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2025年5月の5件の記事

2025年5月25日 (日)

「市街では戒厳令が敷かれてゐた。」…白井喬二、第2回直木賞の選評より

 直木賞の歴史のなかで、伝説の選評、と言われるものはいくつかあります。

 まあ直木賞ごときの、たかが数十年の短い歴史で、伝説もへったくれもないんですけど、ほとんどの人が直木賞の受賞者とか、そのきらびやかとかに興味はあっても選評なんかに興味をもたない、と言われつづけて90年。そのなかで多くの人が、好んで引用してきた選評があります。

 はじまりもはじまり、第2回(昭和10年/1935年・下半期)のときに白井喬二さんが書いた選評の一節です。

 おそらく白井さんがどんな作品を推奨し、どんな姿勢で直木賞に向っていたのか、知っている人はいないと思います。ワタクシも知りません。しかし、第1回(昭和10年/1935年・上半期)~第16回(昭和17年/1942年・下半期)の8年の選考委員生活のなかで、大衆文芸畑だけでなく、純文学……とくに芥川賞に興味をもつような変人たちにまで、なぜか白井さんの選評はたくさん取り上げられてきました。

 そして、その一節は、直木賞の候補作・候補者に対する感想や批評とは、まったく関係がないというオマケつきです。選評というのは、選考のことを書いていないほうがよっぽど人に注目されるのだな、と広く世間に知らしめた(?)代表的な一例でもあります。

 こんな文章です。

「市街では戒厳令が敷かれてゐた。新聞の號外、ラヂオをとほして刻々の實状を気遣ひながら、直木賞のことがフイフイと頭の中を去来した。彼の楠木正成や大阪落城の中にふんだんに現はれる戒厳令風景――さうした関係かも知れない。」(『文藝春秋』昭和11年/1936年4月号「直木三十五賞経緯」より)

 とくに冒頭の二文は、第2回の直木賞が……というより第2回の芥川賞が昭和11年/1936年に起きた二・二六事件の最中に選考会議を開いていた、ということをよりナマナマしく伝えるために引かれたりします。

 なぜか。この回の選考経緯のなかで、一度目の会合がまさに二・二六事件が発生した2月26日に開催されたことを伝える文章は、末尾の「委員会小記」にある「第一回芥川・直木賞委員会を、二月二十六日二時よりレインボー・グリルに開く。恰も二・二六事件に遭遇したので、(引用者後略)」うんぬんという箇所以外、白井さんの選後評にしか登場しないからです。

 芥川賞のほうで選評を寄せた人は7名います。佐藤春夫さん、久米正雄さん、室生犀星さん、川端康成さん、瀧井孝作さん、小島政二郎さん、佐佐木茂索さん、そのうち誰かが選評内で二・二六に触れていれば、さすがに芥川賞ラバーの諸氏たちも、そちらを引用したと思いますが、誰もそんなことは一言も書いていなったので、しかたなく直木賞のほうの、白井さんの文章を引かざるを得なかったのでしょう。

 そんなことでしか注目されない直木賞というのも、悲しい存在ではありますが、直木賞はだいたい昔からそんなもんです。

 それはそれとして、白井さんの選評のことです。

 昭和11年/1936年2月26日(水)14時から、先のとおり東京市麹町区内幸町の大阪ビル内「レインボー・グリル」というレストランで、直木賞の第1回会合が開かれます。出席者は、直木賞から白井喬二さん、吉川英治さん、両賞かけもちの小島政二郎さん、佐佐木茂索さん、芥川賞から瀧井孝作さん、室生犀星さんの計6人です。

 二・二六事件のうち、すでに高橋是清さん、斎藤実さん、渡辺錠太郎さんの自宅が襲われ、首相官邸を一団が占拠し、東京の各所には武装兵がウロウロして、14時ごろには文春=レインボー・グリルのある辺りも相当普段と違う状況だったはずですが、『文藝春秋』同号の「社中日記」で、社員の大草実さんが当日15時まで二・二六事件のことをまったく知らなかった、とイジられているように、委員が集合した段階では、いったいいま何が起きているのか、知る人はいなかったものと思います。まだ戒厳令も敷かれていません。

 その日の夜、彼らが解散したあとで、政府のなかですったもんだの議論の末に戒厳令の施行が決められて、明けて27日に施行されます。直木賞の第2回委員会はそれから約1週間後の3月7日(土)16時から、同じくレインボー・グリルで行われ、ここで本格的な議論が交わされました。直木賞の委員は、白井さん、吉川さんの他、大佛次郎さん、菊池寛さん、久米正雄さん、佐佐木、小島の両名の7人出席。欠席は三上於菟吉さんただひとりでした。風邪を引いていたんだそうです。

 この議論を通じて、ほとんど鷲尾雨工さんに授賞することが決まったと伝えられています。ただ、芥川賞のほうがどうも揉めたらしく、この日、二つ揃っての授賞発表とはならずに、結局、3月12日(木)になって、直木賞は鷲尾さん、芥川賞は該当者なしと発表されました。白井さんの選評は2回目の会合から発表までの期間に書かれたものと思われます。

 3月7日~12日の期間ということは、二・二六事件が起きてから首謀の青年将校たちがぞくぞくと逮捕されてとりあえずの鎮圧を見たのち、ということです。それでもわざわざ、選評をそこから始めるくらいですから、鎮圧されたあとも、二・二六事件は一般生活、あるいはジャーナリズム界隈の人にとって、強く影響を与えていたんだろうな、と思います。

 ……思うんですけど、それが直木賞の選考に何か影響を及ぼしたのか、と考えると、別にそういうものはなかったようです。直木さんの作品のふしぶしに、戒厳令を想起させるものがあったからといって、鷲尾さんの『吉野朝太平記』を推奨する直接的な要因にはならなかったでしょうし、むろん芥川賞のほうだって、授賞者を出せなかったのは二・二六事件があったせいじゃありません。

 いうなれば、直木賞ともう一つの賞にとって、二・二六事件は大した関係がない。ということなんですけど、白井さんがその関係ないことを選評に書かなかったら、(ワタクシを含めて)のちに生まれた者たちが、わざわざ両賞と二・二六を結びつけて文章に書く機会は、かなり減ったに違いありません。白井さんの選評のなかで、後世にまで残る文章が直木賞とは関係ない部分だった、というのは、選評というものの面白さを如実に示しています。

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第19期のテーマは「選考とは関係のない直木賞選評」。作品を評価するばかりが選評じゃないぜ、と世に知らしめた文章を取り上げてみます。

 このブログを始めたのは平成19年/2007年5月6日です。それから18年が経ちました。

 どうしてブログなんか始めようと思ったのか。すでにそのとき「直木賞のすべて」というサイトをつくって7年ほど経っていましたが、毎日毎日データベースをつくっていても、直木賞については知らないことがたくさんある。もっと直木賞のことを調べていこう、調べるだけだと忘れる一方でなので、少しずつ書き残しておこうと思い立った……んだと思います。正直ブログを始めた理由なんか、まったく覚えていません。

 で、一週に一回ずつ書きつづけ、直木賞が決まる前後には追加のエントリーをアップなどしたりして、こないだ記事数が1000本を超えました。18年で1000本。うーん、これだけやっても、直木賞について詳しくなったという実感が全然わきません。ほんとに無駄な時間を過ごしてきたな、と思います。

 いやまあ、そんなことはどうでもいいんです。全人類にとって無駄であっても、ワタクシひとりが楽しく過ごせればそれでいい。……ということで、この5月からまたテーマを変えて、どこかで直木賞と結びつくハナシを書いていきたいと思います。

 令和7年/2025~令和8年/2026年の一年間は、改めて直木賞の選評を読み直してみることにしました。

 直木賞には毎回、選評が書かれます。文学賞と呼ばれるものの選評のなかで、最も面白い部分はどこでしょうか。それは、候補になっている作品とか作家とかにはあまり関係ないことが書かれているところです。

 誰の、どの作品が、どういうふうによくて、どういうふうに悪いのか。自分はそれに対してどう感じ、どんな評価を下したのか。選考委員たちの意見をうかがい知るのが、選評を読む楽しみなのはたしかですけど、実際には、そういうハナシとは関係がない、選者のエッセイふうな、あるいは詩的な、あるいは単なる無駄バナシのような部分が、直木賞の選評には数多く記されてきました。

 それをいまさら取り上げたところで、何ひとつ文学に資するものはありません。無駄中の無駄です。しかし、そういう選評に出会うとワクワクしちゃう自分もいます。ええい、文学なんて知ったことか。おれは直木賞の全体、細部、そのすべてが楽しいんだ。ということで、これから一年間、過去の選評のなかから、選考とはまず結びつかなそうな箇所をピックアップしていくことにしました。

 まず最初は、ずっとさかのぼって直木賞が始まったころ。誰も直木賞の選評なんて夢中になって読む奴はいない、と当時ですら言われていたときに書かれ、しかしその後「伝説的な選評」にまで格上げされてしまった、一人の選考委員の選評から始めます。

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2025年5月18日 (日)

清水正二郎…直木賞から声がかからず、エロ小説の帝王になったところで、改名という大勝負に打って出る。

 いつまでやってもラチが明きません。まあ、こんなブログは始めたときから、絶対にラチが明かないことが確定している、と言えばそうなんですけど、「直木賞と別の名前」のテーマもだらだらやって一年間。今週で終わりにしたいと思います。

 で、せっかく最後なので、パーっと陽気に行きたいな、と思うんですけど、直木賞の歴史に現われた作家で、明るくて華があって、しかも別の名前での活動も目覚ましかった……となると、どうしてもこの人を取り上げたくなるのは自然でしょう。〈清水正二郎〉さんです。

 困ったときのシミショウ頼み、うちのブログではもう何度も何度も、しつこいほどに登場願いました。似たようなハナシをこすりすぎて、別に新たに書けるような情報もないんですけど、直木賞を受賞したときの名前がある、それとは違う別の名前もスゴい、という対比の面でも、シミショウさんの例は明らかに直木賞史に残る代表的なエピソードです。いいかげん、この人ばかりに頼りっきりで申し訳ないんですが、やはり取り上げないわけにはいきません。

 戦争中にはいわゆる外地で時を過ごし、終戦とともにひっとらえられて、苦しい苦しい抑留生活を送ったあと、昭和22年/1947年に命からがら復員すると、くそーっ、この経験を無駄にしてなるものか、という生来の負けん気だましいを発揮して、吉村隊事件、いわゆる「暁に祈る事件」の証言者として突如として世に出ます。

 何といってもシミショウさんには、現実のことがらにゴテゴテと脚色を乗っける、嘘つきの才能、というか物語を語る力がありました。さんざんツラい思いをしてきたけれど、男一匹、腕二本、文章を書いて名を上げんと、小説の世界に飛び込んで、昭和30年/1955年下期、30歳のときに「壮士再び帰らず」で第7回オール新人杯を受賞。懸賞のひとつでもとってなきゃ参加資格がない、とも言われた大衆文芸の同人雑誌『近代説話』の創刊同人のひとりとして名を連ね、以来、直木賞、直木賞、おれは直木賞をとるんだ、とウワゴトのように繰り返しながら、ぶんぶんとペンを走らせます。

 ただ、これと合わせて、シミショウさんは作家としての顔以外に、有名なふれこみで知られるようになります。源氏鶏太さんの「精力絶倫物語」のモデルとなった、要は一日に何度も女性と交わらないと生きられない、セックス・シンボル(といっていいのか)としての一面です。

 書く作品がよかったのなら、そういう悪目立ちする枝葉の部分は、直木賞とれる・とれない、とはあまり関係なかったかもしれません。ただ、シミショウさんは運がいいことに……いや、運が悪いことに、同じ『近代説話』同人がぞくぞくと直木賞の候補になって、落とされたり受賞したりいるなかで、まるでその戦線からは蚊帳の外に置かれてしまいます。なぜこの時期、シミショウさんが一度も候補に挙げられなかったのか。正直、理由は不明です。

 それでも人間、ペン一本で食っていくと決めたからには、注文があれば読者を楽しませるために何でも書くぞと鼻息荒く、とくに多くの人に喜ばれるエロティックな方向性に無類の文才がギラギラときらめき、書くは書くはの大回転、昭和44年/1969年までの10数年で、およそ500冊はエロの本を書きまくった……と言われます。だれもその数を正確に数えた人はいないはずですけど、少なくとも100冊、200冊は確実に出版されていたようです。

 ところがこのままで満足するようなタマではありません。安定した物書き稼業じゃなく、おれが欲しいのは、もっと別のことなんだ、と思いを決めると、それまでのシミショウ・ワールドをバッサリ封印。世界を放浪する旅に出て、その成果を古巣の『オール讀物』に持ち込んで採用されたのが昭和52年/1977年1月号の「父ちゃんバイク」。このとき、まったく生まれ変わったことを知らしめるために、別のペンネームを使い始めます。

 名前を変えたことがよかったのか。変えなくても同じだったのか。こればっかりはたしかなことは言えません。すべては作品本位で、誰がどんな状況で、どこの出版社から発表したものか、なんてハナシは文学性とは関係がないですし、直木賞の候補になるかならないか、とるかとらないかは、そんな卑俗なことに左右されるはずがないじゃないか!

 ……と言い切れる人は、まずこの世の中にはいないでしょう。少なくともワタクシは言えません。シミショウさんが再起を計った作品集『旅人よ』(昭和56年/1981年5月・光風社出版刊)のうちの、二つの短篇で、あれほど恋焦がれて手の届かなかった「直木賞候補」に選ばれてしまったのは、結局のところ、人と人との縁の大切さ、あるいは直木賞ならではの話題づくり、といった風合いを感じないではいられません。

 というのも、はじめてシミショウさんが直木賞の候補になった第85回(昭和56年/1981年・上半期)、タレント議員、青島幸男さんの候補入りと受賞、という多くのマスコミが沸き返ったこの回ですら、シミショウさんが候補になったこともそれに並ぶ(?)話題だった、と言っている人がいるからです。

「今回第八十五回直木賞の選考過程で浮上した胡桃沢耕史氏(56)は、かつて“絶倫作家”の異名をとりエロ本五百冊をもとにした清水正二郎氏の生まれかわりなのだ。

胡桃沢耕史氏の「ロン・コン〈母の河(メコン)〉で唄え」は最後まで競り合い、結局、青島幸男氏に決まった。「しょうがねェや」という無念の“シミショウ”こと清水正二郎氏だが新しいペンネーム、胡桃沢耕史氏に大変身するまでは苦節の歳月があった。

(引用者中略)

『近代説話』時代からの友人・寺内大吉氏はいう。

「(引用者中略)これからは胡桃沢耕史を含めてシミショウであり、シミショウを含めて胡桃沢なんでね。その全体が評価されていくと思いますよ」」(『週刊ポスト』昭和56年/1981年7月31日号「直木賞もう一つの話題、胡桃沢耕史氏の変身譚」より)

 まるで直木賞には遠いと思われたセクシーの帝王シミショウが、ほんとに名前を変えたことで直木賞に振り向いてもらえたのなら、それはそれでハナシとしては面白いです。小説だけでなく生き方そのものでも人を楽しませようとしたシミショウさんが、一世一代の大勝負に打って出た改名劇。もし最終的にそれが失敗したら、それはそれでシミショウさんは暴れ回って話題をさらに振りまいたでしょう。でも、うまく行ってよかったなと思います。

          ○

 まあ、こんなブログを書いていても全然ラチが明きません。

 どうせラチが明かないのなら、ワタクシは直木賞のことを考えつづけて人生を終えたい。ということで、来週からはまた違ったテーマで、直木賞に多少なりとつながりそうなことを書いていきたいと思います。

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2025年5月11日 (日)

野原野枝実…二度の改名を経て、最初にロマンス小説でデビューしたときのペンネームに、あえて戻してみせる。

 「直木賞と別の名前」とテーマを決めて一年間書いてきました。相変らず、ぜんぜん直木賞と関係ないじゃん、みたいなハナシばかりですし、ネタも枯れ果ててきたので、このテーマもあと少しで終わろうと思います。

 で、終わる前に、やっぱりレジェンド級の人を取り上げておかないと、どうにも締まりがつきません。今週は、直木賞に現われた「別の名前」界のレジェンドのおハナシです。

 ……とか何とか言いつつも、人によっては「どこがレジェンドなんだ」と怒り出すでしょう。いまでも現役バリバリ、直木賞では選考委員を務めている現存の作家だからです。

 有名な人なのでWikipediaにもありますし、何ならそこには「ペンネーム」なる項目まで立っています。よほどこの作家にはペンネームのエピソードが付いてまわる。という意味でもレジェンド級に違いない、と強弁しておくことにします。

 ペンネームの変遷はたしかに相当独特です。まず本名がある。シナリオ養成講座に通ったものの、そちらではモノにならず、小説を書いてサンリオロマンス賞に応募したのが昭和59年/1984年です。このとき自ら付けたペンネームがのちのち江戸川乱歩賞をとってよく知られる名前になるんですけど、『熱い水のような砂』(昭和61年/1986年2月)、『真昼のレイン』(同年7月)とサンリオニューロマンスとして出版されたあと、改名を余儀なくされ、〈桐野夏子〉として『夏への扉』(昭和63年/1988年3月)、『夢の中のあなた』(平成1年/1989年1月)と双葉社の双葉レディース文庫で本になります。

 しかし、どうやらその名前も本人としては意に沿わず、再びの改名を決断します。付けた名前が〈野原野枝実〉で、これは森茉莉さんの小説『甘い蜜の部屋』(昭和50年/1975年8月・新潮社刊)の登場人物からとられているんだそうです。読み方も原作にあるものを踏襲して「のばら・のえみ」となっています。

 何か『甘い蜜の部屋』に強い思い入れがあったわけじゃなく、たまたま小説のなかに出てくる名前をパッと付けた、という説もあります。もうここら辺の理由は、当時の彼女の心境次第で、よそからとやかく推測できるものでもありません。『恋したら危機(クライシス)!』(平成1年/1989年8月・MOE出版/MOE文庫)を皮切りに13冊の小説を〈野原野枝実〉名義で書きました。

 ハナシによれば、おのが手で小説を生み出してお金を得る仕事は、自分に合っていそうだ、とこの辺から思い始めたそうです。と同時に、むくむく不満と欲求が募ってきた、と本人の回想に書いてあります。

「ジュニア小説は読者が若いということもあって、どうしても内容に飽き足らなかった。コミックの原作も、空想を自由に遊ばせられるという意味では楽しいが、すべて自分の物ではないという不満足感が伴う。自分が読みたいと思える小説を自由に書いてみたかった。」(平成15年/2003年9月・メディアパル刊『そして、作家になった。 作家デビュー物語II』所収 桐野夏生「自由に書きたい」より)

 そうして自分が書きたいものをのびのびと書いた、というのが「冒険の国」と題された原稿で、昭和63年/1988年の第12回すばる文学賞最終候補に残りました。

 なるほど、すばる文学賞の締切は昭和63年/1988年4月30日ですので、MOE文庫から〈野原野枝実〉さんの本が出る前です。年譜を見ると、昭和61年/1986年ごろから「ロマンス小説」の依頼が増え、レディース・コミックの森園みるくさんとのコンビもスタートする、とあります。おそらくこれらの仕事が軌道に乗るかなり早い段階から、もっと自由にものが書きたい、という衝動に駆られたんでしょう。自分が書きたいものを書く。それがお金になれば、なお素晴らしい。ほんとにその通りです。

 それで平成5年/1993年、江戸川乱歩賞に応募したその原稿で、見事に受賞ということになるんですけど、ここで元々自分が最初につけたペンネームを、もう一回復活させたところに、本人の気概を感じないわけにはいきません。

 ジャンルが違う小説で再出発をはかるとき、また別の筆名を付ける、という例は一般によくあることかと思います。直木賞でも、そういうふうに別名義で再デビューした人が、候補になったり受賞したり、ということは決して珍しくありません。

 しかし、〈野原野枝実〉さんの場合は違います。サンリオのロマンス小説で活動していた昔の名前を、もう一度、名乗ったわけです。あたしゃ、自分の付けたい名前で自分のやりたいように小説を書いていくのさ。と、言ったかどうかはわかりませんけど、はたから見ている側にしてみれば、何がしかのこだわりを感じないではいられません。

 ペンネームの変遷だけでも、作家の覚悟を感じさせてしまう。すでにもうレジェンドです。

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2025年5月 4日 (日)

堀江林之助…生まれ持っての小児麻痺。それでも単身上京してラジオドラマの世界で(地味に)名を残す。

 何週か前に奥村五十嵐さんのことを取り上げました。

 直木賞の初期も初期、当時は最終候補に挙がる前にどういうふうに予選が行われたのか、ポロッと書いちゃう委員がいたおかげで、直木賞がどんな作家やどういう作品を、予選のところで対象にし、上に引きあげたり地に落としたりしていたのか、あとの者にも伝わる仕掛けになっています。残念ながら現在は、直木賞の運営をしている人たちの頭の中に、「直木賞のあれこれを後に残そう」という感覚があるようには見えません。おそらく何十年か経って、平成・令和の直木賞の予選に挙がった作家や作品のことを知りたいと思っても、まずほとんどわからないでしょう。悲しいハナシです。

 とまあ、いまのことは、どうでもいいんです。今週もうちのブログは、昔むかしの、覚えていようが忘れちゃおうが、どうでもいい直木賞に、ほんの一瞬だけ顔を見せた作家について書いてみようと思います。

 第11回(昭和15年/1940年・上半期)、いまから85年も前のとおの昔に、直木賞では何名・何作かの作品が予選の段階で俎上に乗せられたと言われています。

 そのなかで、子供の頃から重い持病をもっていたため、学校にもろくに通えず、独学でものを書き始めた人、……ということになれば、その第11回で受賞した堤千代さんがまず名前に上がりますが、もう一人、似たような境遇ながら不屈のブンガク魂で自らの人生を切り開こうとしている36歳の男がいました。第11回の予選時に挙がったその名前は、ペンネームで、いまとなってはまず無名中の無名の名前なんですけど、本名のほうはそれよりかは多少、歴史に残っているものと思われます。〈堀江林之助〉さんです。

 なんだよ。だれだ、それ。……と、今回もまた、ついついワタクシはつぶやいてしまいますが、直木賞にとっては大恩ある『サンデー毎日』大衆文芸懸賞の入選者のひとりだそうなので、ここは丁重に紹介させてもらいます。

 明治37年/1904年6月、福岡県鞍手郡木屋瀬町の出身。父親は小林儀一さんという人で、何をなりわいとしていたのかは不明ですけど、三男に生まれた〈林之助〉さんは堀江さんちの清光さんのもとに養子に出されます。

 〈林之助〉さんは先ほど書いたとおり、生まれつき小児麻痺を患っていて、自分の足で歩くことがままなりません。学校に通ったという履歴もなく、独学で勉学に励みます。

 その後、何がどうしたのか、昭和3年/1928年で単身上京、これが24歳ぐらいのときです。不自由なからだで、さぞかし苦労したとは思うんですが、そのあたりのことは、もっとくわしい堀江林之助研究者の手にまかせることにしまして、すでに文学のなかでも詩作に興味があったものらしく、昭和のはじめ頃にはそういった詩の作品がチョロチョロ文献に見られます。

 しかしその後〈林之助〉さんは劇作のほうに進みます。昭和12年/1937年に発表した「雲雀」は、〈林之助〉さんが劇作家として界隈で知られるようになった最初期の一作だそうですが、このとき33歳。遅いといえば遅いスタートです。

 と同時に、『サンデー毎日』大衆文芸にも投稿を重ねるわけですが、昭和3年/1928年乙種で〈小林林之助〉という人の「落武者」が当選していて、これが〈堀江〉さんのことだそうです。となると、このとき『サン毎』で当選したことが、彼自身の文学で身を立ったるぜ、の心に火をつけ、単身で上京するきっかけになったのかもしれません。

 東京に出てきてからも、おそらく何度か投稿したものでしょう。そのうち、「燃ゆるボタ山」が昭和13年/1938年上期で選外佳作、「男衆藤太郎」が昭和15年/1940年上期でついに当選を果たします。〈林之助〉さんが唯一、ほんのちょっとだけ直木賞と交わったのが、この「男衆藤太郎」が直木賞予選の作品に入っていたことで、その後、いくつか大衆小説は書きましたが、むしろ〈林之助〉さんが活躍したのはラジオドラマの脚本の分野でした。

 ラジオドラマ。いまでもあります。しかし、大正から昭和の半ばごろまで、ラジオドラマと大衆文芸は、仲のいい兄弟のように密接・密着した世界だったと言われます。〈林之助〉さんは小説も書き、演劇のほうも手がけますが、何といっても数百を数えたと言われるラジオドラマの書き手として、一時代を担ったそうです。不屈の〈林之助〉、活躍の場があってよかったです。

 ちなみに、活躍していた頃の『人事興信録』にはこんな文章があります。

「昭和三年単身上京爾来小説劇作其他主としてユーモラスなる筆致にてヒユマーンなるものを底流せしめ地味な存在を保ち殊に近年は民話劇の分野に一風を拓き昭和二十八年度芸術祭に於ける放送劇「昔話源五郎」は文相より奨励賞を受く」(昭和30年/1955年9月・人事興信所刊『人事興信録 第十八版 下』「堀江林之助」の項より)

 こんなもの、だいたい自分で書くものだと思うので、おそらく〈林之助〉さん本人による自分評でしょう。「ヒユマーンなるものを底流せしめ」と、自分で自分の作品を解説するのもこっ恥かしかったんじゃないかと想像しますが、「地味な存在を保ち」、この表現にはハタと膝を打ちました。

 偉い、偉いぞ、〈林之助〉。自分が地味な存在だということを自覚していたなんて。直木賞にはまるでその足跡は残せなかった人ですけど、むくむく好きになりました。

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