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2026年1月の5件の記事

2026年1月25日 (日)

「ふるさと創生事業が拍車をかけたりもして、いまや文学賞が二百何十とか言われる。」…藤沢周平、第112回直木賞の選評より

 直木賞が該当作なしになると、選評のなかに「選考とは関係ないハナシ」が増える。と一般的に言われています。

 ほんとでしょうか。もちろん、そんな統計をとった人は誰もいません。今後もおそらく、わざわざ分析する人も出てこないんじゃないか、と推測します。そんなことしたって、別に何の意味も面白みもないからです。

 まあだいたい直木賞は、水のごとく風のごとく、目のまえを流れていくだけの、はかないシロモノです。

 半年に1回、だらだらと生み出されてきた選評のたぐいも、いま読んでも何のこっちゃ、その時代にリアルタイムで読んでいたらすぐに理解できるハナシでも、もはや受賞作や候補作のうちの何十パーセントかは読むことさえ苦労する、という悲しい現状があります。そう考えると、やはり過去の選評のなかで面白いのは、候補作を論評した部分ではなく、選考とは関係ないことを書いている部分に宿っている、というところに行き着きます。

 第112回(平成6年/1994年・下半期)は、平成に入って6年め、はじめて該当作なしとなった回でした。

 候補作は中島らもさん『永遠も半ばを過ぎて』、坂東眞砂子さん『桃色浄土』、小嵐九八郎さん「風が呼んでる」、志水辰夫さん『いまひとたびの』、池宮彰一郎さん『高杉晋作』の5つです。いまも作家としてやっている小嵐さんや志水さんとか、あるいは多くの話題をふりまいて天に召された中島さんあたりは、いまも好んで読まれている……可能性はあると思います。だけど、坂東眞砂子さんとか池宮彰一郎さんとか、いまさら新たに読もうという人が出てくるのかいな。とうすら寒い気持ちにならざるを得ません。

 それはともかく、候補に挙がった5人とも、当時はみんな出版界や読書界から注目されていたピッカピカの新進(いや中堅どころの)作家だったことに間違いありません。選考会は、ああでもない、こうでもない、と議論紛糾、志水さんの『いまひとたびの』に受賞が決まりそうな風向きが、ないこともなかったみたいなんですけど、けっきょくは該当作なしになりました。

 ああ、残念だ。

 といったところで、半年に1度の盛り上がりの機会も逃して、このとき本屋さんたちがガックリ肩を落とした。……かどうかは、あまり情報が伝わってこなかったのでわかりません。直木賞なんて一過性のもので、ギャーギャー騒ぐひまもなく、新刊は大量に出るし、お客さんはたくさん来るし、当時の書店にとってそこまでのダメージではなかったのかも、と推察します。

 さあ、そこで『オール讀物』に載った選評です。該当作がありません。となると、作品以外のことを選評に書く人がボロボロ出てきます。

 五木寛之さんは、たとえ受賞作を出した回であっても、選考と全然関係ないことを書きつらねるような人ですが、この回も当然その路線は健在です。

「受賞作なし、という結果のあとで、なにかを述べるというのはむずかしい作業だ。

(引用者中略)

私にはなんとなく小説の世界そのものにパワーが失われている、という気がしてならないのだ、

まして先日の阪神地方大震災のような事件が勃発したあとでは、すこし前に候補作として読んだ作品の記憶が妙に遠いもののように感じられてしまうのもいたしかたあるまい。現実の事件の重さに圧倒されない小説の力、などというのは、すでに勝手な幻想なのだろうか。」(『オール讀物』平成7年/1995年3月号、五木寛之「ひとつの節目として」より)

 小説の力、パワーみたいなものにこだわる点は、前週紹介した五木さんの選評から連続しています。よほどこのころ、沈んだ気分だったのかもしれません。少なくとも大震災のニュースが、五木さんの心を落ち込ませたんだろうな、とは容易に想像できます。

 藤沢周平さんも、この回の「該当作なし」には、さすがに候補作以外の話題を選評に書かざるをえなかった一人です。

「今回は、両賞(引用者注:直木賞と芥川賞)が受賞作なしとなって文学の衰退かと言われたが、直木賞に限って言えば票が散って受賞作を出せなかったのが真相である。しかし懸念がないわけではない。ふるさと創生事業が拍車をかけたりもして、いまや文学賞が二百何十とか言われる。新人登場の間口がひろがるのはいいことだが、半面そのために人がどこかで文学をおもちゃにしはじめたということはないだろうか。ほかにも理由があって、全体としてのそういう風潮の中で小説はいまとても比重の軽いものになりつつあるように思われる。」(同号、藤沢周平「感動が残る志水作品」より)

 ううむ、藤沢さんも五木さんと似たようなことを言っています。

 いろんな人が文学を「おもちゃ」として扱いはじめたのが、果たして平成に入ってからなのか。ワタクシにはよくわかりません。その後、ふるさと創生うんぬんでボンボンできた文学賞は、ひとつまたひとつとなくなっていき、代わりに地域限定で書店とか図書館とかが「賞」と名づけた販促イベントを次々に立ち上げていく、平成から令和にかけての動きを、藤沢さんはどう見るんでしょう。

 もはや、その感想をご本人に聞くわけにはいきませんが、はっきりしているのは、アクタなんとか賞じゃなく直木賞の場で「文学が」どうのこうのと語ったところで、それを真剣に受け取って批評やら評論やらに生かす人が、古今、現れた形跡がないということです。藤沢さんの言葉も、直木賞という風の流れのなかに埋もれて、静かに化石と化しています。悲しいです。

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2026年1月18日 (日)

「小説がメジャーな表現の位置を降りてから、すでに相当な時間が過ぎている。」…五木寛之、第111回直木賞の選評より

 こないだ第174回(令和7年/2025年・下半期)直木賞が決まりました。

 結果を知ったら、当然その理由を知りたくなるのが人情です。しかし公式に選考委員たちが理由を表明する「選評」が発表されるまでは、まだしばらく待たなくちゃいけません。やきもきしますね。それまでは、昔の選評でも読んでいろ、ということなんでしょう。

 それで、今週も飽きずに直木賞の昔の選評を見てみたいと思います。

 うちのブログでは「選考とは関係のない選評」をテーマにして、その部分だけをピックアップしているんですが、繰り返し言っているとおり、たいてい選考と関係のないことを書きたがる委員というのは限られてきます。

 今週も、これまで何度も登場いただいた委員の、やっぱりどう見ても候補者や候補作とは直接的につながらないよなあ、という箇所に注目しなけりゃなりません。

 五木寛之さんです。

 第111回(平成6年/1994年・上半期)というのは、いまからもう30年以上も前の直木賞ですが、覚えている人はいるんでしょうか。ワタクシはすっかり忘れてしまいました。

 中村彰彦さんの「二つの山河」と海老沢泰久さん『帰郷』という、二人のオジさんの、いずれも派手さや刺激の少ない小説が受賞して、まあ他の回に比べればとうてい盛り上がったとは言えない回だった……ということにしておきます。違っていたら、すみません。

 そういう回でも井上ひさしさんなどは「俊英、勢揃い」と選評の題を付けたりして、候補が地味だとかどうだとかは直木賞には関係ないぜ、みたいな構えをみせています。

 そりゃそうです。主催している団体は、多少は(あるいは、かなり)話題性も加味したうえで候補作を決めるものかもしれないですけど、公表されている最終選考委員の選評のうえでは、世間のみんなが注目しそうかどうかでおれは票を入れた、なんて人は、まずお目にかかれません。作家の力量とか、進歩の度合いとか、作品そのものの評価とか、優劣つけがたいところを無理やり投票して賞を決めています。

 この回の選評もやはり委員の多くは、候補作や候補者に対する自身の感想やら批評やらを語っているんですが、それ以外のことを語りたくて仕方ない委員のひとりであった五木さんは、かなりの行数を使って総体的なハナシを書きました。

 冒頭から引いてみます。

「小説がメジャーな表現の位置を降りてから、すでに相当な時間が過ぎている。そのあと、映画も、ジャズも同じような経過をたどった。しかし、オペラも、芝居も、みなそれぞれに黄金期を通過したのち適当な居場所をみつけて、それなりの成熟ぶりをしめしている。そして時には休火山が再噴火したかのような活気を見せたりもする。スピルバーグは異星人や恐竜を登場させた映画で世間を沸かせたし、今秋やってくるカルロス・クライバー指揮の『ばらの騎士』は、六万円のチケットが一瞬にして売り切れてしまう騒ぎだ。また『マディソン郡の橋』の未曾有の売行きなどを見ると、小説のような古風な仕事にも、まだまだ余力は残っているのかな、と、ちょっとびっくりしたりもする。」(『オール讀物』平成6年/1994年9月号、五木寛之「複雑な感慨」より)

 ううむ、なるほど、『マディソン郡の橋』がベストセラーになったあの辺りの頃の選評か。と、思い出させてくれるから、楽しいといえば楽しいんですけど、いったいいつ直木賞のハナシをしてくれるのか。

 スピルバーグがどうだの、カルロス・クライバーがどうだの、直木賞の選評に書く必要があるんだろうか。そんなことより早く今回の直木賞について語ってくれよ。と、読み手のこちらをじらす手わざが、一種の芸と化しています。

 それはそうと、さっきも書いたとおり、第111回直木賞は30年以上まえの出来事です。その頃、すでに小説はメジャーな表現の位置を降りていた……と五木さんは言っています。もとい、降りてから相当な時間を過ぎている……と言っています。

 小説が斜陽のなかで徐々にくだっている、という実感は、別にいまに始まったことじゃないんですね。そうだ、もう何十年も昔から、小説なんて大したことのない地位にいつづけているのだ。そう認識して元気に生きていきましょう。

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2026年1月14日 (水)

第174回直木賞(令和7年/2025年下半期)決定の夜に

 政治はいまも動いています。国際情勢も気が気じゃありません。1月14日(水)、今日も一日いろんな出来事がありましたが、そのなかで派手なのか地味なのかよくわからないお決まりのニュース。第174回(令和7年/2025年・下半期)直木賞の結果が発表されました。

 候補作が多ければ多いほどうれしいワタクシとしては、たった5作しか候補作が読めなくて、ちょっと物足りなく感じます。直木賞を「小説を読む立場」から見たときのいちばんの楽しみは、受賞作を読むことじゃなくて、バラエティに富んだ候補作を読むことにあるからです。

 受賞作だけしか読む価値はない。と信じているような人は、さすがに今どきはいないと思います。昔からいなかったかもしれません。それはわからないんですけど、昔とか今とか、他人サマがどうだとか、気にしていてもラチが明きません。

 今回も候補作を5つ読んだ。そして、そのいずれも幸せな読書体験をさせてくれた。この揺るぎない事実を前に、ワタクシはただただ、直木賞の候補者たちに感謝するほかありません。

 受賞したかどうかは、すぐに消え去る「話題のニュース」でしかありませんが、小説を読んだ体験は、生きていく上での日常の一部です。今回もさまざまな表現、切り口、世界観の小説に、直木賞候補作というかたちで出会えてよかったです。

 『白鷺立つ』の装幀とか題名とか、いかにも重厚歴史小説のただすまいを見せておいて、じっさい読んでみるとエンタメ炸裂で、めまいがしました。まじで住田祐さんが第一作目で直木賞とっちゃう芽もあったはずです。直木賞はいつも一歩も二歩も遅い、という古えから伝わる格言がありますけど、ド級の処女作を見逃して、あとで後悔する直木賞の姿を、何度も見てきた気がします。ううむ、歴史は繰り返してしまったか。

 山田風太郎賞と直木賞を連続してとったら、チョメチョメ以来の快挙だったのに……とか、すぐに文学賞のことを言い出すと、気持ちわるがられるのでやめておきます。そりゃそうです。大門剛明さんの『神都の証人』が、たくさんの読者に愛されているのは、文学賞の事情とは何の関係もありません。直木賞をとらなかった小説が、その後長く愛されつづける例はゴマンとあります。『神都の証人』がその一つに加わることを、切に願っています。

 葉真中顕さんなら初の候補で直木賞をかるがると受賞する、ぐらいのこたあ、やりかねないと思ったんだけどなあ。『家族』がまたインパクト抜群すぎて、震えあがりましたよ。このまま、ぶんぶん腕をふりまわして、そのうち直木賞を粉砕してやってください。

 インパクトという意味では、『女王様の電話番』の描いたものは、他の候補にも負けずとも劣らないと確信しています。渡辺優さんの作品が、今回直木賞の候補に入ってくれたことで、「バラエティに富む候補作群」のパズルが完成した感もあり、いやあ、ほとほと感服しました。まだまだいくらでも直木賞が渡辺さんを候補に挙げる機会はあるでしょう。あってほしい!

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2026年1月11日 (日)

第174回(令和7年/2025年下半期)直木賞をAIに予想してもらう。

 今週水曜日の1月14日、新しい直木賞が決まります。

 候補作5つのうち、何がとっても話題になるし、万が一、該当作がなくたって話題になることが確定しているという、正直多くの人にとってはどうでもいい類いの行事です。

 人の生き死にに関わらない、こういうどうでもいいハナシについてはAIに任せるのがお約束。というのが、いまでは常識になっているらしいので、わざわざ人の手をわずらわせずに、ここは第174回(令和7年/2025年下半期)の展望をChatGPTに聞いて済ませたいと思います。こういうのは人間に聞くより手っ取り早いです。

Q:第174回直木賞の受賞作を予想してください。

ChatGPTの答え:

書評や読書界隈での注目度や作家経歴、テーマ性などから予想を整理すると次の通りです:

◎本命候補:『家族』(葉真中顕)→社会派ミステリー色が強く、話題性が高いという評が多いです。過去作も多くの賞に絡んだ実力派作家であり、受賞の可能性が高いとの声があります。

○対抗候補:『神都の証人』(大門剛明)→歴史/法廷ミステリーとしてエンタメ性があり、直木賞受賞作の傾向とも合いやすいジャンル。

○対抗候補:『カフェーの帰り道』(嶋津輝)→大正~昭和の風情を描いた作品で、“本格小説”として根強い人気を得る可能性あり。読者層からの支持も予想されています。

■その他候補:『白鷺立つ』(住田祐)→デビュー作として高評価を得ているものの、受賞経験・知名度で他候補にやや劣る印象。

■その他候補:『女王様の電話番』(渡辺優)→タイトルや世界観がユニークで話題性はあるものの、直木賞選考委員の評価がどう出るか注目。

まとめると、現時点では葉真中顕『家族』を本命に、歴史ミステリーや社会派ドラマの『神都の証人』や『カフェーの帰り道』を強力な対抗とする予想が多いです。どの作品が受賞するか、発表を楽しみに待ちましょう!

 はい! 発表を楽しみに待ちたいと思います。ありがとうございました。

 ……と、ここで終わってもいいんですが、いやいや、ぜんぜん物足りないぞChatGPT。『白鷺立つ』や『女王様の電話番』の受賞予想が何でそんなに低いんだ。頭おかしいんじゃないのか。

 おかしいのはこちらのほうで、正しいのはヤツなのかもしれません。わかりません。だけど、『家族』以外だって全然受賞する可能性あるんじゃないか。ということで、もうちょっとツッコんで、それぞれの候補作が直木賞をとるならどういう理由があり得るか、あらためてAIに解説してもらいましょう。

          ○

Q:第174回直木賞を渡辺優『女王様の電話番』が受賞するとしたら、どういう理由が考えられますか。

ChatGPTの答え:

渡辺優『女王様の電話番』が第174回直木賞を受賞すると仮定した場合、選考委員の評価理由としては、次のようなポイントが考えられます。

①直木賞的「エンタメ性」と完成度の高さ

直木賞は「読者に広く届く物語性」を重視します。『女王様の電話番』は「一見すると奇抜でキャッチーな設定」「会話中心でテンポがよく、読ませる構成」「ユーモアとシリアスのバランス」といった点で純粋な“小説としての面白さ”が非常に高いと評価される可能性があります。

選考委員からは「最後まで一気に読ませる力がある」「職業小説としても完成度が高い」といったコメントが出ても不思議ではありません。

②「声」「会話」を通じて現代社会を描いた点

電話番という立場は「表に出ない」「顔の見えない他者の感情を受け止める」「権力や支配関係を“間接的”に体験する」という、現代的なコミュニケーションの歪みを象徴しています。

選考理由としては「SNS時代の「匿名性」」「ケア労働・感情労働の不可視性」「支配と依存の構造」を、説教臭くなく娯楽小説として描いた点が高く評価される、という筋が立ちます。

③重いテーマを軽やかに包む「語りの技術」

直木賞では近年、「社会問題を正面から告発する作品」「重厚で暗い物語」が続く傾向もありましたが、その反動として「深刻なテーマを、軽やかに、しかし浅くならずに描いた」という評価軸が浮上することがあります。

『女王様の電話番』は「タイトルのポップさ」「語り口の軽妙さ」「読後にじわじわ効いてくる余韻」によって、「読後に考えさせるが、読書体験は楽しい」という点で選考委員の合意を得る、という見方ができます。

④渡辺優という作家の「円熟」

仮に受賞した場合、理由としてよく語られそうなのが、「安定した筆力」「読者層の広さ」「長年エンタメ小説を書き続けてきた蓄積」です。

選評では、「これまでの作家生活の集大成として評価した」「直木賞が求める物語性を最も体現していた」といったキャリア評価込みの受賞という説明がされる可能性があります。

⑤他候補作との比較の中での「独自性」

他候補に社会派・歴史・重厚路線が多い場合、「設定のユニークさ」「読後感の軽やかさ」「“今の空気”を映す題材」が際立ち、「最も直木賞らしい一作」「読者に手渡しやすい作品」として票を集める、という展開も十分あり得ます。

▼まとめ

もし選考委員の総評を一文でまとめるなら、こんな言葉が想像できます。

「現代社会の歪みを、会話とユーモアによって巧みに描き切った、完成度の高いエンターテインメント小説である」

 ううむ。確実にヤツは『女王様の電話番』を読んでいませんね(ってそりゃそうか)。

          ○

Q:第174回直木賞を住田祐『白鷺立つ』が受賞するとしたら、どういう理由が考えられますか。

ChatGPTの答え:

住田祐『白鷺立つ』が第174回直木賞を受賞すると仮定した場合、選考理由としてはかなり「直木賞の王道回帰」的な説明が成り立ちます。

①デビュー作とは思えない完成度と安定感

まず最も語られやすいのがここです。「構成の破綻がない」「文体が過度に尖らず、読者を選ばない」「物語の運びが丁寧で、最後まで失速しない」。直木賞では、「新人だが、すでに“職業作家”としての水準に達している」という評価が非常に強い武器になります。

選評では「新人作家にありがちな力みがなく、成熟した筆致である」といった言葉が使われる可能性があります。

②日本的情緒と普遍的テーマの両立

『白鷺立つ』という題名自体が象徴するように、「静けさ」「移ろい」といった日本文学的な情緒を大切にしつつ、「喪失」「贖罪」「再生」という時代や世代を超えるテーマを描いている点が、高く評価されると考えられます。

これは直木賞が好む、「地方性や風土を通じて、普遍性に至る物語」という評価軸にぴたりと合います。

③派手さはないが「読後に残る」物語

他候補作に、「社会派」「歴史ミステリー」「設定の奇抜さ」が並ぶ中で、『白鷺立つ』はあえて「大きな事件に依存しない」「人物の内面と関係性に焦点を当てる」という選択をしています。

そのため選考会では、「一見地味だが、読み終えてからの余韻が最も深い」「時間を置いて評価が上がる作品」という声が出る、という想定ができます。

④直木賞が「新人を押す」回になった場合

直木賞は周期的に、「実績ある作家」「円熟期の作家」よりも、「この作家を世に出したい」という意思表示として、新人・若手を選ぶことがあります。

その文脈で、「作品の完成度」「将来性」「継続的に読者を獲得できるタイプの作家性」を総合して、「今ここで直木賞を与える意味がある」と判断される可能性があります。

⑤「文学性」と「大衆性」のちょうどいい接点

芥川賞寄りでもなく、娯楽小説に振り切るわけでもない――『白鷺立つ』は、「読みやすいが軽すぎない」「文学的だが難解ではない」という直木賞が最も評価しやすい中間点にあります。

選評としては、「文学賞としての品格と、大衆小説としての読みやすさを両立している」という表現が考えられます。

⑥他候補作との“バランス受賞”

仮に他候補が、「社会性が強すぎる」「ジャンル色が濃い」「作家として既に十分評価されている」場合、選考委員の間で「今回は物語そのものの力を評価しよう」という空気が生まれ、『白鷺立つ』に票が集まる、という筋も自然です。

▼まとめ

総合すると、次のような理由が最も説得力があります。

「派手さはないが、日本的情緒に根ざした普遍的な物語を、確かな筆致で描き切った点を高く評価した。新人作家のデビュー作として、今後の活躍を強く期待させる一作である。」

 『白鷺立つ』が受賞する理由も、他の候補と同じくらいたくさんある、ってことですね。

          ○

Q:第174回直木賞を嶋津輝『カフェーの帰り道』が受賞するとしたら、どういう理由が考えられますか。

ChatGPTの答え:

嶋津輝『カフェーの帰り道』が第174回直木賞を受賞すると仮定すると、その理由は「直木賞の原点回帰」と「いま改めて評価された昭和(戦前)モダニズム」という二つの軸で、非常に筋の通った説明が可能です。

①〈時代小説×市井の人〉という直木賞の王道

『カフェーの帰り道』は、「政治家や英雄ではなく、カフェーで働く人々、客、街を行き交う無名の人間」を描く作品です。これは直木賞が伝統的に高く評価してきた「歴史の裏側に生きた市井の人々の人生を、物語として掬い上げる」という王道に正面から合致します。

選考委員からは、「時代小説でありながら、現代にも通じる人間の息遣いがある」という評価が想定できます。

②“ノスタルジー”に終わらせない昭和モダンの描写

大正末~昭和初期のカフェー文化は、「退廃」「享楽」「モダン」「不安定な時代のきらめき」を孕んだ題材ですが、本作は単なる懐古趣味に陥らず、「格差」「女性の自立と搾取」「時代の断層」といった現代にも直結するテーマを内包しています。

そのため選考理由としては、「昭和モダンを描きながら、現在の社会構造を照射している」という評価が成立します。

③空気感・細部描写の圧倒的なリアリティ

『カフェーの帰り道』の強みは、「街の匂い」「夜道の湿度」「カフェーを出たあとの静けさ」といった“帰り道”という時間帯の感覚を、非常に精緻に描いている点です。

派手な事件が起きるわけではないのに、「風景そのものが物語を語る」「読者がその時代を「歩いた気になる」」という感覚は、選考委員から「小説ならではの臨場感がある」と高く評価される要素です。

④文体と構成の「古さ」と「新しさ」のバランス

文体は落ち着きがあり、古典的とも言える一方で、「現代読者にも無理なく読める」「情報過多にならない」という点で、今の時代に最適化された時代小説になっています。

直木賞では、「奇をてらわず、しかし凡庸でもない」作品が最終的に選ばれることが多く、本作はその条件を非常に満たしやすいタイプです。

⑤他候補作が割れた場合の「最大公約数」

仮に選考会で、「社会派(葉真中顕)」「ジャンル性の強いミステリー(大門剛明)」「現代設定の会話劇(渡辺優)」などで評価が分散した場合、「純粋に小説として、最も安定している」という理由で『カフェーの帰り道』に票が集まる展開は、かなり現実的です。

選考委員同士の妥協点としても、「文学性」「大衆性」「品格」のバランスが最も取りやすい作品だからです。

⑥「静かな傑作」を選ぶという意思表示

この受賞は、「話題性や刺激の強さよりも、長く読まれる小説を選んだ」という、選考委員会からのメッセージにもなります。

選評では、「決して派手ではないが、読み終えた後に確かな余韻を残す」「直木賞にふさわしい、静かな力を持った作品」といった表現が想定されます。

▼まとめ

最もそれらしい一文にまとめると、次のようになります。

「昭和初期のカフェー文化を背景に、市井の人々のささやかな人生と時代の空気を丁寧に描き出した。ノスタルジーに留まらず、現代にも通じるテーマ性を備えた、完成度の高い物語である点を評価した。」

 おお、『カフェーの帰り道』がとるかもじゃないですか。期待感があがります。

          ○

Q:第174回直木賞を大門剛明『神都の証人』が受賞するとしたら、どういう理由が考えられますか。

ChatGPTの答え:

大門剛明『神都の証人』が第174回直木賞を受賞すると仮定すると、その理由は「直木賞が好む〈骨太なエンターテインメント〉」と「歴史と現代をつなぐ倫理性」の二点に集約できます。

①歴史×法廷×ミステリーという完成度の高い娯楽性

『神都の証人』は、「歴史的事件・背景を踏まえつつ」「法廷という緊張感の高い舞台を設定し」「ミステリーとしても最後まで牽引力がある」という、直木賞が最も評価しやすい「物語の強さ」を備えています。

選考委員からは、「ページをめくる手が止まらない」「娯楽小説として極めて完成度が高い」という評価が想定できます。

②「神都」という題材の現代的意味

タイトルにもある「神都」は、「国家」「宗教」「権威」「正義」といった、非常に重い概念を内包しています。本作ではそれを、「過去の出来事として安全に描くのではなく、現代社会にも通じる問題として提示している」点が高く評価されると考えられます。

選評的には、「歴史を素材としながら、現代の倫理を鋭く問うている」という言い方が成立します。

③取材力・構成力に裏打ちされた説得力

大門剛明作品の特徴である、「緻密な取材」「法制度や裁判手続きのリアリティ」「論理の積み重ねによるカタルシス」が本作でも遺憾なく発揮されている点は、選考委員にとって安心材料です。

直木賞ではしばしば、「この作家なら任せられる」という職業作家としての信頼感が重要視されます。

④娯楽性の裏にある「被害者の視点」

単なる謎解きや逆転劇ではなく、「誰が犠牲になったのか」「誰の声が封じられてきたのか」という視点を物語の核に据えている点も、評価理由として大きいでしょう。

選考理由としては、「エンターテインメントでありながら、倫理的な誠実さを失っていない」という言葉が使われそうです。

⑤他候補作との比較での「説得力の強さ」

他候補に、「内省的・私小説的な作品」「会話中心で軽やかな作品」「余韻重視で事件性の弱い作品」が並んだ場合、「物語として最も説得力があり、議論に耐える」という理由で『神都の証人』が選ばれる可能性は高まります。

選考会では、「作品の面白さ」「選考理由を社会に説明しやすいか」も重視されるため、本作は非常に「説明しやすい受賞作」です。

⑥大門剛明のキャリア評価としての受賞

仮に受賞すれば、「長年、法廷・社会派ミステリーを書き続けてきた」「一定の評価はあるが、まだ大きな文学賞には届いていない」という点を踏まえ、「満を持しての直木賞」という文脈で語られる可能性があります。

選評では、「本作は作家の力量が最もよく発揮された代表作の一つである」とまとめられそうです。

▼まとめ

もっともあり得る選考理由を一文にすると、次のようになります。

「歴史的題材と法廷ミステリーを巧みに融合させ、娯楽性と倫理性を高い次元で両立させた点を評価した。重厚なテーマを持ちながら、読者を最後まで引きつける物語力は直木賞にふさわしい。」

 選考会では「選考理由を社会に説明しやすいか」も重視されるのか。そうなんだ、知らんかった。勉強になります。

          ○

Q:第174回直木賞を葉真中顕『家族』が受賞するとしたら、どういう理由が考えられますか。

ChatGPTの答え:

葉真中顕『家族』が第174回直木賞を受賞すると仮定すると、その理由は「直木賞が社会派小説をどう更新するか」という問いへの、非常に説得力のある回答だった――という一点に集約できます。

①「家族」という普遍語を、現代的に再定義した点

『家族』というタイトルは一見きわめて一般的ですが、本作ではそれを、「血縁とは何か」「共に生きるとはどういうことか」「責任は誰が引き受けるのか」といった、現代社会が避けてきた問いとして突きつけています。

選考理由としては、「誰もが知っている言葉を、ここまで不穏で切実な問題として描いた」という評価が最も分かりやすいでしょう。

②社会派ミステリーとしての圧倒的な説得力

葉真中顕は、「事件性」「社会構造」「個人の倫理」を絡めて描く社会派ミステリーを得意とする作家ですが、本作ではそれが最も洗練された形で提示されています。「単なる告発に終わらない」「だが、娯楽としての牽引力は失われない」点が、直木賞向きです。

選考委員からは、「問題提起型小説の完成形に近い」という評価が出ても不思議ではありません。

③読者に“居心地の悪さ”を残す勇気

『家族』は、「明確な救済」「安心できる着地点」をあえて用意しないタイプの作品である可能性が高く、これは選考上、賛否が割れやすい要素でもあります。それでも受賞するとすれば、「直木賞として、あえて“読み心地の良さ”を優先しなかった」という意思表示です。

選評では、「読後に残る不快感こそが、この作品の誠実さである」といった踏み込んだ言葉が使われるかもしれません。

④社会問題を“個人の物語”に落とし込む技術

本作が評価される最大のポイントは、「抽象的な社会問題」「統計や制度の話」ではなく、「具体的な一人の人生」「ある家庭の崩壊や選択」として描いている点です。直木賞は、「社会派でも、あくまで小説であること」を重視します。

その意味で『家族』は、「問題意識」「人物造形」「物語性」の三点が高い水準で揃っています。

⑤葉真中顕という作家の代表作として

仮に受賞すれば、「『ロスト・ケア』以降、一貫して社会の弱い部分に光を当ててきた」作家としての歩みが、「この作品で一つの到達点を迎えた」と評価される、という文脈が成立します。

選評では、「作者の問題意識と物語技術が最も高い次元で結実した作品」と位置づけられるでしょう。

⑥他候補作との比較での「切実さ」

他候補が、「歴史」「ミステリー」「軽やかな現代劇」と多様な中で、『家族』は「いま、この社会で、誰の身にも起こりうる」という切実さで抜きん出ています。

選考委員の議論では、「今この時代に、最も読まれるべき一冊はどれか」という問いに対し、『家族』が最終的に残った、という展開が想像できます。

▼まとめ

もっともあり得る選考理由を一文にすると、次のようになります。

「現代社会における『家族』のあり方を真正面から問い直し、重いテーマをエンターテインメントとして成立させた点を高く評価した。読後に強い余韻と問いを残す、直木賞にふさわしい問題作である。」

 こうなってくると、もはやどれがとっても文句ありませんね。

          ○

だらだらとChatGPTの答えを読んできましたけど、やっぱり最後はこれも聞いておかないとバランスがとれません。

Q:第174回直木賞が該当作なしになるとしたら、どういう理由が考えられますか。

ChatGPTの答え:

第174回直木賞が「該当作なし」になるとしたら、それは「候補作が弱かった」からという単純な話ではなく、選考委員の評価軸が今回はどうしても一致しなかった、というケースが最も考えやすいです。

①「決定打」がある作品がなかった

今回の候補作は、「社会派(葉真中顕)」「歴史×法廷(大門剛明)」「昭和モダン(嶋津輝)」「現代会話劇(渡辺優)」「文芸寄り・新人(住田祐)」とジャンルも作風も非常に分散しています。そのため選考会では、「どれも一定水準以上だが、これだと言い切れる一作がない」という評価に落ち着いた可能性があります。

直木賞では、「突出した傑作がない」「全員が納得できる作品がない」場合、無理に選ばないという判断が取られます。

②評価軸が真っ向から衝突した

想定される対立構図はかなり明確です。「社会性重視派→葉真中顕『家族』を推す」「物語・娯楽性重視派→大門剛明・渡辺優を評価」「文学性・余韻重視派→嶋津輝・住田祐を支持」。

この三方向が拮抗し、「どれかを選べば、別の価値観を否定することになる」という状況に陥った場合、該当作なしは現実的な選択肢になります。

③「直木賞とは何か」が揺れた回

直木賞は、「大衆小説の最高峰」「だが文学的質も担保したい」という、もともと曖昧で緊張感のある賞です。

今回の候補作が、「芥川賞寄りに見える作品」「逆にエンタメ色が強すぎる作品」に分かれた場合、「直木賞の定義に最も合うのはどれか」という根本的な議論に発展し、結論を出さない選択がなされることがあります。

④作家評価として“次作待ち”になった

どの候補作家についても、「実力は認める」「だが「代表作」と言い切るには迷いがある」という評価が並んだ場合、「今回は見送り、次作で改めて評価しよう」という判断が選ばれることがあります。

特に直木賞は、「キャリア評価」「今後の伸びしろ」も見る賞であり、「今はまだ早い」という合意が成立するケースです。

⑤ダブル受賞・単独受賞の調整がつかなかった

直木賞では、「単独受賞」「複数受賞」のどちらもあり得ますが、今回のように候補が割れている場合、「単独では弱い」「しかし二作並べる必然性も弱い」という「中途半端な状態」になりがちです。その結果、「今回は無理に枠を埋める必要はない」という判断が下されます。

⑥社会状況との距離感に迷いが出た

直木賞はしばしば、「時代性」「今この瞬間に出す意味」を意識します。もし今回、「社会派は重すぎる」「歴史物は今じゃない」「軽やかな作品は物足りない」という時代との距離感に対する迷いが共有された場合、「今は賞として強いメッセージを出さない」という選択もあり得ます。

▼まとめ

もっともそれらしい公式コメントは、次のようなものになるでしょう。

「いずれの候補作も高い水準にあったが、直木賞として広く読者に推薦すべき決定的な一作には至らないとの結論に達した。」

 ⑥の「社会状況との距離感に迷いが出た」っていう指摘は、かなりChatGPT独自の見解に近いですよね。デジタル的思考でいえば、そういう理由もあり得そうですけど、人間である選考委員たちが、ほんとにそんな理由で直木賞を「該当作なし」にするかなあ、とやや疑念が残ります。

          ○

 でもまあ、直木賞程度の、別に何がとろうがとるまいが、大きな問題ともならない文学賞は、AIに決めてもらっても全然いいような気がします。

 1月14日の選考会は、とりあえず今回は人間たちが決めるようです。どんな結果が出るかはまったくわかりませんけど、なるべくAIが答えるような「もっともらしい」言葉じゃなくて、全然予想もしなかった講評が語られることを期待しています。がんばれ、選考委員。

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2026年1月 4日 (日)

「新潮新人賞から二十数年間も書き続けてくることができた」…五木寛之、第109回直木賞の選評より

 直木賞はそもそも、もうひとつの賞と同じように「新人賞」というのを念頭につくられました。ただ、いまとなっては直木賞は新人賞だ、などと大声で叫ぶと狂人だと思われるでしょう。人前で直木賞のことは発言しないのが無難です。

 しかし、「直木賞は新人賞なのかそうじゃないのか」問題は、ときどき直木賞の歴史をゆるがしてきたほどの力があります。あまりにベテランで一家をなした作家は弾かれますし、かといってもうじき決まる第174回(令和7年/2025年・下半期)の住田祐さんみたいに、デビュー作が候補に上がる例は相当に特殊です。いったいどの程度書いてきた作家が対象なのか……じっさいのところルールはありません。

 一定の枠組みはあるはずなのに、結果がどうなるかさっぱりわからない。そこが直木賞の面白いところで、何年、何十年見つづけてもまったく飽きることがないんですが、第109回(平成5年/1993年・上半期)の直木賞を北原亞以子さんが受賞したというのも、やはりこの賞の面白さを見せてくれた、と言っていいと思います。

 何といっても北原さんはそのときデビューしてからおおよそ四半世紀、20数年も経ていたベテラン作家だったからです。

 そうなると、候補になったその人と同じ頃にデビューした人やら、いっしょに作家業に励んできたお仲間のような人が、選考委員にひとりふたり入っています。公正公平を建前にする文学賞のなかで、彼らがいったいどんな言い訳……いや、どんな言葉を繰り出して、自分のお仲間を受賞に導こうとしたか、選評にはそういう人間の味が確実に刻まれます。面白くないわけがありません。

 この回、候補作は5つありましたが、本岡類さんの『真冬の誘拐者』と中島らもさん『ガダラの豚』にはあまり票が集まらず、高村薫さん『マークスの山』と今井泉さん『ガラスの墓標』、そして北原さんの『恋忘れ草』が三つ巴で拮抗したらしいです。

 今井さんは同人雑誌でコツコツ書いてきた人で無名といえば無名、高村さんはデビューしてまだ3年めながら『黄金を抱いて翔べ』とか『神の火』とかで話題を呼んでいた飛ぶ鳥落とす勢いの大型新人。それに比べて北原さんは、選考委員の人たちにもなじみの深い、長いあいだ同業者とやってきた、いわば「お仲間」でした。

 たとえば渡辺淳一さんなんかは、年は北原さんとは四つ違い、北原さんが昭和44年/1969年に「ママは知らなかったのよ」で受賞した新潮新人賞は、もともと『新潮』同人雑誌賞を模様替えしたもので、渡辺さんも昭和40年/1965年に「死化粧」で受賞した同人雑誌賞出身作家です。知らない仲ではありません。

「もともとキャリアの長い人だけに、巧みさはいうまでもないが、さらにまろやかさと初々しさが加味されて、爽やかで引締まった好短篇集となっている。」(『オール讀物』平成5年/1993年9月号、渡辺淳一「二人の作家」より)

 と、褒めの姿勢をとっているのもむべなるかな、といった感じです。

 いまひとり、北原さんと近しい関係性にあった選考委員に五木寛之さんがいます。北原さんも渡辺さんも五木さんも、かつて有馬頼義さんを大将と仰いだ「石の会」のメンバーで、先輩、後輩、年齢の違いはありますけど、正真正銘「お仲間」だったのは間違いありません。

 その五木さんは、候補5作のなかでもとくに北原さんの『恋忘れ草』を推しています。

 作品のことを褒めたうえで、今回の選考に関係あるのかないのか、ついついこういう文章を連ねてしまうのも、北原さんのデビューの頃からよく知る気持ちが出てしまったゆえなんでしょう。

「北原さんはすでに〈まんがら茂平次〉で一家を成した作家だが、まだまだ大きく化ける可能性を秘めた才能である。新潮新人賞から二十数年間も書き続けてくることができたのは、この道一筋、という覚悟がさだまっていたせいだろう。」(同号、五木寛之「北原さんを推す」より)

 個人的に作家として食っていくまでに苦労して、ようやく最近日の目を浴びるようになった……みたいなことが、五木さんが北原作品を推す上で考慮に入れたのかどうかは、正直わかりません。「そんな情実で選考するな」と、外野で吠えたてるもよし、知り合いに対して点数が甘くなったって別にいいじゃないか、と人情派を気取るもよし。いろんな感想が沸いてくるところが、ううむ、やっぱり直木賞の面白さです。

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