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2025年10月の4件の記事

2025年10月26日 (日)

「次元の低さを大衆的と考えるのでは、むしろ大衆への侮蔑であり、軽視である。」…今日出海、第65回直木賞の選評より

 昭和46年/1971年・上半期、第65回の直木賞も、該当作なしで終わったたくさんある回のうちの一つです。いまから約54年まえの昔のハナシです。

 候補のなかには、押しも押されもしない人気作家、笹沢左保さんの股旅モノが入っていました。これを推す人もいましたが、断固として否定する人の声も大きく、こんなの西部劇か「ひとり狼」そのまんまじゃないか、と結構ボロクソ言う選考委員もいたらしいです。笹沢さんへの受賞の芽はもろくもついえてしまいます。

 あとは、テレビに盛んに出ていた藤本義一さんも注目どころの一人でした。しかし「この人には作家としての定着性がない、という意見がつよく、」「テレビタレントであるということが損をしている」(『オール讀物』昭和46年/1971年10月号、水上勉の選評より)などと、いまならまず炎上するに違いないようなことを選評で言われて、こちらもけっきょくしりぞけられます。

 それで、この回に書かれた「選考とは関係ない選評」といえば、やはり前週も登場いただいた司馬遼太郎さんの文章は見逃せません。奇をてらってか、いきなり冒頭から直木賞とは全然関係ないことを書いています。

「いつだったか、陳舜臣氏と神戸で食事をしていて、はなしが中国の詩のことになったとき、氏がなにか出典を示して、男子の詩は志をのべるもので女子の詩は怨みをのべるものだ、という意味のことをいったような記憶がある。

なるほど中国人というのは詩文で何千年苦労してきただけに、おもしろい詩論があるものだとおもった。むろんこんにち、女子が志をのべてもよく、男子が怨みをのべてもいいが、いずれにせよ、薪をたたき割ったような粗論だけに、小説にもそれが大きい場所であてはまるような気がする。

ところで、怨みものべず志ものべず、どういう衝動に駆られてか、営々として小説を書くというのは、なにかをやたらに空費するという意味で一種の壮観であるにせよ、一面なんだかつまらないような感じがしないでもない。」(『オール讀物』昭和46年/1971年10月号、司馬遼太郎「怨みと志」より)

 うんぬん、といった感じで、今回の直木賞の候補作やその選考、自分の評価のことには触れないままで、だらだらと随想めいたことを続けています。

 なるべく個々の作品については語らずに、総論的なハナシでお茶を濁すというのは、該当作がなかったときに、委員の誰かが繰り出すお約束のようなフォーマットではありますが、なにしろ直木賞の選考にそこまでやる気を見せようとしなかった、と伝わる司馬さんのことです。こういうかたちの選評が多くなってしまうのも仕方ありません。

 で、二週連続で司馬さんのボヤきを紹介して終わりにしよう……かとも思ったんですけど、該当作がなかったときの選評は、みな委員それぞれ苦労するらしく、他にも「それって選評なのか」というような文章を連ねた人がいます。今日出海さんです。

 今さんのことも、何週か前に取り上げました。個々の作品について語るより、もうちょっと引いて、よく言えば俯瞰的に、ぶっちゃけて言えば当たり障りのない総論を書きたがる選考委員でしたが、第65回の直木賞でもその性格をいかんなく発揮します。

 御説、拝聴しましょう。

「川口松太郎氏は常に大衆小説の血脈を新人作家の作品に求めている。純文芸とか大衆文学というのは単なるジャーナリスト評論家が便宜上つけた分類的名称で、ジャンルとして劃然と区別されている本質的な問題とは思えない。文学への情熱に変りはないのだから、作家はやはりそのような人為的な区別を取立てて意識する必要はあるまい。それよりも中途半端な観念的抽象的な小説が横行して、文学の危機を招いている時、直木賞作家の本質的な健康さをむしろ要望したいのである。ただ次元の低さを大衆的と考えるのでは、むしろ大衆への侮蔑であり、軽視である。」(同号、今日出海「直木賞について」より)

 いったい今さんが何を言いたがっているのか。難渋というか、未整理というか、なかなかつかみづらく、正直ワタクシの頭にはスッと入ってきませんでした。

 そもそも、純文芸とか大衆文芸とか分けることに反対しているのか。何か曖昧です。「次元の低さを大衆的と考えるのでは」うんぬんという文章なんかも、いったい何に掛かった意見なんでしょう。選考会の現場では、何かそういう議論でも交わされたのかもしれません。よくわかりません。

 やや混乱した選評を書かせてしまうほど、該当作なしのときというのは、何をどういうか委員の人たちは苦労する、ということなんでしょう。たぶん。

 あるいは今さんが、人を煙に巻く文章を書く力に長けていた、という可能性も当然あり得ます。それか、単にワタクシに人の文章を読む力がないだけか。ううむ、直線的でない選評って、やっぱ難しいっす。

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2025年10月19日 (日)

「わるい時期に顔を出したと思っている。」…司馬遼太郎、第62回直木賞の選評より

 世の中には「司馬遼太郎信者」みたいな人がいます。いや、いまとなっては「いました」と過去形で表現したほうがいいかもしれません。

 別にワタクシも司馬さんのことが嫌いなわけじゃないんですが、生きているときは、国民作家だと持てはやされ、司馬史観なる単語まで登場し、ひとたび誰かが司馬さんの小説を否定しようものなら、うるせえ、シバリョウほどの学識もないくせに、てめえは黙っとけ、とさんざんに叩かれ、ボロクソに言われるような時代があった……などと洩れ聞いています。

 司馬さん自身はそこまで尊大な人ではなかったでしょう。ただ、司馬作品に惚れ込んでいる人たちが、なぜか自分たちの知識をひけからすことに快感を覚えて、やたらとエラそうにしていた、というのも、個人的になかなかその界隈に近寄りたくはないなと思う理由の一つです。

 いやまあ、それはともかく、司馬さんといえば司馬さんですよ。第42回(昭和34年/1959年・下半期)で受賞し、その10年後に選考委員を拝命して、第62回(昭和44年/1969年・下半期)~第82回(昭和54年/1979年・上半期)の約10年、忙しいさなかに委員として選考会に関わりつづけた直木賞にとっての優等生です。激務を縫って、選考会が終わるたびに選評も書いてくれています。取り上げないわけにはいきません。

 今週は、そのいちばん始めの始め、司馬さんが直木賞の選考会に加わった第62回のときの選評です。年齢でいうと46歳のとき。いまでいえば、40代で委員になった三浦しをんさんとか、辻村深月さんとか、米澤穂信さんとか、そのくらいの感じ……と思ってみると想像がつきやすいと思います。いわば、選考委員会のなかでもペーペーです。

 この回は、候補作が8つありました。が、多くの委員は、どうもいいのが見当たらないなと、相変わらずの不平不満を腹のうちに抱え、そのなかでも授賞するならと、田中穣さんの『藤田嗣治』に高評価をくだした人が何人かいたんですが、ノンフィクション作品に直木賞を与えるべきかどうか、おそらくは選考会のなかで大激論があったらしく、けっきょくは「授賞なし」に落ち着いたという、直木賞の歴史のなかでも他の回と同様に、注目されるべき回だったと言っていいでしょう。

 その中で、初めて選考会に参加した司馬さんは、やはり他の委員と似たような感想をもったらしく、8つの候補のなかで直木賞に値するのはなかった、と選評で言っています。で、そう考えた理由を語りはじめる選評の冒頭のところで、なかなか意味深いことを書きました。

「直木賞的な分野にあたらしい小説がおこることは、ここしばらくないかもしれないと悲観的な、というより絶望的な予想をもっていたやさき、皮肉にも審査員の末席につらなることになった。

わるい時期に顔を出したと思っている。」(『オール讀物』昭和45年/1970年4月号、司馬遼太郎「わるい時期」より)

 と、これを「意味深い」と受け取ってしまったのは、ワタクシも司馬さんの魔術にハマっただけかもしれません。すみません。別にそんなに深い意味などないようにも読めてきました。

 だいたい「時期がどうのこうの」と言いたがるのは、一つひとつの状況を無理やりにでも歴史の流れに置いて考えたがる歴史小説家の悪いくせです。そんなこと言い出したら、1960年代後半から1970年代、直木賞的な分野(って、これも具体的に何を指しているのか曖昧ですが)に新しい小説はどんどん生まれていたじゃないか、と思います。

 じっさい、司馬さんの言ったとおり、その後の直木賞は該当作なしがたくさん発生し、いかにも「わるい時期」を示すかのような暗黒時代を迎えました。ううむ、さすがは司馬史観、直木賞の近未来をも予見していたのか! ……となかば感動してしまうなりゆきではあったんですが、いやいや、よく考えれば「該当作なし」がそこまで多くなった戦犯のひとりが、委員をしていた司馬さん自身なのはたしかです。

 「わるい時期」に委員になったとボヤきながら、みずから「わるい時期」のお先棒を担ぐことになった司馬遼太郎さん。もしも司馬さんが委員に入っていなかったら、もうちょっと直木賞の受賞作が増えたんじゃないか、とも思います。これを「予見」と呼んでいいんでしょうか。……自らが最初に言ったことを、自らの手でつくり上げていった「有言実行」の男、と言っておきたいと思います。

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2025年10月12日 (日)

「故佐藤紅緑は、私の郷里・津軽出身の先輩作家」…石坂洋次郎、第61回直木賞の選評より

 いまの直木賞の特徴といえば何でしょう。

 さかしらげに「コレだ!」と断言できるようことは、ワタクシには思いつきませんけど、何となく感じるのは、やたらと全国各地、地域性に密着した盛り上がりがたくさん出てきたな、ということです。

 受賞者の会見などが顕著ですけど、その作家がどこで生まれたのか、どこで育ったのか、どこの学校に通った、どこで働いていた、どこに住んでいる、あるいは受賞作の舞台がどこなのか……ということを含めて、異様なほどに地域色が注目されます。けっきょくのところ同じ日本国内で活動している作家ですし、もっと言えばどいつこいつも同じ地球上の人間です。こんなところで狭い地域の関係性をほじくり返して、いったい何になるんでしょうか。正直よくわかりません。

 まあ、そんなことはどうでもいいです。

 何が言いたいかといえば、これまで170ン回の直木賞の歴史のなかで、選評に書かれたハナシのうち、印象に残る地域といえばいったいどこか、それは青森だ。と言いたかっただけのことです。

 直木賞の選評にはなぜか、チョコチョコと青森のことが言及されています。いや、言及されていました。いっとき直木賞の委員をしていた石坂洋次郎さんが、それって選考とどんな関係があるんだ、というツッコミを待っているんじゃないかと思うほどに、青森がどうだこうだと、選評のあちこちに書き残しています。先週のうちのブログでも取り上げたとおりです。

 先週は、第57回(昭和42年/1967年・上半期)で候補に挙がった平井信作さんのことを同郷人だと言っている石坂さんの文章に触れました。それから2年後の第61回(昭和44年/1969年・上半期)、ふたたび石坂さんの青森愛がマグマの底から沸いてきて、神聖な(?)直木賞選評の場に、自分の郷土の話題をぶちまけます。

 この回、直木賞の候補は7人いました。受賞した佐藤愛子さん(大阪府生まれ)をはじめとして、阿部牧郎さん(京都府)、藤本義一さん(大阪府)、勝目梓さん(東京)、利根川裕さん(生まれは千葉県ながら出身は新潟県)、黒部亨さん(鳥取県)、渡辺淳一さん(北海道)……と、だれひとり、青森出身の人など見当たりません。いや、しかしここで青森、というか石坂さん自身の出身、津軽のことをネジ込んでくるところが、石坂さんの石坂さんたるゆえんです。

 佐藤愛子さんの候補作は、単行本の『戦いすんで日が暮れて』ですが、石坂さんのもとに来ていた情報では、同書に収録された「戦いすんで日が暮れて」「佐倉夫人の憂愁」の2作だったようです。こんなふうに言っています。

「佐藤さんの二作が、今回の直木賞作品に選ばれたが、それについて私は〈よかった〉という私的な親近感を覚えた。というのは、佐藤愛子さんの父君・故佐藤紅緑は、私の郷里・津軽出身の先輩作家であり、太宰治が陰性な破滅型の人物であったとすれば、紅緑は陽性な破滅型――あるいは豪傑型の人物であり、その血が娘である愛子さんにも一脈伝わっているような気がして、同じ郷土気質をいくらか背負っている私をさびしく喜ばせたのである。」(『オール讀物』昭和44年/1969年10月号、石坂洋次郎「津軽の血」より)

 あまりに「私的な」感想すぎて、見ているこちらは茫然とするしかありません。

 佐藤紅緑さんが生まれたのは明治7年/1984年、石坂さんは明治33年/1900年と、26歳離れていますが、同じ青森県弘前市で生まれ、中学は現在弘前高校となっている前身の学校に通っていたという先輩後輩のあいだがらです。その後に歩んだ道は違えども、石坂さんとしても親近感を持っていたんだろうと思います。

 それはそれでいいんですが(って、よくはないか)、佐藤愛子さんの作品を評するはずの場所で、父親がどうだの、血がどうだのと、思わず筆を滑らせてしまうというのは、何なのか。他の候補作家にとっては、貴重な選評の場をそんなことで埋めてしまう耄碌ジジイがいるというのは、いい迷惑だったかもしれませんが、石坂さんが愉快な人だったのは、直木賞の選評からもよく伝わります。

 ぜひ青森の人たちには、直木賞の選評で型破りの郷土愛を書き残した伝説の委員、石坂洋次郎さんを(そういった観点から)もっともっとフィーチャーしてほしいものだと、切に願います。

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2025年10月 5日 (日)

「同郷人の平井君が今度の選に洩れたのは残念。」…石坂洋次郎、第57回直木賞の選評より

 選考とは直接的な関係がない選評を書きがちな直木賞委員、というのはいつの時代にも見当たります。

 久米正雄さんとか小島政二郎さんとか今日出海さんとか、そのあたりが一般によく知られている……のかどうなのか、ワタクシも全然知らないんですけど、そんな直木賞の歴史のなかでも燦然と輝く「どーでもいいことを選評に書く」トップ・オブ・トップというと、いったい誰でしょうか。これはもう、石坂洋次郎さんをおいて他にはいません。

 直木賞ももうひとつの文学賞もとっていないけど超絶な流行作家街道を驀進し、67歳の高齢になってから、なぜか直木賞の選考委員のお声がかかって11年。ボケ老人として直木賞の選考会をかきまわした人、として、うちのブログでもさんざんイジくり回してきました。石坂さんこそ、「選考とは関係ない選評」のテーマにはぴったりの人です。

 はじめて選考に参加したのが第57回(昭和42年/1967年・上半期)のときです。候補者は9人。そのうち、中田浩作さんの「ホタルの里」、平井信作さんの「生柿吾三郎の税金闘争」、生島治郎さんの『追いつめる』の三作を高く評価した、と自身で選評に書いています。

 ただ、けっきょく票が集まって受賞することになった『追いつめる』を、なぜ石坂さんが評価したのか。選評を読んでも、よくわかりません。

 Aという作品のどこかがよかった、Bという作品はどこが駄目だった、とそんなことを選評で示すのは常人のやることで、石坂さんくらいになると、もはや自分がなぜ票を入れたかなんてことは、わざわざ書くまでもない、ということなのかもしれません。

「結局、手慣れた書き方で、暴力団を追及する元刑事を描いた生島治郎「追いつめる」が第五十七回の直木賞に選ばれた。おめでとう。」(『オール讀物』昭和42年/1967年10月号、石坂洋次郎「はじめて審査に参加して」より)

 という部分が、おおよそ石坂さんが『追いつめる』に関して、何がしかの判断を示している(?)と思われます。ともかくは気に入った作品だったようです。

 他の二作については、もうちょっと突っ込んで作品に対する感想を述べています。

 たとえば、中田さんの「ホタルの里」は僻地に赴任した若い青年教師が主人公です。このあたりが石坂さんのカワユイところだと思うんですけど、石坂さんは、自分がそうだったという理由で、そういう地方の学校教師を描いた作品が直木賞の候補になると、妙に甘い点をつけちゃったりします。ただ、直木賞と僻地の教師、といってまずパッと頭に思い浮かぶ三好京三さんの『子育てごっこ』が、のちの第76回(昭和51年/1976年・下半期)で候補に挙がってきたときには、石坂さんは痛烈な批判を繰り出して、その受賞に反対しました。教師を描いた小説だからって、何でもかんでも評価したわけではなかったようです(……って、まあ、そりゃそうか)。

 もう一つ、第57回で石坂さんが高い点をつけたのが、平井さんの「生柿吾三郎~」ですが、それについて書かれた選評こそ、まさに石坂ブシ炸裂、と言っていいでしょう。

「平井信作「生柿吾三郎の税金闘争」は細かい文学的センスなどにこだわらず、体当りで題材にとり組んでいるのがいい。同郷人の平井君が今度の選に洩れたのは残念。」(同)

 石坂さんは青森県弘前市の出身で、平井さんは青森県津軽郡浪岡村の出身。青森のなかでもいわゆる「津軽地方」と呼ばれる同郷人です。

 そんな候補者が受賞することができなかったことは残念だ、という。正直な心のうちを明かした一文には違いありませんが、選考委員が語る選評として、これほどどーでもいいハナシは、そうそう見当たりません。

 燦然と輝く「直木賞の選考とは関係ない選評」の歴史に新たな息吹を与えた選考委員、石坂洋次郎さんの、どーでもよさは実にここから始まりました。今後も、何かしら紹介する機会が出てくるかと思います。燦然と輝いています。

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