「「みんな実にうまい小説を書くものですなあ。」」…五木寛之、第80回直木賞の選評より
文学賞の審査というのは、候補者が審査される。しかし、決してそれだけのものではない。何をどのように評価して受賞させるか、という意味では実は審査員のほうが審査されているのだ……という、いかにも使い古された考え方があります。
あまりに使い古されすぎていて、いまさらドヤ顔で言ったところで仕方ないんですが、本屋大賞のランキングが発表されるたびに、作品そのものより、それを選んだ書店員たちの批評眼ってどうなんだよ、とそちらに文句を言うヤカラが後を断たない状況がいまだに続いています。そういう盛り上がりを見ても、文学賞というのは「選ばれるほう」よりも「選ぶほう」に注目したほうが、面白く感じられるんだろうな、と思います。
いまからだいたい半世紀弱まえの第80回(昭和53年/1978年・下半期)でも、欠席した司馬遼太郎さんを除いて選考委員9人、みんなが選評を提出しました。そのなかで、「選ぶほう」こそ試されている、みたいなことを書いた人がいます。五木寛之さんです。
五木さんの選評も、なにしろ『僕が出会った作家と作品 五木寛之選評集』(平成22年/2010年9月・東京書籍刊)なんちゅう本が出ているくらいなので、なかなか独特な風味があります。個別の候補作についての批評よりも、全体像を俯瞰したような、エッセイといおうか随想といおうか、そんな文章をたくさん書いてきました。「選考とは関係がない選評」をテーマとして取り上げるには、ぴったりの委員です。
「受賞した二作については、あらためて私が感想を述べるまでもあるまい。読者から問われるのは、今度は選考者の側なのである。」(『オール讀物』昭和54年/1979年4月号、五木寛之「問われるのは……」より)
というのが、第80回のときの五木選評の締めのことばです。このとき五木さんは46歳。選考委員のなかでは最年少で、他にいたのは、偉そうに該当作なしばかりを連発させてきた「老害」を絵にえがいたようなおじいちゃんたちでした。バッサバッサと候補作を切り刻む、これまでのような攻撃的な選評に反抗してやろうと、五木さんのほうでもおそらく考えていたんじゃないかと思います。
受賞の二作というのは、宮尾登美子さんの『一絃の琴』と、有明夏夫さんの『大浪花諸人往来 耳なし源蔵召捕記事』です。この回の他の人たちの選評を読んでも、選ばれなかった候補作もすべてが個性にあふれていて、充実した選考だった、ということです。
そのなかで五木さんは、候補中自分が好きな作家、作風という理由で、虫明亜呂無さんの「シャガールの馬」と、小林信彦さんの「みずすましの街」の2作のみをチョイスし、それぞれに対して自分の感想を語っています。そこの部分はいかにも選評らしいところなんですが、ほかのところは、五木さんの「候補作については語らない」強い意志が全面に出た文章です。
たとえば、こんな感じです。
「選考の終ったあと、隣席の新田次郎さんが、感に耐えぬおももちで、
「みんな実にうまい小説を書くものですなあ。私などよりはるかに上手な人たちばかりだ」
と、首を振っておられた(引用者中略)篤実な新田さんの、立ち上り際にふともらされた言葉だけに、きわめて実感があった。」
(同上)
みんなうまい小説を書く。……これも、言いようによっては作品に対する評価の一つかもしれません。
ただ、これを五木さんは、自分の実感ではなく隣席にいた新田次郎さんの発言として紹介しています。自分の選考態度をつまびらかに明かすことを控えて、あえて別の委員の言葉を持ってきて、選評の一部とする。
卑怯なようにも思えますが、選評なんてものは、何をどのように書こうが基本的には自由です。五木さんのような趣向もまた、全然ありでしょう。
個別の評を避けようが、誰に文句を言われる筋合いもありません。ワタクシも別に文句はありません。
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