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2026年3月 8日 (日)

「ある日、映画監督の周防正行氏のコメントを新聞で読んだ。」…林真理子、第136回直木賞の選評より

 ノド元すぎれば何とやら、です。昨年令和7年/2025年7月に第173回直木賞が該当作なしとなって、一部でポッと話題になったことなど、どんどん忘れ去られていくでしょう。

 まあ、直木賞なんて誰が受賞したところで、半年、1年と経つうちに、その回のことを気にする人がいなくなっていく、はかない運命から逃れられません。そりゃあ直木賞なんてものに気をとられている暇があったら、みんなそれぞれ家庭だの仕事だの、他のことに精を出したほうがよっぽど生産的です。それでいいんだと思います。

 第173回より前に直木賞で該当作がなかったのは、第136回(平成18年/2006年・下半期)です。もうすでに、うちの「直木賞のすべて」というサイトは運営されていましたが、せっかく半年に1回の楽しみにわくわくしていたところに、該当作なし、と聞いてワタクシ自身はガクッとひざから崩れ落ちた……んだと思います。なにぶん20年もまえのことなので、ちっとも覚えちゃいません。

 ただ、受賞作が仮に出なくても、ああやっぱり直木賞って面白いな、と直木賞に惚れ直した可能性は十分にあります。該当作なしの場合の選評を読んで、選考委員各人それぞれ、手を変え品を変え趣向を凝らして文章を埋めているさまが新鮮に思えたからです。

 ということで今週は、第136回のときの選評を見てみようと思います。

 どうして該当作なしの結果になったのか。それに対して自分はどんな考えを持っているのか。基本的には選考の経緯や候補作に対する評価を書いてはいるんですけど、そこから外れた、もうちょっと俯瞰的で、概観的なハナシが多く語られます。

 たとえば、五木寛之さんです。個々の候補作のことにはいっさい触れず、全編「いまの新人たちの作品と、それに対する私の要望」のようなテーマで選評を書き切りました。

 冒頭だけ引いてみます。相変わらず「選考とは関係のない」話題から始めるのが大好きな人です。

「柳田国男は『遠野物語』の「まえがき」で、「願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と書いた。柳田のひそみに倣って言えば、「新らしき物語して文壇人を戦慄せしめよ」というのが、今回の選考を終えての私の感想である。」(『オール讀物』平成19年/2007年3月号、五木寛之「文壇人を戦慄せしめよ」より)

 うーん、ここで柳田国男さんの「戦慄せしめよ」を引き合いに出すのが、ほんとにふさわしい表現なのかどうなのか。よくわかりませんが、とりあえず五木さん独特の選評文章術のひとつであることは間違いない、とだけ言っておきましょう。

 この回、直木賞をとりまく状況、というか読み物出版界をとりまく概況を、めんめんと書き連ねたのが林真理子さんです。

 このあたりのことは、以前もうちのブログで取り上げた気がします。いつも同じネタをこすりまくってて、もはや情けないかぎりですが、20年たったいま読むと、何がしか面白味も増しているはずなので、改めて注目してみます。当時の林さんは、昨今の出版界の状況に違和感をおぼえている、と書き出したうえで、こんなことを言いました。

「ある日、映画監督の周防正行氏のコメントを新聞で読んだ。周防氏はこう語る。以前の映画というのは、監督が自分の全存在をかけて社会に向けて発していくものであった。が、最近の映画は、監督が自分のセンスに合った観客だけ得ればいいという、非常にサークル的なものになっていると、正確な表現ではないかもしれないがそんなことを述べていらした。これを小説の世界におきかえても、非常に正鵠を得ているのではないだろうか。

小説家のサークル化に、若い書店員が後押しをし、それは組織化され、巨大化されていくようである。」(同号、林真理子「サークル化」より)

 サークル化していることが問題なのか、とも読めるんですけど、いや、サークルがサークルであるなら別にそれは時代に限らず、いつだって存在してきた状況です。やっぱり、そのサークル化が書店員たちの手で巨大化していくことに違和感を抱いたのではないか、と林さんの選評からはうかがえます。本屋大賞なんて試みは、その代表です。

 結果、第136回は候補作6つ、いずれも支持が固まらずに該当作なしとなりましたが、その選考が行われた平成19年/2007年1月16日からほんの6日後に本屋大賞2007のノミネート作が発表され、そのなかの一つに「サークルのしっぽをくっつけるような」と林さんが選評で指摘した佐藤多佳子さんの『一瞬の風になれ』が入っていたもんですから、おだやかではありません。

 選評の載った『オール讀物』が発売された2月の下旬は、まだ本屋大賞の二次投票が受け付けられている最中でもあったので、林さんの選評を読んで、イラッと来た全国の書店員たちが、うるせい、自分の好きな小説を精一杯推して何が悪い、と佐藤さんの作品に票を入れる駆け込み投票を加速させた……という説もあります。

 どういう思いの書店員が多かったのか、いまとなってはなかなかうかがい知れませんが、ご存知のとおり、佐藤さんの『一瞬の風になれ』は本屋大賞の1位に輝くことになって、直木賞の選考→選評→本屋大賞の発表、という美しい軌道が描かれました。ううむ、いま見ても、出来すぎのような見事な流れです。ほれぼれしますね。

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