幸田みや子…文章を書いてお金を稼ぐことを選んだ女性たちの、ささやかで希望に満ちた共同名義。
出版業界に生きている人は、だいたいいくつかの名前を持っています。
いや、出版業界に限ったことじゃありません。他の世界でも、屋号やら、雅号やら、ペンネームやら、場面や状況に合わせて一人でいくつもの名前を使い分けている人は、たくさんいます。直木賞に関わった人たちも、もちろんそうです。どんな名前で活躍していたのか。こういうものを調べ出すとキリがないんですけど、毎週毎週、直木賞のことに触れていたい人間にとっては、キリがないのは幸せなことです。何といっても時間がつぶせます。
それはそれとして、直木賞の候補になったり受賞したりする人は、小説だけ書いている人もいますが、そうじゃない人もけっこうまじっています。今週取り上げようと思う人もまたその例にもれず、作家として著名なだけじゃなく、エッセイストとして、あるいはドラマの脚本家として、とにかく仰ぎ見るほどの有名人です。亡くなって40年以上も経ちますが、いまだに関連書籍がたくさん出ています。
そういう本をチラチラと覗いてみると、この方もまた、本名で売れる前に、いくつか別の名前で活動していたんだ、ということが書かれていました。
昭和4年/1929年、一家の長女として生まれ、子供のころは父親の仕事の関係で日本各地を転々とします。戦後、昭和25年/1950年に実践女子専門学校を卒業、本人はまだまだ学び足りずに大学に行って学びたがったようですが、親から反対されて、財政文化社に入社したものの、うーん、わたしのやりたい仕事はこれじゃない、と思い悩んだ末に、すっぱり転職して昭和27年/1952年に出版社の雄鶏社に入社します。
うんうん、これこれ、文章を書いて表現したり、ものをつくったりするのがわたしの水には合っているのよ、と言わんばかりに仕事に張り合いが出て、編集者として働きますが、やがて自分でも組織のなかで働くのではなく、自由な身分でものを書いてみたいと思うようになり、昭和32年/1957年、28歳ぐらいのときに内職で他の会社の雑誌記事なども手がけるようになります。
本職がありながら、また別のところで仕事もする。……といったところで登場するのが別の名前です。よその仕事を本名でやるわけにはいかない、というところから彼女が考えたのが〈幸田邦子〉という名前だった、ということです。
〈幸田〉というと、すでに明治以来から有名な作家がいて、またその娘も随筆家として活躍中でした。珍名というわけではありませんが、そう大量にいる苗字でもないからか、〈幸田邦子〉と名乗って名刺を渡すと、幸田文さんのお嬢さんですね、と言われてこともあったと「モンロー・安保・スーダラ節」(『女の人差し指』所収、初出『人間・平凡出版35年史』昭和55年/1980年10月刊)に書いてあります。
この名前で1年半ほど、『週刊平凡』のアンカー・ライターの仕事をしたそうで、年譜でいうとだいたい昭和35年/1960年ごろのことでしょう。会社勤めでありながら、ライターとして別に収入を持ち、そういったアルバイト代を家族のために使ったりしていたことが、妹・和子さんの回想録にも出てきます。頼りがいのある姉さんです。
それが昭和36年/1961年に『新婦人』で「映画と生活」というコラムを書く段階では本名を使うようになるんですが、これはおそらく前年に雄鶏社を退社したことが理由なんでしょう。もはや別名を名乗る必要もなく、女一匹、堂々と本名をさらして書いていくぞ、という決意の現われ……と言っていいのかどうなのか、単に本名で書くほうが自然だと思っただけかもしれません。短い〈幸田邦子〉時代はこうして終わりを迎えました。
そしてもう一つ、その時期に彼女が名乗った(?)別名といって挙げておきたいのが〈幸田みや子〉です。同じ女性ライター仲間と共同で原稿を書くときに使ったもの、だということです。
その女性ライター仲間、福島英子さん(のち加藤英子)が振り返っています。
「私も向田さんも、そのころは本業は雑誌の編集者で、同時にフリーのライターでもある二足のワラジ組だった。ひと足先にライターになっていた宮坂幸子さん(現・甘糟幸子さん)の紹介で、三人で西銀座デパートの地下にある有料待合室「ブリッジ」で顔を合わせたことだけは確かだが、何を話したのか全く覚えていない。
(引用者中略)
宮坂さんと私は、「ガリーナ・クラブ」という名のグループをつくっていた。あとから向田さんも迎え入れて、三人になった。命名は露文出の宮坂さん。めんどり三羽で、おおいに金の卵を産むつもりだったが、やがて私と宮坂さんはこども(引用者注:こどもに傍点)を産んで、金の卵は向田さんだけのものになった。」(平成11年/1999年8月・文藝春秋/文春文庫『桃から生まれた桃太郎』所収、加藤英子「解説 私が触れた向田さん」より)
おそらく当時のことは、福島=加藤さんだけじゃなく甘糟さんも回想の原稿を書いていると思います。出版業界に多少なりともおカネや未来があった1960年代。フリーの女性3人がどのように夢をもち、どのように壁にぶつかり、乗り越えていったのか。と、そういうふうに想像するだけで胸が熱くなるところです。
そもそも三人が仕事のうえで協力して、〈幸田みや子〉という名前を生み出したことが胸アツの青春です。果たして三人で書いたのか、あるいは〈幸田〉さん+宮坂=〈みや〉子さんの二人で書いたのか。このあたり、共同執筆の分担をあとから分析するのは難しいですが、金の卵というか、直木賞の卵が、そんなところにもひそんでいたんだと考えると、読み捨てられる運命にあった雑誌に載っている一本一本のナニゲない記事が、愛おしくなってきます。
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