「市街では戒厳令が敷かれてゐた。」…白井喬二、第2回直木賞の選評より
直木賞の歴史のなかで、伝説の選評、と言われるものはいくつかあります。
まあ直木賞ごときの、たかが数十年の短い歴史で、伝説もへったくれもないんですけど、ほとんどの人が直木賞の受賞者とか、そのきらびやかとかに興味はあっても選評なんかに興味をもたない、と言われつづけて90年。そのなかで多くの人が、好んで引用してきた選評があります。
はじまりもはじまり、第2回(昭和10年/1935年・下半期)のときに白井喬二さんが書いた選評の一節です。
おそらく白井さんがどんな作品を推奨し、どんな姿勢で直木賞に向っていたのか、知っている人はいないと思います。ワタクシも知りません。しかし、第1回(昭和10年/1935年・上半期)~第16回(昭和17年/1942年・下半期)の8年の選考委員生活のなかで、大衆文芸畑だけでなく、純文学……とくに芥川賞に興味をもつような変人たちにまで、なぜか白井さんの選評はたくさん取り上げられてきました。
そして、その一節は、直木賞の候補作・候補者に対する感想や批評とは、まったく関係がないというオマケつきです。選評というのは、選考のことを書いていないほうがよっぽど人に注目されるのだな、と広く世間に知らしめた(?)代表的な一例でもあります。
こんな文章です。
「市街では戒厳令が敷かれてゐた。新聞の號外、ラヂオをとほして刻々の實状を気遣ひながら、直木賞のことがフイフイと頭の中を去来した。彼の楠木正成や大阪落城の中にふんだんに現はれる戒厳令風景――さうした関係かも知れない。」(『文藝春秋』昭和11年/1936年4月号「直木三十五賞経緯」より)
とくに冒頭の二文は、第2回の直木賞が……というより第2回の芥川賞が昭和11年/1936年に起きた二・二六事件の最中に選考会議を開いていた、ということをよりナマナマしく伝えるために引かれたりします。
なぜか。この回の選考経緯のなかで、一度目の会合がまさに二・二六事件が発生した2月26日に開催されたことを伝える文章は、末尾の「委員会小記」にある「第一回芥川・直木賞委員会を、二月二十六日二時よりレインボー・グリルに開く。恰も二・二六事件に遭遇したので、(引用者後略)」うんぬんという箇所以外、白井さんの選後評にしか登場しないからです。
芥川賞のほうで選評を寄せた人は7名います。佐藤春夫さん、久米正雄さん、室生犀星さん、川端康成さん、瀧井孝作さん、小島政二郎さん、佐佐木茂索さん、そのうち誰かが選評内で二・二六に触れていれば、さすがに芥川賞ラバーの諸氏たちも、そちらを引用したと思いますが、誰もそんなことは一言も書いていなったので、しかたなく直木賞のほうの、白井さんの文章を引かざるを得なかったのでしょう。
そんなことでしか注目されない直木賞というのも、悲しい存在ではありますが、直木賞はだいたい昔からそんなもんです。
それはそれとして、白井さんの選評のことです。
昭和11年/1936年2月26日(水)14時から、先のとおり東京市麹町区内幸町の大阪ビル内「レインボー・グリル」というレストランで、直木賞の第1回会合が開かれます。出席者は、直木賞から白井喬二さん、吉川英治さん、両賞かけもちの小島政二郎さん、佐佐木茂索さん、芥川賞から瀧井孝作さん、室生犀星さんの計6人です。
二・二六事件のうち、すでに高橋是清さん、斎藤実さん、渡辺錠太郎さんの自宅が襲われ、首相官邸を一団が占拠し、東京の各所には武装兵がウロウロして、14時ごろには文春=レインボー・グリルのある辺りも相当普段と違う状況だったはずですが、『文藝春秋』同号の「社中日記」で、社員の大草実さんが当日15時まで二・二六事件のことをまったく知らなかった、とイジられているように、委員が集合した段階では、いったいいま何が起きているのか、知る人はいなかったものと思います。まだ戒厳令も敷かれていません。
その日の夜、彼らが解散したあとで、政府のなかですったもんだの議論の末に戒厳令の施行が決められて、明けて27日に施行されます。直木賞の第2回委員会はそれから約1週間後の3月7日(土)16時から、同じくレインボー・グリルで行われ、ここで本格的な議論が交わされました。直木賞の委員は、白井さん、吉川さんの他、大佛次郎さん、菊池寛さん、久米正雄さん、佐佐木、小島の両名の7人出席。欠席は三上於菟吉さんただひとりでした。風邪を引いていたんだそうです。
この議論を通じて、ほとんど鷲尾雨工さんに授賞することが決まったと伝えられています。ただ、芥川賞のほうがどうも揉めたらしく、この日、二つ揃っての授賞発表とはならずに、結局、3月12日(木)になって、直木賞は鷲尾さん、芥川賞は該当者なしと発表されました。白井さんの選評は2回目の会合から発表までの期間に書かれたものと思われます。
3月7日~12日の期間ということは、二・二六事件が起きてから首謀の青年将校たちがぞくぞくと逮捕されてとりあえずの鎮圧を見たのち、ということです。それでもわざわざ、選評をそこから始めるくらいですから、鎮圧されたあとも、二・二六事件は一般生活、あるいはジャーナリズム界隈の人にとって、強く影響を与えていたんだろうな、と思います。
……思うんですけど、それが直木賞の選考に何か影響を及ぼしたのか、と考えると、別にそういうものはなかったようです。直木さんの作品のふしぶしに、戒厳令を想起させるものがあったからといって、鷲尾さんの『吉野朝太平記』を推奨する直接的な要因にはならなかったでしょうし、むろん芥川賞のほうだって、授賞者を出せなかったのは二・二六事件があったせいじゃありません。
いうなれば、直木賞ともう一つの賞にとって、二・二六事件は大した関係がない。ということなんですけど、白井さんがその関係ないことを選評に書かなかったら、(ワタクシを含めて)のちに生まれた者たちが、わざわざ両賞と二・二六を結びつけて文章に書く機会は、かなり減ったに違いありません。白井さんの選評のなかで、後世にまで残る文章が直木賞とは関係ない部分だった、というのは、選評というものの面白さを如実に示しています。
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