「彼はそんなケチ臭い人間ではない。」…獅子文六、第21回直木賞の選評より
直木賞では多くの場合、選考委員と候補者は同業者です。
同じ商業雑誌にいっしょに名前が並んで載ることもあれば、本屋さんに行けば近いところに本が置かれる機会もたくさんある。小説を書いてお金を得る。同じ世界で生きているプロフェッショナル同士です。選考の段階で面識があったり、仲がいい、あるいはちょっと険悪な関係にあった、なんてことも少ないとは言えません。そういうのをはたから眺めるのもまた、直木賞を見る醍醐味のひとつでしょう。
まあ、じっさいのところは生きた人間同士ですから、遠くから眺めているだけの他人がくわしい事情を知ることはできないんですが、作品を評するはずの選評の場で、そういった個人的な付き合いの一端が出てくると、読んでいるほうとしては、ちょっと胸がキュッと上がってしまいます。
戦後一発目、昭和20年/1945年7月から昭和24年/1949年上半期までの約4年間を対象にした、第21回の直木賞が決まったのが昭和24年/1949年7月2日のことです。これまで、うちのサイトやブログでさんざんコスり倒してきた、伝説っちゃあ伝説の、よくある普通の回といえやあ普通の回の選考模様が繰り広げられました。
何といっても久しぶりの直木賞の選考であり、決定です。選考委員に川口松太郎さん、木々高太郎さんという新しい2人を加えて、久米正雄さんと小島政二郎さんが返り咲きの再任を果たし、新しいメンバーでこれから直木賞はどういう賞であるべきか、どういう人に賞を贈るべきか、みたいなことが結構な時間を割いて話し合われたと言います。
そこで決まったのが、とりあえず戦後第1回は、まるで知られていない新人ではなく、すでに長く活躍してきた中堅・ベテラン格の人に上げよう、という方針です。それをもって直木賞にハクを付けたい、ということだったのかもしれません。しかし、こういう方針がさらっと決まってしまうところが、いかにも冒険心の乏しい、冴えない文学賞の称号を長く担ってきた直木賞らしいです。
ともかく、直木賞を授賞するのは有名な人でもいい。とそんな雰囲気のなかで名前の挙がった候補者に徳川夢声さんがいます。
有名も有名、映画の弁士としての立場から大きく枠を突き破って、舞台に立つ、映画に出る、ラジオで語る、と同時に小説やエッセイもたくさん書いてきた人気ある書き手でした。当時、夢声さん55歳。他に名前の挙がった候補者たちの誰よりもいちばん年をくっている年長者でもありました。
強く推薦した委員として知られているのが、獅子文六さんです。他の人からは、いやいや、いまさら夢声さんに上げてもなあ……と否定的な声が出たようなんですけど、獅子さんは強く、強く、夢声受賞めがけて弁をふるいます。
けっきょくその試みはかなうことなく、戦後の直木賞は、泥くさいスタートを切ることになるんですが、獅子さんはそのときの選評でこう書きました。
「徳川夢声説にも、賛成。賞をやつても嬉しがるまいといふ人があつたが、私は夢声大いに喜ぶことと考へてゐる。彼はそんなケチ臭ひ人間ではない。」(『文藝讀物』昭和24年/1949年9月号より ―引用原文は『オール讀物』平成15年/2003年1月号「完全保存版 直木賞「全選評」戦後篇I」)
この獅子さんの言葉のミソは、昔っから二人は気が合う友人で、実際の夢声さんの性格を獅子さんがよくわかっていた、というところにあります。文学賞を決めるのに、候補者の性格なんて別に関係がありません。ないはずなんですが、それを堂々と書いてしまう。あまりに二人の関係が近すぎて、書かざるを得なかった、ぜひ書いておきたかった、という面もあったんじゃないかと推察します。
もう一つ、面白いなと思うのは、賞をあげようと言われて、いや僕はと喜ばない態度のことを、獅子さんが「ケチ臭い」と表現していることです。もしもケチなら、お金と名誉をくれるというのだからホイホイと手を差し出し、反面、ケチくさくない人は、いや私はそういうものは要りませんと潔く辞退する……ととらえてもよさそうなんですけど、どうも獅子さんの「ケチ」感はそういうものとは逆を行っているみたいです。
ケチ臭い。というのは、獅子さんと夢声さんを結ぶ大きなキーワードです。昭和33年/1958年ごろ、獅子さんが総裁、夢声さんが幹事長となって「日本ケチ連盟」というものが結成され、いくつかのメディアに取り上げられたことがあります。浪費することばかりに流れるな、節制と節約で人生は豊かになる、と主張するもので、いっとき日本で「ケチでいこう!」なる言葉が流行った(?)か何かした、その代表的な先導者として「日本ケチ連盟」のことが触れられました。
夢声さんに言わせると、ケチというのは金銭関係に限ったハナシじゃないそうです。
「ケチ精神というものは、なにも金銭だけに限って発揮するのではなく、神経の使い方にもこれをあてる。ムダな気苦労などは極力避けなければならない。」(昭和35年/1960年3月・角川書店刊『現代女性講座4 男というもの』所収 徳川夢声「ケチと浪費」より)
何でもモノは言いよう、という感じがしますが、些細なことを気にかける、これを節制するのもまたケチ精神のひとつだ、と言っています。
どういう考え方がケチ精神で、どういう態度がケチ臭くないのか。……ケチと言っても、使う場面でさまざまな解釈が可能です。獅子さんが直木賞の選評で語った「彼はケチ臭い人間ではない」というのも、特別、大きな意味を含ませようとしたものではなく、とにかく我が友ムセイに賞をもらってほしかった、という思いがポロッと出てしまったんじゃないかと思います。
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