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2026年2月の4件の記事

2026年2月22日 (日)

「井伏鱒二さんから、新人賞の選考会で龍胆寺雄の作品に触れた時のことを聞いたことがある。」…五木寛之、第129回直木賞の選評より

 こないだ本屋大賞2026のノミネート作が発表されました。

 4月9日に大賞が発表されるということで、それまでにノミネート10作を読み尽くそうと、がしがし読書に励んでいる人は多いかと思います。ワタクシもその一人です。

 しかし、頭のなかが本屋大賞で埋め尽くされるのは、妙に寝起きが悪くて仕方ありません。やはり、こういうときこそ直木賞のことを考えたい。と思って、今週のブログは、今年の本屋大賞のノミネート作家とも縁がある直木賞選評を取り上げてみることにしました。

 ……という前段は、まったくの創作で、いまさっき思いついたウソです。気にしないでください。

 さて、第129回(平成15年/2003年・上半期)の直木賞は、例の「本屋大賞が生まれるきっかけになった」としてチョー有名な、第128回該当作なしのあとにやってきた選考です。候補に挙がった作品は6つあります。

 宇江佐真理さん『神田堀八つ下がり』、真保裕一さん『繋がれた明日』と、このお二人は本屋大賞の最終ノミネートに挙がったことはありませんが、ほかの4人は、書店員からの支持もけっこう厚い顔ぶれで、東野圭吾さん『手紙』、村山由佳さん『星々の舟』、石田衣良さん『4TEEN フォーティーン』、そして泣く子も黙る伊坂幸太郎さん『重力ピエロ』……。

 このうち、石田さんと伊坂さんの作品は、翌年春に開催された第1回めの本屋大賞でも最終ノミネートに残り、しかし大賞にはならなかった、という点でも、両賞の近しさや違いなどを初回から印象づけた、本屋大賞史にとっても重要な2作になった、と(おそらく)言われています。

 まあそれはそれとして、第129回の選考会です。上記6つのうち、『4TEEN フォーティーン』と『星々の舟』を受賞作に選んだところに、なんとかジイさんバアさん相手の直木賞という印象を払拭したい、でも高齢読者が読んでも置いていかれないぐらいの、旧来タイプの小説に賞を贈ることは堅守したい、という直木賞の哀しきサガが出てしまっています。

 「出てしまっています」というか、別にそのことは否定すべき展開でもありません。何をいい小説と見るかは人それぞれ、当時10人の選考委員が2時間そこら話し合って決めたんですから、それはよしということにしておきましょう。

 そのなかで、この回、台風の目として遇されたのは明らかに伊坂さんの『重力ピエロ』です。

 デビューしてまだ数年、30代前半だったこの作家の作品を、どのように評価してどう選評を書くか。直木賞にとっても試金石になったと言っても過言じゃありません。

 けっきょくのところ選評を見返すと、『重力ピエロ』を強烈に推した委員は誰ひとりおらず、それも含めて「なんだか直木賞って古くせえな」という印象が、より鮮明になってしまったと言うこともできます。

 田辺聖子さん、宮城谷昌光さんはこの作品のことには一行も触れずにすませ、渡辺淳一さんは「底が浅い」とバッサリ批判、阿刀田高さんは「小説が躍動してくれない」と不満をもらし、平岩弓枝さんは「小説は知識そのものを書いては失敗する」と、ペダンチックなところのみを取り上げて『重力ピエロ』を拒否しました。

 五木寛之さんも伊坂さんには票を入れなかったようです。はっきり「私自身は、こういう作品は苦手である。」とも書いています。

 しかし、そういうことを言うだけでは収まらないのが、五木さんの選評のクセらしく、これはこれまでもたびたび紹介してきましたが、この回でもやはり、いきなり第129回の直木賞とは関係のないハナシを導入部に持ってきています。「選考に関係ない」とまでは言えませんが、今週はこの部分にビビッときました。

「もうずっと昔の話だが、井伏鱒二さんから、新人賞の選考会で龍胆寺雄の作品に触れた時のことを聞いたことがある。

「尾崎(士郎)もぼくもびっくりしてしまってね。こういう新人が現れるとわれわれはもう出る幕がないなあ、って顔を見合わせたんだよ」

今回、伊坂幸太郎さんの『重力ピエロ』を読みながら、ふとその話を思い出してしまった。」(『オール讀物』平成15年/2003年9月号、五木寛之「才気と熱気」より)

 ふうむ、そんなことがあったのか。となかなか勉強になる証言です。

 ただ、井伏さんと尾崎士郎さんが新人賞の選考委員として、龍胆寺さんの作品を読んで驚いた? それっていったい、いつの、何の新人賞のことでしょうか。よくわかりません。

 井伏さんと尾崎さんは明治31年/1898年生まれの同い年ですが、龍胆寺さんだって明治34年/1901年生まれで、年はたったの3つ違いです。龍胆寺さんが出てきたのは昭和3年/1928年に『改造』の懸賞創作で一等になったときですけど、その前後、井伏さんだって尾崎さんだって、別に選考委員としてふんぞり返るような大家だったわけじゃなく、ほとんど同世代の新進作家。新興芸術派のグループに分類わけされていた時代だったんじゃないか、と思います。

 そんな立場で、選考委員をやって「われわれはもう出る幕がないなあ」なんてジジむさいこと言うでしょうか。だれかその真偽を教えてください。

 そうは言っても、龍胆寺さんが出てきた当時のことなんて、2000年代の『オール讀物』の読者にゃわかるはずもありません。五木さんも『重力ピエロ』の毒にまかれて、ついつい真偽不明な、だけどいかにもな衒学的なネタを言いたくなっちゃったのかもしれません。別に、選評に正確なことを書く義務も必要性もありはしませんから。

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2026年2月15日 (日)

「タイトルの意匠は昔の月並俳句宗匠めいて古めかしい」…田辺聖子、第126回直木賞の選評より

 直木賞の選評を何度も何度も読み返す人、というのはこの世に存在するんでしょうか。

 ワタクシ自身、そんなに何度も読んだことがありません。直木賞の性質上、にぎやかな受賞風景がパーッと出たらパーッと忘れられる。その繰り返しをえんえんとやっています。

 半年前、1年前、その前……過去に決まった直木賞のことを知りたくて、わざわざ昔の『オール讀物』をひっぱり出してきて読みふける、みたいなことを何十回、何百回とやって習慣化している人がいたとしたら、その人はきっと真正の狂人でしょう。

 なので、たまにちょっと前の選評などを読んでみると、新鮮な気分になります。過去に一回は読んだことのあるはずの選評でも、ははあ、この委員はこんなことを言っていたのか、と新しい意見に接すること、しばしばです。

 こちらもだんだん年をくって記憶力が薄くもなっていますし、あとの人生、第1回から最新回までの直木賞の選評を、何度も読み返すだけでも、全然たのしめるに違いありません。まあ、そうなると、ほとんど廃人同然ですが。

 さて、そんなことを思ったのも、第120回台の選評を久しぶりに読み返してみて、まるで新しい文章を読まされたような気がしたからです。

 すでにそのころには、「直木賞のすべて」というサイトは始めていて、半年に1回、欠かさず『オール讀物』を買い求めて、受賞作が出た興奮の余韻にひたりながら注目して熟読していました。……熟読したはずです。それが、もはや全然覚えていないのですから、時が経つというのは無常といいますか、無情といいますか、直木賞の選評なんて読んだっておれの人生に何の意味もなかったんだな、と気づかされます。

 第126回(平成13年/2001年下半期)の直木賞は2つの作品が受賞しました。山本一力さんの『あかね空』と唯川恵さんの『肩ごしの恋人』です。

 他に候補に挙がっていたのは4作品。石田衣良さん『娼年』、乙川優三郎さん『かずら野』、黒川博行さん『国境』、諸田玲子さん『あくじゃれ瓢六』という並びで、そのうち3人はのちに直木賞を受賞しますし、けっきょく受賞しなかった諸田さんもいまでも現役作家としてバリッバリにやっています。

 候補作が6つに、選考委員が11人。いったい誰が、どの作品にどんな評価を下して、どんな表現を選評に残したのか。いま、パッと正解を出せる人がいたら、たぶんその人は神か廃人です。

 凡人のワタクシはもう一度、『オール讀物』を読み直すことしかできないんですけど、渡辺淳一さんが二作に授賞するのがいいことなのか、もう少し慎重になったほうがいいんじゃないか、と相変わらず厳しいことを言っているのは予想どおりだとしても、黒岩重吾さんが『肩ごしの恋人』を激褒めしていたり、ミステリー擁護派の先頭にたつ北方謙三さんが『国境』を推しているのは当然として、それと合わせて『かずら野』にも最初票を入れていたり、ふふうん、全然忘れていました。

 それと、選考会には欠席した田辺聖子さんが選評を書いているんですが、だいたい作品のこと、作家のことしか触れない優等生な田辺さんが、この回はちょっと本論と外れたことを書いているのも、読み直してみての再発見です。

「『あかね空』(山本一力氏)若夫婦の新世帯をほほえましく描いて山本周五郎風世界――と思っていたら、現代風家庭悲劇が展開される。それを時代小説で読めるのはたのしかった。時代小説にとって腕力ある新しい書き手登場は慶賀すべきことだ。読後感が清新だった。

(これは本の内容に関係ないが、タイトルの意匠は昔の月並俳句宗匠めいて古めかしい)」(『オール讀物』平成14年/2002年3月号、田辺聖子「蛮勇引力」より)

 Photo_20260215221201ちなみに『あかね空』の表紙カバーは、ネットでいくらでも画像が落ちていますが、いちおうここにも挙げておくと、←こんな字です。日野原牧さんによる題字だそうです。

 だけど、それまでの田辺さんの選評を読んでも、あまりこういう無駄グチを叩くような委員ではありません。どうしてここで、わざわざ「本の内容に関係ない」ことをポロッと洩らしたのか。

 そもそも月並俳句宗匠めいて古めかしいのが、ダメだと言っているのか、逆に合っていると言いたいのか。真意もわかりません。まったくの謎です。

 おそらく何らかの理由、何らかの背景がなけりゃ、さすがに田辺さんもそんなことは書かないと思うんですが。いったいなぜ田辺聖子は第126回選評で、『あかね空』の題字デザインのことをわざわざ話題に出したのか……。興味はがぜん沸いてきます。

 沸いてくるんですが、こんなことを追究していっても、何のためになるのかわからず、結果、直木賞の選評をこまかく読んでいってたところで、狂人か廃人になるしかないのかもしれません。

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2026年2月 8日 (日)

「いまは不景気だというが、おおかたの人は、昔の盆と正月のような日々を送っているのではないか。」…津本陽、第122回直木賞の選評より

 「大人の鑑賞に堪えうる小説」という表現があります。

 直木賞の委員がそういう妙な尺度を持ち出しはじめたのは、いったいいつからなんでしょうか。

 ワタクシにはわからないので、ぜひ有能な文学研究者か評論家のだれかに調べてほしいんですけど、ともかく日本には、幼年児童向けから少年少女、ティーンエイジ、学生、新社会人、20代、30代、40代、50代、60代、70代、超高齢者、それぞれがそれぞれに読んで面白いと思う小説がいろんな形式で、いろんな作家によって書かれています。直木賞が、若者をガン無視して、「大人の鑑賞に堪えうる小説」の代表的な読者、中高年の人たちをことさら意識しなくちゃいけない理由はありません。

 しかし、選考委員はだいたい年をくった人たちです。直木賞の屋台骨ともいえる『オール讀物』をはじめとした読物小説誌も、若者がバイブルとして読んでいた時代はとうに過ぎ去り、読者層の年齢も知らないあいだにどんどん上がるばかり。おのずと、直木賞が対象にする小説は、仮に若い人たちが読んでつまらなくてもオジさんオバさん(ないしジイさんバアさん)が読んで面白ければそれでいいんだ……というところに落ち着くのは当然でしょう。

 でまあ、さすがにいまの時代に、「大人の鑑賞に堪えうる小説」を選びたい、と前面に押し出す直木賞の委員はそこまでいませんが、ほんの数十年前は、はっきりとそういうことを選評に書く人たちもいました。阿刀田高さんとか、渡辺淳一さんとか。

 それはそれで、人それぞれの評価軸ですから文句を言う筋合いもありません。ただ、そういう若者にのみウケそうな、しかしそちらの層には絶大なウケをとりそうな小説を、直木賞の選考ではさして評価しない、という路線を煮詰めていった結果として、平成16年/2004年に本屋大賞が生まれて、爆発的な支持を得た、という面があるのは否定できません。

 ということで、今週取り上げるのは第122回(平成11年/1999年下半期)直木賞です。本屋大賞前夜、といってもいいでしょう。受賞したのは、なかにし礼さん『長崎ぶらぶら節』です。

 この回は、他の候補が東野圭吾さん『白夜行』、馳星周さん『M』、福井晴敏さん『亡国のイージス』、真保裕一さん『ボーダーライン』……というソウソウたるメンツでした。

 この並びのなかで、圧倒的に票を集めたのが『長崎ぶらぶら節』だった、というところに、直木賞の持っている古くささが露呈しています。先週取り上げた、ミステリー小説大嫌い党党首の渡辺淳一さんは、受賞作以外の4つを「ゲーム的小説」だと切って捨てて、

「改めて記すが、時代はどのように変ろうとも、小説は事件や情報を書くことではなく、まず人間を書くことだという、古くて新しい原点を忘れないようにしたいものである。」(『オール讀物』平成12年/2000年3月号、渡辺淳一「ゲーム的小説」より)

 と選評を締めくくっています。相変わらず何の根拠もないことをドヤ顔でホザいているな、という感じで、なつかしくもあり微笑ましいです。

 とは言っても、毎週毎週、渡辺さんの憎まれ口ばっかり取り上げているのも気分が悪いです。ここは、せっかくなので別の人の選評に目を向けてみたいと思います。津本陽さんです。

 津本さんが直木賞を受賞したのは第79回(昭和53年/1978年・上半期)のときで、当時49歳。そこから、とうてい派手とは言えない作家生活をコツコツと続けているうちに、やたらとオジさんオバさんに読まれる時代・歴史小説で売れるようになって、66歳から直木賞の選考委員に就いたという、筋ガネ入りの老年向き作家です。

 第122回の、5作の候補を前にしていったいどんなことを言い出すのか。と思ったら、いきなり直木賞の選考とは関係のないことから選評を書き出します。

「自分の過ぎてきた道程をふりかえってみて、満足した、しあわせであったと、ほんとうにいえる人は、どのくらいいるだろう。外から見て、たいそう幸福な生涯を送ったと思える人でも、実は想像もつかない心配ごとや、底のないバケツで水を汲んでいるような、空虚な生の苦みをかみしめていたのではないか。

いまから六、七十年ぐらいまえの日本では、家族ぜんたいが不運のどん底に沈みこみ、まったく芽の出ることがないまま、消滅してしまったというような話は、いくらでもあった。これは不運の典型だと、思わざるをえないような人々が、身近にいた。

いまは不景気だというが、おおかたの人は、昔の盆と正月のような日々を送っているのではないか。」(同上、津本陽「人生のあじわい」より)

 なんでこんな老人の繰り言の典型みたいな書き出しをしているのか、といえば、つまり『長崎ぶらぶら節』の舞台が、現代ではなく不運が日常的に転がっていた過去の時代だから、ということなんですけど、もはやそんな理由で作品に愛着をもつところが、なんとも高齢者です。

 いま現役で必死に毎日仕事をしている20代、30代ぐらいの人にとっては、「昔の盆と正月のような日々」とか上から言われても、ハァ?って感じでしょう。こういう選評がいかにもエラそうに載っている雑誌が、だんだん売れなくなってしまうのも、納得できる気がします。

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2026年2月 1日 (日)

「野に遺賢がなくなったのか、それとも出版社が容易に本を出すようになったのか。」…渡辺淳一、第115回直木賞の選評より

 なぜ推理小説は多くの読者を魅了するのか。

 難しい問題です。ワタクシにはわかりません。

 だけど、古今東西、探偵、推理、ミステリー物はだいたい読者の人気が高く、それとは違う系統の創作を信奉している人たちは、それこそ明治の尾崎紅葉さんまわりの硯友社あたりから、さんざん文句を言ったり悩まされてきたようです。

 あんなもの文学じゃない、と言い張る連中がいれば、いいや、面白さがバツグンなんだからいいじゃないか、とムキになる人たちあり。けっきょく、どちらも正解なんてものはなく、自分が自分の正しいと思うことをぶつけ合っているだけの闘争が、日本でも百何十年か続いてきました。その争うさまがいちばん面白い、としか言いようがありません。

 で、推理か非推理か、ミステリーか非ミステリーか、という大ゲンカは、直木賞にとっても大見世物のひとつです。

 「直木賞ではね、むかしはミステリーは冷遇されていたんだよ」と、物知り顔で語る人は、ちょっとまえにはワタクシのまわりにもたくさんいて、そのドヤ顔ぶりに正直ヘキエキしたものですが、これはいまでもいるかもしれません。ともかくそういう手合いが沸いて出てくるほどに、直木賞で候補にあがった推理小説・ミステリー小説は、時の選考委員たちに蹴落とされ、はじかれて、受賞の芽を逃したんだ、としておきましょう。

 推理小説ぎらいで有名だったのが渡辺淳一さんです。

 どうしてそんなにミステリーを目のカタキにしたのか。もはやわかりようもありませんし、ことさらわかりたいとも思いませんが、同人雑誌でまじめに文学に取り組んだところから出てきた渡辺さんの出自が、そうではない分野のことを敵対視する根っこになったのかもしれません。

 しかし商業出版はミステリー全盛の時代に突入します。しかも、陳舜臣さん、藤沢周平さん、田辺聖子さんと、ミステリーにもけっこう甘い点をつける新しい選考委員が直木賞に加わっていった平成の時代。ほとんど孤軍奮闘といった感じで渡辺さんは、ことあるごとに、ミステリー系の候補作にケチをつけ、落とそう落とそうと努力します。

 第115回(平成8年/1996年・上半期)、五つの候補作が残りました。鈴木光司さん『仄暗い水の底から』、篠田節子さん『カノン』、浅田次郎さん『蒼穹の昴』、乃南アサさん『凍える牙』、宮部みゆきさん『人質カノン』です。

 このうち、謎の殺人事件が起きて捜査機関がその解明に動くという、ミステリーの濃度がコユコユの『凍える牙』が最終的には一作受賞と決まります。おお、時代も変わったな、と当時、物知り顔で解説する人が後を絶たなかったのもわかるような展開です。

 ただ、渡辺さんの選評は平常運転と言いましょうか、ミステリーに対して苦言を呈したくなるいつもながらのクセを、つらつらと文字に記しました。

「受賞となった、乃南アサ氏の「凍える牙」は、たしかに女刑事とオジさん刑事のユニークな関係は、それなりによく書けてはいるが、これが推理小説だといわれると、おおいに疑問が生じてくる。結局、人間関係さえ書けていれば、いいではないかという意見が大勢を占めて受賞となったが、「新潮ミステリー倶楽部特別書き下ろし」と、堂々と書いてあるのだから、表示に難あり、ということになりかねない。もっとも、推理小説にしなければ本にしてもらえなかったから、という作者の云い分なら、作者の方が一枚上手で、技ありということになるのかもしれない。」(『オール讀物』平成8年/1996年9月号、渡辺淳一「推理ばやり」より)

 褒めているようで、ケナしているような、何とも真意のつかみづらい作品評です。

 ただ、やはり渡辺さんが、ミステリー小説……というより「ミステリー」とラベルが付けば本になって読者も付く、という状況を、そうとう嫌っていたことの表われには違いありません。

 上記に挙げた文章には、前段があります。この回の直木賞の候補作を評するにあたって、そんなことを語って意味があるのかないのか、よくわからないながら、たぶん渡辺さんとしてはぜひとも言いたかったんだろうな、と思わせる「選評」です。

 こんな感じで始まります。

「以前は芥川賞候補作はもちろん、直木賞候補作にも、必ず同人雑誌からピックアップされたものが数篇あり、小冊子になって回されてきた。

だが最近はその種のものはほとんどなく、いずれも立派な単行本で、しかも一流出版社から出されたものばかりである。

それだけ野に遺賢がなくなったのか、それとも出版社が容易に本を出すようになったのか。これを文運隆盛というべきか、見かけだけのバブルなのか、よく考えてみる必要がありそうである。

それにしても、いまは推理小説全盛。推理小説でなければ小説でないとでもいうように、直木賞候補作は圧倒的に推理小説が多い。このあたりは、書くほうの問題というより、書かせるほうの問題で、推理小説にさえすれば、単行本にしてもらい易い、という思惑があるのかもしれない。」(前掲)

 つまりは何なのか。自分が候補になって落とされたりしていた昭和40年代の頃の直木賞をとりまく状況を、懐かしそうに思い出しつつ、それに比べて現在は……と比較して語っているわけですね。さすが多くの人から老害だ老害だと言われつづけた人の選評は、美しいまでに老害フォーマットの教科書のように整っています。

 要は渡辺さんのミステリー嫌いは、自分の進んできた道が昔どおりにはチヤホヤされずに、当時あまり文学賞にひっかからなかった推理小説ふぜいが、デカい顔してのさばっている、というその状態が我慢できなかった面もあるんでしょう。かわいい人といえば、かわいい人です。

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