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2025年6月の3件の記事

2025年6月15日 (日)

「芥川賞はもう決まったの?」「いえ、ちょっと休憩しまして、その間に直木賞のほうをやっているのです。」…室生犀星&進行係、第13回直木賞の選評より

 直木賞は、いま現在リアルタイムで盛り上がっています。なのに昔のことなんか調べて何が楽しんだ。たしかにワタクシも思います。

 ……そうは思うんですけど、こないだ候補作が発表された最新の第173回(令和7年/2025年・上半期)の直木賞に接すると、テンション爆上がりでウキウキしてくるのは言うまでもない。だけど、これまで刻々と築かれてきた歴史的な直木賞の流れだって、それぞれの時代、それぞれの回が同じくらいに面白い。となれば、いま直木賞を面白がるのと同じくらいに、昔の直木賞を面白がるのも当然じゃないか、と思わないでもありません。

 とか何とかグダグダ言いながら、うちのブログではひきつづき昔の昔、日本が戦争をおっぱじめた、あるいはこれから新しい戦いに臨もうとしていた昭和10年代のハナシに目を向けることにします。今週は第13回(昭和16年/1941年・上半期)のときの選評についてです。

 無駄に長い直木賞の歴史のなかで、この第13回というのは、特異中の特異な選評を後世に残したことでも知られています。

 何が特異か。といえば、選考委員ひとりひとりが自分で原稿を書いて発表する、いつもながらの形式ではなく、昭和16年/1941年7月29日午後6時から、赤坂星ケ岡茶寮で行われた審議の様子を、座談会形式で筆記、それをもって選評ということにしているからです。こういう回は、これ一回きりしかありません。

 その日出席したのは、直木賞専任の白井喬二さんと、この回から新たに委員に加わった片岡鉄兵さん、それと芥川賞兼任の小島政二郎さん、佐佐木茂索さんの4名。いちおう第10回から、先週触れたとおり芥川賞の委員も直木賞の審議に参加する、という建て前があったはずですが、選評の様子を見るかぎり、もはやそんなことはやめちゃったらしく、芥川賞のほうの佐藤春夫さん、宇野浩二さん、瀧井孝作さん、室生犀星さん、横光利一さんは、直木賞のほうでは発言していません。

 『文藝春秋』に載った審査録は、一行20字詰めで全685行に及びます。最初に芥川賞のほうの審査が始まり、それが途中まで行ったところで直木賞、その直木賞のほうが議論が済んだら再び芥川賞について話し合われた……という体裁です。

 じゃあ、それぞれの賞にどれだけの発言の分量が割かれているか、行数を数えてみました。芥川賞が546行(全体の79.7%)、それに対して直木賞は139行(20.3%)。記号で示すと ■■□□□□□□□□ (←■が直木賞、□がもう一つの賞)となります。

 審議録の次のページに、当日欠席した吉川英治さんが「直木賞席外寸言」として20字×45行の選評を書いています。だけど、それを足したところで量の上では焼け石に水です。何つったって、じつに5分の4、芥ナントカ賞とかいうどうでもいい賞のハナシで占められているんですからね。何じゃこりゃ、と直木賞ファンにとっては怒りに打ちふるえるしかありません。

 誌面の上では、はっきりとどこからが直木賞で、どこからが芥、と標題で区切りられているわけじゃありません。なので今週は、この全部を「直木賞選評」と見なしたところで、直木賞に関する議論がひと段落ついたらしい、その次の辺りに載っている会話の部分を、「関係のない選評」としてピックアップすることにします。

 そこから登場した室生犀星さんと、進行係とのやりとりです。

「室生(引用者注:犀星)(出席)芥川賞はもう決まつたの?

進行係 いえ、ちよつと休憩しまして、その間に直木賞のはうをやつてゐるのです。それぢや、芥川賞に戻りませう」(『文藝春秋』昭和16年/1941年9月号「芥川龍之介賞 直木三十五賞 委員会記」より)

 彼らが本腰を入れているのはあくまで芥ナントカで、直木賞はその休憩のあいまにやっている。そんな雰囲気を露骨に現わしたやりとりかと思われます。

 ちなみにこの「進行係」というのは、文藝春秋社の社員で、吉川英治さんの「直木賞席外寸言」を見ると、どうも永井龍男さんだったらしいです。さすが永井さん、後年、直木賞の選考委員をやりながら、どうも気乗りがしないとわがままを言い出し、芥ナントカ賞の委員に変えてもらった途端、妙にやる気を見せて長年その役目を務めた、というぐらい、直木賞に対して関心の薄かった人ようなので、その感覚が当時からきちんと発揮されていたんでしょう。

 第13回の直木賞のことについても、とくに語るべきものがなかったか、永井さんは『回想の芥川・直木賞』でも触れてはいませんが、戦前の直木賞委員会の雰囲気について、「直木賞下ばたら記」というエッセイで書かれた表現を、ここでは引かせてもらいます。

「両賞の委員を兼任した人には、自づと生じる委員会の雰囲気の相違が気になつたらしく、小島氏(引用者注:小島政二郎)なぞは、よく直木賞委員会の「低調」さをなげいていた。

新聞や雑誌の連載二追われる委員達は、芥川賞に比して出席率なぞも悪く、寸暇をさいて出席しても、候補作品に読みもらしがあるといつたことも、時々あつた。後に、両賞委員会を一本にして、芥川賞委員からも発言してもらうように、一時銓衡規定を改めたことがあるのも、そんな処から出たものである。」(『別冊文藝春秋』昭和27年/1952年10月「直木賞下ばたら記」」より ―引用出典:昭和31年/1956年2月・四季社刊『酒徒交伝』)

 直木賞の選考会全体を覆っていた、そういうやる気のなさが、事務係をしていた永井さんにも自然と伝播した、だから直木賞に冷たくなった(?)というだけなのかもしれません。

 にしても、です。昔の直木賞を調べれば調べるほど、いつも日陰で、そんなに相手にもされない直木賞の姿を目にすることになってしまいます。やっぱ今の直木賞だけ見ているほうが、気分が上がるのは間違いなんですが、日陰だった頃の直木賞をさびしく鑑賞するのも、それはそれで味があっていいじゃないですか。ほんの一コマだけでも、そういう雰囲気を残しておける選評という存在は、なかなか重要だな、と改めて思わされるところです。

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2025年6月 8日 (日)

「九州文学の勝野ふじ子氏の「蝶」といふ小説を芥川賞選の折に読んだ」…瀧井孝作、第10回直木賞の選評より

 第10回(昭和14年/1939年・下半期)の直木賞は相当モメた、と言われています。

 あまりにモメすぎて、本来選評が載るはずだった『文藝春秋』昭和15年/1940年3月号には間に合わず、とりあえずそのときはアクタ何トカ賞というどうでもいい賞の選評だけが掲載されて、翌月4月号に直木賞だけの選評がこっそり公けにされたという、なかなかいわくつきの回でした。

 「いわく」になってしまった最大の原因は、この回から直木賞の選考は、直木賞委員だけじゃなくアクタ何トカ賞というどうでもいい賞の委員も含めて行われたことにあった。と、これも後世にまで語り継がれています。

 大衆文芸? そんなクソみたいな分野のことはオラ知らね。と、ツバを飛ばして馬鹿にした委員はいなかったとは思いますけど、何がいい大衆文芸なのか、何が直木賞にふさわしいのか、議論紛糾、委員のあいだでまったくまとまらないまま、けっきょく直木賞は授賞なしに落ち着いてしまいます。

 まったく、よけいな連中が選考に加わったからだ、と当時の直木賞ファンたちが怒り狂った。……というウワサは聞いたことはありません。ただ、船頭多くしてナンとやら、人が増えればそれだけまとまりづらくなるのは、当然といえば当然です。

 で、この先数回ほど、直木賞の選評なのにアクタ何とか賞の委員が文章を書いている、という異様な光景が展開されることになりました。今週はそのなかでも瀧井孝作さんの直木賞選評から、「え。そんなことも直木賞のほうに書いちゃうんだ」と全国の直木賞ファンが目を点にした、関係ないっちゃ関係ないハナシを引かせてもらいます。

 こんな文章です。

「ぼくはこれまで大衆文藝はよみ馴れず、こんど初めて勉強して讀んだが、右の候補作品(引用者注:岩下俊作「富島松五郎伝」、堤千代「小指」、宇井無愁「お狸さん」、松坂忠則「火の赤十字」、大庭さち子「妻と戦争」)では、「宮島(引用者注:原文ママ)松五郎傳」がやはり一番感情が深く殘つてゐる。作中人物が自然な人間らしく呼吸してゐる感がある。ついでに、九州文學の勝野ふじ子氏の「蝶」といふ小説を芥川賞選の折に讀んだが、「蝶」は、女學生上りのフラツパー振りが出てゐて、これは大衆文藝とすれば面白いものだらうと――純文學の肌ざはりではない筆だから――よみ乍ら考へたが、結末でイヤになつた。その結末は前のフラツパー振りの性格を全部打消す仕組で、折角の性格がゆうれいの如く消失せて、この手法はヘタ糞だと思つた。そして氣味のわるいものがあとに殘つた。この結末で作中人物が人間らしいのは隣家の母娘だけで、主要人物は悉皆お化けのやうな氣がした。あんんまり諄く作りすぎてあるからだ。讀後に、人間らしいものが素直にまつすぐに來る小説でないと、ぼくはイヤだ。」(『文藝春秋』昭和15年/1940年4月号「大衆文學に就て――直木三十五賞経緯――」より)

 選考委員として自分はどんな小説を評価するのか。たしかにそれを例示している箇所ではあるので、直木賞の選評として全然見当違いのことを言っているわけじゃありません。

 だけど、それを語るときの例として、直木賞の候補作じゃなくてアクタ何とか賞の下読みのときに読んだ小説をあえて持ってくる、というのは何なのか。直木賞を馬鹿にしてんのか。これだから、いまでも直木賞ファンのなかに瀧井さんを嫌う人が多い、というのもうなずけるわけです。

 いや。嫌っている人がいるのかいないのか、ワタクシは知りませんけど、前号の『文藝春秋』3月号に載った芥川龍之介賞経緯のほうでは、勝野ふじ子さんの「蝶」について一行も批評を費やしていないのに、なぜか直木賞の場を借りて、別の文学賞の予選で読んだ小説の感想を書いちゃうんですから、おうおう、ようやってくれたな、という感じです。

 それはそれとして、いきなり直木賞の選評に書かれた勝野ふじ子さんのことです。

 むさくるしい『九州文学』のなかでは珍しかった女性の書き手で(というか当時はどこの同人雑誌でも女性の数は少なかったかもしれません)戦争中の昭和19年/1944年に29歳で亡くなってしまいます。残された作品は少なく、それらをすべてまとめて1冊にした『勝野ふじ子小説全集』(平成5年/1993年7月・K&Y Company刊)が出たのは、いまからもう30年ほど前のハナシです。

 「解説」を三嶽公子さんが書いています。勝野さんの生涯を知るにはとてもためになる素晴らしい解説なんですが、もちろん、それを読んでもどこにも直木賞のナの字も登場しません。当たり前です。勝手に瀧井さんが、ついつい筆が滑った、って感じで直木賞のほうで言及しただけのことですからね。勝野さんと直木賞。別に関係はありません。

 関係はないはずなんですけど、しかし宮崎の文学者、黒木淳吉さんがこんなふうに書いているのは、いったい何がどうしたんでしょうか。昭和59年/1984年、小倉で開催された「九州文学の歴史展」を見ての感想の部分です。

「中でも初期の昭和十四年ころの(引用者注:『九州文学』の)隆盛はすばらしいものがあった。たとえば、芥川賞候補に阿蘇藤蔵、矢野朗、劉寒吉、原田種夫の四氏、直木賞候補に勝野ふじ子、岩下俊作(富島松五郎伝)、山田牙城の三氏と、七人の候補作家が数えられる。」(昭和61年/1986年3月・鉱脈社刊、黒木淳吉・著『宮崎文化往来』所収「雑誌の回顧展と笑顔と」より)

 うっ。直木賞候補として勝野さんの名前が堂々と挙げられている……。しかも山田牙城さんまでがなぜか加えられている……。

 何だか、いま我々が見ている直木賞の歴史とは別の、まったく違う事実が、黒木さんの見た歴史展では紹介されていたのかもしれません。ほんとにそうなら、それはそれは貴重で面白いんですが、勝野さんとか山田さんとかが、うるせい、こちとら純文学を書いたんだ、だれが直木賞だ、ふざんけな……と怒ってなきゃいいなとも思います。

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2025年6月 1日 (日)

「「破船」当時の私の姿をさえ、涙ぐましいユーモアの中に、点出した事すらあるように憶えている。」…久米正雄、第6回直木賞の選評より

 直木賞の選評なのに、直木賞とは関係ないことが書いてある。

 ……と、そうは言ってもさすがにまったく関係がないと言えるのか、書いている選者本人のなかでは、その回の直木賞の選考から派生して、あるいは連想を働かせて書かれたものでしょうから、まったく関係がないと断言できるものは、さすがにそれほどはないような気がします。今回取り上げる選評も、多少は直木賞とつながりがあります。

 ときは第6回(昭和12年/1937年・下半期)の直木賞です。大衆文芸プロパーの新進作家を見まわしても、賞をあげるにふさわしい人が見当たらないな、と選考委員みんなが思っていたところ、「直木賞は、いわゆる大衆文芸畑の外にどんどん目を向けていくべきだ」という意見の急先鋒、大佛次郎さんが、純文芸の作家と見られていた井伏鱒二さんの『ジョン万次郎漂流記』を見つけてきて、こういうものにこそ直木賞はふさわしいんじゃないか! と一席ぶって授賞が決まったんだそうです。

 選評は『文藝春秋』昭和13年/1938年3月号に載りました。病床にあって欠席した三上於莵吉さんを除いて、選考委員7人、そのうち菊池寛さんは「話の屑籠」のほうでその選考に触れ、残る6人は「直木三十五賞経緯」としてその選評を発表しています。

 どうして純文芸でがんばっている立派な井伏に、クソみてえな大衆文芸の賞が贈られなきゃならねえんだ。というような、かならず外野から飛んでくるに違いないツッコミに、各人それぞれ、井伏さんに直木賞を贈る理由をつらつら書いています。どんなことにも根拠はあるもんです。

 そのなかで今週取り上げたいのは久米正雄さんの選評の一節です。直木賞と井伏さんへの授賞のことを語っているんですが、その合間合間に、ふっと脇道にそれたハナシを差し挟んでいます。

「「ジヨン萬」(引用者注:「ジョン万次郎漂流記」)は、前に書いた「青ケ島」(引用者注:「青ヶ島大概記」)などゝ共に、井伏君が純文學として書いたものであるが、其時代小説としての興味も、大衆性を含んでゐるばかりでなく、此の位の名文は、當然此の大衆文學の世界に、持ち込まれなくてはならぬものである。井伏君としては、或ひはかう云ふラベルを貼られる事は、厭かも知れないが、然しレツテルラベルは、其人の眞價には毫も關係なく、寧ろかう云ふ場合は、名譽と思つて貰はなければならない。尾崎君(引用者注:尾崎士郎)の「人生劇場」をも、大衆文學と思つてゐる私は、君がそんな偏見に囚はれず、視野を廣くし、本來の稟質を伸ばして、是を轉機に、「意識的」にでも其處へ進んで呉れたならば、地下の直木は莞爾たる事勿論、日本大衆文壇のために、どんなに愉快な事か分らない。此の外に君には、現代ユーモア小説の一手があり、是も純文學誌に載つて、――いつかは雑司ケ谷の墓地を描いて、「破船」當時の私の姿をさへ、涙ぐましいユーモアの中に、點出した事すらあるやうに憶へてゐる。――相當の定評はあるものだが、それとてもつと尻の穴の廣い世界へ、大手を振つて出た方が、もつと文學的効果があるに違ひない。」(『文藝春秋』昭和13年/1938年3月号「直木三十五賞経緯」より)

 最後のほうの「――」で囲んだくだりのところは、別に書かなくたって成り立ちます。それをわざわざ書いてしまう久米さんのお茶目さが、きっとこの人の人柄なんでしょう。

 作品名は挙がっていませんが、井伏さんが雑司ヶ谷墓地の一景を描いた作品、ということになると、おそらく「喪章のついてゐる心懐」のことを言っているものかと思われます。初出は『行動』の昭和9年/1934年2月号で、直木賞受賞からさかのぼって4年ぐらい前の作品です。

 「喪章の〜」では、友人だった青木南八さんが雑司ヶ谷の墓地に眠っている、というハナシから、夏目漱石さんのお墓の話題に移ります。漱石さんが死んだのが大正5年/1916年12月、そのとき、とりあえずの墓標が霊園内につくられましたが、一周忌を機会に園内で墓所も移して、立派な墓石をたてることになり、そのお披露目が大正6年/1917年12月に行われました。そのとき、早稲田大学に入ってまもなくの学生、井伏さんも、様子を覗きに行った、という回想になっています。

 ずっと時代がくだった昭和40年/1965年には『漱石全集』(岩波書店刊)第一巻の月報に「五十何年前のこと」というのを井伏さんが寄せています。そちらには、当時、雑司ヶ谷を散歩コースのひとつにしていた井伏さんが、たまたまお墓のあたりを歩き過ぎようとしたところ、何やら人が集まって騒がしく、近づいてみたら漱石一周忌だったとのこと。そこに集まっていた芥川龍之介さんの顔を認識していたり、女学生らしい人が赤木桁平さんの存在をわかっていたり、「喪章の〜」の記述とはいろいろ違いはありますが、いずれにしてもそこに久米正雄さんの姿が出てくるのは共通しています。

 で、問題なのは久米さん自身が読んだはずの「喪章のついてゐる心懐」のほうです。久米さんの姿はこんな表現で記されています。

 「新しく見える背広を着て、歩くとき大股に足を踏み出すのが特徴」「墓前に進み出たとき、見物していた女子大学生はひそかにその光景をカメラで撮影し、「静かなる荘厳ですわね」と連れの女に囁いた。」

 ……とまあ、これだけのことなんですけど、久米さんと漱石の娘、筆子さんとのあいだの結婚バナシが破断となったのが、ちょうど一周忌を迎える直前のことだった、墓参する久米さんの心境おだやかならざるものがあった、というその場面に、若き日の井伏さんが出くわしたわけです。

 しかし、「喪章のついてゐる心懐」を読んで、そこに何がしかのユーモアを感じたのは、当時の人たち特有の感覚なのか、よくわかりませんけど、いま読んでもこの一作にどんなユーモアがひそんでいるのか、ワタクシにはピンと来ません。これを井伏流現代ユーモア小説のひとつの例に挙げたのは、単に久米さんが、おれのことを書いてくれた作品があるんだね、おれもちゃんと読んだんだよ、と言いたかっただけじゃないのかと勘ぐりたくもなります。

 ともかく漱石さんの一周忌のときには、雑司ヶ谷の墓地にはジョン万次郎さんのお墓はなかったそうですが、大正時代に墓園のなかに移されて、首尾よく漱石・ジョン万ふたりが同じ土地の下に眠ることに。それが十数年たって、『ジョン万次郎漂流記』を直木賞の一つに選べたのですから、久米さんにとっては、奇縁も奇縁のめぐり合わせだったでしょう。井伏鱒二さんがその懸け橋となり、そのことを記すにあたって選評というかたちで直木賞が場を提供できたのだとしたら、直木賞ファンとしてもうれしいことです。

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