木村外吉…小説を書いて評価された直後に、脳出血で人事不省に陥る。
今週は本屋大賞ウイークです。
とはいえ、本屋大賞メインでブログを書けるほど、ワタクシも深く知っているわけじゃありません。それはそれ、これはこれと割り切って、今週も、この時期になるとほとんど話題にあがらない直木賞のハナシで押し切ろうと思います。
今回取り上げるのは〈木村外吉〉さんです。誰でしょうか。本名です。有名なのか無名なのか、そんなことは知ったこっちゃありませんが、第44回(昭和35年/1960年・下半期)といいますからいまから半世紀以上も前に、一回こっきり直木賞の候補に挙がりました。
そのときはペンネームを使って小説を書いていました。うちのブログもこれまで長くやってきましたが、あまり〈木村〉さんのことに触れたことはありません。古い人について書こうとすると、不勉強モノにはハードルが高く、何を書くにしてもわからないことだらけです。〈木村〉さんについても、その作家的な履歴はまだまだ研究の余地が残っています。
とか何とか言い訳しながら、ざっと生涯をなぞってみます。生まれは大正2年/1913年4月20日。石川県金沢市の出身です。富山師範学校に通って卒業したのが昭和9年/1934年のこと。富山県で教員の職に従事します。
何に対してどういう興味を持ちながら20代の日々を送っていたのか。それはもう、詳しいことは不明なんですが、昭和14年/1939年に発表された朝日新聞社主催、大蔵省後援の国民貯蓄奨励脚本募集という、劇化・映像化を前提とした懸賞に、西礪波郡醍醐村尋常小学校に勤めるかたわら応募してみたところ、見事に入選を勝ち取ります。「恩愛遮断機」という作品で、じっさい映画化もされたみたいです。
日本の戦時下、富山の土地の学校の先生としてどんなふうに日々を送っていたのか、それもまた詳細はわかりません。ともかく日本はドカンと攻め込み、ドカンとやられ、昭和20年/1945年8月には降伏を受諾。〈木村外吉〉32歳、まだまだ人生はこれからだ、と空を仰いだか涙に暮れたか、その年の9月にはさっぱりと教職の道を捨て、まるで違う種類の職場に転職を果たします。北日本新聞社という地方新聞社でした。すでに愛妻〈かの〉さんと二人の女児を抱える身の上で、生活のためもあったかもしれません。わかりません。
ともかく新聞記者となってあわただしい戦後の日本を生き抜くうちに、さらに二人の子供が生まれ、一家六人、愛する家族たちを養うために、お父さんは働きます。北日本新聞のなかでも順調に出世して、西礪波支局長に就任。
その間、かつて脚本募集で入選してから文学に対する情熱もからだのなかに充満させ、小説なんてものを書いているうちに、当時、大衆読み物の懸賞ではまあまあ知名度もあった講談倶楽部賞に応募を重ねると、昭和31年/1956年「遠火の馬子唄」が入選作に選ばれます。同時に受賞した〈福田定一〉さんは奇しくも関西の産経新聞で働く同業者で、新聞記者が小説を書くのも珍しくないこの時代を象徴するかのような受賞風景でした。
人生の歯車がうまく回りはじめた。と思われたちょうどその直後、〈木村〉さんの身に想定外の不運が襲います。ある冬の日、突然、脳出血に見舞われて入院さわぎ。その影響でいっとき、生死をさまよい、言葉も出ず、ものもわからず、休職しなければならなくなったのです。
のちに書かれた〈木村〉さんの経歴紹介文にこうあります。
「(引用者注:昭和)三十六年一月、同人雑誌「小説会議」に発表した「妖盗蟇」が第四十四回直木賞候補に指名された。各紙記者が予定稿出稿のためインタビューを申し入れてくるほどの有力候補であったが、ギリギリのところで選にもれた。これを機に闘志をかきたて創作に専念した。二年後に小説集「天平のむらさき」を東方社から出版し、高い評価を受けた。東京へ出て本格的に作家活動を展開しようともくろんだ矢先、過労から脳卒中で倒れた。以後、創作活動にブレーキがかかった。」(昭和59年/1984年10月・北日本新聞社刊『富山県民とともに 北日本新聞百年史』より)
第44回直木賞は寺内大吉さんと黒岩重吾さんが受賞した回ですが、たしかに〈木村〉さんの候補作を源氏鶏太さんは推奨したものの、有力候補だったという形跡はなく、また当落ギリギリだったかどうかも眉ツバです。
と、それはそれとして、気にかかるのは出来事を並べる順番です。この紹介文だと、いかにも脳卒中で倒れたのは、直木賞候補になったり『天平のむらさき』(昭和39年/1964年1月・東方社刊)を出したりしたあと、と読めますが、〈木村〉さんが本名で出した『ノイローゼを脱け出て』(昭和53年/1978年6月・柏樹社刊)の記述などをたどっていくと、どうやら〈木村〉さんが倒れたのは昭和32年/1957年冬。つまりは直木賞の候補になる前のことだったはずです。
どうしてこんなことになったのか。〈木村〉さんの小説がその後、全国的に注目される機会がなかったことを、病気で倒れたせいにしたかったのか、書いた人の感情はわかりません。
むしろ、講談倶楽部賞をとってさあこれからだ、というときに病に倒れ、強いノイローゼにかかり、不安や自己憐憫などから一時は自殺も考えたほどだったのに、そこから再起して小説に戻った結果、直木賞の候補に挙がるまでになった……としたほうが、ぐっと感動する人も多そうな気がします。少なくとも、〈木村〉さんが直木賞候補になった前後のことを調べていて、ワタクシ自身は、ぐっと来ました。よくぞ人生あきらめずに立ち直ったなと。
直木賞をとる、とらない以前に、やっぱ人間は生きていてこそのものです。
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