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2026年4月19日 (日)

「題材とプロットとキャラクター、そして文章力の四つが揃えば小説は書ける――。仮にこれが事実なら、小説はいずれAIが書くようになるだろうが、」…高村薫、第158回直木賞の選評より

 いま小説界で話題になっていること。それは何でしょうか。AIです。

 ……と、ほんとに話題になっているのか、世事にうといので、さっぱりわかりませんが、世の中のほとんどの小説がAI作成によるものになっても、個人的にはそれでいいと思います。

 ただ、いまのところ小説を書く人間がまったくいなくなる、という未来は、まだまだ先のハナシでしょう。書きたい人間がいれば、それを読みたい人間もいる。偉そうにそれを読んで批評したがる人間もいれば、そこに賞の枠組みをかぶせたがる人間たちも、当分いなくなる気はしません。いったいそこにAIが、どういうふうに入り込んできて、ぐちゃぐちゃになるのか。外野から見ているだけのこちらは気楽です。

 さて、直木賞の選評のなかに「AI」という言葉が最初に登場したのがいつなのか。直木賞選評研究家の緻密な調査を待ちたいと思いますが、順々に直木賞の選評を読んできて、パッとワタクシの目に入ってきたのが第158回(平成29年/2017年・下半期)の選評です。いまから8年ほどまえに書かれたものです。

 この回の候補作は5つ。候補が明らかになってから、何といってもいちばん話題になったのは、〈SEKAI NO OWARI〉のSaoriこと藤崎彩織さんの書下ろし小説『ふたご』が、版元・文藝春秋による批判覚悟のプロモーション戦略の一環なのか、小説家プロパーの面々の作品に並んで候補作の一つに食い込んだことでしょう。何だか、もはや懐かしいです。

 懐かしがっている場合じゃありません。いま現在の直木賞にとっては、すぐそばのような時代です。受賞したのは門井慶喜さんの『銀河鉄道の父』で、宮城谷昌光さんとか、東野圭吾さんとか、おそらく受賞には反対しなかったんだろうけど、そこまで高く評価したわけじゃなさそうだ、といった選評もありましたが、いちおう「ほぼ満場一致」の受賞だったそうです。

 いつも、おおよその候補作に厳しめの選評を書く高村薫さんも、たぶん『銀河鉄道の父』を褒めています。

 この作品について高村さんは、「門井流の、この適度な軽さ」と表現し、作者の目指す方向が、宮沢賢治の文学的昇華などではなく、かなりドラマ的な展開を意識した父子の物語にあったのだろう、と指摘しています。その点で、ごちゃごちゃ小難しいところを取っ払ってうまく読ませる小説にしている点を、手錬れによる作品だと、評価したみたいです。

 門井さんの小説にだいたい漂っている「まあ、ハナシとしてはすいすい読めるんだけど、何か物足りない感じ」を、軽いなりのよさというかたちで評価するところが、さすが高村さんだ、と感じさせられます。そりゃあ、重たくてコテコテに厚い小説ばかりが評価される世の中は、つまんないですからね。いいんじゃないでしょうか、直木賞を軽い小説がとっても。

 というところで、今週紹介したいのは高村さんの選評なんですが、注目したいのは『銀河鉄道の父』を評した部分ではありません。藤崎さんの『ふたご』を「個人的な関心事を連ねただけでは内輪のブログにしかならない。」とズバッと酷評した部分でもありません。

 選評の冒頭です。なぜかAIの話題から始めています。

「題材とプロットとキャラクター、そして文章力の四つが揃えば小説は書ける――。仮にこれが事実なら、小説はいずれAIが書くようになるだろうが、実際には、右の四つだけでは万人に読まれる小説は生まれない。小説は、生きた作家の手による足したり引いたりの匙加減や、緩急の間合いや、言葉の音と意味の派生効果がさまざまに利いているのであって、数値化されないこれこそが、小説が小説になる秘密であり、小説家が小説家である所以と言っていい。」(『オール讀物』平成30年/2018年3月号、高村薫「選評」より)

 すでにこの頃には、直木賞の選評にもAIが小説を書いたらうんぬんのハナシが出てきていたんですね。将来、だれかAI生成小説の歴史(と人類の反応)をまとめるときには、ぜひ高村さんの選評も紹介してください。お願いします。

 この先、高村さんは第172回(令和6年/2024年・下半期)をもって選考委員を退任しちゃうので、残念ながら(あるいは、幸運なことに)直木賞の選考の場でAIが書いた小説を審査する、という場面にぶち当たることはありませんでした。実際にそういう小説が候補になったときに、どんな表現で酷評してくれるのか。ないしはAIと人間が書いたものの区別がつかずにトンチンカンなことを語るのか。……それが見られなくて残念です。

 でも、将来、直木賞でそういう楽しい選考が実現しないものとも限りません。がんばれ、AI(いや、がんばれAI研究者)。

 高村さんがなし得なかった「AI小説を直木賞で選考する」経験を、だれか何年後か何十年後かの選考委員たちが、どういうふうに受け止めることになるのか。いまから楽しみです。

 まあ、それまでこちらが生きていられるかどうか、わかりませんけど。あとから生まれてくる直木賞ファンが、うらやましくてなりません。

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