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2026年4月 5日 (日)

「今回の選考は直木賞の百五十回という節目で、世間の注目を集めた。」…浅田次郎、第150回直木賞の選評より

 おそろしいことに、次の7月で直木賞は第175回を迎えます。

 何がおそろしいのか。といえば、130回とか140回とかそんな時代の直木賞で楽しんでいたのがつい最近のような気がするのに、それから半年に1回ずつ、槍が降ろうが竹が降ろうが粛々とやり続けて、いつの間にやら「175」という異常に大きな回数にまで到達している事実です。

 要は、直木賞を見ているこちらが年をとった、というだけなんでしょうけど、おそらくみんなそれぞれ、直木賞に注目していた頃が第何回ぐらいだったのか、みずからの人生に思いを馳せると、そうか、すっかりこっちが直木賞に飽きてチェックしなくなってから、もうン年(ン十年)も経ったんだなあ、とふと時の流れを実感する。……いわゆる、直木賞あるある、でしょう。

 そう考えると第150回(平成25年/2013年・下半期)なんて、ほんの昨日のように思えます。しかし、あれから12年が経っています。12年。けっこうな年つきです。

 12年前を一生懸命思い出してみたんですが、いったい第150回の直木賞って盛り上がったのか、それともイマイチだったんでしょうか。

 盛り上がったような気もする。だけど、区切りのいい記念回だ何だと無理やり盛り上げようとしていたのは主催者とかマスコミだけで、一般的には他の平常回と変わらず、ボチボチに受賞作が売れ、さっさとみんなの記憶から去っていった、そよ風の吹いた程度の回だったような気もします。

 選考委員のメンツを振り返ってみますと、この回が最後となった(そして欠席した)渡辺淳一さんと、こちらはきちんと出席した阿刀田高さん、2人が退場するのに合わせて新委員として高村薫さんと東野圭吾さんの2人が加わりました。すでにその2人とも、直木賞の選考会からは去ってしまって、ともに面白かったアノ選評を読むことはかないません。やっぱ12年の時の流れは、なかなか長いです。

 候補作6つのなかから、ともに50代の女性作家、朝井まかてさんの『恋歌』と姫野カオルコさん『昭和の犬』が受賞しました。その2人はもちろんのこと、受賞しなかった千早茜さん、万城目学さんはのちに受賞者に加わりますし、同じく候補者、伊東潤さんも柚木麻子さんも、いまでも第一線で活躍しています。

 だれがどうして受賞したのか。だれがどうして受賞しなかったのか。まだまだ現在進行形の、ちょっと昔のそんな選考を、いまここで振り返っても大して意味はありません。

 まあ、直木賞のことを調べて知ろうとする、それ自体が大して意味があるものじゃないのはたしかですから、ことさら言い立てることでもないんですけど、第150回のこのときも、6作の候補に対する選考とは、ちょっと外れた話題を選評に書いた人がいました。となると、「選考とは関係ない選評」ファンとしては黙って見過ごすことはできません。

 その委員というのが浅田次郎さんです。

 受賞2作品については、まったく異存なしと両作を褒め称え、ほかの候補作については手厳しく注文、または批評を繰り出したあとで、なぜか選評の最後に、付け足しのような蛇足を加えました。

「今回の選考は直木賞の百五十回という節目で、世間の注目を集めた。しかしやはり、前途有望な新人作家の登竜門であるという本義を見失ってはなるまい。惜しくも受賞に至らなかった諸氏は謙虚に受賞作を読み、ことに両作が共有する文学作品としての品性の正しさを学ぶべきである。また周辺のみなさまも、作家にとって最も有効な作品発表の形態を考慮していただきたいと思った。能力と努力と環境とが、受賞した二作品にはそれぞれに備わっていたと思うからである。」(『オール讀物』平成26年/2014年3月号、浅田次郎「孤高と勇気」より)

 上記のなかで「作家にとって最も有効な作品発表の形態を考慮していただきたい」と言っています。これは前の選評を読むと、受賞となった朝井さんの『恋歌』は書き下ろし、それに比して万城目さんの『とっぴんぱらりの風太郎』は週刊誌連載のせいか、あまりに長すぎる、みたいなことを言っているハナシをまとめたものでしょう。

 最も有効な作品発表の形態が望ましい。まったくそのとおりです。別に第1回だろうが第150回だろうが、そもそも文学賞の場だろうがそうじゃなかろうが、わざわざ書くことでもありません。書くほどのことでもないのに書かざるを得なかった、というところに、浅田さんの気持ちが乗っているのが見て取れます。同じ実作家としては、発表形態の重要さは、日々感じるところだったのかもしれません。

 しかし、直木賞の150回という節目で世間の注目を集めた、という文章はどうでしょうか。こう書くぐらいですから、世事に疎いと、いつもご自分で言っている浅田さんをして、何らか世間の注目を感じていたのには違いありません。

 まわりで見ていた身としては、別に第150回だからといって、そこまで騒がれていた記憶はないんですが、中にいる人やそばにいる人と、引いた立場にいる人間との温度差が埋めがたいほどに激しく横たわっている、というのもまた、歴史的にみて直木賞のあるあるです。

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