野原野枝実…二度の改名を経て、最初にロマンス小説でデビューしたときのペンネームに、あえて戻してみせる。
「直木賞と別の名前」とテーマを決めて一年間書いてきました。相変らず、ぜんぜん直木賞と関係ないじゃん、みたいなハナシばかりですし、ネタも枯れ果ててきたので、このテーマもあと少しで終わろうと思います。
で、終わる前に、やっぱりレジェンド級の人を取り上げておかないと、どうにも締まりがつきません。今週は、直木賞に現われた「別の名前」界のレジェンドのおハナシです。
……とか何とか言いつつも、人によっては「どこがレジェンドなんだ」と怒り出すでしょう。いまでも現役バリバリ、直木賞では選考委員を務めている現存の作家だからです。
有名な人なのでWikipediaにもありますし、何ならそこには「ペンネーム」なる項目まで立っています。よほどこの作家にはペンネームのエピソードが付いてまわる。という意味でもレジェンド級に違いない、と強弁しておくことにします。
ペンネームの変遷はたしかに相当独特です。まず本名がある。シナリオ養成講座に通ったものの、そちらではモノにならず、小説を書いてサンリオロマンス賞に応募したのが昭和59年/1984年です。このとき自ら付けたペンネームがのちのち江戸川乱歩賞をとってよく知られる名前になるんですけど、『熱い水のような砂』(昭和61年/1986年2月)、『真昼のレイン』(同年7月)とサンリオニューロマンスとして出版されたあと、改名を余儀なくされ、〈桐野夏子〉として『夏への扉』(昭和63年/1988年3月)、『夢の中のあなた』(平成1年/1989年1月)と双葉社の双葉レディース文庫で本になります。
しかし、どうやらその名前も本人としては意に沿わず、再びの改名を決断します。付けた名前が〈野原野枝実〉で、これは森茉莉さんの小説『甘い蜜の部屋』(昭和50年/1975年8月・新潮社刊)の登場人物からとられているんだそうです。読み方も原作にあるものを踏襲して「のばら・のえみ」となっています。
何か『甘い蜜の部屋』に強い思い入れがあったわけじゃなく、たまたま小説のなかに出てくる名前をパッと付けた、という説もあります。もうここら辺の理由は、当時の彼女の心境次第で、よそからとやかく推測できるものでもありません。『恋したら危機(クライシス)!』(平成1年/1989年8月・MOE出版/MOE文庫)を皮切りに13冊の小説を〈野原野枝実〉名義で書きました。
ハナシによれば、おのが手で小説を生み出してお金を得る仕事は、自分に合っていそうだ、とこの辺から思い始めたそうです。と同時に、むくむく不満と欲求が募ってきた、と本人の回想に書いてあります。
「ジュニア小説は読者が若いということもあって、どうしても内容に飽き足らなかった。コミックの原作も、空想を自由に遊ばせられるという意味では楽しいが、すべて自分の物ではないという不満足感が伴う。自分が読みたいと思える小説を自由に書いてみたかった。」(平成15年/2003年9月・メディアパル刊『そして、作家になった。 作家デビュー物語II』所収 桐野夏生「自由に書きたい」より)
そうして自分が書きたいものをのびのびと書いた、というのが「冒険の国」と題された原稿で、昭和63年/1988年の第12回すばる文学賞最終候補に残りました。
なるほど、すばる文学賞の締切は昭和63年/1988年4月30日ですので、MOE文庫から〈野原野枝実〉さんの本が出る前です。年譜を見ると、昭和61年/1986年ごろから「ロマンス小説」の依頼が増え、レディース・コミックの森園みるくさんとのコンビもスタートする、とあります。おそらくこれらの仕事が軌道に乗るかなり早い段階から、もっと自由にものが書きたい、という衝動に駆られたんでしょう。自分が書きたいものを書く。それがお金になれば、なお素晴らしい。ほんとにその通りです。
それで平成5年/1993年、江戸川乱歩賞に応募したその原稿で、見事に受賞ということになるんですけど、ここで元々自分が最初につけたペンネームを、もう一回復活させたところに、本人の気概を感じないわけにはいきません。
ジャンルが違う小説で再出発をはかるとき、また別の筆名を付ける、という例は一般によくあることかと思います。直木賞でも、そういうふうに別名義で再デビューした人が、候補になったり受賞したり、ということは決して珍しくありません。
しかし、〈野原野枝実〉さんの場合は違います。サンリオのロマンス小説で活動していた昔の名前を、もう一度、名乗ったわけです。あたしゃ、自分の付けたい名前で自分のやりたいように小説を書いていくのさ。と、言ったかどうかはわかりませんけど、はたから見ている側にしてみれば、何がしかのこだわりを感じないではいられません。
ペンネームの変遷だけでも、作家の覚悟を感じさせてしまう。すでにもうレジェンドです。
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