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2025年4月13日 (日)

奥村五十嵐…ペンネームを使って小説を書いたりして、少し背のびしすぎじゃないか、と言われる。

 直木賞の候補作家のことを調べていると、たびたび見かける周辺人物、みたいな人がいます。村島健一さんとか。山田静郎さんとか。あるいは今週取り上げる〈奥村五十嵐〉さんなんかもその一人です。

 まず何といっても名前が個性的です。

 オクムラはいいとして、イガラシなる名前。親か親戚か、いったい誰が名づけたのか。どんな由来があって付けられたのか。〈奥村〉さん自身、生前たくさんの原稿を書きましたので、どこかで自分の名前についても書いている気はします。ただ、こちらが不勉強のせいで、いまもまだそういった文章には出会っていません。

 それはともかく〈奥村〉さんです。かなりの苦労人だったと言われています。

 明治33年/1900年、熊本県玉名郡天水町に生まれ、熊本高等工業に進んだものの、学問らしい学問を修めたというよりは、早くに手に職をつけなきゃいけない境遇だったんでしょう、若い頃には紡績工、あるいは機械技術員として汗水垂らしながら暮らしました。勤務先としては八幡製鉄にいた、と『大衆文学大系29 短篇上』(昭和48年/1973年・講談社刊)の略歴には書かれています。

 それから大阪に移り、泥水をすする労働生活を送るうちに、こんなんじゃ駄目だと人生大きく舵を切ろうとしたか、上京したのが大正7年/1918年のこと。すでに齢18歳を迎えていた頃合いです。〈奥村〉さんが目指した人生の道とは何だったか。文学に携わることでした。

 大正後期、詩誌『未踏路』の同人として活動していたことは、のちに有名になる北川冬彦さんがこの雑誌にいたことで、何とか動向として残っています。他にも同人雑誌にはいくつか参加していたっぽいんですが、全貌は明らかになっていません。もはや〈奥村〉さんに興味を持つ人が現れる気配もありませんので、おそらくこのまま埋もれていくんだと思います。

 〈奥村〉さんの名前が文学(の裏面)史にちょくちょく出てくるのは、もう一つ、職場が新潮社だったことが大きいです。何のツテか上京した〈奥村〉青年は新潮社に入社すると、佐左木俊郎さんなどといっしょに雑誌編集に勤しみます。『文学時代』とか『日の出』とかの編集部で働いたこともあり、後輩社員だった和田芳恵さんが、これもまたあとになって著名な書き手になったおかげで、先輩・奥村五十嵐の編集部での行状の一端が後世に残されることになります。

 当時流行作家だった三上於莵吉さんに原稿をもらうことになったんですが、まあ三上さんといえば、家にいることが少なくて待合を転々とする放蕩児です。しかも機嫌が一定しておらず、正直扱いづらい作家だったそうで、原稿をとりにくる来る編集者には酒を飲ませ、少しでも気に入らないことがあると、せっかく書いた原稿を編集者に渡さず破いちゃったとか何だとか。

 さすがに〈奥村〉さんもなかなか原稿ができない三上さんの日常に我慢ができず、何かの拍子で三上さんの胸ぐらをつかんで一触即発の場面を引き起こします。こういうときに分が悪いのは、どうしたって編集者のほうなのは、文壇ゲンカのあるあるです。〈奥村〉さんは会社にいづらくなり、和田さんによればそれがきっかけで新潮社を去ることになったと言われています。昭和10年/1935年ごろ、ちょうど直木賞が始まるかどうかという時代のことでした。

 〈奥村〉さんはそれからはフリーになって、いわゆる一介のライターとして身すぎ世すぎを送ることになるんですけど、在社中から創作、評論、批評などけっこう原稿を売っていたみたいです。自身で書く小説も、徐々に大衆向けのほうにシフトしていきますが、生活のため、と考えればその方向性も他人が否定するべきものじゃありません。

 となれば、ツルむ仲間もやはり大衆文壇に近いほうに固まっていきます。昭和14年/1939年、海音寺潮五郎さんたちが創刊した大衆文芸方面の同人雑誌『文学建設』という一誌があって、前にもうちのブログで触れた気がしますが、〈奥村〉さんもその中心人物の一人として参加。大衆小説の作家としての道を歩み出しました。ときに39歳。いい年齢です。

 新しくペンネームもつけました。そちらの名前で戦中にはバリバリと小説、読み物を発表し、中の一作『日の出島』(昭和17年/1942年7月・春陽堂書店/海洋小説叢書)という時代モノの長編が、第16回(昭和17年/1942年・下半期)直木賞のときに、予選担当の小島政二郎さんの目に触れて、作品名だけ選評のなかで言及されています。これを「直木賞候補作」と呼ぶのは、さすがに無理があるので、うちのサイトでは「推薦候補」とかテキトーな名称をつけましたが、〈奥村〉さんが作家として直木賞と交錯したのはこの一回きりです。

 直木賞はとりあえず措いておきましょう。名前の件です。ペンネームのことです。

 どうして〈奥村五十嵐〉を捨てて違う名前にしたのか。理由は定かではありません。ただ、のちに交流のあった森本忠さんが、こんな回想を残しています。

「私は奥村五十嵐を想ひ出す。彼は炭坑の町荒尾の貧しい家に生れて、学校も小学校位しか出てなかったが、講談社お抱への大衆作家になった時、何と納言恭平といふ勿体ぶったペンネームを名乗ったものだ。

大分久しい以前のことだが或る正月、永福町の福田清人君の新居で、皆と酒を飲んで歌ったり議論したりしてゐた時、何かの拍子に僕はちょっと奥村に、

「君はすこし背のびしすぎやしないか。人間はありのままの自分をさらけ出しとればいいので、何も爪先立って自分を自分以上に見せかける必要はない」

といふ意味のことをいったのがいけなかったらしく彼は急に怒り出して

「森本ッ! 表へ出ろ」といきり立ち、皆がなだめるのに大騒ぎしたことがあった。あとで伊藤整が

「君が独逸語の歌なんか歌ったのもいけなかったな。外国語を知らぬことで彼はひどくひけめを感じてるんだよ」

といったことがあった。(引用者中略)戦後亡くなって、或る雑誌に田村泰次郎が小説に書いてゐたが、奥村の性格の中にあるコンプレックスを見事に描き出している。」(昭和43年/1968年・日本談義社『僕の詩と真実』より)

 田村さんが書いたという小説の中の〈奥村〉像は、ワタクシ自身は未読です。

 ただ、森本さんが〈奥村〉さんに学歴や生い立ちに対するコンプレックスがあった、と見ているのが面白いです。九州でろくに学校も通わず、それでも何とか生活を築き、同時に文学のほうにも野心を抱いて、がんばってきたんですもの。コンプレックスもあったでしょう。

 そうか、別の名前はコンプレックスから生まれることもあるのか。……〈奥村〉さん自身が、ほんとうに背伸びして本名で書くのをやめたのか、最初に書いたとおり詳細は不明ですが、それでもまあ、何らかの思いで付けられたペンネームが、直木賞の選評のなかに一回でも刻まれて、直木賞ファンとしてうれしく思います。

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