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2026年2月 8日 (日)

「いまは不景気だというが、おおかたの人は、昔の盆と正月のような日々を送っているのではないか。」…津本陽、第122回直木賞の選評より

 「大人の鑑賞に堪えうる小説」という表現があります。

 直木賞の委員がそういう妙な尺度を持ち出しはじめたのは、いったいいつからなんでしょうか。

 ワタクシにはわからないので、ぜひ有能な文学研究者か評論家のだれかに調べてほしいんですけど、ともかく日本には、幼年児童向けから少年少女、ティーンエイジ、学生、新社会人、20代、30代、40代、50代、60代、70代、超高齢者、それぞれがそれぞれに読んで面白いと思う小説がいろんな形式で、いろんな作家によって書かれています。直木賞が、若者をガン無視して、「大人の鑑賞に堪えうる小説」の代表的な読者、中高年の人たちをことさら意識しなくちゃいけない理由はありません。

 しかし、選考委員はだいたい年をくった人たちです。直木賞の屋台骨ともいえる『オール讀物』をはじめとした読物小説誌も、若者がバイブルとして読んでいた時代はとうに過ぎ去り、読者層の年齢も知らないあいだにどんどん上がるばかり。おのずと、直木賞が対象にする小説は、仮に若い人たちが読んでつまらなくてもオジさんオバさん(ないしジイさんバアさん)が読んで面白ければそれでいいんだ……というところに落ち着くのは当然でしょう。

 でまあ、さすがにいまの時代に、「大人の鑑賞に堪えうる小説」を選びたい、と前面に押し出す直木賞の委員はそこまでいませんが、ほんの数十年前は、はっきりとそういうことを選評に書く人たちもいました。阿刀田高さんとか、渡辺淳一さんとか。

 それはそれで、人それぞれの評価軸ですから文句を言う筋合いもありません。ただ、そういう若者にのみウケそうな、しかしそちらの層には絶大なウケをとりそうな小説を、直木賞の選考ではさして評価しない、という路線を煮詰めていった結果として、平成16年/2004年に本屋大賞が生まれて、爆発的な支持を得た、という面があるのは否定できません。

 ということで、今週取り上げるのは第122回(平成11年/1999年下半期)直木賞です。本屋大賞前夜、といってもいいでしょう。受賞したのは、なかにし礼さん『長崎ぶらぶら節』です。

 この回は、他の候補が東野圭吾さん『白夜行』、馳星周さん『M』、福井晴敏さん『亡国のイージス』、真保裕一さん『ボーダーライン』……というソウソウたるメンツでした。

 この並びのなかで、圧倒的に票を集めたのが『長崎ぶらぶら節』だった、というところに、直木賞の持っている古くささが露呈しています。先週取り上げた、ミステリー小説大嫌い党党首の渡辺淳一さんは、受賞作以外の4つを「ゲーム的小説」だと切って捨てて、

「改めて記すが、時代はどのように変ろうとも、小説は事件や情報を書くことではなく、まず人間を書くことだという、古くて新しい原点を忘れないようにしたいものである。」(『オール讀物』平成12年/2000年3月号、渡辺淳一「ゲーム的小説」より)

 と選評を締めくくっています。相変わらず何の根拠もないことをドヤ顔でホザいているな、という感じで、なつかしくもあり微笑ましいです。

 とは言っても、毎週毎週、渡辺さんの憎まれ口ばっかり取り上げているのも気分が悪いです。ここは、せっかくなので別の人の選評に目を向けてみたいと思います。津本陽さんです。

 津本さんが直木賞を受賞したのは第79回(昭和53年/1978年・上半期)のときで、当時49歳。そこから、とうてい派手とは言えない作家生活をコツコツと続けているうちに、やたらとオジさんオバさんに読まれる時代・歴史小説で売れるようになって、66歳から直木賞の選考委員に就いたという、筋ガネ入りの老年向き作家です。

 第122回の、5作の候補を前にしていったいどんなことを言い出すのか。と思ったら、いきなり直木賞の選考とは関係のないことから選評を書き出します。

「自分の過ぎてきた道程をふりかえってみて、満足した、しあわせであったと、ほんとうにいえる人は、どのくらいいるだろう。外から見て、たいそう幸福な生涯を送ったと思える人でも、実は想像もつかない心配ごとや、底のないバケツで水を汲んでいるような、空虚な生の苦みをかみしめていたのではないか。

いまから六、七十年ぐらいまえの日本では、家族ぜんたいが不運のどん底に沈みこみ、まったく芽の出ることがないまま、消滅してしまったというような話は、いくらでもあった。これは不運の典型だと、思わざるをえないような人々が、身近にいた。

いまは不景気だというが、おおかたの人は、昔の盆と正月のような日々を送っているのではないか。」(同上、津本陽「人生のあじわい」より)

 なんでこんな老人の繰り言の典型みたいな書き出しをしているのか、といえば、つまり『長崎ぶらぶら節』の舞台が、現代ではなく不運が日常的に転がっていた過去の時代だから、ということなんですけど、もはやそんな理由で作品に愛着をもつところが、なんとも高齢者です。

 いま現役で必死に毎日仕事をしている20代、30代ぐらいの人にとっては、「昔の盆と正月のような日々」とか上から言われても、ハァ?って感じでしょう。こういう選評がいかにもエラそうに載っている雑誌が、だんだん売れなくなってしまうのも、納得できる気がします。

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