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2026年4月の4件の記事

2026年4月26日 (日)

「よく日本では純文学という言葉を使う。文学に純も、濁もあるはずがない。」…伊集院静、第161回直木賞の選評より

 かつて、文学賞メッタ斬り!というものがありました。

 直木賞やら何やらの受賞予想をする。それだけでは終わらせずに、結果が決まったあとの選評についても、あれこれイジッて論評する。あらためて、いい企画だったと思います。

 直木賞で言いますと、最大にして最高のターゲットが渡辺淳一さんだった、というのは誰にも異論がないところでしょう。しかし惜しまれながら渡辺さんが委員を降りたあと、みんなが優等生のようにソツのない選評を書き続けるなかで、この人はとメッタ斬り!対談で目をつけられたのが伊集院静さんだった……と記憶しています。

 では、伊集院さんの選評の特徴とは何でしょうか。

 それは、候補作ひとつひとつに対して型にハマった論評を連ねるだけではなく、それ以外に、時代や社会に対する自分の感慨、感想などをつらつらと語り流していた、というところです。要するに「選考とは関係ない」選評の部分こそが、直木賞委員・伊集院さんの魅力だった、と言っても過言ではありません。

 うちのブログで取り上げる時代が、だんだん「近い過去」になってきて、なかなかピックアップしたくなる選評、選者も少なくなっているんですが、そういうなかでも今週はやはり伊集院さんの、エッセイがかった選評をもう一度、じっくり噛みしめながら味わおうと思います。

 平成が終わって令和に変わったあの頃。第161回(平成31年・令和1年/2019年・上半期)の直木賞です。

 この回の直木賞候補といえば、一般的には何といっても「全員が女性作家だった」というところを語りたくなるはずです。

 大島真寿美さん、朝倉かすみさん、窪美澄さん、澤田瞳子さん、原田マハさん、柚木麻子さん。候補者が全員女性だから何なんだ、そんなことで騒ぎ立てるな……と当時も言われていましたし、たしかに直木賞の動向だけを注目したところで、あまり意味のある知見は得られない、というのは昔も今も同じです。

 ちなみに、似たような時期に行われた文学賞でいえば、第40回(平成31年/2019年3月決定)吉川英治文学新人賞の候補は、塩田武士さん、藤井太洋さん、呉勝浩さん、三秋縋さんが男で、武田綾乃さんだけ女、第32回(令和1年/2019年5月決定)山本周五郎賞の候補は、朝倉かすみさん、芦沢央さん、澤田瞳子さんが女、赤松利一さんが男、木皿泉さんが夫婦共作。

 これもまた、だから何なんだ、というような「ちなみに」でしたね。すみません。

 で、選評のほうでもやはり、「候補者が全員女性」の件をスルーできない人がいました。ひとりは林真理子さんです。

「今回の直木賞は、候補の作家が全員女性ということで話題をまいた。が、女性とひと括りにされても、どれも作風が全く違い、選考は楽しく、かつ難しかった。」(『オール讀物』令和1年/2019年9・10月合併号、林真理子「楽しくかつ難しく」より)

 話題になったかどうか、そういうポイントがあればすぐに選評で言及してしまうのが、林さんのクセですが、要するに全員女性だと言っても作風がバラバラで、選考そのものは何の影響もない、と言っています。そりゃそうだろうな、と思います。

 東野圭吾さんも、選評の冒頭にその話題を出しています。

「候補作の作者が全員女性だということに驚きはない。むしろ、初めてだと聞いて意外に思った。」(同号、東野圭吾「選評」より)

 この感覚は、たしかにそうだな、とうなずけるものがあります。そもそも直木賞の歴史上、候補者が男か女かを気にしている人なんて、直木賞専門サイトの制作者ぐらいしかいないでしょう。

 ということで、「全員女性」に関する選評を書いた3人目の委員、それが伊集院静さんです。他の2人と違って、思いのままに綴ったエッセイふう選評の一節なので、何を主張したいのか、読み取るのが難しくもあります。

「よく日本では純文学という言葉を使う。文学に純も、濁もあるはずがない。さらに純文学に対して大衆文学とも言う。そんな間抜けなことを言っているのは日本だけである。

但し、ヨーロッパでもアメリカでもジャンルの分け方はある。直木賞は新人賞であるが、ずぶの素人、もしくは新人の作品が賞の候補になることはない。或い力、或る作品、読者を持っている新人作家の作品の中で受賞が競われる。その点では、海のものとも山のものともわからぬ候補作を読まされることはあまりない。そこは選考委員として、いささかの安堵を持てるが、今回のように候補作すべてが女性作家によるものとなってしまうと、男である私はいささか淋しい気がした。」(同号、伊集院静「選評」より)

 日本で言われる純文学・大衆文学の呼称問題が、どういう思考の経路をたどって、男として淋しい気がする、というところに到達するのか。ううむ。少なくとも上記に引いた箇所は、第161回直木賞の選考には関係がない、と思うんですけど、つまりは女性が書いた、男性が書いた、というふうに外野がレッテルを張るのは、純文学・大衆文学の呼称と同様、間抜けなことだ……と言いたいのかな、と想像できたりします。

 となると、文学か文学でないか、直木賞にふさわしいかそうでないか、直木賞にまつわるおおよそすべての現象がレッテルだらけです。そう考えると、直木賞って間抜けなことだよね、と言いたかったのかもしれません(たぶん違う)。

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2026年4月19日 (日)

「題材とプロットとキャラクター、そして文章力の四つが揃えば小説は書ける――。仮にこれが事実なら、小説はいずれAIが書くようになるだろうが、」…高村薫、第158回直木賞の選評より

 いま小説界で話題になっていること。それは何でしょうか。AIです。

 ……と、ほんとに話題になっているのか、世事にうといので、さっぱりわかりませんが、世の中のほとんどの小説がAI作成によるものになっても、個人的にはそれでいいと思います。

 ただ、いまのところ小説を書く人間がまったくいなくなる、という未来は、まだまだ先のハナシでしょう。書きたい人間がいれば、それを読みたい人間もいる。偉そうにそれを読んで批評したがる人間もいれば、そこに賞の枠組みをかぶせたがる人間たちも、当分いなくなる気はしません。いったいそこにAIが、どういうふうに入り込んできて、ぐちゃぐちゃになるのか。外野から見ているだけのこちらは気楽です。

 さて、直木賞の選評のなかに「AI」という言葉が最初に登場したのがいつなのか。直木賞選評研究家の緻密な調査を待ちたいと思いますが、順々に直木賞の選評を読んできて、パッとワタクシの目に入ってきたのが第158回(平成29年/2017年・下半期)の選評です。いまから8年ほどまえに書かれたものです。

 この回の候補作は5つ。候補が明らかになってから、何といってもいちばん話題になったのは、〈SEKAI NO OWARI〉のSaoriこと藤崎彩織さんの書下ろし小説『ふたご』が、版元・文藝春秋による批判覚悟のプロモーション戦略の一環なのか、小説家プロパーの面々の作品に並んで候補作の一つに食い込んだことでしょう。何だか、もはや懐かしいです。

 懐かしがっている場合じゃありません。いま現在の直木賞にとっては、すぐそばのような時代です。受賞したのは門井慶喜さんの『銀河鉄道の父』で、宮城谷昌光さんとか、東野圭吾さんとか、おそらく受賞には反対しなかったんだろうけど、そこまで高く評価したわけじゃなさそうだ、といった選評もありましたが、いちおう「ほぼ満場一致」の受賞だったそうです。

 いつも、おおよその候補作に厳しめの選評を書く高村薫さんも、たぶん『銀河鉄道の父』を褒めています。

 この作品について高村さんは、「門井流の、この適度な軽さ」と表現し、作者の目指す方向が、宮沢賢治の文学的昇華などではなく、かなりドラマ的な展開を意識した父子の物語にあったのだろう、と指摘しています。その点で、ごちゃごちゃ小難しいところを取っ払ってうまく読ませる小説にしている点を、手錬れによる作品だと、評価したみたいです。

 門井さんの小説にだいたい漂っている「まあ、ハナシとしてはすいすい読めるんだけど、何か物足りない感じ」を、軽いなりのよさというかたちで評価するところが、さすが高村さんだ、と感じさせられます。そりゃあ、重たくてコテコテに厚い小説ばかりが評価される世の中は、つまんないですからね。いいんじゃないでしょうか、直木賞を軽い小説がとっても。

 というところで、今週紹介したいのは高村さんの選評なんですが、注目したいのは『銀河鉄道の父』を評した部分ではありません。藤崎さんの『ふたご』を「個人的な関心事を連ねただけでは内輪のブログにしかならない。」とズバッと酷評した部分でもありません。

 選評の冒頭です。なぜかAIの話題から始めています。

「題材とプロットとキャラクター、そして文章力の四つが揃えば小説は書ける――。仮にこれが事実なら、小説はいずれAIが書くようになるだろうが、実際には、右の四つだけでは万人に読まれる小説は生まれない。小説は、生きた作家の手による足したり引いたりの匙加減や、緩急の間合いや、言葉の音と意味の派生効果がさまざまに利いているのであって、数値化されないこれこそが、小説が小説になる秘密であり、小説家が小説家である所以と言っていい。」(『オール讀物』平成30年/2018年3月号、高村薫「選評」より)

 すでにこの頃には、直木賞の選評にもAIが小説を書いたらうんぬんのハナシが出てきていたんですね。将来、だれかAI生成小説の歴史(と人類の反応)をまとめるときには、ぜひ高村さんの選評も紹介してください。お願いします。

 この先、高村さんは第172回(令和6年/2024年・下半期)をもって選考委員を退任しちゃうので、残念ながら(あるいは、幸運なことに)直木賞の選考の場でAIが書いた小説を審査する、という場面にぶち当たることはありませんでした。実際にそういう小説が候補になったときに、どんな表現で酷評してくれるのか。ないしはAIと人間が書いたものの区別がつかずにトンチンカンなことを語るのか。……それが見られなくて残念です。

 でも、将来、直木賞でそういう楽しい選考が実現しないものとも限りません。がんばれ、AI(いや、がんばれAI研究者)。

 高村さんがなし得なかった「AI小説を直木賞で選考する」経験を、だれか何年後か何十年後かの選考委員たちが、どういうふうに受け止めることになるのか。いまから楽しみです。

 まあ、それまでこちらが生きていられるかどうか、わかりませんけど。あとから生まれてくる直木賞ファンが、うらやましくてなりません。

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2026年4月12日 (日)

「何回目の選考になるのだろうか。」…北方謙三、第148回直木賞の選評より

 うちのブログではこの一年、「選考に関係ない選評」について書いています。基本的には、創設された頃の昔から始めて、時代の経過に沿いながら順番に見ていっているところです。

 なので今週は、前回取り上げた第150回(平成25年/2013年・下半期)よりも新しい回の選評に注目しよう。と思っていたんですが、つい先日、本屋大賞の発表があったので急きょ少し時計を巻き戻して、第148回(平成24年/2012年・下半期)直木賞の選評で行くことにしました。いまから13、14年ほどまえのハナシです。

 第148回の直木賞とはどんな回だったか。

 何といっても耄碌じじいだの老害だのと、さんざん世間から(いや、一部の人たちから)批判を受けまくっていた選考委員の渡辺淳一さんが、直木賞の場でいきなり若き新星、朝井リョウさんを激賞して、そうか、あの爺さんの目もそこまで狂ってはいなかったのか、と周囲がほっと胸をなでおろした(?)とも言われています。

 いいや、テキトーなこと言うな、渡辺淳一の選考はマジでひどかった! 朝井リョウを推したなんて、たまたまだ。……とナベジュン嫌いの人はいまでもツバを飛ばして主張するかもしれません。というか、渡辺淳一が好んだのと同じ作家を、今回、全国の書店員たちが大賞に選んだんだろ、ってことは、ナベジュンも書店員=一般人も、文学に関しては同じくフシアナであることが証明されたじゃないか! と声高に叫びつづける人もいるでしょう。たぶん。

 まあ、渡辺さんがどの程度、へんな選考をしていたのか。各自、当時の選評を読み込んでいただくとしまして、ここではそういうハナシは省きます。うちのブログの焦点は「選考とは関係ない選評」です。

 第148回では、候補作が6作品ありました。

 朝井さんの『何者』のほかには、安部龍太郎さんの『等伯』、有川浩さんの『空飛ぶ広報室』、伊東潤さんの『国を蹴った男』、志川節子さんの『春はそこまで』、そして西加奈子さんの『ふくわらい』です。

 選評を読むかぎりでは、このなかで圧倒的に『何者』と『等伯』が票を集めたらしく、エッジの効いた作品と、平穏・安定感のある作品、といった感じで対照的な二作が受賞圏内に入りました。ほかの4者は、なかなか厳しいことを言われつつ、それでも西さんの『ふくわらい』だけは選考委員に好印象を残しつつ、受賞には至らず、といった恰好です。

 それで、選評ではどの委員ももちろんそれぞれの候補作を自分がどのように読み、どこがいいと思い、どこが問題だと見たのかを書いています。あまり脇道にそれて原稿量を稼ぐような人は、少なくともこの回は見られません。

 といったなかで、やや異質な顔を見せたのが北方謙三さんです。

 北方さんというと、だいたいいつも選評の冒頭に、簡単な概説めいたことを書くのがお約束のようになっていましたが、第148回ではその路線を継承しつつ、妙におセンチなことを書きました。こんな感じです。

「何回目の選考になるのだろうか。この賞をジャンピングボードにした人が、どれだけいるのか。知らぬ間に沈黙してしまった受賞者が、果しているのかどうか。そんなことを考えた。賞の社会的な波及性は、作家の人生にも波及することがあると思えるが、そこまでの顧慮は選考にバイアスがかかりそうである。」(『オール讀物』平成25年/2013年3月号、北方謙三「バランスのいい二作」より)

 ずいぶん意味深です。どうしたんでしょうか。

 さかのぼると、北方さんは直木賞を受賞しないままで作家人生を歩みつづけていたところ、第123回(平成12年/2000年・上半期)から選考委員に就任した人です。つまり、この回で26回分、13年間、選考会に出席してきたことになります。

 いろんな受賞者を選びました。なかで小説をほとんど書かなくなった人なんて、ほんとにいるのか。

 たとえば、金城一紀さんがいます。それから山本文緒さんは、深刻なうつ病で執筆ペースに支障をきたしていた頃合いでした。

 直木賞の場合、そもそもプロ作家としてある程度、活躍してきた人がいるせいで、受賞したあとに消えた作家はそんなにいない……というのが定説です。

 あるいは、このとき受賞者として選ぶことになった朝井さんが、23歳とかなりの若年者で、デビューしてまだ2年ほどの実績しかなかったことから、北方さんの頭のなかに、「直木賞をしてから、プレッシャーを感じたり、あるいは他のことに興味を持ったりして沈黙する」作家に対する不安が、ふときざしたのかもしれません。正直、真意はわかりません。

 ともかく、現在にまで至るその後の朝井リョウさんの活躍を、北方さんはおそらく喜んでいるだろうとは思います。

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2026年4月 5日 (日)

「今回の選考は直木賞の百五十回という節目で、世間の注目を集めた。」…浅田次郎、第150回直木賞の選評より

 おそろしいことに、次の7月で直木賞は第175回を迎えます。

 何がおそろしいのか。といえば、130回とか140回とかそんな時代の直木賞で楽しんでいたのがつい最近のような気がするのに、それから半年に1回ずつ、槍が降ろうが竹が降ろうが粛々とやり続けて、いつの間にやら「175」という異常に大きな回数にまで到達している事実です。

 要は、直木賞を見ているこちらが年をとった、というだけなんでしょうけど、おそらくみんなそれぞれ、直木賞に注目していた頃が第何回ぐらいだったのか、みずからの人生に思いを馳せると、そうか、すっかりこっちが直木賞に飽きてチェックしなくなってから、もうン年(ン十年)も経ったんだなあ、とふと時の流れを実感する。……いわゆる、直木賞あるある、でしょう。

 そう考えると第150回(平成25年/2013年・下半期)なんて、ほんの昨日のように思えます。しかし、あれから12年が経っています。12年。けっこうな年つきです。

 12年前を一生懸命思い出してみたんですが、いったい第150回の直木賞って盛り上がったのか、それともイマイチだったんでしょうか。

 盛り上がったような気もする。だけど、区切りのいい記念回だ何だと無理やり盛り上げようとしていたのは主催者とかマスコミだけで、一般的には他の平常回と変わらず、ボチボチに受賞作が売れ、さっさとみんなの記憶から去っていった、そよ風の吹いた程度の回だったような気もします。

 選考委員のメンツを振り返ってみますと、この回が最後となった(そして欠席した)渡辺淳一さんと、こちらはきちんと出席した阿刀田高さん、2人が退場するのに合わせて新委員として高村薫さんと東野圭吾さんの2人が加わりました。すでにその2人とも、直木賞の選考会からは去ってしまって、ともに面白かったアノ選評を読むことはかないません。やっぱ12年の時の流れは、なかなか長いです。

 候補作6つのなかから、ともに50代の女性作家、朝井まかてさんの『恋歌』と姫野カオルコさん『昭和の犬』が受賞しました。その2人はもちろんのこと、受賞しなかった千早茜さん、万城目学さんはのちに受賞者に加わりますし、同じく候補者、伊東潤さんも柚木麻子さんも、いまでも第一線で活躍しています。

 だれがどうして受賞したのか。だれがどうして受賞しなかったのか。まだまだ現在進行形の、ちょっと昔のそんな選考を、いまここで振り返っても大して意味はありません。

 まあ、直木賞のことを調べて知ろうとする、それ自体が大して意味があるものじゃないのはたしかですから、ことさら言い立てることでもないんですけど、第150回のこのときも、6作の候補に対する選考とは、ちょっと外れた話題を選評に書いた人がいました。となると、「選考とは関係ない選評」ファンとしては黙って見過ごすことはできません。

 その委員というのが浅田次郎さんです。

 受賞2作品については、まったく異存なしと両作を褒め称え、ほかの候補作については手厳しく注文、または批評を繰り出したあとで、なぜか選評の最後に、付け足しのような蛇足を加えました。

「今回の選考は直木賞の百五十回という節目で、世間の注目を集めた。しかしやはり、前途有望な新人作家の登竜門であるという本義を見失ってはなるまい。惜しくも受賞に至らなかった諸氏は謙虚に受賞作を読み、ことに両作が共有する文学作品としての品性の正しさを学ぶべきである。また周辺のみなさまも、作家にとって最も有効な作品発表の形態を考慮していただきたいと思った。能力と努力と環境とが、受賞した二作品にはそれぞれに備わっていたと思うからである。」(『オール讀物』平成26年/2014年3月号、浅田次郎「孤高と勇気」より)

 上記のなかで「作家にとって最も有効な作品発表の形態を考慮していただきたい」と言っています。これは前の選評を読むと、受賞となった朝井さんの『恋歌』は書き下ろし、それに比して万城目さんの『とっぴんぱらりの風太郎』は週刊誌連載のせいか、あまりに長すぎる、みたいなことを言っているハナシをまとめたものでしょう。

 最も有効な作品発表の形態が望ましい。まったくそのとおりです。別に第1回だろうが第150回だろうが、そもそも文学賞の場だろうがそうじゃなかろうが、わざわざ書くことでもありません。書くほどのことでもないのに書かざるを得なかった、というところに、浅田さんの気持ちが乗っているのが見て取れます。同じ実作家としては、発表形態の重要さは、日々感じるところだったのかもしれません。

 しかし、直木賞の150回という節目で世間の注目を集めた、という文章はどうでしょうか。こう書くぐらいですから、世事に疎いと、いつもご自分で言っている浅田さんをして、何らか世間の注目を感じていたのには違いありません。

 まわりで見ていた身としては、別に第150回だからといって、そこまで騒がれていた記憶はないんですが、中にいる人やそばにいる人と、引いた立場にいる人間との温度差が埋めがたいほどに激しく横たわっている、というのもまた、歴史的にみて直木賞のあるあるです。

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