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2025年6月 1日 (日)

「「破船」当時の私の姿をさえ、涙ぐましいユーモアの中に、点出した事すらあるように憶えている。」…久米正雄、第6回直木賞の選評より

 直木賞の選評なのに、直木賞とは関係ないことが書いてある。

 ……と、そうは言ってもさすがにまったく関係がないと言えるのか、書いている選者本人のなかでは、その回の直木賞の選考から派生して、あるいは連想を働かせて書かれたものでしょうから、まったく関係がないと断言できるものは、さすがにそれほどはないような気がします。今回取り上げる選評も、多少は直木賞とつながりがあります。

 ときは第6回(昭和12年/1937年・下半期)の直木賞です。大衆文芸プロパーの新進作家を見まわしても、賞をあげるにふさわしい人が見当たらないな、と選考委員みんなが思っていたところ、「直木賞は、いわゆる大衆文芸畑の外にどんどん目を向けていくべきだ」という意見の急先鋒、大佛次郎さんが、純文芸の作家と見られていた井伏鱒二さんの『ジョン万次郎漂流記』を見つけてきて、こういうものにこそ直木賞はふさわしいんじゃないか! と一席ぶって授賞が決まったんだそうです。

 選評は『文藝春秋』昭和13年/1938年3月号に載りました。病床にあって欠席した三上於莵吉さんを除いて、選考委員7人、そのうち菊池寛さんは「話の屑籠」のほうでその選考に触れ、残る6人は「直木三十五賞経緯」としてその選評を発表しています。

 どうして純文芸でがんばっている立派な井伏に、クソみてえな大衆文芸の賞が贈られなきゃならねえんだ。というような、かならず外野から飛んでくるに違いないツッコミに、各人それぞれ、井伏さんに直木賞を贈る理由をつらつら書いています。どんなことにも根拠はあるもんです。

 そのなかで今週取り上げたいのは久米正雄さんの選評の一節です。直木賞と井伏さんへの授賞のことを語っているんですが、その合間合間に、ふっと脇道にそれたハナシを差し挟んでいます。

「「ジヨン萬」(引用者注:「ジョン万次郎漂流記」)は、前に書いた「青ケ島」(引用者注:「青ヶ島大概記」)などゝ共に、井伏君が純文學として書いたものであるが、其時代小説としての興味も、大衆性を含んでゐるばかりでなく、此の位の名文は、當然此の大衆文學の世界に、持ち込まれなくてはならぬものである。井伏君としては、或ひはかう云ふラベルを貼られる事は、厭かも知れないが、然しレツテルラベルは、其人の眞價には毫も關係なく、寧ろかう云ふ場合は、名譽と思つて貰はなければならない。尾崎君(引用者注:尾崎士郎)の「人生劇場」をも、大衆文學と思つてゐる私は、君がそんな偏見に囚はれず、視野を廣くし、本來の稟質を伸ばして、是を轉機に、「意識的」にでも其處へ進んで呉れたならば、地下の直木は莞爾たる事勿論、日本大衆文壇のために、どんなに愉快な事か分らない。此の外に君には、現代ユーモア小説の一手があり、是も純文學誌に載つて、――いつかは雑司ケ谷の墓地を描いて、「破船」當時の私の姿をさへ、涙ぐましいユーモアの中に、點出した事すらあるやうに憶へてゐる。――相當の定評はあるものだが、それとてもつと尻の穴の廣い世界へ、大手を振つて出た方が、もつと文學的効果があるに違ひない。」(『文藝春秋』昭和13年/1938年3月号「直木三十五賞経緯」より)

 最後のほうの「――」で囲んだくだりのところは、別に書かなくたって成り立ちます。それをわざわざ書いてしまう久米さんのお茶目さが、きっとこの人の人柄なんでしょう。

 作品名は挙がっていませんが、井伏さんが雑司ヶ谷墓地の一景を描いた作品、ということになると、おそらく「喪章のついてゐる心懐」のことを言っているものかと思われます。初出は『行動』の昭和9年/1934年2月号で、直木賞受賞からさかのぼって4年ぐらい前の作品です。

 「喪章の〜」では、友人だった青木南八さんが雑司ヶ谷の墓地に眠っている、というハナシから、夏目漱石さんのお墓の話題に移ります。漱石さんが死んだのが大正5年/1916年12月、そのとき、とりあえずの墓標が霊園内につくられましたが、一周忌を機会に園内で墓所も移して、立派な墓石をたてることになり、そのお披露目が大正6年/1917年12月に行われました。そのとき、早稲田大学に入ってまもなくの学生、井伏さんも、様子を覗きに行った、という回想になっています。

 ずっと時代がくだった昭和40年/1965年には『漱石全集』(岩波書店刊)第一巻の月報に「五十何年前のこと」というのを井伏さんが寄せています。そちらには、当時、雑司ヶ谷を散歩コースのひとつにしていた井伏さんが、たまたまお墓のあたりを歩き過ぎようとしたところ、何やら人が集まって騒がしく、近づいてみたら漱石一周忌だったとのこと。そこに集まっていた芥川龍之介さんの顔を認識していたり、女学生らしい人が赤木桁平さんの存在をわかっていたり、「喪章の〜」の記述とはいろいろ違いはありますが、いずれにしてもそこに久米正雄さんの姿が出てくるのは共通しています。

 で、問題なのは久米さん自身が読んだはずの「喪章のついてゐる心懐」のほうです。久米さんの姿はこんな表現で記されています。

 「新しく見える背広を着て、歩くとき大股に足を踏み出すのが特徴」「墓前に進み出たとき、見物していた女子大学生はひそかにその光景をカメラで撮影し、「静かなる荘厳ですわね」と連れの女に囁いた。」

 ……とまあ、これだけのことなんですけど、久米さんと漱石の娘、筆子さんとのあいだの結婚バナシが破断となったのが、ちょうど一周忌を迎える直前のことだった、墓参する久米さんの心境おだやかならざるものがあった、というその場面に、若き日の井伏さんが出くわしたわけです。

 しかし、「喪章のついてゐる心懐」を読んで、そこに何がしかのユーモアを感じたのは、当時の人たち特有の感覚なのか、よくわかりませんけど、いま読んでもこの一作にどんなユーモアがひそんでいるのか、ワタクシにはピンと来ません。これを井伏流現代ユーモア小説のひとつの例に挙げたのは、単に久米さんが、おれのことを書いてくれた作品があるんだね、おれもちゃんと読んだんだよ、と言いたかっただけじゃないのかと勘ぐりたくもなります。

 ともかく漱石さんの一周忌のときには、雑司ヶ谷の墓地にはジョン万次郎さんのお墓はなかったそうですが、大正時代に墓園のなかに移されて、首尾よく漱石・ジョン万ふたりが同じ土地の下に眠ることに。それが十数年たって、『ジョン万次郎漂流記』を直木賞の一つに選べたのですから、久米さんにとっては、奇縁も奇縁のめぐり合わせだったでしょう。井伏鱒二さんがその懸け橋となり、そのことを記すにあたって選評というかたちで直木賞が場を提供できたのだとしたら、直木賞ファンとしてもうれしいことです。

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