堀江林之助…生まれ持っての小児麻痺。それでも単身上京してラジオドラマの世界で(地味に)名を残す。
何週か前に奥村五十嵐さんのことを取り上げました。
直木賞の初期も初期、当時は最終候補に挙がる前にどういうふうに予選が行われたのか、ポロッと書いちゃう委員がいたおかげで、直木賞がどんな作家やどういう作品を、予選のところで対象にし、上に引きあげたり地に落としたりしていたのか、あとの者にも伝わる仕掛けになっています。残念ながら現在は、直木賞の運営をしている人たちの頭の中に、「直木賞のあれこれを後に残そう」という感覚があるようには見えません。おそらく何十年か経って、平成・令和の直木賞の予選に挙がった作家や作品のことを知りたいと思っても、まずほとんどわからないでしょう。悲しいハナシです。
とまあ、いまのことは、どうでもいいんです。今週もうちのブログは、昔むかしの、覚えていようが忘れちゃおうが、どうでもいい直木賞に、ほんの一瞬だけ顔を見せた作家について書いてみようと思います。
第11回(昭和15年/1940年・上半期)、いまから85年も前のとおの昔に、直木賞では何名・何作かの作品が予選の段階で俎上に乗せられたと言われています。
そのなかで、子供の頃から重い持病をもっていたため、学校にもろくに通えず、独学でものを書き始めた人、……ということになれば、その第11回で受賞した堤千代さんがまず名前に上がりますが、もう一人、似たような境遇ながら不屈のブンガク魂で自らの人生を切り開こうとしている36歳の男がいました。第11回の予選時に挙がったその名前は、ペンネームで、いまとなってはまず無名中の無名の名前なんですけど、本名のほうはそれよりかは多少、歴史に残っているものと思われます。〈堀江林之助〉さんです。
なんだよ。だれだ、それ。……と、今回もまた、ついついワタクシはつぶやいてしまいますが、直木賞にとっては大恩ある『サンデー毎日』大衆文芸懸賞の入選者のひとりだそうなので、ここは丁重に紹介させてもらいます。
明治37年/1904年6月、福岡県鞍手郡木屋瀬町の出身。父親は小林儀一さんという人で、何をなりわいとしていたのかは不明ですけど、三男に生まれた〈林之助〉さんは堀江さんちの清光さんのもとに養子に出されます。
〈林之助〉さんは先ほど書いたとおり、生まれつき小児麻痺を患っていて、自分の足で歩くことがままなりません。学校に通ったという履歴もなく、独学で勉学に励みます。
その後、何がどうしたのか、昭和3年/1928年で単身上京、これが24歳ぐらいのときです。不自由なからだで、さぞかし苦労したとは思うんですが、そのあたりのことは、もっとくわしい堀江林之助研究者の手にまかせることにしまして、すでに文学のなかでも詩作に興味があったものらしく、昭和のはじめ頃にはそういった詩の作品がチョロチョロ文献に見られます。
しかしその後〈林之助〉さんは劇作のほうに進みます。昭和12年/1937年に発表した「雲雀」は、〈林之助〉さんが劇作家として界隈で知られるようになった最初期の一作だそうですが、このとき33歳。遅いといえば遅いスタートです。
と同時に、『サンデー毎日』大衆文芸にも投稿を重ねるわけですが、昭和3年/1928年乙種で〈小林林之助〉という人の「落武者」が当選していて、これが〈堀江〉さんのことだそうです。となると、このとき『サン毎』で当選したことが、彼自身の文学で身を立ったるぜ、の心に火をつけ、単身で上京するきっかけになったのかもしれません。
東京に出てきてからも、おそらく何度か投稿したものでしょう。そのうち、「燃ゆるボタ山」が昭和13年/1938年上期で選外佳作、「男衆藤太郎」が昭和15年/1940年上期でついに当選を果たします。〈林之助〉さんが唯一、ほんのちょっとだけ直木賞と交わったのが、この「男衆藤太郎」が直木賞予選の作品に入っていたことで、その後、いくつか大衆小説は書きましたが、むしろ〈林之助〉さんが活躍したのはラジオドラマの脚本の分野でした。
ラジオドラマ。いまでもあります。しかし、大正から昭和の半ばごろまで、ラジオドラマと大衆文芸は、仲のいい兄弟のように密接・密着した世界だったと言われます。〈林之助〉さんは小説も書き、演劇のほうも手がけますが、何といっても数百を数えたと言われるラジオドラマの書き手として、一時代を担ったそうです。不屈の〈林之助〉、活躍の場があってよかったです。
ちなみに、活躍していた頃の『人事興信録』にはこんな文章があります。
「昭和三年単身上京爾来小説劇作其他主としてユーモラスなる筆致にてヒユマーンなるものを底流せしめ地味な存在を保ち殊に近年は民話劇の分野に一風を拓き昭和二十八年度芸術祭に於ける放送劇「昔話源五郎」は文相より奨励賞を受く」(昭和30年/1955年9月・人事興信所刊『人事興信録 第十八版 下』「堀江林之助」の項より)
こんなもの、だいたい自分で書くものだと思うので、おそらく〈林之助〉さん本人による自分評でしょう。「ヒユマーンなるものを底流せしめ」と、自分で自分の作品を解説するのもこっ恥かしかったんじゃないかと想像しますが、「地味な存在を保ち」、この表現にはハタと膝を打ちました。
偉い、偉いぞ、〈林之助〉。自分が地味な存在だということを自覚していたなんて。直木賞にはまるでその足跡は残せなかった人ですけど、むくむく好きになりました。
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