「この作品は前の山本周五郎賞で落選した作品であった。」…渡辺淳一、第103回直木賞の選評より
「賞レース」という言葉があります。
ワタクシも文学賞のサイトをつくっているぐらいですから、賞というものには目がありません。直木賞だけじゃなく、他の賞も含めて、今度は何がとって、誰がおちた、だから別の賞ではどう評価されるに違いない! ……とか、完全にヒトサマのことなのに、やたら胸が熱くなります。そんなことに興味をもつなんて、はたから見れば、かなり悲しい人生です。
で、じっさいに審査の俎上に乗るような当事者たちにとっても、まわりでやいのやいのと騒がれることはわずらわしい、とよく聞きます。みずから望んでエントリーするような賞ならいざ知らず、文学賞には、本人の意思とは外れたところで、勝手に候補に挙げて審査するようなものがたくさんあります。そんな状況を枠の外から眺めて、無責任にレースだ何だと騒いでいる。正直、嫌われても仕方がありません。
まあ、なるべく他人に迷惑をかけないように直木賞を楽しんでいきたい、としか言いようがないんですが、文学賞は直木賞ひとつがあるわけじゃなくて他の賞もあるから面白い、というのはたしかです。
公募の新人賞から、純文学系をうたっている、一見すると直木賞とはあまり重ならないような賞まで、そのすべてが直木賞を楽しむための存在と言ってもいいでしょう。
直木賞の選評にも、ときどき他の文学賞のことが出てくることがあります。「それって、今回の選考と何の関係があるの?」と思わされるような言及もなくはないんですが、たとえば第103回(平成2年/1990年・上半期)の選評にも、そんな文章が書かれています。思わず身を乗り出さないわけにはいきません。
この回、受賞作は泡坂妻夫さんの『蔭桔梗』でした。五木寛之さんいわく「今回の選考会ほどすんなりというか、あっさり受賞作がきまった例を私は知らない。」(『オール讀物』平成2年/1990年9月号)ということで、候補6度め、泡坂さんの圧倒的な筆力というか、『蔭桔梗』という作品のもつソツのなさが、他を寄せ付けなかったようです。
それはともかく『蔭桔梗』はその年2月に新潮社から刊行された一冊です。直木賞にとっては「上半期」に該当する発表時期でしたが、他の賞にとってはそんなことは知ったことではありません。毎年4月~翌年3月までを対象にしている文学賞のほうでも、直木賞に先んじて同作が候補作に挙がり、すでに審査の結果が出ていました。第3回山本周五郎賞です。
山周賞は、直木賞が対象にする作家・作品と近いところを授賞の範囲に定めている賞です。山周賞のほうの選評でもちょこちょこ「直木賞」の文字が出てきますし、逆に直木賞のほうでも選評で「山本周五郎賞」について何か言う人がいる、というぐらい、なかよしこよし(?)の関係があります。
このとき直木賞のほうで、その役目を担ったのが渡辺淳一さんです。選評の題が「幸せな作品か」というもので、いちおう泡坂作品の受賞には反対しない、としながら、そんなこと言う必要あるのかな、と思わせる感想をだらだらと付け加えています。
「ただ一つ、この作品(引用者注:泡坂妻夫『蔭桔梗』)は前の山本周五郎賞で落選した作品であった。わたしはそのことに拘泥(ルビ:こだ)わるつもりはないが、同賞を受賞した作品はこれまでも候補作に挙げられたことはなかった。両賞の選考を兼ねている委員もいるが、山本賞を逸したことは幸せであったのか否か、改めて不思議な気がした。」(『オール讀物』平成2年/1990年9月号、渡辺淳一「幸せな作品か」より)
何が言いたいのかよくつかめませんけど、もしも第3回山周賞を受賞していたらそれまでの前例からして直木賞の候補にはならなかったかもしれず、直木賞は受賞できなかったのではないか、と渡辺さんは考えていたんだと思います。
ただ、山周賞はまだ始まって3年めの若い賞ですから、前例もクソもありません。そんな傾向とも定例とも言えないようなことまで、ついつい渡辺さんの頭にのぼらせてしまうのも、すべては文学賞というものが醸し出す魔力なんでしょう。ほんと、くっだらないですよね、文学賞。
来年もどうか、くだらないままでいてください。文学賞は、そのくだらなさが面白いからです。





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