ありました。青柳碧人さん『乱歩と千畝 RAMPOとSEMPO』、芦沢央さん『嘘と隣人』、塩田武士さん『踊りつかれて』、夏木志朋さん『Nの逸脱』、柚月裕子さん『逃亡者は北へ向かう』、そして今日(令和8年/2026年5月17日)「高校生直木賞」を受賞した逢坂冬馬さん『ブレイクショットの軌跡』です。

 たとえ、これらの作品の水準が低かったとしても、何作かが拮抗して受賞作を決めあぐねたとしても、何といっても第136回(平成18年/2006年・下半期)以来18年間、36回も該当作なしになったことがないんだから、今回だって、選考委員か司会をやっている文藝春秋社員が妙案をしぼり出して受賞作を出すんだろう、と鼻クソをほじりながら待つこと4時間近く。日本全国のうちの、ほんの一部の人たちが驚くような、該当作なしの発表となったわけです。

 え。まじかよ。誰と誰の意見がぶつかり、誰と誰が殴り合って、こんな結論になったんだ。これはもう選評を読むしかない。と、これもまた、日本のほんの一部の人たちが、『オール讀物』直木賞発表号の発売を心待ちに待ちました。ワタクシもその一人です。

 で、目を皿にして選評を確認したんですが、そうか、別に全体的に候補作が低調だという評価だったわけじゃないんだな、それぞれの推し作が最後まで行っても噛み合わずに、どれか一作ないしは二作に決めかねた、という感じの展開だったんだな、とうすうす理解しました。

 じっさいどうだったかは、これはもうわかりません。もしかしたら、相当な論戦が繰り広げられて、キーキーとわめき声を上げる人、顔を真っ赤にして怒り狂った人もいたりして、あわや一触即発のところまで熱くなった……のかもしれません。実態がわからないのは、密室選考会をつづける文学賞の限界です。

 わからないことを、いくら想像したってどうしようもないので、あとは選評を楽しみましょう。

 第173回、この回の選考に直接的な関係があるのかないのか、微妙な文章から書き始めた人がいます。桐野夏生さんです。

「一九九七年の十二月、第百十八回直木賞の候補作が発表になった。京極夏彦さんの『嗤う伊右衛門』や私の『OUT』を含め、五作が候補になった。その時はこんな結果が待ち受けているとは思いもしなかった。

翌九八年一月。選考会当日は、前日に降った雪が溶けきらない寒い日だった。残雪が凍って、道路は車の轍の痕が固く盛り上がっていた。

待ち会のレストランで、「該当作なし」という報せがもたらされた時、編集者たちが一斉に立ち上がり、電波の通じない地下の店から、階段を上って行ったのを見て、落選は辛いことだと、初めて知った。やがて芥川賞も「該当作なし」だと知り、こういうケースは、東京會舘での贈呈式もなくなると聞いて驚いた。ともかく寒く、そして暗い冬だった。

長々と昔話をして申し訳ない。まさか今回も、芥川直木ともに「該当作なし」という結末になるとは思いもよらなかったし、このようにメディアで騒がれるとも思っていなかった。」(『オール讀物』令和7年/2025年9・10月合併号、桐野夏生「選評」より)

 ふだんの直木賞であれば、桐野さんの選評といえば、候補作それぞれに対する感想・批評に終始しています。あまりに温度感の違うこの書き出しに、思わず身を乗り出してしまった選評読者は、きっと多かった……かどうかはわかりませんが、少なくともワタクシはドキリとしました。

 ちなみに、すごくトリビアチックなどうでもいいことを言うと、現在のように直木賞の候補作発表が12月→1月選考、6月→7月選考、というふうに1か月程度まえになったのは、そんなに昔のことじゃありません。第150回(平成25年/2013年・下半期)1月選考の候補作が前年の12月20日に発表されたのが、前月発表の最初です。それより前は、思い出せばおわかりかと思いますが、第149回(平成25年/2013年・上半期)までは、選考会の2週間程度まえ、さらにさかのぼって第133回(平成17年/2005年・上半期)までは、選考会の1週間まえに、各新聞の夕刊に候補作発表の記事が載るのがお決まりでした。

 つまり、桐野さんが回想している第118回(平成9年/1997年・下半期)、一般に候補作が発表されたのは、選考会のちょうど1週間まえ、平成10年/1998年1月9日です。おそらく各候補者には、平成9年/1997年12月のうちに知らせが入っていて、それで桐野さんもうっかり不正確なことを書いてしまったのかもしれません。

 まあ、そんなことは直木賞オタクぐらいにしか意味がないどうでもいいことです。すみません。

 重要なのは、当時の選考会を寒い冬の日のこととして記憶し、落選とは辛いことだと初めて知った日だと、桐野さんが語っていることにあります。

 文学賞の選考はたいてい水モノです。確実にこうなる、と断言できることは、昔もいまも、そんなにありません。該当作なしになることだって、そりゃあ当然あるでしょう。

 ……とは思うんですが、受賞作のないことがニュースになり、それを受けた選考委員の桐野さんが、ふだんならまず回想しないであろう昔の候補者時代のことを、どうしても書かなくてはいられなくなる。それだけでも、該当作なしになった意義はあったじゃないかと、選評を毎回楽しみに読んでいる者としては、思ってしまいます。

          ○

 「選考と関係ない選評」のハナシは、とりあえず今週でひと区切りです。また来週から、別のテーマで直木賞の(周辺の)ことを調べていきたいと思います。……が、ちょうど来週日曜日の5月24日は、日本文藝家協会創立百周年記念の文士劇というものが、二日公演の最後の本番をやっている日に当たります。

 うーん。このブログをきちんとアップできるのか、厳しいところではあるんですけど、その日は文士劇についてのエントリーを投稿して、お茶を濁すかもしれません。

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2026年5月10日 (日)

「もちろん今年の大河ドラマも観ています」…宮部みゆき、第167回直木賞の選評より

 直木賞の選評は『オール讀物』に掲載されます。

 この雑誌に、小難しい文学理論や批評性を期待している読者なんて……そりゃあ皆無ではないんでしょうけど、基本的にはみんな面白い小説とか面白い記事を求めて読んでいます。そのなかで半年に一回まじってぶっ放される直木賞の選評というのは、存在そのものが異色です。

 たとえば一般のわれわれに提供される直木賞関連のコンテンツとして、候補作の発表、受賞作の発表、選評の発表、という3段階があるとします。そのうち、圧倒的に話題にならないのが、最後の「選評の発表」なわけで、いったいこんなもの誰が読んでいるんだ、と愚痴った選考委員がいたとか、いないとか、真偽はちょっとわかりませんけど、その後、それらがまとめられて本になる、という展開も一部の委員を除けば、まずありません。悲しいといえば悲しいです。

 どんな選考委員だって、まあ誰も読んじゃいないんだからとテキトーに書き流しているわけではない、と思います。たぶん。少しでも、読んでくれる読者を楽しませようと、百人百様、あれやこれやの手を使って、選評にエンタメ要素を加えようとしてきた委員も、けっして皆無ではありませんでした。

 ということで前置きが長くなりましたが、そういう観点で直木賞の選評を見たとき、絶対に取り上げなきゃいけない人がいます。宮部みゆきさんです。

 宮部さんの選評の特徴とは何か。それはあまりにだらだらと長すぎることだ。……という直木賞界の定説があります。

 でも、どうしてそんなに長いのか。それは、本論ともいえる候補作、候補作家についての論評を展開するにあたって、現実社会に存在する映画やらアニメやらスポーツやらから固有名詞をバンバン出して、いいように形容したり喩えたり、枝葉にも見える読者サービスの遊びの部分が、やたらとたくさんあるからです。

 そんなこと言う必要がないといえばありません。だけど、宮部さんが軽やかに繰り出す比喩表現を心待ちにしている選評読者も少なくはありません。少なくないかどうかは知りませんが、少なくともワタクシはいつも楽しみにしています。やはり宮部さんの選評には、そういう〈飾り〉の部分は欠かせないものと言っていいでしょう。いくら文章が長くなっても。

 ためしに第167回(令和4年/2022年・上半期)の選評を見てみます。宮部さんはこんなふうなことを書いています。

「私はまるっきり不勉強のくせに、歴史小説の鎌倉ものが大好きです。それは永井紗耶子さんと同じ名字の大先達である永井路子さんの作品に触れたことから始まりまして、もちろん今年の大河ドラマ(引用者注:「鎌倉殿の13人」のこと)も観ていますが、思い出深いのはやっぱり永井路子さん原作の『草燃える』――というのはさておき、勃興から衰退滅亡まで山のように書く材料がある鎌倉幕府と北条氏の歴史のなかで、(引用者後略)(『オール讀物』令和4年/2022年9・10月合併号、宮部みゆき「幸せな読み心地」より)

 要するに永井紗耶子さんの候補作『女人入眼』を語るに際して、これだけのマクラというか、装飾を施しているわけですね。そりゃあ選評も長くなるはずだわ、としか言いようがありません。

 だけど、選考に関係のないことを語るにしても、いまやっている大河ドラマのことを持ち出す辺りが、一般読者に少しでも興味をもってもらおうとする宮部さん独特のサービス精神です。平成・令和の時代に降臨した「選考とは関係ない選評」を書く最高の女神といえば、やっぱり宮部さんです。

 次の第168回(令和4年/2022年・下半期)でも、当然、そのおちゃめな手法は健在です。

(引用者注:小川哲『地図と拳』について)私はミーハーなことを書きたいと思います。冒頭の登場時から気の毒なほど船酔いしている丸眼鏡の青年・細川は、私の頭のなかでは俳優の神木隆之介でした。受難のクラスニコフ神父はマッツ・ミケルセン。ストーリー上はすぐ姿を消してしまうけれど、実はラストまでキーパースンであり続ける高木大尉は山本耕史。須野明男はいろいろ迷いました(なにしろ「万能計測器」ですから)が、賀来賢人がいいかな。青白い顔の中川は滝藤賢一で(梨をむさぼり食うシーンが目に浮かぶ!)、安井は意外に佐藤二朗がぴったり?」(『オール讀物』令和5年/2023年3・4月合併号、宮部みゆき「大風呂敷と幻術」より)

 令和5年/2023年の日本に生きる人たちに向けて全力で俳優たちの名前を羅列しています。神木隆之介さんもマッツ・ミケルセンさんも山本耕史さんも賀来賢人さんも滝藤賢一さんも佐藤二朗さんも、さすがに自分の名前が直木賞の選評で触れられようとは、意外ちゅうの意外でしたでしょう。

 かといって、ほんとに宮部さんが自分のミーハーなところだけを見せつけたかったのか、といえば、そうでもありません。そういうふうに登場人物たちに現実の俳優を当てて楽しんでしまえる、『地図と拳』という小説は一級のキャラ小説でもあるのだ、と後段で主張しています。そういう意味では、全然「選考に関係ない」とは言えないかもしれません。

 ただ、選評というと畏まっていて真面目な舞台、と思われてしまうのを、どうにかして防ぎたいという宮部さんの思いが、脱線のようなハナシを繰り出すことになり、こうしてどんどん選評が長くなってしまう、というのは否めません。今後も、宮部さんの「選考に関係ない」部分にもっと注目が集まってほしい、と願っています。

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2026年5月 3日 (日)

「前回にひき続き、アクリル板で仕切られた選考会である。」…林真理子、第164回直木賞の選評より

 これから先、だれか奇特な人が現われて、直木賞の歴史をひもとこう、そして書き残してやろうと思ったとします。そういう人にとって絶対に避けて通れない、ここ数年の直木賞にまつわる事象とは何でしょう。

 明らかに挙げられるのが、コロナ禍での選考会、ってやつです。

 少し前にうちのブログでも、昭和11年/1936年に二・二六事件の戒厳令下で選考会が行われたうんぬん、というテッパンなエピソードを取り上げました。そういう視点で言えば、誰がどう見たって、いつもとは違うかたちでの開催を強いられた、あの数年に及ぶコロナウイルス流行下でのあれこれは、後世の直木賞史家にとって、かならずや面白く見えるに違いありません。

 令和2年/2020年4月、政府から緊急事態宣言が出て、日本全国、上を下への大騒ぎ。まだまだ社会的に厳戒態勢のとられるなか、その年の7月に直木賞では第163回(令和2年/2020年・上半期)の選考会が行われました。ほんの6年前のハナシです。

 ああ、もう6年も経ったのか、と言っていいかもしれません。時の流れをどう感じるかは人それぞれ、「もう」でも「まだ」でも、どっちでもいいんですけど、このとき新喜楽の選考会場には、何の効果があるのかだれもよくわからないながら、委員たちのあいだにアクリル板が置かれ、なるべく興奮したり激高したりしてツバを飛ばさないように注意して、2時間ちょっとの議論を乗り切った……ということです。

 ところが、いまとなって当時の選評を読み返してみると、その選考会がコロナ禍が渦巻く状況で行われたことを指摘している人はだれもいません。そうか、周囲がどれほど騒いでいようが、小説を論評すること、あるいは直木賞にふさわしいかどうかを議論したこととは何の関係もないもんな。と、うなずけるものがあるんですけど、いや、間違えました。だれもいなくはありません。一人だけコロナのことを書いている委員がいました。林真理子さんです。

「コロナ禍の中で選考会は、いつもと違い、広い座敷でアクリル板越しに行なわれた。といっても、活発な論議は通常どおりだったと思う。」(『オール讀物』令和2年/2020年9・10月合併号、林真理子「馳カラーに染まる」より)

 正直、別に選評で言及するまでもないこういうことを、ポロッと最初に書いちゃう林さんの、相変わらずの手グセと言いますか。それか、読者というものは委員たちの生真面目な小説批評だけが読みたいわけではなく、時事ネタや話題のニュースにからめたハナシも大好きなのだ、ということを体感として知っているのかもしれません。たしかに6年経って、こういうふうに取り上げてしまうクソ・ブロガーがいるんですから、まんまとワナにハマってしまった感はあります。みなさんも、ワタクシのようにならないように気をつけてください。

 受賞記者会見も、出席記者の数を極力おさえて、お互いが近づかないようなかたちで行われましたし、それからしばらく直木賞の選考会はこれまでと違って、委員同士の席を遠ざけ、アクリル板で仕切り、あるいはリモートでの参加もOK、というパンデミック体制のもとで開かれます。第163回の馳星周さんの『少年と犬』、西條奈加さん『心淋し川』、佐藤究さん『テスカトリポカ』、澤田瞳子さん『星落ちて、なお』……と続いていく受賞作が、いったいコロナ禍の選考会によって何らかの影響があったからなのか、それとも外部の社会的環境とは関係はなかったのか、未来の直木賞史家がおそらく検証してくれるでしょう。

 それはそれとして、コロナ禍2度めとなる第164回(令和2年/2020年・下半期)選考会は、年が明けて令和3年/2021年1月に開催されています。いまだ、今日の感染者報告が何人だ何百人だと、喜々として取り上げられていた頃です。さすがにこれだけ異様な状況が続くと選評でコロナのことに触れる人も少し増えて、宮部みゆきさん、伊集院静さんなどが、いまだコロナ禍が続いていて日本人たちも閉塞した気分にある、といったようなことを書いています。

 とくに踏み込んだ表現をしているのが宮部さんです。

「今回、私は、できることなら二作受賞にしたいと願っていました。コロナウイルス感染拡大防止のための緊急事態宣言下で迎えた選考会で、世の中全体が塞ぎ込み疲れ切っているところに、物語の魅力がまったく異なる二作を直木賞受賞作としてプレゼンテーションできたら、本屋さんの店頭も華やぎ、明るい話題も二倍になるのではないかと思いましたし、二作受賞に充分値する候補作が揃ったと思っていました。」(『オール讀物』令和3年/2021年3・4月合併号、宮部みゆき「タイトルは大事です」より)

 うーむ、まじでこのとき西條さんの『心淋し川』だけでなく、もう一つ受賞作を選べていたら……とくに加藤シゲアキさんの『オルタネート』などが受賞していたら、本屋の店頭も各種メディアも大いに盛り上がって華やいだと思います。そうなっていたら、宮部さんの上記の選評も伝説化して後世まで語り継がれたでしょう。そう考えると残念でしかありません。

 半年まえ、いち早く「コロナ禍」を選評に刻印したのは林真理子さんでしたが、ではこのときはどんなことを書いていたのか。冒頭を読み直してみますと、こんな感じでした。

「前回にひき続き、アクリル板で仕切られた選考会である。今回は全作が初ノミネートということであり、とても面白く興味深く呼んだ。」(同号、林真理子「プロの技」より)

 よくよく読むと、やっぱり冒頭の一文と、その次の文章は有機的につながっているとは言えません。前回に続いてアクリル版で仕切られた選考会だったからどうなのか。林さんの選評を読んでも、何もわかりません。

 ただ、林さんの独特な嗅覚で、選考と関係ないことであっても世のなかに注目される切り口がある、とわかっていたんだろうと思います。おそらく。

 けっきょくそのワナに引っかかって、またしても馬鹿な顔して取り上げてしまいました。ああ、われながら不甲斐ないです。

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