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2025年6月 8日 (日)

「九州文学の勝野ふじ子氏の「蝶」といふ小説を芥川賞選の折に読んだ」…瀧井孝作、第10回直木賞の選評より

 第10回(昭和14年/1939年・下半期)の直木賞は相当モメた、と言われています。

 あまりにモメすぎて、本来選評が載るはずだった『文藝春秋』昭和15年/1940年3月号には間に合わず、とりあえずそのときはアクタ何トカ賞というどうでもいい賞の選評だけが掲載されて、翌月4月号に直木賞だけの選評がこっそり公けにされたという、なかなかいわくつきの回でした。

 「いわく」になってしまった最大の原因は、この回から直木賞の選考は、直木賞委員だけじゃなくアクタ何トカ賞というどうでもいい賞の委員も含めて行われたことにあった。と、これも後世にまで語り継がれています。

 大衆文芸? そんなクソみたいな分野のことはオラ知らね。と、ツバを飛ばして馬鹿にした委員はいなかったとは思いますけど、何がいい大衆文芸なのか、何が直木賞にふさわしいのか、議論紛糾、委員のあいだでまったくまとまらないまま、けっきょく直木賞は授賞なしに落ち着いてしまいます。

 まったく、よけいな連中が選考に加わったからだ、と当時の直木賞ファンたちが怒り狂った。……というウワサは聞いたことはありません。ただ、船頭多くしてナンとやら、人が増えればそれだけまとまりづらくなるのは、当然といえば当然です。

 で、この先数回ほど、直木賞の選評なのにアクタ何とか賞の委員が文章を書いている、という異様な光景が展開されることになりました。今週はそのなかでも瀧井孝作さんの直木賞選評から、「え。そんなことも直木賞のほうに書いちゃうんだ」と全国の直木賞ファンが目を点にした、関係ないっちゃ関係ないハナシを引かせてもらいます。

 こんな文章です。

「ぼくはこれまで大衆文藝はよみ馴れず、こんど初めて勉強して讀んだが、右の候補作品(引用者注:岩下俊作「富島松五郎伝」、堤千代「小指」、宇井無愁「お狸さん」、松坂忠則「火の赤十字」、大庭さち子「妻と戦争」)では、「宮島(引用者注:原文ママ)松五郎傳」がやはり一番感情が深く殘つてゐる。作中人物が自然な人間らしく呼吸してゐる感がある。ついでに、九州文學の勝野ふじ子氏の「蝶」といふ小説を芥川賞選の折に讀んだが、「蝶」は、女學生上りのフラツパー振りが出てゐて、これは大衆文藝とすれば面白いものだらうと――純文學の肌ざはりではない筆だから――よみ乍ら考へたが、結末でイヤになつた。その結末は前のフラツパー振りの性格を全部打消す仕組で、折角の性格がゆうれいの如く消失せて、この手法はヘタ糞だと思つた。そして氣味のわるいものがあとに殘つた。この結末で作中人物が人間らしいのは隣家の母娘だけで、主要人物は悉皆お化けのやうな氣がした。あんんまり諄く作りすぎてあるからだ。讀後に、人間らしいものが素直にまつすぐに來る小説でないと、ぼくはイヤだ。」(『文藝春秋』昭和15年/1940年4月号「大衆文學に就て――直木三十五賞経緯――」より)

 選考委員として自分はどんな小説を評価するのか。たしかにそれを例示している箇所ではあるので、直木賞の選評として全然見当違いのことを言っているわけじゃありません。

 だけど、それを語るときの例として、直木賞の候補作じゃなくてアクタ何とか賞の下読みのときに読んだ小説をあえて持ってくる、というのは何なのか。直木賞を馬鹿にしてんのか。これだから、いまでも直木賞ファンのなかに瀧井さんを嫌う人が多い、というのもうなずけるわけです。

 いや。嫌っている人がいるのかいないのか、ワタクシは知りませんけど、前号の『文藝春秋』3月号に載った芥川龍之介賞経緯のほうでは、勝野ふじ子さんの「蝶」について一行も批評を費やしていないのに、なぜか直木賞の場を借りて、別の文学賞の予選で読んだ小説の感想を書いちゃうんですから、おうおう、ようやってくれたな、という感じです。

 それはそれとして、いきなり直木賞の選評に書かれた勝野ふじ子さんのことです。

 むさくるしい『九州文学』のなかでは珍しかった女性の書き手で(というか当時はどこの同人雑誌でも女性の数は少なかったかもしれません)戦争中の昭和19年/1944年に29歳で亡くなってしまいます。残された作品は少なく、それらをすべてまとめて1冊にした『勝野ふじ子小説全集』(平成5年/1993年7月・K&Y Company刊)が出たのは、いまからもう30年ほど前のハナシです。

 「解説」を三嶽公子さんが書いています。勝野さんの生涯を知るにはとてもためになる素晴らしい解説なんですが、もちろん、それを読んでもどこにも直木賞のナの字も登場しません。当たり前です。勝手に瀧井さんが、ついつい筆が滑った、って感じで直木賞のほうで言及しただけのことですからね。勝野さんと直木賞。別に関係はありません。

 関係はないはずなんですけど、しかし宮崎の文学者、黒木淳吉さんがこんなふうに書いているのは、いったい何がどうしたんでしょうか。昭和59年/1984年、小倉で開催された「九州文学の歴史展」を見ての感想の部分です。

「中でも初期の昭和十四年ころの(引用者注:『九州文学』の)隆盛はすばらしいものがあった。たとえば、芥川賞候補に阿蘇藤蔵、矢野朗、劉寒吉、原田種夫の四氏、直木賞候補に勝野ふじ子、岩下俊作(富島松五郎伝)、山田牙城の三氏と、七人の候補作家が数えられる。」(昭和61年/1986年3月・鉱脈社刊、黒木淳吉・著『宮崎文化往来』所収「雑誌の回顧展と笑顔と」より)

 うっ。直木賞候補として勝野さんの名前が堂々と挙げられている……。しかも山田牙城さんまでがなぜか加えられている……。

 何だか、いま我々が見ている直木賞の歴史とは別の、まったく違う事実が、黒木さんの見た歴史展では紹介されていたのかもしれません。ほんとにそうなら、それはそれは貴重で面白いんですが、勝野さんとか山田さんとかが、うるせい、こちとら純文学を書いたんだ、だれが直木賞だ、ふざんけな……と怒ってなきゃいいなとも思います。

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