« 「彼はそんなケチ臭い人間ではない。」…獅子文六、第21回直木賞の選評より | トップページ | 第173回(令和7年/2025年上半期)の候補作のオビを並べる。 »

2025年7月 6日 (日)

「題を忘れたが、何とか云う船の航海中、凶悪な船員達が結束して船長の命に服さず、暴風雨の真最中左右に別れて大乱闘を演ずる長篇小説」…小島政二郎、第22回直木賞の選評より

 書評とか文庫解説とか読んでいると、ときどき「ん?」と違和感を持つことがあります。語るべき対象の作品のことから離れて、別の作者の、別の作品のことを持ち出して論を展開しているときです。

 たとえば現代の小説の作品を語るときに、古典の海外小説を例に出す。映画や芝居、マンガ、アニメ、その他、何か別の既成作品のことに一回焦点を向けさせて、そこからの連想、関連などで対象の特徴を浮かび上がらせようとする。こういう評論形式は、多くの人がやっていますし、王道っちゃあ王道なのかもしれません。

 それがうまくハマっていれば、何の文句もないんですが、そうだよ、おれはこんな作品のことも詳しく知ってんだ、すごいだろ、というマウントを取っているだけのように見える文章もけっこうあります。ありますよね? 直木賞の選評でも少なくありません。

 で、今週は「候補作のことを語っているうちに、別の作品のことを持ち出してきて、えっ、それって今回の選考とどんな関係があるの?」と思ってしまうような選評のなかから、第22回(昭和24年/1949年・下半期)に書かれていた一節を取り上げてみたいと思います。執筆者は、戦後の直木賞復活とともにこの舞台に帰ってきた伝説の選考委員、小島政二郎さんです。

 この回の直木賞で、評価が高かった候補作は、どうやら三つ。今日出海さんの「山中放浪」、河内信さんの「甲子園の想出」、そして山田克郎さんの「海の廃園」です。

 山田さんは戦前から大衆文壇の新人としていろいろな雑誌に書いてきた人でもあり、委員もその活躍、作風はよく知っています。海に関わるさまざまな立場の人たちの姿を描いた小説、というのが山田さんのいちばんの得意技で、前回第21回の候補に挙がった「海は紅」も、第22回で議論された「海の廃園」も、それ系統の小説でした。

 ただ、「海」といってもさまざまあります。世界各地をめぐる海上の船のハナシ、漂流船でのあれこれ、深海の探索、孤島と海、漁業で生計をたてる漁師たちのこと……。テーマや素材は数えきれないほどあるかと思います。

 それを、海のそばで生きる人たちの物語をもって「海」ひとつでくくるのも乱暴なハナシなはずなんですが、どうやら小島さんはマウントとりたがり熱が抑えられなかったか、「この前のも、今度のも、方面こそ違へ、いづれも海に生活する男女を取り扱つたもので、」と山田さんの候補作について語り出した上で、いきなり、別の小説についてずらずら挙げ始めました。

「海に生活する男女と云へば、古くはコンラッドの「タイフーン」や「ニッガー・オブ・ザ・ナルシサス」その他の海洋小説、ジャック・ロンドンの「海の狼」とか、題を忘れたが、何とか云ふ船の航海中、凶悪な船員達が結束して船長の命に服さず、暴風雨の真最中左右に別れて大乱闘を演ずる長篇小説とか、或ひは「南の海」の中に収められてゐる南洋の原住民を主人公にした五六篇の短篇とか、要するに日本の小説とは全然舞台の違つた、さうして特殊の性格の発見に作者が居を移してまで努めて止まなかつただけに随分面白い小説が少くない。

いきなりこんな世界的な作品に比べられるのは迷惑だらうが山田(引用者注:克郎)君の「海の廃園」その他の作品には、まだ日常生活的なトリヴィアリズムから脱け切らない平板さが、山田君独特のロマンを樹立する妨げをなしてゐるのは残念だ。」(『文藝讀物』昭和25年/1950年6月号より ―引用原文は『オール讀物』平成15年/2003年1月号「完全保存版 直木賞「全選評」戦後篇I」)

 うーん。

 小島さんも、文中で「迷惑だろうが」と書いています。過去に海外で書かれた、海を舞台にした小説をここで取り上げることがちょっとズレているかもなと、そういう自覚はあったんだろうと思いますが、読んでみても、やっぱり違和感が残ります。それって、つまり、自分がそういう小説も知っているよ、と言いたいだけじゃないんだろうかと。

 とくにひどいのが……いや、笑っちゃうのが、具体的な作品名を思い出せず、それでも一つの例に挙げてしまっているところです。いったい何の作品のことを言っているのか、チャールズ・ノードホフ&ジェームズ・ノーマン・ホールの『バウンティ号の叛乱』かとも思いましたが、小島さんが何を頭に浮かべていたのか、真実はわかりません。

 百歩譲って、コンラッドとかジャック・ロンドンとか、比較対象をはっきり明示するならまだいいですけど、こんなあやふやな記憶を頼りにして、山田さんの小説にケチをつけようというんですから、さすが小島さん、後年になって老害扱いされるだけのモノを当時からしっかり持っていたんだな、と思わされます。

 このゆるさ、きっちりしていていないところが、直木賞の歴史を築いてきた源です。直木賞はだから面白いんだ、と改めて感じますし、そう考えると、すべての候補作を真剣に読み込んで、作品評にばかり徹する姿勢が、ほんとうに直木賞にとっていいことなのか、正直わからなくなってきます。

|

« 「彼はそんなケチ臭い人間ではない。」…獅子文六、第21回直木賞の選評より | トップページ | 第173回(令和7年/2025年上半期)の候補作のオビを並べる。 »

選考とは関係のない選評」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 「彼はそんなケチ臭い人間ではない。」…獅子文六、第21回直木賞の選評より | トップページ | 第173回(令和7年/2025年上半期)の候補作のオビを並べる。 »