らもん…27歳の青年が、ふと自費でつくった作品集の、直木賞とのつながり。
人は誰しも若いころには、文章を書いたり絵を描いたりして自分で本をつくったことがあるものです。
勝手なこと言うな、そんな経験おれにはないぞ、という方もいるでしょう。ないならないで、それは平和なことですが、ハナシが続かなくなるので、多くの人はそういうことをやっている、として許してもらいたいと思います。
まあ相変わらず、だんだん直木賞とは関係のない領域に入ってきましたけど、今週取り上げる例も、ほとんど直木賞とは接点がありません。第106回(平成3年/1991年・下半期)、いまから30年以上前に『人体模型の夜』ではじめて直木賞の候補に挙げられると、第109回『ガダラの豚』、第112回『永遠も半ばを過ぎて』がちょうど1年半ごとに予選を通過。しかし直木賞はいつだって時の運で、受賞させることはかなわなかったものの、それでもメディアで大人気の書き手だったので、数多くの仕事と伝説を残し、「直木賞があげることのできなかった人気作家」の一角を占めるに至り、没後なお人々の心をひきつけている……というのが今週の主役です。
本名は本名で〈裕之〉(ゆうし)という名前を持ちながら、一般的には、かなり印象的なペンネームのほうで知られています。知られていますというか、ワタクシだって、そのペンネームでのお仕事しか知りません。
で、ものの本によれば、平仮名二文字の、そのペンネームの名前のほうは、もともとは最後に〈ん〉の文字が付いていたそうです。元に別のペンネームがあった、ということでは、「別の名前で活動した人」リストに加えてもいいんじゃないかと思い、取り上げてみることにしました。
昭和50年/1975年、大阪芸術大学に通っていたときに学生結婚、翌年、働き手でもあった妻が妊娠して、大学を卒業した〈裕之〉さんは印刷会社の「大津屋」で働きはじめます。そこで働いたのは昭和55年/1980年までだったようなので、都合4年ほどに過ぎませんが、そこからコピーライター養成講座に通って広告の世界に目標を向けると、昭和56年/1981年に広告代理店の「日広エージェンシー」に入社、昭和57年/1982年には『宝島』誌に掲載のかねてつ食品の広告ページを担当するようになって「啓蒙かまぼこ新聞」なる誌面を展開。このときペンネームを、本名の苗字と、〈らもん〉から〈ん〉をとったものを組み合わせて使い始めた、ということでそこから数々の伝説が生まれていきます。
ということで、〈裕之〉さんが〈らもん〉という名前を使ったのは、期間にして2、3年ほどだったみたいです。この名前の由来は、無声映画時代の剣戟スタア〈羅門光三郎〉からとったと言われていますが、よほど本人がこの役者に思い入れがあったのか、あるいは単なる思いつきだったのか。おそらく後者だと思いますけど、その辺はよくわかりません。
何といっても羅門光三郎といえば、直木三十五さんの代表作『南国太平記』が映画化されたときに、主役の一人に立てられ、大ヒットを飛ばした人物です。当時の大衆文芸は映画という大衆娯楽のおかげでさらに活字文化として勢いを増した、という面は否定できません。そう考えると羅門さんは直木さんにとっても縁があるどころか恩人には違いなく、そこから名前を拝借するとは、なかなかの慧眼だと言えなくもありません。まあ、〈裕之〉さんがそんなことまで意識していたとは思えませんけど。
〈らもん〉名義でどんな活動をしていたのか。おそらく唯一といっていい発表物が、昭和54年/1979年に自費出版の態で100部ほどつくられた『全ての聖夜の鎖』です。平成26年/2014年7月に復刊ドットコムから新装版として復刊されたおかげで、ワタクシみたいな一般人でも手軽に(?)手にすることができるようになりました。ありがとう、復刊ドットコム。
中身を読んでみると、三つの短編(掌編)が収められています。いずれも詩的で、幻想的で、それでいて現実の世界が基盤になっていて、どこかの同人雑誌とかではよく載っているような、あるいは文学フリマとかに行けばいまでも売っている人がいそうな、イタイタしさと才能をまぜこぜにしたような作品集です。のちのこの作家の業績を見る上では、間違いなく必読の処女作と言っていいでしょう。
この〈らもん〉による『全ての聖夜の鎖』は、いまから見ると奇跡的な出版物です。別に自分でもの書きになろうとも何とも思っていなかった神戸の27歳の青年が、ぱっと思いついて書き上げた作品を、自分で印刷物に仕立てようと思ったところも、奇跡といえば奇跡ですし、平成26年/2014年、没後10年して復刊ドットコムが本にしても奇跡。そして、平成12年/2000年に、作者がまだ存命中に、文藝春秋から復刻版を出したのもまた、裏の事情がよくわかりませんが、奇跡だったと言っておきたいと思います。
このときのあとがきである「二十年たって」から引いておきます。
「その頃おれは印刷屋の営業マンをして、先ゆき自分が文筆でメシをということは考えもしなかった。
野心がない。
その分、ピュアな一冊だといえる。」(平成12年/2000年12月・文藝春秋刊『全ての聖夜の鎖』「二十年たって」より)
いいですね、ピュア。文学賞をとったとか落ちたとか、そんな世俗的な汚らしさがなくて、すがすがしいです。
〈らもん〉さんが最後に直木賞の候補になったのが平成6年/1994年・下半期ですから、それから約6年。直木賞とはついに離れた頃のときが経って、直木賞の勧進元・文藝春秋から、直木三十五と縁のふかい羅門光三郎にあやかったペンネームの〈らもん〉名義で、ピュアな処女作が復刊される。一般的には、まあたまたまの偶然だよね、といった感じでしょうけど、直木賞を中心にしてみれば、奇跡的な出来事でした。
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