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2025年11月の5件の記事

2025年11月30日 (日)

「「選考会は年一回、賞金は倍額(百万円)」を提案する。」…山口瞳、第91回直木賞の選評より

 先週、第89回(昭和58年/1983年・上半期)で城山三郎さんが放った選考委員退陣の弁を紹介しました。

 このとき、選考会のなかでは「直木賞は年一回でいい」と言っている委員がいたと、城山さんが暴露しました。当時の委員というと、城山さんを除いて7人います。池波正太郎さん、五木寛之さん、井上ひさしさん、源氏鶏太さん、水上勉さん、村上元三さん、山口瞳さんです。

 じゃあ、いったい、そんなことを主張したのは誰なのか。直木賞ファンのあいだでは、あいつじゃないか、こいつじゃないかと、噂バナシが激しく飛び交った、のだと思います。そんな犯人探しに終止符と打つため、いや、別にそんな気はなかったかもしれませんけど、それから1年後の第91回(昭和59年/1984年・上半期)の選評で、城山委員が最後に匂わせておいたナゾの人物、「年一回に減らせ」派の委員とは、じつはオレのことなんだと、思い切って手を挙げた人がいました。

 ……と、直木賞が一年間に何回あろうが、はっきり言ってどうでもいい話題です。世の中には、他にもっと大事なニュースがたくさんあります。だけど、こういう些細なハナシに、ついつい身を乗り出してしまうのが、直木賞愛好者の病的なところなんでしょう。すいません。

 自首した犯人の発言を取り上げるまえに、まずは第91回直木賞の候補者と選考状況をおさらいしておきます。候補は8人いて、最終的に連城三紀彦さんの『恋文』と難波利三さんの『てんのじ村』の二作受賞と決まりましたが、連城さんは5度め、難波さんは6度めと、相当候補回数を重ねて、委員たちのあいだにもその作風は知れ渡っていました。過去作との比較もまじえて、かなりの成長が見られるから、あげてもいいんじゃないか、といった雰囲気が両者の高評価につながった模様です。

 しかし、一般的なジャーナリズムの話題を盛り上げたのは、何といっても「直木賞候補三人娘」みたいにくくられた、3人の女性候補者でしょう。

 性別や属性が騒がれるというのは、いかにも「昭和」の匂いがぷんぷんしますが(いや、いまでもあるか)、コピーライターとして出てきた林真理子さん30歳、ラジオDJから出てきた落合恵子さん39歳、そして銀座でクラブのママをしながら作詞家として顔も売れていた山口洋子さん47歳。そりゃあ盛り上がるよな、といった感じです。

 もちろん決定した選評のほうでも、三者三様、さまざまに評価されたり、厳しい感想を受けたりと、そちらはそちらで華やか(?)ではあったんですが、ともかくうちのブログでは、なるべく選考とは関係のない部分をピックアップしなければなりません。

 ということで最初に戻りまして「直木賞は年一回に減らせ」と叫んだ人の意見を拝聴したいと思います。山口瞳さんです。

「直木賞受賞作はその作者にとっての記念碑的作品であってもらいたいと強く希望する。同時に、世間に文学的衝撃を与えるものであってほしいとも思う。その意味では低調が続いている。打開の方法として、「選考会は年一回、賞金は倍額(百万円)」を提案する。」

(『オール讀物』昭和59年/1984年10月号、山口瞳「林真理子さん」より)

 直木賞に何を期待するかは、人それぞれ、どんなことを言おうがフリーダムです。なるほど、山口瞳さんは直木賞にやたらと高い山脈を見ていたのだな、と思えてそれは別に文句はないんですが、直木賞なんて低調でいいじゃん、文学的衝撃とやらは直木賞みたいなせせこましい場所じゃなくて、もっと別のところで起こしてくれ……というのがワタクシの感想です。

 この当時、主催の日本文学振興会は、いったい山口さんの提案をどのように受け止めたのでしょう。まがりなりにも最終選考をお願いしている一人の委員が、自分の責任で公に訴えた貴重な意見を、まさか黙殺、無視したとは思えません。

 まあ、まあ、先生、そうはおっしゃっても直木賞は年二回やったほうが多くの作家にチャンスをつくれますし、みたいな回答をナイナイに、ウチウチに提示して、けっきょく山口さんの提案は取り下げられたんでしょうか。あるいは、日本文学振興会というのは、とにかく自分たちは口をつぐんで嵐が過ぎ去るのを待つ、というのがお得意な組織のようにも見えるので、マジでそのままダンマリ、山口さんにはとくにフォローしなかった可能性も十分にあり得ます。

 うやむやにしておけば、たいがいの人は当初の熱も薄れます。そのうち、なかったことになっても、いちいち振り返ることはなかったんじゃないかと思います。何といっても直木賞ですからね。どうでもいいといえば、どうでもいいことですから、山口さんだって、ずっと気にしているわけにもいかなったでしょう。

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2025年11月23日 (日)

「これ以上続ける自信と気力を失くした」…城山三郎、第89回直木賞の選評より

 人間の思考を4種類に分けると、おそらく以下のとおりになると思います。

  • 直木賞が年二回なのは多いから、年一回でいい。
  • 直木賞はこのままでいい。
  • 直木賞なんてやめちまえ。
  • 直木賞がどうなろうが知ったこっちゃない。

 可能性だけでいえば「年二回は少なすぎるから、年三回とか、年四回とか、もっと回数を増やすべきだ」という流派の人がいたっていいはずです。それを入れれば「5種類」ということになりますが、しかし、最後のような意見は、ほとんど聞いたことがありません。口にした瞬間に、気が触れたと思われて精神病院に入れられちゃうからかもしれません。

 ともかくも、直木賞に関してよく聞くのが、一番目に挙げた「年二回は多すぎる、年一回でよいのでは?」という意見です。

 ワタクシが直木賞に興味を持ち出したン十年前にもひんぱんに言われていましたし、昔の選評を読むと、そうか「年一回に減らせ」派の人というのは、ずいぶん以前からいたんだな、ということがよくわかります。

 たとえば、第89回(昭和58年/1983年・上半期)のときの城山三郎さんの選評にも、そのことが出てきます。

「直木賞は年一回でよいという声が、委員の中からも出ている。年に二度だと、候補作の点数をそろえるために無理に候補にされる作品が出てくる。

候補作家はその度に一喜一憂しなければならぬし、また候補回数の多いひとをどう遇するか、という問題が起る。」(『オール讀物』昭和58年/1983年10月号、城山三郎「選評」より)

 このときの委員のいったい誰が「年一回」を主張したのか、くわしいことはわかりませんけど、やっぱ一年に二回は多いよね、という感覚はいまに始まったことではなかったようです。「年一回」派の方たちはぜひ自信をもって、減らせ減らせ、と叫びつづけていただければと思います。いつかその声が届くこともあるでしょう。

 で、上記に引用した一節も、選考とは関係ないっちゃ関係ありませんが、何といってもこの第89回は、直木賞の歴史に残る騒動が勃発した回です。新聞の社会面にもそのことが大きく取り上げられ、文壇の内外でけっこう話題になった……と洩れ聞いています。城山さんがこの回をもって強硬に辞任を申し出て、さっさと直木賞の選考から身を引いたのが、胡桃沢耕史の受賞が決まった第89回選考会の直後でした。

 あまりに大きな出来事として記録されているハナシなので、うちのブログでも過去に何らか取り上げたような記憶があります。ここのブログは、書いたそばからどんどん忘れていってしまうダメブログなので、詳細はよく覚えていません。ただ、候補に上がるたびにおれは直木賞が欲しいんだ、欲しくてたまらないんだ、とメディアを通じて言い続けてきた胡桃沢さんが、それまでの作風とは少々外れる「私小説」の骨法を用いて戦争直後の抑留体験を小説に仕立て、まあまあ彼も4度めの候補だし、そろそろあげてもいいんじゃないか、みたいなことを言い出す選考委員の票も加味されたうえで受賞が決まったことに、あくまで直木賞にそういう私的な事情を持ち込むものじゃない、と反発した城山さんが、奮然と辞表を叩きつけた、……というようなストーリーがゴシップ好きなマスコミの心を揺り動かして大きな話題となった、ということがあったらしいです。

 選評の載った『オール讀物』はそれから間もなく発売されました。世間を騒がせた城山さんがいったいどんなことを語るのか。ゴシップ好きなワタクシのような一部の直木賞マニアは、きっと期待に胸をおどらせて『オール讀物』を買ったんだろうと想像します。

 そこで城山さんは、上記のような文章を入れながら、自分が辞任を決めた理由を選評に残しました。

「蛇足だが、わたしは今回限りで選考委員を退きたいと思う。

(引用者中略)

わたしは、自分の受賞した経緯からも、また選考委員としての短い経験からも、賞の選考は、さまざまな角度から、おおむね公平、かつ率直に行われてきたと信じている。

ただ、わたしがこれ以上続ける自信と気力を失くした、というだけのことである。」(同上)

 マスコミで取り上げられたような、城山三郎激怒、みたいなトーンはここでは見られません。候補に挙がった作家たちを傷つけず、同じく選考に当たった他の委員たちにも文句を言わず、ただただ自分の心の問題だ、ということに落着させました。

 このあたりが、人間力の長けた城山三郎、面目躍如、といったことで評価もバク上がり。直木賞を踏み台にして大きくジャンプアップした選考委員として一目置かれるようになった……のかどうかはわかりません。ただ、別に選評で自分の進退について説明する義務などなかったのに、どうして自分は辞めるのかを律儀に書き残しておこうとするところが、城山さんの真面目を物語っているのはたしかです。

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2025年11月16日 (日)

「「みんな実にうまい小説を書くものですなあ。」」…五木寛之、第80回直木賞の選評より

 文学賞の審査というのは、候補者が審査される。しかし、決してそれだけのものではない。何をどのように評価して受賞させるか、という意味では実は審査員のほうが審査されているのだ……という、いかにも使い古された考え方があります。

 あまりに使い古されすぎていて、いまさらドヤ顔で言ったところで仕方ないんですが、本屋大賞のランキングが発表されるたびに、作品そのものより、それを選んだ書店員たちの批評眼ってどうなんだよ、とそちらに文句を言うヤカラが後を断たない状況がいまだに続いています。そういう盛り上がりを見ても、文学賞というのは「選ばれるほう」よりも「選ぶほう」に注目したほうが、面白く感じられるんだろうな、と思います。

 いまからだいたい半世紀弱まえの第80回(昭和53年/1978年・下半期)でも、欠席した司馬遼太郎さんを除いて選考委員9人、みんなが選評を提出しました。そのなかで、「選ぶほう」こそ試されている、みたいなことを書いた人がいます。五木寛之さんです。

 五木さんの選評も、なにしろ『僕が出会った作家と作品 五木寛之選評集』(平成22年/2010年9月・東京書籍刊)なんちゅう本が出ているくらいなので、なかなか独特な風味があります。個別の候補作についての批評よりも、全体像を俯瞰したような、エッセイといおうか随想といおうか、そんな文章をたくさん書いてきました。「選考とは関係がない選評」をテーマとして取り上げるには、ぴったりの委員です。

「受賞した二作については、あらためて私が感想を述べるまでもあるまい。読者から問われるのは、今度は選考者の側なのである。」(『オール讀物』昭和54年/1979年4月号、五木寛之「問われるのは……」より)

 というのが、第80回のときの五木選評の締めのことばです。このとき五木さんは46歳。選考委員のなかでは最年少で、他にいたのは、偉そうに該当作なしばかりを連発させてきた「老害」を絵にえがいたようなおじいちゃんたちでした。バッサバッサと候補作を切り刻む、これまでのような攻撃的な選評に反抗してやろうと、五木さんのほうでもおそらく考えていたんじゃないかと思います。

 受賞の二作というのは、宮尾登美子さんの『一絃の琴』と、有明夏夫さんの『大浪花諸人往来 耳なし源蔵召捕記事』です。この回の他の人たちの選評を読んでも、選ばれなかった候補作もすべてが個性にあふれていて、充実した選考だった、ということです。

 そのなかで五木さんは、候補中自分が好きな作家、作風という理由で、虫明亜呂無さんの「シャガールの馬」と、小林信彦さんの「みずすましの街」の2作のみをチョイスし、それぞれに対して自分の感想を語っています。そこの部分はいかにも選評らしいところなんですが、ほかのところは、五木さんの「候補作については語らない」強い意志が全面に出た文章です。

 たとえば、こんな感じです。

「選考の終ったあと、隣席の新田次郎さんが、感に耐えぬおももちで、

「みんな実にうまい小説を書くものですなあ。私などよりはるかに上手な人たちばかりだ」

と、首を振っておられた(引用者中略)篤実な新田さんの、立ち上り際にふともらされた言葉だけに、きわめて実感があった。」

(同上)

 みんなうまい小説を書く。……これも、言いようによっては作品に対する評価の一つかもしれません。

 ただ、これを五木さんは、自分の実感ではなく隣席にいた新田次郎さんの発言として紹介しています。自分の選考態度をつまびらかに明かすことを控えて、あえて別の委員の言葉を持ってきて、選評の一部とする。

 卑怯なようにも思えますが、選評なんてものは、何をどのように書こうが基本的には自由です。五木さんのような趣向もまた、全然ありでしょう。

 個別の評を避けようが、誰に文句を言われる筋合いもありません。ワタクシも別に文句はありません。

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2025年11月 9日 (日)

「現実に私は委員中の最高年齢に達してしまった。」…川口松太郎、第77回直木賞の選評より

 ワタクシは生粋の直木賞ファンです。世のなかにもきっと、たくさんの直木賞ファンがいることと思います。

 それぞれに「好きな直木賞の時代」というものがあるはずですが、ワタクシの場合、しいて挙げるとするならば、昭和50年代前半、1970年代ごろの直木賞が一、二位を争うほど大好きです。なぜか。受賞作が全然出なかったからです。

 直木賞が好きなくせして、受賞作が出なかった時代が好きとは、よっぽどコイツはおかしな奴だと思います。だけど、好き嫌いに理屈なんかないので仕方ありません。

 第70回(昭和48年/1973年・下半期)なし。第71回、第72回は運よく受賞者が選ばれましたが、第73回なし。第74回で受賞があったあと、第75回なし。第76回では受賞者を出しながら、第77回、第78回(昭和52年/1977年・下半期)と連続なし。……これがいまのところ、最後の「直木賞二期連続該当作なし」の記録となって残っています。

 来年1月、第174回(令和7年/2025年・下半期)でもしも該当作が選べなければ連続の「なし」となるので、ようやくその歴史が上書きされるんですが、さて、どうなることやら。がんばれ、直木賞。

 と、それはそれとして選評のハナシです。

 該当作なしばっかりだったこの時代、やはり面白いものを残してくれたということでいえば、授賞することができなかったときの選評がたくさん書かれたことです。今日出海さんはどこに芯があるのかわからないノラリクラリを繰り返す。司馬遼太郎さんは、基本的にグチばっか。石坂洋次郎さんはマイペースに、自分の郷里に対する愛情を隠すことなくぶっぱなす。

 直木賞が受賞作を出せなくたって、出版世界に目を映せば、小説が書かれなくなるわけじゃなく、新しくて面白い小説はどんどん生まれていきます。そのなかで粛々と、該当作なしの選評だけが積み上がっていく。無意味なようでいて、意味がありそうなこの展開を、まるで無責任な立場で外から眺めてみる。面白くないはずがありません。

 第77回(昭和52年/1977年・上半期)は前述のように該当作なしの回でした。とりあえず推した委員がいた、ということで、色川武大さんの『怪しい来客薄』から「空襲のあと」「墓」、井口恵之さんの「つゆ」が『オール讀物』昭和52年/1977年10月号に再録されたうえで、選考委員9人の選評が載っています。

 今回取り上げるのは直木賞選考会では圧倒的な欠席率を誇る書面回答キングこと、川口松太郎さんの選評です。

 ちなみに川口さんは旅行中だったため、この回も書面で回答しましたが、選考会で最後まで議論された『怪しい来客簿』も「つゆ」も、全然高い点をつけていなかったそうです。そしてこんな老人のつぶやきを残します。

「作品の非難は控えるが、現実に私は委員中の最高年齢に達してしまった。年の哀れはもうどうしようもない。若い人たちに追い着こうと思う気もなく、自分は自分なりにやって行くより方法はない。とすると、今や文壇最高の登龍門ともいえる直木賞の委員に長くとどまるべきではない、という気がして来たのだ。

(引用者中略)

鬢髪を染めた実盛の故事を学ぶまでもない。老兵は消えるのみ、とマッカーサー将軍はいった。私も同じ心持でいる。」(『オール讀物』昭和52年/1977年10月号、川口松太郎「選評」より)

 このとき川口さんは77歳。同じ日に選考会をやっている芥ナンチャラ賞のほうでは、瀧井孝作さんが83歳にしてまだ選考委員をやっていましたので、居座ろうと思えば川口さんも続けられたでしょう。

 だけど、たしかに外野から「老害」と言われてもおかしくはありません。それをはっきり自覚して書き残すところが、川口さんらしいです。

 で、この回をもって退任するのか。と思ったら、けっきょくそれから約2年、第80回(昭和53年/1978年・下半期)まで在留してしまったのは何なのか。文春の人に引き止められたのかもしれませんし、川口さん自身、なかなか辞める決断ができなかったのかもしれません。老害は老害で、そう簡単に消えることもできず、大変なんだろうなと思います。

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2025年11月 2日 (日)

「「津軽世去れ節」がよく売れたら、季節を待っておいしい林檎を五、六箱、文藝春秋の直木賞係りの皆さんに贈るよう」…石坂洋次郎、第69回直木賞の選評より

 直木賞は毎回のように注目されます。何が候補になるのか、だれが受賞するのか。社会や経済がどんな状態であろうともお構いなし、戦後から平成、令和と、おおよそ直木賞は毎回毎回、懲りずに注目されてきた、と言ってしまいたいと思います。

 で、注目されているから何なのか。オレはおめえみてえなゴシップ厨じゃねえんだ、そんなチャラチャラした世界に興味はないよ。と背中を向けるのも全然アリでしょう。「多くの人が注目している」というその一点の印象だけで目をそむけてしまうなんて、それ以外のところで直木賞の歴史が積み重ねてきた面白さに出会うことができないじゃないか、もったいないことをする人だなあ、とは思いますけど、何を好きになるかは人それぞれです。無理に引き止める気は起きません。

 それはそれとして、直木賞です。

 今年の7月に選考会のあった第173回(令和7年/2025年上半期)は該当作なしとなって、さあその次はどう出るのか、「なし」のあとにやってくる特有の注目性は高まるばかりですが、いまから50数年まえの第69回(昭和48年/1973年・上半期)のときもやはり、一つ前の回が該当作なしでした。今度もまた受賞作なしになるのか。それとも……という雰囲気が、選考会の前からまわりには漂っていたものと思います。たぶん。

 源氏鶏太さんの選評によれば、第69回の選考会は初めから、前回は該当作を出せなかったから今回こそは何としてでも授賞を出したい、という空気に包まれていた、ということです。

 それでも、みんなが一斉に票を入れる絶対的な作品が候補のなかにあればよかったんですが、そうはならないのが直木賞の常らしく、今回も低調だなと嘆く委員あり、おれはこれがいい、いや、これは駄目だ、と評価が割れる作品もあり、どこに正解があるのかわからない議論が、数時間交わされたと言います。

 それでけっきょく、長部日出雄さんの「津軽世去れ節」「津軽じょんから節」と藤沢周平さんの「暗殺の年輪」、二人に授賞することが決まりました。当初の雰囲気どおり、二期連続での該当作なしを避けることに成功したというわけですが、こうなると「選考とは関係のない選評」を書かせたら右に出る者なし、と言われた王者・石坂洋次郎さんの腕が鳴るのも自然だったことでしょう。

 何てったって、受賞者の一人が津軽の人ですからね。だれが何といおうと選評には郷土愛を炸裂させることを第一の目的としていた(……?)石坂さんが、ここで津軽の話題を書かないはずがありません。

 ちなみにこの回の石坂さんの選評は、1行14字詰で全53行、そのうち落選した候補作についてはまったく触れず、受賞の一人藤沢さんの作品のことはたった4行で、それ以外はほぼ、長部さんの津軽ものと郷土のことばっかり書きました。マジでやりすぎです。

「私自身は候補作品七篇を読んで、長部君の津軽物二篇に一番牽かれた。しかし私はそういう自分を警(ルビ:いまし)めもした。何故なら私は二篇の舞台になっている津軽の出身であり、お目にかかったことはないが作者の長部君も同郷人だというし、もう一つ「津軽世去れ節」を出版した津軽書房の高橋君とは顔なじみであり、それやこれやで「世去れ節」的な理屈抜きの親近感を抱くおそれが大いにあったからである。

(引用者中略)

私は「津軽じょんから節」を読んでいて、チビで酒好きで狂人染みて芸熱心である「桃」という人間は、津軽が生んだ破滅型の作家・葛西善蔵にそっくりなタイプだと思った。農民相手の芸能人であるから、同じ破滅型とは言っても、大地主の家に生れ、知的要素も多い太宰治とは表向き大分ちがってはいるが……。」(『オール讀物』昭和48年/1973年10月号、石坂洋次郎「よかった、よかった」より)

 葛西善蔵とか太宰治とかに対する石坂さんによる人物評が、この回の直木賞の選考と関係ないことは言うまでもありません。この能天気な姿勢が、まさしく石坂さんの持ち味です。

 そして、何をおいても白眉はこの選評の終わり方です。おそらく以前にも何かの機会にうちのブログでは紹介した覚えもあるんですが、「選考に関係ない選評」史上、関係なさでいったらたぶんトップクラスに位置づけられるに違いない、直木賞選考委員・石坂さんを代表する一節だと思うので、あらためて引いておきます。

「最後に津軽書房の高橋君よ、直木賞通過で「津軽世去れ節」がよく売れたら、季節を待っておいしい林檎を五、六箱、文藝春秋の直木賞係りの皆さんに贈るよう、郷土の先輩として勧告する。とび上るほど嬉しかったろうから……。」(同上)

 津軽書房の高橋彰一さんといえば、戦後日本の出版史のなかでもかなりの有名人です。なので、この石坂さんの勧告を受けて、果たして高橋さんが文春にリンゴを贈ったかどうしたか、回想なり資料なりも残っているかもしれません。

 こんなことを選評の場で堂々と言われて、さすがに高橋さんも無視はしなかったと思うんですが、どうしたんでしょうか。気になります。ご存じの方がいればお教えください。

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